松井茂『イラク』(1991)〜ペルシャ湾軍事情勢の読み方
松井茂『イラク』(中公文庫, 1991年)
■ 湾岸戦争の構造
1991年1月27日,多国籍軍はイラクに対し戦端を開いた。言うまでもなく前年の1990年8月,イラクがクウェートに侵攻し併合したことが原因である(イラクのクウェート併合についての歴史的いきさつについては,本書の冒頭で述べているので参照して下さい)。こうして,イラクは世界最強の軍事大国アメリカと闘うことになった。おそらく,読者の多くは,イラクは「勝目のない闘い」を行っていると思われるであろうし,日本のマスコミは米軍の「ハイテク兵器」の威力"の解説に総力を挙げている感がある。古来から戦争はゲームと異なり,やってみなければ結果はわからない。歴史を変えた闘いの多くが,大方の事前の予想をくつがえすものであったことを忘れてはならない。結果として成功するかどうかは「インシャラー」(アッラーの神の御意志)であるが,サッダーム・フセイン元帥の胸中には,彼なりの成算があるのだ。このことは,革命的ゲリラ戦争の観点で眺めていけば,十分に推測可能なのである。これを,「ハイテク兵器」を駆使する西欧流兵学の観点で見たのでは,所詮「イラクの行動は謎だらけ」であり「フセイン元帥は頭がおかしい」となる。堅固なイラクの地下シェルター開戦直後,イラクは多国籍軍の猛爆を受ける一方であった。わずかにイスラエルとサウジアラビアへ地対地ミサイルを発射するのみであった。これをみて内外の軍事専門家は当初「イラク空軍やミサイル部隊の能力は低く,反撃態勢をとれない上,多国籍軍空軍によってそれらの大部分が破壊された」とみた。ところがしばらく経ってみると,これらの分析こそイラク流の戦略・戦術について,実に無知であったことをしめしている。イラクは米国と同じ土俵で闘っているのではない。イラクは自ら公言しているように,「砂漠のゲリラ戦」 「中東での『ベトナム戦争』」を行おうとしている。こう言うとベトナム戦争ではジャングルがあったから,ゲリラ戦ができたが,砂漠では空からの爆撃に対して遮蔽物がないし,機動性を持った敵の地上部隊が縦横無尽に走行できるから,ゲリラ戦は無理だと主張する人が多い。だが,この人たちは,物事の一面を教条的にしか見ていないのである。 やり方によっては,砂漠でもゲリラ戦は十分に可能なのだ。
第一次大戦中,「アラビアのローレンス」とうたわれたT・E・ローレンスはアラビア半島の砂漠で,トルコ軍を相手にゲリラ戦を成功させた。これは古い例だとの指摘もあろう。実際,ローレンスの成功のわずか13年後,リビアの砂漠でウマル・ムクタールの率いるゲリラ隊は,ファシスト・イタリア軍の空軍と機甲部隊によって全滅させられた。だが1954~1958年のアルジェリア独立戦争で,ヘリコプターを多数装備し,機動力の優れた45万人もの大兵力を投入したフランスは,ジャングルもないのに,アルジェリア民族解放戦線のゲリラを根絶できなかった。ゲリラ戦の要諦は,常に何らかの方法で,自らの軍事力と軍事資源を敵の攻撃から守りながら,時間を稼ぎ,敵をほんろうし,出血させながら,徐々に弱めていくことにあこの場合,最大の問題は自らの軍事力と軍事資源を敵の攻撃からいかに守るかである。ゲリラ戦の初期は,敵の軍事力は強大で,自らは弱いからとくに気を付けるべきである。
逆に言うと,この問題について,ゲリラ指導者が優れた解答を出しておくと,ゲリラ戦は半ば成功も同然である。ゲリラ戦を闘った毛沢東は,中国大陸の広大な戦略縦を活用して,日本軍を奥地へ,奥地へと誘い込む「敵来れば,我引く」を行った。だが,ホー・チ・ミンとボ・グエン・ザップが地積の狭小なインドシナ半島で反仏闘争を行おうとした際,そこには広大な戦略縦深はなかった。そこで,彼らは時間をかけて秘密細胞を全土に組織して,「秘密の壁」でもって,兵力と資源を温存したのである。今回,サッダーム・フセイン元帥(大統領)は,砲爆撃に十分耐えうる耐弾性ベトン製シェルターをイラク全土の要地に建設し,その中に移動式ミサイル,航空機,指揮・通信システムなどを温存して,多国籍軍の来襲を待ち構えた。すなわちフセインのゲリラ戦略においては,毛沢東の「広大な戦略縦深」,ホー・チ・ミンとボー・グエン・ザップの「秘密の壁」に代わるものとして,「耐弾性ベトン製シェルター」を選んだのである。ちなみに,多国籍軍空軍の猛爆にもかかわらず,イラクのミサイル,航空機,軍事施設の大半は,その後の報道で明らかなように生き残っている。すなわち,「耐弾性ベトシェルター」の抗力の高さを示している。これがどんな物か,イラン・イラク戦争中,イラク軍の通信傍受センターの建設で,イラク軍の地下施設に実際に出入りした,無線技術者の村上博氏の話を聞いてみよう。それによると,直径30mmの特殊棒鋼を厚さ2~2.5mにわたって,幾段にも組み合わせたものに,耐弾性のペトン・セメントを流し込み,固めたものを,地下1~2mの所へ埋め込み,その底からさらに1~2mの土をおいて,地下のシェルターへと至る。これでは,いくら地表に爆弾を落としても,地下のシェルターのは難しい。そして,シェルターには数ヵ月分の水と食糧が貯蔵してあるという。村上氏は1月22日夜のテレビ朝日のニュースステーションで,以上のことを語っている。筆者は同氏とは十年来の知己であり,このことは以前から知っていた。また,信頼できるヨーロッパの中東軍事専門家K・ティンメルマン氏は,イラク空軍基地はベルギーの建設企業シックス・コンストラクトの協力によって,核兵器の攻撃に耐えうる半地下式となっており,そこに燃料,ミサイル,爆弾,食糧が大量に備蓄してあると述べている(仏「レクスプレス」1990年9月14日号)。世界でもっとも対ゲリラ戦の経験を持つのは,フランス軍である。同軍のアンドレ・ボーブル将軍はインドシナのゲリラ戦を経験し,1956年の英仏両軍のスエズ出兵でフランス陸軍司令官を務めたが,名著「戦略論入門」の中で,次のような戦力に閉する方程式を設定した。
S=FxCxt
Sは総合戦力と考えてよい(なお,説明を簡単にするために特殊な係数は省いた)。Fは物質的戦力,Cは心理的要素,tは時間である。そこで,イラクと米国の戦力モデルを造ってみよう。イラクのそれをS₁,米国のそれをS₂とする。そうすると,次の二つのモデルが成立する。
S₁=F₁xC₁xt₁
S₂=F₂xC₂xt₂
説明を簡単にするため,心理的要素(士気)については一応,双方同等,すなわちC=Cとしておく。以上の二つの戦力モデルよりF₁はF₂より劣るので,S₁とS₂を同等にするにはt₁をt₂より大きくしなければならない。すなわち,物質的戦力の劣る方は,長期化・泥沼化によって時間を稼ぐことにより,総合戦力をアップすることになる。これが,すなわち弱者の戦い(持久戦あるいは長期継続闘争)である。そして,現にサッダーム・フセイン元帥は開戦以来,そうした闘いを行っている。これに対し,ジョージ・ブッシュ米大統領は,開戦直後に自ら行った演説の中で述べたように,「一日でも早く」闘いを終わらせたい。長引けば戦費は膨大となり,ただでさえ悪化している米国経済のみならず,多国籍軍に派兵している英仏,さらにはその費用を負担している日本の経済にも打撃を与え,日米欧諸国の同時不況をもたらしかねない。さらに1992年秋の米大統領選挙までに,クウェートの奪回とその保持に成功し,米兵の大量復員ができない場合,ジョージ・ブッシュ氏の大統領選は困難となろう。
…そこで,フセイン元帥の政治・心理戦略について解説しておこう。なぜ,初日に多国籍軍空軍のを許したのか? ここにこそ,フセイン元帥の政治・心理作戦が遊んでいたと筆者はみる。 フセイン元帥の狙いは,次の三つにある。
国際世論による米国への非難
イラクおよびアラブ人民の団結
米国内における反戦運動の活発化
これらを得るには,米国が「クウェート奪回」を名目として,「イラク抹殺」を狙っていることを如実に証明する必要があった。戦の初日,多国籍軍がクウェートにはわずかの空爆を行っただけで,首都バグダードの大統領府や与党バース党本部を含むイラク全土の軍事・経済施設を猛爆したことは,米国の狙いがフセイン元帥らイラク要人爆殺およびイラク国家の殺にあるのではという疑念を,多数の人々に思い起こさせた。この中には,クウェート奪回のための武力行使は当然だと考えている人々もおり,米国のやり方は国連決議の「クウェート奪回」の枠を越えた印象を与えている。すでに1月25日付「ニューヨーク・タイムズ』社説,翌日の『ル・モンド』社説は,こちした論調になっている。一方,イラク国内では爆撃によって,人心は引き締ったと見られる。筆者は1989年1月,イラン・イラク戦争終了まもなくのイラク国内を視察した。当時,青少年の間ではフセイン人気は絶大であったが,中高年の間では厭戦気分もかなりあった。そこへ今回クウェート併合による米国との軍事対決である。中高年層から「クウェートを捨てても平和が欲しい」との声が相当あったことを,イラクから帰国した人々から聞いた。だが今回の猛爆で米国の意図がイラク攻撃にあったことを知ったイラク人民は,団結して闘う気分になったであろう。爆撃後のイラク人民の士気が高いことは,「湾岸平和チーム」の一員としてイラクに残留していた米国人青年・パーソンズ氏が語っている(1991年1月26日付「朝日新聞」)。さらにこの爆撃が当初からイラクに向けられたことを知ったイスラム世界の人民は,多国籍軍が同じイスラムの人民(イラク人)に刃を向けたとして,各国で「反米親イラク」の動きを始め,世界各地で反米爆破テロも発生している。ちょうど,事態はフセイン元帥の読みどおりに進行している。現情勢では,先に挙げた三つの狙いはうまくいきつつある。逆に言えば,この「国際面」「イラク国内およびアラブ各国」「米国内」での三つの戦線における「反米親イラク統一戦線」の結成が,イラクの当面の狙いであり,イラクはこれらを達成するための軍事行動を行っているのである。すなわち,イラクの軍事力潰滅を主目的として行動している米軍とは,戦略目標が全く異なるのだ。
以上の三つの戦線の内,「イラク国内およびアラブ各国」を「南ベトナム」と置き換えれば,「ベトナム戦争」の再現となる。つまりフセイン元帥は自ら語ったように,「砂漠でベトナム戦争を再現」しているのだ。さらに「イラク国内およびアラブ各国」を「中国」と置き換えれば,毛沢東が「持久戦論」の中で述べた,抗日戦争における三つの統一戦線の結成となる。
以上よりわかるとおり,フセイン元帥の選択は,持久戦争(長期継続闘争)の理に適っているのだ。そこにまたイラクがイスラエルをいわば優先的に攻撃する理由がある。 詳しいことは省くが,アラブとユダヤとの抗争は千年以上の歴史がある上,近くはパレスチナ問題をめぐって,不倶戴天の仲である。アラブ人民は今回イスラエルを守るために米国が派兵したと思っている。アラブ人民は国連など信用していないし,その権威も認めていない。なぜならヨルダン河西岸からのイスラエルの撤退を取り決めた一九六七年の国連決議第242号および1973年の国連決議第338号を,国連は全く実行しないからである。なぜ実行しないか? 米国が反対するからである。このようにイスラエルに不利な国連決議を二度もボイコットした米国が,イラクのクウェート撤退に関する決議のみ尊重し,大兵力を派兵して,ついに戦闘行動に踏み切った背景には,イラクの軍事力の成長を脅威と感じたイスラエルの陰謀があると,多くのアラブ人は思っている。つまり,ユダヤ勢力が自分の安全のために,ブッシュ米政権にイラクを相手に代理戦争をやらせようとしている。そしてその最も"汚ない"イスラエルを戦争に誘い出して,「アラブの真の敵」をアラブ民衆にはっきりと認識させるのが,イラクのイスラエル攻撃の目的である。そしてその結果,「反米・反イスラエル統一戦線」を結成させようとしている。この場合イスラエルが米国の言うように自重すれば,イラクの手に乗らないことになる。だが,常に「目には目を,歯には歯を」で応じてきたイスラエルがイラクの攻撃の前にじっと我を重われば,パレスチナ・ゲリラ諸派やアラブ各国は「何だイスラエ思ったより弱いぞ! それならみんなでやっつけよう」とばかり「反イスラエル統一戦線」が結成されかねない。それだけにイラクのイスラエル攻撃は長期にわたって行われよう。昨今は米国供与のミサイル迎撃ミサイルの「パトリオット」がイスラエルに配備され,イラクのミサイルが撃墜され始めた。しかしせっかく撃墜しても,破片が民間住宅へ落ちて死傷者を出す始末である。それにもしイラクのミサイル攻撃を完全に阻止したとしても,次はイラクに支援されたパレスチナ・ゲリラ諸派のテロ・ゲリラ攻撃がある。つまり,イラクはイスラエル攻撃のためのカードを何枚も持っている。前述したように,革命家出身のサッダーム・フセイン元帥は,「革命的ゲリラ戦争』を行うとしている。これに対し,石油ビジネスマン出身でビジネス大国アメリカの大統領であるジョージ・ブッシュ氏は,「ビジネスマンの戦争」を行うことになる。
■ 肉を切らせて皮を切る
両者の相異については前述したが,戦争のバランス・シートについても,両者は異なる。つまり,損害のバランスシートを同等に考えてはいけない。米兵1名の死は,イラク兵5~10名に匹敵することを考えねばならない。ブッシュ大統領やアメリカ合衆国のやるビジネスマン型の戦争では,地上兵力にせよ航空兵力にせよ,戦争のバランス・シート上の損益分岐点があり,これを越えてまで戦を継続するのは難しい。すなわち,「皮を切らせて肉を切る」までの戦争はできても,「肉を切らせて骨を切る」までの戦争はできない。そこへいくと,フセイン元帥の革命的ゲリラ戦争は「肉を切らせて皮を切る」で良いのであり,また革命家の闘いとはそうしたものだ。骨さえ敵に切られず,生き延びることが成功へとつながるのである。なお,時間的には途中に停戦や休戦の交渉も含んだ形イラクは採るであろう。長期化とはそれらを含んでのことである。
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kanekashi: 湾岸戦争(1991)
中東で暴れまわってきたアメリカの歴史
2020-01-28
イラン,イラク,アメリカと中東は,どうなっているの?とよく聞かれる。
難しいのは彼らの歴史が複雑だからだ。
しかし本当は,本質はアメリカの支配の歴史だ。
1)石油利権を独占する為に,派閥国家に争わさせて自分達のコントロールが効く側に兵器を多量に売り支援し勝たせる。兵器の借金その他で石油利権を手に入れて傀儡政権を作る。この間,アメリカの一番の大敵は,イスラム原則でアメリカのゆう事を聞かない革命後のイランだ。
これだけの,意識を持って中東の近代史のダイジェストに下記に並べる。
・アメリカはイラン(シーア派)を傀儡政権で操っていたのが,イラン革命で反米国家に。
・イラク(スンニ派)も野心家のイラクのサダム・フセイン政権が成立
・フセインが暴れてイラン・イラク戦争
・さらにクエートに攻め込んだフセインをアメリカ連合軍(湾岸戦争)が討つ
・アメリカは同時多発テロの後,イラン・イラク・北朝鮮の三国をテロ支援国家に指定
・大量破壊兵器を所有しているとしてイランに軍事介入。フセインを捕らえられて処刑。
・しかし,ISも暴れてイラクは内戦で安定せず,在留米軍が引き上げられず。
・今回のアメリカのイラン司令官虐殺,イランの与党であるスンニ派もが,反米デモに参加し始めた。
※イラクも反米が強く成りアメリカ危機的?
以上を読んだうえで,下記の記事を読むと,アメリカの戦争商売,石油利権確保の意思が見えて面白い。
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■ 湾岸戦争の概要
湾岸戦争の概要を簡単に紹介
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/5603 honcierge.より引用
湾岸戦争とは,1991年にイラク,クウェート,サウジアラビアといったペルシャ湾周辺の国家地域で起こったイラクのサダム・フセイン政権とアメリカを中心とした多国籍軍によって行われた戦争で,日本では1980年に同地域で起こったイラン・イラク戦争と区別する際に特に「湾岸戦争」と呼びます。元々,いわゆる湾岸地域と呼ばれるイスラム諸国では東西冷戦以来ずっと戦争が続いていましたが,1980年に始まったイラン・イラク戦争はそれぞれの政権が支持する教派の違いと先進国への石油輸出の権利を巡ることによって起こりました。
1988年,一旦は国際連合の仲裁によって両国間に停戦が成立しましたが,両国の戦争による財政難は非常に深刻でした。そこでイラクのフセイン政権は石1990年に油を大量に保有しているクウェートに対して攻撃を仕掛け占領します。フセイン政権のこの行為は当然,国際社会から非難を浴びることになります。国連安保理はイラクに対し期限までにクウェートから撤退することを要求しますが,イラクはこれを拒否。こうして1991年1月,アメリカを中心に非戦闘参加国を含む合計35ヵ国による多国籍軍がイラクなどに対して攻撃を開始。通称「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる空爆が数週間に渡って行われました。空爆が行われた後,戦局は「砂漠の剣作戦」と呼ばれる地上戦に移行します。空爆によって重要拠点が機能停止していたことで勝敗は明らか。戦争は数ヶ月でイラクの停戦合意,そしてクウェートからの撤退という形で終わります。
■湾岸戦争の原因は?
長い目で見ると,湾岸戦争は長く続く中東戦争の中の一部分に過ぎません。その背景には長い長い歴史の中で起こった対立構造を理解する必要があります。中東地域のイスラム教の国々は,イスラム教の開祖ムハンマド(570?-632)の時代は全て一つの国でした。しかしそのムハンマドが後継者を明確に指定しなかったことから後継者の地位を巡って争いが起こり,イスラム教はシーア派とスンナ派に分かれました。それから千年近くに渡って妥協と分裂を繰り返しながらも存続した両派。
契機となったのが16世紀になってからのこと。当時中東はオスマン帝国の時代でしたが,この時代になってシーア派が特に激しく迫害され続けました。オスマン帝国はおよそ700年以上もの歴史を誇った国でしたが,第一次世界大戦によってあっさりと滅亡。その故地には多くの民族が問題を抱えたまま放置されます(現在の領土・民族問題が形成される)。そんな中,イスラム教を信仰する部族の中で台頭したのがホメイニー率いるイラン政権,そしてフセイン率いるイラク政権でした。両者は前者がシーア派,後者がスンナ派という歴史の中の古い対立構造を持ち出して戦争を開始します。その原因は外国への石油輸出権でした。
フセインはイランの石油輸出権を奪うためにイランに奇襲攻撃を仕掛けますが,実はそのバックでイラクを支援していたのが大国アメリカとロシアでした。アメリカは中東での利権拡大のために「イスラム原理主義」と呼ばれる他宗教に対する排他的な思想を有するイランのホメイニー政権に危機を感じていたのです。
戦争の結果,イランのホメイニーがイランから亡命しますがイラクは思ったように戦果を得ることができないまま停戦せざるを得なくなります。しかしイラクにはアメリカから借りた軍事費の債務がそのままのしかかり,債務の延長を図るもののアメリカからは拒否されました。こうして財政難に陥ったイラクは他国から利益を盗むことで財政難を打開しようとし,ついにクウェート侵攻へと踏み切り,湾岸戦争になるのです。
湾岸戦争の口火を切ったのはアメリカですが,この時にアメリカはナイラというクウェート人少女がイラク軍がクウェートで化学兵器を使用するなどの残虐行為を行っているという演説を放映しました。しかしこのナイラは実は元クウェート王族・現駐米大使のサウードの娘で当時アメリカにいて戦争とはまったく無関係,そしてこの演説がアメリカのコンサルティング会社によるプロバガンダだということが発覚したのです。アメリカの真意は,冷戦によって財政危機に陥ったことからそれを打開するために石油事業を掌握することだったのです。しかしそれにはイランのホメイニー政権のようにいわば他宗教に排他的な政権が邪魔だったのでちょうど対立関係にあったイラクを利用しました。つまり,湾岸戦争は用済みになったイラクからさらに搾り取るための方便だったと見るべきでしょう。
■ 湾岸戦争とイラク戦争
湾岸戦争の終了後,アメリカはイラクに対して大量破壊兵器の不保持を義務付けます。しかしこの時以降,検査が抜き打ち方式となったためイラクはアメリカの要求に対して素直に応じません。アメリカらはこれに対し軍事攻撃を散発的に繰り返すことでイラクを威嚇するなど,緊張状態が何年もの間続いていました。
2001年,アメリカでジョージ・ブッシュ(息子)政権が発足してまもなく,アメリカ・ニューヨークでアフガニスタン系のタリバン政権麾下のテロ組織アルカーイダのビンラディンが指示したとされる同時多発テロが発生,数台の飛行機がエアジャックされ世界貿易センタービルに突撃し多くのアメリカ国民が犠牲になりました。この事件を受けて,アメリカは国民の心情を追悼から反戦,そして戦争へと操作していき開戦への理由を「イスラム原理主義による過激思想」へと持ち込んでいきます。当時アメリカでイスラムに対する差別や過激派運動が横行しており,人種に関係なくターバンやサリーを巻いただけで襲撃されました。
イラクのフセインはアメリカ市民に追悼の意を表するなどむしろアメリカに対し好意的な姿勢で望んでいました。しかしいざアメリカが報復のためにアフガニスタンに侵攻を始めると,イラクにアフガニスタンテロ組織との関連性を指摘する情報がアメリカから流されます。
明くる2002年,アメリカはイラン・イラク・北朝鮮の三国をテロ支援国家,通称「悪の枢軸」だと厳しく糾弾し,イラクに対して強引に大量破壊兵器の調査を実行するよう命じます。結果イラクは膨大な報告書を提出しアメリカの体制を非難しますが,さらに明くる2003年にアメリカは国連にてフランス,ドイツ,ロシア,中国が反対を押し切って強引にイラク攻撃を可決。ついにイラク戦争が始まるのです。
2006年,フセインが米軍に捕らえられて処刑。2011年,米軍の完全撤退を持ってアメリカの完全勝利で一連のアメリカ侵攻が終わり占領時代へと入ります。こう見ると,湾岸戦争はアメリカがイラクを介して中東の石油戦略に参入した契機だと見ることが出来るでしょう。
by猪飼野
金貸しは国家を相手に金を貸す
http://www.kanekashi.com/blog/?p=6781 Vernon Coleman: 石油戦争
2026/03/18 20:36
Oil Wars Dr Vernon Coleman
https://www.vernoncoleman.com/oilwars.htm 注: 以下のエッセイは,2007 年に初めて出版されたヴァーノン・コールマンの著書『石油の黙示録』に基づいています。この本の最新版は現在,『気候変動よりも大きな問題: 石油の終焉』というタイトルで入手可能です。石油供給の確保は,20 世紀の多くの戦争において重要な要素であった。それは確かに,アメリカの最近の違法な戦争の主な要因であった。 (もちろん,ベネズエラの獲得は実際には戦争ではなかったが,合法とは言えなかった。) テロとの戦争は,容認できない行為の都合の良い,公に受け入れられる言い訳にすぎなかった。
ルートヴィヒ・ボルツマン[Ludwig Boltzman]は 1886 年に,「生命コンテストは主に利用可能なエネルギーをめぐるコンテストである」と書いている。もちろん,石油をめぐる争いは新しいことではない。アメリカは,新たな同盟国と新たな敵の両方が戦いでかなり疲弊した後に初めて第一次世界大戦に(イギリスとフランスの側で)参戦した。戦争に参加することに同意すると,アメリカは戦争が終わったらアメリカの経済的,政治的目標を考慮するという要求を含む条件を課した。それらの目的の1つは,新しい原材料,特に石油の供給源へのアクセスであった。
▼ 1919年
1919年2月,英国の有力高官アーサー・ヒルツェル卿[Sir Arthur Hirtzel]は,「スタンダード・オイル・カンパニーがイラクを占領することに非常に熱心であることを心に留めておくべきだ」と警告した。
それは1919年のことであった。アメリカは,自国の石油会社がファイサル国王(イギリスがイラクで王位に就かせた君主)の新しい傀儡君主国と自由に交渉できるよう要求した。そしてイラクの石油は同盟国間で分配された。石油の5パーセントは,協定の交渉を手伝ったグルベンキアン(「ミスター5パーセント」として知られる)と呼ばれる石油王に渡った。残りの95%は,イギリス,フランス,オランダ,アメリカ合衆国の間で4つの方法で分割された。現在ブリティッシュ・ペトロリアム,シェル,モービル,エクソンとして知られる企業が,入手可能な石油をほぼ独占していた。イラクの石油は,イラクで革命が起こった1958年までこの方法で分割されていた。「石油は文字通り,何十年にもわたって(アメリカの)外交・安全保障政策を決めてきた」と,アメリカ・エネルギー長官のビル・リチャードソン[Bill Richardson]は1999年に語った。「今世紀に入ってから,第一次世界大戦後,中東の分裂を引き起こしました。ドイツと日本を刺激して国境を越えて触手を伸ばした。アラブ石油禁輸措置。イラン対イラク。湾岸戦争。これはすべて明らかです。」
この地域におけるアメリカの影響力は,1930年代にアル・サウード家とアメリカ合衆国がサウジアラビアをほぼアメリカの植民地として建国したときに封印された。首都リヤドのアメリカ大使館が地元の石油会社の建物内にあったのは偶然ではなかった。
しかし,アメリカ人は中東の石油の分け前に満足していなかった。彼らはコントロールを望んでいたのである。彼らはイギリス人を排除しなければならなかった。そして彼らにチャンスが訪れたのは第二次世界大戦であった。アメリカ人は絶えず自分たちを英国の救世主であると主張している。これは悪質な虚偽表示だ。第一次世界大戦の時と同様,アメリカは容赦なく日和見主義だった。
▼ 1944年
イギリスは第二次世界大戦によって大きく弱体化したが,1940年代初頭に起こったことの結果としてアメリカは飛躍的に力を増した。ルーズベルト政権とトルーマン政権(銀行と石油利権が支配していた)は,米国が確実に頂点に立つために世界を再構築することを決定した。彼らは世界の石油の支配を望んでいた。彼らは米国主導のグローバリゼーションを望んでいた(その目的のために1944年に国際通貨基金と世界銀行を設立した)。彼らはドルが唯一の重要な世界通貨になることを望んでいた。そして彼らは,米国があらゆる種類の兵器において軍事的優位性を持つことを望んでいた。
ウィンストン・チャーチル[Winston Churchill]は,目に見える事態に非常に心配し,1944年3月4日(ノルマンディー上陸作戦の3か月前),イギリスの石油権益を乗っ取ろうとしないという保証をアメリカに求めた。
彼はルーズベルト米国大統領に次のように書いた書簡を送った。「お返しとして,私たちはサウジアラビアにおけるあなたの利益や財産に狙いを定めようとする考えはまったくないことを最大限の保証をさせていただきます。これに関する私の立場は,他のすべての問題と同様に,イギリスはこの戦争の結果として,領土であろうとなかろうと,いかなる利益も求めていないということです。その一方で,それは大義のために最善の奉仕をした後,少なくともあなたの謙虚な召使いが事務の遂行を任されている限り,それに正当に属するものを剥奪されることはありません。」悲しいことに,チャーチルですらイギリスを新たな「敵」から救うためにできることは何もなかった。
▼ 1945年
アメリカ人はすでにサウジアラビアと新たな「特別な関係」を獲得していた。彼らは1945年にこれを取り決めた。それ以来,サウジはアメリカ人に有利になるように(石油供給を放出または差し控えることによって)世界の石油価格をコントロールし,(他の産油国がアメリカを弱体化させるために通貨を変更したいときに)ドルで石油を売り続けて,アメリカ人を助けてきた。アメリカ人は,武器を提供し,(サウジ国民の願いに反して)支配的なサウジ王族を王位に留まらせることを支援することで,サウジを支援してきた。
▼ 1953年
1953年,CIAクーデターによりシャーが権力を掌握し,イランはアメリカ合衆国に与えられた。 (アメリカ人はまた,シャーが大嫌いな秘密警察の設立を支援した。) そしてその後数年以内に,イラクはアメリカとイギリスによって共同支配された。
▼ 1955年
1955年にアメリカは,中東におけるアラブ解放運動の勃興に少なくとも部分的に反対することを目的としたバグダッド協定を設立した。イギリスとイラクも署名国ではあったが,イラクは名目上のみ独立していた。英国は腐敗した君主制に支配されていたイラクに依然として軍用飛行場を持っていた。イラク国民は,世界の膨大な量の石油を足元に抱えているにもかかわらず,依然として飢え,極度の貧困の中で暮らしていた。
▼ 1958年
イラクでは1958年に事態が一変した。軍事反乱により革命が引き起こされ,世界に劇的な結果をもたらすことになった。革命が始まった翌日,アメリカ軍は2万人の海兵隊員をレバノンに投入し,6千人以上のイギリス空挺部隊をヨルダンに降下させた。アイゼンハワー[Eisenhower]の指導の下,アメリカとイギリスはレバノンとヨルダンにおける自国の利益を守るために戦争をすることを明らかにしていた。
イギリス人は,かなり素朴に,自分たちは単にイラク国外での利益を守っているだけだと考えていた。アメリカ人はもっと大きな考えを持っていた。彼らはイラクに進出して革命を転覆し,バグダッドに新しい傀儡政権(もちろん米国に友好的な)を設置したいと考えていた。しかしアメリカ人は止められた。イラク革命は大きすぎた。そして他のアラブ諸国,中華人民共和国,ソ連からの支援が多すぎた。アメリカ人は帝国主義者の計画を不機嫌に諦めた。しかし,彼らは永久に諦めたわけではなかった。アメリカ人は増え続けるテロ国家リストにイラクを加え,イラク政府と戦っている右翼クルド人分子に多大な支援を与えた。
▼ 1977年
そして1970年代後半,アメリカ人は共産主義との戦いでサダム・フセイン[Saddam Hussein]政権を支持した。
▼ 1982年
1980年代,アメリカ人は,1979年のイランイスラム革命でアメリカが支配力を失ったイランに対する8年間の戦争で,サダム・フセインのイラクを(資金と武器で)支援した。アメリカ人は,この地域の石油へのアクセスを守るために自分たちが介入していることを公然と認め,イラクとイランがお互いを弱体化させてアメリカが乗っ取れるようにすることを,あまり公然とは望んでいなかった。ヘンリー・キッシンジャー[Henry Kissinger]元国務長官は「彼らが殺し合えばいい」と発言したと言われている。アメリカはイラク空軍にイランの標的の衛星写真を提供し,イランがイラクが送った航空機を撃墜できるように対空ミサイルをイランに送った。アメリカはこの戦争で両側で戦っており,サダム・フセインが化学兵器を使用していることをよく知っていた。 100万人以上が死亡し,両国はさらに弱体化した。 (奇妙なことに,そして偽善的に,2003年にジョージ・W・ブッシュ[George W.Bush]は,この戦争でのサダム・フセインの化学兵器使用がイラク攻撃の主な理由の一つであると主張した。) アメリカがイランにミサイルを売って得た金は,ニカラグアで社会主義政府と戦っているコントラの資金調達に使われた。当時のアメリカ大統領レーガン[Reagan]は社会主義政権を支持せず,特に社会主義政権を排除したいと考えていた。 (そのような深い感情を彼の顧問ではなく,レーガン自身に帰するのはおそらく不公平である。)イラクとイランの間の戦争は1988年まで終わらなかったが,その頃にはイラクはソ連と友好関係を築いていた。
▼ 1990年
しかしその後,ソ連は冷戦の終結とアメリカとの恒久的な緊張緩和を望んでいたゴルバチョフ[Gorbachev]によって乗っ取られた。ゴルバチョフは(東ヨーロッパ諸国から撤退したのと同じように)イラクからのソ連支援を撤回し,世界は再び突然変わった。
イランとの戦争後,サダム・フセインは巨額の負債を抱えていた。石油価格の安さは,彼の収入が国家支出と一致しないことを意味した。イラク大統領は,クウェートがイラク領土内で石油掘削を行っていると非難し,その後,クウェートは全く別の国ではなく,イラクの一州であると発表した。 1990年にイラク軍がクウェートに侵攻した。アメリカが(国際軍とともに)攻撃し,その結果生じた戦争は数週間で終わり,1991年にアメリカ人はイラクに戻った。その後の10年間,彼らはイラク国民を弱体化させ,精神を破壊するために制裁,爆撃,封鎖を行った。アメリカの対イラク制裁はサダム・フセインをターゲットにしたものではなく,イラク国民をターゲットにしたものだった。アメリカ人が湾岸戦争でイラクを攻撃したとき,彼らは意図的にイラクの給水施設を爆撃した。
▼ 1999年
そして,戦争が「終わった」後,米国は新しい浄水システムがイラクに輸入されないようにするのに協力した。その結果,何千人もの罪のないイラク人(幼い子供を含む)が死亡した。国連は,イラクに対する制裁の直接の結果として100万人以上の国民が死亡し,これらの死亡の主な原因は汚水であると推定している。 1999年に行われたユニセフの調査では,米国主導のイラク制裁により5歳未満の子供50万人が死亡したことが示された。
アメリカ国防総省は,健康と福祉に不可欠な民間インフラの破壊がジュネーブ条約に直接違反しているという事実にもかかわらず,イラクの水供給の破壊を認識し,監視していた。アメリカ政府は,浄化されていない水では細菌が発生し,伝染病が発生し,安全な医薬品の製造が損なわれ,食糧供給が影響を受け,その結果,数千人の民間人が死亡するであろうことを知っていた。
インタビュアーがアメリカ国務長官マデリーン・オルブライト[Madeleine Albright]に対し,政府の制裁により50万人の子どもが死亡したという事実について質問したところ,オルブライトは「我々はその代償はそれだけの価値があると考えている」と答えた。
「我々は世界の富の50%を持っているが,人口のわずか6.3%しかない」と,第二次世界大戦後アメリカ国務省の政策計画研究の著者であるジョージ・F・ケナン[George F.Kennan]駐モスクワアメリカ大使は述べた。 「この状況において,これからの私たちの本当の仕事は,この格差を維持できる関係のパターンを考案することである。」 そのためには,私たちはあらゆる感情を捨て去らなければならない・・・私たちは人権,生活水準の向上,民主化について考えるのをやめるべきだ。」
ケナンの論文は,過去半世紀にわたりアメリカ外交政策の青写真となってきた。
続く
さてはてメモ帳
http://glassbead.blog.shinobi.jp/wars/oil%20wars1 松井茂『イラク』〜1980年代イラン・イラク戦争の記録
松井茂『イラク』(中公文庫)
▼イラクのイラン侵攻期
イラン,イラクの両国の国境紛争は長い歴史を持ち1979年2月のイラン・イスラム革命以降も続いた。筆者がイラクに滞在した1980年春も,紛争が燃え広がっていた。やがてこれが「中東の覇権」を求めるイラクのフセイン大統領の野心と結び付き,1980年9月17日には両国の国境を定めたアルジェー協定の破棄,続く9月22日にはイラク軍のイラン領侵攻へとつながっていった。
1980年9月,侵攻一日目,イラク空軍機はイラン各地の空軍基地を攻撃したが,与えた損害は軽微だった(いつ頃からかは分らないが,筆者が実際に視察した時には,イランの空軍基地は厚さ2m以上もあるベトン製格納庫に軍用機を収容し,その周囲に,爆風を防ぐ高いコンクリート製の防風壁を設け,空襲に対し万全を期していた)。これが以後の作戦に与えた影響は大きく,劣勢と見られていたイラン空軍は,イラクの各都市や重要施設を爆撃,たびたび首都バグダードを停電に陥れた。イラクは予備役の召集を開始し,中部のカスルエシリン地区とメヘラン地区,南部のフゼスタン州の三地域で地上戦が展開された。このうちカスルエシリン地区には師団級,メヘランには旅団級の兵力からなるイラク軍が侵攻し,カスルエシリンでは前方40km,メヘランでは前方10kmの地点をそれぞれ占領,堅固な防衛陣地を築いた。これら両地区への侵攻は,カスルエシリン地区からバグダードへ,またメヘラン地区からバグダードーバスラ街道への脅威を防ぐために実施されたもので,以後,この両地区でイラク軍は防禦に専念した。主戦場となったのは,イラン南部の平坦なフゼスタン州であった。ここに,二個機甲師団を主力とするイラク軍が侵攻した。 二個機甲師団といえば,開戦時のイラク軍の全機甲師団数の半分である。だが,フゼスタン州でのイラク軍の進撃は意外とはかどらなかった。
9月28日には,行軍中のイラク機甲部隊がイラン軍の対戦車ヘリに襲われ,多大の損害を出していイラク軍の当面の目標は,シャット・アル・アラブ河沿いのホーラムシャハルと製油所のあるアバダンであった。ホーラムシャハルは激戦の末,10月24日に陥落したが,その出血の多さにイランはフェンシャハル(血の町)と呼んだほどであった…
…
▼イラン長期消耗期
1983年2月,ラマダン作戦,ムスリム・イブン・アギル作戦の相次ぐ失敗にもかかわらず,モハラム作戦は膠着したとはいえイランの見通しを明るくした。イラク南部の大湿地帯は戦線が錯綜しており,イラン歩兵にとっては奇襲攻撃をかけるのに格好の場所であった。アシの繁る中を小型舟艇で機動し,ヘリコプターや輸送機による補給を受けて行動する新戦法をイランは編み出した。また,モハラム作戦での緒戦の成功から,イラクの兵力は十分でなく,ことに戦線を破られた穴をふさぐ予備兵力が極端に不足していることを露呈した。この時期のイランの戦略方針は,以下のものと推察される。
・イランは人口で3倍の優勢を持つ利点を生かして次々と部隊を新編し,長大な全国境線に亘って戦線を拡大,イラク軍を長期消耗戦に陥れる。
・イラク軍が防衛しにくい南部の大湿地帯及び,同国の生命線ともいうべきバグダードバスラ街道の切断をメヘラン地区から仕掛け,イラク軍を出血させる。
この第5期は,第1~7次のバル・ファジル(暁)作戦が中心となり,イランによる総計14の大規模な攻勢作戦が行われた。主攻勢は,イラク北部のハジオムラン高地,中部のメヘラン地区,南部のハウイザ原及びマジヌーン島に向けられたが,このうち,北部での作戦は多分に陽動作戦の色彩が濃く,実際1983年7月31日にはイラン外相のベラヤチが,一部の作戦を陽だと暗に認めている。以下ではこれら一連の作戦の内,特に大規模なものを取り上げてみよう。1984年2月上旬,「神の解放」作戦の第一波が北部で開始された。続く2月15日「ヤ・バハラ」作戦がメヘランデフロラン間の南西部で開始,後にこの「ヤ・バハラ」は,第5次バル・ファジル作戦の秘匿名であったと発表された。 2月21日,第6次バル・ファジル作戦が南部で開始され,これに連動して翌2月22日には,ヘイバル作戦も開始されている。以上のように,作戦の秘匿名や多くの作戦名が一時に使用されたことは,イ・イ戦争中,前にも後にもなかった。これはもちろん,イラク側の情報処理を困難にして,秘匿効果を出そうとしたものだが,イラン軍としては,それほどこの第五/六次バル・ファジル作戦に総力を傾けていたのである。1984年2月8日~2月10日にかけて,パスダランの兵士はかねてから弱点であった機動力の向上を図って全土で演習を実施し,この作戦に向けての動員体制を完了していた。 また1983年1月以降はもっぱらアラビア湾上の船団護衛に出動する程度で,イラク領内を飛ばなくなっていたイラン空軍も,2月25日の第五次バル・ファジル作戦に呼応して,イラク各地を爆撃した…
▼イラク反抗期
…注目すべきは,イラク空軍によるペルシャ湾上のイラン領の島及び海上油田への攻勢である。1987年7月13日ファルシー島,7月14日ファルシー島,ラハーシュ油田,7月15日ロスタム油田......。 これらの島及び海上油田プラットホームは,パスダラン海上部隊の小型襲撃艇の基地である。時期的には,米海軍によるクウェート・タンカーの護衛開始の直前である。すなわち,この航空攻勢はクウェート,米国,さらに西側へのイラクのサービスとみられる。イラク自身,ペルシャ湾内でこれらイラン小型艇と闘う必然性がないからであ今さら繰り返すまでもないが,イ・イ戦争全般を通じて,こうした政治戦略,あるいは政治的配慮を双方ともよく行っている。これを見抜けなければ,この戦争の推移と進は理解できないといえよう。
こうした状況下で,イランに最後の止どめを刺したのは,イラクのミサイル及び化学戦力であった。1988年2~3月の双方の首都ミサイル合戦で,イラクはイランを圧倒した。 テヘラン市民の間には「イラクがミサイルに毒ガス弾頭を付けて撃ち込んでくる」との噂が流れ,パニックが生じた。実際,6月25日にはイラクはイラン南部のアカルバラ号アフワズに毒ガス弾頭付ミサイルを多数撃ち込んだ。こうした状況に,イラン指導部は動揺し,人民にとにかく戦果を示すため,2年ぶり「バル・ファジル」の栄光ある作戦名を再び掲げ,その第10次を北部で開始し,3月17日には温存に努めていた空軍を32波も出動させるほどに力を入れてハラブジェを陥落させ,戦果の宣伝に務めた。だが,イラクはミサイル攻撃で優位に立った次は,南部の要衝ファウの奪回作戦名「ラマダン・ムバラク」を決めていたとみられる。もともと,ハラブジェは少数民族クルド族の土地で,戦略性も高くない。イラクとしては堅守する気持はなかったであろう。もし堅守する意向なら,戦略予備軍たる最精鋭の大統領警備隊を投入したはずである。そうしなかったのには,この部隊をハラブジ防衛に注ぎ込んで,ファウ奪回の貴重な戦力を損いたくないという意向が,イラク指部にあったからだといえよう…
▼終戦期
…守備に当たるイラン軍は革命防衛隊を中心に約3万人と見られ,他方,攻撃するイラク軍は常勝将軍とわれたマベール・ランド第七軍司令官の指揮下に,第七軍と大統領からなる6~7万人であったが,防御の利点を考えると,イランにあながち不利ではない,ファウの周辺は大湿地帯で,バスラに通じる道路が二本,ウム・カスールに通じる道以外は機動や展開が利かないし,南は海であり,守るには有利な場所である。
だが4月17日の作戦初日からイラン守備隊は振るわず,ファウ半島北部とペルシ湾岸地域を奪還された。イラン発表によると,イラク軍は対岸のクウェート領ブビアン島を基地として上陸作戦を行ったという。イラク海軍は小規模な上陸作戦能力を持っていた。2日目の4月18日,イランは42波(それまでの最高の出動回数)に上る空軍の地上支援を行った。これからみて,イラン統帥部はファウの堅守を厳命したと見られる。海岸部にイラク軍戦車,水陸両用戦車,浮航式兵車などに上陸され,これらに圧迫されたことも考えられるが,とにかく海岸部を完全に占領された。同日午前9時,ペルシャ湾南部において,米国がイランに戦闘を仕掛けた。この報道を聞いて,イラン守備隊の戦意が急速に低下したことも考えられる。とにかく,海岸部を抑えたイラク軍が,シャット・アル・アラブ河沿いに北進すれば,イラン守備隊は退路を断たれる。そこで3日目,イラン守備隊はシャット・アル・アラブ河を渡って,撤退した。イラクによるファウ奪回は,イランの戦争継続を改めて困難とした。イラクが1986年2月の第8次バル・ファジル作戦でファウを奪われるまで,ファウ付近のラスル・ビッシュ他に対艦ミサイル「HY2シルクワーム」(中国製)の基地を置き,バングル・ホノイニ港に入港する船舶を攻撃していたが,それが再開されることになる。また,ファウ奪回により,ウム・カスールを基地とするイラク海軍がバンダル・ホメイニ港へ向かう船舶攻撃に出動しやすくなった。これらの事情のため,イランの軍需補給が著しく難しくなってきた。加えて,イラン軍の兵士の士気がとみに振るわなくなってきた。ファウは簡単に奪回されたし,バスラ東方シャラムチェ地区(イラク側作戦名「タワッカル・アラー」),マジヌーン島なども容易に奪回された(イラク側作戦名「タワッカルナー・アラー・アラー2」)。 マジヌーン島などは,外人部隊の「イラク・イスラム革命最高評議会」のバドル軍団に守らせて,イラン軍は引き揚げていた。中部戦線では,イラクの外人部隊のイラン反体制派「ムジャヘディン・ハルク」の軍事組織NLAに,革命防衛隊が敗北する有り様だった(作戦名「タワッカルナー・アラー・アラー4」)。
戦後の1989年2月,イランを訪れた筆者は次のことを聞いた。戦争の終盤,ある日本企業のテヘラン事務所に勤めているイラン人従業員たちが,革命防衛隊に志願して出征した。しかし,前線でイラクのすさまじい砲火を浴びて,部隊長以下全員が腰を抜かし,集団脱走した。 脱走した足で全員が元の職場へ復帰したが,軍内憲兵組織が確立されておらず,逮捕されなかったという。こうした例は他にも多かったといわれる。
ペルシャ人は激昂する性格だが,気分の変わるのも早い。 そのせいであろう。 他方,イラクは兵や兵逃れは手配され,捕まれば厳罰となる。以上の状況の中で,1988年7月18日,イラン指導部はついに国連の停戦決議を
受諾し,イイ戦争は終結へと向かった。
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