楢崎皐月: 上古代,カタカムナ研究...体験伝達総括
カタカムナ研究
第八部体験伝達...総括
現在時点での問題 (14:26 01/07/14)
1,楢崎が,カタカムナ文献を解読し,カタカナ文字を付記した経緯。
2,「カムヒビキ」十九首,「カムナガラノミチ」百四句の出所。
3,現代物理学と直観物理との関係。
以上の問題点を依然として未解決のまま,第六号に読み入る。
■
第六号を読み続けていると,p114で止まる。
(3)次に,「ウヅメから発生する粒子現象に関するサトリ」を示すものとして,
タカマクラムカヒツガヒノ
アマウヅメウマシイツツミ
ウキツマリサヌキアワマリ
オメタグヒイカツミマクリ
カラミクミ
この歌詞の出所は?
八十章からなるカタカムナ図象歌詞,カムヒビキやカムナガラノミチの歌詞を探してみたが探し出せない。何処から来たのだろう。
この解読(同じくp114)を読むと,-----
『宇宙球の座には,遠心,近心に向う対立した求心力が,番力によつて親和し,アマの渦巻流を現象せしめている。そして,そのアマウヅメからは,個々の微粒子(イツツミ)が生産
される(ウマシ)。それは,正反配偶(オメタグヒ)の電気素量(イカツミ)磁気素量(マクミ)並びに力の素量(カツミ)を組み込んだ核粒子(陽子.中性子等と呼ばれるウキツマリ)や,電子.正孔(サヌキアワマリ)などである。』則ち,対立する粒子の性質(ソコ.ソギナミ.ナギ)を統一する正反配偶の素量(潜象マリ)の存在を直観した示しである。
要するに,粒子(電子や核子)の持つ対立的な性質は,それぞれの粒子内部構造に「正反配偶の三素量」を組み込んでいるから,環境に応じて,電気にも磁気にも力にも変換しうるというサトリである。-----と,出ている。
この解読表現は,全くの物理科学用語である。カタカムナの上古代には,こんな科学用語やカタカナ語は勿論のこと,その科学的思念も無いはずである。それらとは無関係の思念を古代人は伝達し合つていたと,私には考えられる。
そこでまたまた原点に立還る。
このことに関連して,「相似象誌,第十一号,第五、六首,232頁」には,次の一文がある。
『カタカムナ人は,今我々現代人が使つている日本語は,何も持つていなかつた,ということを,読者はもう一度,よく考えて頂きたい。カタカムナ人は、今,我々が持つている様々な智識は無く,たとえば「脳」という言葉も,「生命」という言葉も,無かつた。
人類としての(われわれ現代人と同等の)基本的な生命力(感受性と判断力)を以つて,自分たちの感受し判断したモノを,四十八のコトバを造つて,表明したのである。それ故,カタカムナのサトリをわかりたいと思えば,我々も,現代人の智識や常識のままで読むのではなく,人間が本来もっていた,最も基本的な正直な感受性と判断力になった気持ちで読むのでなければ,わかりようがないのだということを,もう一度よく考えて(自分自身を逆序して起励して),読み進んで頂きたい。』
(文中,「四十八のコトバを造つて」とあるが,これは勿論,四十八の声音符号のことであつて,四十八のカタカナ文字では無い,ことは,ハッキリ確認しておかなければならない。)
従つて,解読の方法は,楢崎が「カタカナ」文字を『カタカムナ』渦巻き図象に付記する前の,記号のみのカタカムナ文献を,即ち,記号のみを対象として解読すべきではないか,と考えられる。
そこでまたまた,原点に還り,カタカムナの渦巻き図象の,一つ一つの図象符号の,意味の解読に挑戦することにした。物理科学用語やカタカナ文字など知らかつたカタカムナ人に,
その原点に立ち還つて。
その原点,二万年ぐらい前という,上古代に,私が今居るとする。
私は,カタカナも知らなければ,勿論,物理科学用語も知らない,それは,丁度,私の父母のようなものだ。明治初年生まれの私の父母は,本当に,一文不知の尼,入道だつた。明治にさへそんな人がいたのだから,二万年前の私も,父母と変わらなかつたであろう。そんな私の仲間に,偉大な人物がいて,『こんな絵』を創造して,私達に説明したとする。この偉大な,わが日本の先住民族の哲人は,どのような要領で,私に説明してくれたであろうか。
そこが知りたい!そこが,このカタカムナ解読研究のキーポイントとなるであろう!手話のような要領だつたであろうか。天空を,夜空を,天地,森羅万象を指さして,どうしたであろうか。
鋭い直感の古代人は,思念と思念とで,以心伝心したのであろうか。インスピレーションの心境だつたのだろうか。
相似象誌でも探し出せない,私の「直観鍛錬」の不足からだろうか?図形を前にして,上古代人の「感得」をみつめる。何も浮かんで来ない。
■「カタカムナ神社の御神体」について
ヒラメキ第十二
一応投げ出してはみたが,未練心の中に,ヒラメイて来たのは「神秘性」であつた。
「カタカムナ神社の御神体」について
「第十号,カタカムナ文献について,p3」に次のような一文がある。
『電気物理技術研究家,楢崎皐月が,昭和二十四年,(1949),兵庫県六甲山金鳥山中にて,平十字(ヒラトウジ)と名のる老人より「カタカムナ神社の御神体」として伝えられた巻物を,
私共は,カタカムナ文献の原本としている。(三号,八号)』
この「カタカムナ神社の御神体」という,神道的な言葉は,誰が言い出したのか,このことについて,三号,八号をひらいてみよう。
三号,p8---偶々会い得た平十字氏より,カタカムナの御神体として伝えられた巻物によるものである。
---カタカムナ神を祭る平家、食家---
八号,p90---自分は平十字,父はカタカムナ神社の宮司,この巻物は,父祖代々『御神体であるから,見たら目が潰れる』と言われて,厳しく秘匿されて来たものであることを告げ,---
これによると,平十字が,「自分は平十字,父はカタカムナ神社の宮司,」と,カタカムナという言葉を使用しているようであるが,これは「腑に落ちない」。
楢崎がこの巻物を筆写した時は,付記されていなかつたのだから,この時点では,平十字といえども,カタカムナというカタカナを知つている筈が無い。知つていたのなら。楢崎に教えていたであろうし,楢崎の生命を賭しての解読作業も必要が無かつたであろう。
最も科学的であり,神秘性を意識して避け,嫌つている相似象学会が,このような「神秘性の匂い」のある言葉を使用するのは,自己矛盾ではないか。その他にも,神秘的な場面も幾らか出て来る。
2,「決して狐を撃つな」---(平十字の言葉。)
3,フーフーと,遠くを駆けて来た「けもの」が,息をととのえるような気配がしてから---(楢崎のノートから)
4,「憑かれたか,狐でもよしあやし恋彼(平十字)待つこころ,吾をゆさぶる」(楢崎のノートから
5,狐塚に「食糧と酒」を供えた。
6,彼(平十字)の指し示した断崖の辺りには「カタカムナ神社」のかげもなく,「毎年一月十五日は祭礼だから」と言つたその日にも----,ただ,夥しい狐の足跡が,辺りの雪の上に認められるのみであつたという。(第八号,p101)
7,半紙に水飴をベツタリと塗りつけて供えたら,これまた,何度供えても,紙は破らず,いつの間にか舐められてしまう。------この事を平さんに話したら,「あれはオレがやったんだ」といった。「でも姿が見えなかつた」といったら,「よく見りゃ見えるんだ」
8,(この「よく見りゃ見えるんだ」という平十字の言葉は重要な意味があるので,検討してみたい。)
彼(楢崎)はこの時の,平さんが,「よく見りゃ見えるんだが」と言つた,その「よく見える目」の,ナゾを究明する為に,後半生の心血を注いだといえるであろう。(第八号,p100,198,317参照)
■よく見りゃ見えるんだ
ヒラメキ第十三「よく見りゃ見えるんだ」
この平十字の言葉は,突然,この日この時(10:21 01/08/04),
「カタカムナと仙道」との,根本的な繋がりを,ゆくりなくも,再び想起させた。それは,仙道の両翼を形成する「医道」「相道」の「相道」における「気色血色相法」の,奥義,秘儀に該当するものだからである。この奥義に達すれば,仙道修行も完成に近いという程のものである。参考までに,これに触れてみよう。
「気色血色相法」,(仙道語。技法辞典,p50)
「人間の意識は気色となつて人面の現れ,気色は血色に変じ,血色は現実に具体化してくる。気色血色は観念の世界に起こつたことが,現実の世界へ具体化する,中間の動態で,この中間を経て,現実化の成否吉凶を予断することが,取りも直さず「気色血色相法」である。
「よく見りゃ見えるんだ」という眼力養成のためには,能力,努力次第で,数年から数十年を要するし,我々普通人はなかなかに達し難い境地である。
楢崎が,この「よく見よう」」として,努力した状態は,
1,『一体,これほどの沢山の図象符によつて,何が示されているのか?
この○と十字の図象符は,文字かどうかもわからないが,これらの図象符を造つた人々は,何か,よっぽど,言いたいことがあったに違いない。彼らは,一体,何が言いたいのか?
彼らは一体,何がわかったというのか?とにかく,彼らは,よっぽどえらいことをわかったに違いない。しかし,彼らにわかったことを,
私が解らぬ筈はない,何としても,このナゾを解き明かさなければならぬ。この,おびただしい図象符の渦の群と対決して,私なりに精根こめて,孤軍奮闘,苦心惨憺を極めたものでした』と,楢崎皐月は,当時の思い出を筆者に語つている。(第十一号,前書,p3.)
2,『何一つ参考書は無く,誰一人たづねるべき先輩もない。それでも何とかして読みつけねばならなかつた。頼りになるものは,自分自身の感受だけしかない-----』
『こうして表象物や歌にしている以上,何か,わかっていたに違いない。上古代人にわかったものが,私にわからない筈はない----。正直のところ,最後は,もう,意地でやったようなものでした.』
『最初は文字か何かも全くわからなかったが,盧有三の示唆と,そして図象符だつたから,何か,物理的な意味を表してるんじゃないかとヒラメいた。』(第八号,p211)
以上のごとく「見よう」として努力を継続した結果,そのヒラメキの心境が深まり,次のような状態となる。
『その間,彼は,まさしく自分の身でありながら,自分の意志を越えた,一種の「没我」とか「三昧」とか「アポリヤ」といわれるものに近い状態を体験した。そして,食事も睡眠も受け付けぬ一種の極限状態のもとに,それまでの彼の科学者的な思考には無かつた,彼の理性や意思とは全く異なつた次元からのヒラメキが,次々と発生した。そして,何も食べず,眠ることも出来ず,唯,ひたすら,至烈に希求したものは,<アマウツシ>の補給であつた。
一見,従来の神秘思想家の心霊現象(神がかり)にも似た,このような状態が,しかし,それらと峻別される点は,つねに,それが,磨ぎ澄まされた「直観の冴え」に支配されていたことである。』
『自分の意志を越えた,一種の「没我」とか「三昧」とか「アポリヤ」といわれるものに近い状態』とか『理性や意思とは全く異なつた次元からのヒラメキ』とか表現している,
楢崎の深奥の心境については,体験者ごとに異なる表現になることは,当然のことで,仙道の「坐忘の境地」に相似する。その一部,相似する点をのべると,「仙道語.技法辞典,p147」---坐忘とか忘我というのは,頑空や陶酔のような自己忘却状態や
硬直した枯死状態ではなく,宇宙大霊の一部であるとの明確な自覚により,「活気凛として」,天地に遍満する生命の充実感と,何ものにもとらわれない自由自在の境地に,没入するのである。---
「仙道語.技法辞典,p150」---真に坐忘三昧に達する為には,骨格と筋層に狂いがあつてはならない。坐忘の極致は無想,恍惚の状態であり,それは一切の打算を越えて愛しあつた
男女が,陰陽合徳の極致『エントロピー関係』に達した時と同じような境地である。それで坐忘が楽しくてやらずにはおれない状態に心境したら,そのひとのは法身がかたく固まったのであり,やがて出神の可能性が待つている。---
楢崎は,盧有三と出会つてから,その門の入り,仙道修行を僅かの期間ではあつたが,体験しているのだから,「坐忘」の何たるかは知る機会があつたと,推察される。
カタカムナと易経との関係,また,易経の流れの仙道との出会いといい,「一筋の強靭なつながり」を,見落としてはならないと,思う。
以上は,「よく見りゃ見えるんだ」という平十字の言葉についての重要性を,脇道に入り,述べてきたのであるが,この重要性は,また後で必ず述べることとなる。
ここでは,未完の,「カタカムナの神秘性」に戻り,検討を続けていく。神秘性は,狐や狐塚やカタカムナ神社,果ては,平十字その人にも,纏わるものだけでは無い。
楢崎皐月,宇野多美恵二人に関しても,記述されている。
1,狐つきと言われた楢崎
「科学でまだ判らぬ自然発生の問題を追及している」などと言うと,常識人の目には,
「精神異常」としか映らなかつた-----。
これらに関して,楢崎はつぎのように述懐している。(第八号,p102)
「私の思想には飛躍がある。そのわけを織り込まなければ,私の研究の価値はわかつてもらえぬと思うから,はじめは随分説明しようとしたのだが,ナンボー言つても承知しない。こっちも実際奇人とみられても仕方のないところはある。奇人と言えば聞こえはよいが,気狂という事ですよ。こっちは気狂なんかでは断然無いのだが,「常識理性で割り出した砦」から一歩も出ず,相手を理解しようとしないタイプの人間は,トテモ度し難いものです。
家内にしてみれば,科学者なら科学の範囲で物を言つていれば人は信用するのに,偉い学者達を相手に高度の智識を示す反面,全く非科学的なことを,マコトシヤカにやるところは,『どう見ても狐つきだ』価値判断が狂つている。無駄なことに大金を浪費し,経済能力が無い。
いつボロを出し,醜態をさらけ,家族まで大恥をかかされるかと思うとゾオッとする。今のうちに病院に入れた方がよい-----という論理で,夫の欠陥をカバーしてくれてる剣幕だ。
研究グループの人々も僕の精神分裂を助長する一味として蔑み,満州以来の部下の出入りまで禁じてしまつた-----。」
2,楢崎の「死」をめぐつて。
ヨミにカエル相(スガタ)(昇雷と落雷)---(第八号,p112)
1974年7月31日,東習志野に於ける昇雷図。
奇しくも会誌が本回で八号(ヤ,とは,極限,飽和,ヤマト,ヤスラギ,ヤブレの思念)を示しているのも,まさに,考えさせられる現象である。叉,逝去の日が,私共の勉強会の夏休み前の最後の日に当つたお蔭で,勉強会のあと,有志の者がこの世のお別れに赴くことになり,折りしも,津田沼の駅から乗り込んだ自動車の中で,行く手の,東習志野の野から立ち昇る,『もの凄い昇雷のイナヅマ』を目の前にし,かねてその生前に明言されていた(後述します)通り,師のタマの,アマに還るスガタを,まざまざと見せられるかの如き,不思議な体験をしたのである。(口絵参照)-----
この東習志野の野にあらわれたイナヅマは,息を呑むばかりの巨大な,素晴らしい「昇雷」であつた。同行の人々は,凝然と身震いを覚えつつ,生まれて始めての,恐ろしい程の光条にみとれたが,この時のイナヅマは,私共の他にも,師の心に共振をもつ者が,不思議に逢い得ている。
しかもそれだけではなく,翌日の午後,その東習志野の地では,世の常識による葬儀が行われていたが,神泉の地に止まつて,相似象会誌七号の仕上げに打ち込むことを以て,亡き師への至情にかえていた私共の上に,突如,物凄い雷鳴が襲いかかり,これ叉,かねて生前に明言されていた通り,文字通りの「落雷」となつて「乗りうつった」ことを知らされたのである。-----さきに(後述します)と記しておきましたが,ここで述べます。(p114)
(師はいつも,小鳥の羽のような銀髪の,美しい温容に明るい笑みを湛えながら言われた。
『僕が死んでも少しも困ることはない。直接アマから通信するから,今よりももつと自由にいつでも,一緒に入られる.』『僕は死んでも決して墓などに入らない。真直ぐアマに還つて,直ちに乗りうつる』)
(かねて私は,師から,雷には落雷と昇雷のある事を,稲妻の写真を前にこまこまと説明されていた。しかし,まさか,師自身,このようなスガタを,私共の眼前に示されるとは思いもよらぬことであつた。-----)
以上,縷々述べてきた,平十字や楢崎皐月に纏わる「神秘性」については,楢崎,宇野も自認していることだが,ここに至り,これが,この「カタカムナ研究」のキーポインントであることが判明したのである。私はさきに,この第八部の冒頭に,---
■カタカムナ解読
『現在時点での問題 (14:26 01/07/14)
1,楢崎が,カタカムナ文献を解読し,カタカナ文字を付記した経緯。
2,「カムヒビキ」十九首,「カムナガラノミチ」百四句の出所。
3,現代物理学と直観物理との関係。』---
と述べていたが,この中の第一項がそれで,これを氷解してくれたのである。則ち,楢崎が,カタカムナ文献を解読するまでには,この「神秘性」が,一枚加わつていた,
ということである。曰く,---
『---この,おびただしい図象符の渦の群と対決して,私なりに精根こめて,孤軍奮闘,
苦心惨憺を極めたものでした』---
『---その間,彼は,まさしく自分の身でありながら,自分の意志を越えた,一種の「没我」とか「三昧」とか「アポリヤ」といわれるものに近い状態を体験した。そして,食事も睡眠も受け付けぬ一種の極限状態のもとに,それまでの彼の科学者的な思考には無かつた,彼の
理性や意思とは全く異なつた次元からのヒラメキが,次々と発生した。(第八号、p214)---』
狐(狐についての仙道的見解あり)から始まり,楢崎の昇雷死現象に至るまでの神秘性は,神秘性を最も避けている相似象学会にとつては,自己矛盾になるが,しかし,これは,これ
なしには,楢崎の文献解読も,実現しえなかつたと推定されるものである。この「神秘的な心境」の表現については,これまた各人各様で,今後とも,自由自在であろう。
ただし,それが,真実とかけ離れていれば,ただちに看破されるだろう。これこそ『少数者のみ達することの出来る心境』だからである。
少数者と言えば,キリスト,釈迦,老子などを初めとして,神秘性を持てる宗祖聖賢も相当数歴史に見える。実際に,悟りとか,超能力とかは,このような,肉体的心境に到達し得てはじめて可能なのである。
「解読はこのような肉体的心境に到達してからのことである。」(10:43 01/08/07)
私が今まで解読のため,いろいろと,試行錯誤してきたのもむべなるかなである。私自身が,このような肉体的心境に到達し得ずして,解読し得ようと無理を行つたからである。従つて,今までに述べてきたような,次の諸点,疑問点は,この時点で全く氷解した。
1,『四十八の声音の思念を身に付けること』この具体的方法はどんなものか?
2,私の「直観鍛錬」の不足からだろうか?
3,楢崎は,この『こんな絵』を見詰めながら,よくぞ,カタカナ文字をそれぞれの記号に,配置し得たものである。その要領が知りたい。
誰でも彼でも,そう簡単に,『登れる山』ではないのである。この山に登る道は,各人各様である。
○,カタカムナでは,楢崎が先に述べたように,「ある極限的な肉体的心境」に入つている。
○,仙道で言えば,「真智圏」に入ることである。
○,キリストも,釈迦も,ゲーテもその他の諸聖賢も,それぞれの道から「目に見えない山」に登つている。
「それぞれの山」については「教行信証」に,---
『光明寺の観経義にいはく,-----しかるにわが所愛は,すなはちこれわが有縁の行なり,すなはちなんぢが求むるところにあらず。なんぢが所愛は,すなはちこれなんぢが有縁の行なり,またわれの所求にあらず。このゆえに,おのおの所楽にしたがふて,その行を修す
るものは,かならずとく解脱をうるなり。行者まさにしるべし,もし解を学ばんとおもはば,凡より聖にいたるまで,乃至佛果まで,一切さわりなし,みな学ぶことをうるなり。
もし行を学ばんとおもはば,かならず有縁の法によれ。すこしき功労をもちゐるに,おほく益をうればなりと。-----』
---と,出ている。
カタカムナ解読のため,「ある極限的な肉体的心境」に入ることを,一つ「行」と考えれば,「かならず有縁の法による」ことが必要かと思う。従つて,楢崎はその「有縁」の,「物理
学者」として,物理学用語をもつて表現したのは,最善の法であつた。物理学の素養のない自分には,どんな登山道があるのだろうか。釈尊の真正覚,ゲーテのベンドング,楢崎の「ある極限的な肉体的心境」,仙道の「真智圏」などいろいろあるが,仙道の「真智圏」に触れてみよう。
『「仙道語.技法辞典」,p204---
「人智圏(感覚形象界)に対する語で,大法界のこと。真智圏は,無始無終,無差別、平等,清浄,無垢,無限,無尽蔵,一切秩序法則の原点,陰陽未分の玄界をいい,ここが思考の発生源になつたらその人の心眼には,一切衆生が均しく如来の法輪が展開したものとして
写り,迷える衆生は一人もいないことになる。
「相道巻三,p3---人間の霊交活動は霊能,霊感,霊媒の三種である。このうち前二者の活動する世界が真智圏であつて,特に霊能者が霊能活動に入るとその意識は全面的に真智圏に占入する。霊能者は普通の人間活動をしている時でも,意識の三分の二は真智圏にある。意識の世界は真智圏の他に動物活動圏(狐、蛇など)と人智圏がある。』このように比較検討してみると,キリスト、釈迦,ゲーテ,楢崎等は皆,仙道的に表現すれば,
「真智圏」に入つた「霊能者」であることが分る。
これをカタカムナ的表現でいえば,こうなる。
1,「科学者なら,科学的な証明を示せ」と迫り,彼の発言を誹謗してやまぬ人々との,空しい論争を避ける道は,要するに,唯々,「心ある人々の,『直観の鍛錬向上』にまつしかない」,というのが,楢崎皐月の『最終的結論』となつた。(第八号,p78)
2,いつの世にも,真理の発見者は,『高度の直観の人』であつた。その直観力を,無意識のままに任せず,「人間の直観は意識して鍛錬しなければならぬものである」という物理を立て,その鍛錬方法を示し,身を以て実験したのが,楢崎皐月である。(同,p80)
(『高度の直観の人』につては,仙道では,「生物としての正しい姿勢を取り戻し,『最高の本能』即ち元神の眼を開く他無い」と表現している。)
3,「よく見りゃ見えるんだ」この平十字の言葉の,「見える目」を習得するスベについて。『体験伝達の方法論』(第八号,p154)に,次のように述べている。
A,サトリとは,いつの世にも本人一個のものである。(本人自身がサトラぬかぎり,他人から如何とも為し得ぬものである)---
B,だが,私共が,「体験伝達の方法論」というのは,サトリ得る根拠を理学的に(神秘思想によらず,普遍的な物理として)示し,それを,サトリ易い環境条件を整えて,他人に伝授する,そのような方法のことである。(第九号以下に詳述)--
A,のサトリの状態とは,先に述べて楢崎の,『その間,彼は,まさしく自分の身でありながら,自分の意志を越えた,一種の「没我」とか「三昧」とか「アポリヤ」といわれるものに近い状態を体験した。そして,食事も睡眠も受け付けぬ一種の極限状態のもとに,それまでの
彼の科学者的な思考には無かつた,彼の理性や意思とは全く異なつた次元からのヒラメキが,次々と発生した。』ということであろう。これもヒラメキの一種であり,「体験伝達の方法論」の伝達する体験の内容もまたヒラメキである。
唯々,「心ある人々の,『直観の鍛錬向上』にまつしかない」,というのが,楢崎皐月の『最終的結論』となつた。(第八号,p78)
いつの世にも,真理の発見者は,『高度の直観の人』であつた。その直観力を,無意識のままに任せず,「人間の直観は意識して鍛錬しなければならぬものである」という物理を立て,その鍛錬方法を示し,身を以て実験したのが,楢崎皐月である。(同,p80)その「人間の直観は意識して鍛錬しなければならぬものである」という鍛錬方法を,次に紹介する。
「体験伝達の方法論」(相似象誌第九号,前書p3より以降。)
誰かが,しなければならぬのは,個人(高度の直観の人)の深刻な体験によつて獲得した知恵を,普遍的な物理に抽象して,伝えることである。「物理」として示されていれば,誰でも,自分の「経験」を,自己認識にもって行き,共通の精神波動に達することが出来るからである。
1,根拠をつきつめよ。---(九号,p8)
何事も「根拠」を掴むところまでつきつめねば「ホンモノ」ではない。「根拠」をつきとめることによって,「欠点お改める」ことも,「美点を伸ばす」ことも,叉,「発想の転換」も「独創」も,始めて確かな「場つくり」が可能となる。
2,<カタカムナ>の山に登る者の条件。---(九号,p9)
アタマの良さでも,智識の高さでもない。唯,心から,自分自身の内心の問題を,つきつめて来た者でなければ,この長く厳しい道中の,根気が続くものではない。
a,「直観力」の鍛錬を,自分自身の,人生の最高の目的と考える者であること。
b,現代科学.現代文明なるものに対する,根本的な疑念を,深く感じている者であること。
c,今までのいかなる宗教.哲学.道徳にも,叉,芸術によっても,真に,生命の満足感(心の救い)を得られなかった者。
d,かねて,「日本語」(日本文化)というものの特殊性に気付き,その「特殊性」の起源に,関心を抱いて居り,<カタカムナ>に出合って,真に,驚くことの出来る「感受性」をもつ者。
e,やがて読者の中から,もっと直観の鋭い,能力の高い人が出て,楢崎皐月の遺志に,真にふさわしいものにして,世に出して頂ける日を,心から念じている。
---拙い文章に。今は、こめるしかない<カタカムナ>の<ヒビキ>を,読者の直観力に縋つて汲みとって頂く為に,会誌は,くれぐれも,疲れた夜の頭では無く,新しい朝の,冴えた眼で読むことを,どうか,もう一つの「条件」に加えて頂きたい。(第九号,p15)
3,会誌の用語について。---(九号,p25)
同等の体験者の間なら,文学的表現でも響き合うが,例えば「融通無碍」という言葉が,「潜象」の存在の,「自由な無限さ」を表現するに適しいと思っても,理学的な説明にとり入れると,もう,その意味の内容は伝わらず,漠とした別の概念におきかえられ,
その観念の方が,一般化しているのである。筆者の使う「環境」とか「潜象」「感受性」「直観」「物理」等という言葉についても同様のことが言えるのであって,(例えば,「環境」について言えば,それは,我々の
生命現象をはじめ,科学で今猶「謎」とされている『鳥の渡り』や鮭の『生まれた川への遡り』等の現象の解明も,この環境---上古代語では<オトワヤマ>---の「物理」の究明に,またねばならぬ筈のものでる。)
それ故,ただ「環境」とか「直観」等と言ったのでは誤解を生み易く,それを避ける為には,もっと微波動のきいた物理的な表現が必要である。(そして,そのような<H2>微波動を感じ分ける能力を養成する方法</H2>が示されねばならぬ,ということになってゆくのである。)
しかし,ここで,いかに言葉をつくして説明しても,所詮,正当な理解は得られず,かえって,微波動のきいた表現をすればする程,わかり難く感じさせるという,逆効果しかないのかも知れない。今は唯,読者の「カン」にすがるしかないが,やがて,文献の解読が進むにつれ,一般概念との違いを,ハッキリと認識されるであろう。
会誌の文章(表現の苦心)---(九号,p10)
<カタカムナのサトリ>は,現代科学で言えば,量子力学や相対性理論を超え,哲学では,弁証法やウバニシャッドを超えたものであるから,従来の哲学や理学の論文よりも,難解な表現をとるのが順当であろう。しかし私達の会誌は,いかに高度な内容も,友人と話をするような,平易な,日常的な用語で表現すべきであると,心している。(p11,12参照)
4,現代人の脳の眠っている部分。---(九号,p12)
現代人の脳細胞は,多くの部分が使わずに眠っていると言われるが,おそらく,現代科学や哲学に於いて未解明の問題は,(「生命」.「精神」の分野の物理は)その,眠っている部分の(則ち,人類の機能として与えられ,そしてカタカムナ人たちは鍛え使っていたに違いない部分)の再開発によって,研究の緒につくのではないかと思われる。---(p12)
楢崎皐月の実験は,いわば,この「眠っている分野」(科学では未解明の分野)に,再開発の鍬を入れるものである。---(p13)
今、私共が,最も関心を集中しているのは,この,自分自身の内にありながら『眠らせている脳』,則ち,命令系統が異なる為に,使われていない脳の部分の,再開発の問題である。---(p14)
【この「眠っている脳」については,仙道に「腹脳」という見解がある。
全く相似しており,その対象も,機能も,重大性も同一で,「存在の根源」に関する問題である。但し,人体内における存在場所が,一つは頭部に、一つは腹部にありとされている点が異なるが,現在,活動している大脳に対する「命令系統は異なる」という点では一致している。「腹脳」は,自律神経系統とされている。】
4a,(−)エントロピー。---(創刊号,p53)
夫婦や愛人たちは,美感電圧地やイヤシロチの大樹の下などで,できるだけ性の交換栄養をとる事が,最高の心身の健康法になることをわきまえるべきである。静かな恍惚の境にあそびつつ,そのうっとりとした状態のままで,一方では二重思考が働いて,大脳はすばらしい活性状態となり,平素どうしても思い浮かばぬようなアイデアが発生する。
5,「バトン」を受け継ぐ者。---(九号,p15)
<カタカムナ>の解読の為の鍛錬のバトンを受け継いだ者は,筆者一人以外にない
のだから,<カタカムナ>に関心を持たれる読者には,辛抱して読んで頂くしかない。
6,読者も述者も自己起励しつつ。---(九号,p26)もし現代人の常識が,マ違いの無いものなら,何も苦労して,上古代人の<サトリ>を持ち出す必要はない。現代人の理性的な概念には,もう失ってしまつたモノ,しかし,その認識なしには,生物としての本来の生命を,全うすることの出来ぬモノ,それを,
私共は,今,カタカムナ人の言葉から,聴き出さねばならないのである。それ故,<カタカムナ>の解説は,従来の書物の常識的な論理で,幾つかの(註)を入れただけでは無理で,縦横,立体的に,示されねばならない。しかし,平面的な書物の形をとらねばなぬ以上,<カタカムナ>の解読は,少なくとも,
日本古来の絵巻物を展開するように読者も述者も,カタカムナのサトリの<マワリテメグルの>渦巻のように,自転.公転を繰り返しつつ自己起励し,その都度,過去の自己の固有振動には無かった,新しい心の波動を励発させて行かねばならない。
それによつて,カタカムナ人の心の波動に,少しづつ,少しづつ,共振し,相似して行く,という,持続的な努力と,植物的な忍耐を要する仕事なのである。(その一助として「註の目次」を参照されたい。)
7,共振波動.高調波
「共振波動」とか「高調波」とか「アマ波動量」「大脳二次波動」等という私共の表現は,<ヒビキ>という上古代語の思念に馴染まぬ読者には,意味が充分に通じないかもしれぬが,---(それは,最先端を行く生物学者が「宇宙リズム」「生体内時計」「生の達観得」などとよんで,指向しているものの「物理」を示す用語である。)---やがて,文献解読が,進むにつれ,実感を以て,追体験的に納得されるであろう。
一芸一道に達した人々の言葉をきく時,---技術が少しでも高度になると,『指先でなく,「カラダ」で弾きなさい』『アタマではなく「ココロ」で弾きなさい』『「ミ」を入れて』『「キ」」をこめて』『「ハラ」におさめて』等という表現になり,言う方も聞く方も,
「何となく(赤字にすること)」わかり,「マ」に合せているが,少なくとも我々の日本語には,「ミ」とか「キ」トカ「マ」のように,唯の一音で,「何となく」彼らの言いたいことを示す言葉が残つている。
8,諸行無常の中で唯一つ残るモノ---(九号,p28)
生まれながらの「固有振動」に食い入つた,「ミ」についた「波動」は,もうその人の生涯,忘れようとしても決して消えぬ保有量となつて,夢の中とか,無意識の領域にも定着し,「年の功」ともなり,それぞれの「人柄」を,形づくつて行くものとなるのである。叉,そのような精神波動(ヒビキ)は,『肉体が風化した後も,物理現象として,環境に残存する。---(心のどん底に受け止めたということ)』
9,自己変革の物理---(九号,p29)
私共は,確信を以て,『先ず,十年,かけてみてくれ』と言つている(註26参照)。---
10,「アタマ」と「ココロ」の平衡的発達---(九号,p32)
「生命」(イノチ)と「精神」(「アタマ」と「ココロ」)の,正しい扱い方,言い換えれば,それは,『「アタマ」と「ココロ」の平衡的発達による生命活動の充実』の問題であり,「生まれながらの固有振動の高調による自己変革の『物量」に支配されるものである。そしてそのことが,一旦,「物理」として「認識」に納得されさえすれば,その後の,
めいめいの「アタマ」と「ココロ」の鍛錬の具体的方法は,いくらでも,生み出せるものである。(赤字のこと)---叉,めいめいの「波動量」は,より多く持つ者には,より少ない者の保有量が,極めて明らかに,感知されるものである。なぜなら,それは,物理的な共振量の差異(ヒビキ方の
違い)として,言葉や態度の上に。正直に表れるものであるから,例えば風景にしても,下から上のものは見えぬが,高い所から見れば,一目瞭然であるのと同様に,体格的な正確さで,わからずにいないものである。昔から,「禅問答」や「真剣勝負」の場などで,『何となく』知られていた事実を,「物理」として裏書するものである。
『「仙人」とは「山上の人」である。山の上から見れば,「俗人」則ち「谷の人」の状態がよく分る。と,いう,仙道の見解とよく一致している.』
11,自分の「アタマ」と「ココロ」の使用法---(九号,p33)
専門の仕事を修得する為には,微に入り細を穿った勉強方が研究され,そしてそれをマトモに鍛錬しなければ,一人前になれぬ,ということを認めぬ人は無い。しかし,どんな専門家でも,有名人でも,叉我々無名の凡人でも,それぞれの職業や身分よりも以前に,そもそも人間として生命を保つ上に,時々刻々,何をおいても必要な,「アタマ」と「ココロ」の『使用法については』ピアノの教授法や,拳闘の訓練法ほどの,確かな鍛錬法も研究されていなかつた,ということは,思えば不思議な現象ではないか。
宗教や哲学は,昔から,明らかに,その方向を狙うものであったに違いない。殊に釈尊.孔子.キリスト.ソクラテス等の,聖人とよばれる人々は,ひたすらその道を求めた天才であった。しかし,何を基準にすべきかという根拠把みきれなかった為に,自分ではわかっていながら,人類の方向を正すだけの,教えを示すことは出来なかつた。
12,二十世紀の「潜象物理」と「人間学」---(九号,p35)
私共は,もはや,世の批判や誤解や,叉は無視にもひるまず,この,人間の「生命」と「精神」の問題をつきつめ,『「ココロ」と「アタマ」の鍛錬法の実験』を進めて,「相似象」の会誌を,「潜象物理」と「人間学」の研究書として,二十世紀の人類文化の一隅にとどめ,共振を得られる読者と共に,後世の知己をまつしかない,というところに来ている。---
(p36)直観の鋭い読者は,図象符に付した楢崎皐月のカタカナ訳だけで,どこまで上古代語の意味が味わえるか?---試してみて頂きたい。
(この一文から,上古代語の味わい方に,次の三段階があることが考えられる。
1,図象符だけで上古代語の意味を味わう。---楢崎の直観のように。
2,図象符に附したカタカナ語をたよりに味わう。---読者の独力で。
3,宇野の解読をたよりに味わう。---宇野の解読に随う。)
13,抽象図象の解読法---(九号,p44)
彼等(カタカムナ人)の言葉が,,図象符で示されていたことが,解説を一そう困難にしたのだが,最後的には,それが救いとなった。象形文字や符号なら,現代人の思考で類推することも可能だが,手がかりは,これらの不思議な図象しかない。そこに托された意味を,何とかして知りたい,と思えば,結局,この抽象図象を工夫した人の心に,ヒビキ合う波動を,こちらも持つしかない。数千年来,誰にも出来なかったこの事は,
しかし,全く不可能なことでは無かった---。カタカムナ人の心も我々後代人の心も,本質的には異なるものではなかったのである.その証拠のように,私共の心が,共振波動に達した時,それは,まるで霧の晴れるようにナゾが解け,そして,もつれた糸をほぐすように,少しづつ,関連用語や,前後の歌詞の脈絡にピントが合っ来て,それぞれの意味が,ハッキリと浮き上ってくるのである。もしどこかにマ違いや曖昧さがあった場合は,やがてスジが通らなくなる。その正直さは,物理化学の実験に同じく,それこそ,私共の「直観鍛錬の実験」の最高の場である。」
14,日本文化の真の根拠---(九号,p47)
<カタカムナ>文献の解読を,最も喜んで受け容れられるのは,他ならぬ,富永老師に違いないことを,私共は確信している。なぜなら,老師の八十余年の生涯をかけて,死の際まで求め抜いた,日本文化の真の「根拠」が,ここに,明示されていたからである。
しかし,その<カタカムナ文献>が,老師によらず,楢崎皐月によつて発見された,ということには,叉,当然の理由があつた,と今にして思われる。
なぜなら,<カタカムナ>の解読には,「現代科学の最高度の素養」という裏付けが,必須の条件だったからである。
15,「イザという時,」---(九号,p52)
「イザという時」,自分の生命を守るものは,「jasマーク」でも「コンプューたー」でも,「医者」でも無く,「智恵」でも「組織」でもない。民族の発祥以来,伝統として受け継がれた「知恵」によって,めいめいの生命の「感受性」を鍛える,という大原則を
忘れた者は,一寸した異変にも,対処するスベを知らず,ジタバタ運動を起こす夏の虫のように,もろくも亡んで行くのである。いかに高度の智識.経験があつても宝の持ち腐れに等しい。
16,楢崎皐月の「実験」---(九号,p64)
世に優秀な学者.研究家は多いが,楢崎皐月の試みた「実験」こそ,かって,人類の経験に比類をみぬものだとは,誰が知るであろう。唯,私共が,肝に銘じているのみである。
「カタカムナ」は,楢崎皐月の天才をして,『三つ子の魂』から打ち込んで来た科学の研究を抛っても,何としても伝えねばならぬ,と決意させるに足る『より価値高いもの』であつた。
しかしながら,この判断が,果たして,彼の,独りよがりの,見込み違いの,つまらぬ事件に過ぎぬものであつたかどうか------,歴史の審判にまつしかない。
17,文献解読.解説の困難さ---(九号,p67)
事に当って必要なのは,悲愴な「覚悟」でも,使命感の「緊張」でもなく,行き届いた「配慮」と,自由な「技術」である。殊に,在来の神秘思想でも科学手段でも歯の立たぬ<カタカムナ>の山へは,最も適切な道をたどらねばならぬ。
楢崎皐月は,その為に,「直観鍛錬」の実習方法を開発した。<カタカムナ>の山に向う者は,先ず,この,直観鍛錬の必要を,深く深く,自己鍛錬することから,第一歩を踏み出さねばならない。それは,人類文化の歴史上では,まだ,誰も知らなかった,新しい<サトリ>に通じる道である。
18,『ホントウのこと』を知らせる勉強法---(九号,p71)
正に,天然自然のいとなみの「相似象」として,恰も,『結晶の進展とか味噌や酒などの発酵』のように,適当な「場」をつくることによって,少しづつ,少しづつ,新しい芽を
発生させて行くしか,『ホントウのこと』を知らせる勉強法はあり得ない,ということを,ハッキリとつきとめたのである。---
(九号,p87)---(人間は「試験管ベビー」どころか,雑草の葉一枚,創リ出すことは出来ない。人間に出来るのは,「場つくり」までである。そして,その「場つくり」を,科学の力でいかに整えてみても,昔も今も,十ヶ月を満たねば,マトモな人間の子は生まれず,十年.二十年の酒のコクは,速成はきかない。精神作用も,「アタマ」の方は「一夜漬け」でごまかせても,「ココロ」(ミ)の速成は,決して出来るものではない。)
(九号,p89)---ホントウに知るということは,自分の『わかったモノ』を,他者に,『わからせる』ことが,出来るのでなかれあならなかった。それ故,釈尊.孔子の「悟り」もまだホントウの<サトリ>では無く,まだホントウに救われてはいなかった。
(九号,p91)---『釈尊や孔子の弟子が,師の教えを正しく伝えることが出来なかったのは,師の教え方が悪かったからだ』などと,もし言えば,世人の非難.反感を買うに違いないし,事実,今まで,誰もそういう言い方はしなかった。師が偉ければ偉い程,弟子は
ひたすら恭しくかしずいて,後に控えていれば無難であった。実際非凡な師に三人まで出合った筆者も,四十年の間,ただ一すじに師を崇め,自らを卑下するしかなかつた---。
その,正真正銘の一介の「凡人」が,天才の師を批判するような事を言いださずにいられなくなったのは,よくよくのことである。それは---,芸術的才能や,学術的業績の上ならいざ知らず,いやしくも人間の「精神的鍛錬」(体験の成熟)という問題を目的とする
師弟の間に於いては,「ホントウの師」たるものの偉さは,『自分の体験を,弟子に伝えることが出来るのでなければならぬ』と,言い切ることの出来る「根拠」を,<カタカムナ>によって,ハッキリと,知り得たからである。
(イヤヨクワカリマシタ---16:07 01/08/20)
19,実習は丹念な自然のいとなみの相似象。---(九号,p71)
真の芸術家や職人のしごとは,実に丹念なもので,誰の眼にも,天然自然のいとなみの「相似象」を見る思いがするであろう。
科学者や技術家の研究も,極めて丹念な仕事の積み重ねである。何百階の建築も,巨大な橋梁も,叉,宇宙ロケットの打ち上げにも---。一つ一つの過程に,少しのごまかしも許されない。ピアノやヴァイオリンの天才も,子供の頃からの,実に丹念な『「基礎練習の繰り返し」という過渡なしには』,あり得ぬことを否定する者はないであろう。このことは,芸術.科学をはじめ,あらゆる分野で,いかに「独創的な天才」とよばれる人々についても,言えることである。
20,<サヌキ><アワ>の物理。---(九号,p73)
百の説法よりも,根本の「物理」を示すのが,ホントウの教育や宗教の役目でなければならなかつた。今私共は,はじめて,自分の直観鍛錬に,<サヌキ><アワ>の物理を追試実験しているわけである。(文献解説の際詳述)
21,「考える」と「考へる」---(九号,p73)
『「考える」と「考へる」』の感受の違いも,書き分けずにいられぬ筆者の心理すら,微波動を感じ分ける気の無い人々にとっては何の関心も覚えず,『そんな事はどうでもよい。
徒に晦渋な文章を弄する』と,うつるであろう。然し『今,自分にとって,自分の直観を鍛える以外に,「緊急に為すべきことは無い」』と,一たび深く認識した者なら,筆者の,拙いながら精一杯の表現を,親身に,読み砕いて下さるに違いない。最後は唯一人でもよい,そういう読者に会い得れば-----という念いでつづり続けている。
『宇野多美恵のココロの波動に触れることが,カタカムナ人の直観に達するミチである。』
と,今この時,「考へる」のである。
22,天才者の「バトン」を受けつぐ道---(九号,p93)
何としても,「凡人」によつて,天才の師の「バトン」を受けつぐ道が啓かれねばならない。一たび「凡人」が受けつぎ得たら,「凡人」から「凡人」への道は,当然通じるであろう。「凡人」は「凡人」の心を知るからである。
(九号,p94),『直観鍛錬の道は難行苦行ではない。』---『人間の純粋な「感受性」や,明晰な「判断力」の発生する条件は,「難行苦行」ではない』と楢崎皐月は観破していた。
(『最もウマイ物をいただいて食欲を満たし,豊かなアマウツシを得て生物的な本能を澄まし,人間の智能が,最高度に発揮され得る「場」をつくる知恵を開発しなければ,ホントウの修行(直観鍛錬)は行われるものではない。』(八号二一八頁))
それ故,「鍛錬」という言い方が,実はそぐわぬもので,もっと何でもない,日常的なこまやかな,いとなみであるのだが,問題はそうした天然自然の現象の「相似象」のような,丹念な確かないとなみを,何年も,繰り返し持続することが,現代人には困難だということである。しかし,そのような過程を経なければ,『体験の成熟』ということは決して
あり得ぬことを,「物理」と知り,且つ,いかに努力しても,個人の能力には限度のあることをわきまえ,自分の「バトン」をついでくれる者の為に,精一杯の「かけ橋」を,かけておこう,とするしか,道は無いのである。(これは,宇野の心情である。)
23,「発想の転換」とは「成熟」の結果である。---(九号,p94)---「これは新説」である。「発想の転換」ということが屡々言われているが,それは,「転換」の体験を知らぬ人々の,一方的な表現であって,実は,「成熟」である。
充分に成熟すれば,おのずから転換する,という自然現象である。生物の脱皮のように,形態から見ればたしかに「転換」であるが,それは,自然な「成熟」の過程であるのと,「相似象」である。
我々の「心」も,共振波動が増幅され,ある限度に達すれば,おのずからなる「転換」が起きる。それがいかに稀な少数例であっても,そうした転換を体験した人があるということは,
人類としての「自然現象」に違いない。且つそれが,人間の「心」の最も見事な成熟状態であることは,凡人の眼にも「何となく」明らかであったから,昔の人は,その現象を,
比喩的に,「正覚」とか「悟り」などとよんで崇めたのである。(正覚の究明,八号一六〇頁)
楢崎皐月の実験は,古来,偉大な天才者に限られていた,そのような「精神的転換」の現象を究明して,天才の師と,我々凡人との間に,かけ橋をつなぐものであった。それは,全く過去の難行苦行方式では無く,もっとイキイキした明るい鍛錬方法により,もっと能率
よく,人間の体験伝達のリレーのバトンタッチを,実現させようとするものである。(八号一五一頁)
『「発想の転換」とは「成熟」である.』という,この宇野多美恵の説は,「正覚」「悟り」に対する従来の見解を,見事に覆した。何だか,私にも,この「成熟」がやって来るような気がし始めた。
「仙道」においては,この「成熟」期間を,五段階用意している。一に斎戒養生門,二に安処制感門,三に存想統覚門,四に坐忘還元門,五に神解自在門である。
仙道修行は,十年,二十年,三十年を要しても,なお解決し得ぬ者が多い。
■総括
24,天才も凡人も抱擁される天然の物理。---(九号,p96)
今日まで,天才者しか知り得なかったことは,実は,人間であれば,誰でも,「階段さえつけてもらえば,我々凡人にも,知り得ることであった。-----「知ること」は,ものの始まりであり,格別に偉いことでも,何でもなかつたのである。
(カタカムナ人は,「知らせること」を,当然の教育としていた。)
「知らなかった凡人」は,今日まで,「知っている天才」を,神仏の如くに仰ぐしかなかったか,じつは,誰でも「知っていること」が,「アタリマエ」の社会が,(<カタカムナ>の世には,)あったのである。
そこでは,人々に,「知らせる」ことによって,教育や政治が行われ,つりあいのとれた,
様々の,現代科学も及ばぬ程の技術も生まれていた。<カタカムナ>の文献は,我々に,
そのスガタを示している。
25,精神のマトモな成熟と,「性」の四相の調和。---(九号,p101)
肉体こそ,「男」と「女」の生まれ直しはできぬが,精神のマトモな成熟の為には,男.女四相の調和を得ることが最高の条件であることを,カタカムナの世の人々は教えられていた。
<サヌキ>(男性)にも「アワ性」が,<アワ>(女性)にも「サヌキ性」が,必ず無いものはない,という四相のサトリ(八号二七五.一九九頁)は,男性にも女性ホルモン,
女性にも男性ホルモンがなければならぬ,という現代の科学常識にてらしても頷けるであろう。
この「物理」を体格的感覚によって知り,それに基づき,日々の微波動の次元に於いて,自分自身を,刻々に教えて行くのが,私共の実験である。
(これに類似した行目に,仙道では「陰陽合徳」,「房中術」というのがある。
叉,老子経第四十二章に曰く,「道ハ一ヲ生ジ,一ハ二ヲ生ジ,二ハ三ヲ生ジ,三ハ万物ヲ生ズ。
万物ハ陰ヲ負ウテ陽ヲ抱キ,冲気以テ和ヲ為ス。-----」と,ある。)◎,「『直観の鍛錬向上』にまつしかない」,というのが,楢崎皐月の『最終的結論』である。
その言葉に随い,宇野の,「体験伝達の方法論」解説の概要を,25項目にわたり抽出して,記述し,研究してきた。仙道修行に十年も二十年もかかるように,天然自然のように,播種.発芽.生育.開花.結実.収穫と,『成熟』の期間が必要ということが,よく,納得出来た。
◎,ここで,第一部から続けてきた「カタカムナ研究」の「総括」を行いたい。
この,楢崎の「最終的結論」,これを,私は私の「カタカムナ研究」の一応の「総括」としての「最終的結語」としたい。
楢崎皐月の『最終的結論』とは,『直観の鍛錬向上』である。そのために楢崎は,唯一の後継者宇野多美恵に,死闘四年間の「直観鍛錬」の実験を課して,この世を去る。もっとも楢崎は
その死に当たって,<『僕が死んでも少しも困ることはない。直接アマから通信するから,今よりももつと自由にいつでも,一緒にいられる.』『僕は死んでも決して墓などに入らない。
真直ぐアマに還つて,直ちに乗りうつる』>と,言い残して去ったのであるが。かくして乗りうつられた宇野多美恵は,師の『最終的結論』に随い,『直観の鍛錬向上』のための『体験伝達の方法論』(相似象誌第九号,前書p3より以降。)を記述し,第十号より
「カタカムナ解読」に踏み切り,孤独の死闘に入つて,今日に至つているものと推定される。
『直観の鍛錬向上』こそ,楢崎の相似象学の門に入り,「カタカムナ」を解読し,「眼に見えぬもの」の潜象と現象を物理的に解明し,「サトリ」の神秘のブェールを払いのけてその実態を明らかに表現する,唯一の道であると私は確信するに至つた。
今後私は,この確信のもとに,『直観の鍛錬向上』を目標に,宇野の「体験伝達の方法論」に随い,日々の努力を続けたいと思う。
日々の「直観鍛錬の努力」の結果は,別計画の「カタカムナ辞典」に,記録して行きたいと現在は考えている。それが私の,数十年の仙道修行と数年のカタカムナ研究の結果であり,一日一日の,悔の無い生き方,であると信ずるに至つたからである。
◎,さて,別計画の「カタカムナ辞典」による再出発に当り,現在(10:37 01/08/23)での私が身につけている,「直観の鍛錬」の実態はどんなものか,振り返つてみよう。
先ず直観とは?「ヒラメキ」である。誰にも具わるこの能力は,深浅の度合が甚だしい。
深浅に拘わらず,「ヒラメキ」を頂けると言うべきか,獲得すると言うべきか,(ここにも「正反重合」が認められる),どんどん,日常茶飯事に感ずるようになることが,「直観の鍛錬」に当ると思う。
ここでは,最高度の「ヒラメキ」について,それを目標にして述べてゆく。
「坐忘や坐禅」においては,その意識状態は,大脳の働きが終息して,「無」の状態となる。
「無」の実態の表現は,幾種類もあるので,ここでは,芭蕉の俳句を借りて説明する。
「古池や蛙飛び込む水の音」の句の,「古池」の状態を想像する。神棚の「鏡」も出て来る。「澄み渡る大空」も出て来る。ゲーテのベンドング,釈迦の真正覚,楢崎の『食事も睡眠も受け付けぬ一種の極限状態のもとに,それまでの彼の科学者的な思考には無かつた,
彼の理性や意思とは全く異なつた次元からのヒラメキが,次々と発生した。』のときの状態なども相似している。
その,「大脳の働きを終息させて,古池の状態に,即ち,意識を保ち,ヒラメキを待機する状態にもってゆくことが,仙道行であり,カタカムナの「直観鍛錬」の行であると思う。
その水平面に,ドボンと蛙が飛び込む。その音が「ヒビキ」であり,「ヒラメキ」である,というのが,私の見解。
このような「最高度のヒビキ」を直観出来るような意識状態に,日常の自己を持つてゆくことは,稀有の出来事である。カタカムナ図象の「声音符や図象符」を解読出来るのは,こういう
意識状態に自己を持つて行くのが,先決だつたのである。それが出来ないでいて,ただ解読にばかり熱中していたのが,この「カタカムナ研究記」だつたのである。
今後は,このような「最高度のヒビキ」を到来を念願しながら,それを目標において,普通の「ヒビキ」のキャツチに努力しなければならない。
「普通のヒビキ」を,日常の意識状態の中で,則ち,いろいろに錯綜する複雑な物思い(所謂意馬心猿)の中で,「これだ」とどうして見分けることが出来るだろうか。普通には「ピンと来た」という,アレである。それが、本当に「アマ」からの「ヒビキ」であつたと思われるのは,一件が落着してから「あのとき,あゝ思つたが,あの通りしておけばよかつたのに」
と後悔するときがある。この時の,あのやわらかな,かすかな思いは,意馬心猿の中では,殆ど,見逃されるときが,私の場合,非常に多いようである。これを,「鈍感」というのであろう。私の場合,この「鈍感」にならないよう努力することが,「直観鍛錬」ではないだろうかと考えて,それを「日常行」として実行している。
毎日の,仙道の「坐忘行」のなかで,目覚めの時,湯上り,夢の中,など,いろいろある。
これらを,仙道では「第一念」と言つている。こんな努力の他に,基盤となるのは,活気イッパイの肉体,意馬心猿を除去する精神統一,である。このための努力が,また,大変であつた。
以上,私の「カタカムナ研究記」は,ここで一応終了して,振りかえってみると,「古池」の中に飛び込んだ蛙の「水の音」のように,果ては,『漣』に終ったようである。この,『漣』の果てから,私の再出発が出来るかどうか,高齢で余命幾許も無いのに!
「カタカムナ研究」全部終了。
(2001.8.28)
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■易経の「先天之図」と,カタカムナ図の相似
ヒラメキ十四
9:21 01/08/30
今朝五時三十分頃,「仙道」の「老子法」を行じていたら,次の事項が浮かび上がつて来た.
それは,(2001.8.28)日付きで,一応,「カタカムナ研究」を終了して,一安堵した安らかさの中で,一箇所だけ確信を得たことである。
易経の「先天之図」と,カタカムナの「カタカムナとよばれる図」の相似である。
上図の「先天之図」則ち「伏羲八卦図」に見られる,乾.坤.離.震.艮.坎.巽.兌から発展した六十四卦を,孔子が解読して,十翼の中の「彖伝」「象伝」として解説している。
一方「カタカムナ」については,今まで,縷々述べてきたように,楢崎皐月が,これを発掘し,上図の「ヤタノカカミ図象」を最重要基盤として,「カタカムナ八十個の渦巻き図象」を解読し,之を,宇野多美恵が継承して,「相似象学会誌」に解説発表している。
両者の根幹を比較すれば,一は「大極」と「陰陽」であり,一は○と十である。
「大極」と○と相対し,「陰陽」と十が相対している。即ち,「一と|」が陰陽を表しているからである。
易経に於いては,孔子以降も,中国の賢者達が解読を試みて,それぞれの一派を成立している。十干.十二支.陰陽五行説.八幡遁甲術.方術などもその流れである。
現代に至つては,株式相場にまで及び,その上り下がりを陰陽とみて,八十四卦に当て嵌め,相場の予見に活用している。
「易は其の妙極まりなくて,上は天地の利,神明の情より,下は一身の修養,処世の要諦に至るまで,余すところなく包含されている。」と言われているのだから,各方面に活用されているのは,当然の事といえよう。
一方「カタカムナ」の方は,目下解読,解説中であり,未完の状態である。が,その目標として掲げる「相似象学会」の,「相似象」とは何かの中に,『天然,宇宙,自然界,人間界を通ずる森羅万象に,「相似の象」があるという,カタカムナ(日本上古代民衆の直観)に基づく物理でありかす。』と記述されている点たら推して,この方も,広範囲に及ぼされると考えられる。
孔子が「彖伝」「象伝」として解説しているように,論語的道徳修養の面から易経を解読しているように,楢崎の方は,その専門とする物理学の立場から,「カタカムナ渦巻き図象を解読している。と,いうことは,「物理学の立場」以外から---孔子以外からの解読が為されたように---解読される可能性を否定することは出来ないだろう。
この点に関し,私自身,唯今,「カタカムナ研究」を一応「全部終了」したのだが,今後は,カタカムナの解読について,別な立場からの研究もしてよいのではないか,という考えが,浮かび上がつて来た。物理学の素養のない私は,それも含めて,次の,別計画の「カタカムナ辞典」に取り込む
ことにしてみたい。私の再出発が出来るかどうか,高齢で余命幾許も無いのに!終了
カタカムナ研究
http://www3.ocn.ne.jp/~x484kok8/ktkm8.html カタカムナについてその2
さっきと同じ葉っぱシリーズ
これから書くことは,カタカムナを学ぶのを止めると決心したあとの話になります。
ところが先月,「カタカムナについて」の記事を書き
その後,カタカムナを検索してみたら,
麻薬と闇の世界がたくさん出てきて,それは驚きを通り越すほどでした。
今度は正真正銘の麻薬の世界です。しかも恐ろしい闇の世界。
氏のマリファナとカタカムナの奇妙な関係を違う形でみたようだった。
というよりも,雛形だったのかも知れない。
まるで何かに誘われているようです。
その詳細は余りにも物騒で記事にはしたくないので
こちらのコメント欄で読んでください。
http://cocorofeel.exblog.jp/9743591/楢崎氏の捏造だという情報もあるけれどそれはあえて載せていません。
実際,ウタヒが現実に存在してるし,関係者もいることだし。
麻薬と闇の世界以外のことで
一つ気になるのがあるのでそれを取り上げてみます。
60年ほど前の六甲山で,平十字と名乗る猟師が楢崎氏の前に現れ,
○と十字で描かれた図象附を手渡し,それを楢崎氏がカタカナに変換したといわれる
その「カタカムナウタヒ」がお経として残っているのを発見しました。
*平十字はサンカとも考えられるし,○と十字は神秘思想っぽい。
これです。
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■もっと不思議なことに,空海大師の真言宗・大日経には舞経と呼ばれる経典があり,そこには「カタカムナノウタヒ」がお経として残っていて,今日でも
「カタカムナヒヒキマノスヘシ
アシアトウアン(舞教では「あしあとおわん」と発音しているようです)
ウツシマツルカタカムナウタヒ」
この言葉を,最初のカの字が中心となるように,左進右退で渦巻き状に写経し,写経することによってこの世が清まると信じられており,空海大師と楢崎氏がどうつながっているのか大きな謎です。
http://www.k2.dion.ne.jp/~well0369/newpage12.html....................................................................................................................
以上,引用終わり。
お経は大陸からきたものですよね。
大陸からきたとしたら,それは日本のものではない。
楢崎氏が解読したウタヒがすでにお経にある?
これは何を意味してるんだろう?
このお経の存在は楢崎氏は知らなかったのだろうか?
このお経の存在を知って,図象附を作ったとは考えられないだろうか?
以前,カタカムナはユダヤにつながるんじゃないかとチラッと書いたことがある。
最近ではシュメールにつながると思ってる。
金達寿さんの本を書き写している時に「カムナム」の言葉をはじめ
カタカナの言葉をみているうちにカタカムナって古代朝鮮語なんじゃないだろうか,
古代朝鮮語で読むとどういう意味になるんだろうとか,
大陸から来たものなんじゃないかなとか考えた。
ウタヒの「カムナガラ」なんてまさしく古代朝鮮語そのもの。
ウタヒ,眺めれば眺めるほど,古代朝鮮語によく似ている。
金さんがよく言われている「アナ」「アヤ」も出てくるし,
しかもウタヒには,神話の神様の名前がよく出てくるでしょ。
神話の神様は朝鮮半島からですからね。
あ〜,なんだか一気に,カタカムナと古代朝鮮がつながってきた。
でも古代朝鮮をたどるとシュメールに行ってしまうけどね。
ウタヒ,ヘブライ語ではどんな意味になるんだろう?
ひふみもヤハウェをたたえるヘブライ語だといわれてるし(違う?)
行き着く先はやっぱりヘブライ?シュメール?アヌンナキ?
あ,ayさんご紹介の大麻の歴史を読んでると
大麻ってヤハウェと大いに関係あるようですよ。
ここでもつながってくる。
ということは,伊勢神宮の御札を「大麻」というでしょ,
じゃ,伊勢神宮はヤハウェ?
伊勢神宮のユダヤ説は私も知ってるけれど,まんざらでもないのかも。
あ,またひとつ,
ユダ王国『アサ』もありましたね。
イオさんからアメリカにアマナ地区があると聞いてから
カタカムナウタヒに出てくる言葉と同じ地名がたくさんあるような予感がしてきました。
中東周辺やヘブライに関するところは特に多そう。
実際イラクにもアマナがあったしね。
地名の古代史版を世界中でやれば面白いものがみつかりそう。
話をもどして
楢崎氏は平十字に出会う前の満州時代に出会った仙人から色々と学んでるようだし,
上のお経に出てくるということで考えても,やっぱり大陸のものなんじゃないだろうか。
仮に○と十字の図象附が先にあったと考えて
○と十字の図象附のカタカナ変換自体に間違いはないのだろうか?
ウタヒの解釈に間違いはないのだろうか?
完璧なんだろうか?
それとも途中のものなんだろうか?
この変換や解釈に間違いがあるなら,
それを信じて一生を捧げるなんて,あまりにも悲しい。
私はそれを他者に勧めることはできない。
趣味でやるならいいでしょうが。
H氏からある時期から,私は私の直感を否定されたけれど
楢崎氏はカタカムナを学ぶのに一番大切なのは
直感だと,『直感の鍛錬向上』だと言ってるんです。
不思議ですね,このちぐはぐさが。
それからこんなことも書かれてあります。
『<カタカムナのサトリ>は,現代科学で言えば,量子力学や相対性理論を超え,哲学では,弁証法やウバニシャッドを超えたものであるから,従来の哲学や理学の論文よりも,難解な表現をとるのが順当であろう。しかし私達の会誌は,いかに高度な内容も,友人と話をするような,平易な,日常的な用語で表現すべきであると,心している。』と。
やっぱりね。
平易な言葉でないと伝わらないと思う。
難解なものを難解なままで伝えることは誰も出来ること,
平易な言葉で伝えることができるかどうかで,その人の知性が試される,と私は思ってます。
しかし,楢崎氏という方は,
”食事も睡眠も受け付けぬ一種の極限状態”とか”乗りうつる”とかの
表現もあって,神がかりというか,霊がかりというか,不思議な人です。
申し訳ないけれど,星製薬のつながりで麻薬を思い出しました。
http://www3.ocn.ne.jp/~x484kok8/ktkm8.htmlしかし思考を鍛錬するのはわかるけれど,直感を鍛錬するなんて出来るのかしら?
どんないきさつにしろ,どんなものにしろ,
自分が気に入れば自分で自由に学べばいいと思う。
誰かから学ぶのではなくね。
そしてたとえどんなに立派な理論を学んでも
行動が伴わないと駄目,頭でっかち,自惚れになるだけ。
信じている理論に間違いがないのか,思い込みじゃないのか。
近場で見続けないで,遠くから別の視点からみることも必要じゃないだろうか。
人生の大半を一つの理論に固執する怖さ,それを最近つくづく感じています。
これって宗教とよく似ている。
一つのものに異常に固執することは止まること,死を意味することになるんじゃないかな。
(止まることは死を意味する,これは90年代に書いたことだけどね)
話は飛びますが,
マヨさんにもメールで聞いたんだけど
大和朝廷って本当にあったんでしょうか。
仮にあったとして,渡来人が作ったものなんじゃないでしょうか。
以前の記事「ヤ・マ・ト」
「ヤマト」とはヘブル・アラム語で「ヤー・ウマト」の意味。
「ヤハウェの民」の意味である。
http://cocorofeel.exblog.jp/8005562これを書いていたら,BBSに太陽の子さんが情報をくれました。
「君が代」の歌詞は,ヘブライ語で書かれているそうです。
カタカムナを原日本人の素晴らしい文明だと信じたい人は
この国が多くの渡来人で作られたとか
単一民族でないということは絶対受け入れられないんでしょうね。
まず純粋日本人血統の大和朝廷ありきにもなるんでしょう。
DNA調査でも日本人は混血だと証明されてるのに。
これは想像ですが
H氏がカタカムナ文明を引き継ぐ原日本人の血統で
私がそれを乗っ取った渡来人の血統だと,氏は考えているのかも知れない。
だから,異常ともいえる怒りを持っていらっしゃるんでしょう。
血統の純粋さを希求するよりも
混血でも自分自身が純粋ならそれでいいじゃない,それが一番。
この記事を書いていたら,なんだか馬鹿らしくなってきました。
民族って何なの一体。
個人では駄目なの?
つながっているこころ
https://cocorofeel.exblog.jp/9926666/https://cocorofeel.exblog.jp/10498006/