色川大吉『ある昭和史』〜かつて日本に存在した「常民」という人達
ほろびゆく常民
■かつて日本に存在した「常民」という人達
高度経済成長がはじまったこの20年ほどのあいだに,外観的には日本が一変してしまったことは内外の識者のひとしく認めるところである。国土の外観ばかりではない,社会の基部も底なだれのように崩れたと私は思う。それは明治百年の変化を十年間に圧縮したような激しさであって,それは革命なき革命であった。たしかにこの十数年の間に,数百年の歴史をもつ村の多くが亡び,常民が亡び,古い生活様式や共同体が亡んだからである。
想いかえせば30年前,敗戦の後,解体した天皇の軍隊から故郷にもどってきた私たちはつくづくとあたりを眺めまわし「国敗れてもなお山河あり」と呟いたものだ。それが今は国はあれど山河も村も破れてないのだ。そのためであろうか。この5〜6年来,柳田国男ブームがつづき,私たちの分野でも民衆史や民衆思想史研究の気運が高まっている。
柳田学の対象は常民である。その常民が死に絶えつつあるというので,あるいは人びとは懐しんでいるのであろうか? もしそうだとするならそれは感傷であろう。私は曳かれ者の小唄は聞きたくない。亡びゆくものはしかたがないのだ。むしろそれに代る新しい共同体や新しい常民がどのようにして創られつつあるか,その方向に関心をふりむけたい。
常民とはなにか?庶民でも平民でも人民でもない,柳田国男らによる造語だが, かれらはそこに次のような内容を託そうとしていた。常民とは山人などとは違う里人であり,通常は農耕や漁労に従事し里に定住して漂泊などはしないもの。そして祖先から子孫にわたる「家」の永続をねがい,その生命の連鎖と自然との共生と愛慕の交換とを喜びとして生きてきた。目に一丁字なくとも事理を明らかに解し判断力に富むが,文字をあやつって表現する能力はない。だが民族の内部生活の歴史を胸に保管し固有信仰を保持し,それらを人生行事や生活の知恵とともに説話伝承として次代の人びとに伝える文化的役割を果してきた。常民とはそうした民衆の性質をさすのであり,またそうした生活のしかたを通じて歴史を基底から動かしてきた。
常民を実態的なものとみるとき,かれらの場は地域共同体である。そこではかれらはつねに「官」にたいする「民」であり,政治にたいしては一定の距離を保つ。いわば食足り心満ちれば鼓腹撃壌して「帝力われにおいて何かあらんや」と唄う自治境の民である。そうした原理的な意味もこの「常民」の概念にはこめられてよいと私は思う。日本の中世末期,15〜16世紀には村落共同体が成立し,その後幾度かの時代による変容をへながらも20世紀の前半まで理念的にはこうした常民は存在していた。
しかし現実にはこれは”幻視の楽園≠ナ,明治以降,資本制と地主制の支配下で村落共同体と住民は差別と抑圧のうちにゆがみ常民の精神も崩れつつあった。そしてさらに最近の20年,大資本の直接の制
下に根底から全面的な解体と変容を余儀なくされている。
■橋本義夫〜「常民」継承の闘い
これから述べるのは,この常民を愛し常民とたたかって,惨澹たる失敗と挫折をかさねた人の精神史である。日本の民衆の愚かさと格闘して生きた現代の常民である。彼はひとりの農家の子。自分の生れた土地の不毛性を呪いながら終始そこに踏みとどまり,農学校以外にとくべつな学歴もなく,村びとの慣習的な世界に育ったが,その常民の半面の狭隘な性格に絶望し,それに打ち克つべく自己自身とその地域を改造しようとあらゆる実験を試みた。16歳で自我にめざめてから50年,一日も厭世の想いからまぬがれることがなかったという。 かれはじっさいに三度も自殺をはかっている。かれは自分の内部に常民である部分と常民でない部分との裂け目を自覚し,その悩みを柳田国男と同じように 学問の平安の中に静視することができず,かえって一日早く目ざめたものの責とそれを果しえない罪にまみれて苦闘したのである。この人を狂気とののしり,患者と嘲笑した地域の民衆は,この人がかれらに代ってその疾患を苦しんでいたことに気づかなかった。かれが終始口にしていた「実験的生涯」のその度重なる失敗の跡から「古き常民像をこえた」日本の新しい展望がどのようにひらかれるかを見たいと思っている。
1902年(明治35年) 3月13日,桑畑と麦畑が街道に沿ってつづく細長い台地の村にその人は生れた。そこは都心から50qほど離れた東京府下南多摩郡川口村楢原という古村であった。
かれの家はまた,もう一つの放浪者型の民衆像世間師" の社交場でもあった。 「西行」という名の渡世人,やくざ,請負師,バクチ打ち,土方,引退した巡査,旅役者,行商人,流れ職人,泥棒,乞食,壮士,瞽女など来訪者はひきもきらなかった。そうした底辺民衆を飽きることなく迎え送りして世話した母の社交性に、かれは文句をいいつつも目し敬服していたというのである。
地主制下の部落共同体のもっていた閉鎖性(うち者・よそ者意識),財産や身分による上下の差別意識,一身一家の利害だけを考えて嫉妬し競争しあう陰湿な社会心理,そうしたものを内側から笑い飛ばしてみせるもう一つの健康な常民性が,この「村の母」を通じて橋本義夫のなかに引き継がれていた。そのことにかれがはっきりと気づくのは1939年 (昭和14年)母春子が67歳でこの世を去ったとき,いやそれから15年後に,かれが小冊子『村の母』を深い感謝をこめて刊行したときであろう。
「私はあの方から着物の半襟を破って貰った。はいている足袋をぬいで貰った。」(おいつさん談)
「締めている帯を解いて人にやった」(井出トッ談)
「憎まれる者を選んで見舞った。工夫が暴行したとき責任をもってくれた」(清水巡査)
「自分の着物にあずけて他人を助けた。」(小池某談)
「嵐になるとその最中に村の弱い家を見廻る」(兵助さん談)
「細谷という人の未亡人は借金があり,毎月10円ずつ返済していたが,母の写真の前にぬかずいて『どうも有難うございました。何とも申しわけありません』 『私のような人間でも分けへだてなく親切にして下さいまして』と声をあげて泣きおがんでいた」(『村の母』採集メモより)
ふつう家庭婦人の間で「よく出来た人」という言葉が使われるが,それは橋本春子のような人間を指すのであろう。そういわれている人の特徴を,かれは次のように分析的にまとめている。
一, 何時でも他人に親切である(優しかりしが強かりき)。
二, 人好きで明るい。
三, 賢明であってもそれを表面に出したがらない(言葉からざりしが黙すべきを知れり)。
四, 忍耐づよく,物ごとを善意に解釈する(働きたれど常に感謝しぬ)。
五, 信頼されると快く引き受け,恩を売らない (世の多くの人々を愛して生を終る)。
六, 良人とか他人に自分の功を帰す(鮭き事は進みて為せしが誇らざりき)。
七, 概観できるが要点によく気づき,細かい心遣いがある(美を好みたれど濡れず)。
これらの箴言は、そのままかれの「御母讃」の碑銘にもなった (かれは自分の母を普遍化しようと努めた)。その除幕式にかれは大声を放って泣いたという......。早くからのかれの深い理解者で地元の考古学者の捫国男に『餡の人』という橋本義夫の半生を描いた詩から引用する。
―こどもは冬の夜,炉端で困民党事件で獄死したおぢいさん達の話を聞き憤りにふるえた
こどもはいつしか青年となった
そして餡は大正デモクラシーの波を浴びてかがやきを増し,眉毛の濃い青年はするどい絆をキラキラと未来に向けた
青年は楢原村に図書館を建てる計画をたてた
仲間をつくり読書をすすめ,この地方の教育文化運動にも飛込んでいった
昭和4年,青年は八王子の街にでて書店を開き
ペスタロッチの「揺籃を動かすものは世界を動かす」の言葉から「揺籃社(ようらんしゃ)」と名づけた
そして岩波茂雄に傾倒してここを三多摩地方の文化センターとした
青年の心にはまずトルストイや内村鑑三によって つよい愛の心がきざまれた
つづいてダーウィンによって自然科学の世界にみちびかれ 発生史的な見方を身につけ
そしてさらにヒューマニズムから 社会主義に接近し
青年橋本義夫は深まりゆく戦争の中で壮年期を迎えた
天皇制・軍国主義が荒れ狂い,さまざまな進歩的運動が挫折してゆく中でも餡を消さず
昭和16年,この土地に人材が出ないことを憂えて 多摩郷土研究会をつくった
18年には日米の戦力を分析して敗戦の結論をだし
早期終戦を願って 東条首相直訴計画を立てたりした
またきびしい抵抗の言葉を書いては店内の書棚に貼りだした
そして翌19年12月7日,揺籃社は特高警察に踏みこまれ
多摩の勇者橋本義夫は 治安維持法違反で早稲田署につながれた
昭和20年 敗戦の予告はみごとに的中した
たび重なるB2の空襲に
そのとき橋本義夫は,東京はみるみる焼野原と化して火は獄窓にまで迫った
うろたえ騒ぐ囚人たちの中でひとり平然と笑っていたという
.......
かれが地方文化運動に奔走していた1950年代というのは,今から考えてみると日本が朝鮮戦争やアメリカの冷戦戦略などを利用して敗戦の痛手から復興した時期にあたっていた。とくに国をあげて経済価値を最優先させる方針をえらび,その目標にむかって急速な技術革新を進めつつあったときであった。その中心舞台に大都市と工業地帯がなった。そのため1950年代の半ばには神武景気に賑わう中心舞台と,貧困の中に置き去りにされた地方社会や底辺社会との間に,はなはだしい経済上の格差,いわゆる二重構造が生れていた。橋本義夫はこのとき置き去りにされた側に立って,その地方社会の発展策をいろいろと考えている。その一つが教育に最重点投資を求めた人材育成による地方の復興方針であり"人間こそが最大の文化財だ。人にはものを産み出す力がある"『苗床型教育一地域に於ける教育計画』 小冊子,1960年2月),もう一つが丘陵の人文的な開発構想であった。多摩地方は丘陵が多くて当時の日本の技術ではこれが障害物になって発展が妨げられていた。「丘陵は近代が未だ消化するに至らず多くの問題が残されております」 そこでこの丘陵を人文的に開発し,東京人らを「丘へ招待」するためには,観光的・文化的施設を丘陵に作り尾根伝いに結ぶ。
.....だがこうした夢はあまりにもはかなかった。 この構想が発表されて7〜8年後には都会で異常繁殖を遂げたブルドーザーの大群が丘めがけて地響き立てて殺到してきた。万葉の人の涙を吸った黒々とした大地はショベル・カーで突き崩され,かれが逍遙した丘は無残に頭をえぐられ,雑木林はなぎ倒され,緑の蛇紋岩の岩肌は爆砕されてみるみるうちに
けされ売り飛ばされていった。丘陵は各戸と丘との生態系を保持しえてはじめて生きた丘陵といえる。多摩ニュータウンのように丘をくずし谷を埋め,緑や表土をはぎとり赤粘土の巨大な原始平面にひき戻してしまった上でコンクリート・ジャングルを林立させるという方式では,もはや人文的な開発とはいえない。それは経済効率しか考えない下等な感覚で,人間生活にたいする冒徴である。
―色川大吉『ある昭和史』
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