2023年01月01日

松谷みよ子: 正月さん信仰




松谷みよ子: 正月さん信仰
松谷みよ子『昔話12か月』
正月という声を聞くと私などはもう「正月さん正月さん♪どこまでござった♪」という歌声が耳に響いてくる。日本全国にあるそのわらべ唄は正月さんになつかしく呼びかけて,正月神の召しますことを信じて疑わない。
(関東)
お正月がござった
どこまでござった
神田までござった
何に乗ってござった♪
誰葉に乗って
ゆずりゆずりござった♪
(石川)
正月さま 正月さま
何処までござった
ころころ山の下までござった♪
猫に鰊(にしん),子供に鰹(かつお)
お祖父(じこ)に引導,父さ(つつさ)に煙草
母(かあか)に杓文字,子供に落雁(らくがん)
持たさにゃ利かん
正月さんの姿はさまざまで,福の神の姿を思い浮べるむきもあるが,やはり白髪の爺さまというのが何かふさわしい。 石川のわらべ唄のようにあれも頂
戴,これも頂戴,猫にまでお土産をねだるのである。 優しい爺様に違いない。
しかしこのお正月さまがござるまでには,前の年から準備が必要であった。 暮れに山から松迎えをする。 餅を搗く。鏡餅には米やら干柿,栗,昆布,するめなどその土地土地の習わしで飾るのである。貧しいけれども心やさしい爺,婆が心を込めて正月を迎えるとき,さまざまの奇瑞が顕われる。それらの話は大歳の夜として十二月に多く収めたがここに
集めた歳徳(とくとこ)さんのはじまり,沖の乙姫さまもみな貧しく心やさしい人びとの願望が語り込められている。
それにしてもお正月さんがやってこないのでさがしまわったら溝にこけて唸っていた。「ほりゃ大事だ,お医者さん迎えましょか」いうたら,お正月さんが「医者もいろん,薬もいらん。 わしゃやっぱり灸(旧)がええ」
といった途端消えてしまったという,お正月さんがやってこんという話は興味深い。長い間陰暦で正月を迎えてきた人びとにとって,新暦の正月は馴染めないものだったに違いない。おそらくは季節の感触もおのずから違っていただろう。春を迎えるという心持と新しい年を迎えるという心持が違和感なく融け合っていたのではなかろうか。

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お正月さん
(山梨県「甲州昔話集」,土橋里木)
昔,お正月さんという人ンあった。なかなか世間持ちの荒い人で,良え着物を着て遊んで暮らし,餅を搗いたり,酒を飲んだり,お吸物をこしらえたり,うどんでもこしらえて食ったり,まずまず奢りのつかさをやった。
そして元旦から七日の間に,あるだけの家中の身上をみんな食ってしまい,七日目の日にはもう何にも食う物がなくなって,仕方なしにセリだのナズナだのハコベラだの何だの七色の野菜を集べて来て,ようようそれをお粥にして食った。それでとうとう親たちも大へん怒って,その日のうちにお正月さんを家から追い出してしまった。
それからお正月さんも後悔してホンダレ(穂垂れの意勝の木を用いる)を下げても,ぼろを下げてもええからもう一ぺん家へ帰りたいと言って親たちの前へ行ってよく謝り,とうとう14日の日に家へ帰ることを許された。そしてそれからはすっかり真面目になってよく働いた。
それから後,誰いうとなく「そんだから世間はえらい」というようになった。

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正月神
(新潟県・「吹谷松兵衛昔話集」 野村純一)
あったってや。あるどこい,爺さが,正月が来るんだんが門松結うたってや。そうしたら,くずべっこ (小さな子)が来て
「爺さ,爺さ,松が傾がる,松が傾がる」
ってそういうたって。
「いらんことこきやあがんな!」
そうしてまた一所懸命結うてたら,また
「爺さ,爺さ,松が傾がる,松が傾がる」
ってそういうたって。
「いらんことこきやがんないや,あっち行ってけっかれ!」
ってそういうたって。そうして、また一所懸命でしていたら
「爺さ,爺さ,松が傾がる,松が傾がる」
ってそういうたって。
「こん餓鬼や,うるさい餓鬼だな,今日てえ今日は許さんぞ。結ぐもんだってがんにそんつんことこきやがって!! いっこ今日てえ今日は許さん。こん餓鬼めや!」
っていったら,逃げて行きやがるって。
「ここまでおいで, ここまでおいで」
って逃げて行きやがるって。
「この餓鬼めや!! 人,馬鹿んしゃあがって。今日でえ今日は許さん」
っていうて,迫っ掛けて行ったってや。そうしたら,グングングングン逃げて行くんだんが,追っかけてったら,橋の下い,ツルンて入ったってや。 ほして
「そんつあんとこい隠れたって却さねい。 今日で今日は許さんぞ!」
っていって,橋ん下まで追っ掛けてってや。ほうしたら,いっこ,金袋が南京でひとつ,川ん中い落るばっかしんなって,傾がってたってや。 ほうしてその金をかつねて来ていい正月したっけってや。

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2022年06月02日

色川大吉『ある昭和史』〜かつて日本に存在した「常民」という人達


色川大吉『ある昭和史』〜かつて日本に存在した「常民」という人達
ほろびゆく常民
■かつて日本に存在した「常民」という人達
高度経済成長がはじまったこの20年ほどのあいだに,外観的には日本が一変してしまったことは内外の識者のひとしく認めるところである。国土の外観ばかりではない,社会の基部も底なだれのように崩れたと私は思う。それは明治百年の変化を十年間に圧縮したような激しさであって,それは革命なき革命であった。たしかにこの十数年の間に,数百年の歴史をもつ村の多くが亡び,常民が亡び,古い生活様式や共同体が亡んだからである。
想いかえせば30年前,敗戦の後,解体した天皇の軍隊から故郷にもどってきた私たちはつくづくとあたりを眺めまわし「国敗れてもなお山河あり」と呟いたものだ。それが今は国はあれど山河も村も破れてないのだ。そのためであろうか。この5〜6年来,柳田国男ブームがつづき,私たちの分野でも民衆史や民衆思想史研究の気運が高まっている。
柳田学の対象は常民である。その常民が死に絶えつつあるというので,あるいは人びとは懐しんでいるのであろうか? もしそうだとするならそれは感傷であろう。私は曳かれ者の小唄は聞きたくない。亡びゆくものはしかたがないのだ。むしろそれに代る新しい共同体や新しい常民がどのようにして創られつつあるか,その方向に関心をふりむけたい。
常民とはなにか?庶民でも平民でも人民でもない,柳田国男らによる造語だが, かれらはそこに次のような内容を託そうとしていた。常民とは山人などとは違う里人であり,通常は農耕や漁労に従事し里に定住して漂泊などはしないもの。そして祖先から子孫にわたる「家」の永続をねがい,その生命の連鎖と自然との共生と愛慕の交換とを喜びとして生きてきた。目に一丁字なくとも事理を明らかに解し判断力に富むが,文字をあやつって表現する能力はない。だが民族の内部生活の歴史を胸に保管し固有信仰を保持し,それらを人生行事や生活の知恵とともに説話伝承として次代の人びとに伝える文化的役割を果してきた。常民とはそうした民衆の性質をさすのであり,またそうした生活のしかたを通じて歴史を基底から動かしてきた。
常民を実態的なものとみるとき,かれらの場は地域共同体である。そこではかれらはつねに「官」にたいする「民」であり,政治にたいしては一定の距離を保つ。いわば食足り心満ちれば鼓腹撃壌して「帝力われにおいて何かあらんや」と唄う自治境の民である。そうした原理的な意味もこの「常民」の概念にはこめられてよいと私は思う。日本の中世末期,15〜16世紀には村落共同体が成立し,その後幾度かの時代による変容をへながらも20世紀の前半まで理念的にはこうした常民は存在していた。
しかし現実にはこれは”幻視の楽園≠ナ,明治以降,資本制と地主制の支配下で村落共同体と住民は差別と抑圧のうちにゆがみ常民の精神も崩れつつあった。そしてさらに最近の20年,大資本の直接の制
下に根底から全面的な解体と変容を余儀なくされている。
■橋本義夫〜「常民」継承の闘い
これから述べるのは,この常民を愛し常民とたたかって,惨澹たる失敗と挫折をかさねた人の精神史である。日本の民衆の愚かさと格闘して生きた現代の常民である。彼はひとりの農家の子。自分の生れた土地の不毛性を呪いながら終始そこに踏みとどまり,農学校以外にとくべつな学歴もなく,村びとの慣習的な世界に育ったが,その常民の半面の狭隘な性格に絶望し,それに打ち克つべく自己自身とその地域を改造しようとあらゆる実験を試みた。16歳で自我にめざめてから50年,一日も厭世の想いからまぬがれることがなかったという。 かれはじっさいに三度も自殺をはかっている。かれは自分の内部に常民である部分と常民でない部分との裂け目を自覚し,その悩みを柳田国男と同じように 学問の平安の中に静視することができず,かえって一日早く目ざめたものの責とそれを果しえない罪にまみれて苦闘したのである。この人を狂気とののしり,患者と嘲笑した地域の民衆は,この人がかれらに代ってその疾患を苦しんでいたことに気づかなかった。かれが終始口にしていた「実験的生涯」のその度重なる失敗の跡から「古き常民像をこえた」日本の新しい展望がどのようにひらかれるかを見たいと思っている。
1902年(明治35年) 3月13日,桑畑と麦畑が街道に沿ってつづく細長い台地の村にその人は生れた。そこは都心から50qほど離れた東京府下南多摩郡川口村楢原という古村であった。
かれの家はまた,もう一つの放浪者型の民衆像世間師" の社交場でもあった。 「西行」という名の渡世人,やくざ,請負師,バクチ打ち,土方,引退した巡査,旅役者,行商人,流れ職人,泥棒,乞食,壮士,瞽女など来訪者はひきもきらなかった。そうした底辺民衆を飽きることなく迎え送りして世話した母の社交性に、かれは文句をいいつつも目し敬服していたというのである。
地主制下の部落共同体のもっていた閉鎖性(うち者・よそ者意識),財産や身分による上下の差別意識,一身一家の利害だけを考えて嫉妬し競争しあう陰湿な社会心理,そうしたものを内側から笑い飛ばしてみせるもう一つの健康な常民性が,この「村の母」を通じて橋本義夫のなかに引き継がれていた。そのことにかれがはっきりと気づくのは1939年 (昭和14年)母春子が67歳でこの世を去ったとき,いやそれから15年後に,かれが小冊子『村の母』を深い感謝をこめて刊行したときであろう。
「私はあの方から着物の半襟を破って貰った。はいている足袋をぬいで貰った。」(おいつさん談)
「締めている帯を解いて人にやった」(井出トッ談)
「憎まれる者を選んで見舞った。工夫が暴行したとき責任をもってくれた」(清水巡査)
「自分の着物にあずけて他人を助けた。」(小池某談)
「嵐になるとその最中に村の弱い家を見廻る」(兵助さん談)
「細谷という人の未亡人は借金があり,毎月10円ずつ返済していたが,母の写真の前にぬかずいて『どうも有難うございました。何とも申しわけありません』 『私のような人間でも分けへだてなく親切にして下さいまして』と声をあげて泣きおがんでいた」(『村の母』採集メモより)
ふつう家庭婦人の間で「よく出来た人」という言葉が使われるが,それは橋本春子のような人間を指すのであろう。そういわれている人の特徴を,かれは次のように分析的にまとめている。
一, 何時でも他人に親切である(優しかりしが強かりき)。
二, 人好きで明るい。
三, 賢明であってもそれを表面に出したがらない(言葉からざりしが黙すべきを知れり)。
四, 忍耐づよく,物ごとを善意に解釈する(働きたれど常に感謝しぬ)。
五, 信頼されると快く引き受け,恩を売らない (世の多くの人々を愛して生を終る)。
六, 良人とか他人に自分の功を帰す(鮭き事は進みて為せしが誇らざりき)。
七, 概観できるが要点によく気づき,細かい心遣いがある(美を好みたれど濡れず)。
これらの箴言は、そのままかれの「御母讃」の碑銘にもなった (かれは自分の母を普遍化しようと努めた)。その除幕式にかれは大声を放って泣いたという......。早くからのかれの深い理解者で地元の考古学者の捫国男に『餡の人』という橋本義夫の半生を描いた詩から引用する。
―こどもは冬の夜,炉端で困民党事件で獄死したおぢいさん達の話を聞き憤りにふるえた
こどもはいつしか青年となった
そして餡は大正デモクラシーの波を浴びてかがやきを増し,眉毛の濃い青年はするどい絆をキラキラと未来に向けた
青年は楢原村に図書館を建てる計画をたてた
仲間をつくり読書をすすめ,この地方の教育文化運動にも飛込んでいった
昭和4年,青年は八王子の街にでて書店を開き
ペスタロッチの「揺籃を動かすものは世界を動かす」の言葉から「揺籃社(ようらんしゃ)」と名づけた
そして岩波茂雄に傾倒してここを三多摩地方の文化センターとした
青年の心にはまずトルストイや内村鑑三によって つよい愛の心がきざまれた
つづいてダーウィンによって自然科学の世界にみちびかれ 発生史的な見方を身につけ
そしてさらにヒューマニズムから 社会主義に接近し
青年橋本義夫は深まりゆく戦争の中で壮年期を迎えた
天皇制・軍国主義が荒れ狂い,さまざまな進歩的運動が挫折してゆく中でも餡を消さず
昭和16年,この土地に人材が出ないことを憂えて 多摩郷土研究会をつくった
18年には日米の戦力を分析して敗戦の結論をだし
早期終戦を願って 東条首相直訴計画を立てたりした
またきびしい抵抗の言葉を書いては店内の書棚に貼りだした
そして翌19年12月7日,揺籃社は特高警察に踏みこまれ
多摩の勇者橋本義夫は 治安維持法違反で早稲田署につながれた
昭和20年 敗戦の予告はみごとに的中した
たび重なるB2の空襲に
そのとき橋本義夫は,東京はみるみる焼野原と化して火は獄窓にまで迫った
うろたえ騒ぐ囚人たちの中でひとり平然と笑っていたという
.......
かれが地方文化運動に奔走していた1950年代というのは,今から考えてみると日本が朝鮮戦争やアメリカの冷戦戦略などを利用して敗戦の痛手から復興した時期にあたっていた。とくに国をあげて経済価値を最優先させる方針をえらび,その目標にむかって急速な技術革新を進めつつあったときであった。その中心舞台に大都市と工業地帯がなった。そのため1950年代の半ばには神武景気に賑わう中心舞台と,貧困の中に置き去りにされた地方社会や底辺社会との間に,はなはだしい経済上の格差,いわゆる二重構造が生れていた。橋本義夫はこのとき置き去りにされた側に立って,その地方社会の発展策をいろいろと考えている。その一つが教育に最重点投資を求めた人材育成による地方の復興方針であり"人間こそが最大の文化財だ。人にはものを産み出す力がある"『苗床型教育一地域に於ける教育計画』 小冊子,1960年2月),もう一つが丘陵の人文的な開発構想であった。多摩地方は丘陵が多くて当時の日本の技術ではこれが障害物になって発展が妨げられていた。「丘陵は近代が未だ消化するに至らず多くの問題が残されております」 そこでこの丘陵を人文的に開発し,東京人らを「丘へ招待」するためには,観光的・文化的施設を丘陵に作り尾根伝いに結ぶ。
.....だがこうした夢はあまりにもはかなかった。 この構想が発表されて7〜8年後には都会で異常繁殖を遂げたブルドーザーの大群が丘めがけて地響き立てて殺到してきた。万葉の人の涙を吸った黒々とした大地はショベル・カーで突き崩され,かれが逍遙した丘は無残に頭をえぐられ,雑木林はなぎ倒され,緑の蛇紋岩の岩肌は爆砕されてみるみるうちに
けされ売り飛ばされていった。丘陵は各戸と丘との生態系を保持しえてはじめて生きた丘陵といえる。多摩ニュータウンのように丘をくずし谷を埋め,緑や表土をはぎとり赤粘土の巨大な原始平面にひき戻してしまった上でコンクリート・ジャングルを林立させるという方式では,もはや人文的な開発とはいえない。それは経済効率しか考えない下等な感覚で,人間生活にたいする冒徴である。
―色川大吉『ある昭和史』

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2019年08月01日

性器崇拝

○性器崇拝
多摩市の落合地区にあった神社に、男性の性器を模(かたど)った柱があった。
神のことを「柱」と数えるのは、このことに関係があるのかもしれない。と、私(黒田康太)は思う。
なぜならば、『古事記』の冒頭に
 <独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して、身を隠しき。>
というくだりがあるからである。
つまり、そもそも最初の神はイザナギとイザナミのようなカップルではなく独身の神であったらしい。
そこで、手っ取り早く性器で数え「柱」という日本語学者チェンバレンの命名による名付け数詞を用いたのではないかと私(黒田康太)は思う。
また、男神と女神が出てきても
「天(あま)の御柱(みはしら)」
などがさらにあるのは、もしかしたら性器崇拝がすでに太古からあったようにも、思えるのだが、……。
しかし、上の記述は間違っているかもしれない。
いろいろなところに、性器崇拝の面影が残っている。例えば、
擬宝珠(ぎぼし)
である。橋の欄干に付いている柱の上端。
そこには、宝珠形の装飾がしてある。
おそらく、そのデザインのルーツは男性のもの(オチンチン)であろう。と、私はいつも個人的に思う。
さらに前の時代である。それが恥ずかしいことなどと思ったりすることはなく、神聖なことだと考えたのである。
例えば川崎市多摩区にある川崎市教育委員会が立てた「五所塚と権現台遺跡」。
そこには、
「男根を模した二本の石棒が据えられ、狩猟にまつわる祭りを行ったと思われる」
などと記述されている。私も、まったくその通りだと思う。
○性器の暗喩
実際に言ってはいけないことを差し障りなく言ったり、書いたり、作ったりすることがある。
そのような例は、宮武外骨の著作や国芳の浮世絵にある。伏字(ふせじ)やだまし絵などにすることも多い。
(注) 宮武外骨(みやたけがいこつ 1867〜1955)は、作家・文化史家。大阪で「滑稽新聞」を発行。著作は、『筆禍史』など。
歌川国芳(うたがわくによし 1798(寛政9)〜1861(文久元))は、江戸時代末期の浮世絵師。
葛飾北斎や歌川広重らの人気絵師に比べ、「奇想の絵師」として注目される。
『水滸伝』のシリーズが評判となり、30歳を過ぎて人気絵師になった。多くの門弟がいて河鍋暁斎も、その一人。
布田駅北にある常性寺の境内におられる像。
日本では七福神と言い、神の一人。
しかし、もしかして布袋さまだったら実在した人物かも。
七柱の中に一人だけ、歴史上の人物がいるらしい。
それはともかく、ここでは弥勒菩薩の化身と考えておこう。でも、何に座っているのか? 
大黒さまだと、米俵に乗っていることが多い。また、寿老人や福禄寿だと鹿や鶴に乗ることもある。
私は、非常に不遜なことを考えている。この神さまの下にある袋状のものについて。
つつじヶ丘駅北口前にある金竜寺。その境内。
いったい何で下のような像が、由緒のある寺の境内にあるのだろうか。
おそらく、前に突き出ている二つのフグリ、つまりキンタマに意味があるのであろう。
この狸では、大きさがあまり誇張されていない。
それでも、手足と比べて大きいことは事実。
また、境内に多くの狸を祀っている寺が、千歳烏山駅北にあった。常福寺である。
その謂(いわ)れなどについても住職に聞くなどして、調べてみたいとも思う。
野川の又住橋の左岸(東)側にある石龍本店にあった。いわゆる狸である。
腹が出ているところは、上の神さまと同じ。しかし、狸だけあってオチンチンの袋も大きい。
俗に言う「狸のキンタマ八畳敷き」である。後ろには、観音様がましますのに、左側の手水(ちょうず)の前には桃。それが、何を表わすかは狸の向きからも自ずと明らか。
言うか言わないかで、世の中のものは露骨なことを暗喩していることが多い。
日本の神さまが、「○おおらかなセックス問答」で述べたように、はっきりと言わなくなってしまったのは、かなり後のことである。と、私は思う。
さらに、詳細は「布田駅周辺」の「○野川沿岸」をどうぞ。
なお、たぬきのキンタマが実際に大きいのかどうかを私は調べたわけではないのでわからない。
歌に、
<たんたん狸のキンタマは、風もないのにブーラブラ。……>
とあるくらいだがら、少なくとも目立つことは事実かもしれない。
○摩羅・金玉・ペニス
摩羅と金玉とペニスは、間違いやすい。
確認のために、蛇足ながらまとめておこう。
「摩羅」(まら・マラ)
は、「摩」の字を「魔」として「魔羅」と書くこともある。
サンスクリット語の「マーラ」の音写で、そもそも「障害」の意味。
それが、仏教の言葉として
「修行や善事を妨げる悪神」
「魔王、つまり欲界第六天の王」
「悟りの妨げとなる煩悩」
などを意味するようになった。
後に転じて、排泄する意味の「まる」までを含むようになった。
「おまる」などという言葉は、いまだに用いられる。
それが、なぜか男性の「陰茎」「男根」「ペニス」にまで及んだ。
もしかしたら、「悟りの妨げとなる煩悩」と関係があるのかもしれない。
金玉(きんたま・キンタマ)
は、文字通り「金色の玉」。しかし、俗称として「睾丸」(こうがん)を意味する。
つまり、男子の金の玉である。ふぐりということもあるようだ。
ペニス(penis)は「陰茎」「男根」のラテン語で、医学分野で用いられる言葉。
しかし、ここではあまり厳密な意味で区別をしない。
金玉(キンタマ)は、実際にはペニスと一体(または対(つい))にして考えたほうがよいのかもしれない。
狸(たぬき・タヌキ)の像や図では、棒状(男根・ペニス)の部分は小さく、むしろ金玉(ふぐり)の部分が非常に大きくなっている。
ペニスの部分に限って言うならば、哺乳類の場合身体に対していちばん大きなのは、どうやら人間みたい。
また、「体のサイズに対して、ペニスがいちばんでかいのはフジツボ」。
ただし、これはテレビドラマの中でドクターHOUSEが言った会話なので、私には真偽のほどはわからない。

青空のホームページ
http://www.geocities.jp/rikwhi/riko/bun_anritu/kami_gainen.html






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2011年02月03日

ウトナピシュティム

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地の果てのある島に、世界でただひとりの死をまぬがれた人間が住んでいるという事をギルガメシュは知った。かなりの老人で、名前はウトナピシュティムという。ギルガメシュはこの老人に会って永遠の命の秘密を教わろうとした。
ギルガメシュはただちに旅路についた。そして長く旅を続け、ついにその島にたどりついた。島は一対の峰が天にとどき、はるか地獄の奥底にまで裾野がとどく山があった。山の前には重々しい入口があった。そして入口には半分人間、半分サソリの怪物が大勢で番をしていた。
ギルガメシュは怪物たちに、老人に会いたいと言った。怪物たちはギルガメシュの体格、存在に感じ入って扉を開けた。
扉の中は暗く、進むごとにさらに暗さは増していった。闇に終わりがないと思われた刹那、一陣の風が吹いて一条の光が闇を縫って刺し入った。ギルガメシュは宝玉がたわわに実る木々にかこまれていた。地上の楽園だった。ギルガメシュはさらに老人のいる場所目指してすすんだ。やがてどこからみても旅の宿だと思われる一軒の家が目に入った。その家にはシドゥリという女が住んでいた。
シドゥリは言った。
「あなたの探していらっしゃるものは見つけ出す事が出来ないものですわ。だって、死というものは神様が人間をおつくりになった時、神様は人間の取り分として人間に死をお与えになったのです。ですから分け前分だけの命をお楽しみくださいませ。飲んだり食べたりして楽しく過す。それが生きる事の意味でしょう?でもどうしてもお行きになされるのなら大洋を渡っていく必要があります。この家にいる船頭ウルシャナビに案内させましょう。」。
ギルガメシュはウルシャナビが乗る舟に乗り老人のいる島に向かった。ウルシャナビはウトナピシュティムのおかかえの船頭だった。
その海の水は死の水だった。触れると人は死んでしまう。そのため、舟のオールは水に濡れるたびに捨てる必要があった。やがて2人はオールを使い果たし、舟はただよう他なかった。やがて舟はウトナピシュティムのいる島に打ち寄せられた。そこにウトナピシュティムが立っていた。
船頭ウルシャナビはウトナピシュティムに事情を伝えた。
老人の目に遠いものをみるような色が浮かんだ。そしてウトナピシュティムは面をあげてギルガメシュに微笑んだ。
「よろしい。秘密を教えよう。」。
こう言って、ウトナピシュティムは、昔神々がおこした大洪水の話、知恵の神エアが風をおこして警告をした話をはじめた。
「風の音で小屋の格子がカタカタ鳴った。エアの合図だと思った。わしはエアの合図に従い、一そうの方舟をこしらえた。松ヤニやアスファルトでしっかり表面を塗り固めてな。そして家族と家畜と一緒にその方舟に乗った。海の水かさが増してきた。嵐は猛り狂った。稲妻がはしった。嵐は七日七夜続いた。方舟は水の上をさまよった。
七日目、方舟は世界の果てにあるある山にのりあげた。わしは、水がひいたか調べるため1羽の鳩を舟から放った。鳩はすぐに戻ってきた。とまる場所がないという事じゃ。次に1羽のツバメを舟から放った。ツバメはすぐに戻ってきた。とまる場所がないという事じゃ。次に1羽のカラスを舟から放った。カラスは戻ってこなかった。わしは家族と家畜をうながし、神に祈りを捧げた。そこでふたたび風の神が風をひとふき吹いた。すると舟はまた流され、この島に流れついた。以来、わしはこの島に住んでおる。」。
ギルガメシュはこの話をきいて、不死を求めてのこの旅が無意味である事を悟った。ウトナピシュティムが永遠の命を得たというのは、神の特別の計らいによるものだった事がわかったからだ。
老人は英雄の疲れきった表情をながめ、眠るよう言った。
ギルガメシュは6日6晩眠った。そしてふるさとウルクへ向かった。
-H.ガスター著「世界最古の物語」

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エア(Ea):バビロニアの神で、天の神アヌの子。シュメール神話の水神エンキに相当する。
神々を滅ぼそうとしたアプスーを倒し、ダムキナとのあいだにマルドゥクを儲ける。
祖父アンシャルの許しを受け、息子の代わりとしてティアマトに立ち向かうが恐れをなして退却。のちにマルドゥクがティアマトを倒した際、息子に命じられて太陽の統治を任された。また、キングの骨と血から人間を創造した。
『ギルガメシュ物語』では知恵の神とされ、ウトナピシュティムに方舟を作るように命じる。

立体鳥類模型店
http://blogs.yahoo.co.jp/hama0saya/9331477.html




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