坂口成事: 古代黄泉がたり/ 26.1.6
▲2026.1
△26.1.6
祖先の墓がある多馬名(現玉名、筑紫宮所があった場所)は玉杵名として名が韓半島まで知られていました。
馬は杵(きね、午)の事なのでそのままの名ではあります。その杵は神を鏡として真似て映す鏡餅(神の子)をつくためにあります。その杵を受けるウス(熊本の球磨でヤマトタケルの名を襲名した“おうす”とは耶馬渓(私が生まれた岩戸山)の事)です。その上の拝ヶ石(おかみの石)のおかみとは亀石を祀った景行天皇の事です。
その臼(臼杵)の形をしたオリオン座は日本では鼓星と云われますので、祖先の土地であった歌詠み場は鼓ヶ滝の名になりました。鼓は空洞であるため音が鳴ります。世界は空であるため物が成って(生まれて)いるのです。その歌詠みの秘密を知るために、天皇の歌詠みの先生だった清原元輔や大和歌を代表する檜垣が人生をかけて修行をしています。
熊本の岩戸山は世阿弥の能の舞台にもなっています。私自身、山部赤人が生まれた岩戸山の黒岩(星を観測する所)の同じ耶馬桃の木の下で生まれています。その鼓の脇(馬頭星雲)から生まれて来るので馬宿(厩戸)なのです。それは釈迦が摩耶の脇から生まれて来る仏話でもあり、厩戸で生まれたイエスが雲に乗って来ると云う謎の真意でもあります。また、岩戸山を代表する仏は雲に乗って来る仏(他の投稿に載せています)であり、私が生まれた場所の真下の地下の洞窟(宮本武蔵が五輪書を記した霊巖洞)には一般には公開されない四面馬頭観音が安置されています。
これは黙示録では四邪馬でありますが、皆様方がご存知の四神(四龍)の事です。耶馬の地が邪馬土と別記される由縁でもあります。その臼杵からの誕生を見守るのが龍宮に住む天帝である北極星(父、亀)と北斗星(母、鶴)と云うわけです。また、龍宮(龍座北極星)に住む東海龍王(天帝)が持っていた石が私が伝承する龍目です。
△26.1.5
隼神が如何に速くとも、鈍いあなたが勝つ仕組みは、あなたがゴールだからです。神々天地万象全てが、ちょうど映像が浮かんで消えるスクリーンのように白神のあなたに帰依するので、イエスは全きものだと申しましたし、神名では正勝吾勝勝速日なわけです。
度々載せる芳山の阿知王殿ですが、室内外の時空が渋滞しています。実は渋滞していない当たり前の景色が何時も何処でもあなたの前にある事が奇跡(目に止まらない速(隼)神の仕業)なのです。またイエスが全きもの(神の子)であるなら山をも動かす事が出来ると申しましたように、背景の熊山が私の頭に変わっていっています。
△26.1.5
私たちの目は、気づこうと気づきまいと、私の中の宇宙、宇宙の中の私の二面(2つの太陽(光)の世界)×顕幽神三界=6面の来常(狐)、不動、行碁(田貫、狸)の三動の666の十八(お箱、ユダヤのアーク、玉名の玉手箱)の摩耶可視(マーヤ、悪魔、自他の出現による善悪を判別する木の実)の視点面があります。
それは救済の観世音が十八面の顔を持つベースがあるという事で、全てが人を悟りに導くための方便詐欺と云うわけです。その詐欺にかかっている間は、私が化けた多くの他人が存在し、その隙間を埋めて(玉を詰めて)、元のーつになってゆくのがホルスの目(幸(分)霊玉詰め結び△▽□です)。エジプトの壁画のように、私にも青鷺が近づいて摩耶可視の舟に乗せようと試みますが、すぐに諦めて逃げてしまいますね。
△26.1.5
砂鉄を分離する水道が真横にある実家では、私が生まれる直前までフクロウを飼っていました。
目を瞑るフクロウは、古代はタタラ製鉄で目をやられないための守り神だったそうです。
ところが、そのフクロウを神としたものは元々は敵(八十梟(フクロウ)、筑紫(元は高来の中心地)で荒れた磯城の高句麗人、もうーつの熊襲)として現れ、その敵の慰霊のためもあるという複雑さです。
そのフクロウを愛した鍛治職人だった父によると、よく知られる縄文の土偶はフクロウと鮫(鰐)で、フクロウはタカミムスビである内なる(夜の)世界、鮫は北極星だそうです。
△26.1.5
芳(金峰)山の千金甲古墳から海に出る梅洞や、その並びの鰐洞(私のプロフィール写真)、塩屋は、砂金や塩の輪出拠点であったと思われます。
子供の頃、実家の畑前に飛び込み台まであった海での遊泳が禁止になってから、町営プールに運ばれていた土砂から砂金を拾って遊んでいました。
ところで、古代中国の勾呉の姑蘇のキの梅里にはフェニキア人が居て、彼らが熊本(阿蘇)における鉱物資源に関わっていたのではないかと考えています。
私の飼い犬が来た梅洞の綿津見神社は、そのフェニキア人の信仰が元であったと思います。
ここから玉名北端に至るまで、海岸には数十社の綿津見神社の痕跡(今は別の名の神社)があります。
フェニキア人は紫貝を好み、火(赤)と水(青)が交わる紫色は神色として紫貝染めをしていました。
それはそのまま筑紫のアカニシ貝による紫貝染めになります。
また梅も紫蘇染めされますね。
ところで、皆様方が謎とされる縄文火焔土器は、実は火と水を合わせるフェニキア人の神道です。
祖父や父が宮総代を勤めた神社の手水舎の磐座もフェニキア人(綿津見)の神道ですね。
△26.1.4
耶馬門(ヤマト)の磐余〜大和(郡山)の磯城船の大王(古代の天皇)は、熊本宇城(郡浦)の馬門石の墓石に眠る。郡の‘こうり”こうの”とは高句麗の事である。
その熊本の馬門石は木星の赤斑色を示している。その木星を王の星とするユダヤだが、日本人は赤飯で祝う。
門松(艮の金神)として立つ夜狄けの番(つがい、夫婦)である鶴(北斗星)と亀(北極星)。昴の七つの星々は次々に月の燭台(メノーラ)に乗り七つの月(ユダヤでは正月、日本では洪水明けの七草粥と七月の祇園祭の船、釈迦(おうし座ゴータマ王生誕)の七歩)は動く(昴(素戔嗚尊、戈成)を名乗るものが門を開く)。その時、冬の六大星座である籠星(ユダヤの六芒星は籠星を隠した表現)の中に木星が入り目となる。それはクマ・エロヒム(神が立つ)意味でもある。それが籠目の真意であり、高句麗が来目(久米)と名乗った真意である。そのため、高句麗(クマ)の後裔である人吉球磨では目の名の遺跡や名字が多い。
ところで、私の旧本籍地の須原(昴)の上の拝ヶ石(おかみの石、古代天皇の石)では、キリスト教でもないのに毎年日が変わるイースターの日に亀石を祀る。亀石は実家の屋号であるので、当然その亀石(イースターエッグ)が何を意味しているのか伝わっている。この甲羅(高良、高句麗)の六角形が籠星なのである。その籠星の中の鳥(籠目、木星)は、目隠しで悟るあなたの影の後ろの正面”である真我(一人子)を示す示し家(〆シヤ)だ。
△26.1.4
これまで証してはならないと云うヨハネが観た幻を証してきた。倒れた獅子の蘖たちにも立つように声をかけてきた。特に黙示録の13章は今の覇王たちを証している。
ところで、“この門はあけておきなさい”とエルサレムにロバで入城するイエスが申したように、当時はローマだったが、覇王たちに力を与えているのは、あなた方が自身の門(阿毎の磐戸)を閉じているからだ。そのイエスは中央アジアの天狗利山の麓まで生きていた。ロバは誰も寝る所を提供しなかったための夜営のために、必要な荷物を積むためであったが、今度は砂漠を渡るために必要な駱駝に乗り換えて渡った。駱駝である陀は、後に西方浄土の阿弥陀仏信仰となるのである。
かってーつの祖先は天安(承久)門がある北京(燕)からやって来た。弓月から燕に渡った教祖(イエス)の子孫(イナリ、戈成、アダムは成す人の意)だと名乗った。そのために上陸した海岸は弓月(ゲンゲツ、実家の畑)と呼ばれた。
私はその地の天岩戸の洞窟の上にある黒岩(古代に馬頭星雲で宿星(雲に乗って来るもの)を観察した場所、馬宿、現在は黒岩展望所)で生まれた。写真は弓月の海岸と、岩戸山の雲に乗って来る仏と黒岩展望所です。
△26.1.3
松山でー年を過ごした夏目漱石は熊本で家庭を持ち4年半を過ごしました。その間に芳山を歩いて越えて通ったのが八久保と那古井で、祖母によると世界情勢を聞きに来ていたそうです。五高(熊本大学)の教授がわざわざ通っていたのですから興味をひいたのかも知れません。そんな民家も少ない峠の茶屋など田舎を描いたのが草枕です。八久保には上皇上皇后両陛下が皇太子皇太子妃の時にお越しになられた碑と共に夏目漱石の歌碑があります。筑紫一帯を見渡せる景色だけでなく、菊池川一帯に日本全体の二割近くの装飾古墳が出土するわけは、この八久保が高句麗(八咫烏、久米)を隠しているからです。
ところで、吉野の磯漕ぎの謎ですが、これは船底が龍骨ではなく平たいために、水深が浅い磯辺川辺を進める高句麗の城(軍)船です。それは尾張に移り住んだ古伊勢の磯部磯野の人たちの祖先です。伊勢に奉納されていた古代文字が熊本球磨の古代文字であるのは、伊勢は五瀬の高句麗の神道が元だからです。瀬降津瀬昇津の五瀬(斎瀬)の神道は禊ぎの神道(古代ユダヤ教)でもあります。また、熊本の玉名那古井は尾張那(名)古屋の古代の元でもあると云う事ですね。そして熊本の邪馬嘉国の熊入の弁慶ヶ穴古墳では、馬を空母の艦載機のように載せた磯城(いそぎ)船が描かれていますね。
△26.1.3
祖先が河内山の頂上付近に大津波対策をした一方、祖先の墓の地名(野見崎)が古代の船大工(墓の前で相撲(スマイ)を取る風習)の名であるのは、船が暮らしの中心だったからだ。そして須原(昴、春秋を分ける彼岸の星)が旧本籍地名であるのは、この日を境目として海に出やすい海風海流となるからだ。
祖先は五島列島を経由して韓半島→出雲丹波北陸への日本海ルートと、阿多阿曽を経由し四国熊野那古屋駿河鹿島に至る太平洋航路を持って四年でー周していた。また、熊本から大和の大王の墓石が運ばれた瀬戸内海航路は、それらよりはるかに後世に確立されたものである。それが出雲の神在月(祖先の墓上は上有所、かみうそ)であり、茨城水戸の火の国まつりでもある。
ところで、私の店のブランドであるラ・プラントは、今のところ世界で最も古い遠洋航海の証しが沖縄北谷や韓国釜山にある、曾畑遺跡の上で施設経営をされている方から無償でいただいた看板である。もちろん、実家の口伝など誰にも話していない30年近く昔の事である。(FBを始めてから口伝を公開)
そこで海の縄文人として私の夢に現れる黒色肌の子供(私の前世?)がラプタ人である。そのラプタはヒラヱプラという13000年前に大津波で滅んだ島の名だ。比日仁育と漢字で記すとー字で熊となり、須原(旧本籍地)が熊本の熊山である意味でもある。そしてその熊山は、出雲の元のーの宮の熊野神社のヒモロギの(神が降り宿る)山でもあるのだ。
因みに、スタジオジプリは、祖先の墓下の那古井を研修先としています。実際にアニメの中で那古井館が出て参ります。その中で巨人(神)兵は同じ玉名(多馬名)の江田船山古墳、天空の城は日本農村景観大賞に輝いた下有所(しもうそ)の実山(げんやま)ではないかと思われます。
△26.1.2
上泉伊勢守が興した新陰流とは如何なるものだったのでしょうか。もちろん新陰流の諸派諸先生方は今の世も堂々と存在なさるわけですが、四天王の一人で御所にも付き添って剣術を披露していた最側近の丸目が、なぜ同門の柳生に死合を申し込んだのか不思議です。剣術の技量では四天王の丸目が上ですが、死合をする事がそもそも伊勢守の意にそぐわなかったのです。また丸目(タイ捨流)は、柳生の出世に嫉妬していたわけではありません。なぜなら、西日本の蒼々たる大名を弟子としながら、自らは球磨の錦町(一武)で田畑の開墾をしていたのですから。
その子孫の故丸目千之助さんは、毎年実家の蜜柑の収穫の手伝いに来られていました。何事も鈍まな祖父を慕っておいででした。ある時、自宅から遠い蜜柑山で家長である祖父が誰の車にも乗っていないので来てない事に気づき、母が刺身を持って来るのを忘れてしまったので私が祖父を探しながら刺身を取りに帰ろうとしたところ、ちょうどの所で祖父が来ました。その手には刺身だけでなく、近所の肉屋さんからの差し入れの馬刺もありました。
千之助さんがおっしゃるには、鈍いのは最も早いからだそうです。祖父は日本軍最前線の島々に何度も送られながら、お亡くなりになられた方々には申しわけありませんが、人を殺さず生きて帰郷したものです。祖父が申していた、自らの手から相手に流れ込む日足がその新陰なのかはわかりませんが、合気道の国際大会で丸目長恵(蔵人)の本が売られていましたので、合気の妙法なのかも知れません。
因みに、私が生まれた耶馬桃の木の目の前に修行の碑がある宮本武蔵ですが、丸目蔵人に憧れていたそうです。そしてその地下の洞窟(霊巖洞)で五輪書(欧米でロングセラー、オリンピックの名の元)を記しています。
△26.1.2
月読み(津久見)とは、鏡に例えますと顕界(鏡の外に反射した光、素戔嗚尊、鼻)、幽界(鏡の面に映る光、月読、右目)、鏡の内に籠もる光、天照、左目)の鏡の面に映る光です。(目は立つ視点により逆も有)
私が持つ磨製石器は、それぞれ顕幽神を割る(割礼)する石です。ちょうど高千穂峡のようにです。
ところで、ファラオがミイラとなる役目は、東の果ての悪魔の海を渡った先にある日が立つ国(日の元なる国)の不老長寿の洪水伝承者(烏土那毘手照、阿毎照)に会って帰ってくるためですが、その方法として幽界面(月読)を頼りにしたわけです。なぜなのかは、黄泉(読)の国は先代々の祭祀たちによって身近だったからです。また瑠璃は黄泉の国を示しています。人吉球磨の古代石は、まさに月読みの石ですね。
△26.1.2
朝まだ来
桐(霧)生の丘に立つ雉は
千代の日嗣の
始めなりけり
表向きは皇后の御産屋の七日祝いに贈られた歌で、しかも代作ですが、その真意は時の皇位継承を厳しい目で見ていた事がうかがえる清原元輔の歌(代作者の正体)です。天皇の御決心が身に染みる歌でもありますが、私たちは祖先が伝えてきた事を無視し、今の時代の都合だけを考えて、皇位継承の日嗣を変えてはならないのです。
現代、天皇廃止を目標とする政治団体もいて、私たちが皇位継承を甘くみました時には、そのお知らせを災いとして必ず受け取る事となります。
写真は鳥人族でもあります、霧の都の人吉球磨の雉馬と球磨川です。
この地で草に隠れる雉(日本国国鳥)を暗示する草薙剣(元はスサノヲの七支刀)のオウス(日本タケル)は、川上(熊襲)タケルから耶馬土(雉馬や邪馬台国などの馬は高句麗、クマ)を襲名いたします。
また国という読みは、人吉球磨の狗奴が訛ったものです。
川上という名の表現は伊勢です。京のスーパースターでありながら、肥後守として赴任した清原元輔(清少納言の父)の歌には、他には三輪山(大和)などの倭繋がりの日本古代史の秘密が織り込められている歌があります。たかが歌ではないという事です。清原元輔は岩戸山の歌詠み場(祖先の土地)で修行し、熊本で生涯を終え京に帰らずに祀られています。
△26.1.2
日本(倭人)の古代史は、唐・新羅と戦った高句麗(クマ)・百済(大熊)・日本の敗戦により消され隠されました。それを隠した中心人物が、祖先の墓上に筑紫宮小天天子宮を建てた道君首名(水前寺)です。
肥後手鞠唄では、熊本(隈本)城である千馬城を千葉城と、ちょいと木の葉で隠した洗馬(船場)小狸の正体です。それは馬は高句麗だと唐に気づかれないためです。芳山も高句麗が誇りとした百舌鳥も隠し、豊山(高句麗)と解らないようにしています。漢字を変えれば唐人は解らなくなりましたね。ところが皮肉にも、それが日本の古代史、超古代史を行方不明としたのです。
ところで、天子宮の宮前で生まれた祖母は、50年前に古代宮中の言葉遣いの調査を受けていました。天子宮の道君首名(おびとな)は、唐と新羅を分断する遣新羅使外交や、中央集権の強国化を計るための大宝律令制定などの中心的役割を果たしています。そのアジア外交の迎賓館であったと思われるのが、芳山の中腹に現れる広大な池辺寺跡地です。
△26.1.1
わたつ海の
浜の真砂を
かぞへつつ
君が千年の
あり数にせむ
古今和歌集巻第七の、わが君はの歌の方は国歌君が代の元歌とされていますから皆さんもご存知だと思いますが、今回は同じ巻第七の、もう一つの詠み人知らずの歌をあげてみました。この真砂とはタカラ貝の事ですが、貝に君への思いを込める古代の恋文です。なぜ今は山間の盆地の人吉球磨人に真砂(宝貝)の歌が詠めるのかは、縄文期には人吉球磨が海に面していて宝貝の沈殿層が隆起により出現するからです。
また和歌は久米(球磨)歌が元です。そして驚く事に縄文早期の灰塚遺跡(球磨のあさぎり町深田、まさにピンポイントで幼少期を過ごした村)にはベンガラで装飾したパイプ状の耳栓が出土しています。(調査資料には写真等も載せられていますが年代等は確定されていません)
縄文後期にアジア各地で出土する耳飾りの元は、海に潜るための耳栓が元だったのですね。
https://www.facebook.com/share/p/1TQVnuuWHg/

















