2022年05月13日

吾亞風: Y1系統染色体〜日本と遼河文明

吾亞風: Y1系統染色体〜日本と遼河文明
Y1系統…オホーツク海周辺の民族で高頻度…アイヌに約20%…チベット族まで広く分布…
投稿者:吾亞風 投稿日:2021年11月12日(金)21時22分56秒
◆Y1系統染色体
ハプログループNとその子系統は北ルート、西ルート、南ルートの3方向に拡散した。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97N_(mtDNA)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Migration_route_of_Human_mtDNA_haplogroups.png
ハプログループYのうちY1系統はオホーツク海周辺の民族で高頻度である。
ニヴフに約66%、ウリチに約38%、ネギダールに約21%、アイヌに約20%である [2][3][4][5] 。
またカムチャツカ半島の先住民(コリヤーク人、イテリメン族)にもみられる。
◆Y2系統染色体
Y2系統
インドネシアやフィリピンにはY2系統が分布している[6]。
アイヌとオホーツク人
アイヌはハプログープYを持つが、縄文人には全く観察されていない。いっぽうオホーツク人のなかにハプログループYが確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明した[7]。
ハプログループY (mtDNA) (ハプログループY (ミトコンドリアDNA)、 英: Haplogroup Y (mtDNA) )とは、 分子人類学 で用いられる、
人類 の ミトコンドリアDNAハプログループ (型集団)の分類のうち、 ハプログループN の子型 ハプログループN9 を祖先に持ち、「8392 10398 14178 14693 16126 16223 16231」の変異により定義されるものである 。
ハプログループY (mtDNA)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97Y_(mtDNA)#:~:text=%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97Y%20%28mtDNA%29%20%EF%BC%88%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97Y%20%28%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2DNA%29%E3%80%81%20%E8%8B%B1%3A%20Haplogroup%20Y%20%28mtDNA%29,%E3%82%92%E7%A5%96%E5%85%88%E3%81%AB%E6%8C%81%E3%81%A1%E3%80%81%E3%80%8C8392%2010398%2014178%2014693%2016126%2016223%2016231%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%A4%89%E7%95%B0%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E5%AE%9A%E7%BE%A9%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%20%E3%80%82
◆日本と遼河文明
ハプログループN、Oに関連する東アジアの民族移動 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97N_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
ハプログループNは日本人全体では平均して2%ほど[16][17][18][19]と低頻度であるが、青森県ではN1(xN-M128,N-P43,N-M46/N-Tat)が7.7%(26人中2人)観察された例がある[20]。
遼河文明の遺跡人骨からもN1(N1(xN-M128,N-M46/N-Tat)を高頻度に含む)が60%以上の高頻度で見つかっており[14] [15]、かつ三内丸山遺跡と遼河文明の関連性が指摘されている[21][22]ことから、遼河人の一部は日本列島にまで進出していたと考えられる。
しかし、日本におけるハプログループN-M231の分布がかなり薄い上に、日本で確認されているハプログループNのY染色体は少なくとも三つの異なる下位系統に属しているため、一度のまとまった民族移動によって日本にもたらされたのではなく、複数の渡来でもたらされた可能性が高い。
日本では古代中国の周王朝と同系である可能性がある
N-F710、中国(東北部のオロチェン族、ダウール族、黒竜江省から河北省、安徽省、湖南省、西南部のシガツェのチベット族まで広く分布)や韓国に見られるN-Y125664と近縁のN-Y23749、中国の山東省や河北省にも見られるN-Y24191などが見られる。
・言語との関連
ハプログループNの系統樹とウラル語族の系統樹が一致しないことは、ウラル語族の櫛状分岐モデルを支持するものである。ヤクートはもともとウラル系であったが、テュルク系に言語交替を起こしたようである。[独自研究?]
仮説段階の語族であるウラル・ユカギール語族やウラル・シベリア語族の担い手はハプログループNと考えられる[55]。また、ウラル語族とアルタイ諸語の言語的類似はハプログループN集団に依るとする見方がある[56]。
崎谷満は、裏日本の言語(いわゆるズーズー弁)はハプログループN集団が担った基層言語の特徴の可能性がある、としている[57][58]。
・土器との関連
ハプログループN1*は円筒土器の担い手であり、N1*が観察される遼河地域や沿海州、日本の東北地方北部、北海道南部から円筒土器が発見されている[21]。
また、下位系統のN1a1は櫛目文土器の担い手であり[59]、朝鮮半島から遼河地域、モンゴル、シベリア、バルト海沿岸、北欧などにみられ[60][22]、N1a1に属すウラル系民族(フィン・ウゴル系民族)の拡散と対応している。

日本古代史掲示板(荊の紀氏)
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闇の夜は 鵺…
投稿者:吾亞風
投稿日:2021年11月12日(金)09時47分8秒
能の「鵺」では、鵺という化け物の亡霊が主人公になり、救いのない滅びへ至る運命を切々と語ります。
勇者・源頼政に退治され、淀川に流されて、暗渠に沈められた鵺が、山の端の月に闇を照らせよと願いを込める最後のシーンが印象的
◆鵺(ぬえ)
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_052.html
…自分は怪物・鵺の亡霊であると明かします。そして、近衛天皇の御代(在位1142年〜1155年)に、天皇を病魔に陥らせたところ、
源頼政(源三位頼政[げんざんみよりまさ]と呼ばれた弓の達人)に射抜かれ、退治された、という顛末を語り、僧に回向を頼んで夜の波間に消えていきました。
…鵺の亡霊は、頼政は鵺退治で名を上げ、帝より獅子王の名を持つ名剣を賜ったが、自分はうつほ舟(木をくり抜いて造る丸木舟のこと)に押し込められ、暗い水底に流されたと語ります。
そして、山の端にかかる月のように我が身を照らし救い給え、と願いながら、月とともに闇へと沈んでいくのでした。
…鵺とは、現実にはトラツグミという鳥のことを指します。能に出てくる鵺は、頭は猿、手足は虎、尻尾は蛇(平家物語では胴体が狸)という妖怪で、鳴く声がトラツグミに似ているから鵺と呼ばれたといいます。
西洋で言えばギリシア神話にでてくるキマイラ、現代SF小説なら遺伝子操作で生まれたモンスターという位置づけでしょう。
(在位1142年〜1155年)…
1155年に近衛天皇は後継を残さぬまま崩御。血縁的には崇徳上皇の皇子である重仁親王が最有力候補になります。
しかし崇徳上皇に院政をさせたくない鳥羽法皇は、皇位争いとは無縁の雅仁親王(後白河天皇)を即位させます。
近衛天皇…
近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近衞、1139年6月16日〈保延5年5月18日〉- 1155年8月22日〈久寿2年7月23日〉[1])は、日本の第76代天皇(在位: 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉- 1155年8月22日〈久寿2年7月23日〉)。
諱は躰仁(なりひと)[注釈 1]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A4%A9%E7%9A%87
鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。
何者かが朕を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため朕は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べたので、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。
住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」
釘が打ちつけられていた…
弓の達人…
源頼政(源三位頼政[げんざんみよりまさ]と呼ばれた弓の達人)
【 鵺退治だけじゃない! 】まさに文武両道 源頼政…https://rekijin.com/?p=21763
超一流の弓の腕で妖怪を退治して天皇から名刀を頂戴し、歌人としての才能をフルに発揮して高い位と絶世の美女を手に入れた男、源頼政(1104〜1180)。
源頼朝挙兵前の伊豆 以仁王 の乱に参戦した 源頼政 は、 源頼朝 が流人生活を送っていた伊豆の 知行国 主だった。
しかし乱で 頼政 が敗死することにより、伊豆は 平時忠 (平清盛 の義弟)が代わりの 知行国 主となる。
源頼朝挙兵前の伊豆 https://hisstory-kareno.hateblo.jp/entry/2020/06/24/204334#:~:text=%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E6%8C%99%E5%85%B5%E5%89%8D%E3%81%AE%E4%BC%8A%E8%B1%86%20%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%20%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%81%AB%E5%8F%82%E6%88%A6%E3%81%97%E3%81%9F%20%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF%20%E3%81%AF%E3%80%81%20%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D%20%E3%81%8C%E6%B5%81%E4%BA%BA%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%82%92%E9%80%81%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E4%BC%8A%E8%B1%86%E3%81%AE%20%E7%9F%A5%E8%A1%8C%E5%9B%BD,%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%97%E4%B9%B1%E3%81%A7%20%E9%A0%BC%E6%94%BF%20%E3%81%8C%E6%95%97%E6%AD%BB%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%81%E4%BC%8A%E8%B1%86%E3%81%AF%20%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%BF%A0%20%28%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B%20%E3%81%AE%E7%BE%A9%E5%BC%9F%29%E3%81%8C%E4%BB%A3%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%AE%20%E7%9F%A5%E8%A1%8C%E5%9B%BD%20%E4%B8%BB%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%82
…頼政の謀反から、急に平家一色となる伊豆国内で時政は、圧迫されていったと思われます。
…「以仁王の乱で、令旨を受け取った全国の源氏に対し、討伐命令が下っている。嫡流である頼朝は特に危険です。奥州に逃げて下さい」…
◆奥州…
…「 奥州はもともと源氏の土地で奥州藤原氏は源氏の配下だから棟梁が部下を成敗しているのだ」 というのがその論理だったが、相当強引だ。.
奥州藤原氏はなぜ敗北したか! 経済大国・軍事小国の末路 http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-06a1.html
…当時奥州藤原氏はロシア方面とも南宋とも交易ルートを持っていたというから相当手広い経済活動だが、何と言っても北方の蝦夷地とさらに北の現在のロシアとの交易が重要だった。そしてその富は膨大だったという。
注)狩猟民族(当時東北は半狩猟、半農業)は稲作民族に比較して進取の気風が強く、外国貿易を積極的に行った。
 一方頼朝率いる鎌倉武士団は関東平野の痩せた土地に群生する農民兼武士で農業以外の生産方法を知らなかったから貧しく、東北の富が垂涎の的だったという。
「何とかしてあの土地の富が手に入れられたら俺の政権の基盤は強固なものになる」
頼朝は機会さえあれば奥州を鎌倉武士団の手で奪おうとしていたが、その絶好の機会が訪れた。
平家を滅ぼした後用済みになった義経を奥州藤原氏の秀衡(ひでひら)がかくまったからだ。
頼朝は後白河法皇を脅しあげて義経追討の院宣を出させていたが、今度は奥州藤原氏に対する院宣を出さすことに成功した。
「義経の首を差し出せ。さもないと奥州藤原氏を成敗する」
…平氏滅亡後の政治情勢はちょうど中国の三国志のような状況と思うとイメージがわく。
京都には権威はあるが権力も金もない後白河法皇率いる公家勢力があり、鎌倉には金も権威もないが権力はある頼朝率いる鎌倉武士団がおり、そして東北には権威も権力もないが財力が豊かな奥州藤原氏が存在していた。
注)金持ちだが防衛力が弱いと世界から食い物にされるのは戦後の日本の歴史がしめしており、当然奥州藤原氏は鎌倉から狙われる立場にあった。
 この情勢下で後白河法皇は強大な鎌倉武士団を分裂させるための策略として、源義経に官位と褒賞を与えて取り込みを図った。
義経は軍事以外のことには全く素人だから易々と後白河法皇に取り込まれてしまったため、頼朝は怒って義経追討の院宣を後白河法皇に強引に出させた。
 そこで後白河法皇は義経追討の院宣を出す一方、義経を奥州藤原氏に逃して奥州藤原氏と手を組ましめ、鎌倉と奥州を鼎立させ、京都の権威を守ろうとしたという。
だが実際は京都と奥州の連携は容易でなかった。
◆後白河法皇…
策謀家…
源頼朝が「日本一乃大天狗」と評した策謀家として知られ、平清盛や頼朝と対立した、この時代のキーマンの一人です。
後白河法皇〜平清盛、源頼朝を翻弄した「日本一乃大天狗」
…平治元年(1159)、平治の乱が勃発。保元の乱後の論功行賞に不満を抱く源義朝が、藤原信頼と組んで起こしたものでした。
この時、上皇となっていた後白河は、義朝によって大内裏の一本御書所に幽閉されていたのを、平清盛に救出されています。
平治の乱が、清盛が味方した二条天皇方の勝利に終わると、後白河は栄進を重ねる清盛との結びつきを強めました。清盛造営の蓮華王院を供養し、清盛の福原別業(別荘のこと)に臨幸して、宋人と会ったりもしています。
そして仁安2年(1167)、清盛の妻・時子の妹・滋子が後白河の女御となり、清盛と後白河は義兄弟になりました。清盛は従一位太政大臣となります。
仁安3年(1168)には滋子の子・高倉天皇が即位し、清盛は位人臣を極めました。この頃が後白河と清盛の関係の頂点だったようです。
安元2年(1176)、建春門院と号していた滋子が没すると、後白河と清盛の関係も冷え込み始めました。
後白河は平家一門でなく、自分の近臣を登用し始め、平家の勢力伸張を抑えようとします。
清盛も後白河の行動に、次第に警戒感を募らせるようになりました。
…日本第一の大天狗は 後白河法皇 のことではなく、高階泰経のことという説があるようです。
※高階泰経は、義経の望み(頼朝追討の宣旨の発給)を後白河法皇に取り次いだ人物。
11月26日、後白河法皇は高階泰経に蟄居を命令。
理由は泰経が義経の謀反に味方したため。
その後、伊豆国流罪となったのだとか。
伊豆国流罪…
>源頼朝挙兵前の伊豆 以仁王 の乱に参戦した 源頼政 は、 源頼朝 が流人生活を送っていた伊豆の 知行国 主だった。
◆高階泰経
高階氏(たかしなうじ)は、日本の氏族のひとつ。天武天皇と尼子娘の長子である高市皇子を祖とする皇別氏族で、姓は真人のち朝臣。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E6%B0%8F
…成忠の弟・敏忠の系統は道長に接近して、受領として勢力を築く。欲大弐と呼ばれた成章(高名な歌人大弐三位の夫[注釈 2])、白河法皇の近臣として法勝寺の造営を行った為家(母は大弐三位)・為章親子などが代表である。
また、平清盛の息子達の平重盛・基盛兄弟の外祖父の基章(為家の娘の子で為章の養子、実父は醍醐源氏の但馬守・源家実)も知られる。
また倉本一宏氏によると現存する宮内庁書陵部蔵の伏見宮本の『権記』では、伊勢神宮の怒りの部分は行間に挿入される形で枠外に書かれていたので後世の加筆ではないかと指摘している[6]。
後白河院政期にも後白河側近の大蔵卿・高階泰経、寵妃・高階栄子(丹後局)が活躍した。同じく院近臣として権勢をふるった藤原通憲(信西)も血縁である。
鎌倉時代から室町時代初期にかけては泰経の子孫が従二位(非参議)を極位として代々公卿に昇るが、公卿としては南北朝期の寛経が最後となり、室町時代中期に従四位上に叙せられた経之をもって記録が途絶えた[7]。
なお、江戸時代には青蓮院坊官を務めた地下家である鳥居小路家が泰経の後裔として高階姓を称している。
一方で、代々足利家執事をつとめた高氏が高階氏から出ているように、室町幕府の執事である高師直とその一族らが武家として繁栄している。
また、織田信長や豊臣秀吉に仕え、江戸時代には大名となった堀尾吉晴は高階氏の末裔と称している。
元慶5年(881年)高市皇子の創建と伝わる大和国宗像神社に神主が設置されると高階氏の氏人(高階仲守)がこれに充てられており[8]、同神社の社家である玉井氏も高階氏の後裔を称した。
大和国宗像神社…
…伴信友は、胸形徳善の女である尼子娘が、天武天皇の後宮に入って高市皇子の母となった縁によって、同皇子の外戚の氏神として祀られたものであろうと推測しているが、それ以前に宗像氏が本貫地から奉斎する宗像三女神を分霊・分祀したものともされている[1]。
その後、高市皇子の後裔である高階氏が氏の神として崇め、元慶4年に官社に列し(『日本三代実録』)、翌5年に本社である筑前宗像神社に准じて神主職を置き、
高階氏をこれに補任するよう定められ(同年10月16日の「太政官符」(『類聚三代格』所収))、寛平5年には修理料として近在の徭丁8人を充てる旨の「太政官符」が下された(上述寛平5年「太政官符」)[2]。
延喜の制で3座ともに名神大社に列し、月次・新嘗の両祭にも与っていた[3]。
以後の由緒は詳らかでないが、南北朝以後は高階氏の後裔玉井氏の家伝に詳しい[4]。
それによれば、高階義岑が弟の玉井勝坊入道西阿とともに赤尾城(現桜井市赤尾)を拠点に南朝方に与して、興国2年(1341年)7月3日に渡辺渡と鵄(とび)村(現在の外山一帯)に合戦した際、当社は兵火に罹って焼亡し、近辺の社領17町も興福寺領となるなど衰退に傾き、興福寺の縁で春日明神とその若宮が勧請せられるに及んで、「春日社」と称されるようになり、宗像神社自体はあってなきが状態に至った。
鵄(とび)村(現在の外山一帯)に合戦した際、当社は兵火に罹って焼亡し、近辺の社領17町も興福寺領となるなど衰退に傾き、興福寺の縁で春日明神とその若宮が勧請せられるに及んで、「春日社」と称されるようになり、宗像神社自体はあってなきが状態に至った。
鵄(とび)…「春日社」と称されるようになり、宗像神社自体はあってなきが状態…
◆『鵺』…
『鴉』…雅仁親王(後白河天皇)…
後白河法皇は、大坂の南部の地ともゆかりがあり、34回に及ぶ熊野 詣をしています ...
…三井寺の法印覚讃(かくさん)を先達にして、平清盛らを伴にして熊野詣に出発します。https://ameblo.jp/kazu3wa1192/entry-12475349285.html
三井寺…
熊野権現を勧請し三井修験道の鎮神とされた。https://www.sigatabi.com/miidera/kumano.html
熊野…
商人熊野起源説話 https://www.mikumano.net/setsuwa/hakari.html
「商人の巻物」と総称されるそれらの商人の由緒書・由来書には、日本の商人の始祖は熊野権現の眷属の28人のうちの4人であると記されています。
…秤の目は三百六十目あり、それは1年の日数を表わす。
 そうであるので、須弥に第一あるについて、大唐の如月、秤の目は星の宮(星や星座)を表わすのである。
 須弥の四州(須弥山を囲む海の四方にある四つの島)は北にあるといって、秤の取っ手を一方の端には作るのである。そのため日の出る方を東と定める。秤の目には天の二十八宿(古代中国の星座。月の通り道である白道に沿って選ばれた28の星座)、地の三十六禽(十二支を細分化してできた36の精霊)が表わされるのである。
◆二十八宿…
葛城二十八宿とは、世界遺産になった大峯奧駈七十五靡なびきと並ぶ修験道を代表する入峰修行である。
三井寺と修験道 > 葛城二十八宿の復興 http://www.shiga-miidera.or.jp/doctrine/msyugendo/01.htm
三井寺の鎮守神は新羅明神で、渡来人の秦氏と関係がありそうです。
三井寺にある「尊星王像」には三本脚の烏が描かれています。
聖徳太子は秦氏につながります。
三囲神社の三柱鳥居は三井邸から移されたものですし ...https://mihashira-torii.blogspot.com/2021/06/Three-legged-crow.html
Wikipedia「賀茂氏」より。山城国を本拠とし代々賀茂神社に奉斎した賀茂県主は、八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とする。
賀茂県主は、同じ山城を本拠とする秦氏との関係が深い。
三井寺…
平安時代中期の貴族・武将の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)。 俵籐太(たわらのとうた)とも呼ばれています。https://www.jisyameguri.com/chiiki/shiga/miidera-kane/
藤原秀郷は平将門を討伐した有名な武将ですが、それ以外にも山を巻くほどの大きなムカデを退治した伝説もあります。 三井寺の鐘は、そのムカデ退治と関係があるのです。
三井…
三井京両替店跡(新町三井家邸跡)https://www.bing.com/search?q=%E4%B8%89%E4%BA%95%E3%80%80%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87&qs=n&form=QBRE&sp=-1&pq=%E4%B8%89%E4%BA%95+%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87&sc=0-8&sk=&cvid=B1FBD563186B4750BCF2630985232BE2
仙洞御所 平安時代、かつてこの付近には、第67代・三条天皇の皇女・陽明門院(禎子内親王、1013-1094)の御所があった
カラス…
「烏」と「鴉」https://news.1242.com/article/157166
…「鴉」の方ですが、こちらは「牙」という字が入っています。しかし、カラスにあるのはクチバシであって、牙ではないですよね。
「牙」…
さいとり…
「さいとり・仲買(売買の仲介をして手数料をとる者)」(例:牙銭) G「芽。また、芽生える」 成り立ち 象形文字です。https://okjiten.jp/kanji2087.html
「きばの上下が交わる」象形から、「きば」を意味する 「牙」という漢字が成り立ちました。
牙は互(相互),?は会(会合)の意味といわれ,売買需給の周旋と価格決定の機能を表しており,商人の原初形態とみられる。
※七十一番職人歌合(1500頃か)四一番「すあひ。月のきる雲の衣をうり物やさふらふといふ人もかはめや」
[語誌]「牙?(がかい)」は漢籍に見える語。売買仲介の業は古くからあって、「中媒(ちゅうばい)」と称されていたことについては、「建暦二年三月二十二日宣旨」にみえる。しかし、「すわい」「すあい」の語が見られるのは、室町時代になってからである。
が‐かい ‥クヮイ【牙?】https://kotobank.jp/word/%E7%89%99%E5%84%88-539418
?名? (「牙」は「互」で互市(ごし)の意、「?」は「会」で交易の意) 中国の仲買商人。さいとり。すあい。
※屑屋の籠(1887‐88)〈西村天囚〉前「当時清人(しんじん)の此地に到る者卒皆(おほむね)落弟子弟牙?(ガカイ)の徒のみ」 〔新唐書‐張又新伝〕
籠…籠目…
◆六芒星の起源…
龍の起源、六芒星の起源を辿って行きますと「シリウス」に行き着く事になります。
イシスと オシリス の子 「ホルス」 は、 「 シリウス 生命体」 そのものを指しているとされます。 https://noomi22.hatenablog.com/entry/2020/05/15/211236#%E3%83%A0%E3%83%BC%E6%96%87%E6%98%8E%E3%82%92%E8%88%88%E3%81%97%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E9%BE%8D%E8%9B%87%E6%97%8F%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%80%AC%E7%B9%94%E6%B4%A5%E5%A7%AB%E6%A7%98%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AF%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
…北海道の宗谷岬にある大岬は、以前は知臼(シリウス)と呼ばれていたそうです。アイヌ語のシリウス=シリ・シュツ(大地・根元)の転訛との事です。
因みに紀元前13500年頃、人類の最初の文明の痕跡は北海道からシベリアにかけた地域で見つかっています。
饒速日命(ニギハヤヒのミコト)様のY染色体は、物部氏から得られたデータに基づくものとし、ハプログループD1b1c1c(D-Z30643)系統であると推定されていました。
Y染色体D1bは「縄文人」の特徴です。
YAP遺伝子は「神の遺伝子」と言われますが、その由来が本当に天界に存在する「シリウス」=「神」の遺伝子を受け継いでいるという事ではないでしょうか!?
◆シリウス・・・
地平線近くで見ると青白い星でも、夕日と同じく赤く見えてしまうわけのです。
ミステリーに思いを馳せながら、今宵も輝くシリウスを眺めてみましょう。
https://www.mitsubishielectric.co.jp/dspace/column/cw03.html
◆古代エジプト
地平線…
古代エジプトの天空神・太陽神。https://kotobank.jp/word/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B9-134531
「地平線間のホルス(太陽神ラーと同一視されたため)」などの呼称を持ち、各地で崇拝された。
ホルス…
トビ…ホルスの母親で、生と死と豊穣を司る女神のイシスもまた、トビの姿や、背中にトビの翼をもった姿で描かれることがあったことを追記しておく。
…中国の神話においては、太陽の核、あるいは魂ともいうべき存在がカラスであり、そのカラスは3本の脚をもつとされた。太陽の精気が集まってカラスの姿になったとも考えられ、そのカラスが太陽の中に棲んでいると信じられていた。
…日本神話において、天空の高天原から派遣されるのは、八咫烏にしても、監視者にして伝言を伝える者である「鳴き女」という名のキジにしても、鳥でなくてはならなかった。

…八咫烏の先導で、大和に着いた後、長脛彦という敵との戦の最中に、突然現れて、弓先に止まり、黄金の光を放って、勝利に導いた金の鳥だそうです。
『鵄』…金鵄 神武天皇(カムヤマトイワレビコ ノミコト)http://shinshizo.com/2015/06/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E9%87%91%E9%B5%84%EF%BC%88%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%97%EF%BC%89/
「金色の鳶(トビ)」…
神武天皇陛下の東征を援けた「金鵄(キンシ)」
https://blog.goo.ne.jp/horinosuke/e/32146ff1ba3dacc82ba7f0c11a4d4dcb

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縄文時代?…南は九州から北は北海道北部まで、統一化された土器文様…
投稿者:吾亞風
投稿日:2021年11月10日(水)09時51分42秒
船泊遺跡 第5号縄文人骨のY染色体ハプログループはD1b2a(D-CTS220)
https://ameblo.jp/amenomurakumo01/entry-12348646775.html
礼文島の船泊遺跡から出土した約3800年前の縄文人 の全ゲノムを高精度で明らかにしました。https://www.kahaku.go.jp/event/2019/06jomon/jomon_genome.pdf
本土日本人はゲノムの10%が縄文人由来 https://webronza.asahi.com/photo/photo.html?photo=/S2010/upload/2019071500005_8.jpg
@ 現代日本人が縄文人から受け継いだDNAの割合が分かった
 東京在住者に代表される本土日本人のゲノムの約10%が縄文人に由来すると推定できた。また北海道のアイヌ民族の人々は7割くらい、琉球の人々は3割くらいを受け継いでいると考えられた。これらの割合について、神澤さんは「従来、形態的な特徴などの研究から言われていたこととほぼ一致した」と話す。
拡大縄文人と大陸沿岸部の人々が遺伝的に近いことを示す解析結果。論文に掲載された=国立科学博物館提供https://webronza.asahi.com/photo/photo.html?photo=/S2010/upload/2019071500005_8.jpg
A アジア人集団における縄文人の祖先の起源がはっきりしてきた
 縄文人は漢民族に代表される大陸のアジア人集団と比較的古い時期に分かれ、それは約3万8000年前から約1万8000年前までの間とみなすことができた。少し幅があるが、最近は縄文時代を約1万6000年前〜約3000年前の間と考えるようになっており、それより前だということに意味がある。つまり縄文人の祖先集団は、縄文時代に入る前の旧石器時代末には集団として確立していたことになる。「旧石器時代人と縄文人は日本列島の中でつながっており、列島内にいた人たちが縄文土器を作り始めて縄文時代が始まった」と篠田さんは考えている。
…縄文人の遺伝的要素を持つ人々は日本列島のみならず、ロシア沿海州、朝鮮半島、台湾など東アジアの沿岸部に少なからずいることも分かってきた。
こうした要素を持つ人たちが大陸沿岸部に分散する中で一部が日本列島へ渡ってきた可能性が高そうだが、現状では日本列島の縄文人が大陸沿岸部に広がった可能性も否定できない。
船泊遺跡ー忍路環状列石
距離 249.345375q
方位角 182.914774°(南西に2.914774°)
忍路環状列石(おしょろかんじょうれっせき)は、北海道小樽市忍路にある環状列石(ストーンサークル)の遺跡である。
度分秒 43° 11′ 58.6″ N, 140° 52′ 29.5″ E
十進数 43.199611, 140.874861
忍路環状列石ー恐山山地
距離 214.796663q
方位角 174.5203°(南東に5.4797°)
忍路環状列石ー風間浦村
距離 190.968375q
方位角 176.95336°(南東に3.0331625°)
忍路環状列石ー三内丸山遺跡
方位角 183.233325°(南西に3.233325°)
忍路環状列石ー大湯環状列石
距離 325.990512q
方位角 181.060004°(南西に1.060004°)
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。国の特別史跡に指定されている。
環状石籬(かんじょうせきり)やストーンサークルとも呼ばれる[1]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B9%AF%E7%92%B0%E7%8A%B6%E5%88%97%E7%9F%B3
度分秒 40° 16′ 18″ N, 140° 48′ 14″ E
十進数 40.271667, 140.803889
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前[1])の大規模集落跡。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
度分秒 40° 48′ 41″ N, 140° 41′ 48″ E
十進数 40.811389, 140.696667
船泊遺跡の7号人骨の胸元から、長さ7.8cm、幅3.2cmの大型ヒスイ大珠が出土しました。ヒスイの原産地は新潟県糸魚川地方と考えられ、礼文島まで直線距離にして1000km以上もあります。
北の縄文(船泊遺跡(礼文町))https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/jomon/remains_03.html
礼文町船泊遺跡は、島北部の船泊湾に面した船泊砂丘の西側にあり、久種湖と海岸の間に出来た高さ10m前後の砂丘上に立地し、縄文時代中期から後期にかけての土器や人骨が発見される遺跡として知られていました。
 1998年に行われた町教育委員会の発掘では、貼床などを伴う生活面24基、墓壙24基、土壙19基、屋外地床炉29基、集石炉58基などが検出されました。
遺物は後期中葉の船泊上層式が中心です。この時期は、南は九州から北は北海道北部まで、統一化された土器文様が見られます。
…埋葬された人骨には、ビノスガイの貝殻で作られた貝玉がたくさんつけられており、他の遺跡ときわだった特徴があります。
これらの人骨は、顔を東に向け四肢を曲げた屈葬と呼ばれる姿勢です。副葬された貝玉はネックレス・ブレスレット・アンクレットとして用いられています。
また腰飾に縫い付けられた場合もあったようです。
45.43673 141.031069
恐山山地(おそれざんさんち)は、青森県下北半島の南西から北西(むつ市、風間浦村、大間町、佐井村)にかけて広がる山地である。那須火山帯に属す。
地理でいう恐山山地と霊場恐山は区別される。第四紀の火山であり、直径約4〜6kmのカルデラがある。中心部には直径約2kmのカルデラ湖の宇曽利山湖がある。
度分秒 41° 16′ 43″ N, 141° 7′ 12″ E
十進数 41.278611, 141.12
和人とアイヌ民族が地引き網漁を行う様子を描いた古い絵馬…https://blog.goo.ne.jp/ivelove/e/873ffb83f6aa0b42b99324c6f1f8d9c9
風間浦村易国間の大石神社青森県風間浦村易国間の大石神社には、和人とアイヌ民族が地引き網漁を行う様子を描いた古い絵馬がある
古野(2)遺跡…約5,000年前…
写真はドローンで撮影した遺跡全景です。
風間浦村古野(2)遺跡 https://ao-maibun.jp/sokuhou/2019_furuno2.html
…遺跡は縄文時代前期末と中期後半の集落跡です。
発掘調査現場では、縄文時代前期後葉・中期後葉の竪穴建物跡、後期前葉の土坑に加え、縄文時代中期末〜後期前葉頃のものと考えらえる溝状土坑を検出しました。
見学者の方たちは、縄文時代前期後葉の竪穴建物跡に残る床面を掘り下げて作られた「石囲炉」、縄文時代中期後葉の竪穴建物跡の床面に残っていた長さ120cmの大型「石囲炉」を竪穴建物跡内に入って間近にご覧になり、
縄文時代の家庭の雰囲気に思いを馳せていたのではないでしょうか。また平地があるにも関わらず、急斜面にあえて貯蔵用と考えられる穴を掘った縄文時代の人達の工夫や苦労も大いに感じていただけたと思います。
遺物展示室では、見学会直前に地元テレビ局報道によって話題となっていた縄文時代中期後葉の土偶や、土器・石器に加え、昨年度調査した古野(3)遺跡出土品、発掘作業の経過を示す写真パネルなども壁一面に展示しました。
専門職員による縄文時代の土器・石器の解説や、これらを使っていた当時の生活の様子などの説明があり、見学者は興味深く聞き入っていました。
…2019/8/9 調査を終了しました  2ヶ年にわたった古野(2)遺跡の発掘調査ですが、8月9日で全ての調査を終了しました。
…約5,000年前の土器・石器がたくさん出土します。
風間浦村…
地理
青森県下北半島北部に位置する。恐山山地を構成する山々が海に迫り、わずかに存在する平野部に集落が点在する。
中心となる集落は、下風呂(しもふろ)地区、易国間(いこくま)地区、蛇浦(へびうら)地区で、下風呂地区は古くより湯治場として知られる。
山: 矢筈山(627m)、三界平山(346m)、目滝山(618m)、大石八森(626m)、三角山(282m)、折戸山(119m)
河川: 目滝川、易国間川、焼山沢、釜ノ沢
易国間神社遺跡 いこくまじんじゃいせき(縄文前期)
所在地:青森県下北郡風間浦村易国間家ノ上
緯度経度:41.486472, 140.996556

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アイヌ紋様の原形(?矢をもつ渦巻き紋)…渦の文様には「力」「パワー」という意味があるという…投稿者:吾亞風投稿日:2021年11月 4日(木)09時45分47秒
周代における文様とアイヌ文様 饕餮文 の地文としての雷文は分解して竜文に還 元出来るならば,モ レ ウ文は雷文と竜文の 中間に 位置出来る。
ア イ ヌ文様の 始源 とその 構成 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssdj/1969/10/1969_KJ00007022631/_pdf/-char/ja
紅葉山33号遺跡は、石狩市花川南6条5丁目の花川南公園内にあります。
この遺跡は続縄文時代前半期の墓地で、年代は今から2000年前ごろと推定されています。
〉「アイウシモレウ」(矢をもつ渦巻き紋)https://www.city.ishikari.hokkaido.jp/museum/pdf/if0051.pdf
モレウ(渦巻)[morew]
モ(ゆっくり) レウ(まがる)http://ainu.saloon.jp/02-monyou.html
渦の文様には「力」「パワー」という意味があるという。 ぐるりと巻いている形状の中に、秘めた力を感じと
紅葉山33号遺跡…
紅葉山51号遺跡「跡」…
縄文時代中期約5000年前〜4000年前…
緑苑台にも紅葉山51号遺跡「跡」(縄文時代中期約5000年前〜4000年前)があり、土器や石器が出土した。 https://www.ishikari-c-college.com/topics/2015/10/10-14.html
イオン石狩緑苑台の裏には、砂丘(標高約10m)の断面が見えて、砂層であることがよくわかる場所があり、バスを止めて観察しました。
5000年前…
中国共産党はこの遺跡の時期を5000年前としている。 また宇宙人がその由来だとしている。
中国共産党がひた隠しにする中国最古の文明 https://b29.biz/kougabunmei.html
黄河文明より古い文明があった。
中国の共産党は漢民族による中華人民共和国の支配の根拠として「中国4000年の歴史」をあげている。
世界四大文明の一つである黄河文明は漢民族が興した夏王朝に始まるという考古学の常識から来ている。
このことにより、中国はチベット族、ウイグル族がすむ地域に漢民族を移住させ、チベット族、ウイグル族を弾圧している。
しかし、この根拠は全くの嘘であることを示す遺跡があるのである。その遺跡の発掘により、漢民族の有意性が損なわれるため、中国政府は調査を放置している。
その遺跡の名前は「三星堆遺跡」である。
三星堆遺跡…
弧紋様の画像 https://www.bing.com/images/search?q=%e5%bc%a7%e7%b4%8b%e6%a7%98&qpvt=%e5%bc%a7%e7%b4%8b%e6%a7%98&form=IGRE&first=1&tsc=ImageBasicHover
琉球弧の「針突き(tattoo)」 https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=jkSkmoMF&id=B3E4365E09B7DF56C1E1C8B47331A53C405D6039&thid=OIP.jkSkmoMF2_LBwXeWaLNaRAHaDJ&mediaurl=https%3a%2f%2fth.bing.com%2fth%2fid%2fR.8e44a49a8305dbf2c1c1779668b35a44%3frik%3dOWBdQDylMXO0yA%26riu%3dhttp%253a%252f%252fmanyu.cocolog-nifty.com%252f.shared%252fimage.html%253f%252fphotos%252funcategorized%252f2016%252f11%252f15%252fimg002_3.jpg%26ehk%3d%252bckBPajyZ2CggHVLDGuVt3AUifW49%252fymqhpuUXPHkXw%253d%26risl%3d%26pid%3dImgRaw%26r%3d0&exph=681&expw=1600&q=%e5%bc%a7%e7%b4%8b%e6%a7%98&simid=608023603828756216&FORM=IRPRST&ck=F023EAD2BD079E72E2E41AF0664FA4B2&selectedIndex=207&ajaxhist=0&ajaxserp=0

地形や海流の歴史を紐解けば…
弧を描く砂州…https://www.onestory-media.jp/post/?id=2707
大きく緩やかに弧を描く砂州、その独特な地形と、青松が茂る詩情豊かな景観は、神が創り上げたものだと伝えられる鳥取県米子市にある『弓ヶ浜海岸』。
神が創造したという…
『出雲国風土記』にある国引きの項によれば、弓ヶ浜は出雲の創造神が島根半島を引き寄せた際の綱であり、「夜見嶋(よみがしま)」という島であった、との記述が。
また近隣の皆生(かいけ)地域では、出雲国の浜から流れ出た魂が弓ヶ浜に流れ着き、「皆」が「生」き返ったという伝説が、地名となり遺されています。地質学的にも一帯はかつて島であったとされ、地形や海流の歴史を紐解けば、現実と通じる部分が数多く見られるそうです。東には大山がそびえ、昇る朝日を背に浮かび上がる漆黒の山体は、威厳に満ちています。神が創りし土地、そんな言い伝えが、確信に変わる瞬間です。
地質学的にも一帯はかつて島であったとされ、地形や海流の歴史を紐解けば、現実と通じる部分が数多く見られるそうです。東には大山がそびえ、昇る朝日を背に浮かび上がる漆黒の山体は、威厳に満ちています。神が創りし土地、そんな言い伝えが、確信に変わる瞬間です。
東には大山がそびえ、昇る朝日を背に浮かび上がる漆黒の山体は、威厳に満ちています。神が創りし土地、そんな言い伝えが、確信に変わる瞬間です。
紅葉山砂丘のできるまで…
6000年前 https://www.city.ishikari.hokkaido.jp/museum/if0081.html
砂はどんどん高くなり、海水面まで達します(砂州)。
砂州…人工的な砂州…
◆ネセバル
起源は約3200年前…
ネセバルはブルガリアの黒海沿岸の小さな岬に造られた古代都市。https://4travel.jp/travelogue/11323198
その起源は約3200年前にまで遡り、当初はトラキア人の集落があったという小島は人工的な砂州で本土と結ばれ、時代の流れと共に古代ギリシア、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国などによって支配されてきたという歴史があります。
トラキア人…
トラキア人とは ブルガリアの土地で活躍した民族で、文献に残る古い民族がトラキア人です。 トラキア人は単一の民族ではなく複数の部族の連合体で、セルディ、メディ、オドリュサイ、ダキア、ゲタイ、フリュギアなど50以上の部族に分かれていました。
…先住のトラキア人やイリュリア人などは山岳地帯に逃げ、ルーマニア人(ヴラフ人)やアルバニア人となっていきます。
トラキア人とは ブルガリアの土地で活躍した民族…
遺伝子…ハプログループIが高頻度…
ブルガリア人はコーカソイド化した元モンゴロイドであり、コーカソイドとしてのハプログループIが高頻度でみられる。
その一方、モンゴロイドとしてのハプログループC2は非常に低頻度である。
ハプログループIが高頻度…
◆クロマニョン人…
13,000年前のスイスのクロマニョン人を遺伝子調査したところ、ハプログループI2a (Y染色体)に属すという結果が出た[13]。
これによりハプログループIはクロマニョン人のハプロタイプであることが明らかとなった。
農耕と巨石文明の受容
ハプログループIはヨーロッパ先住系の狩猟採集民(クロマニョン人)だが、後からハプログループG2aによってもたらされた農耕と巨石文明[14]を受容した。巨石記念物の作り手として、ハプログループG2aとともにハプログループI2aも検出されている[15][16]。
碧眼・金髪・高身長
ハプログループI(特にI1)は碧眼の分布と相関しており、碧眼遺伝子の担い手であったようである[17]。また金髪の分布とも相関している。
ヨーロッパにおける高身長地域とハプログループIの分布が重なることから、高身長との関連性も示唆される[18][19]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97I_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
農耕と巨石文明[を受容した…
農耕と牧畜の開始(文明への始り)http://www2s.biglobe.ne.jp/t_tajima/nenpyo-1/se-0-8.htm
農耕…
ドゴン族はこの閉ざされた地方で農耕を行って生活してきた。https://yukashikisekai.com/?p=8145
ドゴン族の人たちは、イスラームやヨーロッパの思想や文化を拒絶して独自の思想や生活様式を守っている。
ハプログループD1:55,000年前、東シナ海。狩猟採集民族。東シナ海を北上して、中国大陸・日本列島・シベリアへ。高緯度地方の生活が長くなりメラニン色素が減少、肌の色は真黒色から黄色に変わった。中国大陸に最初に入植したハプログループで、チベット族・日本人の先祖。
52,000年前、黄海。狩猟採集民族。チベット系固有のハプログループ。チベット族37%、羌族23%、ヤオ族16%、先住苗族(モン族)12%、イ族9%、モン族(ラオス)8%、満州族3%、朝鮮民族3%、日本人0.6%。黄帝や夏族の先祖は羌族、周族の先祖は姜族。三国志に登場する馬騰・馬超親子は羌族。
D1a2:青海湖。いわゆる?(てい)氏系と思われる。O系との交配で分岐したようだ。三国志に登場する強端は?氏系。
アイヌ民族85%…
D1b(旧D2):25,000年前、日本列島固有のハプログループ。狩猟民族。最終氷期の終焉により日本列島に孤立したようだ。
アイヌ民族85%、日本本土39.8%、沖縄45.5%。小柄なネグリート体質。他民族に比べて無精子症・乏精子症が多く、性欲はあまり強くない。
D2(旧D4)
E1a:ドゴン族(マリ)46%…
東アフリカで D と分岐してアフリカに残った。…
E1
E(A1b2b1b):東アフリカ。採集民族。アフリカ最大のハプログループ。東アフリカで D と分岐してアフリカに残った。D 同様真黒な肌だったと思われます。ほとんどは A や B と混血した。
E1a:45,000年前、東アフリカで分岐して北アフリカ・西アフリカに移動。採集民族。フラベ族(カメルーン)53%、ドゴン族(マリ)46%、フルフベ族(ギニア)34%。
【E*】
DE*集団からの移動・・72,500〜50,000年前
E*への変異・・・・・・・・・・55,000〜50,000年前
サブクレード・・・E1-P147,E2-M75
主なSNP・・・M96,M40/SRY4064
E*(xE1,E2)とはっきりわかっているのは、2015年に判明したアフリカ東部の男性3人。E*(xE1,E2)がはっきりわかったことにより、E全体の再分類がこないだやっと一段落した。なお、DE(xD-M174)でアルタイ山脈南部のベシュペリチルで1/43=2.3%観測されている。
また、3,352〜3,161年前のE1b(E1b1b1b2a1a-FGC18319/Y5413)の遺骨(ArmeniaMBA)が、アルメニアのゲガルクニク地方にあるセヴァン湖の南西端の湖畔の村、南西にはノアの方舟で有名なアララト山の山系を一望出来るコーカサス地方のNerquin Getashenの遺跡で見つかった。
ノアの方舟で有名なアララト山の山系を一望出来るコーカサス地方のNerquin Getashenの遺跡で見つかった。https://japanese-origin.hatenablog.com/entry/2016/12/17/180302
…東部アフリカ41/43=95.35%、アフリカのガンビア人41/48=85.42%、サハラ以南のアフリカに分布するバントゥー系民族82/108=75.93%(東部37/55=67.27%西部45/53=84.91%)、アフリカの小人ピグミー21/38=55.26%、エジプト人18/36=50%、ギリシャ人14/42=33.33%、主にアフリカ南部に生息しているカポイド(コイサンとも呼ばれる)21/75=28%、中央メキシコ原住民のサポテコ族2/15=13.33%、イタリア人5/39=12.82%*2、Baloch people(パキスタン)2/25=8%*3、ドイツ人2/32=6.25%*4、Makrani caste1/20=5%(パキスタン)*5、アメリカのインディアンの1つシャイアン族2/44=4.55%、南米大陸の北端に住むWayuu people1/26=3.85%、ロシア人1/30=3.33%、イングランド人1/32=3.13%*6、漢民族4/2448=0.16%*7。*8
サブクレードは以下の通り。ISOGGの結果からEはほぼアフリカだが、E1a1、E1b1bの大半が何らかの理由でアフリカを飛び出したことがわかる。あとはE1b1a1a1aの代に中東に行く者がごく少数いた位だ。
E1
E1a
・E1a1-M44
サルデーニャ島民(イタリア)、マンディンカ族(アフリカ西部の南側)、イギリス、ドイツ、レバノンのドゥルーズ派、東欧北部のアシュケナジム*9。
イエメンのユダヤ人。
・・・・・・・・E1b1b1a1a1b-V32
6世紀にバルカン半島の東部に定住した南スラヴ人は4世紀に起源をもつとされる地元のトラキア文化にかなりの程度まで同化し、基本の民族グループを形成した。
681年にブルガリア帝国を形成したテュルク系のブルガール人もこの民族グループの一部を構成した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
分裂した南スラヴ人が徐々に減少する中で、ブルガール人と南スラヴ系住民は「ブルガリア人」という統一された民族となった[18]。
◆スラヴ人…遺伝子…
スラヴ人は、ハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。ロシア人(ベルゴロド州)に59.4%[4]、ポーランド人に55.9%[5]などである。
いっぽうでバルカン半島では欧州最古層のハプログループI (Y染色体)が高い頻度で見られる(ボスニア人に42.0%[6]など)。
また全域にわたってハプログループR1b (Y染色体)が見られる他、ロシア北部ではウラル語族に関連するハプログループN (Y染色体)もよく見られる。
ロシア北部ではウラル語族に関連するハプログループN (Y染色体)もよく見られる。…
Y染色体のハプログループNは、現存のY染色体ハプログループの中で最も近縁のハプログループであるハプログループOとはKarmin et al. (2015)によれば41,900年(95% CI 40,175年〜43,591年)
前[1]、Poznik et al. (2016)によれば44,700年あるいは38,300年前[2]、YFull (2017)によれば36,800年 (95% CI 34,300年〜39,300年)前[3]に分岐をしたと推定されている。ハプログループNに属す
現存のY染色体は20,000年前〜25,000年前[4]に東アジアにおいて分岐をし始めたと推定されており、ユーラシア北部、さらにはシベリアを横断して北欧まで分布を広げた[6]。
観察頻度はネネツ人に97%、 ガナサン人に92%、ヤクート人に88%[7]、 フィン人に63%[8]、チュクチ人に58%[9]、サーミ人に47%[10]、エストニア人に41%[11]、ユカギール人に31%[12]、ロシア人に20%[13]などである。
ウラル語族との関連が想定される。[独自研究?]フィン・ウゴル系にN1a1、サモエード系にN1a2が多い。
N1が60%以上の高頻度…
遼河文明の遺跡人骨からもN1が60%以上の高頻度で見つかっており[14][15]、かつては東アジア北部においても支配的であったと想定されるが、現在においては概ね10%程度の低頻度となっている。
遼河文明…
◆日本と遼河文明…
遼河人の一部は日本列島にまで進出していた…
ハプログループN、Oに関連する東アジアの民族移動https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97N_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Migration_related_to_haplogroup_N_&_O_(Y-DNA)_in_East_Asia.png
ハプログループNは日本人全体では平均して2%ほど[16][17][18][19]と低頻度であるが、青森県ではN1(xN-M128,N-P43,N-M46/N-Tat)が7.7%(26人中2人)観察された例がある[20]。
遼河文明の遺跡人骨からもN1(N1(xN-M128,N-M46/N-Tat)を高頻度に含む)が60%以上の高頻度で見つかっており[14] [15]、かつ三内丸山遺跡と遼河文明の関連性が指摘されている[21][22]ことから、遼河人の一部は日本列島にまで進出していたと考えられる。
しかし、日本におけるハプログループN-M231の分布がかなり薄い上に、日本で確認されているハプログループNのY染色体は少なくとも三つの異なる下位系統に属しているため、
一度のまとまった民族移動によって日本にもたらされたのではなく、複数の渡来でもたらされた可能性が高い。
日本では古代中国の周王朝と同系である可能性があるN-F710、中国(東北部のオロチェン族、ダウール族、黒竜江省から河北省、安徽省、湖南省、西南部のシガツェのチベット族まで広く分布)や
韓国に見られるN-Y125664と近縁のN-Y23749、中国の山東省や河北省にも見られるN-Y24191などが見られる。

N1a1a1a1a3a-F4205 モンゴル、ブリヤート共和国、カザフスタン、トルコ、ポーランド(恐らくウズベキスタンやアフガニスタンにも分布)
N1a1a1a1a3b-B202 コリヤーク、シベリアエスキモー、チュクチ人
N1a1a1a2-B211 - ヴォルガ・ウラル地域(マリ人、ウドムルト人、バシコルトスタン共和国、コミ共和国、モルドヴィア共和国、ペンザ州)
N-Y24317*(xB187) - インド (アーンドラ・プラデーシュ州)
N1a1a2-B187 - 南シベリア(ハカス人、トゥバ人、アルタイ人、ショル人)、タタール人(ロシア)[27]、モンゴル[23]
N1a1a3-F4063/P83, F4065, Y23747 日本(佐渡島[28]など)、ダウール族
N1a1a3a-Y9641.2/Z8835.2 日本(愛知県、北海道)[3][23]
N-MF38607 中国(安徽省、湖南省)[3]
N-F22150* 満洲(オロチョン族)、[3] 河北省[3]
N-MF15288 黒竜江省、韓国[3]
N-MF55680 チベット(シガツェ)、韓国[3]
N1a2a-M128 エヴェンキ、満州族、シボ族、漢民族、回族、チベット人、プイ族、ベトナム、朝鮮、日本[29]、アイヌ、琉球民族、フィリピン、カロリン人、チャモロ人、カナカ族、カザフ、ウズベク、ハカス、コミ人など
N1a2a1-F710 日本(福井県)[30]
N1a2a2-CTS1350 日本(広島県)[31]
N1a2b1-P63, B478 ネネツ、ガナサン人、セリクプ人、ドルガン人、ハカス、トゥバ人、アルタイ人、ヤクート、エヴェンキ、エヴェン人、ブリヤート、モンゴル、ハンティ・マンシ自治管区・ユグラ(ハンティ人等)、トムスク州、チュヴァシ人[3]
N1a2b1a-B168 エヴェン人[1][23]
N2-Y6503 - ヨーロッパ(イングランド・デヴォン、ルーマニア・スチャヴァ、スロバキア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビア等)、アルタイ[3]
◆ルーマニア…
ルーマニア人(ヴラフ人)…
あるルーマニアのユダヤ人 J2(J−M172)…http://yohane.natsu.gs/00%200%200%20dna2.htm
ロシア系ユダヤ人 J2a1b(J−M67)、
アイヌ紋様の原形(?矢をもつ渦巻き紋)…渦の文様には「力」「パワー」という意味があるという…
投稿者:吾亞風投稿日:2021年11月 4日(木)11時28分2秒 返信・引用
饕 餮文 …
「饕餮トウテツ」(饕も餮もむさぼる意。饕餮トウテツは人をむさぼり食うという悪い獣。後代には魔除けの意味をもった。模様化したものが青銅器などの装飾に用いられている。
・・?(チン)」の形声。チンは闖チン(突然現れる)に通じ、突然現れて走ること。走る・追う意となる。また、ある機会を利用して・〜に乗じて、の意味ともなる。https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/d/20201128
意味 (1)おう(趁う)。走る。「花の底にいる山蜂は遠くまで人を趁う」(杜甫の詩)
(2)ある機会を利用して。乗じて。つけこむ。「趁時チンジ」(その時に乗じて)「人は早涼(早朝の涼しいとき)に趁(したが)って行く」(白居易の詩)
ある機会を利用して・〜に乗じて…
砂が堆積して形成する丘や堤状の地形…
波などに起因する流れによって海底に生じる。. 風によって運搬された砂が堆積して形成する丘や堤状の地形。. 形成される場所によって内陸砂丘・海岸砂丘・河畔砂丘・湖畔砂丘などに分類される。
海の作用による地形 https://www.gsi.go.jp/kikaku/tenkei_umi.html
川が氾濫するたびに堆積した土砂は、河道にそってわずかな高まり(自然堤防)をつくり、そこに集落や畑ができる。
ナイル・チグリス・ユーフラテス・黄河などの流域にある古代文明の発祥地も、水に恵まれた沖積平野である。https://tekibo.net/ehiya/
沖積平野…
黄河文明が黄河流域の 黄土 の沖積平原に発達したことは事実であるが、黄河の本流のほとりなどはとうてい人の生活できる場所でなく、黄河の支流に臨む小高い丘陵地が選ばれた。.
中国においては 早く から更新世(洪積世)の時代に人類が現れている ...https://kotobank.jp/word/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E-162057
…河南(かなん/ホーナン)省中部に達し、やがて孟(もう)県以東で華北(かほく/ホワペイ)平野に流下する。
その間、陝西、山西の黄土地帯を南下するとき、多くの支流から運び込まれた大量の土砂を含み、これが下流域に堆積(たいせき)したため、黄河下流の流路はきわめて不安定で、2年に一度といわれるほど頻繁に氾濫(はんらん)を繰り返し、水路もしばしば変わった。
このような黄河の性格のため、中国の古代文明が発生したのは、下流ではなく中流域であった。
文明が大河の定期的氾濫によってもたらされた肥沃(ひよく)な土壌を基盤に、肥料いらずの灌漑(かんがい)農業として成立したという図式は、黄河の場合には当てはまらない。
黄河文明が黄河流域の黄土の沖積平原に発達したことは事実であるが、黄河の本流のほとりなどはとうてい人の生活できる場所でなく、黄河の支流に臨む小高い丘陵地が選ばれた。
中国においては早くから更新世(洪積世)の時代に人類が現れている。
更新世の人類の化石と旧石器時代の遺跡は100か所以上もあり、全土に旧石器文化が分布しており、かならずしも黄河流域に限定されるものではない。華北の旧石器文化の発展は、大形剥片(はくへん)からつくられた石器をもつ文化と、小形剥片からつくられた細石器を特徴とする文化の二つの発達系統に大別される。そして前者は華北の磨製石器を中心とする新石器時代の農耕文化に発展してゆき、後者は狩猟を中心とした文化に展開したものと考えられている。旧石器時代から新石器時代への発展のメカニズムにはまだ不明な部分があるが、中国の農耕文化の起源は中国独自のものである可能性が高い。
華北の旧石器文化の発展は、大形剥片(はくへん)からつくられた石器をもつ文化と、小形剥片からつくられた細石器を特徴とする文化の二つの発達系統に大別される。があるが、中国の農耕文化の起源は中国独自のものである可能性が高い。
そして前者は華北の磨製石器を中心とする新石器時代の農耕文化に発展してゆき、後者は狩猟を中心とした文化に展開したものと考えられている。
旧石器時代から新石器時代への発展のメカニズムにはまだ不明な部分
…河南(かなん)…
カナン、あるいはカナアン(ヘブライ語: ????? クナーアン)とは、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。
聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%B3
「民数記」では、カナン人は地中海沿岸付近に居住していたに過ぎないともされる[3]。この文脈における「カナン人」という用語は、「フェニキア人」に符合する。
地中海沿岸付近に居住…
地中海沿岸に近い肥沃な沖積平野…
アルジェリア北部,地中海沿岸に近い肥沃な沖積平野。テルアトラス (アトラステリエン) 山脈と首都アルジェに南接する沿岸丘陵に囲まれ,東西約 120km,南北約 30km。国内有数の先進的農業地帯で,独立以前はフランス人の入植中心地であった。https://kotobank.jp/word/%E3%83%9F%E3%83%81%E3%82%B8%E3%83%A3%E5%B9%B3%E9%87%8E-138788
テルアトラス (アトラステリエン) 山脈と首都アルジェに南接する沿岸丘陵に囲まれ,東西約 120km,南北約 30km。国内有数の先進的農業地帯で,独立以前はフランス人の入植中心地であった。
ミシャグチとは、もともと諏訪崇められていた神様、とされていますが、ヘブライ語にすると旧約聖書の、「イサクの犠牲」https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1440708154
イサク Jish?q; Isaac アブラハムとサラの子。 ヘブライ語で「彼は笑う」の意。
神はアブラハムを試みるためイサクを燔祭 (はんさい) として捧げることを命じ,彼が神の言葉に従ったので,神はアブラハムを祝福し,一族の繁栄を約束した (創世記 22章) 。https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AF-30383
イサクを神に犠牲として捧げよ…
河神祭祀…
第二節 河神祭祀 黄河沿岸から西に向けて発展した殷民族の、伊水・洛水進出の折、伊洛・黄河の水を支配していた夏民族との衝突は、必然であった。
…洪水神話、祭祀の水神、河を祭る儀式があり、前節に述べた夏民族の祖神??、羌族の水神共工、姫姓民族(周民族)の祖神黄帝など、民族毎に祭祀を行っていたとされる。https://note.com/malucafe_bungei/n/nb8ec6c4f9669
…山川神鬼への贈り物として、祭祀に用いられるものでもあった。<山海経・南山経>には「其中多白. 玉、是有玉膏、其原沸沸湯湯、黄帝是食是饗……」等と記されている。
黄帝是食是饗…
饗…
河伯 饕餮
饕餮も窮奇も神話中の帝達の出来の悪い息子達で、帝舜により西方へと追放されました。http://prometheusblog.net/2017/12/01/post-6570/
しかし、この神異経中では怪物として書かれておりますので、神話が異なった解釈をなされて出来た話であると考えられます。
西南…方に人がいた。体には毛が多く頭上には猪を載せていた。財を積むことを好み、人や穀物は食べなかった。強者は老弱者から奪い、大人数を恐れ単独を襲った。名を饕餮と言った。春秋で言う饕餮は縉雲氏の不才の子である。別名を貪?と言い、強奪とも言い、凌弱とも言った。この国の人は皆饕餮のようであった。
春秋で言う饕餮は縉雲氏の不才の子である。別名を貪?と言い、強奪とも言い、凌弱とも言った。この国の人は皆饕餮のようであった。
四凶(饕餮、窮奇、梼?、混沌):中国神話中で暴虐の限りを尽くした凶悪な四凶神 http://prometheusblog.net/2017/12/01/post-6570/
四罪(共工、鯀、三苗、驩兜):古代中国神話中の悪行を尽くし舜に断罪されてしまった悪神達
…河伯:黄河を統べ河伯娶婦と言う悪しき風習の元凶となってしまった水神
西海の外に鵠国があった。男女は皆七寸で、人に対して自然で礼儀正しかった。経書を好み跪拝の礼を知り、三百歳まで生きるという。飛ぶように進み、日に千里を行き、百物は誰もこの人々を傷つけなかった。
この人々は海鵠を恐れ、海鵠を過ぎると飲み込まれたが、三百年ほど生きた。この人々は海鵠の腹の中にいても死なず、海鵠も一日に千里を飛んだという。(陳章と斉の桓公が話していた小人はこの人々のことである。)
小人…
西北荒中に小人がいた。高さは一寸しかなかった。彼らの国君は紅の衣を身に着けていた。頭には黒い冠を被り、馬のひく大きな車に乗っており十分厳粛であった。
人が偶然にも車に乗る小人国の皇帝に出会い、彼をつまみ上げて食べるとその味は辛く、その後はどんな物も恐れず、並びに各種の物の名前を記憶でき、さらに人の腹の中にいる三虫を殺すことが出来たという。三虫が死ぬので仙薬として服用できる。
また、西北海外に人がおり、長さ二千里で両足の中間は千里あり腹の周囲は千六百里であった。一日に天酒を五斗呑んだ。五穀魚肉を食べず、ただ天酒を飲むだけであった。山海の間を遊ぶことを好み、百姓を傷つけなかった。万物を干さず、天地と同時に生まれ、名を無路の人と言った。別名を仁、または信、または神と言った。
山海の間を遊ぶことを好み、百姓を傷つけなかった。万物を干さず、天地と同時に生まれ、名を無路の人と言った。別名を仁、または信、または神と言った。
…饕餮や窮奇などの四凶などが形を変えて書かれています。饕餮も窮奇も神話中の帝達の出来の悪い息子達で、帝舜により西方へと追放されました。しかし、この神異経中では怪物として書かれておりますので、神話が異なった解釈をなされて出来た話であると考えられます。
しかし、この神異経中では怪物として書かれておりますので、神話が異なった解釈をなされて出来た話であると考えられます。
小人…
「交易の際、相手との接触を避ける(沈黙交易)」、「竪穴式住居に住む」、「土器を製造、使用し、陶土を求めて他所の地にまで進出する」…
コロポックル(アイヌ語: コ?ポック? korpokkur )は、アイヌの伝承に登場する小人である。アイヌ語で「蕗の下の人」という意味であると解される。 アイヌ語では [p] と [b] は同一の音素であり区別しないため、コロボックル(コ?ボック?)とも言われる。
コロポックルの正体https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB
千島アイヌと竪穴式住居
考古学者の瀬川拓郎は、コロポックルの特徴として語られる「交易の際、相手との接触を避ける(沈黙交易)」、「竪穴式住居に住む」、「土器を製造、使用し、陶土を求めて他所の地にまで進出する」などの事例が北千島に住むアイヌの習俗と共通することに着目し、さらに北海道から樺太、南千島に広く伝わるコロポックル伝説が北千島に限っては伝承されていないことから、「コロポックルの正体は、北千島のアイヌである」との説を提唱している[4]。
なお北千島のアイヌは、北海道アイヌや和人と大きな体格差はない。このことで千島アイヌの認識としては、次のようなことが語られている。鳥居龍蔵はパラサマレックという34、5歳の千島アイヌの世話をしていたが[5]、北海道アイヌと身長差が大してないにもかかわらず、小人扱いされ、千島アイヌを侮蔑した物語として創ったものと認識して激怒していたという[6]。
饕トウ: ? コウ・キョウ 一部 解字 刃が曲がった形の刀の形の象形。上部が持ち手、下部が刃の部分ではないかと思われる。ものを抉り取る曲刀の形である。https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/m/201905
解字 物を貯蔵する箱の象形。金文の一字には貝を加えたものがあり、貯の原字。現代字は上が宀、下が丁に分離した?になった。?は古代文字のおもかげをほとんど残していない形になってしまった。
意味 (1)たくわえる(=貯)。 (2)たたずむ(=佇)。

曲刀…弧…たくわえる たたずむ…湾?…
水辺が弓のように曲がった入り江…
?(つながる)…
湾 ワン ?部 解字 旧字は 灣 で「?(みず)+ 彎 (まがる)」の会意形声。灣 は水辺が弓のように曲がった入り江をいう。 意味 (1)入り江。入り海。
「? ラン・レン」<つながる・みだれる>と「恋レン」「蛮バン」「変ヘン」「湾ワン」 https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/d72315cbeb3156998bc0e18d0d43420f

(1)かわる(変わる)。かえる(変える)。うつりかわる。「変化ヘンカ」「変更ヘンコウ」 
(2)普通でない。「異変イヘン」「変則ヘンソク」「事変ジヘン」(天災その他の変わった事)
未 開発 地 域 の 日本 を 恐 し い 程 に 融 合,同化 し て い っ た …
殷 , 周代 に お け る文 様 と ア イ ヌ 文 様 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssdj/1969/10/1969_KJ00007022631/_pdf/-char/ja
饕 餮文 の 地文 と し て の 雷 文 は 分 解 し て 竜文 に 還元 出来 る な らば ,モ レ ウ文 は 雷 文 と 竜文 の 中間に位置 出来 る 。
特に 背文 様 は 明 らか に 饕餮 文 と しての 竜文 の 形 骸 を 認 め る 事 が 出来 る 。
以上 ア イ ヌ 文様 に つ い て 大 略述べ た が ,先 に 東北 工 大 の 杉 山先生 は ア イ ウシ 文を 中心 に して 古い日本 の 文化 の 影 響 が あ る と 発表 され た 。
そ れ に つ い て 否 定 す る もの で は な い が ,原始時代 (縄文か ら仏教伝 来 あた りま で) の 日本 に どれ程 の 独 自の 文化が 存 在 し て い た か 疑 問 で あ る と共に
夏,殿 ,周以 来 の 固 有 の 美術 文化 を も っ て い た中国が 所 謂未 開発 地 域 の 日本 を 恐 し い 程 に 融 合,同化 し て い っ た と考 え られ る。
従 っ て ア イ ヌ 文様の 形成 は 近 時 の 和 人 か らの 影響は と もあれ ,竜文の 影響 と ツン グ ース と ニヴルヘイム(ニフルヘイム)な ど黒竜江 中心 の
北方 諸族 の 文化 の 影響が 考 え られ 引い て は 唐草 文を 通 し て パルメット (唐草文様 )と の 関 連 も挙 げ る こ とが 出来る 。
こ の 外 に ア イ ヌ 文様 の 解 明に は ,縄 文人 と 蝦夷コ ロポ ッ ク ル や カ ム チ ャ ダール Kamchadale とア イヌ との 関連 調査 な ど も大 事 で あ る し ,
更 らに深 く,ア イヌ 文 様 の 解析 と 周囲 の 諸族 の 文様 との比 較検討 もつ づ けなけ れ ばな らな い 。
(参考文 献略 )
(錦芒}偵寓、1臣峰道敦育大 学 )

日本古代史掲示板(荊の紀氏)
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs?page=5&
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs?page=10&
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs?page=15&
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs?page=25&
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs?page=55&
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs?page=60&
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs?page=100&
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs
https://8811.teacup.com/toraijin/bbs














〉港(みなと)…つきぬけ…穴居住宅…温かい?…ベルベル人…
投稿者:吾亞風
投稿日:2021年10月28日(木)07時34分15秒 返信・引用
日本家屋に学ぶ歴史 https://japanesehouse-history.com/unique-house/cave-house/
穴居住宅 チュニジア南部にある小さな街のマトマタは、地元のベルベル人が住む地下洞窟や穴居住宅でよく知られており、観光客も訪れます。
襲撃を逃れるために作った
なぜわざわざ穴を掘って住居を造り、地上ではなく地下で生活をしていたのは、アラブ系の侵入者を攪乱するために、ベルベル人が遠目には何も無い地形のように見せるため、地中に家を造りました。
穴居住宅ができたのは12〜13世紀ごろだと言います。
イスラム勢力に追われ身を隠したベルベル人は、穴居住宅を造り、穴は深さ8メートルもあり、その穴が中庭になります。
このあたりの岩は石灰岩が多く、掘りやすいというのも、この住宅形式が広がった一因でしょう。
一因…
…《因》下地の上にかさなる/イン・オン…隠?温?
あたたかい…
> 解字 篆文・楷書とも、「囚(とらえる)+皿(うつわ)」の会意。この字の原字である温オンの甲骨文字に、皿(うつわ)の中で人が沐浴する形のものがあるが、一方、これは浴ヨクの甲骨文字とする説もあり確定していない。したがって古い字形が分からないので篆文以降の字形で解字してみたい。囚シュウは人が狭い所に閉じ込められている形で囚人の意。ここでは人の身体のぬくもりが閉じ込められた状態と解釈する。これに皿(うつわ)がついた「囚+皿」オンは、身体のぬくもりが皿の中にとじこめられて、皿があたたかい意となる。新字体の音符に使われるとき、?⇒?に変化する。音符のイメージは、「あたたかい」「身体のぬくみが閉じ込められる」「とじこめられる」となる。
> 意味 あたたかい(=温)。やわらぐ。
> イメージ
>  「あたたかい」 (温)
>  「身体のぬくみが閉じ込められる」(瘟・褞・?・蘊)
>  「とじこめられる・とじこもる」(慍・媼)
> …慍 ウン・いかる  ?部
> 解字 「?(心)+?(とじこめられる)」の会意形声。閉じ込められた心の形で、不満などがたまり、いきどおる・うらむ意となる。
> 意味 (1)いかる(慍る)。いきどおる。「慍色ウンショク」(いかった顔つき) (2)うらむ(慍む)。

>…《因》下地の上にかさなる/イン・オン…隠?温?…
隠?…
黄土高原に残るヤオトンは、地下に潜伏したい人とかが隠れるにはもってこいの場所なんだとか。https://4travel.jp/travelogue/11037262
夏涼しく冬暖かい、”ヤオトン”という土を掘って地下につくられた住居。…
温?…
土の中の家、ヤオトン(中国)|世界の環境共生住宅 ...https://www.daiwahouse.com/sustainable/eco/column/world/china.html
共生…
>共はまた、突き抜ける意を含む…
〉港(みなと)…
【巻】説文解字、五経文字、康煕字典共に「卩」に分類されている。「弓」に点を打ったような異体字は来歴不明。【巷】2004年のJISの例示字体変更前は「巷」でした。http://tonan.seesaa.net/?05030025
…巻
「囗(わく、かこむ)+人」で、わくの中に人を閉じこめること。https://sakura-paris.org/dict/%E5%AD%A6%E7%A0%94%E6%BC%A2%E5%92%8C%E5%A4%A7%E5%AD%97%E5%85%B8/prefix/%E5%9B%9A
収監の収・守(とり巻いて出さない)と同系。また、畜(チク)(囲いの中に入れた獣)は、収や守の入声(ニッショウ)(つまり音)に当たる。
【突】は、会意文字で、穴と犬とを組み合わせて作られた字です。説文解字に「犬、穴中より 暫(には)かに出(い)づるなり」とありまして、穴から犬が急に飛び出す意味と解説して います。 http://fukushima-net.com/sites/meigen/817
「犬、穴中より 暫(には)かに出(い)づるなり」…
【突】 《解字》 会意。もと「穴(あな)+犬」で、穴の中から急に犬がとび出すさまを示す。 https://sakura-paris.org/dict/%E5%AD%A6%E7%A0%94%E6%BC%A2%E5%92%8C%E5%A4%A7%E5%AD%97%E5%85%B8/page/15604
【穴】
会意。「宀(いえ)+八(左右にわける)」で、ほらあなを掘りわけて、その中に住む穴居住宅を示す。
【究】
会意兼形声。九は、手が奥に届いて曲がったさま。十進法の序数のうち、さいごの行きづまりの数を示すのに用いる。究は「穴(あな)+音符九」で、穴の奥底の行きづまる所までさぐることを示す。▽訓の「きはむ」は、「きは(際)+む」から。⇒九
【空】
会意兼形声。工は、つきぬく意を含む。「穴(あな)+音符工(コウ)・(クウ)」で、つきぬけてあながあき、中に何もないことを示す。
◆ベルベル人…
アトラス山中のユダヤ人は、先住民族であったベルベル人に言語や生活様式などの多くの面で同化し、ベルベル人ユダヤ教徒として近年まで暮らしていましたが、その多くが、イスラエルの建国とともにモロッコを離れていきました。http://www.mayoikata.com/M_BUNKA/zatugaku/05_minzoku03.html
E1b1a…ベルベル人に90%…
日本人のルーツを考える
C1a1は、現在、日本人に2.3〜4.5%ほど存在し、日本以外の地域ではまったく見られません。
沖縄(6.6%)に多く、アイヌ(0%)にいないため、東南アジア由来の南方系海洋縄文人の血統とも考えられています。しかし、沖縄以上に、むしろ青森(7.7%)や徳島(10%)にも多いので、南方系と断言はできません。
また、このC1a1の親戚のC1a2は、現代でもヨーロッパに極めて少数存在し、同時にスペインの7000年前の人骨から発見されています。そこから、C1aは、6万年前に出アフリカを果たした、もっとも初期のクロマニヨン人の血統ではないか、とも言われているのです。
…2008年に国連が、沖縄を日本の中の少数民族地域と勧告したことは、明らかに誤りです。アイヌ人のY染色体ハプログループは、縄文系(D1a)88%、縄文系北方遊牧民(C2)12%で、圧倒的に縄文人です。
沖縄人の場合も、縄文系(D1a・C1a1)61%、弥生系(O1b2・O2)39%で、縄文系が濃厚です。
ですから、ここ千数百年の歴史の歩みの中で、不幸にも一時的に、はぐれてしまったことがあったとは言っても、1万年の日本民族の血脈の中では、アイヌ人も沖縄人も、同じ一つの日本民族であることに違いはないのです。
…C系統は、冒険遺伝子≠ニも呼ばれ、最初に出アフリカを果たし、世界中に広がった。このC系統のうち、最古の系統C1a1は、現在、日本のみに2.3〜4.5%(125〜250万人)存在する。
沖縄(6%)に多く、アイヌには存在しないので、南方系の海洋航海民の縄文遺伝子とも考えられている。ただし、徳島(10%)や青森(7%)でも、沖縄以上に頻度が高いので、やはり北方系ではないか、という意見もある。
このC1a1と最も近縁のC1a2は、ヨーロッパに、ごくわずかに見られる。このC1a2は、旧石器時代人の人骨や新石器時代人(7000年前のスペインの人骨)からも発見されており、最古のクロマニヨン人の系統に繋がるのではないか、とも考えられている。
なお、出アフリカ後、C1a系統は、およそ5万年前に、C1a2が西(欧州)へ、C1a1は東(東アジア)へと移動した。しかし、C1a1の日本までの移動ルートは、C1a1が日本にしか現存しないため、まったくの謎である。
…5.E(第三世代)?7万年前に、Aから派生したCTは、6.5万年前に、エチオピアでCFとDEに分離した。そのうち、DEは、6万年前に、アフリカ北東部か西アジアでDとEに分離した。その後、Eは、Dと違って出アフリカせずに、アフリカ全土に広がった。
現在、Eは、アフリカ最大のY染色体ハプログループである。このうち、E1b1aは、黒人に68%存在する。
また、E1b1bは、北アフリカのベルベル人に90%、その他、ソマリア・エジプト・エチオピア・アラブ・南欧のサルディニア島・ユダヤ人などに存在する。ハム語族(アフロ・アジア語族)を含む。
E系統は、ユーラシアン・アダムCTから分派した系統の中で、D・C・F系統とは異なり、唯一出アフリカしなかった。また、E系統は、日本人にはない。
有名人では、ネルソン・マンデラ、バラク・オバマがE1b1aであり、ナポレオン、ライト兄弟、ヒットラー、アインシュタインがE1b1bである。〔A?CT?DE?E〕
…〈日本人のY染色体ハプログループの歴史〜推定〉
4.5万年前??C1a1
(移動型採集狩猟民・後期旧石器時代人/最古層日本人/2.3〜4.5%)
出アフリカ後、C1a2と分岐して東進し、日本列島へ到達する。港川人。その後、さらに南方に広がったのがC1b系統である。
3.5万年前?D1b
(定住型採集狩猟民/後期旧石器時代人?縄文人の主流/35〜40%)
出アフリカ後、D1aと分岐してチベットから東進し、ナイフ型石器文化を伴って、華北から北方経由で移動し、日本に定住をはじめる。
2万年前?C2
(モンゴル系北方遊牧民/後期旧石器時代人/5.5〜6%)
北東アジアで発生し、バイカル湖畔から細石刃文化を伴って、シベリア経由で北方から日本列島に流入する。
3000年前?O1b2
(長江流域の農耕民/初期弥生人/32〜33%)
長江流域から北進して、その後、山東あたりから、日本列島に比較的少数が流入し、緩やかに平和的に融合しつつ、共生がすすむ。後期縄文社会に稲作技術をもたらす。
2500年前?O2
(漢民族/後期弥生人/17〜19.3%)
戦国時代の華北から朝鮮半島経由で、北九州・山陰に侵入し、各地に奴国など武装国家を建国して、互いに闘争をはじめる。
◆1800年前
AD3世紀初め、D1bを中心にC1a1・C2・O1b2・O2の連合した土着の縄文系中心の近畿王朝「大和国家(邪馬台国)」が成立し、O2系漢民族による征服王朝である山陰の出雲王朝を倒す。日本列島の縄文系支配の確立。
初期のクロマニヨン人の血統…C1a2?
ハプログループC1a2(V20)は、チェコから出土した30,000年前の旧石器時代の古人骨から検出されている。
[2] さらに古いベルギーから出土した35,000年前の古人骨のY-DNAは、C1a-CTS11043に属すとされているが、V20等のC1a2を定義づける変異を持っていたかどうかは不明。
[2] ロシア西部ヴラジーミル州スンギール遺跡から出土した約34,000年前の四体の古人骨のY-DNAについては、
C1a1-M8に属すある一人の日本人のY-DNAよりも、C1a2-V20に属すある一人のネパール人のY-DNAにやや似ているという解析結果が報告されている[3]ことから、これらもC1a2の系統上に位置すると推定できる。
現在、Eは、アフリカ最大のY染色体ハプログループである。このうち、E1b1aは、黒人に68%存在する。また、E1b1bは、北アフリカのベルベル人に90%、
Y染色体ハプログループ…
現生人類の共通祖先発祥の地、東アフリカのトゥルカナ湖の東北附近に約6.5万年前[7] に住んでいた一人の男性にこの変異が起こり、
これが父系で遺伝するY染色体の特定のSNPを持つ集団(Y染色体ハプログループ)のうち「YAP(M1)」と呼ばれるSNPを持つハプログループDE系統を生み出し、その後6万年程前にこれが更に2つ集団(ハプログループ)DとEに分岐した。
… アフリカに留まりアフリカ大陸全土や一部は地中海地域やヨーロッパなどに父系を通じて広がった集団がハプログループEとハプログループD2であり、
分岐後出アフリカを経て東方に向かい、チベット・アンダマン諸島・ヤオ族・フィリピンのマクタン島・グアム島・日本列島[8] などに父系を通じて広がったのがハプログループD1である。
またDEの子型でD系統にもE系統にも属さないパラグループDE*がチベット人[9]、ナイジェリア[10]、ギニアビサウ[11] でごくわずかに発見されているが、
このうちナイジェリアのサンプルについてはハプログループD0(後にD2に名称変更)であることが判明し[3]、上述のようにハプログループDが既にアフリカにおいて発生していたことが示された。
DとEに分岐…
中東でネアンデルタール人と交配して分化した「M」と「N」の最も古い亜型…
雑談3:
ところで、日本人(山の民と海の民)、ポリネシア人、フェニキア人は世界人類史的に古い時期に分化した近縁種のようだ、
出アフリカのころY-DNA C系統とD/E系統が分化するが、前者が日本の海の民(海人族)とポリネシア人であり(参考)、後者がさらに分化したDが日本の山の民(縄文人や秦氏)、Eがフェニキア人となった。
@ フェニキア人と日本人のDNA(Y-DNA EとDとCについて、参考) https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12285272510.html
フェニキア人のY染色体DNAハプログループはE1b1b1a3、一般のユダヤ人はJ2aが多いがフェニキア人との交配でE系統も多い。日本にはJ系統もE系統も見当たらないが、日本に多いD系統(縄文人)はE系統と同系で、分派してDとEに分かれた。
日本人のmtDNA(ミトコンドリアDNA)の約67%はアジア系と言われる「M」系列、約33%は西欧系と言われるmtDNA「N」系列です。ミトコンドリアDNAは母親から引き継ぎます。
人類の出アフリカにより、アジア系と言われるmtDNA「M」(母親由来)は、縄文系のY-DNA(父親由来)の「D」と「C」と共に、紅海、アラビア海からインド洋沿岸部を航海して日本列島にやってきた。
mtDNA「M」系列の中で最も古い「M」が日本列島で見つかっているので、出アフリカ後のmtDNA「L3」が中東でネアンデルタール人と交配して分化した「M」と「N」の最も古い亜型がそのまま日本列島に移動してきたことになる。

日本古代史掲示板(荊の紀氏)
https://8628.teacup.com/toraijin/bbs?page=5&
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2021年10月04日

FB古代史研: 竹内文書の古代世界地図

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FB古代史研: 竹内文書の古代世界地図
ムー大陸,ヨナの国,みよいの国,
竹内文書に世界地図があるのですが、私は納得行きませんでした。中東から日本までの海洋地図でしたら納得ですが,世界地図では無いのでは?と思って上下を逆さまにしてみました。
そこに現れた地図は,その昔海底に沈んだと言われるムー大陸の地図でした。
みよい,5色人などが書かれています。
当然後年に写し替えた地図ですが,しかし重要なヒントが隠されていました。この地図がグーグルアースで海底に沈んだ大陸ムーのことだと思ったのです。写真はグーグルアースの海底写真で,一番左にちょびっと台湾があり,そして与那国島、右奥が琉球(沖縄)です。島々の周りが昔沈んだ大陸の名残りです。ムー大陸だったと思います。与那国島の海底神殿の遺跡がなぜあるのか?その証明になると思い写真も添付しました、
さて、5色人のことです、ずーと謎でした、黒人はインド人?
と思っていました、しかし納得が行かないのです、
そして明らかにムー大陸、みよいの国に住んでいた、彼らは、誰なんだろう?
と考えてみました、
この答えが、日本の七福神の神、もちろんこれがタルシン船(帆掛船)だと知っていましたが、
まず、
大黒さんがフェニキア人、
恵比寿さんが、ヒッタイト人、
イザヤ(イザナギ)が、寿老人、
弁天さんが、月読様(イナンナ)です、
残りの3方が、よく分かりませんが
三つの民族でしょう、ここで、イザヤと月読様を除いた五つの民族が確認できます、
五つの文字を持って来たはずです
この五つの民族を5色人と言ったと思います。
最初にタルシン船で来訪した人々です、
これが私の結論です。
この五つの民族に、高御産巣日王国、神産巣日王国で7つです、
最後にハティッシュ(ハタ)からやってきた、八番目の王が牛頭天皇(弓月の君)
アッカド帝王の末裔です、
だから八幡です、八幡神社の祭神です、八幡神社には必ず奥様の神功皇后(稲荷神社)があります、弁天様も、
いかがでしょう?
ご批判や、反対意見も含めコメントお待ちしています。

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266年の大変動
中国の真実
2019-10-28 00:00:15
テーマ:歴史の真実
知っとうや2
世界の歴史は、西暦266年を境に大きく変わったことをご紹介してきました。今回は、この大変動のハイライトとも言って良い地域についてご紹介します。
まずは次の古代地図を見てください。
この地図は266年の大変動前の巨大な日本列島です。前掲の7つの記事で古代の日本列島と朝鮮半島を初めとした周辺国についてご紹介してきました。しかしながら、まだ触れていない重要な地域があります。
それは、古代日本地図の南西部分に位置する巨大な九州です。女王バチの下半身部分のような巨大な島です。この部分を仮に古代九州と呼ぶことにします。
また、次が当時の世界地図でした。
(「神代秘史資料集成 天の巻」より引用)
この地図で古代九州を見ると、とても大きな島であることが分かります。オーストラリアより少し小さいくらいですよね。現在のオーストラリアが762万平方kmですから古代九州の面積がオーストラリアの70%くらいだとすると500万平方kmを超えるくらいの大きさがあることになります。現在の九州が4.2万平方kmですからたった1800年前には古代九州は今の100倍以上もあったことになります。驚くべきことです。
それではこの古代九州大陸は、ムー大陸のように沈んでしまったのでしょうか?
否!
実は、この古代九州の大部分は、266年の大変動によって西側に移動し、アジア大陸とくっついたようなのです。その時の衝撃で、ぶつかった大陸側の地域が隆起し、現在のようなチベット高原が出来たことになります。古代九州が、現在の中国の主要部分なのです。驚愕でしょう!
このくっついた古代九州の部分は、古代から『中原』(ちゅうげん)と呼ばれている地域で、3世紀後半に三国を統一した晋以降、「中原を制するものが天下を制する」と呼ばれるようになったのです。太古の昔である数万年前に、大変動が起きて古代九州がアジア大陸にくっついて今の中国になった、ということであれば別に驚くことではないのですが、その時代がたった1800年前の266年のようなのです。
266年以前の中国は、有名な三国志の時代の末期であり、蜀の滅亡(263年)、魏の滅亡(265年)によって三国のうち呉のみとなり、代わりに司馬炎によって西晋が建国(265年)された直後です。つまり、魏呉蜀の三国志の物語、その前の劉邦によって建国された漢、さらにその前の秦の始皇帝の時代など、266年以前の中国は、現在の中国の地形で起きた歴史ではなく、古代九州で起きたことなのです。
韓国の時代劇ドラマ『朱蒙』や『幻の王女チャミンゴ』のように、266年以前の時代背景を描いているドラマでは、隣国であるはずの漢が、とても遠くの国にあるかのように描かれています。当時の朝鮮半島には、楽浪郡や帯方郡などの漢の植民地が置かれていたとなっていますが、何故直接支配でなく植民地だったのか疑問だったのですが、三国志以前の中国は、古代九州として古代日本列島の一部であり海を隔てて離れていたことを考えれば納得出来そうです。
それと、この古代九州のことを、記紀では筑紫島と呼んでいるのであろうと推測しています。筑紫と言えば、現在の福岡県の筑前・筑後辺りを指すので、筑紫島は現在の九州だと考えられていますが、実際には中原になった巨大な島、大陸だったのです。現在の九州は、古代九州の一部であり、266年の大変動の際、大陸プレートの関係で、現在の九州部分だけが大陸とくっつかず分離されて残った、ということを表していると私は考えています。
中国が天子の国と呼ばれるのは、天日根國が天照大神が住む天と通じた国で、筑紫島は天子である天忍穂耳尊の国ということを表しているのではないでしょうか。
以前、ご紹介した竹内文書の古代世界地図をご覧ください。
太平洋にタミアラ、ミヨイという大きな大陸があります。私は、以前は、このタミアラ、ミヨイをミー大陸と考えていましたが、その後、タミアラは古代中国の唐の朝鮮語の呼び名で、ミヨイは古代中国の明の朝鮮語の呼び名ということが分かりました。この地図は、真実を改竄するために作成されたのですが、実際にはムー大陸はなかったことになります。しかしながら、古代九州である巨大な筑紫島が、大変動によって一夜にして大陸とくっついてしまい、海上からなくなったとしたら、周辺にあった国からすれば大陸が沈んだと考えても何の不思議もありません。ムー大陸伝説は、筑紫島のことを表しているのだと考えています。いずれにしても、中国の歴史も、実は大きく改竄されているのです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

 知っとうや2
https://ameblo.jp/calseed/entry-12538521129.html





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2021年08月31日

生田淳一郎: ネパール語と古代日本語

生田淳一郎: ネパール語と古代日本語
You-I satellite -60
ズボラ言語学者とネパール語
紋 次 郎 ・ ほ っ つ き あ る 記
ズボラ言語学者とネパール語
主筆 生田淳一郎
…… 1 …… H12.11.27
古代日本語の秘密を解いてくれるネパール語とは次のようなものです。小生はこれに拠って楽しんでいます。
大野晋教授が日本語の起源地はタミル語だという新説を発表されたとき,日本の言語学者たちは,寄ってたかって,ヤッカミ200%のどぎたねぇ言葉を使って同教授をふくろ叩きにしました。
このため,人間どうしとしての話し合いの場が失われ,学会としてのタミル語の位置も据えられないばかりか,日本語の源流さがしも火が消えたままで放置されるという,野蛮国家ぶりを露呈して現在に至っています。
大野晋教授が日本語とタミル語の間に挙げられた類似語彙は 350 でした。
それも日本・タミル両言語に精通した二人のスタッフを雇い入れ,10万余語が載っている辞典を精査してのことでした。
ところが小生は5800語彙が載っている『基礎ネパール語事典』から1080 の類似語を得,アイヌ語とのあいだにも 440 の語彙を拾えたのでした。
関連語彙がありますので「ネパール語(カトマンズ・公用語)の約半分近くが極東に類似語がある」……ということになります。
なぜこれまで,そんな“大それた”言語がみつからなかったのかといえば,答えはカンタンです。ネパール語やその兄妹語のヒンディー語は西洋言語学者の権威で“西洋語”の系統樹に収められ,そのうえ,日本の言語学者が「音韻対応」という足枷を設定して自縄自縛の愚をやらかしたからでした。
音韻とはその氏族特有の発音グセです。ですから,この現象は高地にいた農業主体のドイツ人が北へ,或いは西北(英国)へ次第々々に移動したあとでは,よその民族との混血もなければ,きれいにその発音グセの推移のあとをたどれましょう。これ理のとうぜんです。
バカといわんかアホウと謂わんか,日本の言語学者はここに見られる言語現象の法則(らしきもの)を,金科玉条として,この極東・日本に適用させてきたのでした。
…… 2 …… H12.11.27
ことばこそ文化の中核です。ことばが同じであり続けるなら,同一言語が広がっているかぎりに於て,習慣・遺伝形質はしだいに均一化されてゆきます。
日本語(沖縄語)がどこの言語と親縁が深いのか……の親戚探しが最高に盛り上がったのは昭和30〜32年の「マタヤス」と呼ばれた人々が活躍した頃です。
折しも朝鮮戦争が終わって,これからいよいよ日本というアイデンティティーに立ち帰る時期でした。
当時は海外各地に派遣されたあと,引き揚げてきた兵士も青壮年で,海外で経験した「日本語と似ている言語」のことをそれぞれ本にまとめて出版したのでした。
その著述のヤリクチは,類似している70前後の語彙を“散文調”で書いてガサを稼ぎ,習慣の類似を添えて「以て,○○語は日本語に近い」という論法ばかりでした。
しかも,このテアイが次から次に現れるという始末で,最初のうちは読者もジャーナリズムも興味を示していたのでしたが,ついに処理し切れなくなって,新しい原稿が持ち込まれるたびに「ああ,またまた件のヤスダのトクさんか……」という反応を示すようになったのです。
この「またまたヤスダのトクさんか」を縮めて「マタヤス」という用語が生まれたのでしたが,その元々の安田の徳さんこそ,この一連の社会現象の火付け役だったのです。
昭和30年を期に安田徳太郎が優秀な出版会社と組んで「レプチャ語起源説」を唱えて,一大ブームを巻き起こしたのでした。『万葉集の謎』,『人間の歴史』などは,今では考えられないほどのベスト・セラーとなりました。当時,これらの本を一冊も読まなかったひとは,ボケ老人か精神病患者ぐらいなものだったでしょう。
安田徳太郎がレプチャ語とのあいだに挙げた日本語との類似語は 200内外でした。
大野晋教授の提唱は,今から20年前ぐらいでしたが,ヤリクチが同じですので,発表の時期があと15 年早やかったら,完全に“マタヤス”として葬り去られていたところでした。
…… 3 …… H12.11.27
金属製錬の風が吹く前では,どこの氏族語でも暮らしに必要な語彙は,“同義語をひとつと看做し”,“精細に区分化された狩猟・解剖の見地でできた語彙”を除外すれば,およそ2600語彙があれば十分でした。(ニンゲン,バカね)。あっしが言うエデン語は,この“絶対数2600”の中で醸し出されているのです。
そのような古代語絶対数・絡みのなかで……「安田徳太郎200・大野晋350の持っている意味と評価」は決定されることとなりましょう。
いろいろと,あちこちハナシを飛ばしてしました。←←← もどる。
安田徳太郎のベスト・セラーぶりは,なにしろキチガイじみた爆発でした。とにかく異状でした。
しかし,それは陰謀によるヤラセではなかったか……。ここに焦点を置いて考えてみると,その2年前の山中襄太先生の偉業が光彩を放つところとなります。山中襄太先生は信州松本での民俗学会で,800もの西洋語との類似語彙(日本語との)を発表しておられたのでした。しかし,この事実はなぜか一般解説書には登場しません。小生は6年前,アイヌ語研究者からの通報で知り,びっくりしたような次第だったのです。
そのとき小生はすでにネパール語をはじめ,15ヶ国語ばかりの言語辞書を読んでいたのでしたが,とにかく山中襄太先生の 『国語辞典』(校倉書房刊 ・\10,000.-)を読んでみました。
山中襄太先生はマタヤスを軽蔑することなく,日本語と関連のありそうな語彙についての,ほかの研究者の記事を刻明にメモし,整理しておられました。この辞典には約1600の語彙項目が掲げられ“読む辞典”としての解説が施されています。
ところが,不思議とヒンディー語,ネパール語が抜けているのです。ギリヤ−ク語,ウイルタ語も辞書がなかったからでしょうか,研究者の足跡がありません。
小生の“辞書読み”は,計らずも先哲の穴埋め作業をやっていたのでした。
…… 4 …… H12.11.28
よその言語を次から次に辞書読みをしてゆけば,「日本語・アイヌ語」との類似語を普通に吐き出す言語と,僅かしか吐き出さない言語があることが判ります。
日ユ(ユダヤ)同祖論は,かなり根づよい信仰をはびこらせましたが,そのユダヤ語(ヘブライ語)の辞書をヂカに読めば,それがどんなにウソっぱちであるかが理解できます。
安本美典著『日本語の誕生』などで紹介されている“ビルマ・ボド語群・ラールング語”での人体語の近似は,まさに人体語だけで,そのほかの潜在(あったかもしれない)類似語彙のほとんどはアンコール・ワット文明の出現によってかき消された事実を知ることができます。
そして多くのマタヤスさんたちが報告したとおり,よその言語には日本語・アイヌ語に似た語彙は普通60〜80を含んでいることが推測されます。また,実際に辞書を読んでみると大略その通りです。
マタヤスさんたちが活躍した昭和30年ごろ,もし2000の類似語を含む第三言語がみつかったとしたら,それはもう,大昔の日本との近似を示す絶対不動の証拠となっていたにちがいないのです。
ところでどうでしょう。ここに1000以上の類似語彙を吐き出す第三言語があって,その言語が日本の古代の制度,天皇名,神名,地名人名に就いて適宜な意味を吐き出すとなったら……? それがネパール語だったのです。
ネパール語はさきに言ったとおりヒンディー語とは兄妹語で,その近さは「日本語 / 沖縄語」の関係以上です。根本的にちがうところは「○○する」をヒンディー語は -na を用いるに対して,ネパール語は -nu を用いる……それくらいです。縄をなう,担う,賄う,あがなう,そこなう……これらはヒンディー語系です。この言葉グセを持った集団も日本列島に上陸したこともあったかもしれません。
しかし,ここにきて香具さんの協力で,傍系ともいうべきパーリ語(サンスクリット語)系の日本列島上陸の事実が浮上したのでした。
“旗”はパーリ語系です。八幡・秦氏の素性もそろそろ割れてくる文化段階を迎えています。
◆かかわりええがござんした H12.11.28
あっしの古代語追求が拠って立つ姿ァおしらせしやしたハンで,あっし流の言語考古学が神社とか神名とかにかかわる姿をいま少しラクガキさせちいただきやす。
あっしゃ,超古代とか縄文などのマジメな著作がでるたびに,その著者や出版社にA-4 で一枚にまとめた“意味の記事”を送っちいやす。そこに出ている名詞をまず披露しやしょう。希望者はおエメ頂ければお送りしやす。
ムラゲ・ムラジ・諏訪・出羽・熊野・愛宕・神田・ハムキ(鞴)・鹿島・道祖土・サイの神・くなど・三笠・芳賀・馬場・敦賀・駿河・エビス・大黒・ダンジリ・金毘羅・秩父・ウブスナ・イナリ・ナリタ・シンラ・新羅・アマ・佐賀・相模・マタギ・シカリ(マタギの頭領)・有馬・有明・カツマ・マガツ・イクマ・イクメ・イザナギ・イザナミ・アジスキタカヒコネ・イカガシコオ・ククリヒメ・スサノオ・オキクルミ・アイヌ・和気・タケル・高市・イラツコ・イラツメ・ヤマト・ヤマタイ・エカシ・エウカシ・安曇・安藤(安東)・エゾ・エミシ・八幡・ウネメ・ハツセ(長谷)・麿・タカ・花郎・ヘグリ・カツラギ・カスガ・ササキ・ササナミ・藤原・脱解・ヒョッコセ・伊達・草加・オサカベ・タタラ(以上はA-4 いちまいに纏めているもの)。
以上とその他の意味が判りはじめたとき,古代での神概念の発達が解り,童神が出て,ヒミコ・イヨに見られるクマリ信仰……続いてきのふ,インドのカースト制度がほとんどそのままの形でこの日本列島に上陸していた……を発見。
皆の衆がご執心の……タケミナカタトミ・阿波・安房・千葉・船橋・オオイ・ナガスネ・インベ・伊奈・ヒオキ・天の橋立・コノ・などなどの意味も大略のところでわかりやす。皆の衆,神様の名前の意味がワカランで,ようそんなに楽しいもんだと感心しやっせ。
ただ,あっしゃ幼稚園も出ていねぇ。漢字にゃメチャ弱いはで,神様の名前にゃフリガナを打ってくだせぇ。
紋次郎ほっつきある記
ユー・アイ母船へ帰る

神奈備
http://www.kamnavi.net/you-i/zubora.htm





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2019年04月30日

南朝竹内家の竹内文書

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南朝竹内家の竹内文書
古史古伝の代表みたいな竹内文献には、
茨城皇祖皇太神宮のもの,
南朝竹内家のもの
と二通りあります。
ここでは、南朝小倉宮竹内家の竹内文書の資料を掲載します。
■南朝後醍醐天皇の直系・武内宿禰
竹内家には、竹内巨麿とはまったく別系で、南朝の後醍醐天皇の直系として代々武内宿禰姓を世襲している家系がある。
竹内巨麿は養子だったが、こちらの竹内家は、代々実子に受け継がれ、現在七十三世の竹内睦泰氏にいたっている。
この南朝竹内家は、門外不出の口伝を中心とする古神道の秘儀をも伝えているという。
巨麿の竹内家が、越中の婦負郡神明村を拠点とするのに対し、睦泰氏の竹内家は、武内宿禰の墓があるとされる越中の射水郡二上山を祭祀拠点としている。
また全国の二上山でも祭祀を行なう。
南朝竹内家には古神道の口伝のほかに、・外伝としての文書なども伝えられている。睦泰氏によればこの秘伝の文書は、『竹内文献』とは共通の部分もあるが、本質的には別のものであるという。
南朝竹内家の当主となるときは、武内宿禰の霊を受け継ぐ「霊嗣の儀式」が行なわれ、「武内宿禰」の称号とともに「南朝越中宮家」の名も世襲される。
南朝竹内家の行法には、言葉の霊力を高める「言霊の行法」「古神道の呼吸法」「息吹永世の行法」、身と霊を清める「藤の行法」、熱湯の中に手を入れ清廉潔白を証明する「くがたち」、剣によって邪霊を祓う「八雲村雲握剣の行法」などがある。
このように、竹内家、南朝竹内家とかかわりの深い越中富山は裏日本の重要拠点であり、『原竹内文献』が存在していた可能性がじゅうぷん考えられる。『竹内文献』の奥のそのまた奥を見きわめていかねばならないだろう。
「日本超古代史が明かす神々の謎」 鳥居 礼
もう一つの「竹内文書」
竹内文書で有名な皇祖皇太神宮とは別に、いわゆる「正統竹内家」というのがあります。
その「正統竹内家」にも先祖伝来の古神道の秘儀と門外不出の口伝による「竹内秘史」があるようなのです。
現在の当主は、古神道本庁統理・第七十三世竹内宿禰 竹内睦泰氏です。
そして、その口伝に興味深い話がありましたので添付します。
もう一つの竹内文書の存在
最近になってやっと、そうした竹内文書の「真の歴史」の部分を、別の角度から分析・研究することもできるようになってきた。もう一つの竹内文書があきらかになってきたからだ。竹内巨麿が公開した竹内文書とは別に、武内宿禰以来の「正統竹内家」とされる南朝小倉宮竹内家に伝わる古神道の秘儀や秘伝があるという。正統竹内家には、門外不出の「秘術口伝」を記録した文書があり、これを「正統竹内文書」、もしくはもう一つの竹内文書などと呼んでいる。巨麿が保持していた竹内文書の原資料ではないかと考える研究家もいる。
現在のところまだ、ほとんど非公開のため、断片的にしか内容はわからない。だが、竹内文書と同様に超古代において天皇家の先祖が世界を支配していたこと、キリストが来日したこと、越中を中心とする王朝が存在したこと−−−など、かなり同じような内容が含まれているという。
とくに興味を引かれるのは、この秘伝・秘術を伝える竹内神道が秘密結社のような存在で、口伝により記録を継承しているということだ。やはりここでも、伝言ゲームではないが、かなり時代とともに竹内文書の原資料を変形していったとみられる。それでも竹内文書が一部改竄される前の「核の部分」、あるいは原日本人の「真の歴史」を知る手がかりになることに違いはない。
この南朝小倉宮竹内家文書を現在継承しているのが、第七三世武内宿禰の称号をもつ竹内睦泰氏だ。本職は予備校を経営する日本史講師だが、十九才のときに南朝小倉宮家祭祀継承者(口伝継承者)に選ばれた。この選ばれ方も変わっていて、竹内家の本家の長男が継承するのではなく、本人の言葉を借りれば「竹内神道の占い」によって選ばれる。睦泰氏の場合は二〇〇年以上も前に、一九六六年に生まれる竹内家の人間が口伝を継承することが決められ、その年に生まれた睦泰氏に白羽の矢が立ったのだという。
睦泰氏の武内宿禰としての役目は、それぞれの口伝を継承する長老から授かった秘術・秘史の口伝を記憶すること、つまり「人間フロッピーディスク」だ。いつごろからそうしているかは部外者の知るところではないが、幾世代にもわたる実に大がかりな仕組みであり、継承方法であるといえる。この分業制度の下で、個々の秘伝や秘術はそれぞれの分家なり本家が分担して継承し、ただ一人武内宿禰に選ばれた者だけが、全体・全部を継承する。しかも竹内神道は、長老や参議により運営されており、睦泰氏は「飾り物の武内宿禰」なのだと話している。
口伝を継承していく中で、竹内睦泰氏は古神道の秘術や秘史に魅せられる一方、「現代に必要な他民族・他宗教との共存や自然との共生は古神道なら解決できると感じ、それを広げていきたいと決意」。閉鎖的な竹内神道とは事実上袂を分かち、古神道本庁を創立して、口伝の一部を公開することにした。秘密結社である竹内神道の運営に携わっていた長老や参議は当然、公開には猛反対、現在も口伝公開をめぐり竹内神道内部で論争が繰り広げられているのだという。
七三世・武内宿禰との一問一答
正統竹内文書の内容とその性格について竹内睦泰氏に話を聞いた。
−−−この口伝継承が始まった経緯は。
原日本人に対する侵略者である武内宿禰が、原日本人からその歴史と秘儀を奪ったのだと思う。原日本人の歴史はおそらく、神代文字で書かれていたのだろう。もともと天皇と古神道とは関係がなかった。それが現在、関連付けられているのは、原日本人の歴史と秘儀を奪ったことと関係があると思う。そうして作られた歴史や秘術を正統竹内家が口伝で継承していった。
−−−原日本人の歴史が改竄されたということか。
そうだ。最初は古神道と天皇を結びつけるという意図も働き、その後も口伝継承していくうちに、伝言ゲームではないが時代とともに改竄されていったと思う。祭主が勝手に改竄・挿入したケースもあったと推察される。それでも原日本人の歴史は正統竹内文書の中に残っている。改竄されたといっても、それがネタ本だからだ。正統竹内文書は茨城に伝わる竹内文書よりもましだが、私自身は偽書だと思う。それでも真実の歴史が含まれているのではないか。
−−−巨麿が公表した竹内文書はニセモノか。
明らかにニセモノだ。巨麿一人ではできないから、酒井勝軍らが改竄を手伝った可能性がある。しかし巨麿の竹内文書も、元となるネタ本があった。それが正統竹内文書だったのではないかと思う。巨麿がどうやってそれを手に入れたのか。あるいは正統竹内文書の一部を盗んだのかもしれない。正統竹内家は南朝の皇子を富山にかくまっていたこともある。富山に竹内家があったのは事実だが、巨麿自身は竹内家とは関係のない人物だった。私は巨麿はサンカの出身だったのではないかと思っている。だから神代文字の中のサンカ文字は読めたのだ。
−−−正統竹内文書も偽書であるとする根拠は。
やはりキリストが来日したとか、神々が宇宙から来たとか、日本が世界の中心だとか、ストーリーが荒唐無稽だということだ。もちろん、それらが真実であった可能性もある。そうでなければ、秘授口伝をめぐり殺されたりすることもなかったろう。正統竹内家の秘伝には、あくまでも門外不出だった。しかも口伝でなければならず、文書化することも禁じられた。平群真鳥は、それを文に残そうとして殺されたのだ。戦国時代の竹内季治も織田信長を中傷したことや反キリスト教運動をしたことなどの理由で、見せしめのため信長に殺されたが、その背景には正統竹内文書をめぐる戦いがあったとされている。竹内神道は門外不出で、口伝自体がご神体といっても過言ではない。
私がそうした正統竹内文書を公開しようと思ったのは、たとえ偽書であっても、偽書を悪と決めつける風潮が許せなかったからだ。偽書の中にも歴史推理のヒントは含まれている。『古事記』だって似たようなものではないか。
−−−キリストの来日は、正統竹内文書ではなんといわれているのか。
茨城(巨麿)の竹内文書では、キリスト来日の時期を垂仁天皇のころにしているが、正統竹内文書では神武天皇のころとなっている。キリストは五十鈴彦または伊勢津彦と名乗り、八戸を越え蝦夷地に入り、さらに東へ進んだことになっている。弟は伊須気余理彦または石切彦という名前で、茨城の竹内文書に出てくるイスキリと似ている。こうしたキリスト伝承はおそらく、後南朝と結びついた竹内神道が、修検道や密教を取り込みながら山から山へ移り住むうちに隠れキリシタンと合流したため、キリスト伝説が口伝に入り込んだのではないかと思う。
大和族と出雲族の争いと和睦
−−−ほかに巨麿の竹内文書と違うところは。
根本的に違う部分はたくさんある。口伝では一万二〇〇〇年前に世界中で大洪水があった。その洪水の後、最初に文明が開けたのは日本だった。日本の縄文文化は世界最古の文明だった。その文化は八〇〇〇年前に中国に伝わった。五〇〇〇年前には、欧州にも伝わった。その中でいつのころかわからないが、太陽信仰を持つグループである日本のスメル(天皇)族が、沈んでいく太陽を追いかけるようにアジア大陸に渡ったのだ。おそらく太陽の沈む彼方に理想郷があると思ったのだろう。そのグループは二つあり、それぞれ朝鮮半島と南洋を経由して西を目指した。その二つのスメル族のグループはメソポタミアで再び合流した。ところがメソポタミアまで来たものの、どうもそこには理想郷はなかったことに気づいた。
スメル族のグループは、シュメール人と呼ばれた。彼らは古神道に通じていたが、本来古神道とは自然と調和して生きる術、自然の力を利用する術であった。ところが砂漠の地方では、自然は人間に敵対するものでしかなかった。古神道の考えとは合わなかったわけだ。
失望したスメル族は二手に分かれて、つまり自分たちが来た道を通って再び日本に戻ることにした。インドネシアなど南方のルートを通って日本に戻ってきたグループは九州高千穂に上陸、彼らは大和族(日向族)と呼ばれた。彼らは海を下ったので(天降った)と言い換えられた。一方、陸路を使って朝鮮半島から日本に戻ってきたグループは山陰地方に進出、彼らは出雲族と呼ばれた。
彼らは当時の原日本人を制服していった。出雲族は日本海側を支配、大和族は瀬戸内海側を海路東進し、奈良に入った。出雲族のスサノオは、越王朝のヤマタノオロチを「退治」した。その後、出自不明の大国主はスサノオの娘と結婚して出雲の王となったが、それを認めてもらうために再び越の国を攻めた。
その間、出雲族と大和族は何度か小競り合いを繰り返した。おそらく最初の戦いでは大和族が勝ち、二度目の戦いでは出雲族が勝利した。二度目の戦いの後、和睦が結ばれ、出雲族のスサノオはアマテラスと夫婦の関係になる。しかし、大国主の息子の事代主(コトシロヌシ)が王の時代に、再び戦争となり、出雲族は大和族に敗退する。その結果、当時の大和族の主である神武は、事代主の娘を娶り、ここに大和朝廷が確立する。おそらく紀元後五〇年ごろの話だ。こうした歴史と、越の国などに伝わっていた原日本人の記録と秘術が合体して、口伝ができたと考えられる。
−−−洪水以前の話は口伝にはないのか。
あるが、公開できない部分が多い。触りだけ話すと、太古の昔に神々は宇宙からやって来たことになっている。いつごろのことか不明だ。どこから来たのかについては三つの説がある。私自身は三つも説があるのはおかしいと思うが、北極星説、スバル説、オリオンの三つ星説だ。
−−−降臨した神々と人類との関係は。
当時、地球には原人がいたが、現代の人間は彼らが進化したとは思われない。黄色人種が世界に散らばり、白人になったり、黒人になったりしたのではないか。少なくても日本から世界各地に散らばり、都を築いていったのだと思う。口伝では都をアスカと名付けたとある。アラスカやナスカはその名残だと思う。
−−−ヒヒイロカネの口述もあるか。
ある。おそらく赤色の金属だったのではないか。
−−−キリスト以外の聖人の来日については。
孔子、溥儀、釈迦が来日したことになっている。マホメットの来日についての口伝はない。
−−−竹内文書にみられるような近代の地名はやはり伝えられているのか。
サンフランシスコやボストンなどの記述はない。唯一あるのは、大山阿夫利神社でも知られるアフリという名だが、この由来は雨降りだと思っている。
以上が竹内睦泰氏との二時間にわたるインタビューの概要だ。口伝のどこまで信じるかは読者の自由である。ここでは私もあえてコメントをしないでおこう。ただこうした口伝からも、北陸に、そしておそらく飛騨にかけて原日本人の文明が超古代に栄えていたことがうかがえる。原日本人の歴史を武内宿禰が奪ったというのも、金井南龍の「平群真鳥盗用説」とほぼ合致する。また、天皇(スメル族)は日本でなく大陸に渡ったという説も引かれる。そういう説ならば、竹内文書がよく批判の対象となる思想、つまり日本の天皇は世界を統治していたとする超国粋主義的な考えから、少し距離を置くことができるからだ。
もちろん、睦泰氏が継承した正統竹内文書は、本人も認めているように原日本人の歴史を改竄したという点から偽書ではあるのだろう。
その後も改竄が重ねられたのかもしれない。
(睦泰氏は口伝を正統竹内家の長老たちから継承しただけであるから、仮に偽書だとしても悪意や罪があるわけではない)しかし偽書であっても、巨麿の竹内文書を口伝と併せて研究すれば、竹内文書に隠された真実の秘史の部分が浮き彫りになってくるのではないだろうか。
「竹内文書の謎を解く」 布施泰和
神道における秘授口伝の一形態
(竹内睦泰 古神道本庁統理・第七十三世武内宿禰)
いわゆる『竹内文書』について
一般に『竹内文書』といえば、竹内巨麿の保持していたという文書・神宝類をさす。
しかし、その内容は古墳時代の人物である武内宿禰が、飛行船に乗って世界一周旅行をしたり、紀元0年前後のキリストが、垂仁天皇の時代(三世紀ごろ)に来日したりと、SF小説としてはおもしろいが、かなり無理がある。
もっともまったく原型がなかったわけではない。
そこに古史古伝のむずかしさがある。なぜ作られたか、どのようにして誰が作ったかを判断する際には、その時々の時代を考えながら社会学的なアプローチが必要である。
しかし、竹内巨麿の揚げる系図は、信用出来ない。
生年の年号を西暦に改めると、親よりも先に生まれた子供が何人もいる。
兄弟関係は系図に記されている通りだろうが、間違いなく親子関係において矛盾がある。
どうせならもっとましな系図を作ればいいのにと思ってしまう。
もっとも巨麿自身は竹内家の血はまったく入っていない。
というのは、巨麿が養子なのは周知の事実だが、巨麿を養子にした養祖父・下西庄二郎自身も竹内家に養子に入った人である。
巨麿自身も気が引けたと見えて、別名を『宿根』としており、「竹内宿禰」とは名乗っていない。
どうも、養子というのは劣等感の裏返しなのか、自家の家系を誇る傾向にある。
南朝天皇を名乗った熊沢寛道も実は養子だった。この二人に共通する養子と貴種への憧憬の関連性については、いずれ心理学的考査を行いたい。会えれば良かったのだが、私の生まれた年に、南朝の養子寛道と竹内家の養子・巨麿は死んだ。
正統竹内家(正統竹内神道管長職家)は、この南朝および竹内家(竹内宿禰)の正統である。
もちろん巨麿の茨城竹内家とはなんの関係もない。しかし、正統竹内家に伝わる口伝の内容と『竹内文書』の内容に、ある程度の類似性が見られることから、巨麿もしくはその周辺の人物が、正統竹内家口伝を一部知っていた可能性がある。
正統竹内家の墓守に大伴部真麻呂と宿禰麻呂がいる。
彼らは桓武天皇の延暦十一年(七九二)に、陸奥国俘囚の身から、祭主の留守を守る宮守兼竹内家の墓守に採用された。そして射水郡二上山にある武内宿禰の墓を守るため居住した所が伴郷と呼ばれる地名となったという。この二人の子孫が代々墓守をしていたのだが、茨城竹内家の先祖に大伴部仲麻呂という人物がいる。何か関係があるのかもしれない。
また、福島日吉神社から盗まれた宝物や、斉藤慈教の持ち出した南朝の宝物がなぜか茨城竹内家にあるので、正統竹内家の墓から盗まれた物をどこかで買い取った可能性がある。というのは巨麿は信者には宇多源氏の庭田大納言の四男と自称しておきながら、特高の取り調べでは清和源氏の竹内惟治の子孫と名乗る。のちの巨麿の自伝『デハ話ソウ』でも惟治の子孫と名乗る。しかし、茨城竹内家の系図には惟治の名前はない。自伝では季治は弟で、時代は南北朝時代になっているが、正統竹内家の先祖の竹内季治は、安土桃山時代の人物で、織田信長に殺された公卿である。
この人物は重要文化財「久我家文書」にも載っているので、南北朝時代の人物でないことは確かだ。なお江戸末期に盗まれた正統竹内家の系図には生没年が入っていないので、時代を間違えた可能性がある。もちろん正統竹内家の墓から古文書・神宝類を盗み出した人物は巨麿ではない。年齢的に巨麿が盗むことは不可能だし、巨麿は越中国婦負郡から掘り起こしたと言っている。正統竹内家では越中国射水郡二上山に埋めていた。謎は深まるばかりだ。しかし、大正元年の時点で巨麿が『竹内文書』について何も知らなかった可能性は、大正元年に出した自分の伝記に一言も竹内宿禰や『竹内文書』が登場しないことからみてきわめて高い。
正統竹内家について
正統竹内家に伝わる口伝は、門外不出の極秘口伝であり、一般には非公開であるため、ごく一部の人々しかその存在を知らないし、内容にいたっては、秘密神道の性質上、歴代の武内宿禰とその周辺の長老・参議・蔵人クラスの幹部にしか伝授されていない。秘密神道になった理由としては、古神道の秘儀と南朝の血脈を受け伝えていることが大きい。
◎神宮の成立
現在、社殿はないが「幽斎」で祭祀を執行している社に「皇祖之霊皇大神宮」がある。口伝によれば、神武四年に神武天皇の詔によって創建された。
この神宮の初代祭主は、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫であり、彼女が事代主命の娘であることから、出雲系神道の口伝が伝わっている。
以下、正統竹内家と神宮の歴史について語ろう。
二代祭主は神八井耳命で皇位を弟を譲って、自らは祭主となった。もっともこの当時は「統治王」よりも「祭祀王」のほうが上席であったと伝えられる。
三代祭主は研耳命で、「記紀」では神武天皇の皇子となっているが、実は手研耳命の皇子である。
父が逆賊の汚名をきたため系図を祖父につなげたらしい。
以後、天皇の近親者によって祭祀は執行されてきたが、景行天皇の時代に詔によって、十一代祭主・屋主武雄心命の子孫が、代々祭主を世襲することになった。
◎武雄心命の子供が第一世竹内宿禰である。
これは建内宿禰や武内宿禰と書くのが正式だが、鎌倉時代のときより竹内宿禰に書き替えたらしい。
歴代の祭主が竹内宿禰の霊を受け継ぐ「霊嗣の儀式」を執行するので、祭主の世襲の称号となった。
「記紀」に載っている武内宿禰は、この第一世から第五世竹内宿禰の実績をつなげたものである。
◎以後、第六世が若子宿禰(允恭天皇と同一人物との口伝あり)。七世が大臣・平群都久宿禰。八世が大臣・平群真鳥宿禰である。
この真鳥の時に、平群氏は自分の家に群臣を招集して政治を行っていた。しかし、大伴氏の陰謀により失脚する。この時に古神道の秘儀以外の歴史についての口伝を漢字で筆録したのは事実らしい。しかし、御神符など以外は、この時すべて漢字で書かれたため、神代文字で本文が伝わることはありえない。
◎竹内家の武術と医術
平群氏が復権したのは第十三世の平群神手の時で、物部守屋追討の際に将軍として前線で戦った。
その功労で復権して、のち小徳紫冠を授かっている。この人の武術は第一世・武内宿禰伝来の秘術で、戦う前に手を塩をつけて清めることから塩手法ともいう。古代の相撲の原型らしい。一撃必殺の「武撃ち」という。青竹を素手で僕ち折り、鎧の上から打撃を与えただけで敵が死ぬほどの秘技をあみだした。
古代の豪族は自家独自の神道・歴史・武術・医術を伝来していたそうで、竹内家にはほかに、医術の「真手法」と「骨法」が伝わっていた。
骨法は武術ではないのだが、人間の急所を熟知したうえでの技なので殺人にも使われたらしい。
本来は医術である。竹内家ではのちの豊治のときに分かれた家に、柔術の竹内流宗家がある。
◎歴史書編纂
第二十三世の平群子首は、天武朝に開始された『日本書紀』の編集で、臣姓伝承編集を担当した。
連姓伝承担当は中臣大嶋である。
以後、最初のうちは国司、のち代々郡司となったが、四十五世の平群清幹の時に、平将門の乱追討の征伐副将軍となった。
配下に甲賀忍者の祖・諏訪三郎兼家がいた。
以後、秋田城介・平群利方、鎮守府将軍・平群永盛と続くがその子の頼義が若くして出家したため、再び没落する。頼義は僧侶として比叡山の首楞厳院の阿闍梨・光源として大成した。このころ密教関係の口伝が挿入された。
◎平群氏から源氏へ
頼義には出家前に子供がいて、その孫の平群義宗の時に男子が絶えたため、娘を清和天皇八代孫の大内義信に嫁がせて武内宿禰の血を伝えた。
彼は武蔵守兼守護として善政を施し、将軍・源頼朝より全国の模範とされたが、孫の伊勢伊賀守護・大内惟信は、承久の乱で後鳥羽上皇方についたため失脚した。幸い、子の惟時が宗尊親王の側近となったので復権した。しかし、それ以後は京都の方で公家として暮らすという変わった経歴だ。
◎南朝との関係
第四十八世・竹内仲治の時に、後醍醐天皇より山城国に築城せよとの綸旨を賜った。
これは重要文化財「久我家文書」にも残っている。この頃から南朝と北朝の両方に仕えることとなるが、かなり貧乏だったらしく「久我家文書」には第五十二世・竹内為治の借用状が残っている。このころに南北朝は合一したのだが、竹内家では南朝の皇子をかくまっており、南朝より代々従三位を授かっている。また、北朝からは代々、大膳大夫と近江守を授かっている。
◎戦国期の竹内家
第五十六世武内季治の時に、将軍・足利義輝の執奏により、堂上公卿の席に列した。
これは妻が義輝の乳母だったらしく、親しい関係にあったためで、義輝が京都から逃亡するときに、近江が多いのもその関係らしい。
義輝が死んだ二年後の同じ日に出家した。彼は一時期、三好長慶・松永久秀らと組み、京都を法華宗のリーダーとして牛耳っていたことがある。
季治は題目を唱えるときに、神道の言霊を利用したため、妙音を発して尊敬されたらしい。
息子の長治の妻に松永久秀の娘を迎えたのも法華信仰のネットワークからだ。
しかし、義輝はキリスト教に布教を許してしまった。季治にとってキリスト教は真っ向から対立する宗教である。
彼は同じく、布教を許可した織田信長にもくってかかり、言が入れられないと将軍・足利義輝に「信長は熟したイチジクだ。いずれは地上に落下する」と讒言を叩きつけた。これを信長が知り、季治は近江の永原で処刑された。季治は息子の刑部卿・竹内長治と絶縁している。そのため二女を、かくまっていた後南朝の皇子に嫁がせて血を残した。第六十世越中宮惟治王改め竹内惟治である。(実際は小倉宮良泰親王の子孫)
この時に南朝に伝わっていた神道の秘儀や秘史も竹内家に導入された。
有名なのが「真床男衾之行法」である。これは現在の北朝の天皇家には伝わっていないらしい。
しかし、竹内家は戦国の世の常で没落して神主となり、のちには百姓にまで衰退した。
◎文書の盗難
江戸時代には代々、竹内三郎太郎を名乗り世襲した。その時に、越中国射水郡二上山の武内宿禰の墓に隠していた御神宝をつかって「霊嗣の儀式」を執行していたが、江戸の最末期に、何者かによって盗掘されてしまった。その為第七十二世の子供はショックで跡を継がず、明治初期の戸籍名も通称の三太郎とした。のちに近くの土地で御神宝らしきものが売られていたと噂で聞いたが、あとの祭であった。
当時はよく神社や古墳の盗品が骨董屋に出回ったらしい。家紋も、越中の民謡「三才踊り」に「かたばみ紋に菊宿る」と唄われた「菊浮線綾に剣片喰」から菊をとり、ただの「剣片喰」になった。南朝摂政宮竹内家の家紋は「四つ割菊に葉付き紋」で、現在はこれを使用している。この竹内神道の秘密の門人達の子孫が私に竹内神道を伝えてくれたのである。三太郎は私の曾祖父にあたる。
◎現代に甦る古神道
竹内神道は秘密神道で、内容はおろか信者の名前まで非公開なので、私も表に出るつもりはなかったが、古神道を学んでいるうちに、秘儀はともかく、その思想は広く人々に伝えるべきではないかと思うようになった。
古神道には現在人類にとってもっとも必要と思われる「自然との共存」を可能にし、他の宗教・人種・民族とも共存出来る「和」の思想がある。これを伝えたい。そう考え「古神道本庁」設立した。祭神は「天神地祗八百万神」である。
正統竹内家極秘口伝について
極秘口伝である以上、一般には公開していないのだが、ごく一部の内容を研究者に語ったところ、それが本や雑誌に載ったことがある。しかし、そもそも大半は古神道の秘儀なので別に面白くもないのだが、「雑伝」と言われる、あまり祭主が信用していない口伝には確かに「キリスト伝説」なと興味深いものもある。
ただし、茨城竹内文書の伝える垂仁朝ではなく、神武天皇の時代である。日本に神道の修行にきたわけでもなく、太陽の上る方角に、つまり東へ東へと向かって日本についたらしい。もっともこの太陽に向かって日本にきたというのは、天孫族来日の口伝にもある。とりあえずキリストの日本名は五十鈴彦というらしい。茨城は八戸太郎天空と名乗ったとしているが、西暦0年ごろの日本で、そんな名前はありえない。弟の名前は伊須気余里彦で、兄弟ともに神武天皇の妻の名前をもらったらしい。一応、父の名前が「世聖父」で、母の名前が「真理」なのも、信じがたいが記しておこう。キリストはその後、さらに東へ向かったという(位置的にはアメリカ大陸だ)。
この話は、どうみても明治時代、古くてもいいところ戦国時代に作られた話と思われるので「雑伝」になっている。しかし、先祖から伝わる口伝を、勝手に削除するわけにいかないので伝えてはいる。
◎口伝についての一考察
口伝の信憑性については史料批判以前の問題なのだが、家や、宗教教団に伝わる口伝はそれが事実であるかどうかよりも、そういういい伝えによって家や教団が成り立ってきたということが重要なのであり、宗教や神社に伝わる口伝はそれ自体が信仰の対象になることが多い。
口伝は論文を書くときの論拠にできないのだが、ヒントにはなる。エスキモーもマンモスの記憶を口伝で伝えてきたのだし、『古事記』『日本書紀』も口伝を編集したものだ。
そういう意味では、今のうちに口伝を編纂しておかないと、絶えてしまうおそれがある。「雑伝」レベルのものは、いずれ時間ができたら文章にまとめておきたいと考えている。これは現代版の『扶桑略記』『水鏡』にできるかもしれないと期待している。
今のところ神武天皇以降を簡単にまとめて、信者や一部の研究者に公開している。これが「正統竹内神道管長職家文書」(略称・正統竹内文書)〔人の巻〕の一部である。「竹内家秘史系譜略解」である。これの研究者としては日本歴史研究所から『竹内宿禰と詠う神人たちの詩』などが出版されている。
竹内家の雑伝には、このほか日本ユダヤ同祖説ならぬ世界同祖説や、ピラミッドに関する口伝、前方後円墳の形についての口伝や、宇宙の創造にいたるまで様々な口伝が伝わっている。
◎予言について
また、歴代の祭主のなかに予言を残す人々が何人かおり、この予言の中に、
「日本は世界の雛形である。日本が世界の模範となって神政復古を実現した時、争いのない世の中、高天原が顕世に顕現する」といった内容の外八州内八州観的なものがある。
ほかにも「日本を外国の手先が八つに分けようとする企みがおこる」という岡本天明の「日月神示」とよく似たものがあるが、これは「道州制」のことだろう。とすれば外国の手先とは誰のことかと勝手に想像したり、なかなか楽しませてもらえる。
予言といえば、大本の出口王仁三郎の「今の竹内文書は、わしが神様から聞いたのとは少し違う」という言葉が残されているが、王仁三郎の知っていた竹内文書とは、おそらく正統竹内文書のことであろう。
竹内家口伝の分類
正統竹内家の口伝は、基本的に大きく、いくつかの系統の伝承に分類できる。
・アニミズムそのままの太陽崇拝などの自然崇拝の伝承。
・国津神系伝承と古神道の行法(天皇家の先祖は日本を征服すると同時に、国津神系の神道の秘儀を奪った)
・ニニギ命の妻=大山津見神の娘・木之花咲夜姫の時と、後醍醐天皇についた山民の伝承
・彦火火出見命の妻=大錦津見命の娘・豊玉姫の時と神功皇后の三韓征伐の時に武内宿禰に従った阿曇一族の海民伝承。
・神武天皇の妻=事代主命の娘・媛蹈鞴五十鈴姫の時の出雲系伝承。
・屋主武雄心命の時の紀伊国に伝わる南洋系伝承。
・武内宿禰の時に、審神法・禊法・盟神探湯などの、古神道の秘儀を整理。
以後、平群子首が臣姓諸豪族の口伝を集めて、『日本書記』に入れられなかったものを、子孫に伝えた。この時に、連姓伝承で採用されなかった大伴氏伝承・物部氏伝承・忌部氏伝承などが一部伝わった。
平群安麻呂(当時、尾張守)の時に風土記編纂の命令がきたので、尾張氏の伝承を伝える。これはのち熱田大宮司家に藤原氏より竹内季範が入るときに、伝授している。また、平群清幹以後三代のときに東国の伝承が集められた。
竹内季治の時に法華神道が導入され、後醍醐天皇の子孫・惟治の時に南朝伝承と天皇家の神道の秘儀、そして真言密教が伝わる。
江戸時代は浄土宗だったらしく、浄土信仰の変わった神道説が伝わっている。
浄土神道
南朝天皇=阿弥陀如来=転輪聖王
武内宿禰=大勢至菩薩=都市王
といった具合だ。
古神道の可能性
しかし、やはり古神道の秘儀こそ、正統竹内家極秘口伝の、というより日本の最高機密といえる。これは細々と陰で信者に伝えているので、断絶することはない。
なぜ公開しないかといえば、やはり、いい加減な気持ちで取り組む人物に伝授すると、本来の意味を取り違えてしまうことがあるからだ。
「死と再生」の秘儀に至る「神髄の道」は険しいものである。ほんのわずかな迷いが、命取りになることがある。
また、竹内神道が、極めて秘密性の強い教団だからである。現在でも正統竹内家当主は「霊嗣の儀式」を執行した後、古神道宗家「武内宿禰」の称号とともに「南朝小倉宮家」も継いで、いまや有名無実の、というより無名無実の「吉野朝廷」摂政宮祭祀王に就任する。これははっきりいって人には言えない。会員にしても普段はただのサラリーマンが南朝忠臣の子孫ということで「武蔵守」(もちろん実益はない)になったりする。家族にも隠している人が多い。
この竹内神道の教典と言えるのが「正統竹内文書」である。危険な人物と思われないためか秘密会員が大半である。そのため「古神道」の秘密結社といったものになってしまった。そういう意味で逆に「古神道本庁」は開放的な明るい団体にしたいと思っている。
古神道にこそ、現在の人類にとって、もっとも必要な「自然との共存」、他の民族・人種・宗教との共存を可能ならしめる思想が含まれているのである。この思想を広く世界に広げたい。
古神道本庁の「神道ルネッサンス」運動により、民族宗教「神道」は、世界宗教の根源たる「古神道」に甦る。
「古史古伝の謎」新人物往来社
足利尊氏は吉野を落ちられた後醍醐上皇を殺害した
足利尊氏は後醍醐上皇が吉野宮から脱出されたのを知り全国に命じて上皇の殺害を命じた。
「太平記」は後醍醐天皇が後村上天皇に譲位され吉野宮で崩御された様に伝えているが、実際は僧侶達に金を与え、天皇が崩御されたという風評を流しても吉野を脱出されたのである。
勿論この様な風評がばれぬはずもなく、やがて足利尊氏の下に事実が伝えられると、彼の命令によって後醍醐上皇は苦難の末、逆賊の僧侶のために傷つけられ遂に崩ぜられてしまった。
当時の生々しい事件は後醍醐上皇にお供をした皇祖皇太神宮神主家の竹内惟光と竹内惟眞の両名によって、興国五年九月十六日後醍醐天皇崩御の三年祭の記録として残されている。
本章では、これまで美化されてきた足利尊氏の知らざる逆心の一端を示すため、記録の内容を詳しく公開したいと思う。
・後醍醐上皇は御年五十二歳の時延元四年八月十六日の夜丑の刻に、吉野御殿を立って、越中の国にある皇祖皇太神宮別祖太神宮を指して落ちて行かれた。
その時神宮からお迎えのため参内したのが神宮神主家の竹内惟光と子の惟眞の両名であったが、上皇が吉野御殿を出られる時は御箱の中に入っておられたという。
・御一行は伊勢国、近江国、越前国、加賀国を経て越中国婦負郡の皇祖皇太神宮神主竹内惟眞の妻(後醍醐天皇の御子良子内親王)の宅へ延元四年十一月十日夜到着された。
翌興国元年三月十一日朝方神勅があって「今より先の代六百年(昭和十五年)に五色人の大変(世界大戦)となり天下統一の代になる」とお示しになる。
また、竹内家普代の家老桃井直常が変心して足利尊氏に従ったから、翌年の興国元年八月十七日惟光宅を朝寅の刻に御出立され常陸国に向かわれた。
この時上皇をお守りするため、万里小路藤房、万里小路季房、竹内惟光、竹内惟眞、竹内信治その他竹内家一族親子兄弟と家臣および新田氏、楠木氏の一族合わせて三百二十一名が、皆敵を欺くために名を変え、上皇の前後二十里の問を敵に隠れて思い思いの変装をして潜行したという。
・上皇は四日後の二十一日に越後国岩室に着かれた。二十三日に弥彦山に登られたが、新潟に敵が居るため通ることが出来ず引き返して二十五日見附に着かれた。
しかし、上杉民部憲顕のため大難に遇い、二十九日上皇の御身代わりとなって踏みとどまった竹内越中元助、菊地新左衛門を大将とする十八名が討死した。
この時竹内惟光は敵の大将長尾三郎由景を切り殺し、上皇を負って落ちて行かれた。
・上皇は翌九月五日越後国六日町で大難に遇われた。この時、竹内二郎左衛門以下五名は足利方の僧侶狩野祐眞その他八十一名と戦って祐眞外四十八名を斬殺して自害した。
同月二十二日信濃国切明で足利方の小笠原貞宗の兵と戦って宗佐右馬頭以下五名が討死した。
十月三日上毛野国長野原で里見民部小輔義宗のために大難に遇い、上皇は箱の中に入ってお逃れになった。この時、敵と戦って討死した者は倉光三郎以下十二名。
・上皇は十一月六日軽井沢を通り妙義山に籠られたが興国二年正月十日に御出山。時に雪崩れに遇い大友左近以下六名死んだ。竹内惟光以下四名は上皇を負い奉り各間を通って磯部村の大郎左衛門方に御臨幸された。
同月十四日山賊に出会い石黒十右衛門と井上三左衛門が戦い負傷のため越中に帰って自害した。
上皇は二月四日武蔵国武甲山に籠られたが、二月十三日大難に遇い、高師直の兵と戦って竹内惟治以下二十九名が討死した。
これは、藤房季房公が敵に発見されたための大難であったという。
・上皇は二月二十五日武蔵国多摩郡吉野に着かれたが、二十九日敵海老名尾張六郎秀直のために大難に遇われ、高楯三郎以下四名が討死した。
三月五日甲斐国都留郡吉野で、武田信武のために大難に遇われ討死する者が若槻太左衛門以下十九名あった。
三月十三日武蔵国入間川で大難に遇われ、高師直の兵と戦って福光太郎左衛門以下十三名討死した。
五月五日相模国萩野で大難に遇われ、波多野宣道の兵と戦って岡崎藤十郎以下十一名討死した。
・上皇は五月二十日武蔵国萩窪で僧侶のため大難に遇われ、竹内太六郎以下十二名討死した。
五月二十五日下総国稲毛で大難に遇われ、千葉介貞胤の兵と戦って諏訪三郎左衛門以下九名討死した。
六月四日下毛野国藤岡で僧侶六十七名のため大難に遇われ、滋野行義以下五名討死した。
六月十六日下毛野国日向で大難に遇われ、里見義原の兵と戦って世良田大膳以下五名討死した。
七月三日下毛野国の民家で大難に遇われ、大館幸氏の兵と戦って粕谷十郎以下十名討死した。
この時敵兵を九十三名殺したという。
七月二十二日常陸国那珂郡長倉で大難に遇われ、佐竹貞義の兵と戦い高倉清信以下五名討死した。
なお、この時藤房季房公那珂において上皇と分かれて別行動となる。
・上皇は八月二十九日常陸国の少里より石岡の問において大難に遭われ、深須入道外四十二人と戦って上皇がお傷を受けられ病の床に臥せられた。
詔によって竹内惟光と惟眞は勅使となり、勿来の関の下にある皇祖皇太神宮の分霊殿へ大祈願を行い、上皇の痛む所の平癒を祈り奉った。
九月六日二度目の勅使を立てられ百三十七名→同で祈願をした。
九月十六日後醍醐上皇は遂に御年五十四歳で崩ぜられた。
その日、惟光惟眞の命令により竹内惟定は深須入道外九名の僧侶を切殺し、上皇にお供をしていた者はことごとく自害して果てた。この後、竹内惟光と惟眞は上皇の御神霊とお供の者の御魂を祭るため残ることになった。
興国五年九月十六日三ヶ年祭の時、皇祖皇太神宮境内に後醍醐上皇の大神宮を造営し、御神霊と上皇のために討死あるいは自害した者三百二十一名の御魂を祭り、当時の詳細な記録をとどめて後醍醐太神宮の秘蔵とした。
以上に記された後醍醐上皇の大難の数々は足利尊氏の命令によるもので、上皇のお供の者が尊氏の側近高師直の兵と直接戦っていることで証明される。
尊氏の性格は二重人格者で、宗教のマインドコントロールにより一面やさしく反面狂暴性を発揮した。
だから当時の武将達には人格高潔な姿として現われたが、「天皇否定の宗教」の霊的指令に従った時は、天皇を滅ぼすための悪魔となって狂弄していたのである。
「後醍醐天皇」 竹田日恵著より

南朝と竹内文書
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南朝小倉宮竹内家の竹内文書
古史古伝の代表みたいな竹内文献には,茨城皇祖皇太神宮のものと,南朝竹内家のものと二通りあります。
ここでは,南朝小倉宮竹内家の竹内文書の資料を掲載します。
南朝後醍醐天皇の直系・武内宿禰
竹内家には,竹内巨麿とはまったく別系で,南朝の後醍醐天皇の直系として代々武内宿禰姓を世襲している家系がある。
竹内巨麿は養子だったが,こちらの竹内家は,代々実子に受け継がれ,現在七十三世の竹内睦泰氏にいたっている。
この南朝竹内家は,門外不出の口伝を中心とする古神道の秘儀をも伝えているという。
巨麿の竹内家が,越中の婦負郡神明村を拠点とするのに対し,睦泰氏の竹内家は,武内宿禰の墓があるとされる越中の射水郡二上山を祭祀拠点としている。
また全国の二上山でも祭祀を行なう。
南朝竹内家には古神道の口伝のほかに,・外伝としての文書なども伝えられている。
睦泰氏によればこの秘伝の文書は,『竹内文献』とは共通の部分もあるが,本質的には別のものであるという。
南朝竹内家の当主となるときは,武内宿禰の霊を受け継ぐ「霊嗣の儀式」が行なわれ,「武内宿禰」の称号とともに「南朝越中宮家」の名も世襲される。
南朝竹内家の行法には,言葉の霊力を高める
「言霊の行法」
「古神道の呼吸法」
「息吹永世の行法」,
「藤の行法」(身と霊を清める),
「くがたち」(熱湯の中に手を入れ清廉潔白を証明する),
「八雲村雲握剣の行法」(剣によって邪霊を祓う)
などがある。
このように,竹内家,南朝竹内家とかかわりの深い越中富山は裏日本の重要拠点であり,『原竹内文献』が存在していた可能性がじゅうぷん考えられる。
『竹内文献』の奥のそのまた奥を見きわめていかねばならないだろう。
「日本超古代史が明かす神々の謎」 鳥居礼
もう一つの「竹内文書」
竹内文書で有名な皇祖皇太神宮とは別に,いわゆる「正統竹内家」というのがあります。
その「正統竹内家」にも先祖伝来の古神道の秘儀と門外不出の口伝による「竹内秘史」があるようなのです。
現在の当主は,古神道本庁統理・第七十三世竹内宿禰 竹内睦泰氏です。
そして,その口伝に興味深い話がありましたので添付します。
もう一つの竹内文書の存在
最近になってやっと,そうした竹内文書の「真の歴史」の部分を,別の角度から分析・研究することもできるようになってきた。
もう一つの竹内文書があきらかになってきたからだ。竹内巨麿が公開した竹内文書とは別に,武内宿禰以来の「正統竹内家」とされる南朝小倉宮竹内家に伝わる古神道の秘儀や秘伝があるという。正統竹内家には,門外不出の「秘術口伝」を記録した文書があり,これを「正統竹内文書」,もしくはもう一つの竹内文書などと呼んでいる。巨麿が保持していた竹内文書の原資料ではないかと考える研究家もいる。
現在のところまだ,ほとんど非公開のため,断片的にしか内容はわからない。
だが,竹内文書と同様に超古代において天皇家の先祖が世界を支配していたこと,キリストが来日したこと,越中を中心とする王朝が存在したこと−−−など,かなり同じような内容が含まれているという。
とくに興味を引かれるのは,この秘伝・秘術を伝える竹内神道が秘密結社のような存在で,口伝により記録を継承しているということだ。やはりここでも,伝言ゲームではないが,かなり時代とともに竹内文書の原資料を変形していったとみられる。それでも竹内文書が一部改竄される前の「核の部分」,あるいは原日本人の「真の歴史」を知る手がかりになることに違いはない。
この南朝小倉宮竹内家文書を現在継承しているのが,第七三世武内宿禰の称号をもつ竹内睦泰氏だ。
本職は予備校を経営する日本史講師だが,十九才のときに南朝小倉宮家祭祀継承者(口伝継承者)に選ばれた。
この選ばれ方も変わっていて,竹内家の本家の長男が継承するのではなく,本人の言葉を借りれば「竹内神道の占い」によって選ばれる。
睦泰氏の場合は二〇〇年以上も前に,一九六六年に生まれる竹内家の人間が口伝を継承することが決められ,その年に生まれた睦泰氏に白羽の矢が立ったのだという。
睦泰氏の武内宿禰としての役目は,それぞれの口伝を継承する長老から授かった秘術・秘史の口伝を記憶すること,つまり「人間フロッピーディスク」だ。
いつごろからそうしているかは部外者の知るところではないが,幾世代にもわたる実に大がかりな仕組みであり,継承方法であるといえる。
この分業制度の下で,個々の秘伝や秘術はそれぞれの分家なり本家が分担して継承し,ただ一人武内宿禰に選ばれた者だけが,全体・全部を継承する。
しかも竹内神道は,長老や参議により運営されており,睦泰氏は「飾り物の武内宿禰」なのだと話している。
口伝を継承していく中で,竹内睦泰氏は古神道の秘術や秘史に魅せられる一方,
「現代に必要な他民族・他宗教との共存や自然との共生は古神道なら解決できると感じ,それを広げていきたいと決意」。
閉鎖的な竹内神道とは事実上袂を分かち,古神道本庁を創立して,口伝の一部を公開することにした。
秘密結社である竹内神道の運営に携わっていた長老や参議は当然,公開には猛反対,現在も口伝公開をめぐり竹内神道内部で論争が繰り広げられているのだという。
七三世・武内宿禰との一問一答
正統竹内文書の内容とその性格について竹内睦泰氏に話を聞いた。
−−−この口伝継承が始まった経緯は。
原日本人に対する侵略者である武内宿禰が,原日本人からその歴史と秘儀を奪ったのだと思う。
原日本人の歴史はおそらく,神代文字で書かれていたのだろう。もともと天皇と古神道とは関係がなかった。
それが現在,関連付けられているのは,原日本人の歴史と秘儀を奪ったことと関係があると思う。
そうして作られた歴史や秘術を正統竹内家が口伝で継承していった。
−−−原日本人の歴史が改竄されたということか。
そうだ。最初は古神道と天皇を結びつけるという意図も働き,その後も口伝継承していくうちに,伝言ゲームではないが時代とともに改竄されていったと思う。
祭主が勝手に改竄・挿入したケースもあったと推察される。それでも原日本人の歴史は正統竹内文書の中に残っている。
改竄されたといっても,それがネタ本だからだ。正統竹内文書は茨城に伝わる竹内文書よりもましだが,私自身は偽書だと思う。
それでも真実の歴史が含まれているのではないか。
−−−巨麿が公表した竹内文書はニセモノか。
明らかにニセモノだ。巨麿一人ではできないから,酒井勝軍らが改竄を手伝った可能性がある。しかし巨麿の竹内文書も,元となるネタ本があった。それが正統竹内文書だったのではないかと思う。巨麿がどうやってそれを手に入れたのか。あるいは正統竹内文書の一部を盗んだのかもしれない。正統竹内家は南朝の皇子を富山にかくまっていたこともある。富山に竹内家があったのは事実だが,巨麿自身は竹内家とは関係のない人物だった。私は巨麿はサンカの出身だったのではないかと思っている。だから神代文字の中のサンカ文字は読めたのだ。
−−−正統竹内文書も偽書であるとする根拠は。
やはりキリストが来日したとか,神々が宇宙から来たとか,日本が世界の中心だとか,ストーリーが荒唐無稽だということだ。もちろん,それらが真実であった可能性もある。そうでなければ,秘授口伝をめぐり殺されたりすることもなかったろう。正統竹内家の秘伝には,あくまでも門外不出だった。しかも口伝でなければならず,文書化することも禁じられた。平群真鳥は,それを文に残そうとして殺されたのだ。戦国時代の竹内季治も織田信長を中傷したことや反キリスト教運動をしたことなどの理由で,見せしめのため信長に殺されたが,その背景には正統竹内文書をめぐる戦いがあったとされている。竹内神道は門外不出で,口伝自体がご神体といっても過言ではない。
私がそうした正統竹内文書を公開しようと思ったのは,たとえ偽書であっても,偽書を悪と決めつける風潮が許せなかったからだ。偽書の中にも歴史推理のヒントは含まれている。『古事記』だって似たようなものではないか。
−−−キリストの来日は,正統竹内文書ではなんといわれているのか。
茨城(巨麿)の竹内文書では,キリスト来日の時期を垂仁天皇のころにしているが,正統竹内文書では神武天皇のころとなっている。キリストは五十鈴彦または伊勢津彦と名乗り,八戸を越え蝦夷地に入り,さらに東へ進んだことになっている。弟は伊須気余理彦または石切彦という名前で,茨城の竹内文書に出てくるイスキリと似ている。こうしたキリスト伝承はおそらく,後南朝と結びついた竹内神道が,修検道や密教を取り込みながら山から山へ移り住むうちに隠れキリシタンと合流したため,キリスト伝説が口伝に入り込んだのではないかと思う。
大和族と出雲族の争いと和睦
−−−ほかに巨麿の竹内文書と違うところは。
根本的に違う部分はたくさんある。口伝では一万二〇〇〇年前に世界中で大洪水があった。その洪水の後,最初に文明が開けたのは日本だった。日本の縄文文化は世界最古の文明だった。その文化は八〇〇〇年前に中国に伝わった。五〇〇〇年前には,欧州にも伝わった。その中でいつのころかわからないが,太陽信仰を持つグループである日本のスメル(天皇)族が,沈んでいく太陽を追いかけるようにアジア大陸に渡ったのだ。おそらく太陽の沈む彼方に理想郷があると思ったのだろう。そのグループは二つあり,それぞれ朝鮮半島と南洋を経由して西を目指した。その二つのスメル族のグループはメソポタミアで再び合流した。ところがメソポタミアまで来たものの,どうもそこには理想郷はなかったことに気づいた。
スメル族のグループは,シュメール人と呼ばれた。彼らは古神道に通じていたが,本来古神道とは自然と調和して生きる術,自然の力を利用する術であった。ところが砂漠の地方では,自然は人間に敵対するものでしかなかった。古神道の考えとは合わなかったわけだ。
失望したスメル族は二手に分かれて,つまり自分たちが来た道を通って再び日本に戻ることにした。インドネシアなど南方のルートを通って日本に戻ってきたグループは九州高千穂に上陸,彼らは大和族(日向族)と呼ばれた。彼らは海を下ったので(天降った)と言い換えられた。一方,陸路を使って朝鮮半島から日本に戻ってきたグループは山陰地方に進出,彼らは出雲族と呼ばれた。
彼らは当時の原日本人を制服していった。出雲族は日本海側を支配,大和族は瀬戸内海側を海路東進し,奈良に入った。出雲族のスサノオは,越王朝のヤマタノオロチを「退治」した。その後,出自不明の大国主はスサノオの娘と結婚して出雲の王となったが,それを認めてもらうために再び越の国を攻めた。
その間,出雲族と大和族は何度か小競り合いを繰り返した。おそらく最初の戦いでは大和族が勝ち,二度目の戦いでは出雲族が勝利した。二度目の戦いの後,和睦が結ばれ,出雲族のスサノオはアマテラスと夫婦の関係になる。しかし,大国主の息子の事代主(コトシロヌシ)が王の時代に,再び戦争となり,出雲族は大和族に敗退する。その結果,当時の大和族の主である神武は,事代主の娘を娶り,ここに大和朝廷が確立する。おそらく紀元後五〇年ごろの話だ。こうした歴史と,越の国などに伝わっていた原日本人の記録と秘術が合体して,口伝ができたと考えられる。
−−−洪水以前の話は口伝にはないのか。
あるが,公開できない部分が多い。触りだけ話すと,太古の昔に神々は宇宙からやって来たことになっている。いつごろのことか不明だ。どこから来たのかについては三つの説がある。私自身は三つも説があるのはおかしいと思うが,北極星説,スバル説,オリオンの三つ星説だ。
−−−降臨した神々と人類との関係は。
当時,地球には原人がいたが,現代の人間は彼らが進化したとは思われない。黄色人種が世界に散らばり,白人になったり,黒人になったりしたのではないか。少なくても日本から世界各地に散らばり,都を築いていったのだと思う。口伝では都をアスカと名付けたとある。アラスカやナスカはその名残だと思う。
−−−ヒヒイロカネの口述もあるか。
ある。おそらく赤色の金属だったのではないか。
−−−キリスト以外の聖人の来日については。
孔子,溥儀,釈迦が来日したことになっている。マホメットの来日についての口伝はない。
−−−竹内文書にみられるような近代の地名はやはり伝えられているのか。
サンフランシスコやボストンなどの記述はない。唯一あるのは,大山阿夫利神社でも知られるアフリという名だが,この由来は雨降りだと思っている。
以上が竹内睦泰氏との二時間にわたるインタビューの概要だ。口伝のどこまで信じるかは読者の自由である。ここでは私もあえてコメントをしないでおこう。ただこうした口伝からも,北陸に,そしておそらく飛騨にかけて原日本人の文明が超古代に栄えていたことがうかがえる。原日本人の歴史を武内宿禰が奪ったというのも,金井南龍の「平群真鳥盗用説」とほぼ合致する。また,天皇(スメル族)は日本でなく大陸に渡ったという説も引かれる。そういう説ならば,竹内文書がよく批判の対象となる思想,つまり日本の天皇は世界を統治していたとする超国粋主義的な考えから,少し距離を置くことができるからだ。
もちろん,睦泰氏が継承した正統竹内文書は,本人も認めているように原日本人の歴史を改竄したという点から偽書ではあるのだろう。その後も改竄が重ねられたのかもしれない。(睦泰氏は口伝を正統竹内家の長老たちから継承しただけであるから,仮に偽書だとしても悪意や罪があるわけではない)しかし偽書であっても,巨麿の竹内文書を口伝と併せて研究すれば,竹内文書に隠された真実の秘史の部分が浮き彫りになってくるのではないだろうか。
「竹内文書の謎を解く」 布施泰和
神道における秘授口伝の一形態
(竹内睦泰 古神道本庁統理・第七十三世武内宿禰)
いわゆる『竹内文書』について
一般に『竹内文書』といえば,竹内巨麿の保持していたという文書・神宝類をさす。しかし,その内容は古墳時代の人物である武内宿禰が,飛行船に乗って世界一周旅行をしたり,紀元0年前後のキリストが,垂仁天皇の時代(三世紀ごろ)に来日したりと,SF小説としてはおもしろいが,かなり無理がある。もっともまったく原型がなかったわけではない。そこに古史古伝のむずかしさがある。なぜ作られたか,どのようにして誰が作ったかを判断する際には,その時々の時代を考えながら社会学的なアプローチが必要である。
しかし,竹内巨麿の揚げる系図は,信用出来ない。生年の年号を西暦に改めると,親よりも先に生まれた子供が何人もいる。兄弟関係は系図に記されている通りだろうが,間違いなく親子関係において矛盾がある。どうせならもっとましな系図を作ればいいのにと思ってしまう。
もっとも巨麿自身は竹内家の血はまったく入っていない。というのは,巨麿が養子なのは周知の事実だが,巨麿を養子にした養祖父・下西庄二郎自身も竹内家に養子に入った人である。巨麿自身も気が引けたと見えて,別名を『宿根』としており,「竹内宿禰」とは名乗っていない。どうも,養子というのは劣等感の裏返しなのか,自家の家系を誇る傾向にある。南朝天皇を名乗った熊沢寛道も実は養子だった。この二人に共通する養子と貴種への憧憬の関連性については,いずれ心理学的考査を行いたい。会えれば良かったのだが,私の生まれた年に,南朝の養子寛道と竹内家の養子・巨麿は死んだ。
正統竹内家(正統竹内神道管長職家)は,この南朝および竹内家(竹内宿禰)の正統である。もちろん巨麿の茨城竹内家とはなんの関係もない。しかし,正統竹内家に伝わる口伝の内容と『竹内文書』の内容に,ある程度の類似性が見られることから,巨麿もしくはその周辺の人物が,正統竹内家口伝を一部知っていた可能性がある。
正統竹内家の墓守に大伴部真麻呂と宿禰麻呂がいる。彼らは桓武天皇の延暦十一年(七九二)に,陸奥国俘囚の身から,祭主の留守を守る宮守兼竹内家の墓守に採用された。そして射水郡二上山にある武内宿禰の墓を守るため居住した所が伴郷と呼ばれる地名となったという。この二人の子孫が代々墓守をしていたのだが,茨城竹内家の先祖に大伴部仲麻呂という人物がいる。何か関係があるのかもしれない。
また,福島日吉神社から盗まれた宝物や,斉藤慈教の持ち出した南朝の宝物がなぜか茨城竹内家にあるので,正統竹内家の墓から盗まれた物をどこかで買い取った可能性がある。というのは巨麿は信者には宇多源氏の庭田大納言の四男と自称しておきながら,特高の取り調べでは清和源氏の竹内惟治の子孫と名乗る。のちの巨麿の自伝『デハ話ソウ』でも惟治の子孫と名乗る。しかし,茨城竹内家の系図には惟治の名前はない。自伝では季治は弟で,時代は南北朝時代になっているが,正統竹内家の先祖の竹内季治は,安土桃山時代の人物で,織田信長に殺された公卿である。
この人物は重要文化財「久我家文書」にも載っているので,南北朝時代の人物でないことは確かだ。なお江戸末期に盗まれた正統竹内家の系図には生没年が入っていないので,時代を間違えた可能性がある。もちろん正統竹内家の墓から古文書・神宝類を盗み出した人物は巨麿ではない。年齢的に巨麿が盗むことは不可能だし,巨麿は越中国婦負郡から掘り起こしたと言っている。正統竹内家では越中国射水郡二上山に埋めていた。謎は深まるばかりだ。しかし,大正元年の時点で巨麿が『竹内文書』について何も知らなかった可能性は,大正元年に出した自分の伝記に一言も竹内宿禰や『竹内文書』が登場しないことからみてきわめて高い。
正統竹内家について
正統竹内家に伝わる口伝は,門外不出の極秘口伝であり,一般には非公開であるため,ごく一部の人々しかその存在を知らないし,内容にいたっては,秘密神道の性質上,歴代の武内宿禰とその周辺の長老・参議・蔵人クラスの幹部にしか伝授されていない。秘密神道になった理由としては,古神道の秘儀と南朝の血脈を受け伝えていることが大きい。
◎神宮の成立
現在,社殿はないが「幽斎」で祭祀を執行している社に「皇祖之霊皇大神宮」がある。口伝によれば,神武四年に神武天皇の詔によって創建された。
この神宮の初代祭主は,神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫であり,彼女が事代主命の娘であることから,出雲系神道の口伝が伝わっている。
以下,正統竹内家と神宮の歴史について語ろう。
二代祭主は神八井耳命で皇位を弟を譲って,自らは祭主となった。もっともこの当時は「統治王」よりも「祭祀王」のほうが上席であったと伝えられる。
三代祭主は研耳命で,「記紀」では神武天皇の皇子となっているが,実は手研耳命の皇子である。父が逆賊の汚名をきたため系図を祖父につなげたらしい。
以後,天皇の近親者によって祭祀は執行されてきたが,景行天皇の時代に詔によって,十一代祭主・屋主武雄心命の子孫が,代々祭主を世襲することになった。
◎武雄心命の子供が第一世竹内宿禰である。これは建内宿禰や武内宿禰と書くのが正式だが,鎌倉時代のときより竹内宿禰に書き替えたらしい。歴代の祭主が竹内宿禰の霊を受け継ぐ「霊嗣の儀式」を執行するので,祭主の世襲の称号となった。
「記紀」に載っている武内宿禰は,この第一世から第五世竹内宿禰の実績をつなげたものである。
◎以後,第六世が若子宿禰(允恭天皇と同一人物との口伝あり)。七世が大臣・平群都久宿禰。八世が大臣・平群真鳥宿禰である。
この真鳥の時に,平群氏は自分の家に群臣を招集して政治を行っていた。しかし,大伴氏の陰謀により失脚する。この時に古神道の秘儀以外の歴史についての口伝を漢字で筆録したのは事実らしい。しかし,御神符など以外は,この時すべて漢字で書かれたため,神代文字で本文が伝わることはありえない。
◎竹内家の武術と医術
平群氏が復権したのは第十三世の平群神手の時で,物部守屋追討の際に将軍として前線で戦った。その功労で復権して,のち小徳紫冠を授かっている。この人の武術は第一世・武内宿禰伝来の秘術で,戦う前に手を塩をつけて清めることから塩手法ともいう。古代の相撲の原型らしい。一撃必殺の「武撃ち」という。青竹を素手で僕ち折り,鎧の上から打撃を与えただけで敵が死ぬほどの秘技をあみだした。
古代の豪族は自家独自の神道・歴史・武術・医術を伝来していたそうで,竹内家にはほかに,医術の「真手法」と「骨法」が伝わっていた。骨法は武術ではないのだが,人間の急所を熟知したうえでの技なので殺人にも使われたらしい。本来は医術である。竹内家ではのちの豊治のときに分かれた家に,柔術の竹内流宗家がある。
◎歴史書編纂
第二十三世の平群子首は,天武朝に開始された『日本書紀』の編集で,臣姓伝承編集を担当した。連姓伝承担当は中臣大嶋である。以後,最初のうちは国司,のち代々郡司となったが,四十五世の平群清幹の時に,平将門の乱追討の征伐副将軍となった。配下に甲賀忍者の祖・諏訪三郎兼家がいた。以後,秋田城介・平群利方,鎮守府将軍・平群永盛と続くがその子の頼義が若くして出家したため,再び没落する。頼義は僧侶として比叡山の首楞厳院の阿闍梨・光源として大成した。このころ密教関係の口伝が挿入された。
◎平群氏から源氏へ
頼義には出家前に子供がいて,その孫の平群義宗の時に男子が絶えたため,娘を清和天皇八代孫の大内義信に嫁がせて武内宿禰の血を伝えた。
彼は武蔵守兼守護として善政を施し,将軍・源頼朝より全国の模範とされたが,孫の伊勢伊賀守護・大内惟信は,承久の乱で後鳥羽上皇方についたため失脚した。幸い,子の惟時が宗尊親王の側近となったので復権した。しかし,それ以後は京都の方で公家として暮らすという変わった経歴だ。
◎南朝との関係
第四十八世・竹内仲治の時に,後醍醐天皇より山城国に築城せよとの綸旨を賜った。これは重要文化財「久我家文書」にも残っている。この頃から南朝と北朝の両方に仕えることとなるが,かなり貧乏だったらしく「久我家文書」には第五十二世・竹内為治の借用状が残っている。このころに南北朝は合一したのだが,竹内家では南朝の皇子をかくまっており,南朝より代々従三位を授かっている。また,北朝からは代々,大膳大夫と近江守を授かっている。
◎戦国期の竹内家
第五十六世武内季治の時に,将軍・足利義輝の執奏により,堂上公卿の席に列した。これは妻が義輝の乳母だったらしく,親しい関係にあったためで,義輝が京都から逃亡するときに,近江が多いのもその関係らしい。義輝が死んだ二年後の同じ日に出家した。彼は一時期,三好長慶・松永久秀らと組み,京都を法華宗のリーダーとして牛耳っていたことがある。
季治は題目を唱えるときに,神道の言霊を利用したため,妙音を発して尊敬されたらしい。息子の長治の妻に松永久秀の娘を迎えたのも法華信仰のネットワークからだ。しかし,義輝はキリスト教に布教を許してしまった。季治にとってキリスト教は真っ向から対立する宗教である。彼は同じく,布教を許可した織田信長にもくってかかり,言が入れられないと将軍・足利義輝に「信長は熟したイチジクだ。いずれは地上に落下する」と讒言を叩きつけた。これを信長が知り,季治は近江の永原で処刑された。季治は息子の刑部卿・竹内長治と絶縁している。そのため二女を,かくまっていた後南朝の皇子に嫁がせて血を残した。第六十世越中宮惟治王改め竹内惟治である。(実際は小倉宮良泰親王の子孫)
この時に南朝に伝わっていた神道の秘儀や秘史も竹内家に導入された。有名なのが「真床男衾之行法」である。これは現在の北朝の天皇家には伝わっていないらしい。しかし,竹内家は戦国の世の常で没落して神主となり,のちには百姓にまで衰退した。
◎文書の盗難
江戸時代には代々,竹内三郎太郎を名乗り世襲した。その時に,越中国射水郡二上山の武内宿禰の墓に隠していた御神宝をつかって「霊嗣の儀式」を執行していたが,江戸の最末期に,何者かによって盗掘されてしまった。その為第七十二世の子供はショックで跡を継がず,明治初期の戸籍名も通称の三太郎とした。のちに近くの土地で御神宝らしきものが売られていたと噂で聞いたが,あとの祭であった。
当時はよく神社や古墳の盗品が骨董屋に出回ったらしい。家紋も,越中の民謡「三才踊り」に「かたばみ紋に菊宿る」と唄われた「菊浮線綾に剣片喰」から菊をとり,ただの「剣片喰」になった。南朝摂政宮竹内家の家紋は「四つ割菊に葉付き紋」で,現在はこれを使用している。この竹内神道の秘密の門人達の子孫が私に竹内神道を伝えてくれたのである。三太郎は私の曾祖父にあたる。
◎現代に甦る古神道
竹内神道は秘密神道で,内容はおろか信者の名前まで非公開なので,私も表に出るつもりはなかったが,古神道を学んでいるうちに,秘儀はともかく,その思想は広く人々に伝えるべきではないかと思うようになった。
古神道には現在人類にとってもっとも必要と思われる「自然との共存」を可能にし,他の宗教・人種・民族とも共存出来る「和」の思想がある。これを伝えたい。そう考え「古神道本庁」設立した。祭神は「天神地祗八百万神」である。
正統竹内家極秘口伝について
極秘口伝である以上,一般には公開していないのだが,ごく一部の内容を研究者に語ったところ,それが本や雑誌に載ったことがある。しかし,そもそも大半は古神道の秘儀なので別に面白くもないのだが,「雑伝」と言われる,あまり祭主が信用していない口伝には確かに「キリスト伝説」なと興味深いものもある。
ただし,茨城竹内文書の伝える垂仁朝ではなく,神武天皇の時代である。日本に神道の修行にきたわけでもなく,太陽の上る方角に,つまり東へ東へと向かって日本についたらしい。もっともこの太陽に向かって日本にきたというのは,天孫族来日の口伝にもある。とりあえずキリストの日本名は五十鈴彦というらしい。茨城は八戸太郎天空と名乗ったとしているが,西暦0年ごろの日本で,そんな名前はありえない。弟の名前は伊須気余里彦で,兄弟ともに神武天皇の妻の名前をもらったらしい。一応,父の名前が「世聖父」で,母の名前が「真理」なのも,信じがたいが記しておこう。キリストはその後,さらに東へ向かったという(位置的にはアメリカ大陸だ)。
この話は,どうみても明治時代,古くてもいいところ戦国時代に作られた話と思われるので「雑伝」になっている。しかし,先祖から伝わる口伝を,勝手に削除するわけにいかないので伝えてはいる。
◎口伝についての一考察
口伝の信憑性については史料批判以前の問題なのだが,家や,宗教教団に伝わる口伝はそれが事実であるかどうかよりも,そういういい伝えによって家や教団が成り立ってきたということが重要なのであり,宗教や神社に伝わる口伝はそれ自体が信仰の対象になることが多い。
口伝は論文を書くときの論拠にできないのだが,ヒントにはなる。エスキモーもマンモスの記憶を口伝で伝えてきたのだし,『古事記』『日本書紀』も口伝を編集したものだ。
そういう意味では,今のうちに口伝を編纂しておかないと,絶えてしまうおそれがある。「雑伝」レベルのものは,いずれ時間ができたら文章にまとめておきたいと考えている。これは現代版の『扶桑略記』『水鏡』にできるかもしれないと期待している。
今のところ神武天皇以降を簡単にまとめて,信者や一部の研究者に公開している。これが「正統竹内神道管長職家文書」(略称・正統竹内文書)〔人の巻〕の一部である。「竹内家秘史系譜略解」である。これの研究者としては日本歴史研究所から『竹内宿禰と詠う神人たちの詩』などが出版されている。
竹内家の雑伝には,このほか日本ユダヤ同祖説ならぬ世界同祖説や,ピラミッドに関する口伝,前方後円墳の形についての口伝や,宇宙の創造にいたるまで様々な口伝が伝わっている。
◎予言について
また,歴代の祭主のなかに予言を残す人々が何人かおり,この予言の中に,
「日本は世界の雛形である。日本が世界の模範となって神政復古を実現した時,争いのない世の中,高天原が顕世に顕現する」といった内容の外八州内八州観的なものがある。
ほかにも「日本を外国の手先が八つに分けようとする企みがおこる」という岡本天明の「日月神示」とよく似たものがあるが,これは「道州制」のことだろう。とすれば外国の手先とは誰のことかと勝手に想像したり,なかなか楽しませてもらえる。
予言といえば,大本の出口王仁三郎の「今の竹内文書は,わしが神様から聞いたのとは少し違う」という言葉が残されているが,王仁三郎の知っていた竹内文書とは,おそらく正統竹内文書のことであろう。
竹内家口伝の分類
正統竹内家の口伝は,基本的に大きく,いくつかの系統の伝承に分類できる。
・アニミズムそのままの太陽崇拝などの自然崇拝の伝承。
・国津神系伝承と古神道の行法(天皇家の先祖は日本を征服すると同時に,国津神系の神道の秘儀を奪った)
・ニニギ命の妻=大山津見神の娘・木之花咲夜姫の時と,後醍醐天皇についた山民の伝承
・彦火火出見命の妻=大錦津見命の娘・豊玉姫の時と神功皇后の三韓征伐の時に武内宿禰に従った阿曇一族の海民伝承。
・神武天皇の妻=事代主命の娘・媛蹈鞴五十鈴姫の時の出雲系伝承。
・屋主武雄心命の時の紀伊国に伝わる南洋系伝承。
・武内宿禰の時に,審神法・禊法・盟神探湯などの,古神道の秘儀を整理。
以後,平群子首が臣姓諸豪族の口伝を集めて,『日本書記』に入れられなかったものを,子孫に伝えた。
,この時に,連姓伝承で採用されなかった大伴氏伝承・物部氏伝承・忌部氏伝承などが一部伝わった。
平群安麻呂(当時,尾張守)の時に風土記編纂の命令がきたので,尾張氏の伝承を伝える。
これはのち熱田大宮司家に藤原氏より竹内季範が入るときに,伝授している。
また,平群清幹以後三代のときに東国の伝承が集められた。
竹内季治の時に法華神道が導入され,後醍醐天皇の子孫・惟治の時に南朝伝承と天皇家の神道の秘儀,そして真言密教が伝わる。
江戸時代は浄土宗だったらしく,浄土信仰の変わった神道説が伝わっている。
浄土神道
南朝天皇=阿弥陀如来=転輪聖王
武内宿禰=大勢至菩薩=都市王
といった具合だ。
古神道の可能性
しかし,やはり古神道の秘儀こそ,正統竹内家極秘口伝の,というより日本の最高機密といえる。
これは細々と陰で信者に伝えているので,断絶することはない。
なぜ公開しないかといえば,やはり,いい加減な気持ちで取り組む人物に伝授すると,本来の意味を取り違えてしまうことがあるからだ。
「死と再生」の秘儀に至る「神髄の道」は険しいものである。ほんのわずかな迷いが,命取りになることがある。
また,竹内神道が,極めて秘密性の強い教団だからである。
現在でも正統竹内家当主は「霊嗣の儀式」を執行した後,古神道宗家「武内宿禰」の称号とともに「南朝小倉宮家」も継いで,いまや有名無実の,というより無名無実の「吉野朝廷」摂政宮祭祀王に就任する。これははっきりいって人には言えない。会員にしても普段はただのサラリーマンが南朝忠臣の子孫ということで「武蔵守」(もちろん実益はない)になったりする。家族にも隠している人が多い。
この竹内神道の教典と言えるのが「正統竹内文書」である。
危険な人物と思われないためか秘密会員が大半である。そのため「古神道」の秘密結社といったものになってしまった。
そういう意味で逆に「古神道本庁」は開放的な明るい団体にしたいと思っている。
古神道にこそ,現在の人類にとって,もっとも必要な「自然との共存」,他の民族・人種・宗教との共存を可能ならしめる思想が含まれているのである。
この思想を広く世界に広げたい。
古神道本庁の「神道ルネッサンス」運動により,民族宗教「神道」は,世界宗教の根源たる「古神道」に甦る。
「古史古伝の謎」新人物往来社
足利尊氏は吉野を落ちられた後醍醐上皇を殺害した
足利尊氏は後醍醐上皇が吉野宮から脱出されたのを知り全国に命じて上皇の殺害を命じた。
「太平記」は後醍醐天皇が後村上天皇に譲位され吉野宮で崩御された様に伝えているが,実際は僧侶達に金を与え,天皇が崩御されたという風評を流しても吉野を脱出されたのである。
勿論この様な風評がばれぬはずもなく,やがて足利尊氏の下に事実が伝えられると,彼の命令によって後醍醐上皇は苦難の末,逆賊の僧侶のために傷つけられ遂に崩ぜられてしまった。
当時の生々しい事件は後醍醐上皇にお供をした皇祖皇太神宮神主家の竹内惟光と竹内惟眞の両名によって,興国五年九月十六日後醍醐天皇崩御の三年祭の記録として残されている。
本章では,これまで美化されてきた足利尊氏の知らざる逆心の一端を示すため,記録の内容を詳しく公開したいと思う。
・後醍醐上皇は御年五十二歳の時延元四年八月十六日の夜丑の刻に,吉野御殿を立って,越中の国にある皇祖皇太神宮別祖太神宮を指して落ちて行かれた。
その時神宮からお迎えのため参内したのが神宮神主家の竹内惟光と子の惟眞の両名であったが,上皇が吉野御殿を出られる時は御箱の中に入っておられたという。
・御一行は伊勢国,近江国,越前国,加賀国を経て越中国婦負郡の皇祖皇太神宮神主竹内惟眞の妻(後醍醐天皇の御子良子内親王)の宅へ延元四年十一月十日夜到着された。
翌興国元年三月十一日朝方神勅があって
「今より先の代六百年(昭和十五年)に五色人の大変(世界大戦)となり天下統一の代になる」
とお示しになる。
また,竹内家普代の家老桃井直常が変心して足利尊氏に従ったから,翌年の興国元年八月十七日惟光宅を朝寅の刻に御出立され常陸国に向かわれた。
この時上皇をお守りするため,万里小路藤房,万里小路季房,竹内惟光,竹内惟眞,竹内信治その他竹内家一族親子兄弟と家臣および新田氏,楠木氏の一族合わせて三百二十一名が,皆敵を欺くために名を変え,上皇の前後二十里の問を敵に隠れて思い思いの変装をして潜行したという。
・上皇は四日後の二十一日に越後国岩室に着かれた。
二十三日に弥彦山に登られたが,新潟に敵が居るため通ることが出来ず引き返して二十五日見附に着かれた。
しかし,上杉民部憲顕のため大難に遇い,二十九日上皇の御身代わりとなって踏みとどまった竹内越中元助,菊地新左衛門を大将とする十八名が討死した。
この時竹内惟光は敵の大将長尾三郎由景を切り殺し,上皇を負って落ちて行かれた。
・上皇は翌九月五日越後国六日町で大難に遇われた。この時,竹内二郎左衛門以下五名は足利方の僧侶狩野祐眞その他八十一名と戦って祐眞外四十八名を斬殺して自害した。
同月二十二日信濃国切明で足利方の小笠原貞宗の兵と戦って宗佐右馬頭以下五名が討死した。
十月三日上毛野国長野原で里見民部小輔義宗のために大難に遇い,上皇は箱の中に入ってお逃れになった。この時,敵と戦って討死した者は倉光三郎以下十二名。
・上皇は十一月六日軽井沢を通り妙義山に籠られたが興国二年正月十日に御出山。時に雪崩れに遇い大友左近以下六名死んだ。竹内惟光以下四名は上皇を負い奉り各間を通って磯部村の大郎左衛門方に御臨幸された。
同月十四日山賊に出会い石黒十右衛門と井上三左衛門が戦い負傷のため越中に帰って自害した。
上皇は二月四日武蔵国武甲山に籠られたが,二月十三日大難に遇い,高師直の兵と戦って竹内惟治以下二十九名が討死した。
これは,藤房季房公が敵に発見されたための大難であったという。
・上皇は二月二十五日武蔵国多摩郡吉野に着かれたが,二十九日敵海老名尾張六郎秀直のために大難に遇われ,高楯三郎以下四名が討死した。
三月五日甲斐国都留郡吉野で,武田信武のために大難に遇われ討死する者が若槻太左衛門以下十九名あった。
三月十三日武蔵国入間川で大難に遇われ,高師直の兵と戦って福光太郎左衛門以下十三名討死した。
五月五日相模国萩野で大難に遇われ,波多野宣道の兵と戦って岡崎藤十郎以下十一名討死した。
・上皇は五月二十日武蔵国萩窪で僧侶のため大難に遇われ,竹内太六郎以下十二名討死した。
五月二十五日下総国稲毛で大難に遇われ,千葉介貞胤の兵と戦って諏訪三郎左衛門以下九名討死した。
六月四日下毛野国藤岡で僧侶六十七名のため大難に遇われ,滋野行義以下五名討死した。
六月十六日下毛野国日向で大難に遇われ,里見義原の兵と戦って世良田大膳以下五名討死した。
七月三日下毛野国の民家で大難に遇われ,大館幸氏の兵と戦って粕谷十郎以下十名討死した。
この時敵兵を九十三名殺したという。
七月二十二日常陸国那珂郡長倉で大難に遇われ,佐竹貞義の兵と戦い高倉清信以下五名討死した。
なお,この時藤房季房公那珂において上皇と分かれて別行動となる。
・上皇は八月二十九日常陸国の少里より石岡の問において大難に遭われ,深須入道外四十二人と戦って上皇がお傷を受けられ病の床に臥せられた。
詔によって竹内惟光と惟眞は勅使となり,勿来の関の下にある皇祖皇太神宮の分霊殿へ大祈願を行い,上皇の痛む所の平癒を祈り奉った。
九月六日二度目の勅使を立てられ百三十七名→同で祈願をした。
九月十六日後醍醐上皇は遂に御年五十四歳で崩ぜられた。
その日,惟光惟眞の命令により竹内惟定は深須入道外九名の僧侶を切殺し,上皇にお供をしていた者はことごとく自害して果てた。この後,竹内惟光と惟眞は上皇の御神霊とお供の者の御魂を祭るため残ることになった。
興国五年九月十六日三ヶ年祭の時,皇祖皇太神宮境内に後醍醐上皇の大神宮を造営し,御神霊と上皇のために討死あるいは自害した者三百二十一名の御魂を祭り,当時の詳細な記録をとどめて後醍醐太神宮の秘蔵とした。
以上に記された後醍醐上皇の大難の数々は足利尊氏の命令によるもので,上皇のお供の者が尊氏の側近高師直の兵と直接戦っていることで証明される。
尊氏の性格は二重人格者で,宗教のマインドコントロールにより一面やさしく反面狂暴性を発揮した。
だから当時の武将達には人格高潔な姿として現われたが,
「天皇否定の宗教」
の霊的指令に従った時は,天皇を滅ぼすための悪魔となって狂弄していたのである。
「後醍醐天皇」 竹田日恵 著より

南朝と竹内文書
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南朝後醍醐天皇の直系・武内宿禰
竹内家には、竹内巨麿とはまったく別系で、南朝の後醍醐天皇の直系として代々武内宿禰姓を世襲している家系がある。
竹内巨麿は養子だったが、こちらの竹内家は、代々実子に受け継がれ、現在七十三世の竹内睦泰氏にいたっている。
この南朝竹内家は、門外不出の口伝を中心とする古神道の秘儀をも伝えているという。
巨麿の竹内家が、越中の婦負郡神明村を拠点とするのに対し、睦泰氏の竹内家は、武内宿禰の墓があるとされる越中の射水郡二上山を祭祀拠点としている。また全国の二上山でも祭祀を行なう。
南朝竹内家には古神道の口伝のほかに、・外伝としての文書なども伝えられている。睦泰氏によればこの秘伝の文書は、『竹内文献』とは共通の部分もあるが、本質的には別のものであるという。
南朝竹内家の当主となるときは、武内宿禰の霊を受け継ぐ「霊嗣の儀式」が行なわれ、「武内宿禰」の称号とともに「南朝越中宮家」の名も世襲される。
南朝竹内家の行法には、言葉の霊力を高める
「言霊の行法」
「古神道の呼吸法」
「息吹永世の行法」,
「藤の行法」(身と霊を清める),
「くがたち」(熱湯の中に手を入れ清廉潔白を証明する),
「八雲村雲握剣の行法」(剣によって邪霊を祓う)
剣によって邪霊を祓う「八雲村雲握剣の行法」
などがある。
このように、竹内家、南朝竹内家とかかわりの深い越中富山は裏日本の重要拠点であり、『原竹内文献』が存在していた可能性がじゅうぷん考えられる。
『竹内文献』の奥のそのまた奥を見きわめていかねばならないだろう。
「日本超古代史が明かす神々の謎」 鳥居礼

南朝と竹内文書
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2012年05月26日

イエス

イエスの正しい履歴は、次のようになる。
生誕:崇神天皇即位61年(紀元前37年)1月5日
来日:垂仁天皇即位10年(紀元前18年)、18歳
死去:景行天皇即位11年(西暦82年)4月5日、108歳
-高坂和導著「竹内文書/世界を一つにする地球最古の聖典」

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2011年03月30日

高坂和導氏


高坂和導氏
2000年、私の実家に高坂和導氏がやってきた。1年近くの間にいろいろな事を教え去っていった。
本人いわく自分はトロントロン星から転生してきた宇宙人。
母からきいた高坂氏のメッセージの一部。
「日本で最初の大災害がおきる。日本は世界のひな型。やがて世界で大災害が頻発するようになる。大災害の時代にはいっていく。大災害の時代は2017年まで続く。人類の数は1/3になる。食べ物がなくなる。スピルリナのような海草類が助けになる。」。

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2011年01月20日

気多神社

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さらにちなみに石川県の気多神社〜二上山(二上射水神社)
〜この皇祖皇太神宮〜尖山はほぼ一列に並んでます。

雑学メモの頁
http://www.geocities.jp/ev_as_kz/memo.html


皇祖皇太神宮のいわれ
皇祖皇太神宮の竹内古文書によると、太古の頃は今の久郷地区(現在の神明小学校西側にあたる)に、位置されていたが、天地大変動により、消滅してしまい、 この時の天照大神が、皇祖皇太神宮を再興するべく、飛騨の位山より神通川を下って御皇城山に再建された。
 敷地は、現在の北代、友坂、境野新、神明を結んだ処が聖地とされ、本殿は巾三六一尺×奥行?尺(110m×113m)、前殿巾七六一尺×奥行七二一尺 (230m×220m)という大神殿が建てられた。又、東西南北には、大鳥居が建っていた。
 空海、日蓮、親鸞、伏義、神農、釈迦、モーゼロミュラス、老子、孔子、孟子、徐福、キリスト、モハマメットタイ等の聖者がこの地を訪れ、人の生きる道を 神より教わった場所である。

雑学メモの頁
http://www.geocities.jp/ev_as_kz/memo.html
ラベル:気多神社
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2010年11月06日

● 竹内文書



●約3176年前 
 天照大神以下 神霊を地上に祭る
●約3016億年前 
 16皇子が世界8州へ 五色人の祖となる。
 国旗:日の丸を定める
●約2696億年前
 天神人祖一神宮 飛騨 位山へ
●約2426憶年前
 天乃御中主男身光天津日嗣天皇 象形カナ文字12
 支創る
●約1586憶年前
 天祖人祖一神宮→皇祖皇太神宮
●100数10億年前    
 ビッグバン(大爆発)により宇宙が誕生 
●5億7000万年前
 古生代カンブリア紀に、爆発的な進化が起こる。
●約578万年前
 レムリア大陸浮上

隠されている情報を知る
http://d.hatena.ne.jp/hourou-33/20071119/1195463321
posted by datasea at 21:42| Comment(0) | ◉ 竹内文書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする