2024年08月28日

水木しげる『不思議旅行』〜座敷わらしの宿












水木しげる『不思議旅行』〜座敷わらしの宿
[岩手金田一] 緑風荘〜座敷わらしの宿
■ざしきわらし
『ざしきわらし』は,一般には赤い顔をした童子とされているが,なかには女の子だという人もいるし,『河童』の一種に違いないという説もあるし,いや,あれは『枕返し』の仲間だと断言するものもいる。姿かたちにしてこのようにまちまちだから,その行動とか現われかたになると,もう話をする人によってバラバラ。コチョコチョくすぐるとか,胸を踏んづけるとか,出現する前ぶれとして小便がしたくなるとか,その家の主人にしか見えないとか,バラエティにとみすぎて収拾がつかないほどである。
ただひとつ一致している点は,『ざしきわらし』がいなくなるとその家は衰えてしまうということぐらいのものだ。『ざしきわらし』に似たものは方々にいるらしく,アイヌでは『アイヌカイセイ』,朝鮮では『タイジュという名で呼ばれている。
ある日のこと,この『ざしきわらし』に会いにいこうという話がもちあがった。 児童雑誌の編集氏が,岩手県の山奥に 『ざしきわらし』が出る所があるから同行してくれというのである。編集氏は大きなカメラをぶらさげて,『ざしきわらし』を撮影するんだと大いに張り切っていた。
「あんた,一泊しただけで, ざしきわらしが撮れたら,それこそノーベル賞もんだよ」といったのだが,その編集氏さして動じる様子もない。妖怪なんて一生に一度会えるかどうかというシロモノなんだ。ちょっと行っただけで出会えるものじゃない。 彼はどうやらタヌキかキツネが出没するみたいに「ざしきわらし』もひょいひょい現われるんじゃないか,と気軽に考えているらしい。
それはともかく,ぼくとしても『ざしきわらし』現象の起こる場所というのは,一体どんなところか興味があったので,編集氏につれられて岩手県の金田一温泉にある緑風荘へ出かけることにした。この地方,たいへんな僻地だと聞いたものだから,用心に用心をかさねて南極探検にいくような恰好をして,ふところにはカイロまでいれて,緊張して出発したのだが,何のことはない。道路は東京と同じアスファルトだし,宿の前には少年マンガ誌も売っているし,コーラなんかもある。
もう日本には秘境なんかないんだ。そう思いながら宿屋に入れば,ここもアパート風な作りで,神秘感などあまりありそうにない。(こりゃあ,だまされた......)と思ってガックリしていると,夕方七時ごろ『ざしきわらし』の出る座敷にフトンが敷けたとその場所は,本宅というか旧宅というか二,三百年も前に建てられたらしい古屋で,道路に面している現在の宿舎の,ちょうど裏手に位置していた。厳しい風雪をじっと耐えぬいてきた旧家の太い梁。歴史をそのなかに滲ませて,にぶく黒光りのする柱。
暗く長い北国の冬をそのままうつしとったような廊下を渡って,かすかに埃のにおいのする座敷の空気に触れたとたん,なぜか背すじがゾクッと寒くなった。
旧家の座敷には,封じ込められた時が静けさとなってあたりを満たしている。その重い静寂の中で,ぼくたちは黙然と周りを見まわしていた。
そのときだった。不意にぼくの背後でなにかの気配がした。衣ずれの音を聞いた。
いそいで振り返ると,そこには一人の老人がひっそりと立っていた。まるで『ざしきわらし」を年とらしたような老人だった。この人が『ざしきわらし』を見たという宿の御主人だとわかったのは,たがいに挨拶をかわした後からだった。妖怪を見るほどの人は,やはりどこか妖怪じみたところがあるものだ。
「出るのはここらです」
座敷の一角を指でしめす老人の,何気ない説明のなかにも,旧家の重くのしかかってくる雰囲気がかさなって,ぼくも編集氏も一瞬,子供の冷たい手がうなじを撫でて通り過ぎた気がした。知ってか知らずか,宿の主人は,
「ストーブをつけましょう」
うっすらとしみの浮いた土壁にむかって声をかける。ぼくは老人がこのまま土壁の中に吸い込まれてしまうのではないかと思ったほどだった。
老人の言葉づかいや間のとりかた,音もなく畳の上を歩いていくその足どりも,どことなくふつうの人と違っているようにみえた。
「わらしは夜中の二時ごろに出るで,それまで,わしの部屋に来てらっしゃい」
ゆったりとしゃべる宿の主人には,もう『ざしきわらし』の姿が見えてでもいるみたいだった。部屋につくと,老人はまた話し出した。
「わしが二十四,五の時分じゃった。夜中にふわーっと童子のようなもんが出たので捕えてやろうとしたが,どうしたわけか体が金縛りにあって動くに動けん。しかたなく見逃したが,あれがわらしじゃったんじゃ。それはなにもその時に始まったことでなく,昔から出るといい伝えられておったんです。百年ほども前,狐か狸のしわざであろうと猟師が三人,鉄砲を持って泊まり込んだことがあった。二日目の夜に童子が現われたで引金ひこうとしたが,体が動かん。そのまま見過ごしてしまったという話を,当の猟師の一人が生きておるうちに,わしによくしてくれたもんじゃった」
また戦争中のこと,陸軍中佐がその部屋に泊まっており,童子が現われた。 中佐は部屋に仕掛けがしてあるに違いないと,天井裏から床下までくまなく調べたが何もない。どこかの節穴を通る光が,映写機のようにそれを映すのではないかと考えついたらしいが,裏付けるものは全くなかったので,「不思議だ」を連発して去っていったという。
戦後になってからは市役所の役人までがこの童子に出会ったことを聞いて,二,三人の霊媒がこの宿にやって来た。霊媒たちは異口同音に,これは亀丸という名の子供の霊で,後ろに母親の姿も見えると告げた。亀丸は南朝の血をひく天皇の子で,北朝の手を逃れて母とともに東北の地まできたが,ついに発見され殺害されてしまった。霊媒と亀丸の対話によれば,追手を逃れている間は乞食の態をしたり, 顔立ちまで変えて苦労しながら,この金田一温泉のあたりまでたどりついたらしい。
霊媒のみた『ざしきわらし』の姿は,昔の高貴な人がまとう服を身につけており,よく一般にいわれている顔の赤い,頭巾をかぶった恰好とは違っていた。それでも童子は,幾度となくこの家に幸運をもたらしていた,という。戦中に召集された主人は,なんの手違いか一人だけ帰還を命じられた。召集された者全員の戦死が伝えられたのは,それから間もなくのことだった。
旧家にまつわる幸運をあれこれ並べたあとで,御主人はすっと座を立つと,奥から亀の形をし
「世界に一つしかない二千五百万年前の亀の化石じゃ。 わしの土地に温泉が出てきたとき,これも土地から出てきた。 わしゃあ,亀丸に助けられ,亀石に救われて幸運だらけじゃ」
目を細めていとおしむようにいわれる。背をまるめた老人の小さな影が,座敷の隅にぼんやりとひろがり,暗がりに溶け込むあたりで,そのときゆらりと揺れたのは,ぼくの錯覚だったのだろうか。古い宿のなかは,また静けさを取り戻していた。
二時にはまだ間があったので編集氏はひと風呂浴びに出かけていった。
ぼくは『ざしきわらし』の出る座敷で待つことにした。電灯を暗くして,夜具にもぐりこむ。横になって闇を見つめた。暗闇は座敷全体を不透明な膜でとりかこみ,定かではない一つの空間を作っている。
じっと見つめるぼくの胸が,急に圧迫された。脈搏が大きく乱れた。ぼくをのみ込んだまま,座敷がぐらりとまわりはじめた。激しい胸騒ぎ,深い谷底に落下していく体......。あまりの恐ろしさに,ぼくは思わず立ち上がって部屋の明かりをつけていた。光が座敷の隅々まで照らしたとき,ぼくの気持に落ち着きが戻ってきた――。しばらく経って,風呂からあがってきた編集氏が,出ましたか,と尋ねたけれど,怖さに耐えられなかったぼくは,いや別に,と横を向いた。
あれをもう少し我慢していたらなにかつかめたのではないかと,今でも残念でならない。立ち上がって電気をつけなければよかったのだ。しかし,一方で,もしそうしていたら,今のぼくは存在していたのかどうかわからないというような気もする。

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「座敷わらしの話」
09-08-2024 11:00:18
By ATLAS
さて今回は、座敷わらしの体験談をまとめました。体験したのは私の兄です。
1993年の8月、私が高校3年生の時、好奇心旺盛な父が、岩手県の金田一温泉の座敷わらしで有名な『緑風荘』、そのまさに、座敷わらしが出る部屋を予約して、家族で一泊しに行きました。
地元では有名だったのですが、当時はネットも無かったので、まだそんなに有名じゃなかった座敷わらしの宿、ドキドキワクワクしながら宿に着きました。古いながらも大きい立派な宿でした。長い廊下の突き当たり、座敷わらしの出る部屋に通されました。10畳ほどの落ち着く和室で、床の間にはあふれんばかりのオモチャが『座敷わらし』くんに供えてありました。
うっすら色づいた熱めな温泉に浸かって、山間部の温泉地なので美味しい山の幸たくさんの夕食をいただいて、寝る時が来ました!私は座敷わらしに会えるかと、ドキドキワクワク胸高まったのですが、、、、、朝になり、家族みんな起きました。私は朝までぐっすり爆睡でした( ´艸`)( ´艸`)
「どうだった?」「なんか起きた?」
なんて家族で話してたら、兄だけがゲッソリと青い顔をして黙っていました。
「あれ?どうしたのお兄ちゃん?」「ねーねー」
「ぜんぜん眠られてもらえなかった・・・」
「え〜ダッシュ!座敷わらしに会えたの?いいないいな!」
と無邪気な私。詳しく兄に聞きました。家族が寝静まり、自分だけが寝むれないでいたら、耳がキーーンってなり、金縛りになって《遊ぼ!遊ぼ!》とテレパシーを感じ。姿は見てないけど子供がすがって来たそうです。それで兄は「ごめんね、疲れてるから眠らせてちょうだい〜」って頼むと、金縛りが溶けるそうです。それで、うとうとし始めると・・・また耳がキーーンってなり、また金縛りになって、また「遊ぼ!遊ぼ!」ってテレパシー来て(* ´艸`)クスクス またすがって来たそうです。それで、また「ごめんね、ごめんね、眠らせてね」とお願いすると、金縛りが溶けて、、、これを朝まで何度も繰り返したそうで、ちーっとも眠れなかったそうです。6〜8回は繰り返したそうです。最後の方には兄も「お願いだから寝かせてー!!!( ;∀;)」って懇願したそうです((´∀`))ケラケラ そして、とうとう外が白んできて、ようやく「遊ぼ!遊ぼ!」は、ようやく止んだそうです。いやー、私コロルは、爆睡してて、まったく気がつかなかったなぁ( ´艸`) ぐっすり寝た家族と、ひとりだけグロッキーな兄で、帰路に着きました。後日、現像された写真を見たら、今で言うオーブがわんさか写っていました。そのオーブはマンガで描くキラキラマークみたいに菱形に光っていました。当時はオーブとか知らないので、『なんだ、このキラキラは?はて?』と思っていました。
さて、緑風荘の座敷わらしに会うと、その後、出世すると言われているのですが、兄は家業の跡を継いで立派な経営者になっています。周囲の評判も良いようです。座敷わらしくんのおかげかな。テレビなどで、その後、全国区で有名になった金田一温泉の緑風荘。テレビなどで目にする度になつかしいその一泊旅を思い出します。
ではまた。
(アトラスラジオ・リスナー投稿 コロルさん ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

ATLAS
https://mnsatlas.com/





座敷童子の宿緑風荘です✨たくさんの童ちゃんに会う事が叶いました✨緑風荘を知ってから実際に宿泊するまでに30年かかりました😅 その間には宿が火災になり消失などありましたが,こうして訪問させていただけた事に感謝します‼️
('-')
金田一温泉緑風荘は座敷わらしてお馴染み。「よく出た」とされる建屋は火事で全焼してしまいましたがクラファンで再建、その槐の間を拝観です。残念ながら、座敷わらし本体も、あと牧口カフェの 牧口誠司 さんが「座敷わらしに盗まれた!」と称するお猪口なども、見当たりませんでした!!
泊まると夜中でも覗き見放題!^^;
#よねざわいずみの温泉駅全部入る第4弾金田一温泉駅
('-')
すぽんちゅ@仏教は最高の教え @Iwatekko6969
行ってきたぜ……「座敷わらしが出る旅館」こと、岩手県二戸市の緑風荘によォ……。
結論から言うと、います。なんか得体の知れないものが確実にいる。別に見えないし聞こえない人だけど、槐の間ではずっと総毛立つ感覚があって落ち着かないのなんの。
アレは勘違いや思い込みではないと思う。
これが座敷わらしが出ると噂の槐の間。思ったより広い部屋だし、見学自由という、一種の観光名所と化していた。
この部屋が本当に気持ち悪いというか、自ずからの威厳があるというかで、立ち入った瞬間私はゾワーッと鳥肌が立って以後ずっとそのまま。
他の部屋は知らないがこの部屋は確実に変だ。
部屋の中には大学ノートが置かれていて、自由に書き込める環境だったんですが、幸運を授かったか否かは別にして、想像以上にみんな座敷わらしに会ってたのが驚き。枕元を歩いてただの、腹に乗られただの、全く嘘の匂いがしない体験談が生臭くて生臭くて震えた。ここは「ガチ」です、多分。
('-')
良く「運がいい」と…言われるんですが…
やっぱり…これかな…?😱
座敷わらし伝説の旅館…「緑風荘 槐の間」
「ゆず」も…この部屋に泊まったらしい…
#座敷わらし #槐の間 #オーブ #助けられる #運気が上がる #運がいい #守られてる #熱田神宮 #龍神 #緑風荘 #金田一温泉

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2022年08月12日

小松和彦/内藤正敏:「鬼ごっこ」「かくれんぼ」にみる社会構造と古代日本の先住民





小松和彦/内藤正敏:「鬼ごっこ」「かくれんぼ」にみる社会構造と古代日本の先住民
―かつて日本人は,山の中にもう一つの幻の国,もう一つの闇の国があると信じて生きてきたと思うんです。その闇の世界は平地の文化に活力を与えてきた。山伏の入峰修行はその典的なものでしょうね。鬼や魑魅魍魎や死霊の住む山中の闇の世界にこもり苦行をすることによって力を肉体に憑けて下山してくるわけですからね。その意味で日本の仏教の代表的な宗派の開祖が,すべて山岳寺院で修行した人たちばかりなのは象徴的なことだと思うんです。高野山で真言宗の空海,比叡山で天台宗の最澄,曹洞宗の道元,浄土宗の法然,浄土真宗の親鸞,日蓮宗の日蓮というぐあいに,すべて山岳寺院で修行した人たちばかりですからね。
山の深い闇は平地の定着民に活力を与えてきたと思う。かつて山にあった闇は,質を変えて現代の都市の中にも生きていると思うんです。俺はこの16年間にわたって東京を写しつづけてきたんだけど,そのなかで多くの浮浪者の人に会いました。彼らは志を抱いて上京したんだけど,何かの事情で転落して都市の盛りの辺で生きのびてる人たちが多いんです。ちょうど貧しくて食えないので土地を捨てて逃げたり,人を殺してそのまま山の中の寺院に逃げこんだ出羽の即身仏行者と同じような人たちばかりなんです。でもいまの世の中は中流意識でカムフラージュされているから,みんな気づかないでいるけど,都市の住民の多くは浮浪者と紙一重だと思うんです。 僕たちだって交通事故にあったり,不治の病いにでもなったり,あるいは会社が倒産したりすればいつ浮浪者になるかもしれない。生活基盤の弱い都市の住民はそんな綱渡りみたいなところで生きている。
■「闇」の世界の存在を教える「鬼ごっこ」
―そのとおりですね。 現代社会は,空間が均質化してしまったために「闇」とか「奥」とか「中心」とかがなくなってしまったんです。とりわけだいじなことは,当然のことながら,現代の子どもたちが体験する世界にもそれがないということだと思うんです。そのために子どの空間認識が危機に瀕しているんじゃないかな?それに関連して、藤田省三さんが「ある喪失の経験」というエッセイで「隠れん坊」という子どもの遊びについて面白いことをいっています。この遊びはいわば人生の旅の凝縮した身
体ゲームであって,鬼はひとり荒れ野,他界を彷徨する存在で,隠れる側はどこかにこもる存在という対照性はあるものの,鬼も隠れる側もともに「社会」から隔離していることを表わしていて,鬼は隠れている側を発見することで仲間のいる社会に回帰し,隠れている者は鬼に発見されることで社会に回帰する。つまり「隠れん坊(かくれんぼ)」という遊びは,身体を介して社会というもののありようを子どもに学習させているのだ,といっているのがとても興味深いと思いますね。これを僕たちの側にひきつけていえば,社会の外部にいる鬼によって,社会化していない一人前のおとなになっていない人間を一人前のおとなにするという仕組みがかつてあった,と
いうことだと思うんです。つまり「こもる」世界と「鬼」の世界というふたつの世界があって,はじめて社会が成り立っていたというわけです。それがなくなったから,隠れん坊もリアリティを失って子どもの遊びから消えていったんでしょうね。「鬼ごっこ」というのは,つねに鬼とそうでない側との対立の構図があるわけです。鬼というのは区別され排除された存在であって,鬼以外の者は鬼から身を守らなければならない。鬼がいなければ遊びは成り立たないし,また全員が鬼になったり,逃げる全員が鬼につかまったりしても遊びは成り立たない。
―じゃあ鬼は永遠になくならないわけですね?
―そう。このような遊びを通じて,鬼は怖いものであり,またそういうものがつねに人間の生活には必要だということを身体で教えこまれていくわけです。隣りの村の子どもグループとの闘いにおいては,あっちは鬼であるということになる。そういうかたちでおとなの社会におけるコスモロジーというものを子どもたちが知らず知らずのうちに覚えていった。
ただここで重要なのは,鬼は固定的なものでなく誰でもがなる可能性をもったものだった。ということですね。 それと,そうした遊びをする空間,子どもたちが共同体というものをながめまわしていくような中心になる空間がなくなったということも忘れてはならないですね。原っぱや辻といった場所が,子どもたちにとっては闇の空間になりえていたわけですけども,そういう空間がない。 団地の遊び場はまったく親の管理下にある健全な遊び場なんです。
―いまの話でですね,実際僕が鬼ごっこをしたころ,神社やお寺なんかで鬼の役をやってるとおっかないんですよ。みんなうまく隠れてるから,自分自身が逆に怖くなってね。 あの空間に対する恐怖体験は,小さいころであればあるほど身体に残ってると思うんです。 身体感覚として闇の世界の存在を教えられたんですね。
■なぜ,いま伝奇ロマンがブームなのか
―ところが,闇体験のほとんどない最近の若い人たちが,面白いことに伝奇ロマンに興味を持ち出し,たぶんそのせいだと思うんだけど,鬼や妖怪の社会史にも興味を持ちだしている。伝奇ロマンは,日本史の闇の部分を,闇なんだからよく見えないことをいいことにどんどん小説の素材にとりいれては作品をつくりだして売りまくっているわけです。そのおか
げで僕の本も少しは売れている(笑)。
―手軽な闇の代用品でまにあわせてるんですね。それで,最近の若い人はみんなネクラはいやでネアカがいいというわけでしょ? でもネアカと表現しているものは、じつはネナシということなのではないか?と思うんですよ。ネがないから表面的な世界を浮遊する以外にないわけ。そのネこそが日常的世界である光を領域を背後から支えてくれる闇だったんですね。そういうネアカと称しているネナシの人たちが知らず知らずのりもに求めているものが想像世界における闇,つまりネなんじゃないかな?......
■国家は「垣根」からはじまった
―僕たちが鬼の文化史を語るとき,ほんとうは日本列島に最初に住みついた人たちからはじめたいんだけど,考古学の知識だけで鬼のことを話すわけにもいかないので,どうしても『古事記』や『日本書紀』『風土記』といったところから話すことになるんでしょうね。
―でもそういう文献以前の長い期間,日本列島の各地に人が住んでいたということは忘れてはならないんじゃないかな? 青森県の亀ヶ岡式の土器なんかの出土からみれば,むしろ昔は東北地方の文化のほうが勢力が盛んだったのかもしれないしね。鮭を中心としたタンパク源や山の木の実や山菜の豊かさからすれば,現代人が考える以上に縄文時代の東北は住みやすかったのかもしれませんね。
―ええ。でも鬼のことはわからないですよね。考古学的資料からも鬼に相当する存在があるはずだとは思うんですが.....。 古代史研究の最近の成果によればヤマト朝廷による律令国家が形成される以前の4世紀後半〜6世紀にかけての日本列島には,大和地方あったヤマト国家のほかに,北九州地方のツクシ国家や丹後地方(京都府北部) のタニハ,東地方北西部のケヌ,さらには信州諏訪地方のスワなどに国家らしきものがあったと考えらていて,それを裏づける遺跡も発見されていますよね。 国家とは何かということになると難しい問題になっちゃうんだけど,いまここで国家とか国とかについてゴチャゴチャした議論をしてもしょうがないから,一定の地域に住む人びとが政治的・宗教的指導者のもとに社会集団を形成していて,その地域以外に住む政治的指導者にひきいられた社会集団からの支配を受けていないような状態にあるのが原初的なクニだと仮定すると,ムラ社会的な小さなクニは日本列島の各地にたくさんあったといえるわけですね。『風土記』にみえる国占めの説話をみると,天孫系つまり天皇家の先祖にあたる神が諸国を巡って,この土地はいい土地だといって枝をたてたり,家を建てたりしてクニができているわけですから,当時のクニというのは,現在でいえば大字か小字くらいの規模のものだったと思うんです。国語学的にもクニの語源はクネつまり垣根だそうですから,それがだんだん強力な政治的指導者のいるクニに征服されたり属したりしていくにつれて,クニの概念も拡大したんじゃないですかね。さっきいったヤマトやスワックンなんていうのはかなり成長したクニだといえるんですよ。ヤマトは,そうした成長したクニを征服したり,まだムラ社会的なクニなどを征服吸収していくことで強大な国家を建設することになったといえると思います。
―ヤマト国家が各地を吸収して,最後に残ったのが東北の蝦夷と九州の熊襲や隼人だったわけですね。東北は気候が寒いし南九州は火山地が多くて,ともに水稲耕作に適していなかったため,弥生時代以後も狩猟や漁労,採集中心の縄文的特色が強く残った。それで同じ人種ながら,蝦夷とか熊襲とかの名で異人視された。
■敵対する者が「鬼」になる
そうですね。興味深いのは,ヤマト国家が征服したクニのうちで激しい抵抗を受けたところが,後世になってから鬼の棲む空間,怨霊や荒ぶる神の出現する空間を形成する傾向があるんです。 そしてそこには必ずといっていいくらい大きな神社が建てら
れ,征服された側の首長クラスの氏族が神官になっている。いってみれば戦さで生き残った敗者たちが死者の霊を弔わされている。という感じです。
たとえば影城(奈良御所市と大阪府の境) や熊野なんかもそんなところです。 葛城地方は神武軍がそこを通って大和に入ろうとしたとき,兄のイッセを戦死させるほどの抵抗を受け撤退して南にあった熊野地方から大和に侵攻しているでしょ。もちろん熊野でも激しい抵抗を受けていて『古事記』では大きな熊の毒気によって神武が病いに倒れたというふうに語られていますよね。
熊野という場所は,ほとんど現代までといっていいほど日本の「闇」の領域を形成してきたところだし,葛城地方も天皇家に屈服した旧大和地方の勢力である鳴(賀茂) 氏や葛城氏の拠点になっていった.....
―小松和彦/内藤正敏,鬼が作った国日本

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◆亀ヶ岡遺跡
この名で異人視され
防光器 青森県西津軽郡木造町(旧館岡村)の亀ヶ岡遺跡から出土する縄文式土器。とくににすぐれたものが数多く出土し,美術史的にも注目されている。
◆ヤマト朝廷
古代ヤマトの地を中心に成長した「ヤマト王権」は,雄略朝(5世紀末)以降,天皇を頂点とする民制度とよばれる政治組織をとおして,諸豪族の統轄をおしすすめた。 律令制が成立する7 世紀末までのこの主権を一般に「ヤマト朝廷』という。ヤマトの地の位置,ヤマト王権の出自に関しては諸説あり定かでない。なお「ヤマト」が「大和」と記されるのは8世紀なかばからで、それ以前は『大倭』『倭」の文字が使われていた。本書ではそれらを考慮して「ヤマト朝廷」と表記した。
◆熊襲
ヤマト朝は,朝廷に抵抗した九州西南部の人びととその地域をさして「熊襲」と呼んだ。クマソとは片ずみの不毛な土地 「隈背」を意味する。ヤマト朝廷は隅背に住む人びとの抵抗の激しさを恐れて,クマソに『熊』の字を用いたと思われる。『古事記』のなかで熊襲の勇士・熊曾建(くまそたける)は童女に変装した小碓命(おうすのみこと)にのちに殺されている。
◆隼人
古代に南九州を根拠とした一種族。その一部は早くから中央に移されれていたようである。大嘗祭に舞う隼人舞いは,人が水に濡れる所作を伴い,海幸彦(あうみさちひこ)の物語にもとづいたものである。南九州の居住地では8世紀前期に反乱があったが,大伴旅人によって鎮圧され,しだいに中央に服属していった。
―小松和彦/内藤正敏,鬼が作った国日本

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2022年01月04日

上田正昭: 対馬に残る日本文化の祖型〜日本の原像






上田正昭: 対馬に残る日本文化の祖型〜日本の原像
対馬の原像
1974
3世紀のわが国土のありさまを書いた『魏志』の倭人伝には,当時の国の名が30あまりしるされている。そのなかで『魏志』にみえる漢字のままの国名がいまも使われているところがある。それは玄界灘の荒波を越え,対馬海峡の激流のかなたにある島国,対馬の国である。
対馬は『古事記』などには「津島」と表現されているが,文字どおり他地域の文化が流入する門戸の島であった。この島の位置をみるとよい。朝鮮半島に接近して大陸文化の通路となり,他方黒潮の分流である対馬暖流が南方の文化を伝える。日本の文化が,南方的要素と北方的要素の混合と変容のなかで独自の展開を歩んできたことは,多くの人々によって指摘されてきたが,対馬の環境と風土にはそうした日本文化の典型をみいだすことができはしまいか?かねがねそうした予測を描いていたわたくしは,1969年3月下旬,機会があって対馬の予備調査におもむいた。
対馬の人々は,壱岐とは違って本州を「本土」とよぶ。その語感には,現在もなお遭難のたえない海のへだたりが横たわっているのかもしれない。だがわたくしのみた対馬には,日本文化の祖型が宿っていた。おのが仮説を満足せしめるものが現地の海辺にいきづいていたのである。
『古事記』『日本書紀』の神話で,もっとも重視されるようになる神は,多言するまでもなくアマテラスオホミカミである。この神は後には皇室の祖先神として神代史の主軸を形づくるにいたったが,その本来の姿は日の神つまり太陽の神であった。アマテラスといえばいわゆる天の岩戸の神話が有名だが,岩屋がくれの神話はなにも日本特有のものではなく,東アジアや東南アジアなどにもある。
ところで,天孫降臨のおりに主役を演ずるのはどの神か?多くの読者はアマテラスをあげられるだろう。しかしそれは間違いである。国ゆずりや天孫降臨神話における命令神の主体はタカミムスビノカミであった。疑う人は記紀神話を直接に読んでいただきたい。記紀神話にあってもカミムスビが主要な役割をになう。さてこのタカミムスビだが,この神の性格には北方的要素が濃厚にまつわりついている。天孫降臨という神話類型じたいが,朝鮮をはじめとして北方アジアに多く見いだされるものなのである。わざわざこの両神にふれたのはほかでもない。対馬には,いわゆる南北両系の神々が古くがまつられているからである。すなわち厳原町豆酸(つつ)にあるタカミムスビの社・美津島町小船越にしずまるアマテル神社や豊玉村の和多都美神社・峰村の海神神社などがそうである。ともにそれらの社地は海辺にのぞんだ土地にあった。
タカミムスビ・アマテル両社の由来は,古代にさかのぼる。10世紀前半の『延喜式』の神々に記載されているばかりではない。「日本書紀』の頭宗天皇の条にも,対馬の両神がはっきり登場する。阿閉臣(あべのおみ)が朝鮮半島南部へ派遣されたさいのできごととする記事である。日の神が
「わが祖先のタカミムスビに田地を献上せよ」
と託宣したという。この日の神とは対馬のアマテルの神であり,神託に現われるタカミムスビとはやはり対馬でまつられていた神であった。皇室の祖先神とるおがれるようになるアマテラス,そしてその祖神であるタカミムスビが,なぜ対馬を舞台にしてうかびあがってくるのか?しかも『日本書史』には、対島の下県直(しもつあがたのあたい)が奉仕し畿内に分祠されたとも伝えている。
戦後の古代史研究にセンセーショナルな話題を提供したものに騎馬民族征服王朝説がある。大陸北方系の騎馬民族が倭人集団を征服したとする学説は賛否両論をまき起こしたが,その論議のひとつの視野に,対馬におけるこのような神々のであいを加えておく必要がある。畿内において文化の融合がはじまるのではなく,それ以前に日本文化の源流が対馬に用意されていた。
対馬の聖域にたったわたくしは,いまさらのように島国日本のふるさとの足取りをひしひしと感じた。上対馬町の比田勝に朝鮮半島南部の伽耶と同形式の伽耶式古墳があり,弥生時代後期のその古墳から朝鮮系の陶質土器が出土したことや,海神神社の新羅仏をはじめとして西海岸に朝鮮仏が多いことなどもけっして偶然ではない。
対馬と朝鮮。対馬と畿内。その間におりなされた歴史の糸はさらに南方的文化との交流の軌跡にいろどられて,この島の文化史的意味をたかめる。前にのべたアマテル神社は,江戸時代の古文書では照日権現と書きとめられており,太陽神としての神性が長く生きつづけていたことがわかる。対馬の天章(天道)信仰にも「お日照さん」としての太陽神的色あいがからむ。
さらにこの島の海神神社や和多都美神社などの伝説には,南方的神話の好例とでもいうべき「海幸と山幸神話」に類似する信仰が伝播していた。日本文化のいにしえを回想する時,いうところの「本土」よりも「離島」の文化があらためてわれわれの眼前に迫ってくる。観光の美名のために荒れすさんでゆく文化をみるにつけても,「離島」に生きる文化の原姿を大切にしたいと願うのは自分だけではあるまい。
「離島」の振興策はたんなる観光化であってはならぬ。観光の原義が「国の光を観る」ことにあるのを忘れて,人集め,客寄せのみに具体するのはまことになげかわしい。いかにして国の光を守り,いかにしてそれを発揮するかが今こそ問われなければならない。あやまれる観光の波は対馬にも押しよせつつある。かつて対馬の卜部(うらべ)は,四か国卜部のひとつとして古代の宮廷に重きをなしたが,新しき卜部は対馬の過去ばかりでなく,その未来ついても明確な占いをなすべき時を迎えている。
―日本の原像,上田正昭,1974,

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魏志倭人伝・東夷伝
卑弥呼とは一体誰か
2015/3/8(日) 午前 8:10
書庫古代の話
この国では卑弥呼、卑弥呼と喧しいが、一体誰なのか今もってはっきりした答えはない。しかしあちらの魏志倭人伝にはそれらしき存在はしっかり書き残されている。日本では神功皇后の事だと云ってみたり、果ては天照大神だと云ってみたり、第七代交霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)ではないかとも言われている。
あちらの年号景初元年は西暦245年ごろに当たる。この魏志倭人伝の中の東夷伝を書いたのは陳寿と言われる人物。
陳寿がこの書を書いたのは280年頃、その中には、、
其の国元男子を持って王と為す、住(とどまる)事七、八十年、倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり、乃ち共に女子を立て王となし、名付けて卑弥呼と曰す、鬼道を事とし能く衆を惑わす。男王ありて国を治むるを佐(たす)く、年巳に長大なるも夫婿なく、王となりし自(より)し以来見る事こと少なし、、とある。
そのころこの国の歴史書、日本書記では丁度神功皇后が治めていたころになっている。神功皇后が治世していた年代は西暦201年から269年の69年の間。しかし余りにも実態とかけ離れている。これ程長年国を治めていたにも関わらず、天皇としては記載されていない。神功皇后はあくまで第14代中哀天皇の皇后でしかない。その神功皇后にある日神からお告げある。
「西の方に金銀をはじめ様々な宝に満ちた国があるその国を与えよう」と神託があった。
たちまち中哀天皇にそのことを進めたが、天皇は一向に乗り気ではなく、九州の熊襲退治に出かけようとした、がそこで死んでいる。謎の死である。
又卑弥呼は二人いた、という先生まで現れた。この先生何が何でも九州に王朝を持っていきたい方。
さて箸墓、そこに祀られているのは一体だれか、その箸墓が作られ始めたのが丁度240年頃。日本の前方後円墳の始まりと言われる巨大古墳。だがこの全長280メートルもある。そしてこの古墳は全国でも11.2番目の大きさと言われる。一番大きいのは大仙山古墳、現仁徳天皇陵と言われているが、これも最近異論が出てきている。
大体この国ではっきりしているのは、九州の岩戸山古墳に入っている筑紫の磐井以外にない。がこの国の日本書紀には一切卑弥呼は出てこない。欠史八代と言われる天皇の中にはこの交霊天皇も入っている。にもかかわらず、あの箸墓伝説だけはすこぶるその存在が大きい。
日本書紀ではその交霊天皇が治世した年代は紀元前290年から215年までの75年間。卑弥呼が存在した年代とは余りにもかけ離れているだろう。
実はあの推古天皇9年、西暦600年から一蔀(いちほう1260年)遡らせたことが大きなずれとなっていることは明白。あの箸墓伝説の中ではこの「ヤマトトトヒモモソヒメ」は大国主命の妻であり、夜ごと通ってくるがその姿を見たことがない。その為一度お姿を見たいものと大国主神にお願いした。すると大国主命が、明日貴女の櫛箱の中に入っているから開けてみてくれと云った。そしてその姿を見ても決して驚いてはいけない、とくぎを刺した。そして次の朝モモソヒメは櫛箱を開けてみて驚いた。そこには一匹の美しい子蛇が入っていたのだ。モモソヒメは驚きの声を上げた。と途端に大国主命が姿を現し、よくも私に恥を掻かせたなと怒り、三輪山の方に飛んで行ってしまった。モモソヒメは余りの事に驚き腰を抜かして座り込んだ。その時持っていた箸が陰部(ホト)に刺さり死んでしまったと云う。箸で陰部を差すなど、よくもこんな事が書けるもの、如何に日本書紀がいい加減なものであるか、しかもそれがこの国の正史である。このモモソヒメ、一日に百回も襲うという恐ろしい名前、それが卑弥呼ではないかと云われている。
しかし日本書記には一切その名前は出てこない。このほかにも日本書紀にはいかがわしい記載が多い。しかしある意味ではそれらを包み隠さず、そのまま載せている所に信憑性がある、と評価されている面もあるらしい。
さて箸墓はこの国最初の前方後円墳である。あの頃はまだこの陵を取り巻く周濠池はなかったようだ。が後に近くの農民が灌漑用の池を作った。だから一方にのみ大きな池がある様だ。その古墳を作るに於いては、昼は大坂山から人伝いに手渡しして石を運び夜は神が作ったと伝えられている。
それにしてもあの地域に集合する古墳、実に35個もある。中でも箸墓は最大級のもの、勿論奈良平城京の近辺にも多くある。空から見れば大和盆地は前方後円墳だらけだ。
ちなみに神功皇后陵は平城京の北側にある。卑弥呼が死したのは西暦245年ごろ、そのころ丁度日本列島で日食が起きる。そして巫女たる者それも予測できなかったのかと責められる。そして死している。果たして自然死なのか自殺なのか、不自然な死である。死した途端、又国内が騒然とし争いが起きる。そして卑弥呼の宗女台与(とよ)が立てられる。そしてやっと争いは収まる。
果たして台与とは何者なのか、それも日本書紀には一切記されていない。古事記は正史と認められていないが、実際にトヤマトトトヒモモソヒメが生存した年代は紀元前290年から215年頃まで、崇神天皇が日本書紀に出てくるのは紀元前97年から前30年迄、その崇神天皇には大叔母に当たる。余りにも年代が違うだろう。
丁度秦の始皇帝が中国全土を征服した頃。そのころ秦の始皇帝の征服からはじき出された多くの中国人がこの国に逃げてきた。それまでは縄文時代。一つは朝鮮半島を陸伝いに、又直接海を伝って逃げ込んだ人間が多かった。稲作を持ち込み、鉄を持ち込んだ渡来人、この国をどれ程発展させたか。一気にこの国は秩序ある国家として変身してゆく、だが当時この国は文字持たなかった。その為大権を主張するには巨大な古墳を作り人々をその権威の元に従わせていた。兎に角日本の古代は読めば読む程分からなくなってくる。卑弥呼も台与もいったい誰なのか今となっては分らない。
が意図としてわからないように編纂したのはかの藤原不比等だ。日本書記は天武天皇の発案で書かれ始めたが、それを編纂したのはこの藤原不比等だ。その日本書記の完成を見て安心するようこの世を去った。

Roshyの独り言
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藤原不比等
「日本史上最大の功労者か、又最悪の大悪人か、、、」15.03.15
あとで読む
2015/3/14(土) 午前 6:04
書庫古代の話
さてそのである。偉大な政治家と言われ、この国を、未開の習慣法の国家から成文法の近代国家に築き上げた人物と讃えられる。又その反面にこの国の皇室を乗っ取った大悪人とも呼ばれる。
そもそも藤原家の前は中臣氏と呼ばれていた。中臣氏の元は天御中主尊(あめのみなかのぬしのみこと)と云われる。それから12代目が鎌足だ。別名鎌子とも呼ばれ、中大兄皇子と手を結び蘇我一族排除に協力した。大化の改新を断行し歴史上の大人物と崇められた。そしてその死に対して藤原姓の名前を与えられ、藤原の土地は与えられ、大職官、内大臣、の地位まで送られた。不比等はその鎌足の二男である。
不比等の誕生は斉明4年、(658年)の生まれ、白村江の戦いの五年程前の生まれである。鎌足の長男定恵は不比等五歳の秋にこの国に帰ってくる。勿論中国に勉強のためにだ。が帰国後すぐ死去する。23歳の不思議な死だ。そして不比等が藤原の相続者になる。そして20歳になり、初めて出仕する。最初の名前は中臣連史(なかとみのむらじふみと)と呼ばれる。そして蘇我臣連子(そがのおみむらじこ)の女(むすめ)娼子(しょうし)と結婚する。そして長男武智麻呂(むちまろ)が生まれる。不比等14歳の頃天智天皇が崩御する。そして彼の有名な壬申の乱がおきる。そして弘文天皇は自死し、天武天皇が即位する。そして天武7年、初めて出仕する。そして房前(ふささき)が生まれる。がその娼子が死去してしまう。
そして加茂の君の女(むすめ)加茂比売(かもひめ)と再婚する。そして長女宮子(きゅうし)が誕生し、その宮子は長じて文部天皇夫人になり、次女長蛾子(ちょうがし)が生まれる。長我子は長屋王(ながやのおおきみ)の夫人となる。次に宇合(うまかい)が生まれる。このころ氏長者藤原朝臣大嶋薨去、不比等が氏の長者になる。そのころ美努王(みぬのおおきみ)の妻だった県犬養美千代(あがたのいぬかいのみちよ)と再婚する。この年正三位大納言になる。晴れて公卿入りだ。そして後に孝謙、称徳天皇となる安宿媛が生まれる。犬養美千代との間に光明子(こうみょうし)が生まれる。そのころ他の夫人五百重姫(いおえひめ)との間に麿呂(まろ)が生まれる。そして41歳の時、藤原姓を名乗れるのは不比等一家のみ、あとはすべて元の中臣に戻るよう詔を出させる。
さて武智麻呂は南家と呼ばれ、房前は北家と呼ばれ、宇合は式家とよばれ、麿呂は京家とよばれる。この四人が不比等の思想を盤石に基盤を支える。犬養美千代との間に生まれた光明子、のちに聖武天皇の皇后となる。そもそも天武天皇の命令で皇后になれるのは皇室の出身者でなければならなかった。それを強引に皇后に立てる。
加茂比売との間に生まれた宮子を文武天皇の夫人(ぶにん)に入れる。そして娘の宮子に首皇子(おびとのおうじ)、が生まれる。後の聖武天皇である。つまり不比等はここで初めて天皇の外戚になるわけだ。此処ではまだ皇后ではなく夫人の名前だが,その後娘の光明子を聖武天皇の皇后に入れる。そして光明皇后と名乗らせる。そこでこの功績をたたえて二階級特進する。およそ臣下から皇后になったのは初めて、如何に不比等の威光が強かったか、何人も不比等に逆らえないような権力を完成していた。
不比等には6人もの夫人がいた。が最初の夫人昌子は武智麻呂と房前を生んで早死にし、次に再婚したい加茂比売女(かもひめ)との間に宮子、文武天皇夫人を産み、五百重姫の間には麿呂を生み、県犬養美千代との間には光明子を残している。その光明子が聖武天皇の皇后になる。此処からこの国の歴史は大きく変わって行く。その光明子は後の孝謙、称徳天皇になる安宿姫(あすかひめ)を生む。つまり皇后になる資格の無い娘を強引に皇后に知るほど権力を掌握していたのだ。不比等の専横はここに極まる。
長男の武智麻呂は後に正一位左大臣になり、次男房前も正一位左大臣になっている。宇合も正三位太宰の師(そち)になっている。そして麿呂は従三位、参議兵部卿時節大使として奥羽開発に務めた。しかしその四兄弟が突然天平9年、(737年)同時に流行病にかかって急死する。だが既にその子たちが既に政治の重要な役職についていた。武智麻呂の次男仲麻呂は孝謙天皇のお気に入りで引き立てられ、恵美押勝の名前を与えられ、後に道鏡が出てきて仲麻呂は失脚するが、一番栄えた北家の房前は枝を隅々まで伸ばし、この国の基盤を盤石にする。この後天皇の皇后とか妃夫人になるのは藤原家出身者でなければなれないような法則を作る。これにより自由に皇室を操れる権力を手に入れる。
正に日本はこの藤原家を筆頭に、源氏か、平家か、橘氏しかない中で混血してゆく。その中でも藤原が一番栄える。後年藤原はあらゆる名前に変わりこの国の中で広がって行く。武家になった藤原氏は武藤と云い、御所の後衛を務めた藤原は後藤と名乗り、左衛門丞の藤原は左藤と名乗る。かくのごとく藤原はこの国の隅々まで広がって行く、そのすべての元はかの不比等だ。その不比等の企みは大成功する。その不比等は養老4年(720年)正二位右大臣を持って薨去する。だがすぐ正一位太政大臣を追贈される。死後もこの国の先駆者としての敬意は与え続けられる。後年1020年ごろ一族を代表するようにかの藤原道長をしてこのような歌を詠ませる。
「この世をば 我が世と思う望月の 欠けたることをなしと思えば」と云わせるほど栄華を極める。
中でも房前の北家が最も栄える。珍しいところでは有名な紫式部も房前の末裔である。勿論田原の藤太秀郷も北家の出、近衛も藤原摂関家関白忠道からの別れる。つまり北家から分かれて出る。

Roshyの独り言
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佐治芳彦: 隼人,熊襲,肥人,土蜘蛛,蝦夷〜日本の原住民たち
■隼人
隼人は山幸海幸神話(幸易説話)に出てくる海幸ことホノスセリノミコトを祖とすると記録されている。だから本来ならば天津神系ということになる。それにもかかわらず九州の異族として次に述べる熊襲と並んで古代朝廷に反抗した九州のチャンピオンとされているものだからいささか奇妙である。ということは山幸(ホオリノミコト=ヒコホホデミ)に海幸が破れて 服属することになったことと,紀記編纂の時点で隼人がすでに大和朝廷に服属していたことをこの伝承に結びつけた理由であろう。あるいはホスセリはホオリ(天孫系)と九州で張り合って敗れた先住民の首長であったとも考えられる。むしろ後者のケースの方がより現実であるかもしれない。。
さて「隼人」の名称であるが,本居宣長は「早人(ハヤト)」つまり勇猛果敢で行動が敏速な民族であったことからのネーミングであると『古事記伝』で説いている。
また喜田貞吉博士は「隼人」の「ハヤト」を地名と考えた 。すなわち中国の史書『新唐書』に
「ソレ東海ニ邪古(ヤコ),波邪(ハヤ),多泥(タネ)の三小王アリ」
という一節から邪古(ヤコ)は夜句(ヤク),つまり屋久島,多泥(タネ)は種子島,そして波邪(ハヤ)もやはり屋久島と種子島の近くの地名であると考えた。その波邪(ハヤ)島に住む人,つまり「波邪人」がつまって「隼人」と呼ばれるようになったというわけである。
■熊襲
現在の私たちにはよく知っているいわゆる「異族」は「熊襲」と「隼人」であろう。
この熊襲であるが,これは隼人と同一とみなす考えもある。また『魏志倭人伝』で言う倭人の子孫であるとした学者もいた。本居宣長は「熊」を勇猛の意味に,「襲」を「おぞましい」が詰まった「オゾ」がつまった語でやはり勇猛の意味と理解して,日向の南半から大隈,薩摩にかけて住んでいた勇猛な部族であるとした。
また明治に入るとクマ族とソ族を合わせた名称という見解が出てきた。つまり
クマ族=クマ人=隈人=僻地の住民
ソ族=ソ人=背人=山の陰の住民
で前者は熊本県の球磨郡,後者は鹿児島県の曽於郡にその名をとどめているが,その両者をあわせて球磨郡になったという説である。
また「熊」は「コマ」で「高麗」,「襲」は「シ」で「新羅」であって,つまり朝鮮半島から渡来した新羅人であるという説もあった。確かに紀記では熊襲が新羅と共謀して叛いたという記録もある。そのため神功皇后は熊襲を討つ前にその背後の新羅を征伐している。しかしこの見解は日韓同祖論者の金沢庄三郎のものであるだけにいささか朝鮮傾倒の観がないでもない。
■肥人
鎌倉時代に成立して日本に現存する最古の図書目録とされる『本朝書籍目録』に「肥人書五巻」と記されている。
肥人とは古代に西九州の海岸地帯で漁業生活を営んでいた人々とされるが,これは 記紀には載っておらず万葉集に出てくる。
肥人の額髪結へる染木綿の
沁みにし心われ忘れめや
したがって肥人の実在したことだけははっきりしているが,詳細は万葉集のこの歌から伺える若干の風俗以外は不明である。ただこの肥人が古史古伝で注目されたのは肥人書が 神代文字で書かれていたという平田篤胤の説からである。
ただ平田への批判者である大伴信友は肝心の肥人書の実物がない,証拠がないのだからと軽くいなした。一方近代に入って早稲田大学の教授であった西村真二が『日本文化史概論』でこの肥人書について中国西南部の苗部族の書でないかはないかとしていた。ということはこの肥人はあくまでもコマビト(高麗人)ではなくて照葉樹林文化複合をもってインドシナ半島か中国南部から渡来した人である可能性が大きいことを意味している。
実際 『万葉集』の歌を読めば,額の髪に草木染めか何かの木綿の布をアクセサリーとして巻いていたという可憐な若い女性のイメージは,安南とかカンボジアの苗族系のエキゾチックな風俗を思い起こさせるものである。
この肥人が紀記にその名前をとどめなかったのは,おそらく彼らが例えば 熊襲,隼人,蝦夷などと違って,権力に抵抗したり反逆したりしないで平和な温和な人々であったからであろう。
■土蜘蛛
紀記から伺われる日本列島の先住民として熊襲,蝦夷と別に「土蜘蛛」が重要である。神武天皇東征の際も抵抗感して「誅」されたし,
景行天皇は九州中部(豊後)の「土蜘蛛」をやはり「誅」したとある。神功皇后も九州中部(筑後山門県)の土蜘蛛の首領である田油津媛を「誅」したという。
紀記以外にも『日向風土記』には天孫降臨の際に大柑,小柑という二人の「土蜘蛛」が出てきて悪天候に悩まされていたニニギノミコトに助言した旨を記録されている。『日向風土記』以外にも豊後,備前,摂津,常陸,陸奥,さらに越後の風土記にも土蜘蛛の記録がある。つまり土蜘蛛と称された先住民は九州〜近畿〜東国にわたって広く分布していたわけである。
その土蜘蛛と称された民族は,紀の神武天皇の条によれば,外観は身長が低くて足が長く,小人に分類される人間であったという。また『日本書紀』の現存最古の注釈書である『釈日本紀』によれば彼らは穴居住居に生活をしていたためにこの名称が生じたとある。
性格は一般に温順であって,天孫降臨の一行が悪天候で困っていた時に助けたし,また神功皇后の三韓征伐の際に遭難した軍船を救助したりしたように ,外来者に対しても親切である。したがって彼らが反抗したいというのはよっぽどのことだったに違いない。
■毛人
中国の史書『宋国倭国伝』に倭王武(雄略天皇と比定されている)の順帝への上表文が載っている。その中に
「東ニ毛人五十五国を制ス」
という一文がある。この「毛人」は紀記成立の年代では「エミシ」と呼ばれていることから「蝦夷」と同じではないかと考えられてきた。しかしこの上表文には
「渡リテ海ノ北九十五国ヲ平グ」
という文がある。これは朝鮮半島の国を征服したと理解されてきた。それに対して水野祐氏は
「海ヲ渡リテ北ニ九十五国ヲ平グ」
と読んでこの95国を日本列島の太平洋沿岸の北部,東北地方の太平洋沿岸を征服したと解すべきではないかと考えている。そしてこれが日高見国であって蝦夷の国であるから毛人とは別であると推定される。
「毛人」という名前からまず「毛深い人」というイメージが出てくる。ここから毛人=アイヌという線が考えられたのだろうが,多毛=アイヌ人というのは論理に若干飛躍がありそうだ。しかも「毛人」と「蝦夷」が武の上表文の文脈からして別々の存在であるのだから「毛人」は「蝦夷(日高見)」ではなく,しかも中央=畿内からみて北の地域の先住民が「毛人」ということになる。とすれば古来「毛野国」と呼ばれた関東地方北部の地域,さらに言えば毛野国に加えて関東地方の太平洋に面した地域に住んでいた人々が「毛人」ということになるだろう。ちなみに朝鮮の人々に比べれば日本列島の先住民族系の人々は概して毛深いが,中でも特に毛深い人々が「毛人」と呼ばれたのかもしれない。しかし人種的にはどのような人々か?その点について水野氏は
「アイヌ人であったかどうか甚だ疑問とされ,毛人が全てアイヌ人 だったと断定する勇気を私は持っていない」
と述べている。
■蝦夷
蝦夷こそ隼人,熊襲,毛人などが抵抗を辞めた後も依然畿内朝廷に抵抗を続けていた先住民族のチャンピオンと言えるだろう。
この蝦夷の「蝦夷」の名前が最初に出てきたのは『日本書紀』の『景行天皇紀』である。すなわち景行27年2月の武内宿禰の言葉である。
「東ノ夷(ヒナ)ノ中ニ日高見国アリ。ソノ国ノ人男女並ビニ髪結ケ身ヲ文ケテ為人勇ミ怖シ。是レ総ベテ蝦夷ト曰フ。土地肥沃ヘテ広シ。撃ッテ取リツベシ」
この言葉は景行25年7月,天皇の命を受けて北陸と東方の諸国を偵察して27年3月に帰還した武内宿禰の報告である。終わりの「土地肥沃ヘテ広シ。撃ッテ取リツベシ」がスゴイ。これは美辞麗句の底にある本音をずばり表現したものである。しかし景行天皇は慎重であった。彼が 蝦夷征伐に踏み切るのは熊襲征伐が一段落して12年後,景行40年7月であった。
ー佐治芳彦,日本国成立の謎,

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FB古代史研: 竹内文書の古代世界地図
ムー大陸,ヨナの国,みよいの国,
竹内文書に世界地図があるのですが、私は納得行きませんでした。中東から日本までの海洋地図でしたら納得ですが,世界地図では無いのでは?と思って上下を逆さまにしてみました。
そこに現れた地図は,その昔海底に沈んだと言われるムー大陸の地図でした。
みよい,5色人などが書かれています。
当然後年に写し替えた地図ですが,しかし重要なヒントが隠されていました。この地図がグーグルアースで海底に沈んだ大陸ムーのことだと思ったのです。写真はグーグルアースの海底写真で,一番左にちょびっと台湾があり,そして与那国島、右奥が琉球(沖縄)です。島々の周りが昔沈んだ大陸の名残りです。ムー大陸だったと思います。与那国島の海底神殿の遺跡がなぜあるのか?その証明になると思い写真も添付しました、
さて、5色人のことです、ずーと謎でした、黒人はインド人?
と思っていました、しかし納得が行かないのです、
そして明らかにムー大陸、みよいの国に住んでいた、彼らは、誰なんだろう?
と考えてみました、
この答えが、日本の七福神の神、もちろんこれがタルシン船(帆掛船)だと知っていましたが、
まず、
大黒さんがフェニキア人、
恵比寿さんが、ヒッタイト人、
イザヤ(イザナギ)が、寿老人、
弁天さんが、月読様(イナンナ)です、
残りの3方が、よく分かりませんが
三つの民族でしょう、ここで、イザヤと月読様を除いた五つの民族が確認できます、
五つの文字を持って来たはずです
この五つの民族を5色人と言ったと思います。
最初にタルシン船で来訪した人々です、
これが私の結論です。
この五つの民族に、高御産巣日王国、神産巣日王国で7つです、
最後にハティッシュ(ハタ)からやってきた、八番目の王が牛頭天皇(弓月の君)
アッカド帝王の末裔です、
だから八幡です、八幡神社の祭神です、八幡神社には必ず奥様の神功皇后(稲荷神社)があります、弁天様も、
いかがでしょう?
ご批判や、反対意見も含めコメントお待ちしています。

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2021年08月29日

柳田國男:「遠野物語」と「イタカとサンカ」と伊太祁曽神

柳田國男:「遠野物語」と「イタカとサンカ」と伊太祁曽神
柳田國男が明治末期に発表した>「イタカ」及び「サンカ」から
■イタコ
『東遊雑記』によれば津軽にては婦人の神を祭る者を「イタコ」と呼べり。市子の訛なるべし。 そのイタコは「オシナ」または「オシラ」と称し,桑の木にて作れる棒に絹布など被せて,幣帛のごとくなしたるを神明として祀ることあり。
陸中遠野の人佐々木繁氏(中略)また曰く陸中東磐井郡地方にてはイタコをオカミサマとも言う。 神がかりの折には,オシラサマの男体を左の手に,女体の方を右の手に持ち打ち振り打ち振り物語りする云々。
オシラ神の信仰はアイヌと共通なることは注意すべき問題なりとす。
イタコの語原に関する自分の仮定説は左のごとし。イタコはアイヌ語のイタクに出づるなるべし。
ハチェラー氏語彙によればItak=to say,acknowledge,to tellとあり。
金田一京助氏は曰くイタクはわが「言う」に該当すれども普通の談話には用いず。 おそらくは荘重なる儀式の詞が意味するならん。ユーカラなどの謡物の中に巫女が神意を告ぐるところには必ずイ子, イタキ(かくのごとく言えり)という語を用いたり云々。
白鳥博士の談にイタクは蝦夷本来の語にはあらずして,必ず隣接民族より伝えたるものならん。 北方の諸民族にはこの語共通に神聖なるものまたは荘厳なるものを意味す。 わが国の古語のミイヅ,イツク,イツクシなど皆この例なり云々。
さらにこれを本邦の古典に徴するに『古事記』諾尊得三貴子の条下に即御頸珠之玉緒母由良邇取由良迦志而。賜天照大御神而詔之。汝命者所知高天原埃[土なし]。事依而賜也。故其御頸珠名謂御倉板挙之神とあり。
御倉は神几にて祭壇の義なるべし。 この板挙之神は古註に多那と訓めあれど義通ぜず。おそらくはイタケの神にして,姫神が神父を拝祀したもうに,この遺愛の物を用いたまいしことを意味するならん。
また紀州の国幣中社伊太祁曽神も社伝には日前・国懸の二神斎祀の時に現れ来たまえりといえば,すなわち一種の斎の神なるべし。 この神と五十猛命と同じという現今の通説は,単に『日本書紀』の中に,五十猛命を即紀伊坐大神是也とあるに拠れるのみ。 伊太祁曽はイタキソにして,イタケソにあらざることは,『倭名鈔』の郷名に伊太杵曽郷とあるもその一証にして旁素尊御父子この国に祀られたまえりとて,ただちに伊太祁曽をもってこれに充つるあたわざるを思うべし。 伊太祁を五十猛なりとせば,曽の字すこぷる解するあたわず。 けだし五十猛は別に父御神の斎祀に与りて,この名を得たまえるなるべく,あたかも後世八幡に若宮あり,熊野に王子あると同じくこれ等のイタキ,イタケはすべて皆御子思想に胚胎せる霊巫の名称にほかならざるべし。
以上柳田國男氏引用終わり
アイヌ語で神々の名や地名を解読されているgenさんの五十猛(その1)へのホームページ中に『事代主・一言主・五十猛・イタテ』があります。
この中の表の一部を拝借します。
tak 言葉,話す .
iso 豊猟 itak-isoイタキソ,を考えたのだが。。。
iso-itak 話す(物語する/中川)猟の話をする,に限るのか?
itak sinne 話しているようだ <itak sir neの音便
itak sura 遺言 <言葉を放つ
itak-ke 〜を話す itakの他動詞
拝借終わり
tak,itakはアイヌ語では話すと理解できる。<<それも ”i”が付けば荘重なイメージがありそうだ。偉,巌,威のイであろう。>>と書いたのだが, genさんから,itak は「i」を分離しないで考えるべきで,たとえ,i- を分離するとしても,一般に i- は「それを」と訳されるのであって,偉,巌,威のイはアイヌ語には考えにくいとのご指摘がありました。謝。
三一書房から『衝撃のチベット語』を出版されている生田淳一郎さんは次のような見解を示されています。(小生へのメール)
恐山などのイタコは アイヌ語 itak ではない。アイヌ語の (i)tak は英語のtalk ,シナ語の「託宣」のタクであろう。 恐山のイタコは「イタゴ」が原音で,これはタガログ語の「降霊をする」が基本と見る。 下北での女陰はペッペ(タガログ語)が訛ったヘッペ,エッペ。下北はタガログ語が入っている。イタゴの go はネパール語でも神である。タガログ語にはネパール語がかなり多く入っている。
伊太祁曾は「イタキソ」と読むのであろうが,これが「イタ」でいちど切れるのかどうか,かなり問題かもしれない。 「ソ」がまだわれわれが知らない「神」だと置くと,「イ・タキ」が本筋かもしれません。そうすると「タキ=岳」の近似も出ます。 「イ・タキ」で,いちど「タキ神」が出て,これに曾がついたという分析です。
従って,「イタキソ」は,いちおう,「託宣の神」でいいのではないでしょうか。
神のイツ(厳)はバスク語に同根語がある。そして伊太祁曾の神は「るりヒタキ(鳥名)」のヒタキではないかということ。 ここでトーテムの登場も視野に入れます。ヒタキは草の穂先きなどにチョコンととまって,チィチィ声高く鳴く鳥です。 鳥のヒタキの意味についても一昨年,かなり追いかけ廻したのですが「火焚き」のほかは出てこなかった。 itak はかなりムリです。
”h” は落ちやすいので,イタキソはヒタキソの訛りである可能性が高まってきました。
鳥のヒタキは渡り鳥ではないでしょうか。この鳥が里近くで鳴くようになったら,オウ(春焼き)やザス(秋焼き)の野焼きをする,季節の始まりを告げる鳥……らしい。
九州ではイタヅラ坊主を「ワルソ,ワルソ坊主」とはいいますが,一般的には「ソ=人」が言える余地は少ないと思います。 ただし,小生の知るかぎりでは,「と」を「ソ」と発音するのが,山口県です。ソは「と」に還元して考えるべきか。 また。「キシ」は百斎の王です。……これかナ?!kisi-o(神)。「日田・(飛騨)+キシ+o」。
「イタは百斎の王」にもなりますネ。こんなぐあいに二つの意味が出てきてこそホンモノの匂いがしてきます。 「鉄・百斎・王」……と,計三つですか。いや,日田には「ヒ・神」も付着していました。ヒタキsu-o(鳥神)も。計五つ。 伊太祁曾……このへんでいちおう良いでしょう。
イタキソのソは su-o (鳥・神)にもなりますね。ita には「鉄(<i-dhatu ⇒伊達)」を感じます。
生田淳一郎様から頂いたメール引用終わり
HP発信者として何らかの考えを出さざるを得ません。
伊太祁曽神社と紀伊在田の式内大社須佐神社とは古来関連があり,祭事には相互に神官が派遣されたり,また須佐神社には伊太祁曽神の遙拝所があるし,伊太祈曽の近くには須佐の地名も残っている。 さて,記紀では五十猛命を素盞嗚尊の御子神,御子すなわち巫女,巫霊となり,齋祀る神と言えよう。 齋祀る神,則ち,神の声を語る神,例えば事代主神,一言主神,中言神がこれに当たる。和歌山市の射矢止神社の由緒に五十猛命が天香期山命,一言主神と共に本国に天降り,名草の山路に後を垂れたとある。また中言神社は名草の里に集中しており,伊太祁曽神を祀ったとされる名草戸畔が祀られていると言う。無関係ではない。
さて紀伊の国の國造は紀氏,あの謎の古代豪族と形容される紀氏である事は周知の通り。その紀氏には公開されている系図と非公開の系図が残されていると言う。 なぜ小生が知っているのかであるが,非公開を見た人がある講演会でしゃべってしまった議事録を見たからである。 おそらく紀氏の許可があったのであろう。この系図は紀の国の氏族の活躍を御参照下さい。
紀氏の祖神は公開系図によると神産霊尊−御気持命・・名草戸畔・・天道根命となっているが,非公開の系図では素盞嗚尊から記されているそうである。則ち紀氏の祖神は本当は素盞嗚尊であると言える。
前に引用した柳田國男さんの伊太祁曽神の出現を言う社伝では「伊太祁曽神は日前・国懸の二神斎祀の時に現れ来たまえり」と引用されているが,紀氏が日前・国懸の神々を祀るに当たって,伊太祁曽神社はその社地を譲った事となっている。 紀の国の国譲りとの理解であるが,柳田さんは,この伝承を「二神斎祀の時に現れ来たまえり」と理解しておられる。すなわち,齋の神としての出現として捉えておられる。戦前の伊太祁曽神社の社伝はそうなっていたのかも知れない。
現在は国懸神は正体不明だが日前神は天照大神とされているが,これは紀氏が大和王権の配下に入り,天照大神を日前神として祀ったとすれば,この時自らの祖神を国懸神として並列に祭祀したものと推測できる。いつの頃からか国懸神の正体は不明になってしまったのだろう。 しかし紀氏の祖神であるとすれば国懸神を素盞嗚尊と見る事ができる。この神の御子神の一柱が伊太祁曽神と言う訳である。伊太祁曽神はその中に齋神の名を含んでいる。紀氏は大和に服属した故,天皇家の祖神の天照大神は紀氏が自ら齋祀る。また我が祖神となした神産霊尊をも祀る。従って我が真の祖神である素盞嗚尊を伊太祁曽神として齋祀ってほしい。と言う事があったのだろう。
古事記に記されている伊弉諾尊の御頸珠之玉が天照大神に渡され,天照大神と素盞嗚尊の誓約の時にこれを掛けてもしくは咬んで出現した神々がいる。八皇子である。また素盞嗚尊には八王子がいる。実際には各地域の氏族の支配権を巡っての天孫族と国津神との抗争の物語が残っているのであろう。 大八島の支配権であろうか。
柳田國男氏は五十猛命を素盞嗚尊を齋く神と見ている。伊太祁曽神も紀の国での素盞嗚尊を齋祀る神である。従って,紀の国ではこれらの神々は同一神と見なされたのは自然な事である。
古事記の「頸珠の名を板挙之神とし」の,板挙をイタケと柳田國男氏は読んでいる。アイヌ語から神々を見ておられる gen さんは白鳥を追いかけた「天湯河板挙」の「板挙」を「イタケ」と読むのではないだろうかと指摘されている。 「誉津別王」を「喋らせる」でイタキの表現はアイヌ語でドンピシャとされている。
イタキまでは解釈がついた。
伊太祁曽の「曽」が残る。生田さんが指摘された神,鳥神が打ってつけの解釈と思われる。木種を撒いた伊太祁曽神,実際には木種を播くのは鳥の仕事,また伊豆では火に包まれた所を鳥に助けられた説話が残っている。仲間なのだ。 齋の鳥神でトーテムはヒタキ。柳田國男氏の言うイタキソの一つの解釈も成り立ちうる。
HP発信者として実は決めかねています。今後の追い求めるべき課題です。
イタキソ,これをイタ+キソと分解して,イタは伊達または五十猛として鉄を意味させ,キソをコソと見て,社,杜と解し,鉄をつくる神とする考え方も存在する。これが今までの有力な理解であり,小生も捨てきれない。
伊太祁曽神社の奧宮司は,五十猛(イタケ)の神が紀の国では有功(イサオ)の神とされている点からitakeisaoのeiがi,aoがoと変わり,itakisoとなったとの判りやすい説明をされたのが印象的でした。
なお,生田さんが,蘇る伊太祁曽神と言う一文をよこしてくれました。蘇る伊太祁曽神をご覧下さい。
国懸神は天日矛か
日前国懸神宮では祭神を国懸神は国懸大神,日前神は日前大神としている。記紀に出てくる神にはしていない。 国懸大神の正体については色々論議のある所であるが,日前大神は天照大神と解釈されている。 これは紀氏が大和王権の配下に入り,天照大神を日前神として祀ったとすれば,この時自らの祖神を国懸神として並列に祭祀したものとの推測からである。 いつの頃からか国懸神の正体は不明になってしまった。しかし紀氏の祖神であるとすれば国懸神を素盞嗚尊とする事ができる。ならば紀氏自ら日前神国懸神を齋祀れば良いのであって,伊太祁曽神が出現する必然性はない。紀氏の祖神を素尊とするのは手の込んだ嘘なのである。 国懸神の御神体は日矛鏡となっている。矛の鏡とは何か?これもいろいろと解釈がなされている謎の神体である。
ここに銅鐸を祭器とする国津神を恐れさせた銅鏡を神聖視する天日矛こそ紀の国を嚇した国懸神ではなかったか。カカスはカカシ,嚇しの意である。なお紀の国には天日矛の伝承は残っていないが,神体を正体の分からない日矛鏡とする国懸神の存在がこれを裏付けている。
紀氏が日前国懸神宮を現在の地に祀るに当たって,それまで紀の国の大神と崇められていた大屋彦大神と妹神の大屋比売神,抓津比売神の三神は現伊太祁曽神社の鎮座する山東の地へ遷座した。国譲りである。 同時に紀伊三所神として伊達,志摩,静火の神として文遷したのであろう。この大屋彦大神の名から紀氏は神産霊尊の子を御気持命として系図にはめ込んだ。大屋は公,豪族の糧を出す意味があり,それを御気持命として,系図に入れて祖神であるとし,同時に紀の国の大神に奉仕させていたと称したのである。 融和と侮蔑である。
後年,紀氏は大和王権の海軍の役割を果たす。海人達は相変わらず大屋彦大神を信奉していた。彼らの船玉の神,武勇の神であった。 紀氏も渡来系であり,国内の多くの渡来人を統率して船を繰り出し,戦う必要があった。その為には素盞嗚尊,五十猛命を同時に崇めたのであろう。やがてそれが,朝鮮建国神話の桓雄,檀君へと習合し,一方では,紀氏の祖神を天日矛からより人気のある素盞嗚尊と切り替え,同時に大屋彦大神と五十猛命を習合させていったものと思われる。
伊太祁の語源は五十猛に求めなければならない。「曽」の理解であるが,神と見るのが自然な理解であろう。
柳田國男全集4筑摩書房
■遠野物語からオシラサマ
昔ある処に貧し百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。
また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩屋に行きて寝ね,ついに馬と夫婦になれり。
ある夜父はこの事を知りて,その次の日に娘には知らせず,馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。
その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り,驚き悲しみて桑の木の下に行き,死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを,父はこれを悪みてて斧をもって後より馬の首を切り落せしに,たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。
オシラサマというはこの時よりなりたる神なり。 馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。 その像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。 これ姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎という人の家にあり。 末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありといえり。
日本古代史とアイヌ語 (gens氏)
ユー・アイ母船人類を指導せよ気高き日本人 BY生田淳一郎氏
H12.12.24

神奈備
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http://www.kamnavi.net/itakiso/katari.htm
http://www.kamnavi.net/idakiso.htm









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2021年08月26日

神奈備: 土蜘蛛の神を祀る神社

神奈備: 土蜘蛛の神を祀る神社
クズの神を祀る神社
王権から土蜘蛛と呼ばれた民がいる。
山に跋扈していた縄文的生活者のことだろう。
彼らも焼き畑のためにそれぞれ山々を領分としていたはず。 領分を示すために大石を立ててこれを祀ったり、または天然の磐座を祀って、その形や籬の形でそれぞれが領域を認識したと思える。
石を立てたものは象形文字で「土」とした。領土の意である。上の「−」は酒を注ぐ姿という。
土蜘蛛は国巣、国樔、国栖、国主、国津、来栖、栗栖、楠、久須などとも呼ばれたものと思われる。
多頭蛇の神話は世界的に分布していたようである。
◆神社一覧
陸奥(陸奥) 津軽 久須志神社「大己貴命、少彦名命」青森市沢山字平野
久須志は薬師でもあり、この混合も考えられる。
陸奥(陸奥) 津軽 久須志神社「大己貴命、少彦名神、倉稻魂命」西津軽郡森田村森田字月見野122-2 山の中に立っていた大石を背負って薬師流(現在の鎮座地)まで来たので一休みしようと思って休んだところその石が動かなくなったのでその地に祭った。
陸奥(陸奥) 津軽 久須志神社「大己貴命、少名彦神、金山比古神、金山姫神」西津軽郡鰺ケ沢町中村町字中山ノ井
陸奥(陸奥) 津軽 久須志神社「大己貴神、少彦名神」西津軽郡鰺ケ沢町一ツ森字上禿
陸奥(陸奥) 津軽 久須志神社「大己貴神、少彦名神」西津軽郡鰺ケ沢町姥袋字霜坂熊ケ沢
陸奥(陸奥) 津軽 久須志神社「少名彦名命、大己貴命、天照皇大神」南津軽郡大鰐町早瀬野字扇沢
陸奥(陸奥) 津軽 久須志神社「少彦名命」南津軽郡大鰐町島田字ゾベコ沢
陸奥(陸中) 胆沢 久須志神社「少名彦名命」胆沢郡胆沢町南都田字化粧坂16番地
陸奥(陸前) 牡鹿 久須師神社「少彦名命」牡鹿郡女川町大字飯子浜字飯子
陸奥(陸前) 牡鹿 久須師神社「少彦名命」牡鹿郡女川町大字江島字江島
陸奥(陸前) 栗原 久須志神社「大己貴命、少彦名命」原郡栗駒町栗原西沢
陸奥(陸前) 牡鹿 久須師神社「少彦名神、倉稻魂神、大名持命」桃生郡河北町尾崎字宮下
陸奥(陸前) 本吉 久須志神社「少彦名神」本吉郡志津川町戸倉字滝浜近東囲
陸奥(陸前) 本吉 久須師神社「少彦名命」気仙沼市田尻
陸奥(陸前) 本吉 二渡神社摂社久須志神社「少名彦神」宮城県本吉郡志津川町戸倉字長清水
出羽(羽後) 仙北 久須志神社「大名持神、少彦名神」仙北郡神岡町神宮寺字布晒
陸奥(磐城) 田村 久須斯神社「大名持神、少名彦神」福島県田村郡三春町大字実沢字薬師道
常陸 茨城 来栖神社「日本武尊」笠間市来栖
下総 印旛 九頭龍神社「天手力男命」印旛郡印西町別所
武蔵 多摩 九頭竜神社「天手力男命」西多摩郡桧原村 天文14年2月2日(1545年)創建
武蔵 幡羅 大我井神社摂社水神社「九頭竜大神」大里郡妻沼町妻沼
武蔵 足立 千住本氷川神社摂社久須志神社「大己貴命、少名彦命、岩長姫命」足立区千住
相模 足柄下 箱根神社摂社九頭竜神社「九頭竜大神」足柄下郡箱根町元箱根
越後 蒲原 諏訪神社「合祀 九頭竜神」白根市大字茨曽根3529番地
越後 蒲原 宇智古志神社「合祀 九頭竜大神」西蒲原郡中之口村大字打越甲2781番地
越後 蒲原 久須斯社「少名彦名命」南蒲原郡下田村大字牛ケ首562番地
越後 魚沼 久須斯神社「少彦名命」北魚沼郡広神村大字田尻279番地
越後 刈羽 佐川神社「九頭竜神」柏崎市大字善根5415番地
越中 婦負 水舞神社摂社戸隠社「九頭龍大神」富山市牧田
越中 婦負 稲荷社「配祀 九頭龍大神」上新川郡大沢野町松野
越中 砺波 戸隠神社「配祀 九頭龍大神」東砺波郡庄川町青島
まず,SARS-CoV-2 は他のウイルスとは異なる。私たちはまだこのウイルス学を完全に理解しておらず,それは急速に変化している。
若狭 遠敷 久須夜神社「大己貴命」小浜市宇久
若狭 遠敷 久須夜神社「大己貴命」小浜市堅海
甲斐 都留 北口本宮冨士浅間神社摂社國津神社「一千五百萬神」富士吉田市上吉田
信濃 伊那 八幡神社(天伯神社)「配祀 九頭竜大權現」飯田市鼎切石
信濃 安曇 八幡神社「九頭竜神」北安曇郡池田町大字池田
信濃 安曇 諏訪神社摂社九頭龍社「九頭竜大神」北安曇郡池田町大字会染
信濃 更科 八坂神社「配祀 九頭竜神」更級郡上山田町大字上山田
信濃 更科 於佐加神社摂社琴比羅社「金山彦命、九頭竜神」長野市青木島町字北町
信濃 水内 戸隠神社摂社岩戸守神社「九頭竜大神」上水内郡戸隠村大字戸隠
信濃 水内 伊勢社摂社戸隠神社「九頭竜大神」飯山市大字坂井字宮裏
信濃 水内 川合墾田神社「合祀 九頭竜大神」長野市大字川合新田
信濃 水内 更級神明大神社摂社九頭龍社「九頭竜大神」長野市大字大豆島字宮河原
信濃 水内 虫倉神社「磐長姫命」上水内郡鬼無里村大字日影字虫倉山
信濃 水内 虫倉神社「磐長姫命」上水内郡中条村大字御山里7038
信濃 水内 虫倉神社「磐長姫命」上水内郡中条村大字御山里2562
信濃 小県 別所神社摂社九頭龍社「彦竜命、高竜神、姫竜命」上田市大字別所温泉字内大門
信濃 高井 上下諏訪神社摂社九頭龍社「九頭竜大神」上高井郡小布施町大字押羽
信濃 高井 矢島往郷神社摂社九頭竜社「九頭竜大神」上高井郡小布施町大字都住字北久保
飛騨 益田 九頭龍神社「天手力男神」益田郡馬瀬村堀之内696番地
美濃 益田 久津八幡宮「應神天皇 配祀 磐長姫神」益田郡萩原町上呂
美濃 恵那 神明神社摂社九頭竜大権現社「九頭竜大權現」恵那郡坂下町坂下字握
美濃 安八 藻葛神社[もくず]「建御名方神」安八郡神戸町柳瀬字本郷052番地
美濃 武儀 葛屋神社[くずや]「須佐之男命、大日め命」加茂郡七宗町上麻生5010番地
尾張 丹羽 栗栖神社「宇麻志麻知命」犬山市大字栗栖字大平
駿河 富士 富士山本宮浅間大社奥宮摂社久須志神社「大名牟遲命、少彦名命」富士宮市宮町
駿河 駿東 鷲頭神社摂社久須八幡宮「應神天皇」沼津市大平 ここに木曾大明神「木ノ宮大神」
駿河 駿東 厳島神社摂社九頭竜神社「彌都波賣神」御殿場市東山
駿河 駿東 迎久須志之神社[むかえくすしの]「大己貴命、少彦名命」駿東郡小山町須走地先富士山胸突
伊豆 賀茂 葛見神社[くずみ]「葛見神、倉稻魂命」「延喜式神名帳」所載の田方郡久豆弥神社に比定 伊東市馬場町
伊勢 桑名 楠神社「品陀和氣命」桑名郡長島町大字西川
伊勢 一志 國津神社「大國主大神」一志郡美杉村太郎生
伊賀 名張 國津神社「大己貴命」名張市滝之原
伊賀 名張 國津神社「大名牟遲神」名張市青蓮寺
伊賀 名張 國津神社「大國主命」名張市奈垣
伊賀 名張 國津神社「大國主神」名張市布生
伊賀 名張 國津神社「大己貴命」名張市長瀬
伊賀 名張 上長瀬國津神社「建速須盞男命」名張市布生川前
伊賀 名張 國津神社「大己貴命、事代主命、蛭子命」名張市上比奈知
山城 相楽 西宮神社「九頭王」相楽郡木津町相楽西宮
山城 相楽 栗栖神社「菅原道眞」相楽郡笠置町笠置栗栖
山城 相楽 國栖神社[くず]「大國主命」相楽郡加茂町辻下垣外
山城 相楽 國津神社「天照皇大神」相楽郡南山城村北大河原北垣内
山城 相楽 國津神社「大國主命」摂社石神社「石長比賣命」相楽郡笠置町有市平畑
丹波 桑田 九頭神社「武内宿禰」北桑田郡京北町細野北谷
丹波 桑田 桑田神社摂社野々神社「九頭龍神」亀岡市篠山町山本北条
丹波 多紀 九頭女神社「別雷神」多紀郡篠山町下篠見
摂津 豊島 八坂神社摂社細原神社「細原神、九頭竜大神」池田市神田
和泉 大鳥 春日神社摂社九頭神神社「菅原道眞、九頭神明神」 物部氏族氏神として物部布留神社を創社し地主の神として祀った。和泉市春木町15番地
摂津 川辺 高皇産神社摂社九頭神社「渡津神」川辺郡猪名川町北田原字上山
播磨 揖東 栗栖神社[くりす]「應神天皇」揖保郡新宮町平野字宮山
大和 添上 九頭神社「天手力男命」奈良市下狭川町
大和 添上 九頭神社「天手力男命」奈良市広岡町
大和 添下 小泉神社摂社九頭神神社「九頭神明神」大和郡山市小泉町
大和 山辺 九頭神社「建御名方大神」天理市長瀧町
大和 山辺 九頭神社「建御名方神」天理市下仁興町
大和 山辺 九頭神社「建御名方神」天理市苣原町
大和 山辺 國津神社「大國魂命」山辺郡都祁村甲岡
大和 山辺 國津神社「大國魂命」摂社九頭神社「高神」山辺郡都祁村南之庄
大和 山辺 國津神社「大國主命」山辺郡都祁村白石
大和 山辺 葛神社「出雲建雄神」山辺郡都祁村藺生
大和 宇陀 葛神社「天照皇大神」宇陀郡榛原町山辺三
大和 宇陀 九頭神社「高命」宇陀郡室生村下笠間
大和 宇陀 九頭神社「高神」宇陀郡室生村無山
大和 宇陀 九頭神社「高神」宇陀郡室生村多田
大和 宇陀 海神社「豐玉姫命 配祀 九頭竜大明神」宇陀郡室生村大野
大和 宇陀 九頭神社「九頭大神」宇陀郡大宇陀町牧
由緒書きには建御名方神(久須斯神)をお祀りしている。
大和 宇陀 くず神社「衝立船戸神、道反之大神」宇陀郡大宇陀町嬉河原
大和 高市 加夜奈留美命神社摂社九頭神社「九頭神」高市郡明日香村栢森
大和 高市 天津石戸別神社(九頭龍明神)「天手力男神」高市郡高取町越智
大和 高市 葛神社「氣吹戸主命、天津兒屋根命」高市郡明日香村坂田
大和 式上 國津神社「素戔嗚尊」桜井市箸中
大和 吉野 國栖神社「石穗押別神」吉野郡下市町阿知賀
大和 吉野 久須斯神社「大水上神、久須之神、天照國照日子火明之神」吉野郡吉野町三茶屋
大和 吉野 御靈神社「國樔乃翁」 国栖翁の祖、権正政国を祀る(国栖奏発祥の古跡)吉野郡吉野町窪垣内
大和 吉野 國樔八坂神社「速須佐之男命、石穗押別命」吉野郡吉野町南大野
大和 吉野 國樔神社「石穗押別命」吉野郡吉野町入野
大和 吉野 久斯神社「大名持神、少名彦神、天武天皇」吉野郡吉野町志賀
大和 吉野 葛上白石神社「道俣神、岐戸神」吉野郡吉野町千股
大和 吉野 葛上神社「手力雄命」吉野郡大淀町岩壺
大和 吉野 葛神社「手力雄命」吉野郡大淀町鉾立
大和 吉野 國栖神社「石穗押別神」吉野郡下市町阿知賀
紀伊 名草 八幡神社「合祀 九頭竜大神」和歌山市府中
紀伊 名草 國主神社「大國主之神」海南市多田
紀伊 在田 國主神社[くにす]「大國主命」有田市初島町里東山
紀伊 在田 國津神社「大己貴命」有田郡湯浅町田
紀伊 那賀 大国主神社「大国主命」那賀郡貴志川町國主
国主淵は龍神の住む池との伝承があった。
紀伊 那賀 九頭神社「素佐男命、大國主命、稻田姫命」那賀郡那賀町麻生津中
紀伊 那賀 九頭神社「須佐之男命」那賀郡粉河町荒見
紀伊 那賀 九頭東屋神社「天兒屋根命、經津主命」那賀郡粉河町杉原
紀伊 那賀 海神社「豐玉彦命、國津姫命 合祀 九頭大明神」那賀郡打田町神領
紀伊 那賀 稲荷神社「合祀 九頭竜王」那賀郡桃山町大原
紀伊 牟婁 蟻通神社摂社楠木社「地主神」田辺市湊
伯耆 汗入 日吉神社摂社國津神社「素盞嗚命」西伯郡淀江町大字西原
石見 鹿足 八幡宮摂社戸隠神社「手力雄尊、九頭龍神」鹿足郡日原町池村
備前 児島 國津神社「建日方別命」岡山市郡
備中 哲多 國主神社「大國主命」新見市上市
備中 阿賀 國主神社「大國主命」阿哲郡大佐町大字大井野
阿波 海部 楠王神社「大己貴命」海部郡海南町多良字井口
讃岐 阿野 大宮八幡宮摂社國津神社「事代主神」綾歌郡綾南町陶
讃岐 寒川 来栖神社「思兼命」 大川郡長尾町前山字来栖
讃岐 鵜足 宇夫階神社摂社九頭神社「天御中主命」綾歌郡宇多津町
伊予 風早 國津比古命神社「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」 北条市八反地
伊予 越智 杵築神社摂社龍神社「九頭龍神」今治市砂場
土佐 幡多 来栖神社[くるす]「少彦名命」中村市
土佐 長岡 楠上神社「?」南国市十市
土佐 吾川 楠神神社・子持神社「大那牟遲命、少彦名命」吾川郡春野町
豊後 日田 國津神社「國之常立神ほか」日田市大字小迫9番地

神奈備
http://www.kamnavi.net/jm/kuzukami.htm





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2021年08月24日

生田淳一郎: 日本語とネパール語





生田淳一郎: 日本語とネパール語
紋次郎・ほっつきある記
主筆 生田淳一郎
ネパール語にご注目
いまから26年前、小生はアイヌ語々彙のなかに100前後のゲルマン語が含まれていることを発見し、『アイヌ語の謎』という、それはそれはオソマツきわまる本を出しました。
現皇太子がマチャプチャリ山にご登山遊ばされたときですから、今から何年まえのことになりましょうか。そのときNHKがその山容を出しながら「マチャプチャリとは魚のシッポというネパール語だそうです」と放映したのでした。これを聴いた小生は電撃ショックをうけました。アイヌ語そっくりなんです。その後の分析では、これはそのままでの語形では間違いだとなったのですが、語彙を構成している o や chopchop などは生きています。今から8年前まではその驚きを胸に秘めたまま、忍々でしたが、脊髄腫瘍をわずらったを機に本格的に取り組みました。
その結果は、日本語とネパール語間には1000余のペア類似語が、アイヌ語とネパール語の間には420のペア類似語があることが判り、小生はこれを『衝撃のネパール語』(三一書房)で発表しました。しかし、出版の直後に同社に内訌があって、小生が掴んだこの成華は世に知られないまま 1年9ヶ月が経ちました。
大野晋教授のことはご存知と思いますが、タミル語とのあいだに掲げられた類似語は350ペアです。アイヌ語についての類似語の言及はありません。言語……といえば、諸般現象のひとつと看做され易いのですが、言語は氏族〜民族のアイデンティティーの核です。言語さえ同じなら風俗習慣も遺伝形質もしだいに同じものとなります。それは沖縄やアイヌの消長が証明していることかと思います。これを逆に辿れば、この日本列島には日本語が形成される前までは、約200の言語集団があって、それぞれことばが通じ合えない関係にあった……も浮上してきましょう。
旧いことばを追求するということは、いろんな重要側面を露呈させます。三宅様へとくにお訴えしたいことも数項目におよびましょうが、とりわけ、仏教流入以前のこの日本列島に支配的だった生命観のことでしょうか。
とりわけ……とりわけ
太陽や星月に発する「イノチ子」が光のかたちをとって天から降ってくる。それをまっすぐ(* kitt)な「柱(脊髄)」をヨリシロとして受けとめ集中させ、これを大地である mat(女)へ、まん中の柱を通してカミナリして子供を生み継ぐ……。大衆心理は数千年スパンで長生きします。個人は結節点にすぎない……が基本。これがアツモノ・ナチス以後、完全にデングリ返った。「おめこ」と聞いただけで顔を赤らめるようになりましたが、われらの先祖はここを「気高さ」のもとで受け止めていました。  ここを抑えないでの宗教をめぐってのことばは成立しない。これ火をみるより明ら かなことでしょう。
 
紋次郎ほっつきある記
http://www.kamnavi.net/you-i/htk0702.html

ユー・アイ
http://www.you-i.org/




 
えびすとなまはげ 
この二つ、みょうな取り合わせだとお思いだろうか。じつは海の向こうから幸せを運んでやってくる神や人という意味で共通している。本稿ではこの二つを語源とともにその意味を解明したい。
その前に、日本という国が固まるまでの言語分布状況を掴んでおく必要があろう。もちろん、細部はわからないが、この日本列島には満州語に近い言語、ウイルタ・ツングース語系に近い言語、台湾諸語を写したもの……等々が雑多に割拠していたと看てよい。その分布状況は、ニューギニアの、あるいはフィリピンのように、雑多な言語集団 がモザイク状に混在しているのだった。その混在を広域言語にしたものは、当時としては高い文化の持ち主のレプチャ語系の言語で、その次に現れて、ほとんど日本列島を席巻し、縄文を弥生にしたものが、金属製錬文化をもったネパール語系の言語集団だった。ここに関しての説明も多伎にわたるので、詳しくは www.you-i.org でご確認いただきたい。
海洋学者・茂在寅男氏の研究によれば、海浮遊物はうしお(潮)の作用で、必ず浜辺へ打ち上げられることになっているという。氷河期の度に日本列島の人口は激減したことが窺われる。氷河期が終わり、温暖な季節がやってくると、ごく少数の生き残り北方系住民も人口を増やしただろうが、氷河期にベトナム周辺にいた海・湖に馴染んだ住民が、圧倒的多数派となって、この日本列島の沿岸に割拠した。海辺には遠くの島のものが打ち上げられる。しかも、少い人口の当時の人々にとっては、海の彼方にある世界は胸を焦がすように、慕わしいものだった。そして、浮遊物だけではなく、海の彼方からは高い文化を持った人々がおとずれて来た。この海の彼方への憧れは「エビス信仰」となって結実する。
「えびす」の「エ」は世界語の *je (格上の・マスター・指導者)で、レプチャ語では je , ネパール語で jae(万歳)、オセアニア各地では e (格うえの)となって露出している。
「えびす」の「bi」は「みやび」の bi で、意味は「○○風の」。
「す」は衆である。この「衆」は si(人)や tw(人)を意味するネパール語系言語である。
tw は,沖縄で、ウチナンチュ−・ヤマトンチュ−、アイヌで「エンチュ−」というのがそれ。ネパール語には bektitw(個人)などの語彙に残っている。で、「えびす」は「高貴・流社会のひと」となろう。一方、エビスは「えべす」とも音転して大阪では商売の神様となっている。しかし、「夷狄」のように「夷」の文字を「エビス」と讀ませて蔑視をこめる用法がみられる。これは、チベット語 byes(other country) が関与して「よそびと」という意味が強調されたことによるものである(建林賢司氏より教わる)。
えびす信仰は西南日本の沿岸に広い。しかし、越前以北では、ある時間で切ってみると文化圏に釈然としたちがいがあったのだろう。「えびす」の影は失せて「アマミハギ」の語が“海へのあこがれ圏”となる。アマミハギの「アマミ」は「奄美」につながるところから、いちおう「海の神」だとの解釈が当をえる。だが、このアマは基本的には「目には見えない」という a-ma(反・非・不・否 + 目)であった。多くの悪魔とは、人間にとっていいもの goods を天上世界から盗みだして、ストーンと地上に落っこちた(天上界から追放された)英雄でもあった。そういう力に満ちた存在者を渇望したのがアマミハギの中核概念だった。
「アマミハギ」の「ハギ」には二通りの解釈が出る。一つは朝鮮語を援用させての ha(大) ki(土地神)。朝鮮語の第二子音は濁音化するという法則があるので、この解釈も捨てがたい。もう一つが、ネパール語の bhage(幸運) i(神)。但し、重要なことは、同ネパール語の bhag には「分けること」という意味がある。すると「アマミハギ」とは 
1 いいもの持ってくる大神 
2 いいもの持ってくる幸運の神 
の二つの解釈を許すが、この二つはどっちでもいいように、矛盾してはいない。
さて、「ナマハギ」……。ものごとは極端に考えるとわかりが早い。一つの氏族語は、金属製錬の文化の風が吹きつける前までは、2500語彙もあれば生活には不便を感じなかった。現在ではコンピュ−タ−用語だけでも2万語もあって、この少なさは信じられないかもしれないが、ほんとうのことである。その、少ない語彙群にあって、昔日……約2500年前の語彙を「能登」と「男鹿」で全部さらけだして、類似語彙を次から次に突き合わせて捨てていったとき、アマミハギとナマハゲは、最後まで残る対(ペア)の語彙であったに違いないのだ。
ここで、絶対の近似を呼ぶ統語(いいまわし)のひとつを紹介しよう。ネパール語の“n-”は、強調を表わす接頭辞である。佐賀のタバコ屋さんに行って「タバコください」というと「ない」という返事がかえってくる。「ない」は「ハイ」に強調の N がついたものである。この用法は多い。アマミハギは「ナマミハギ」と音価は同じである。ナマミハギとナマハギのちがいは中央に「ミ」があるかどうかのちがいだった。先にも述べたように i には「神」という意味があった。「ナマミハギ」のなかには神の語が二つも入っていることになる。ここにナマミハギはナマハギの語形へ移る正当性があった。
男鹿に伝わる伝統的なナマハゲの語源解は正統な語彙分析を写している。すなわち、「炉ばたに坐ってばかりいると、ハギ(すね)がホダ火の熱で変質し、血行が渋滞して「アマ身」という紫の斑点ができる。アマミは身体を動かさないなまけ者の象徴である。この「アマ身」を剥ぎとるのが「ナマハゲ」である……と。アイヌ語「ama」は「あぶる(炙る)」という意味である。日本語アイヌ語の混成だが、「アマ身」は「炙った身」になる。ところが、男鹿にあるのは「N・amaーー」であって、ただの「ama」ではない。この N-(ネパール語 ; 強調接頭辞)を介して、さきに述べたネパール語 bhage が復活してくる( アマミハギは「幸運の神」だったのだ)。
ここで、少し発想の視角を変えねばならない。最終的には秋田の城主となった安藤氏は、津軽での内訌の末、南下して男鹿半島に拠っていた。男鹿は三浦半島と同じ性格で、全体が城塞だったのだ。囲炉裏で身をアマして(炙って)じっとしていることは許されないことだった。そこで、従来習慣としてあった「アマミハギ」の語彙の語形をかえて、住民にキアイを入れる行事として「鬼面がなりたて」を併合させた……と考えられる。
「鬼面ガナリ」の正月を迎える行事は、「アマミハギ」とは全くちがった神事(?)だったにちがいない。「鬼面・ガナリたて」はヨーロッパにみられる行事で、これも安藤(andho……めくら、大鳥 <咎め立て)氏が金属製錬技術とともに中東方面から数千年かけて持ってきた文化のひとつであったことだと、見受けられる。最後に残る語彙上の問題点は「ナマハゲ」は、上で述べてきた「ナマハギ」とは末尾でちがっている点である。
ネパール語には強調末尾辞に -ai があって、日本語はこれが -e で終わることが多い。……こう言っておけば説明に十分であろうか。                  

紋次郎ほっつきある記
http://www.kamnavi.net/you-i/htk0702.html

ユー・アイ
http://www.you-i.org/





  




古代名詞・ネパール語解
主筆 生田淳一郎
■はじめに   
日本語はどこから来たか、世界のうちどこのことばと類縁が深いのかなどの問題は、朝鮮語、沖縄語、アイヌ語を含めて永いあいだ謎とされてきました。それは日本の言語学者が西洋流の言語解読方法を踏襲してきたからです。とくに「音韻(発音クセ)の対応」にこだわったからでした。その結果は日本語はアジア語、ヒンディー語やネパール語は西洋語とされたために、誰一人として西洋語との語彙比較はやろうともしなかった……という時代が永く続きました。しかし、ようやく昭和28年になって山中襄太先生が現れ、日本語に似ている西洋語の語彙を800も提示されたのでした。 山中襄太先生が信濃で研究発表をされた直後の昭和30年に、安田徳太郎が『万葉集の謎』などで騒ぎをおこし、それに続いて多くの海外生活を体験した旧日本軍人たちが、日本語と類似する多くの語彙をあげつらって 一時はことばを手段としての「日本人の原郷さがし」のブームとなりました。ところが頑迷固陋を絵に描いたような日本の言語学者たちは、学理的な反論ではなく、感情的な罵声で応酬しただけでした。この哀れな学者たちはさいきん提示された大野晋教授の「タミル語起源説」に対しても同様のヤクザまがいの罵声を浴びせることしか、なすすべを知らなかったのでした。  
山中襄太先生の研究は校倉書房刊行の『国語辞典』(\10,000.-)に纏められています。ここにはご自分の研究だけではなく、ほかの多くの研究者の成華も盛り込まれています。だが、どうしてかヒンディー語やネパール語との対比はほとんど出てきていません。
いままでの言語学者には「一つの言語は太古々々の大昔(言わせたら5万年前になりましょうか)から、ひと筋の“中核的語彙群と文法・統語”というものがあって、それらが多少の借用はあったにしろ、大筋では不変のものであった」という思い込みに支配されていました。日本語はちょっと首をつっこんでみると、すぐに判ります。シナ長江や逝江省、福建省などにいた船上生活者の蛋民(たんみん)が被支配階級となり、ネパール方面から来たネパール系金属製錬士が支配階級となってできあがった混成言語(社会)だったのでした。このことは、人相のうえでも言えます。日本人は鼻腔の広い南方系と芥川竜之介みたいな長い顔の二種類がある……このことは、とうの昔から指摘されていたではありませんか。ことばの面でもまさにそのとおりだったのです。
ここに紹介する日本語組成を小生が発見したのは1992年のことでしたが、それを類似語の絶対数で示すと次のようになります。    
類似言語類似語彙数
0140: 日本語と朝鮮語
0200: 日本語とナシレプチャ語
0200: 日本語とメンパ
0350: 日本語とタミル語
1180: 日本語とネパール語
しかも、これらは 5800語彙が掲載されている『基礎ネパール語事典』という簡便な辞書から抽出したのでした。これらは「ペア」としての数字です。類似を示す日本語・アイヌ語は、数えてはいませんが日本語で3000, アイヌ語で1200は下らないものと推測できます。 しかも、類似を示す語彙が多いというだけではなく、このネパール語によって日本古代に用いられた神、天皇、先祖、制度、人、地名の意味が当時の社会背景を写しながら浮上してくるのです。 それをこれから紹介します。
《 略号 》
K ; ……朝鮮語
p ……パーリ語
SK ; ……サンスクリット語
T ; …… タガログ語(フィリピン)
A ; ……アイヌ語
Tm ; ……タミル語
Rc ; ……レプチャ語
U ;…… 沖縄語(ウチナー)
O ; ……ウイルタ語(オロッコ)
G ; ……ギリヤ−ク語
なにも断わりのないローマ字綴りはネパール語です。
 ■○○語ということの考え方
ネパール語とヒンディー語は、日本語と沖縄語よりも近く、ほとんど同じ言語です。ただ「○○する」をヒンディー語では -na というのに対し、ネパール語は -nuを用 います。小生が「ネパール語」を強調するのは実にかかってこの点です。パーリ語もヒンディー語・ネパール語に似た語彙が多いのですが、ちがった語彙もあります。
典型的なことをひとつ紹介しますと、ナガスネヒコの「ナガ」とは蛇ではなく、山を意味するパーリ語でした。これらの語彙に導かれて推論すると、彼ら奈良古代王朝は稲作が始ったばかりの時代で、田んぼの水引きに都合がよい都祁・山添地帯を根拠にして初瀬(・ badsaha……王)に王居を構えていたことが知れます。パーリ語は動詞が英語、ドイツ語のように活用したり、末尾音を“a ”に開音し たり、シッダルタさんの教えを唱えるのに都合が良いように変形させられました。後世の仏教経典(お経)はサンスクリット語で書かれましたが、初期の経典はパーリ語で書かれています。サンスクリット語というのは、アフガニスタンから攻め入ってインドの支配階級となったアーリア人のことばを中心に「善い言語」として当時のバラモン・上層階級が造った文語体で、意味は セ・シ・ボンの梵語です。サンスクリット語を日常語として喋った民衆はいませんでした。そのサンスクリット語の母体となったのがパーリ語です。言語分布での太古の様子を言いますと、とにかく……もし、喋られている言語ごとに、その土地に色がつけられていたと仮定すれば、そしてそれらを上空20万mから俯瞰できたとすれば、ヨーロッパは大略ピンク色、インドは茶色系、東南アジアはみどり、シナは黄色、スマトラ〜ニューギニアは白黒ピンク赤などのまだら模様……というように地域ごとに特徴があることが認められるものです。
日本列島に上陸したインド系氏族にはネパール語族だけではなく、そのほかに雑多な種があって、その一つにパーリ語族がいたということです。そして、パーリ語といっても、それは現代人のわれわれが峻別作業をやるような区別ではありません。ひとつの“ 国語 ”には数百の氏族語が混入していて現代を迎えた……そういう関係で成立した各国語で、その一つがパーリ語ですので、ここでは、そのような目(巾)で見なければなりません。そして山間僻地こそ古代の実相を遺している。ネパール語とはそういう言語なので す。大野晋教授の“タミル語”もそのラチ内にあるかのようですが、小生は、日本語に 与えたタミル語の影響は、1世紀に開発された「インド〜シナの航路」での難破船が、 壱岐に漂着したことによるものだと観ています。 
■朝鮮語について
あまり知られていないことですが、朝鮮語はシナ語の影響が甚大です。日本語には「やまとことば」がありますね。漢字ことばではない「やまとことば」が日本古来の言葉です。ところが朝鮮語には「やまとことば」に比定される「こまことば」が非常に少ないのです。擬音擬態語(オノマトペア)なら、「やまとことば」とあまりちがわない数が残っていますが“よその言語との対比に耐えるだけの語彙”は1400ぐらいしか残っていないのです。言語手段で以て古代日本を探究しようとするとき、この「こまことば」の数が少ししか遺されていないことが、極めつきの障碍となります。しかし、朝鮮語と日本語は文法・統語が完全に同じです。ちがっているのは発音のクセ(音韻)とそこで用いられている語彙です。朝鮮半島を新羅が統一した時点では、日本語と朝鮮語は多くの類似語彙を見せていたと思うわれるのです。ところが、新羅軍内部で収まりきれない抗争が勃発し、935年に新羅は北の高句麗に政権を禅譲します。シナべったりで官僚志向が強い半島北方の偏執が、大きく日本語との段差を形成し始めるのはこの時点からではないでしょうか。そして日本人には考えられないことでしょうが、文字が発音をシッカリと固定させているはずなのに、現段階でも発音がどんどん変化して行っている姿が顕著にみられます。やはりこれは、異質の発音を内部に取りこんだのちの、一種のアレルギー反応ではないでしょうか。
朝鮮半島は前後800余回もの外患(外敵の荒らし)に遭っていて、古い文献はことごとく焼失しました。それでもなんとか地名や方言などを辿って、古代朝鮮を再現させてみようとする努力が続けられているのが現状です。小生は朝鮮語との徹底的な対決は避けています。いずれ命がけでやらねばならない領域だからです。それゆえ、この一覧表提示にあたっても、朝鮮語への言及は寡少となっています。
 ■シナ語の進展
正確な年代を提示することはできませんが、たとえば4000年前あたりでのシナ大陸での言語分布を考えてみるとき、小生は今のシナ語は山西省だけの狭い地域で喋られていただろうと思うのです。黄河は黄海から西へまっすぐ入り、次に北へ向かいます。その北に向かう黄河の東の地帯が山西省です。
言語はすべての偏執(文化)の中核です。言語さえ同じなら、永い時間経過のあとでは遺伝形質も習慣も神事も同じになります。国境のカベも溶かします。ですから人相骨格はりっぱな遺跡です。
日本から山西省に行ったひとは「なんと山西省の人々は同じ顔をしていることか!」とびっくりし、山西省から日本に帰ったひとは「なんと日本人はいろんな顔をもっているのか!」とびっくりするのです。
約4000年前には黄海北部一帯に金属製錬技術がはいりました。そこで混成された言語がシナ大陸に蔓延してベトナム語までをもシナ語風に変えさせたのですが、それでもシナ大陸には固有の言語をもち続けている氏族が200あると言われています。この少数氏族は永かった戦乱のなかでも、あまり中央から直接的な介入を受けなかった人々だと見受けられます。……ということは、この広いシナ大陸は、国家統一の気運が出る前は、いまのニューギニアみたいに、雑多な氏族がクセのある固有の言語を喋っていたということでしょう。 このモザイク雑居のなかに、多くのインド系の言語があったわけです。
■照葉樹林帯と和冦
海を恐れるという心情には、根強いものがあります。おそらくその先祖はなんらかのきっかけで漂着したのでしょうが、大多数の沖縄の住民は、魚は海洋民族といわれている糸満系住民から買って食べています。いま、世の中には照葉樹林帯説というのがウケています。常識のある人々には常識になっています。小生が日本語とネパール語がただならぬ関係にあると唱えると、多くの常識人は「ああやっぱり、同じ照葉樹林帯だからなぁ」という反応を示します。ネパールに納豆やミソ、漬け物があるので同じ照葉樹林帯の日本にも、それらの食品があるのは“とうぜんだ”との理解をするのです。しかし、この理解のしかたには論理に飛躍があります。
山また山のなかにいた金属製錬士たちは、海洋民族の手に頼らないかぎり、玄界灘の涛波は越えられないのです。その金属製錬士を、社会・軍律制度をそのまま日本列島に移動させた海洋民族こそ倭蛋民だったのです。
朝鮮には最大四万人規模の倭の海賊が押し寄せて悪逆のかぎりをはたらいています。しかし、日本は和冦(海賊)から襲われた事実は一度もありません。倭の海賊こそこの国を創った立て役者の一派だったのです。
 ■小法則
*朝鮮語の癖音は第二子音を濁って発音します。古代ではm の濁音は b 、n の濁 音は g 、r の濁音は d , z になる。その後濁音をきらうようになったら、それぞれ h , k , t , s へとかわります。
*倭人語がよその語彙を借用するとき、末尾の r , l, m , t などは切り捨て るクセがあります。また l は t にもなります。もちろんそのまま「ル」「ツ」「ム」になるのもあります。
* シナ語、朝鮮語にみられる拗音は、子音に y を添えて母音を長く発音しています。このとき、末尾母音は u になり易い。chi(紐) / chyuu(紐) 
* 語頭の濁音を発音できない倭人、朝鮮の大衆は語頭に「イ」を立てて言い易くしました。その後、上手に発音できるようになったとき、こんどは「イ」を捨てますが、このとき末尾を “ e ”(ネパール語強調末尾辞)終わりにします。  例; dhatu(金属)⇒ i・dhatu(伊達) ⇒ date (だて) 
* ネパール語には N- と S- の二つの強調接頭辞と、-ra, -ai の二つの強調末尾 辞があり、強調の助詞語尾辞   として、 -ni , -taが目立ちます。確認の強調 -ga (日本人やったらお茶漬け やろ ga)もみられます。  例 ; ウシ(大人) ⇒ ヌシ( -N の場合)。メラ(有名な)⇒ スメラ(皇……-Sの場合)。     
 maphi(ネパール語; 許すこと)-ra。
-ai は 日本語では -ai と -e なります。例 ; ……行け、すすめなどすべての日本語命令形。おいばおいるがに(ガと-ni の例)、さぁどいたどいた(-taの例)  * 金属製錬士の狂執(竜・雷・柱・鎚・黒・鳥・刀・小人・など)は同じ発音が飛び交って使用され易い。例 ; アイヌ語で 雷=カンナカムイ=竜
* これから始る一覧表では「神とひと」とが同じ語形で、しかもいろんな「神・ひと」がでて来ます。日本で多く使われるのは ta , mi , o , i , oo , so(S+o ), no( N +o ), などです。これもインドの姿を写したものです。シバ神は2000もの別名を持っています。これは2000もの氏族の神が「シバ」の名で統一されたということでしょう。
インド中央部・デカン高原の中央部にアディバシーという狩猟氏族がいますが、彼らが代々「シバ神だ」といって大事に祀っている偶像は、日本の遮光器土偶そっくりです。神と人には表現に法則じみたものがあります。神を表現するときには、その語を語頭に立てて「 i ・○○ 」 のように表わします。人を表現する場合には語尾につけて「○○・i 」として います。 しかし、時代がくだってくると、混同が起こりどっちかが判らないこともあります。
■古代の固有名詞 (2)  
アイヌ/ ayin(クルド語 ; 儀礼) nu(する)現在の意味解釈ではアイヌとは人間だとなっている。
クルド語 ; ayin の in は英語の動名詞の -ing と同じで、動詞・名詞が未分化のとき、古代では普遍的だった。nu もそれと同じだとみて宜しい。日本語の「くに」や「おに」の -ni もどうやらそれらしい。ayin はネパール語では ayn(法律)となっている。ayna は鏡(……古代国家の統治の象徴)。  人間とは「法律をする」とか「鏡をする」とかにはならないはずである。残っている言語群のなかで「人間とは儀礼をするもの」が、最も適当と思えるので、これを採用した。
アイヌ社会には ainu ne no an ainu (アイヌ・ネノアン・アイヌ)という言葉が残っていて、これがすべてのアイヌ民族の厳しい行動規範となっている。Be gentle man みたいに「Be Ainu」という意味。ネノアンは…… ne(である・みたいだ)no (に)an(ある)。「儀礼をするもの」では少しおかしい。だが、ainu-koro(敬う)、u-ainu(尊敬)、u-ainu-anno(恭しく)が残っていたので、Ainu とは「おじぎをして挨拶する者」 が原意だったことが知れる。由々しいイことに、朝鮮語の saram(人間)はネパール語のsalam(挨拶)の借用 だった。騙し討ちにあって殺されることが分かっていながら、アイヌの長老たちは次から次にシャもの「和平の酒宴」に出かけて行った。そして殺された。シャモが言いだした和平の呼び掛けには、和平らしく軽装備で出かけて行ったのだった。あっしはアイヌに「礼節を貫く者」という訳語を捧げたい。
アジスキタカヒコネ / adhin(支配)sta(最高)takat(権力)hiko(土地神) ne(指導者)
サンカ、ウエツフミ、コジきでは出雲と宗像のあいだに生まれた神とされている。adhin は沖縄の按司で、日本では azi と表現され、これに英語の-est がついた のが azisti 。末尾の「チ」も(ツツブ⇒チチブのように)ヅーヅー弁だろうと、「アジスキ」へと修正された。
takat(権力)とは、原形 ta-kat-au で「(足を)切ってもらう神」……柱である。そのままの音を今に伝えているのが伊那市東の高遠(藩)である。伊那の北には「ta-kiri」の地名も残っている。柱がそのまま神だとする考えは日本に顕著だが、ネパールの主都・カトマンズとは「一本の木で支えられている寺」という意味。古代のネパールでも柱そのものが神だったことだろう。ヒコの「コ」はエデン語 cho(称愛辞)である。子供の「コ」は童神komar の前 の1音節を採ったもの。ヒコの「ヒ」は日、霊、火、刀の pi(ダンピラ)、南方語のおばけpi が含まれ て懸詞になっている。そかし、基本的には 朝鮮語の hik(土・土壌)が元で、これにo(神、男)を添えたものだろう。
エゾ/ i(神)adho(めくら) 
アズミ / adho(めくら)mi(神) 
安藤(安東)/ andho(めくら)
フロイスはえぞのことを「いえぞ」と書き残している。遮光器土偶こそ「フクロウ・めくら」を象徴して造った童神のエゾ神だと思える。 英語には as blind as owl ということばがある。現在の英国人 にとってフクロウはバカで盲だとの評価になっているが、同じゲルマンのドイツでは賢者の象徴である。 現在のネパールでもフクロウをバカにしている。  
日本にはフクロウは百近い別名がある。日本じゅうの氏族とアイヌでは神の鳥として崇めていた。そこで盲の部分が強調されたのだろう。ネパール語の「めくら」には adho と andho の二つの語形がある。それが二つとも日本に上陸しているわけだ。安曇はアズミとのみ発音するとは限らない。琵琶湖西岸の安曇川は「あど川」である。「安堵」と書いた地名は全国にみられる。adho を極東古代語で分析すると a(大)dh(鳥)o(神)……大鳥神となるので、ここでわれわれは超古代の言語分布というものを直感できる。 
アマ・アメ/ a(反・非・不) ma , me(日本語 ; 目)
ナカ / N(強調接頭辞)+ akha(目)佐賀 相模  「よくは目では見えない(ところ)」が、アマ・アメ。空と海とが同じ音であるこ とに注目されたい。古代人は遥か彼方の海のむこうと、空とは何らかの形で繋がっていると考えていた。ネパール語には a と o の中間音があって、この発音はa をひっくり返した文字 が用いられている。しかし、ここでは活字不足もあり、倭人がそれを訊くときにはa となるので、区別はしない。少しだけ、そのひっくり返った文字を使ってはいるが、ネパール語でも空と海は“ sagar”である。アイヌ語で「太陽・月」は 同じ語形で chup というが、これは天空をchu(水旅 する) p (もの)の謂いである。  相模は古く「さがむ」といわれた。sagar-mut(K;陸地 )の短略形と見受けられ る。
愛宕 / atal(炉)go(神) 
愛宕の神は火を鎮める神である。 mi を go に代用させた語形が「熱海」。 集落の鬼門に祭るので、祭られた当時の市街地の中心部がこれでわかる。
全国に分布している。筆者は南は天草から北は北海道江差までの分布を確認できた。 
有馬 / ar(片一方の)ma(日本語 ; 目) 
有明 / ar-i-akhe(目)
カツマ   マガツ  イクマ  ここに紹介しているカトマンズ・ネパール語の“目”にはakha と akhe がある。 ほかにも ankhe , ankha などもある。ar はアイヌ語でもそのまま生きている。ariと開音(日本語のクセで母音をつけること)化されるときに、なぜ“i”が選ばれたかは不明だが、アラとなったら「燃やす」と、アレとしたら「成る」などと同音衝突がおこるからだろう。
目が一つ……。金属製錬士の象徴である。日本国はできたとき「天目一箇神」という統一形がうまれた。
ghat-(減る)
……目は1ヶとれた。
ik(1)……インド・オセアニアでは,すべてek(1)だが、シナのイー(1) に便乗したのだろう。
イカガシコオ / ek(1)akha(眼)si(人・士)ko(の)o(神)
案山子  モノノベの先祖神の一人。金属製錬士の狂執のひとつが「ひとつ目」。うち続いた魔女狩りのため、西洋人のほとんどは透視能力を喪失した。だが、ここをシッカリと文明のなかに抱き込んでいるのがインドである。眉間中央の上部10cmのところに隠蔽された情報が“写る”のである。これが一つ目文化の基本。「ほんとかなぁ」とか「そんなことあるもんか」という人は費用もかからず、すぐ簡単にできるので次の実験をやってみればいい。
まず、5cm四角ぐらいの紙数十枚にいろいろな漢字を書き。これをパチンコ玉大に丸めて皿に入れる。かき混ぜたあと5〜20名の青年に「さぁ当てろ」と開始する。読み解きに成功した青年は異口同音に「眉間中央のうえ10 cmにスクリーンができて、その文字が映し出された」と言うはず。この第三の目が「片目」とか「めっかち」になった。伊達政宗も隻眼(片目)でなかったら、あれだけの暴れようはできなかった。男根崇拝も一つ目なればこそ。案山子は「ヤマを案ずる」。ヤマとは危険労働の鉱山ではなかろうか。そこに祭られていたマジナイの人形を田んぼに立てたのが今の案山子だった筈。案山子には大きな一つ目を描こう。ゼッタイ効き目がちがうだろう。  
イザナギ・イザナミ / i(神)jyan(いのち) gi(人・男?) mi(女陰・女?)
こう想定すると理解し易い。中央の na は「人」で、まず「jyanna(いのちの大びと)」ができた。この語頭に神を示す i を置き、続いて語尾に男女を示す giと mi をつけた……と。沖縄では男女をとわず gi をひとの意味で用いる。アイヌ語で屹立した男根をniit というので、gi は或いは男に限られていたのかもしれない。mi はアイヌ語、シュメル語でも女陰である。神名に「○○の命」と書いて「ミコト」と讀ませているのはここが始りではないだろうか。
イナリ / Narisingar(大きなつのを持っている神) 成田 / nari(タミル 語 ; きつね) 
イナリと成田の二つに神を示す i , ta が語幹の前にきているか、うしろにあるかにご注目あれ。「神」があとにつくのは新しい。日本は金属製錬士の上陸によって縄文時代を終わった。だから古代日本でも「つの」への偏執は激しい。つのへの激しい狂執はアーリア人侵入前のインド・モヘンジョ‐ダロに顕著である。そのイ・ナリ(つの神)が日本で 定着したところへ、タミル語・シンハリーズ語系文化が nari(きつね)を運んできて、「つの」のイナリとの間に混淆がおこり、キツネはイナリ神の使いだとの線が定着した。だから、驚くべき事実だが、イ・ナリにしろナリ・タにしろ、ここには明瞭な語源分析力が働いていると言わねばならない。しかし、ここには、別の伏線がある。nari には水道管、噴水という意味がある。埼玉県のシバ川は農耕用の水が常時不足がちだが、文字を刻んだ鉄剣が出土した「稲荷山古墳」にほど近い行田市役所周辺には広い濠が水をたたえている。この行田は古くはナリタといった。これは利根川からの土管や暗渠 による引き水ではなかっただろうか。
イラツコ/ latthi(杖) イラツメ / lattu(うっとりさせる) 
イラツコは古墳時代などの読み物などに出てくる「杖刀人」のこと。イラツメに似ているが語源がちがっていたわけだ。
ウネメ /  u(大) ne(指導者) me(女)
それが歴史事実としてなんべん繰り返えされたかは知らないが、卓越した大陸文化を取り込んだ優秀な氏族が、次から次に日本列島の王様になった……という図式を想定することは許されるだろう。とくに、古墳の埋蔵品のなかから忽然と耳輪、くび飾りが消えた断絶は、そのことを雄弁に物語っている。その優秀な王族は極めて少数だったため、日本にはウネメの制度があった。地方の大豪族トップの姉妹そのものを「そばめ」みたいにして王の傍におき、王族の人数を増やそうと計ったのだった。とうぜん、ウネメは普通の側女とは格がちがう。あるとき、外国の使節が畝傍(ウネビ)山というべきところを「ウネメ」と言いま ちがえて、あわや斬首にされそうになったという事件もおきている。  なお、ウネビは「大指導者・“ふうの”」という意味。
エカシ / *e(貴人)kas(神) i(ひと) 
エウカシ / u(日本古語 ; 大)kasi (神びと) 
エカシはアイヌ語へ入っている。オトウカシという語も残っているが、このオトは弟のように「次の」という意味か、ウイルタに残る「一番目の」という意味かは不明である。函館から駒ヶ岳を右にみて、森町を過ぎてすくにあるオトシベ川はウイルタ語の「オト」だろう。
エビス / エ(格上の)ビシュヌ
 e (格上の)の古形はレプチャ語 ; je(親方、マスター)に残っている。このje が e と変わって日本にきたか または南方の e(格上の)が日本にきたのかは分らない。しかし、eは間違いな くエデン語であるといえる。ビシュヌのヌが神。それゆえ、上の e とビシュヌのビシュがむすびついた語形が エビス。エミシとは異なる。「エの神」がエビスである。人名地名 ; 江上、江波、江川、江ノ島など。   建林賢司氏からの情報によれば、レプチャ語には bisyu に「外国」という意味がありそうだとのことである。そうするとビシュヌとは「よその神」という意味かもしれない。
エミシ / e(貴)mut(武・刀)si(人) 
同じ蝦夷と書いて、エミシと発音するかエミシと言うかは大ちがいだ。漢字などというものは、つい最近日本に入ってきたものである。古代民俗の粛真をミシハセというが、その「ミシ」が注目される。やはりヤマト朝廷と刀を介してヨシミを通じていた「杖刀人(エミシ)」ではなかったのだろうか。
オキクルミ/ okw(IE ; 目)⇒ oku(こども)kur(鳥) mi(尊身・神) 
アイヌの始祖神。背恰好もこどもで、こどもの顔をしている。全身から光を発するあまりに、いつも着物のすそや、刀の先が燃えている。発音が「オキ」なので、朝鮮語の oku からの転訛はムリ。IE; okw (目)を受け た朝鮮語がその後 oku という語形に変化したものと思う。「こども」といっても童神が始初概念で、そこから現代までの「こども」へとなった。童神 が世界中に広まったとき、こども ⇒ 童神 が普遍的になって、先進文化地帯の「こども」という語彙が文化の後進地帯へ「童神」の概念で流入した。そして再び、童神 ⇒ 子供への概念移行が起こったことが見られる。  パーリ語の susu の現代の意味はこどもだが、これは童神というよりもむしろ「生命素」ぐらいの意味で受け取られた。柳をアイヌは susu-ni ( / 鈴木)と呼んだ。アイヌ語学ではサルンクル(沙流のくにびと)のようにkur は人間とか家族に用 いられている。しかし、使用例にシャーマンと訳しやほうが適当なものもある。ネパール語の guru は「導師」である。これらは鳥一般が神だったころの偏執(文化)を写したものを、変化させながら現代にひき継いだものである。
鹿 島 / *kas(神)ma(目)
鹿島は縄文海進・縄文海退期での舟の安全を願う神として立てられた。だから掘削地点(流路の中央)に位置する。アイヌ語に atui sik kasima kamui (舟の安全を見護る神……atui は海、sik は目)が残っていた。東南アジア〜インドでは casma (めがね)が広く使われている。*Basが神。has ⇒ kas ,  神田 / Candi(女神の名、末尾の -i が女性を示す)  だから神田は男の神様。「神田明神スチャラカチャン」。charは「おしゃべり」の意味か。char =N,A;くち。喋りぐち。
ククリヒメ / khukuri(刀) 
イザナギにみそぎのやり方を教えた神。いまでも死人を安置するあいだ胸のうえに刀や刃物を置く。このククリは *ku(窯焼き)kuri(銅)として捕らえることができる。日本でも朝鮮でも銅をクリと言った。ククリは菊理と書く。 kuku がなぜ kiku となったのか、筆者にはわからない。ただ、熊本県の菊池市菊池郡あたりで何らかの事件があったのではなかろうか……が匂う。ククリに似ている「クク○○」の神名もみられるが、これはククリに似せて、朝鮮語に残っている *kutkut-(真直ぐ立つ)を表現したものであろう。「まっすぐ立つ」ということは、古代極東ではきわめて重要な精神性だった。大分県のキッチョムさんの kit もまっすぐ立つがその中心概念だった。漢字の屹立もそれである。
天から降りてくるいのちの光をまっすぐな背骨(柱)で受け止める……という考え方は「気高さ志向」の原点である。少年教育では、百万べんの喋り教えよりも、背骨をまっすぐさせたほうが遥かに近道のようだ。  ヒメとあるからといって、これを女性だと決めつけてはならない。「ヒメ」については別項目を参照。 
草加の江 / ku(窯焼き) sakha(部門)  
おさかべ(刑部)/ o(つの)・・ べ(部……bhed)
部門と訳されている sakha と 部と訳されている bhedがどのように違っていて、 どう重なるかの把握はまだできていない。漢字で坂・阪と当て字されている「サカ」には、境界・町並みなどを示すネパール語での近接発音もある。kusa(草)はサンスクリット語とまったく同一である。この一語を介して日本語の草と英語の grass(草)が同根であると言えるのである。  なお、「江」はギリヤーク語の川であり、土着語である。むかし、草加の江一帯は海流の干満はげしい湖で、浪速(ナ・ニワ)だった。naは流水とか川の意味で、 niwa(速い)はアイヌ語にも入っている。朝鮮語でもnaka が「水辺」であることは、もっと注目されねばならない。 くなどの神 / kuna(かど・隅 英語 ; corner)  語源が分らない学者は「(邪悪よ)来るなの神」と解釈してきた。「来るな」は「なきそ」になる筈。  くなどの神は仏教導入のあとは童顔をした地蔵になる。街角や集落の隅に立てられたサイの神ともダブっただろ う。その元には子供がよく育つようにとか、水子供養、農業生産のイキの神などがあった。
コンピラ / go(神) n(助音) bira(川)
この神社には琴平という別名もついている。ヒラにはダイヤモンドという意味が得られるも、「コト」の意味が出ない。この神社には「河に住むワニが祭神だ」との伝えがある。しかし、いまのところ、bira(河)という語彙はインド各地の“国語”にはみとめられない。どういうことかというと……現代は国語ばかりになったので、氏族語を探すことができなくなった。しかし、“国語”に呑み込まれ姿を消した氏族語には、多くの bira(河)があったにちがいないのだ。シバ神は2000もの別名を持つといわれている。これは2000もの群小ポリス国家がシバ神の名のもとに統一された跡なのである。満州語 bira(川)。オーストラリア・アボリジニ−語bira(川)。枚方市、大平 川、埼玉の平方は五つの市を貫く川べりの地帯である。
サイの神  サエの神  道祖土  五十  佐伯  土佐  ドサ廻り  佐渡  十三湖  インドの貨幣の単位 ; 50 paysa で1 mohar 。2 mohar で1 rupiya。-har と は表情や複数を表わすので、 これを取り払うと 50 + 50 = 1sae(100)。saeは sait(吉兆)に似ている。サイとサエが混同されるのは これに起因する。kiは エデン語で「土地・大地」⇒ 佐伯。  dos は「咎め」 adho は盲。 dosadhは国境の場所。くにざかいにサイの神が立 てられる。道祖土と書いてサイドと読ませる。サイ(の神の)ド(処)。国境近くに佐渡、土佐、十三湖。金属製錬士たちは、ヒマなときには劇団を組んで、出はずれの集落を廻った。これ がドサまわり。 そのときムラゲまでもへたな芝(シバ神物語り?)居をやったのか、ムラ役者はダイコン役者と呼ばれるように なった。cf. SK , N , P ; mula は大根。
コムラがえ り / mula / ダイコン足。 
ササキ / sasak(支配) i(者)
ササナミ / sasak nam(名前)i(者) 
琵琶湖にかかるまくら言葉は「ささなみの」。けっして「さざなみ」ではないことに注意。  いつのころか、琵琶湖周辺に支配者がいたことを謂っている。「みささぎ」は支配者の mi(神)……形容詞後置形。シカリ / sikhar(狩人) 鹿  マタギの頭領をシカリ(sikhar-i )という。なぜ頭領だけかというと、この sikhar は「山頂」という別の意味も持ち合わせているからである。かなり小さな地図でも、北海道には二つの「シカリベツ」がある。なのに、このシカリはアイヌ語では解けない。ということは、14世紀に結成されたアイヌ民族の主要一派が秋田〜岩手県北山岳地帯にいたということ、そこで鉄の生産技術を持っていたということを物語っている。
シンラ・シラギ(新羅)/ sing(つの) ra(強調末尾辞) gi(ひと)・レプチャ 語 ; sira(光)
シラギは日本人の読みだが、多くの語彙との懸詞らしい。音だけを追ってゆけば sira は hira のダイヤモンド  まで行き着く。だが基本的には黒い鳥(カラス)に象徴される旧カニシのあとに日本に入ってきた白鳥(こうの とり)系のカニシ文化である。フィリピン〜台湾〜三陸〜北海道の海岸ちかくに並ぶ「白」はエデン語の岸である。アイヌ語の sirar は岸辺の 波かぶりの礒岩。この分析 si……(時がくれば)自分で rar(潜る)など、どこまでホントウだろうか?  台湾アミ語 ; tsilar(太陽)  
スサノオ / s(強調接頭辞)kano(めっかち)0(神)
安里屋ユンタの √マタハリヌ テダラ カヌシャマの「カヌ」は朝鮮にはいって hanul(天)となっている。カヌ・ハヌの音転中間には xa があった。挟擦音X はウイルタ語に著しい。樺太アイヌ語でも chep を chex という。 もともと金属製錬士文化の kano (めっかち)がが沖縄で太陽神となり、xanoが sano にさらに強調辞の S が接頭されたのが スサノオだと解釈するのがむりのない解釈だと思う。
 ネパール語の強調接頭辞の S- は、u を伴わない。Suではない。しかし、倭人の ことば癖は徹底して開音化する。スッカラカン、すごく(極く)、ベタ(惚れ)⇒すべて など、子音の前の強調接頭辞 s- は開音されて su となる。
古代語は多くの懸詞をもっているものだが、この「スサ」も多くの分析・解釈をゆるす。 susa から強調接頭辞と思われる s-を取り払うと usa(宇佐・うさぎ)がでる。もし、宇佐と susa が関係ありとすれば、usa に別のネパール語強調接頭辞のN- をつけると幣(ぬさ)となる。su は朝鮮語で鉄である。「鉄のめっかち」もスサノオと解釈できる。「めっかち」にこだわらなくても、朝鮮語一般に saは「里」である。里神は sano になる。
諏訪 /*swa(神)
 swa は音転して日本語では「 si 」となる。不思議な音転だが、とにかくそういうことになっていることは確かである。和泉と書いてイズミと読ませるのは、swaの名 残りだとみることができる。それゆえ、S は強調なので wa だけで「神」だったらしい。イズミはアイヌ語に残る *sum (水)にひっかかって、イミズからの音転。清水とはswa(神)の水で、石清水八幡宮ではこれで酒を造った。従来酒造には女性が噛んでいた。ほんとうに乙女らが「噛む」こともあったが、ネパール語 ;*gum は「密閉する・醸造する」という意味がある。
これを STRI(婦人。とじ……Sはただの強調)と呼んでいたがオトコによる集団( jamat ヤマ)で酒造に励んだ。亜 種ブルーベリーのオトコヤマの実(クロマメ)でコクをつけて、随時動員可能なオトコ(予想できる兵)の系統網を造った。
タケル / ta-切る(足を切られる神)< ta -kii(だんだん小さくなってゆく神) dakhal(攻撃・侵略)  高・貴・鷹 
ネパール語 ; takat(権力)の語源は「切る・神」である。これは誰でもいっぺんには理解し難い内容だろう。これは柱というものが古代日本語では「神そのもの」だったことを理解することから解け始める。ネパールの主都のカトマンズとは「一本の木で支えられているmandir(ヒンヅ− 教の寺)」という意味である。ここでは「木」と訳したが、柱が本筋である。da(柱)をkar(作る)職人は神に近い mi と呼ばれていた。この語形はそのまま現代までひき継がれた。dakarmi といえば大工のこと。少し音は動いているが、日本語の匠(タクミ)はこれに起因している。日本でも宮大工は最高に尊敬されていた。カトマンズの kat-au は「切ってもらうこと」という特殊な意味になっている。普通の樹木が所定の手続きと匠によって木から神(はしら)へ変身するのだ。日本では伊那市東の高遠(タカトウ……藩)に ta-kat-au の音がそのまま残っていた。伊那の近くには「タギリ」がつく地名が2ヶ所見られる。 日本語の「足」は柱と同根で、幽霊に足がなかったり、「いっちょめどん」が1本足だったりは、これによる。遮光器土偶が全部で何体出土したかは知らないが、両足そろっていたのは僅か3体だけで、あとはすべて足が切られていた。また、シナでは王に仕える男の官僚に宦官がいた。睾丸を取ったと言い伝えられているが、初期の宦官は中足を切って神にちかくなった男たちだっただろう。kii とは「しだいに小さくなってゆくこと」である。ta-kiiという語形は歴史に は現れていないようだが、さに非ず。このような発音が日本語化されるときには「 タキ」となる。滝という日本語は新しい(出現は6〜8世紀か)。命の素子を詰めて落下する水の瀑流は、柱の一種と看做されて修験道場になっている。鉄器ではなく、石器の斧で巨木を柱として取出す……このことは言えばカンタンだが、ここには物凄い習慣が濃密に凝縮されている。どのような経緯で柱を切り続けるところとなったかは知らないが(ホント−は知っている。カイラース山頂に天から降りてきている目には見えない神の通路としての柱……)巨木を切ると猛毒のフィトンチッドが出て、選ばれた伐採グループの大半は死ぬのだ。 死んだ村びとは「ひと柱」となって、樹木の木とともに、その後数十年にわたって集落の護り神となる。そして、ここでの生き残り組みがta-kat で、その集落の“権力”となった……と考えられる(はじめの部分の takat の語源)。日本語の「切る」の語源はネパール語の kii である。kiiが 日本で「キ」音と受 け取られたあと動詞を作る「る」がついたまでである。いや、ここでは思考を切り換えねばならばい、kii などという語形は世界でも珍しい。ネパール語の kii はもともと kiki で、ki が繰り返された語形だろう。アイヌ語; kiki は「引っ掻く」、kike は「削りかけ(木の花?)」である。アイヌ語のほうが古形をとどめているのである。ここに ta-k が taka とともに意識の中枢を占めて巨大な権力志向の偏執(文化)の重層を形成する。日本語になんと「タカ」の多いことよ。強調末尾辞の -e がついてた take が出てきて権力にかかわる諸概念を固定させたことだろう。この takeを 動詞にした語形が takeru(タケル)だった。意味は「(まつろわぬ民を)(こっちの)権力下に置く」だったことだろう。こうして ta-kiru から形成された「タケル」には、たぎり立つの「タギリ(男根)」 やネパール語の dakhal(侵入・攻撃)が内包されている。
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「ワカタキル」という銘文が刻まれていた。 エジプトのファラオの行列で、先頭きって進むのはフォルス(鷹)のマサ(旗)だった。
高市/ dakayti(盗賊団)
taka は「高貴な」、iti は「女性」と置いても思議な現象である。*dak はオセアニア・インドに広くまたがって「盗む」という語彙である。小生の勉強不足ということにしとこ。dakaytiとはインドで伝統ある盗賊団。大衆の支持がなくては数千年も続くはずもない。日本の侠客の精神的伝統と一致するものがきっとあるはず。 
大黒 /*da(柱) ik(1) *IE; okw(目)
現代ネパール語の柱は ダンジリ祭りの dandi という。*da(柱)はその語頭音。インド〜オセアニアに広く用いられている ek(1)は、古代日本では ik(1)になっている。英語 ; binocular(双眼鏡)に含まれている IE のokw(目)は、アイヌの始祖神のオキクルミの oku とは異なる。古代で“目”といえば、金属製錬士の「片目」のことである。ik-okw の語形は、下北半島易国間川に残っていた(ma は川)。柱とは“そのまま神”であった。一つ目の柱……金属製錬士の神ということである。国譲りの条件だった出雲の巨大神社とは、三本の柱を青銅でかしめて高く聳えさせた柱(神)のことであった。インド文化は黒、カラス、黒い石の神(Saringar)など黒に彩られている。 
タタラ/ dadh(焦す) ara(焼く)
金属製錬とは土を焦し焼くことである。タタラは送風器の「ふいご」と混同されているが、正式にはハムキ(鞴)である。タタラ炉とは粘土を盛り上げて造った「構(ro)」のことである。ku とはもともと天から与えられていなかった物質を新たに戴く行為なので、sex ということだった。この「構(ro)」を上から見ると、溶鉱の自然な比重でに固まりを得ようとしたためか、女陰そっくりである。台湾のヤミ族(だったか)にマタンタタラという舟がある。そりあがった舳に目が描かれている。この場合マタが目、タタラは舟(<女陰)の意である。日本各地に大船山、岩舟などの地名がある。タタラ炉のことだ。アマの鳥舟は「アマtoli(組合い……族)のタタラ炉と 解したほうがいい。フクロのロとは、この「構(ro)」だった。“吹く「構(ro)」”である。鳥のフクロウはここから命名されている。dadh-ara のara はほかでも述べているが、焼酎のエデン語・アラッキのアラである。バスクには“タルタロ”という片目の巨人伝説が残っていた。
脱解 / dhatu(金属) kai(K; 雷神)
新羅の第四代王樣。「龍のくにから漂着した」だの「おかぁさん孝行」だとかの言い伝えが残っている。朝鮮語 kai は雷神だとの解釈は伝統的だが、kai はku(窯焼き)-ai に分解可能 である。金属製錬ということ。
伊達 /dhatu(金属)
語頭に濁音が立つ「ダツ」は言えないので、 i を助音として語頭に持ってきたのが「イダツ」だった。これを漢字に当て嵌めた伊達(イダツ)が現在まで、そのまま残った。王族が多くなり、語頭濁音を言えないことが恥ずかしい時代に入ったとき、「イ」を消した。そのとき、末尾が“e”となった。伊達といえば伊達政宗とか北海道の伊達市なので、固有名詞だと思っているムキも多いだろうが、すべての固有名詞は普通名詞に還元できるのだ。伊達の地名は各地にみられる。龍を辰(たつ)というのもこれによる。  「だて男」とはキンキラキンシのことである。
ところで、どなたか、福岡〜あるいは熊本方面で √キンキラキンシ キンキラキンシ キンキラキンシのがに股どん にあがり(ふざけ)どん という歌があるのですが、この歌詞をご存じの方、ぜひお教えください。小生が国民学校5年生のとき(昭和20)に聞いた歌です。
駿河/ surung(横穴) 
溶岩のすきまにできた洞穴を穴居などにする地帯ではなかったか。また、ネパール語には suru(始める)という語彙がある。どこの氏族語でも「はしっこ・する」が「始める」  という語彙になっている。もしかしたら、タマキハル(国威が尽きる)土地が駿河だったのかもしれない。
敦賀/ Durga(神)
アラッキ(世界語で焼酎) 古代語の関係で問題になってくるのはツヌガアラシト伝説だろう。これはぜんたいとしては日本語だが、日本語 にしては少しおかしい。エデン語 ; アラ(焼く)が分らなかったことによる混迷も手伝っている。アラッキは古 代世界に広く用いられた交易品の蒸溜酒(焼酎)のこと。日本では焼き畑の土地をアラチという。 tsu =竜? ヌカは鋳型なのでぜんたいとして金属製錬士を謂っている。金属製錬士のツノは別に「 o (つの)ghar(家) ⇒ 男鹿」「小野」もある。  「つの」はsing(つの)に o がついた singo(篠)から発達した語形だと考えら れる。
 ネパール語で牛の屠殺人を gohatya という。go(牛)hat(殺す)ya(屋)。俗に 「おためごかし」、「つのを矯めて牛を殺す」という。この三つから「o =ツノ」 が抽出できる。やってみてください。
ダンジリ/ dandi(柱)*ri(奉納) 
神に捧げるおおきな皿を ri といったので、ここではそれを採用した。しかし、インドではta , mi , nu ,などの多くの単節音が「ひと=神」の意味として使われている。その一つに li がある。ダンジリ祭りの末尾の「リ」はこっちのほうかもしれない。岸和田のダンジリ祭りは、300年の伝統があると言われているが、なにかのまちがいだろう。ダンディという語彙だけの歴史なら、ゆうに4000年ぐらいの時間を経過している。 
秩父 / tutu(破壊)・ubjaー(生産)  
うぶすな / umla-(生まれる)+ クリ シュナ
出雲はヅーヅー弁である。この出雲びとが「つつぶ」と言ったのを、ヤマト新政権の官僚が「これはヅーヅー弁にちがいない」と、勝手にチチブとやり換えたにちがいない。tutu-ub とは破壊と創造のシヴァ神の精神で、これが日本でも“くに造りの神”チチブヒコとなっている。708年、いまの埼玉県秩父郡木毛に自然銅が出土したとき、近畿のガス抜き策もあって、多くの金属製錬士がシバ川筋にやってきた。いや、荒川と利根川に挟まれた細流の平地を農耕地にしようと、この川にシバの名をつけたのだった。中山道にそってズラリとネパール語の市町村名がみられる。木毛の上流4キロの熊木に神社を建ててチチブヒコを祭った。政府は世界に普遍の銅山の守神として二匹のムカデの鋳物を贈っている。ウブスナの「スナ」はインドの神クリシュナの「シュナ」。クリは巫述、大地のいずれかの意味。
出羽 / dewal(神殿)
Deva(神)の同根。Deva は「岩」になる。  芳賀/ bagwan(神) 今のシナ人はどうなっているか知らぬが、とにかくシナの大衆は博打がすきだった。日本の大衆もすきだった。ネパールの下層階級も好きだったとみえて、幸運とかツキを表わす語彙は5〜6ヶあるみたいだ。  その一つが bhage で、秋田のナマハゲや裏日本一帯にみられるアマミハギは、この bhage(幸運)が語幹になっている。
馬場/ baba(修行僧)
普通に考えると馬の調練場のようだが、実際にはきわめて狭い場所にこの地名がある。古代ヒンヅーの修行者は、徒党をくむことを避けてひとりで山奥にこもった。自分をも未熟な神の類だと考えた ところがすざましい。
ハツセ/ badsaha(王) 
ハセガワ / P ; naga(山)+ badsaha(王)ka(の) wa(ひと)
この badsaha の語源はわからない。日本に来たときには末尾のha がとれて badsa に強調末尾辞の -e がついて hadse ではなかっただろうか。或いは、「セの君」というように、セは男子の称辞で、若い男をいうので、音がそれに曵かれたのかもしれない。鹿児島の「よかニセ(地・青年)どん」の“セ”である。 長・谷・川と書いてハセガワと読ませる。上のハツセのことを知ったら誰でも、こ の長谷にはハツセが微妙に絡んでいることを直感することだろう。 奈良県地図を見ればわかるが、ナガスネヒコは桜井市東5kmの初瀬にいたのだ。 その北、東北山手の都祁村山添村がナガスネヒコ時代の稲作地で、同時に逃げ城の逃げルートだったことがわかる。ナガスネヒコの「ス」がこの場合少々不明だが、ここはパーリ語にそって「清らかな」と置いてみよう。するとナガスネヒコとは「山地の清い土地(ネ)にいる指導者(ネ……懸詞)の男」となる。だから、山地という性格がつよくでている。この山地の瀬が「ナガセ(長瀬)」だったにちがいなかろう。そしてそこに王がいたからこそ「ナガセ」が「ハツセ」に言い換えられたと推測される。ただ……、九州地方の地名が奈良盆地に飛んで行っている現象はよく言われることだが、九州最大の「チクシ(交通の要衝を水路・運び人で連結させること)」の目付け王国だと思われる秋月の墓場の山の名が長谷山である。上の二つのハセ(長谷)は、どっちが古いとも決めかねる。今後の課題としよう。
はむき(ふいご・鞴)/ hamk-(煽ぐ)
オオナムチ(大黒さん)  アイヌ語ではトンボをハンク・チョッチャプという。hamk(はね)kot(つけてい る)tp(もの)の訛りhamuk-i(鞴)は古代に日本語化されていたが、学者たちは「これは鞴(ふいご) のことだろう」と言っている。 hamuki の h が脱落すると、ヅーヅー弁の出雲では「アムチ」となる。これに強調辞の N が接頭されるとオオナムチ(大黒さん)のナムチとなる。牛とは私見では「大風」のことである。いままではせいぜい鹿の皮で造っていた「ふいご」だったが、こんどは牛の皮で作れるのだ。大黒さんが担いでいた袋が大きかったとはこのことを言っている。 
平群(へぐり) / beg(いきおい・英語; vigor)li(人)
古代豪族の名前のひとつ。 
ヒョッコセ/ 日置(「目ひく一=日 + okw(IE ; 目」) ko(の)se(セニョ 〜ル) 
初代新羅王の名前は多いが、その一つ。ヒョットコに無関係なわけがない。ヒャヒュヒョなどの拗音は日本にはあまりなく、シナ・朝鮮に多い。「ヒョッ」という部分をヒオキ(日置)に修正すると、古代日本語によく似ている。 
藤原 /psy(*こころ)bala(こども……氏子) 
タム(アイヌ語 ; 刀、被覆形 でカミナリ)  時代が大きく動くときには、必ず政治のうえで優秀なNO.2が出現している。  中臣鎌足(藤原鎌足)は中大兄皇子(のちの天智天皇)に仕え、大化の改新を断行させた日本最大のNO.2 である。鎌足の死を惜しみ、天智天皇は彼に最高の名前を贈り、談山の多武(タム)の嶺に葬った。 その最高の名前、壇山、タム、の三つがいづれもネパール語〜西洋語だった。西洋語の psy はサイとも発音する。サイとは当時流行のsait(吉兆)。psy は山 伏、富士にもなっている。「ワラ」はbala 。おとなになっても氏子というようなもの。で、藤原とはバラモンのことをいっている。 「ダン・ヤマ(集会)」のダンは、いまでも檀家というように「施し」という意味 だが、カトマンズ・ネパール語 とはひと味ちがった“dam ”が日本に入ってきていたのだった。玖珠郡森町の豊後浄瑠璃では「だんな、だんな、だまんねぇ早よから、なにごつかえ」というのがある。この「だまんねぇ」は 「dam あるない」という古いいいまわしで「dam ない」という意味である。この dam に似ている語彙はアイヌ語の ram(こころ)だが、これもインド〜中東あたりで根をのばしていた語彙で、ネパール語には「 ram ram (おお、神様よ)」となって残っていた。  出雲の暮らしでは道ばたなどで、人に会った最初の挨拶は「先日はだんだん(ありがとう)」から始る。ドイツ語の Danke と同一だ。ハナシを元に戻そう。ダマンネェの「ダム」は標準形ram が日本に入ってきたと き、倭人は語頭 r 音が言えなくて d にしたのだ(r の濁音は d である)。これは 朝鮮ではゼッタイに言えない。この語頭濁音が「文化的でない」ということで嫌われてできたのが「tam 」だった。日本語の「タマ(魂)」はこの tam をパーリ語〜サンスクリット語的に開音化したものだった。しかし、この「タムの嶺」の「タム」には「刀」が懸詞されているはずである。アイヌでは tam といえば、まず刀である。刀はククリヒメ以来の魔よけ〜鎮魂のマジナイである。アイヌ語 ; tam は刀だが、これにはネパール語のtama(銅)も絡んでいた。タムの嶺……このへんでいいだろうか。
ホヮラン/ phalam(鉄) palan(世話・規則を守ること)
新羅の貴族青年騎馬団の名前で、花郎と書く。新羅第四代の脱解王は偉人だった。その2〜3代あとでは円卓の騎士みたいな小人数だっただろうが、それを中心に膨れあがって集団化した。576年に源花と改名している。この“源”は日本の源氏に引き継がれたことだろうが、もともとは mul(水源・長)だった。  新羅は935年に高句麗に政権を禅譲したのだが、それは軍内部の分裂が原因だった。これは推測でしかないが、新羅の軍隊にはネパール語を濃厚に喋るグループがいて、それらが横暴を極めたのが、その主原因ではなかっただろうか。
マタギ / matha(額) gi(神・ひと)
トンガ・サモア語に matangi , matagi(風……angiは「吹く」)があるが、語源 の中心はこれではない。 エベレストというのは英国の測量士の名前で、シェルパ族はこの山をチョモランマと呼ぶ。ネパールでは sagar matha という。天の額という意味である。 額には目がある。堆積水成岩の層と雪形が卍模様を造っていて、これがほんとうのmata(目)である。まだ、ほとんど知られていないことだが、インド・グループとオセアニア・グループが使っている基礎語彙には 34%もの類似の語彙が認められるのである。これはインドにいた夥しい氏族が西から来た現在のグループからオセアニアに追われたことを意味している。
麿、マラ、丸/ mar(男) 
水夫をいう mar はメソポタミアを振り出しに世界に広まっているが、ここで挙げたものはそれとは別系統である。 また、1回2回の回も mal といい、これもエデン語である。IEでの mal は「魔」 に通じて縁起のわるいことに用いる。 mart , murt には「死」の意味があって、 これもエデン語といえる。男の mar は英語の male(メイル) である。初期の物部系の男に、この麿、丸がついているので、物部というところはネパール系外人部隊みたいな傾向が濃密である。
三笠 /mi(神・尊身)kasawdi(窯)
山笠 / jamat(集会 ⇒ ひとだかり)
か まくらkasawdi(窯)の wdi は道具につける末尾辞なので、日本ではkasa だけが採用さ れ残った。 ネパール語には khula(劇場などが空いている、開場)という語彙がある。一方、陶芸などでは窯開きはイヤ に緊張する場面である。秋田などに見られる雪洞のカマクラは、窯の余熱を楽しむ子供の遊び場だと思える。山笠も窯を開いてgoods を取出す興奮と喜びが祭りになったのだと思える。 
むらげ / mul(水源・長) 
連(むらじ)/ mul-adhin(支配)
田村(トッ プの神) 按司  mul-age( na )……炉(場)の長。形容詞後置形。金属製錬のトップ。配下に関して生殺与奪の権を持っている。治外法権でもある。Mul はムラと開音されて、ムラの語形で日本語に定着した。村とは「地方の長」という意味から興ったのではないだろうか。倭人社会にあっては、水脈ごとでの人々を掌握しているのが「ムラ」だったと思われる。沖縄に現れた支配者を按司(アジ)というが、 mulに按司がついたものがムラジ である。
モノノベ・マトリ / mantri(大臣・長官) 
モノノベの「モノ」はK ; mon (もの)と同根。アイヌ語mon の推定祖形を「手」 とする人がいた(村山七郎教授)が、これは「仕事」とすべきである。そうするとこのへんで性格としての「物部」は出るが、厳密な mon , mono の語源にはイマイチなるものを感じる。宮城県には「桃生」と書いて「モノウ」と読ませる郡・町名があるのも気になる。物部の「べ」は bhed(区分・階級)であることは確定的である。武烈帝のときモノノベノマトリが(私見だが)新羅あたりからスカウトをうけて日本に帰化している。物部氏の石上神社ができたのは真鳥の孫のククヒの代になってそれまでのカラクニ神社の呼称を改めたからによる。だから、物部という呼称は朝鮮半島でも使われていたのである。マトリとは mantri にほかならない。mantri のN は 助音infix だから「祭り」がでる。また即 matrix であり、英語の*patri(自国の、母の)でもある。
ヤタガラス / ya(神)ta(神) 
三本足のカラスのこと。このヤタガラスをここで掲出するにはムリがある。手許の基礎ネパール語事典にも出ていないし、ya はネパール語固有のものとは言えないからである。ヘブライの「ヤーベ(エホバ)」あたりが慣用されて、ヤタが「軍神」みたいになったと思える。 いやしかし、ヘブライ語をもってくるまでもなく、インドでは「神=ひと」である。日本では「土屋、柳谷、石戸屋、碇屋(ありゃ、北のほうに偏ってる)」など人を示す ya がみられるし、ネパールでは牛を殺すひとを gohatya という。「 ya=神」があっても不思議ではない。ネパール語では旗は janta と duwaja の二形がある。旗のぼりを背中に立てて敵陣に斬り込んでゆくツワモノ……、このツワモノは duwaja 者ではなかったか。ヤタ ガラスはその janta に描かれた三本足のカラスではなかったか( N は助音、infix)。三本足カラスは熊野系神社などに優れたデザインとなって伝えられていた。来年は日韓共同でサッカー・ワールド・リーグが開催される。そのシンボル・マークが三本足のカラスである。このことを早くみんなに報せてあげたいものである。偶然のことだっただろうか、去年のシンボル・マークはオンドリだった。これもカニシの象徴で、樹木を柱として神から戴くとき、その木に最初に打ち込むのが鋸(ノコギリ)だが、そのノコギリの背に刻まれているのがオンドリ・マークである。
ヤハタ/ ya(神)*hata(カミナリ)
日本語の旗はサンスクリット語の pata , pataka が日本に入ってきたものである。秦の始皇帝で有名なシナ……の秦をハタと発音している。このハタはカミナリが始原である。はじめに解説したように、カニシの狂執語彙(複数)は発音を共有する。同じ発音が狂執間をあちこち跳んでまわるのだ。ここを踏まえないと理解が難しい。俳句の用語で「ハタタ」はカミナリで夏の季語である。ハタタの末尾のタが神を謂っている。古代日本語の「ハタく」は「こなごなにする」。ネパール語; hatawdi は「鎚」 ( wdi は道具を示す末尾辞)。かなり遅れて日本にやってきた秦氏だったが、それだけに高文化を持ち込んだ。この氏族はまず九州の香春岳周辺にとっつき、南下して宇佐を拠点にしていた。なぞの多い氏族だが、ハチマン(八幡)はこの氏族から出ているらしい。八幡は軍神で「旗の神」ともなる。各地のハチマン様の祭りには幟(のぼり……ハタ)が翻る。 
邪馬台・ヤマト/ jamat(集会・集り) 
jamat に強調末尾辞の -ai がついた語形が jamatai。3世紀ごろの日本列島では強調末尾辞はに-ai も使われていたことがわかる。この“-ai” は 時代が下ってくると“e” 1一本になってくる。「邪馬台の文字がちがう、邪馬壱がほんとうだ」という説があるが、こんなにもハッキリした語形があることを、ご存じではなかったのだろう。
 ヤマは修験道や寺などの人々の集り 、金属製錬の集り(ヤマがたつ)、鉱山の人々の集り、くろ山のひとだかり、などの集団に用いられた。その後“衆”もそうだが、「おやま」など個人にも適用された。
和気 /wakil(大使) 
エジプトでも wakil(大使)の語を使っている。日本語の wak には別に「分ける、枠、別れる」などの意味があるので、wakil・ 大使という発音・意味は時代によって変わっていると思われる。古くは九州をシラヒワケと呼んでいた。エジプト・ネパールの一致がある……ということは、政治用語の多くのものが先進文化地帯から流出し、ほとんどそのまま広域で使われていたということであろう。ネパール語の raja(王)や日本語のサムライあたりもこの類いだろう。サムライを「傍らに侍る」などと分析する時代は終わったといってよい。  
   
ユー・アイ
http://www.you-i.org/kodai01.html









瀬川拓男: 私の民話論〜アイヌ古代民話, 日本の原始民主共和制を支えた言霊信仰
私の民話論
瀬川拓男, 1981
中国大陸に並行して弓状に存在する日本。火山列島日本には暖流と寒流がめぐり流れているために,四季折々の微妙な季節変化によって優れた景観と季節の魚菜に恵まれている。日本は自然の恩恵豊かな「母なる地」であるが,その反面,台風・洪水・地震といった自然の猛威にさらされている。
欧米文化は自然に抵抗することによって生まれたが,日本文化は自然に随順であることによって生まれた。
■地域社会を規正した民話
古代日本人は地域生活において生じた善悪・吉凶の全てを神々の倫理に,あるいは適い,あるいは適わぬことをした結果であると信じていた。神々の論理とは一体何かと言うと,それは
天ツ罪
国ツ罪
であると考えていた。
農村の共同生活を破壊することは,神々の倫理に反するという思想であった。
田の畦を壊したり,田の溝を壊して水を通さなくしたり,田に水を入れる樋を壊したりするのは当然天ツ罪を犯したことになった。その他,他人の田へ棒を立てて自分の占有を主張したり,生きたまま馬の皮を剥いだり,糞のような汚いものを撒き散らしたりするのも犯罪としていた。予測できない自然の猛威が突然前触れもなく農村を襲うのは,この罪を犯した者が同一地域内にいるために神々の祟りを受けたと考えた。
天上界におけるスサノオ神話のように,どの地域でも因果応報の物語が生まれ,語り部たちによって語り継がれていくうちに歴史意識が生じてきて,大叙事詩となっていった。そうした物語は古代ばかりではなく中世でも近世でも農村社会には生まれやすく,今でも語り継がれて地域社会の生活秩序を規正させてきた。
■夜明けの叙事詩ー神話的叙事詩
太古,天地は混沌と溶け合って,無限に広がる泥海にギラギラと漂うものがあった。何万年とすぎて,立ち上る陽気は空になって,濁るものは岩や石になった。
岩や石は日に日に大きくなって泥海に黒く光る頭角を現した。空に昇った陽気は炎と燃えて 巨大な火の玉 になって,そこに太陽の女神が誕生した。七色に輝く光は天空に満ちて,暗い地上をバラ色に染めた。
古事記編纂のはるか昔。日本列島に割拠する各部族は,「夜明けの叙事詩」を競って詠んだ。
北海道で漁業に従事する部族は,この地上が巨大な魚「アメマス」の上に作られたとして大地と地震の因果関係を理解した。鳥の霊魂を唯一と信じる部族は,この世の始まりが神の鳥によるものと説いた。湿地帯を切り開いた種族は,泥と植物からできた人間の創造と,恐るべき悪魔の誕生を想像したのであった。
狩猟と採集の採取の時代が何十世紀も続いて,トーテミズムを基盤とする動物民話のうちで,動物の霊力による天地創造神話が準備された。それに続いて初期的栽培段階から複雑な農耕時代へ進むにつれて,
太陽



樹木
穀物の種子
などに対する関心が高まって,ここにも神の雷の誕生を見ることになった。今や万物に霊は宿り,草木石までまでが物言う時代になって,天地創生神話も次第に複雑になった。
神話的叙事詩の発達は生産関係の進化とも対応していた。古代国家成立までの長い陣痛の時期,生産力の著しい発展によって人間相互の共同共産体制に加えて,分業化もまた進んで,その結果部族連合の波状的な拡大をもたらした。言語の発達に合わせて神話的叙事詩も長編詩化の傾向をたどり始めた。
古代国家誕生前夜,「夜明けの叙事詩」が翼を得て羽ばたく時に,原始時代の後の黄金文化は花開いた。その時期を特徴づけるものは雄大な長編叙事詩の成立である。革命的民主文芸の到来であった。
アイヌの神話的叙事詩に象徴されるサケ(繰り返しの節)には「夜明けの時代」の溢れるばかりの希望が込められて,その美しい旋律から人間の歓喜が光の躍動になって伝わってくる。
シロカニペ ランラン ピシカン
シロカニペ ランラン ピシカン
銀の滴 降れ降れ まわりに
金の滴 降れ降れ まわりに
トーヌペ カント カント
トーヌペ カント カント
乳房の光 きらめき きらめき
乳房の光 きらめき きらめき
ユーカラ棒を叩いて,天に向かって地に向かって歌い踊る神々の宴会は,大地に根を張って生き始めた人間たちの凱歌でもあった。豊饒の秋。余剰生産物を手にした彼らは,爆発的な熱狂に身をまかせ,歌い踊って革命的なロマンティシズムを謳歌した。
この時期に天地創生神話について大地開拓神話が叙事詩の主流を形成する。人間の代行者である神の英雄的業績によって,悪霊は駆逐されて原野は開かれる。開拓精神に満ち溢れた物語には,男神と女神のロマンスがつきまとって,男女の対の幻想によって大地の豊饒が約束されるのである。古事記に収録されたスサノオのオロチ退治とクシナダ姫との婚姻物語はその典型であろう。「雷神と女神」「日の女神を救う」「赤神と黒神と十和田の女神」などの民話にもそうした古い時期の叙事詩的残像を認めることができる。
■言霊と民主主義
いうまでもなく「夜明けの叙事詩」には特定の詩人によって創造されたものではなくて,多くは演劇性を伴った原始的儀礼のうちに組み込まれていた。当時の神話的叙事詩には部族の運命を左右するほどの言霊の力が宿っていた。アイヌ民族にしばしば登場する「神々のチャランケ(談判)」には偉大な言霊の力が象徴されている。
ここで強調したいのは,草木ものいう時代に成立した言霊信仰が原始民主主義の思想的支柱になったばかりか,雄大な神話的叙事詩を産む創造的原動力になった点についてである。華麗な響きとともにたくましい力を獲得した祝詞の謎は,言霊信仰との関係ではじめて解くことができる。
アイヌの神話的叙事詩「エゾイタチの女神」は原始的共和制社会の生の姿を鮮やかに映してくれる。
人間の国が大飢饉に見舞われた時に低い空を治めるエゾイタチの女神のもとへ,ミソサザイやミヤマカケスの若い神,カラスの老神,トガリネズミの小さい神,あらゆる動物の神が集まった。人間の国はどうして救うか?どうすれば飢饉を終わらせることができるのか?晩餐の席で神々がありあれこれと討論したが,こともあろうに水辺に住む渡り鳥のシギ神を招くのを忘れていた。重大な討議の時に一人の神でも欠席とあっては大変である。トガリネズミの神は慌てて表へと駆け出した。草の下を転がるように走って,ようやくシギ神のもとへたどり着いた。さてシギ神の参加によって会議は再開した。
本題に入って,エゾイタチの神が,シカの神・サケの神に向かって,山にはシカを出し,川にサケを出すように依頼すると,シカの神とサケの神は堂々と反対論を述べる。この頃の人間はやたらにシカを殺してサケを殺して乱獲も目に余るものがある。これでは自然の富もかりつくすに違いない。何としても人間どもに反省を求めねばならぬ。そこでエゾイタチの女神は人間たちの夢に現れて,生き物を殺す作法・ 魚を殺す作法を教えて乱獲を厳しく戒めた。結果,再び国土は蘇って,山にも川にもいいものが溢れ,神も人も共に幸福な日を過ごすことができたという。。。
非常に親和的叙事詩を目の当たりにすると,皮肉にも現代人が風刺されているかのように見える。公害の空の下にあえぐ人々が国会に嘆願しようと,公害垂れ流しの会社に迫ろうと,エゾイタチの女神ほどのものは見当たらず事態の解決は容易ではない。議会民主主義を唱える国会の場所でも多数党の言論の暴力で少数意見は抹殺されて,野党欠席のまま決議がなされる。シギ神を招くのにキリキリ歯を食いしばって駆け回るトガリネズミ神の努力などどこ吹く風だ。民主主義の世の中に民主主義は空洞化する。
原始共和制を支えたのは他ならぬ言霊信仰による「ことば」への恐れと崇拝であった。生命尊重というほどの重い意味を込めて「ことば」の一つ一つに深く耳を傾けて「ことば」の背後に根ざす魂のありようが求められた時代である。したがって一人の発言意見に対しても,例えばシギ神の参加を求めて討議するといった形で言葉の尊重が徹底化されていたのであった。
原始民主主義はいわば徹底民主主義というものであった。こうしたモラルは実は長い伝統の上に定着したのであった。それは単に人間と人間の横の連帯を意味するだけではない。古くは動物との血縁によって,更には自然との共存元素によって,動物・自然・人間の総力を挙げてこの大いなる世界に挑んで,より良い社会を築こうとした結果,相互連帯意識は進化したのであった。現代人に定着した孤立化された自我ではなく,動物・自然・人間を包み込む巨大な共同体的自我がおそらく当時の民衆の心を揺さぶり続けたのであろう。この大いなる自我が確立する上で言霊の力が大きな役割を果たしたのは事実であった。
連帯意識の前提になるのは,何よりも対象を具体的に把握する認識力であって,その認識によって状況を変革する実践的な力を養成することであった。
エゾイタチの神が優れていたのは,対象認識の深さの上に民主的討論においても卓越した言葉の技術を持って言霊の力を制御して駆使した点にあった。そこで初めてシカの神・サケの神も真実を告白し,飢饉の要因そのものが明らかになって,それを克服する手立ても発見されたのであった。
言霊の計り知れない力を宿す者。それを自在にこなす者。すなわち雄弁なる者は当時にあっては徹底的な民主主義者であって,状況変革への革命的な資源を身につけたものであった。
数千年の昔にさかのぼる神話的がなお現代人の心に鋭く迫って詩情豊かに胸を打つのは偶然ではない。言霊の力が満ち溢れる時に詩章もまた簡潔な表現のうちに重い意味を伝えて,単純な旋律の繰り返しのうちにも様々な心理的欲求や行動への力強い意志を響かせることができた。
饒舌に馴らされた現代人は色あせた言葉の羅列や乱用によって,言霊の力は「罰」としての苦悩を人間に与えた。今では民主主義という「ことば」はあってもそれを守る思想やモラルが衰退して,マスコミ的饒舌の日常の中で人々は分裂した言葉の洪水に押し流されていく。
ー日本の民話,角川文庫,瀬川拓男/松谷みよ子,

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2019年3月15日
アイヌは何故文字を持たなかったのか
縄文人は文字を持ちませんでした。 現在も残存するアイヌも文字を持たない民族です。
アイヌ語で「神」のことを「カムイ」と言います。 アイヌの人々は、自分たちに生きる糧や恵みをもたらし、時に恐ろしい災いをもたらす大自然を神として万物への祈りを捧げ、祭礼を行ってきました。 また、文字を持たないアイヌは、神話や伝説などを口伝えで受け継いできました。 代表的なアイヌの口承文芸として「ユカラ」が知られています。
アイヌの人々が使うアイヌ語は、子音の数が極端に少ないなど、日本語とはまったく異なる言語です。 しかし、「ニセコ(切り立った崖)」や「知床(地の果て)」など、北海道の地名にはアイヌ語が元になったものが多く、「トナカイ」「ラッコ」「シシャモ」などもアイヌ語です。 現在、アイヌ語を母語として話すことのできる人はわずか数人とされ、ユネスコによって「極めて深刻」な消滅の危機にある言語と認定されています。
では、アイヌとはどういう民族なのか?何故アイヌは文字を持たなかったのか?
追求してみたいと想います。
何故アイヌは文字を持たなかったのでしょうか。 それは、持つ必要が無かったからだと推測できます。
以下興味深い記事がありましたので紹介します。
アイヌはなぜ国家を作らなかったかの話 
http://shidoyuuichi.hatenablog.com/entry/2016/02/01/004708
文字を必要とする民族は、管理することを目的として始めます。 簡単に言えば、税金の取り立て記録や、人員への命令の記録や、支配の正当性の記録や、貢ぎ物の記録がなければ口頭だけでは確実ではないからです。特に、命令が、伝達ゲームでは管理できません。 支配者一人の言葉は、同等に被支配者に伝わらなければ間違いや誤解によって違う結果とならないようにするために共通の合図が複雑化する中で、文字として発達していくのです。逆に言うと、管理社会でない民族には文字は必要性はないのです。ですから、文字を持たない民族や文化が劣っていて、文字を持つ文化が優秀なのではありません。統一国家のような集団を集合させるような構造を持たない民族には文字は必要ではありませんでした。
アイヌには、文字はありません。では、食料の生産能力かと言えば、それも一概に言えません。例えば、沖縄は、稲作が出来ても、大きな国家を作ることをしませんでしたし、武力も大きくなく、薩摩に征服されてしまいます。縄文後期に稲作を初めて止めてしまった縄文人もいます。稲作という視点で見る場合には、人工の増加と言うことは重要です。アイヌ民族は、どうやら3万人程度で推移したようで、人口の大きな増加はなかったようです。ですから、国家も作らなかっただけでなく、武闘集団を作るには人工的に困難でした。
では、なぜ大和は国家を必要としたかというと人口に対して貧しかったからと言えます。つまり、生活的に困らなければ、民族は国家を必要とせず、独自の生活を維持します。困窮する民族は、略奪を求めて強い武闘集団を形成するために国家が必要です。
アイヌの生活が貧しかったというのは間違いで、物が豊富で有ると言うことと生活が豊かであると言う事は一致しません。何故なら、アイヌ民族は、他の民族から孤立していたのではありません。接していながら、見習いたいと思わなかったのです。憧れなかったのです。
大和朝廷は、遣隋使も遣唐使も使って、中国に憧れ、中国の文字を真似、律令制度を真似ることに最大の力を尽くしました。貧しい地域ほど武闘は強かったのです。確かではありませんが古事記で言えば、九州の阿蘇山の噴火で、九州の北部・中部は痩せた土地で大変だったので豊かな土地を求めて征服の旅に出て、ついにたどり着いたのが大和朝廷の前身と言う事と読めます。征服することによって、貢ぎ物を頂く。それが国の豊かさだったのです。朝貢という貢ぎ物を古代の国家は中国にしています。同様に、国内では同じ方式で、国家は地域から貢ぎ物をさせることで成立していました。
都会に憧れる人も、憧れない人もいます。必ずしもものの豊かさが、憧れとはなりません。ものの豊かさに憧れなかったアイヌは、国家も作らず、文字も必要としませんでした。

縄文と古代文化
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3437.html?g=131202f













Kaimotu_Hatuji: アイヌ民話とカナダ古代民話の烏・八咫烏
2019-09-02
神話と導きのトリックスター ワタリガラス・ヤタガラス 雑考
 ヤタカラス ワタリガラス 古代史 アイヌ史考察
ファースト・ネーション(カナダ先住民)神話のRaven(ワタリガラス)
ワタリガラス(Raven)はトーテムポールで羽根をひろげる「海を渡る」カラスだ。先住民の神話では、世界に光をもたらした創造主、最も重要な文化的なヒーロー、何事をも可能にする、いたずら好きで、ずる賢さも兼ね備えた手品師のような存在として位置づけられている。マジックを使い天地創造に関係したと云われており、太陽・月・星を空へ、魚を海に、鮭を川へ、食べ物を陸へ導いたとされる(Haida族伝承)
■アイヌ伝説のカラス
アイヌ民族は、北海道、サハリン(樺太)、クリル(千島)に広がって生活していた。
カラスにまつわる言い伝えは多数あり、神の名(カムイ)のついた「カララクカムイ」、年老いた賢者のカラス「オンネパシクル」、人を化かす妖怪的な「ペンタチコロオヤシ」などのバージョンがある。いずれにしても、道に迷った人間が遭遇するというシチュエーションで、正しく導くか(正)、誤った方向に導くか(邪)の存在だ。
アイヌ学者の知里真志保(アイヌ民譚集)は「オンネパシクル」(賢者のカラス)をワタリガラスとした。
■千島列島を渡るワタリガラス
北千島(クリル)〜カムチャツカ半島で繁殖するワタリガラスのグループは、今でも、知床半島にわたり、襟裳岬まで生息する。70センチの大型で目立ち「カポ〜カポ〜」という独特の啼き声は、アイヌや先祖の縄文の人々が島伝いに海をわたるのに、たよりになる「先導者」だったことだろう。
クリルの先にカムチャツカ半島、その先にアリューシャン列島、さらにその先にはアラスカ、北米大陸。オレゴン州では縄文とよく似た遺跡が多数発掘されている。
■知床のワタリガラスとカナダのRavenのつながり(海の道)が、科学的に明らかになる日が来ることを楽しみに妄想している。
旧約聖書の「ノアの方舟」で大洪水をおこした大雨が終わった後、ノアがワタリガラスを放ち、陸地を探した。北欧の神話ではオーディンの先駆け、フギンとムニンの2羽のワタリガラスがよく知られている。世界共通で、目的地を知らせ、「導く者」としてのイメージ。日本神話にも導きの「ヤタカラス、八咫烏」がいる。
トリックスター (trickster)
象徴心理学の草分け・ユングが提唱した「ストーリーの展開を変える者、物語を導く者」
静かな水面に石を投げるがごとく、安定を崩し、新たなストーリーを展開させる。スサノオがそうであるし、中国では孫悟空、欧米ではピーターパンが有名どころ。ネズミ男もそんな感じ。話の筋道を変えるキーパーソンであるがゆえに「善と悪」「創造と破壊」「賢さと愚かさ」「誠実と気まま」・・・二面性が特徴でたいていイタズラ好き(最後は許されるキャラ)。ファースト・ネーションズのワタリガラスはトリックスターそのものだ。
■ヤタカラス神話
熊野本宮大社では「ヤタガラス」はスサノオのお仕えとされる。下鴨社・上賀茂社では「ヤタカラス」は太陽と云われた賀茂建角身命(かもつぬみのみこと)であると伝承されている。繋いでみるとトリックスター(スサノオ)が送り出したトリックスター(ヤタカラス)が「神武東征」神話を展開させる。
頭が混乱するが「ダブル・トリックスター・キャスト」で展開するストーリーが意味するものは何だろうか?とにかく、日本の神話や古代史にも鳥がよく登場する。
開物発事 (id:Kaimotu_Hatuji) 95日前

 ものづくりとことだまの国
https://www.zero-position.com/entry/2019/09/02/050603
 





縄文海人集団の超人的なパワーとハンパない渡海能力
古代史 アイヌ史考察 youtube 縄文スタイル
www.zero-position.com
ワタリガラスは海を島伝いにわたるカラスで、Ravenとしてアラスカ原住民族の神(トリックスター)だ。
はるか古代、縄文海人はワタリガラス・Ravenの導きで「北の海の道」
北海道−千島列島−アリューシャン列島−アラスカー北米(アメリカ)大陸
を移動(場合によっては往来)していたと考えても、まったく不思議ではない。なぜなら、彼らの行き先を妨げるものは、大自然(海原)のほかに何もないからだ。
■北海道と北米大陸 海の道
縄文海人のパワーは、現代人基準で超人的
先日(2019年10月24日)の記事で「超人的な」とあえて書いたが、国立科学博物館・海部陽介さんの研究(日本一マッチョな縄文人集団)がそれを証明していると思う。ここは開物の考えだが、縄文海人の骨格の太さ(容積比)を、例えば現代人の約1.1倍と考えると、そのパワーは1.1倍以上になる。なぜなら、それだけの上腕骨格と筋量があるということは、対応して、背筋・大臀筋(おしりのきんにく)・股関節周辺の筋量も多く、骨格もしっかりしていたはずだ。結果としての「総合的なパワー出力」は現代人とは比べ物にならないレベルにあったのは間違いないだろう。
日本一マッチョな縄文人集団より
readyfor.jp
プラス、豊富な航海の技量と海の知識
このような基礎体力にプラスして、季節ごと・時間ごとの潮の流れを読み、また沿岸や島の地形を読み、海を渡り超える。海に命を懸けるプロフェッショナル集団、古代には彼らの行き先を妨げるものはなかった、つまり、無敵の自由移動集団といってもよかっただろう。そして日本海に関していえば、縄文海人(とその伝統集団)でなければ海域の長い移動は困難。たとえば渡来系の人々にとって、列島への道行きは海人たちの協力がなければ「一方通行」ということ。
海人の日本海周辺への拡がりという視点での「渡来民族」の考察があってもいいんじゃないかと考えている。海を渡った縄文人・ケルプハイウェー、ワタリガラス、フォートロックサンダル(Youtube)
最近、北米・アイダホ州で縄文に似た遺跡(石器)が発見されて話題になっていた。あらためて情報を整理している。ところでアイダホ州の西隣が「海の道」にあたるオレゴン州。同州でも、すでに縄文の可能性がある遺跡が、複数、発見されている。これらの遺跡の時代(約一万年前)は今よりも温暖であったことが前提だ(縄文海進期)
ご存知の方も多いと思うが、2年前、佐々木蔵之介さん出演の面白い番組があったのでリンク(42分)
*生物大絶滅と縄文人の謎(BS-TBSより)
www.youtube.com
開物発事 (id:Kaimotu_Hatuji) 40日前

 ものづくりとことだまの国
https://www.zero-position.com/entry/2019/10/26/130000
https://www.zero-position.com/entry/2019/09/02/050603

YouTube
https://youtu.be/lJCLD7g7OvM






2019-07-30
下鴨神社(7)賀茂御祖神社・ヤタカラス(やたがらす)のナゾナゾ
 下鴨神社 賀茂御祖神社 ヤタカラス 熊野本宮大社 そうだ京都行こう 八咫烏 やたがらす
■下鴨神社は、熊野本宮大社の真北
そもそも下鴨神社に興味を持った話をしておこうと思う。理由は地図の通りだ。
地球座標は北緯(N)と東経(E)で決まるが、東経、つまり、東西の座標は、下鴨神社が135度46分23.4秒。熊野本宮大社・大斎原(おおゆのはら)は同46分27.6秒。その差4.2秒。実際の距離に換算して100メートル(1秒=約25メートルで計算)
南北では200数十キロの距離。
なお、大斎原は熊野本宮大社・旧社地。
地理的な単なる偶然と考えるか、意味があると考えるかは判断にお任せするが、ここでは「意味」を考えてみる。
ひとつ言えるのは、天空で唯一動かない点「北極星」を基準にすれば、南北ライン上で東西を測位するのは、古代でもそれほど難しくないということ。つまり、熊野本宮から北極星を目印に、北上し、古代山背(やましろ、京都)を目指した人たちがいた可能性を意味する。
参考に平城京をポイントしてみたが、途中、御所、橿原、三輪、飛鳥、藤原京など、歴代の古代の都あたりを通過するラインでもある。
私は「畿内・天の御中(北極星)のライン」と勝手に呼んでいる。
*****
この大きくて広い地理的関係を頭に入れて、下鴨神社「烏の縄手」の立て札を読んでいただきたい(以下、文字起こし)
・下鴨神社 烏の縄手 立て札
下鴨神社の七不思議として、古くから言い伝えられている一つに「カラスのナワテ」というのがあります。「カラス」とは下鴨神社におまつりされている御祭神・賀茂建角身命は、別のお名前があり、「ヤタカラス、八咫烏」(太陽という意味です)と呼ばれています。「ナワテ」とは細い(せまい)、長い道ということでヤタカラスの神様へお参りする長い参道との意味です。
・熊野本宮大社のやたがらすの解説(一部)
八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊、スサノオノミコト)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。
www.hongutaisha.jp
さてこの二つの話をどう結び付けるのか、まとめることができるのか、何かを暗示しているのか、そもそも別の話なのか、やはり単なる偶然なのか。
The Long And Winding Road・・・古代からのナゾナゾだ。
よかったら皆さんも推理してみてください。

ものづくりとことだまの国
https://www.zero-position.com/entry/2019/07/30/010721
https://www.zero-position.com/entry/2019/09/02/050603
 







坂口成事
日本人は、なぜに海を渡ったのでしょうか。
これまで、西へ渡った大きな理由は、7300〜6300年前のキカイカルデラ火山活動による、壊滅的な環境破壊だと申して参りました。その時の地層も、地生する植物の進化も、いたる所で見る事ができます。
ところが、その倍ほど昔、東へと渡っていたのです。それは、火山活動の時の太陽信仰以前の、超古代の太陽信仰です。太陽の日の足(影延び、日足、太陽の子)が私たちでありますので、太陽が昇る東を求めたのです。さらには、その日足(八咫烏の足)の黒い影が、ワタリガラスの姿として現れ、追いかけて行く事になったのだと考えています。
拝ヶ石巨石群は、太陽観測のための巨石ですが、河内町芳野東門寺という住所で、町全体が石造りでもある河内町(坂口の実家は船津亀石)の東でもあります。
ところで、今週も、地球創世記、最初のアメリカ人は縄文人の、TV番組を観ています。毎週毎週の番組を貫くキーワードは、ワタリガラスです。アイヌから九州へ嫁に来た大叔母の話では、森や村を守るための戦いのため、人々を先導するワタリガラスの話があり、その話は、神武天皇を先導した八咫烏の神伝と似ています。
ところで、環太平洋のその土地土地の、インディアンやインディオの人類創世にかかわってきた金烏(迦那烏)こそ、私たち神日族(神日巣)日本人の祖先(阿耶高)です。偶然、宇宙人を呼び出す時の言葉も、アヤタカだそうです。そして、インディアン、インディオの方々にとって、日本人は、神であったのです。
ところで、縄文人の縄文土器こそ、それまで、人類にとって毒であったものを無毒化し、人口増加を可能にした神器でありました。されど、最も重要な鍵は、海藻を消化できるという、日本人特有の機能です。お隣の国も海苔を食べますが、生海苔は、日本人のようには、消化できません。この能力が、海岸づたいに、舟で遠距離を渡る事を可能としました。また、私たちの祖先が、天神(北極星)を信仰して参りましたのも、元は、航海のためであったと思われます。
坂口の家に伝わる顕幽神の、八咫烏の三本の足を祀る磨製石器も、造舟のための石です。拝ヶ石巨石群の星座が刻まれた巨石も、拝ヶ石では最も信仰された巨石です。

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対馬 天童信仰ついて、こんな記事がありました
テレビ、アンビリーバボーの「日本の3大行っては行けない場所」(仮)みたいな企画で、わが故郷、対馬のある村が紹介された。そこで紹介されたのが通称「オソロシドコロ」という対馬市厳原町の浅藻(あざも)にある八丁郭(はっちょうかく)である。
対馬には古から天道信仰なるものが存在する。これはその天道法師を祭るお墓なのだ。
正直、対馬に生まれながら、ぼくもこの場所のことは一切知らなかったが、祖母がこのへんの村の出身なので聞いてみると、その村周辺では有名な場所で、実際周りの人からはあまり立ち入ってはいけない場所として、知られていたらしい。其の敷地内に入り、立ち去るときは、お墓にお尻を向けずに、動物のモノマネをしながら立ち去らないといけないという、なんともシュールな言い伝えがある。
しかしその祖母でさえもこのことについて、それ以上のあまり詳しい情報はわからないという。オソロシドコロ、、、ますます、気になる、というか萌える。そこで、いろいろ調べている、さらにアツイ記事を発見したので、ご紹介させていいただく。
673年、対馬南部に超能力者が生まれた。
・その母は虚船(うつろぶね、うつぼぶね)に乗って漂着した高貴な身分の女性であり、太陽に感精して子供を産んだ。
太陽=お天道様であり、太陽の子=天童と名づけられた。
・天童法師は嵐をまとって空を飛ぶことができ、上京して文武天皇の病を治し、「宝野上人」の菩薩号を賜った
・天道信仰の中心人物である天童法師の墓所が龍良山南面・の八丁郭にあり、その母の墓所は北面の山中の裏八丁郭にある。
その2つは特に強いタブーの地として「オソロシドコロ」と呼ばれた。
・龍良山全体(山自体)が天道信仰の聖地であり、内院・浅藻・豆酘などの集落はすべて龍良山のふもとに位置している。
・豆酘の集落内にがあり、ここで神事を行っていた。
・龍良山は聖地として立入や樹木の伐採が禁じられていたため、極めて自然度の高い照葉樹林が残されており、大正時代に「龍良山原始林」として国の天然記念物に指定された。
・豆酘は、古代米の一種・赤米が神事とともに伝承されていたり、かつて中国や日本で行われていた古代の占いの技術「亀卜」(きぼく)が現在も行われているなど、固有の民俗・習俗を伝承する地域。
・天道信仰は、天童法師という超能力者の物語を骨格としているが、穀霊崇拝や太陽信仰、山岳崇拝などさまざまな要素が混ざり合っている。
・天道信仰は、伝承では7世紀が起源とされているが、平安時代から中世にかけて神仏習合により形成された対馬固有の修験道の一種で、その祭祀形式や行事には古神道の要素が多く伝承されている。
・対馬北部のにも「天神多久頭魂神社」があり、こちらも天道信仰の中心地だった。
この絵はUFみたいですよね

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2020年11月15日

佐治芳彦: 隼人,熊襲,肥人,土蜘蛛,蝦夷〜日本の原住民たち

佐治芳彦: 隼人,熊襲,肥人,土蜘蛛,蝦夷〜日本の原住民たち
■隼人
隼人は山幸海幸神話(幸易説話)に出てくる海幸ことホノスセリノミコトを祖とすると記録されている。だから本来ならば天津神系ということになる。それにもかかわらず九州の異族として次に述べる熊襲と並んで古代朝廷に反抗した九州のチャンピオンとされているものだからいささか奇妙である。ということは山幸(ホオリノミコト=ヒコホホデミ)に海幸が破れて 服属することになったことと,紀記編纂の時点で隼人がすでに大和朝廷に服属していたことをこの伝承に結びつけた理由であろう。あるいはホスセリはホオリ(天孫系)と九州で張り合って敗れた先住民の首長であったとも考えられる。むしろ後者のケースの方がより現実であるかもしれない。。
さて「隼人」の名称であるが,本居宣長は「早人(ハヤト)」つまり勇猛果敢で行動が敏速な民族であったことからのネーミングであると『古事記伝』で説いている。
また喜田貞吉博士は「隼人」の「ハヤト」を地名と考えた 。すなわち中国の史書『新唐書』に
「ソレ東海ニ邪古(ヤコ),波邪(ハヤ),多泥(タネ)の三小王アリ」
という一節から邪古(ヤコ)は夜句(ヤク),つまり屋久島,多泥(タネ)は種子島,そして波邪(ハヤ)もやはり屋久島と種子島の近くの地名であると考えた。その波邪(ハヤ)島に住む人,つまり「波邪人」がつまって「隼人」と呼ばれるようになったというわけである。
■熊襲
現在の私たちにはよく知っているいわゆる「異族」は「熊襲」と「隼人」であろう。
この熊襲であるが,これは隼人と同一とみなす考えもある。また『魏志倭人伝』で言う倭人の子孫であるとした学者もいた。本居宣長は「熊」を勇猛の意味に,「襲」を「おぞましい」が詰まった「オゾ」がつまった語でやはり勇猛の意味と理解して,日向の南半から大隈,薩摩にかけて住んでいた勇猛な部族であるとした。
また明治に入るとクマ族とソ族を合わせた名称という見解が出てきた。つまり
クマ族=クマ人=隈人=僻地の住民
ソ族=ソ人=背人=山の陰の住民
で前者は熊本県の球磨郡,後者は鹿児島県の曽於郡にその名をとどめているが,その両者をあわせて球磨郡になったという説である。
また「熊」は「コマ」で「高麗」,「襲」は「シ」で「新羅」であって,つまり朝鮮半島から渡来した新羅人であるという説もあった。確かに紀記では熊襲が新羅と共謀して叛いたという記録もある。そのため神功皇后は熊襲を討つ前にその背後の新羅を征伐している。しかしこの見解は日韓同祖論者の金沢庄三郎のものであるだけにいささか朝鮮傾倒の観がないでもない。
■肥人
鎌倉時代に成立して日本に現存する最古の図書目録とされる『本朝書籍目録』に「肥人書五巻」と記されている。
肥人とは古代に西九州の海岸地帯で漁業生活を営んでいた人々とされるが,これは 記紀には載っておらず万葉集に出てくる。
肥人の額髪結へる染木綿の
沁みにし心われ忘れめや
したがって肥人の実在したことだけははっきりしているが,詳細は万葉集のこの歌から伺える若干の風俗以外は不明である。ただこの肥人が古史古伝で注目されたのは肥人書が 神代文字で書かれていたという平田篤胤の説からである。
ただ平田への批判者である大伴信友は肝心の肥人書の実物がない,証拠がないのだからと軽くいなした。一方近代に入って早稲田大学の教授であった西村真二が『日本文化史概論』でこの肥人書について中国西南部の苗部族の書でないかはないかとしていた。ということはこの肥人はあくまでもコマビト(高麗人)ではなくて照葉樹林文化複合をもってインドシナ半島か中国南部から渡来した人である可能性が大きいことを意味している。
実際 『万葉集』の歌を読めば,額の髪に草木染めか何かの木綿の布をアクセサリーとして巻いていたという可憐な若い女性のイメージは,安南とかカンボジアの苗族系のエキゾチックな風俗を思い起こさせるものである。
この肥人が紀記にその名前をとどめなかったのは,おそらく彼らが例えば 熊襲,隼人,蝦夷などと違って,権力に抵抗したり反逆したりしないで平和な温和な人々であったからであろう。
■土蜘蛛
紀記から伺われる日本列島の先住民として熊襲,蝦夷と別に「土蜘蛛」が重要である。神武天皇東征の際も抵抗感して「誅」されたし,
景行天皇は九州中部(豊後)の「土蜘蛛」をやはり「誅」したとある。神功皇后も九州中部(筑後山門県)の土蜘蛛の首領である田油津媛を「誅」したという。
紀記以外にも『日向風土記』には天孫降臨の際に大柑,小柑という二人の「土蜘蛛」が出てきて悪天候に悩まされていたニニギノミコトに助言した旨を記録されている。『日向風土記』以外にも豊後,備前,摂津,常陸,陸奥,さらに越後の風土記にも土蜘蛛の記録がある。つまり土蜘蛛と称された先住民は九州〜近畿〜東国にわたって広く分布していたわけである。
その土蜘蛛と称された民族は,紀の神武天皇の条によれば,外観は身長が低くて足が長く,小人に分類される人間であったという。また『日本書紀』の現存最古の注釈書である『釈日本紀』によれば彼らは穴居住居に生活をしていたためにこの名称が生じたとある。
性格は一般に温順であって,天孫降臨の一行が悪天候で困っていた時に助けたし,また神功皇后の三韓征伐の際に遭難した軍船を救助したりしたように ,外来者に対しても親切である。したがって彼らが反抗したいというのはよっぽどのことだったに違いない。
■毛人
中国の史書『宋国倭国伝』に倭王武(雄略天皇と比定されている)の順帝への上表文が載っている。その中に
「東ニ毛人五十五国を制ス」
という一文がある。この「毛人」は紀記成立の年代では「エミシ」と呼ばれていることから「蝦夷」と同じではないかと考えられてきた。しかしこの上表文には
「渡リテ海ノ北九十五国ヲ平グ」
という文がある。これは朝鮮半島の国を征服したと理解されてきた。それに対して水野祐氏は
「海ヲ渡リテ北ニ九十五国ヲ平グ」
と読んでこの95国を日本列島の太平洋沿岸の北部,東北地方の太平洋沿岸を征服したと解すべきではないかと考えている。そしてこれが日高見国であって蝦夷の国であるから毛人とは別であると推定される。
「毛人」という名前からまず「毛深い人」というイメージが出てくる。ここから毛人=アイヌという線が考えられたのだろうが,多毛=アイヌ人というのは論理に若干飛躍がありそうだ。しかも「毛人」と「蝦夷」が武の上表文の文脈からして別々の存在であるのだから「毛人」は「蝦夷(日高見)」ではなく,しかも中央=畿内からみて北の地域の先住民が「毛人」ということになる。とすれば古来「毛野国」と呼ばれた関東地方北部の地域,さらに言えば毛野国に加えて関東地方の太平洋に面した地域に住んでいた人々が「毛人」ということになるだろう。ちなみに朝鮮の人々に比べれば日本列島の先住民族系の人々は概して毛深いが,中でも特に毛深い人々が「毛人」と呼ばれたのかもしれない。しかし人種的にはどのような人々か?その点について水野氏は
「アイヌ人であったかどうか甚だ疑問とされ,毛人が全てアイヌ人 だったと断定する勇気を私は持っていない」
と述べている。
■蝦夷
蝦夷こそ隼人,熊襲,毛人などが抵抗を辞めた後も依然畿内朝廷に抵抗を続けていた先住民族のチャンピオンと言えるだろう。
この蝦夷の「蝦夷」の名前が最初に出てきたのは『日本書紀』の『景行天皇紀』である。すなわち景行27年2月の武内宿禰の言葉である。
「東ノ夷(ヒナ)ノ中ニ日高見国アリ。ソノ国ノ人男女並ビニ髪結ケ身ヲ文ケテ為人勇ミ怖シ。是レ総ベテ蝦夷ト曰フ。土地肥沃ヘテ広シ。撃ッテ取リツベシ」
この言葉は景行25年7月,天皇の命を受けて北陸と東方の諸国を偵察して27年3月に帰還した武内宿禰の報告である。終わりの「土地肥沃ヘテ広シ。撃ッテ取リツベシ」がスゴイ。これは美辞麗句の底にある本音をずばり表現したものである。しかし景行天皇は慎重であった。彼が 蝦夷征伐に踏み切るのは熊襲征伐が一段落して12年後,景行40年7月であった。
ー佐治芳彦,日本国成立の謎,

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2020年01月02日

瀬川拓男: 私の民話論〜アイヌ古代民話, 日本の原始民主共和制を支えた言霊信仰

瀬川拓男: 私の民話論〜アイヌ古代民話, 日本の原始民主共和制を支えた言霊信仰
私の民話論
瀬川拓男, 1981
中国大陸に並行して弓状に存在する日本。火山列島日本には暖流と寒流がめぐり流れているために,四季折々の微妙な季節変化によって優れた景観と季節の魚菜に恵まれている。日本は自然の恩恵豊かな「母なる地」であるが,その反面,台風・洪水・地震といった自然の猛威にさらされている。
欧米文化は自然に抵抗することによって生まれたが,日本文化は自然に随順であることによって生まれた。
■地域社会を規正した民話
古代日本人は地域生活において生じた善悪・吉凶の全てを神々の倫理に,あるいは適い,あるいは適わぬことをした結果であると信じていた。神々の論理とは一体何かと言うと,それは
天ツ罪
国ツ罪
であると考えていた。
農村の共同生活を破壊することは,神々の倫理に反するという思想であった。
田の畦を壊したり,田の溝を壊して水を通さなくしたり,田に水を入れる樋を壊したりするのは当然天ツ罪を犯したことになった。その他,他人の田へ棒を立てて自分の占有を主張したり,生きたまま馬の皮を剥いだり,糞のような汚いものを撒き散らしたりするのも犯罪としていた。予測できない自然の猛威が突然前触れもなく農村を襲うのは,この罪を犯した者が同一地域内にいるために神々の祟りを受けたと考えた。
天上界におけるスサノオ神話のように,どの地域でも因果応報の物語が生まれ,語り部たちによって語り継がれていくうちに歴史意識が生じてきて,大叙事詩となっていった。そうした物語は古代ばかりではなく中世でも近世でも農村社会には生まれやすく,今でも語り継がれて地域社会の生活秩序を規正させてきた。
■夜明けの叙事詩ー神話的叙事詩
太古,天地は混沌と溶け合って,無限に広がる泥海にギラギラと漂うものがあった。何万年とすぎて,立ち上る陽気は空になって,濁るものは岩や石になった。
岩や石は日に日に大きくなって泥海に黒く光る頭角を現した。空に昇った陽気は炎と燃えて 巨大な火の玉 になって,そこに太陽の女神が誕生した。七色に輝く光は天空に満ちて,暗い地上をバラ色に染めた。
古事記編纂のはるか昔。日本列島に割拠する各部族は,「夜明けの叙事詩」を競って詠んだ。
北海道で漁業に従事する部族は,この地上が巨大な魚「アメマス」の上に作られたとして大地と地震の因果関係を理解した。鳥の霊魂を唯一と信じる部族は,この世の始まりが神の鳥によるものと説いた。湿地帯を切り開いた種族は,泥と植物からできた人間の創造と,恐るべき悪魔の誕生を想像したのであった。
狩猟と採集の採取の時代が何十世紀も続いて,トーテミズムを基盤とする動物民話のうちで,動物の霊力による天地創造神話が準備された。それに続いて初期的栽培段階から複雑な農耕時代へ進むにつれて,
太陽



樹木
穀物の種子
などに対する関心が高まって,ここにも神の雷の誕生を見ることになった。今や万物に霊は宿り,草木石までまでが物言う時代になって,天地創生神話も次第に複雑になった。
神話的叙事詩の発達は生産関係の進化とも対応していた。古代国家成立までの長い陣痛の時期,生産力の著しい発展によって人間相互の共同共産体制に加えて,分業化もまた進んで,その結果部族連合の波状的な拡大をもたらした。言語の発達に合わせて神話的叙事詩も長編詩化の傾向をたどり始めた。
古代国家誕生前夜,「夜明けの叙事詩」が翼を得て羽ばたく時に,原始時代の後の黄金文化は花開いた。その時期を特徴づけるものは雄大な長編叙事詩の成立である。革命的民主文芸の到来であった。
アイヌの神話的叙事詩に象徴されるサケ(繰り返しの節)には「夜明けの時代」の溢れるばかりの希望が込められて,その美しい旋律から人間の歓喜が光の躍動になって伝わってくる。
シロカニペ ランラン ピシカン
シロカニペ ランラン ピシカン
銀の滴 降れ降れ まわりに
金の滴 降れ降れ まわりに
トーヌペ カント カント
トーヌペ カント カント
乳房の光 きらめき きらめき
乳房の光 きらめき きらめき
ユーカラ棒を叩いて,天に向かって地に向かって歌い踊る神々の宴会は,大地に根を張って生き始めた人間たちの凱歌でもあった。豊饒の秋。余剰生産物を手にした彼らは,爆発的な熱狂に身をまかせ,歌い踊って革命的なロマンティシズムを謳歌した。
この時期に天地創生神話について大地開拓神話が叙事詩の主流を形成する。人間の代行者である神の英雄的業績によって,悪霊は駆逐されて原野は開かれる。開拓精神に満ち溢れた物語には,男神と女神のロマンスがつきまとって,男女の対の幻想によって大地の豊饒が約束されるのである。古事記に収録されたスサノオのオロチ退治とクシナダ姫との婚姻物語はその典型であろう。「雷神と女神」「日の女神を救う」「赤神と黒神と十和田の女神」などの民話にもそうした古い時期の叙事詩的残像を認めることができる。
■言霊と民主主義
いうまでもなく「夜明けの叙事詩」には特定の詩人によって創造されたものではなくて,多くは演劇性を伴った原始的儀礼のうちに組み込まれていた。当時の神話的叙事詩には部族の運命を左右するほどの言霊の力が宿っていた。アイヌ民族にしばしば登場する「神々のチャランケ(談判)」には偉大な言霊の力が象徴されている。
ここで強調したいのは,草木ものいう時代に成立した言霊信仰が原始民主主義の思想的支柱になったばかりか,雄大な神話的叙事詩を産む創造的原動力になった点についてである。華麗な響きとともにたくましい力を獲得した祝詞の謎は,言霊信仰との関係ではじめて解くことができる。
アイヌの神話的叙事詩「エゾイタチの女神」は原始的共和制社会の生の姿を鮮やかに映してくれる。
人間の国が大飢饉に見舞われた時に低い空を治めるエゾイタチの女神のもとへ,ミソサザイやミヤマカケスの若い神,カラスの老神,トガリネズミの小さい神,あらゆる動物の神が集まった。人間の国はどうして救うか?どうすれば飢饉を終わらせることができるのか?晩餐の席で神々がありあれこれと討論したが,こともあろうに水辺に住む渡り鳥のシギ神を招くのを忘れていた。重大な討議の時に一人の神でも欠席とあっては大変である。トガリネズミの神は慌てて表へと駆け出した。草の下を転がるように走って,ようやくシギ神のもとへたどり着いた。さてシギ神の参加によって会議は再開した。
本題に入って,エゾイタチの神が,シカの神・サケの神に向かって,山にはシカを出し,川にサケを出すように依頼すると,シカの神とサケの神は堂々と反対論を述べる。この頃の人間はやたらにシカを殺してサケを殺して乱獲も目に余るものがある。これでは自然の富もかりつくすに違いない。何としても人間どもに反省を求めねばならぬ。そこでエゾイタチの女神は人間たちの夢に現れて,生き物を殺す作法・ 魚を殺す作法を教えて乱獲を厳しく戒めた。結果,再び国土は蘇って,山にも川にもいいものが溢れ,神も人も共に幸福な日を過ごすことができたという。。。
非常に親和的叙事詩を目の当たりにすると,皮肉にも現代人が風刺されているかのように見える。公害の空の下にあえぐ人々が国会に嘆願しようと,公害垂れ流しの会社に迫ろうと,エゾイタチの女神ほどのものは見当たらず事態の解決は容易ではない。議会民主主義を唱える国会の場所でも多数党の言論の暴力で少数意見は抹殺されて,野党欠席のまま決議がなされる。シギ神を招くのにキリキリ歯を食いしばって駆け回るトガリネズミ神の努力などどこ吹く風だ。民主主義の世の中に民主主義は空洞化する。
原始共和制を支えたのは他ならぬ言霊信仰による「ことば」への恐れと崇拝であった。生命尊重というほどの重い意味を込めて「ことば」の一つ一つに深く耳を傾けて「ことば」の背後に根ざす魂のありようが求められた時代である。したがって一人の発言意見に対しても,例えばシギ神の参加を求めて討議するといった形で言葉の尊重が徹底化されていたのであった。
原始民主主義はいわば徹底民主主義というものであった。こうしたモラルは実は長い伝統の上に定着したのであった。それは単に人間と人間の横の連帯を意味するだけではない。古くは動物との血縁によって,更には自然との共存元素によって,動物・自然・人間の総力を挙げてこの大いなる世界に挑んで,より良い社会を築こうとした結果,相互連帯意識は進化したのであった。現代人に定着した孤立化された自我ではなく,動物・自然・人間を包み込む巨大な共同体的自我がおそらく当時の民衆の心を揺さぶり続けたのであろう。この大いなる自我が確立する上で言霊の力が大きな役割を果たしたのは事実であった。
連帯意識の前提になるのは,何よりも対象を具体的に把握する認識力であって,その認識によって状況を変革する実践的な力を養成することであった。
エゾイタチの神が優れていたのは,対象認識の深さの上に民主的討論においても卓越した言葉の技術を持って言霊の力を制御して駆使した点にあった。そこで初めてシカの神・サケの神も真実を告白し,飢饉の要因そのものが明らかになって,それを克服する手立ても発見されたのであった。
言霊の計り知れない力を宿す者。それを自在にこなす者。すなわち雄弁なる者は当時にあっては徹底的な民主主義者であって,状況変革への革命的な資源を身につけたものであった。
数千年の昔にさかのぼる神話的がなお現代人の心に鋭く迫って詩情豊かに胸を打つのは偶然ではない。言霊の力が満ち溢れる時に詩章もまた簡潔な表現のうちに重い意味を伝えて,単純な旋律の繰り返しのうちにも様々な心理的欲求や行動への力強い意志を響かせることができた。
饒舌に馴らされた現代人は色あせた言葉の羅列や乱用によって,言霊の力は「罰」としての苦悩を人間に与えた。今では民主主義という「ことば」はあってもそれを守る思想やモラルが衰退して,マスコミ的饒舌の日常の中で人々は分裂した言葉の洪水に押し流されていく。
ー日本の民話,角川文庫,瀬川拓男/松谷みよ子,

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2019年3月15日
アイヌは何故文字を持たなかったのか
縄文人は文字を持ちませんでした。 現在も残存するアイヌも文字を持たない民族です。
アイヌ語で「神」のことを「カムイ」と言います。 アイヌの人々は、自分たちに生きる糧や恵みをもたらし、時に恐ろしい災いをもたらす大自然を神として万物への祈りを捧げ、祭礼を行ってきました。 また、文字を持たないアイヌは、神話や伝説などを口伝えで受け継いできました。 代表的なアイヌの口承文芸として「ユカラ」が知られています。
アイヌの人々が使うアイヌ語は、子音の数が極端に少ないなど、日本語とはまったく異なる言語です。 しかし、「ニセコ(切り立った崖)」や「知床(地の果て)」など、北海道の地名にはアイヌ語が元になったものが多く、「トナカイ」「ラッコ」「シシャモ」などもアイヌ語です。 現在、アイヌ語を母語として話すことのできる人はわずか数人とされ、ユネスコによって「極めて深刻」な消滅の危機にある言語と認定されています。
では、アイヌとはどういう民族なのか?何故アイヌは文字を持たなかったのか?
追求してみたいと想います。
何故アイヌは文字を持たなかったのでしょうか。 それは、持つ必要が無かったからだと推測できます。
以下興味深い記事がありましたので紹介します。
アイヌはなぜ国家を作らなかったかの話 
http://shidoyuuichi.hatenablog.com/entry/2016/02/01/004708
文字を必要とする民族は、管理することを目的として始めます。 簡単に言えば、税金の取り立て記録や、人員への命令の記録や、支配の正当性の記録や、貢ぎ物の記録がなければ口頭だけでは確実ではないからです。特に、命令が、伝達ゲームでは管理できません。 支配者一人の言葉は、同等に被支配者に伝わらなければ間違いや誤解によって違う結果とならないようにするために共通の合図が複雑化する中で、文字として発達していくのです。逆に言うと、管理社会でない民族には文字は必要性はないのです。ですから、文字を持たない民族や文化が劣っていて、文字を持つ文化が優秀なのではありません。統一国家のような集団を集合させるような構造を持たない民族には文字は必要ではありませんでした。
アイヌには、文字はありません。では、食料の生産能力かと言えば、それも一概に言えません。例えば、沖縄は、稲作が出来ても、大きな国家を作ることをしませんでしたし、武力も大きくなく、薩摩に征服されてしまいます。縄文後期に稲作を初めて止めてしまった縄文人もいます。稲作という視点で見る場合には、人工の増加と言うことは重要です。アイヌ民族は、どうやら3万人程度で推移したようで、人口の大きな増加はなかったようです。ですから、国家も作らなかっただけでなく、武闘集団を作るには人工的に困難でした。
では、なぜ大和は国家を必要としたかというと人口に対して貧しかったからと言えます。つまり、生活的に困らなければ、民族は国家を必要とせず、独自の生活を維持します。困窮する民族は、略奪を求めて強い武闘集団を形成するために国家が必要です。
アイヌの生活が貧しかったというのは間違いで、物が豊富で有ると言うことと生活が豊かであると言う事は一致しません。何故なら、アイヌ民族は、他の民族から孤立していたのではありません。接していながら、見習いたいと思わなかったのです。憧れなかったのです。
大和朝廷は、遣隋使も遣唐使も使って、中国に憧れ、中国の文字を真似、律令制度を真似ることに最大の力を尽くしました。貧しい地域ほど武闘は強かったのです。確かではありませんが古事記で言えば、九州の阿蘇山の噴火で、九州の北部・中部は痩せた土地で大変だったので豊かな土地を求めて征服の旅に出て、ついにたどり着いたのが大和朝廷の前身と言う事と読めます。征服することによって、貢ぎ物を頂く。それが国の豊かさだったのです。朝貢という貢ぎ物を古代の国家は中国にしています。同様に、国内では同じ方式で、国家は地域から貢ぎ物をさせることで成立していました。
都会に憧れる人も、憧れない人もいます。必ずしもものの豊かさが、憧れとはなりません。ものの豊かさに憧れなかったアイヌは、国家も作らず、文字も必要としませんでした。

縄文と古代文化
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3437.html?g=131202f













Kaimotu_Hatuji: アイヌ民話とカナダ古代民話の烏・八咫烏
2019-09-02
神話と導きのトリックスター ワタリガラス・ヤタガラス 雑考
 ヤタカラス ワタリガラス 古代史 アイヌ史考察
ファースト・ネーション(カナダ先住民)神話のRaven(ワタリガラス)
ワタリガラス(Raven)はトーテムポールで羽根をひろげる「海を渡る」カラスだ。先住民の神話では、世界に光をもたらした創造主、最も重要な文化的なヒーロー、何事をも可能にする、いたずら好きで、ずる賢さも兼ね備えた手品師のような存在として位置づけられている。マジックを使い天地創造に関係したと云われており、太陽・月・星を空へ、魚を海に、鮭を川へ、食べ物を陸へ導いたとされる(Haida族伝承)
■アイヌ伝説のカラス
アイヌ民族は、北海道、サハリン(樺太)、クリル(千島)に広がって生活していた。
カラスにまつわる言い伝えは多数あり、神の名(カムイ)のついた「カララクカムイ」、年老いた賢者のカラス「オンネパシクル」、人を化かす妖怪的な「ペンタチコロオヤシ」などのバージョンがある。いずれにしても、道に迷った人間が遭遇するというシチュエーションで、正しく導くか(正)、誤った方向に導くか(邪)の存在だ。
アイヌ学者の知里真志保(アイヌ民譚集)は「オンネパシクル」(賢者のカラス)をワタリガラスとした。
■千島列島を渡るワタリガラス
北千島(クリル)〜カムチャツカ半島で繁殖するワタリガラスのグループは、今でも、知床半島にわたり、襟裳岬まで生息する。70センチの大型で目立ち「カポ〜カポ〜」という独特の啼き声は、アイヌや先祖の縄文の人々が島伝いに海をわたるのに、たよりになる「先導者」だったことだろう。
クリルの先にカムチャツカ半島、その先にアリューシャン列島、さらにその先にはアラスカ、北米大陸。オレゴン州では縄文とよく似た遺跡が多数発掘されている。
■知床のワタリガラスとカナダのRavenのつながり(海の道)が、科学的に明らかになる日が来ることを楽しみに妄想している。
旧約聖書の「ノアの方舟」で大洪水をおこした大雨が終わった後、ノアがワタリガラスを放ち、陸地を探した。北欧の神話ではオーディンの先駆け、フギンとムニンの2羽のワタリガラスがよく知られている。世界共通で、目的地を知らせ、「導く者」としてのイメージ。日本神話にも導きの「ヤタカラス、八咫烏」がいる。
トリックスター (trickster)
象徴心理学の草分け・ユングが提唱した「ストーリーの展開を変える者、物語を導く者」
静かな水面に石を投げるがごとく、安定を崩し、新たなストーリーを展開させる。スサノオがそうであるし、中国では孫悟空、欧米ではピーターパンが有名どころ。ネズミ男もそんな感じ。話の筋道を変えるキーパーソンであるがゆえに「善と悪」「創造と破壊」「賢さと愚かさ」「誠実と気まま」・・・二面性が特徴でたいていイタズラ好き(最後は許されるキャラ)。ファースト・ネーションズのワタリガラスはトリックスターそのものだ。
■ヤタカラス神話
熊野本宮大社では「ヤタガラス」はスサノオのお仕えとされる。下鴨社・上賀茂社では「ヤタカラス」は太陽と云われた賀茂建角身命(かもつぬみのみこと)であると伝承されている。繋いでみるとトリックスター(スサノオ)が送り出したトリックスター(ヤタカラス)が「神武東征」神話を展開させる。
頭が混乱するが「ダブル・トリックスター・キャスト」で展開するストーリーが意味するものは何だろうか?とにかく、日本の神話や古代史にも鳥がよく登場する。
開物発事 (id:Kaimotu_Hatuji) 95日前

 ものづくりとことだまの国
https://www.zero-position.com/entry/2019/09/02/050603
 





縄文海人集団の超人的なパワーとハンパない渡海能力
古代史 アイヌ史考察 youtube 縄文スタイル
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ワタリガラスは海を島伝いにわたるカラスで、Ravenとしてアラスカ原住民族の神(トリックスター)だ。
はるか古代、縄文海人はワタリガラス・Ravenの導きで「北の海の道」
北海道−千島列島−アリューシャン列島−アラスカー北米(アメリカ)大陸
を移動(場合によっては往来)していたと考えても、まったく不思議ではない。なぜなら、彼らの行き先を妨げるものは、大自然(海原)のほかに何もないからだ。
■北海道と北米大陸 海の道
縄文海人のパワーは、現代人基準で超人的
先日(2019年10月24日)の記事で「超人的な」とあえて書いたが、国立科学博物館・海部陽介さんの研究(日本一マッチョな縄文人集団)がそれを証明していると思う。ここは開物の考えだが、縄文海人の骨格の太さ(容積比)を、例えば現代人の約1.1倍と考えると、そのパワーは1.1倍以上になる。なぜなら、それだけの上腕骨格と筋量があるということは、対応して、背筋・大臀筋(おしりのきんにく)・股関節周辺の筋量も多く、骨格もしっかりしていたはずだ。結果としての「総合的なパワー出力」は現代人とは比べ物にならないレベルにあったのは間違いないだろう。
日本一マッチョな縄文人集団より
readyfor.jp
プラス、豊富な航海の技量と海の知識
このような基礎体力にプラスして、季節ごと・時間ごとの潮の流れを読み、また沿岸や島の地形を読み、海を渡り超える。海に命を懸けるプロフェッショナル集団、古代には彼らの行き先を妨げるものはなかった、つまり、無敵の自由移動集団といってもよかっただろう。そして日本海に関していえば、縄文海人(とその伝統集団)でなければ海域の長い移動は困難。たとえば渡来系の人々にとって、列島への道行きは海人たちの協力がなければ「一方通行」ということ。
海人の日本海周辺への拡がりという視点での「渡来民族」の考察があってもいいんじゃないかと考えている。海を渡った縄文人・ケルプハイウェー、ワタリガラス、フォートロックサンダル(Youtube)
最近、北米・アイダホ州で縄文に似た遺跡(石器)が発見されて話題になっていた。あらためて情報を整理している。ところでアイダホ州の西隣が「海の道」にあたるオレゴン州。同州でも、すでに縄文の可能性がある遺跡が、複数、発見されている。これらの遺跡の時代(約一万年前)は今よりも温暖であったことが前提だ(縄文海進期)
ご存知の方も多いと思うが、2年前、佐々木蔵之介さん出演の面白い番組があったのでリンク(42分)
*生物大絶滅と縄文人の謎(BS-TBSより)
www.youtube.com
開物発事 (id:Kaimotu_Hatuji) 40日前

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YouTube
https://youtu.be/lJCLD7g7OvM


posted by datasea at 17:35| Comment(0) | ◉ アイヌ他先住民 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする