生田淳一郎: 日本語とネパール語
紋次郎・ほっつきある記
主筆 生田淳一郎
ネパール語にご注目
いまから26年前、小生はアイヌ語々彙のなかに100前後のゲルマン語が含まれていることを発見し、『アイヌ語の謎』という、それはそれはオソマツきわまる本を出しました。
現皇太子がマチャプチャリ山にご登山遊ばされたときですから、今から何年まえのことになりましょうか。そのときNHKがその山容を出しながら「マチャプチャリとは魚のシッポというネパール語だそうです」と放映したのでした。これを聴いた小生は電撃ショックをうけました。アイヌ語そっくりなんです。その後の分析では、これはそのままでの語形では間違いだとなったのですが、語彙を構成している o や chopchop などは生きています。今から8年前まではその驚きを胸に秘めたまま、忍々でしたが、脊髄腫瘍をわずらったを機に本格的に取り組みました。
その結果は、日本語とネパール語間には1000余のペア類似語が、アイヌ語とネパール語の間には420のペア類似語があることが判り、小生はこれを『衝撃のネパール語』(三一書房)で発表しました。しかし、出版の直後に同社に内訌があって、小生が掴んだこの成華は世に知られないまま 1年9ヶ月が経ちました。
大野晋教授のことはご存知と思いますが、タミル語とのあいだに掲げられた類似語は350ペアです。アイヌ語についての類似語の言及はありません。言語……といえば、諸般現象のひとつと看做され易いのですが、言語は氏族〜民族のアイデンティティーの核です。言語さえ同じなら風俗習慣も遺伝形質もしだいに同じものとなります。それは沖縄やアイヌの消長が証明していることかと思います。これを逆に辿れば、この日本列島には日本語が形成される前までは、約200の言語集団があって、それぞれことばが通じ合えない関係にあった……も浮上してきましょう。
旧いことばを追求するということは、いろんな重要側面を露呈させます。三宅様へとくにお訴えしたいことも数項目におよびましょうが、とりわけ、仏教流入以前のこの日本列島に支配的だった生命観のことでしょうか。
とりわけ……とりわけ
太陽や星月に発する「イノチ子」が光のかたちをとって天から降ってくる。それをまっすぐ(* kitt)な「柱(脊髄)」をヨリシロとして受けとめ集中させ、これを大地である mat(女)へ、まん中の柱を通してカミナリして子供を生み継ぐ……。大衆心理は数千年スパンで長生きします。個人は結節点にすぎない……が基本。これがアツモノ・ナチス以後、完全にデングリ返った。「おめこ」と聞いただけで顔を赤らめるようになりましたが、われらの先祖はここを「気高さ」のもとで受け止めていました。 ここを抑えないでの宗教をめぐってのことばは成立しない。これ火をみるより明ら かなことでしょう。
紋次郎ほっつきある記
http://www.kamnavi.net/you-i/htk0702.htmlユー・アイ
http://www.you-i.org/ えびすとなまはげ
この二つ、みょうな取り合わせだとお思いだろうか。じつは海の向こうから幸せを運んでやってくる神や人という意味で共通している。本稿ではこの二つを語源とともにその意味を解明したい。
その前に、日本という国が固まるまでの言語分布状況を掴んでおく必要があろう。もちろん、細部はわからないが、この日本列島には満州語に近い言語、ウイルタ・ツングース語系に近い言語、台湾諸語を写したもの……等々が雑多に割拠していたと看てよい。その分布状況は、ニューギニアの、あるいはフィリピンのように、雑多な言語集団 がモザイク状に混在しているのだった。その混在を広域言語にしたものは、当時としては高い文化の持ち主のレプチャ語系の言語で、その次に現れて、ほとんど日本列島を席巻し、縄文を弥生にしたものが、金属製錬文化をもったネパール語系の言語集団だった。ここに関しての説明も多伎にわたるので、詳しくは www.you-i.org でご確認いただきたい。
海洋学者・茂在寅男氏の研究によれば、海浮遊物はうしお(潮)の作用で、必ず浜辺へ打ち上げられることになっているという。氷河期の度に日本列島の人口は激減したことが窺われる。氷河期が終わり、温暖な季節がやってくると、ごく少数の生き残り北方系住民も人口を増やしただろうが、氷河期にベトナム周辺にいた海・湖に馴染んだ住民が、圧倒的多数派となって、この日本列島の沿岸に割拠した。海辺には遠くの島のものが打ち上げられる。しかも、少い人口の当時の人々にとっては、海の彼方にある世界は胸を焦がすように、慕わしいものだった。そして、浮遊物だけではなく、海の彼方からは高い文化を持った人々がおとずれて来た。この海の彼方への憧れは「エビス信仰」となって結実する。
「えびす」の「エ」は世界語の *je (格上の・マスター・指導者)で、レプチャ語では je , ネパール語で jae(万歳)、オセアニア各地では e (格うえの)となって露出している。
「えびす」の「bi」は「みやび」の bi で、意味は「○○風の」。
「す」は衆である。この「衆」は si(人)や tw(人)を意味するネパール語系言語である。
tw は,沖縄で、ウチナンチュ−・ヤマトンチュ−、アイヌで「エンチュ−」というのがそれ。ネパール語には bektitw(個人)などの語彙に残っている。で、「えびす」は「高貴・流社会のひと」となろう。一方、エビスは「えべす」とも音転して大阪では商売の神様となっている。しかし、「夷狄」のように「夷」の文字を「エビス」と讀ませて蔑視をこめる用法がみられる。これは、チベット語 byes(other country) が関与して「よそびと」という意味が強調されたことによるものである(建林賢司氏より教わる)。
えびす信仰は西南日本の沿岸に広い。しかし、越前以北では、ある時間で切ってみると文化圏に釈然としたちがいがあったのだろう。「えびす」の影は失せて「アマミハギ」の語が“海へのあこがれ圏”となる。アマミハギの「アマミ」は「奄美」につながるところから、いちおう「海の神」だとの解釈が当をえる。だが、このアマは基本的には「目には見えない」という a-ma(反・非・不・否 + 目)であった。多くの悪魔とは、人間にとっていいもの goods を天上世界から盗みだして、ストーンと地上に落っこちた(天上界から追放された)英雄でもあった。そういう力に満ちた存在者を渇望したのがアマミハギの中核概念だった。
「アマミハギ」の「ハギ」には二通りの解釈が出る。一つは朝鮮語を援用させての ha(大) ki(土地神)。朝鮮語の第二子音は濁音化するという法則があるので、この解釈も捨てがたい。もう一つが、ネパール語の bhage(幸運) i(神)。但し、重要なことは、同ネパール語の bhag には「分けること」という意味がある。すると「アマミハギ」とは
1 いいもの持ってくる大神
2 いいもの持ってくる幸運の神
の二つの解釈を許すが、この二つはどっちでもいいように、矛盾してはいない。
さて、「ナマハギ」……。ものごとは極端に考えるとわかりが早い。一つの氏族語は、金属製錬の文化の風が吹きつける前までは、2500語彙もあれば生活には不便を感じなかった。現在ではコンピュ−タ−用語だけでも2万語もあって、この少なさは信じられないかもしれないが、ほんとうのことである。その、少ない語彙群にあって、昔日……約2500年前の語彙を「能登」と「男鹿」で全部さらけだして、類似語彙を次から次に突き合わせて捨てていったとき、アマミハギとナマハゲは、最後まで残る対(ペア)の語彙であったに違いないのだ。
ここで、絶対の近似を呼ぶ統語(いいまわし)のひとつを紹介しよう。ネパール語の“n-”は、強調を表わす接頭辞である。佐賀のタバコ屋さんに行って「タバコください」というと「ない」という返事がかえってくる。「ない」は「ハイ」に強調の N がついたものである。この用法は多い。アマミハギは「ナマミハギ」と音価は同じである。ナマミハギとナマハギのちがいは中央に「ミ」があるかどうかのちがいだった。先にも述べたように i には「神」という意味があった。「ナマミハギ」のなかには神の語が二つも入っていることになる。ここにナマミハギはナマハギの語形へ移る正当性があった。
男鹿に伝わる伝統的なナマハゲの語源解は正統な語彙分析を写している。すなわち、「炉ばたに坐ってばかりいると、ハギ(すね)がホダ火の熱で変質し、血行が渋滞して「アマ身」という紫の斑点ができる。アマミは身体を動かさないなまけ者の象徴である。この「アマ身」を剥ぎとるのが「ナマハゲ」である……と。アイヌ語「ama」は「あぶる(炙る)」という意味である。日本語アイヌ語の混成だが、「アマ身」は「炙った身」になる。ところが、男鹿にあるのは「N・amaーー」であって、ただの「ama」ではない。この N-(ネパール語 ; 強調接頭辞)を介して、さきに述べたネパール語 bhage が復活してくる( アマミハギは「幸運の神」だったのだ)。
ここで、少し発想の視角を変えねばならない。最終的には秋田の城主となった安藤氏は、津軽での内訌の末、南下して男鹿半島に拠っていた。男鹿は三浦半島と同じ性格で、全体が城塞だったのだ。囲炉裏で身をアマして(炙って)じっとしていることは許されないことだった。そこで、従来習慣としてあった「アマミハギ」の語彙の語形をかえて、住民にキアイを入れる行事として「鬼面がなりたて」を併合させた……と考えられる。
「鬼面ガナリ」の正月を迎える行事は、「アマミハギ」とは全くちがった神事(?)だったにちがいない。「鬼面・ガナリたて」はヨーロッパにみられる行事で、これも安藤(andho……めくら、大鳥 <咎め立て)氏が金属製錬技術とともに中東方面から数千年かけて持ってきた文化のひとつであったことだと、見受けられる。最後に残る語彙上の問題点は「ナマハゲ」は、上で述べてきた「ナマハギ」とは末尾でちがっている点である。
ネパール語には強調末尾辞に -ai があって、日本語はこれが -e で終わることが多い。……こう言っておけば説明に十分であろうか。
紋次郎ほっつきある記
http://www.kamnavi.net/you-i/htk0702.htmlユー・アイ
http://www.you-i.org/ 古代名詞・ネパール語解
主筆 生田淳一郎
■はじめに
日本語はどこから来たか、世界のうちどこのことばと類縁が深いのかなどの問題は、朝鮮語、沖縄語、アイヌ語を含めて永いあいだ謎とされてきました。それは日本の言語学者が西洋流の言語解読方法を踏襲してきたからです。とくに「音韻(発音クセ)の対応」にこだわったからでした。その結果は日本語はアジア語、ヒンディー語やネパール語は西洋語とされたために、誰一人として西洋語との語彙比較はやろうともしなかった……という時代が永く続きました。しかし、ようやく昭和28年になって山中襄太先生が現れ、日本語に似ている西洋語の語彙を800も提示されたのでした。 山中襄太先生が信濃で研究発表をされた直後の昭和30年に、安田徳太郎が『万葉集の謎』などで騒ぎをおこし、それに続いて多くの海外生活を体験した旧日本軍人たちが、日本語と類似する多くの語彙をあげつらって 一時はことばを手段としての「日本人の原郷さがし」のブームとなりました。ところが頑迷固陋を絵に描いたような日本の言語学者たちは、学理的な反論ではなく、感情的な罵声で応酬しただけでした。この哀れな学者たちはさいきん提示された大野晋教授の「タミル語起源説」に対しても同様のヤクザまがいの罵声を浴びせることしか、なすすべを知らなかったのでした。
山中襄太先生の研究は校倉書房刊行の『国語辞典』(\10,000.-)に纏められています。ここにはご自分の研究だけではなく、ほかの多くの研究者の成華も盛り込まれています。だが、どうしてかヒンディー語やネパール語との対比はほとんど出てきていません。
いままでの言語学者には「一つの言語は太古々々の大昔(言わせたら5万年前になりましょうか)から、ひと筋の“中核的語彙群と文法・統語”というものがあって、それらが多少の借用はあったにしろ、大筋では不変のものであった」という思い込みに支配されていました。日本語はちょっと首をつっこんでみると、すぐに判ります。シナ長江や逝江省、福建省などにいた船上生活者の蛋民(たんみん)が被支配階級となり、ネパール方面から来たネパール系金属製錬士が支配階級となってできあがった混成言語(社会)だったのでした。このことは、人相のうえでも言えます。日本人は鼻腔の広い南方系と芥川竜之介みたいな長い顔の二種類がある……このことは、とうの昔から指摘されていたではありませんか。ことばの面でもまさにそのとおりだったのです。
ここに紹介する日本語組成を小生が発見したのは1992年のことでしたが、それを類似語の絶対数で示すと次のようになります。
類似言語類似語彙数
0140: 日本語と朝鮮語
0200: 日本語とナシレプチャ語
0200: 日本語とメンパ
0350: 日本語とタミル語
1180: 日本語とネパール語
しかも、これらは 5800語彙が掲載されている『基礎ネパール語事典』という簡便な辞書から抽出したのでした。これらは「ペア」としての数字です。類似を示す日本語・アイヌ語は、数えてはいませんが日本語で3000, アイヌ語で1200は下らないものと推測できます。 しかも、類似を示す語彙が多いというだけではなく、このネパール語によって日本古代に用いられた神、天皇、先祖、制度、人、地名の意味が当時の社会背景を写しながら浮上してくるのです。 それをこれから紹介します。
《 略号 》
K ; ……朝鮮語
p ……パーリ語
SK ; ……サンスクリット語
T ; …… タガログ語(フィリピン)
A ; ……アイヌ語
Tm ; ……タミル語
Rc ; ……レプチャ語
U ;…… 沖縄語(ウチナー)
O ; ……ウイルタ語(オロッコ)
G ; ……ギリヤ−ク語
なにも断わりのないローマ字綴りはネパール語です。
■○○語ということの考え方
ネパール語とヒンディー語は、日本語と沖縄語よりも近く、ほとんど同じ言語です。ただ「○○する」をヒンディー語では -na というのに対し、ネパール語は -nuを用 います。小生が「ネパール語」を強調するのは実にかかってこの点です。パーリ語もヒンディー語・ネパール語に似た語彙が多いのですが、ちがった語彙もあります。
典型的なことをひとつ紹介しますと、ナガスネヒコの「ナガ」とは蛇ではなく、山を意味するパーリ語でした。これらの語彙に導かれて推論すると、彼ら奈良古代王朝は稲作が始ったばかりの時代で、田んぼの水引きに都合がよい都祁・山添地帯を根拠にして初瀬(・ badsaha……王)に王居を構えていたことが知れます。パーリ語は動詞が英語、ドイツ語のように活用したり、末尾音を“a ”に開音し たり、シッダルタさんの教えを唱えるのに都合が良いように変形させられました。後世の仏教経典(お経)はサンスクリット語で書かれましたが、初期の経典はパーリ語で書かれています。サンスクリット語というのは、アフガニスタンから攻め入ってインドの支配階級となったアーリア人のことばを中心に「善い言語」として当時のバラモン・上層階級が造った文語体で、意味は セ・シ・ボンの梵語です。サンスクリット語を日常語として喋った民衆はいませんでした。そのサンスクリット語の母体となったのがパーリ語です。言語分布での太古の様子を言いますと、とにかく……もし、喋られている言語ごとに、その土地に色がつけられていたと仮定すれば、そしてそれらを上空20万mから俯瞰できたとすれば、ヨーロッパは大略ピンク色、インドは茶色系、東南アジアはみどり、シナは黄色、スマトラ〜ニューギニアは白黒ピンク赤などのまだら模様……というように地域ごとに特徴があることが認められるものです。
日本列島に上陸したインド系氏族にはネパール語族だけではなく、そのほかに雑多な種があって、その一つにパーリ語族がいたということです。そして、パーリ語といっても、それは現代人のわれわれが峻別作業をやるような区別ではありません。ひとつの“ 国語 ”には数百の氏族語が混入していて現代を迎えた……そういう関係で成立した各国語で、その一つがパーリ語ですので、ここでは、そのような目(巾)で見なければなりません。そして山間僻地こそ古代の実相を遺している。ネパール語とはそういう言語なので す。大野晋教授の“タミル語”もそのラチ内にあるかのようですが、小生は、日本語に 与えたタミル語の影響は、1世紀に開発された「インド〜シナの航路」での難破船が、 壱岐に漂着したことによるものだと観ています。
■朝鮮語について
あまり知られていないことですが、朝鮮語はシナ語の影響が甚大です。日本語には「やまとことば」がありますね。漢字ことばではない「やまとことば」が日本古来の言葉です。ところが朝鮮語には「やまとことば」に比定される「こまことば」が非常に少ないのです。擬音擬態語(オノマトペア)なら、「やまとことば」とあまりちがわない数が残っていますが“よその言語との対比に耐えるだけの語彙”は1400ぐらいしか残っていないのです。言語手段で以て古代日本を探究しようとするとき、この「こまことば」の数が少ししか遺されていないことが、極めつきの障碍となります。しかし、朝鮮語と日本語は文法・統語が完全に同じです。ちがっているのは発音のクセ(音韻)とそこで用いられている語彙です。朝鮮半島を新羅が統一した時点では、日本語と朝鮮語は多くの類似語彙を見せていたと思うわれるのです。ところが、新羅軍内部で収まりきれない抗争が勃発し、935年に新羅は北の高句麗に政権を禅譲します。シナべったりで官僚志向が強い半島北方の偏執が、大きく日本語との段差を形成し始めるのはこの時点からではないでしょうか。そして日本人には考えられないことでしょうが、文字が発音をシッカリと固定させているはずなのに、現段階でも発音がどんどん変化して行っている姿が顕著にみられます。やはりこれは、異質の発音を内部に取りこんだのちの、一種のアレルギー反応ではないでしょうか。
朝鮮半島は前後800余回もの外患(外敵の荒らし)に遭っていて、古い文献はことごとく焼失しました。それでもなんとか地名や方言などを辿って、古代朝鮮を再現させてみようとする努力が続けられているのが現状です。小生は朝鮮語との徹底的な対決は避けています。いずれ命がけでやらねばならない領域だからです。それゆえ、この一覧表提示にあたっても、朝鮮語への言及は寡少となっています。
■シナ語の進展
正確な年代を提示することはできませんが、たとえば4000年前あたりでのシナ大陸での言語分布を考えてみるとき、小生は今のシナ語は山西省だけの狭い地域で喋られていただろうと思うのです。黄河は黄海から西へまっすぐ入り、次に北へ向かいます。その北に向かう黄河の東の地帯が山西省です。
言語はすべての偏執(文化)の中核です。言語さえ同じなら、永い時間経過のあとでは遺伝形質も習慣も神事も同じになります。国境のカベも溶かします。ですから人相骨格はりっぱな遺跡です。
日本から山西省に行ったひとは「なんと山西省の人々は同じ顔をしていることか!」とびっくりし、山西省から日本に帰ったひとは「なんと日本人はいろんな顔をもっているのか!」とびっくりするのです。
約4000年前には黄海北部一帯に金属製錬技術がはいりました。そこで混成された言語がシナ大陸に蔓延してベトナム語までをもシナ語風に変えさせたのですが、それでもシナ大陸には固有の言語をもち続けている氏族が200あると言われています。この少数氏族は永かった戦乱のなかでも、あまり中央から直接的な介入を受けなかった人々だと見受けられます。……ということは、この広いシナ大陸は、国家統一の気運が出る前は、いまのニューギニアみたいに、雑多な氏族がクセのある固有の言語を喋っていたということでしょう。 このモザイク雑居のなかに、多くのインド系の言語があったわけです。
■照葉樹林帯と和冦
海を恐れるという心情には、根強いものがあります。おそらくその先祖はなんらかのきっかけで漂着したのでしょうが、大多数の沖縄の住民は、魚は海洋民族といわれている糸満系住民から買って食べています。いま、世の中には照葉樹林帯説というのがウケています。常識のある人々には常識になっています。小生が日本語とネパール語がただならぬ関係にあると唱えると、多くの常識人は「ああやっぱり、同じ照葉樹林帯だからなぁ」という反応を示します。ネパールに納豆やミソ、漬け物があるので同じ照葉樹林帯の日本にも、それらの食品があるのは“とうぜんだ”との理解をするのです。しかし、この理解のしかたには論理に飛躍があります。
山また山のなかにいた金属製錬士たちは、海洋民族の手に頼らないかぎり、玄界灘の涛波は越えられないのです。その金属製錬士を、社会・軍律制度をそのまま日本列島に移動させた海洋民族こそ倭蛋民だったのです。
朝鮮には最大四万人規模の倭の海賊が押し寄せて悪逆のかぎりをはたらいています。しかし、日本は和冦(海賊)から襲われた事実は一度もありません。倭の海賊こそこの国を創った立て役者の一派だったのです。
■小法則
*朝鮮語の癖音は第二子音を濁って発音します。古代ではm の濁音は b 、n の濁 音は g 、r の濁音は d , z になる。その後濁音をきらうようになったら、それぞれ h , k , t , s へとかわります。
*倭人語がよその語彙を借用するとき、末尾の r , l, m , t などは切り捨て るクセがあります。また l は t にもなります。もちろんそのまま「ル」「ツ」「ム」になるのもあります。
* シナ語、朝鮮語にみられる拗音は、子音に y を添えて母音を長く発音しています。このとき、末尾母音は u になり易い。chi(紐) / chyuu(紐)
* 語頭の濁音を発音できない倭人、朝鮮の大衆は語頭に「イ」を立てて言い易くしました。その後、上手に発音できるようになったとき、こんどは「イ」を捨てますが、このとき末尾を “ e ”(ネパール語強調末尾辞)終わりにします。 例; dhatu(金属)⇒ i・dhatu(伊達) ⇒ date (だて)
* ネパール語には N- と S- の二つの強調接頭辞と、-ra, -ai の二つの強調末尾 辞があり、強調の助詞語尾辞 として、 -ni , -taが目立ちます。確認の強調 -ga (日本人やったらお茶漬け やろ ga)もみられます。 例 ; ウシ(大人) ⇒ ヌシ( -N の場合)。メラ(有名な)⇒ スメラ(皇……-Sの場合)。
maphi(ネパール語; 許すこと)-ra。
-ai は 日本語では -ai と -e なります。例 ; ……行け、すすめなどすべての日本語命令形。おいばおいるがに(ガと-ni の例)、さぁどいたどいた(-taの例) * 金属製錬士の狂執(竜・雷・柱・鎚・黒・鳥・刀・小人・など)は同じ発音が飛び交って使用され易い。例 ; アイヌ語で 雷=カンナカムイ=竜
* これから始る一覧表では「神とひと」とが同じ語形で、しかもいろんな「神・ひと」がでて来ます。日本で多く使われるのは ta , mi , o , i , oo , so(S+o ), no( N +o ), などです。これもインドの姿を写したものです。シバ神は2000もの別名を持っています。これは2000もの氏族の神が「シバ」の名で統一されたということでしょう。
インド中央部・デカン高原の中央部にアディバシーという狩猟氏族がいますが、彼らが代々「シバ神だ」といって大事に祀っている偶像は、日本の遮光器土偶そっくりです。神と人には表現に法則じみたものがあります。神を表現するときには、その語を語頭に立てて「 i ・○○ 」 のように表わします。人を表現する場合には語尾につけて「○○・i 」として います。 しかし、時代がくだってくると、混同が起こりどっちかが判らないこともあります。
■古代の固有名詞 (2)
アイヌ/ ayin(クルド語 ; 儀礼) nu(する)現在の意味解釈ではアイヌとは人間だとなっている。
クルド語 ; ayin の in は英語の動名詞の -ing と同じで、動詞・名詞が未分化のとき、古代では普遍的だった。nu もそれと同じだとみて宜しい。日本語の「くに」や「おに」の -ni もどうやらそれらしい。ayin はネパール語では ayn(法律)となっている。ayna は鏡(……古代国家の統治の象徴)。 人間とは「法律をする」とか「鏡をする」とかにはならないはずである。残っている言語群のなかで「人間とは儀礼をするもの」が、最も適当と思えるので、これを採用した。
アイヌ社会には ainu ne no an ainu (アイヌ・ネノアン・アイヌ)という言葉が残っていて、これがすべてのアイヌ民族の厳しい行動規範となっている。Be gentle man みたいに「Be Ainu」という意味。ネノアンは…… ne(である・みたいだ)no (に)an(ある)。「儀礼をするもの」では少しおかしい。だが、ainu-koro(敬う)、u-ainu(尊敬)、u-ainu-anno(恭しく)が残っていたので、Ainu とは「おじぎをして挨拶する者」 が原意だったことが知れる。由々しいイことに、朝鮮語の saram(人間)はネパール語のsalam(挨拶)の借用 だった。騙し討ちにあって殺されることが分かっていながら、アイヌの長老たちは次から次にシャもの「和平の酒宴」に出かけて行った。そして殺された。シャモが言いだした和平の呼び掛けには、和平らしく軽装備で出かけて行ったのだった。あっしはアイヌに「礼節を貫く者」という訳語を捧げたい。
アジスキタカヒコネ / adhin(支配)sta(最高)takat(権力)hiko(土地神) ne(指導者)
サンカ、ウエツフミ、コジきでは出雲と宗像のあいだに生まれた神とされている。adhin は沖縄の按司で、日本では azi と表現され、これに英語の-est がついた のが azisti 。末尾の「チ」も(ツツブ⇒チチブのように)ヅーヅー弁だろうと、「アジスキ」へと修正された。
takat(権力)とは、原形 ta-kat-au で「(足を)切ってもらう神」……柱である。そのままの音を今に伝えているのが伊那市東の高遠(藩)である。伊那の北には「ta-kiri」の地名も残っている。柱がそのまま神だとする考えは日本に顕著だが、ネパールの主都・カトマンズとは「一本の木で支えられている寺」という意味。古代のネパールでも柱そのものが神だったことだろう。ヒコの「コ」はエデン語 cho(称愛辞)である。子供の「コ」は童神komar の前 の1音節を採ったもの。ヒコの「ヒ」は日、霊、火、刀の pi(ダンピラ)、南方語のおばけpi が含まれ て懸詞になっている。そかし、基本的には 朝鮮語の hik(土・土壌)が元で、これにo(神、男)を添えたものだろう。
エゾ/ i(神)adho(めくら)
アズミ / adho(めくら)mi(神)
安藤(安東)/ andho(めくら)
フロイスはえぞのことを「いえぞ」と書き残している。遮光器土偶こそ「フクロウ・めくら」を象徴して造った童神のエゾ神だと思える。 英語には as blind as owl ということばがある。現在の英国人 にとってフクロウはバカで盲だとの評価になっているが、同じゲルマンのドイツでは賢者の象徴である。 現在のネパールでもフクロウをバカにしている。
日本にはフクロウは百近い別名がある。日本じゅうの氏族とアイヌでは神の鳥として崇めていた。そこで盲の部分が強調されたのだろう。ネパール語の「めくら」には adho と andho の二つの語形がある。それが二つとも日本に上陸しているわけだ。安曇はアズミとのみ発音するとは限らない。琵琶湖西岸の安曇川は「あど川」である。「安堵」と書いた地名は全国にみられる。adho を極東古代語で分析すると a(大)dh(鳥)o(神)……大鳥神となるので、ここでわれわれは超古代の言語分布というものを直感できる。
アマ・アメ/ a(反・非・不) ma , me(日本語 ; 目)
ナカ / N(強調接頭辞)+ akha(目)佐賀 相模 「よくは目では見えない(ところ)」が、アマ・アメ。空と海とが同じ音であるこ とに注目されたい。古代人は遥か彼方の海のむこうと、空とは何らかの形で繋がっていると考えていた。ネパール語には a と o の中間音があって、この発音はa をひっくり返した文字 が用いられている。しかし、ここでは活字不足もあり、倭人がそれを訊くときにはa となるので、区別はしない。少しだけ、そのひっくり返った文字を使ってはいるが、ネパール語でも空と海は“ sagar”である。アイヌ語で「太陽・月」は 同じ語形で chup というが、これは天空をchu(水旅 する) p (もの)の謂いである。 相模は古く「さがむ」といわれた。sagar-mut(K;陸地 )の短略形と見受けられ る。
愛宕 / atal(炉)go(神)
愛宕の神は火を鎮める神である。 mi を go に代用させた語形が「熱海」。 集落の鬼門に祭るので、祭られた当時の市街地の中心部がこれでわかる。
全国に分布している。筆者は南は天草から北は北海道江差までの分布を確認できた。
有馬 / ar(片一方の)ma(日本語 ; 目)
有明 / ar-i-akhe(目)
カツマ マガツ イクマ ここに紹介しているカトマンズ・ネパール語の“目”にはakha と akhe がある。 ほかにも ankhe , ankha などもある。ar はアイヌ語でもそのまま生きている。ariと開音(日本語のクセで母音をつけること)化されるときに、なぜ“i”が選ばれたかは不明だが、アラとなったら「燃やす」と、アレとしたら「成る」などと同音衝突がおこるからだろう。
目が一つ……。金属製錬士の象徴である。日本国はできたとき「天目一箇神」という統一形がうまれた。
ghat-(減る)
……目は1ヶとれた。
ik(1)……インド・オセアニアでは,すべてek(1)だが、シナのイー(1) に便乗したのだろう。
イカガシコオ / ek(1)akha(眼)si(人・士)ko(の)o(神)
案山子 モノノベの先祖神の一人。金属製錬士の狂執のひとつが「ひとつ目」。うち続いた魔女狩りのため、西洋人のほとんどは透視能力を喪失した。だが、ここをシッカリと文明のなかに抱き込んでいるのがインドである。眉間中央の上部10cmのところに隠蔽された情報が“写る”のである。これが一つ目文化の基本。「ほんとかなぁ」とか「そんなことあるもんか」という人は費用もかからず、すぐ簡単にできるので次の実験をやってみればいい。
まず、5cm四角ぐらいの紙数十枚にいろいろな漢字を書き。これをパチンコ玉大に丸めて皿に入れる。かき混ぜたあと5〜20名の青年に「さぁ当てろ」と開始する。読み解きに成功した青年は異口同音に「眉間中央のうえ10 cmにスクリーンができて、その文字が映し出された」と言うはず。この第三の目が「片目」とか「めっかち」になった。伊達政宗も隻眼(片目)でなかったら、あれだけの暴れようはできなかった。男根崇拝も一つ目なればこそ。案山子は「ヤマを案ずる」。ヤマとは危険労働の鉱山ではなかろうか。そこに祭られていたマジナイの人形を田んぼに立てたのが今の案山子だった筈。案山子には大きな一つ目を描こう。ゼッタイ効き目がちがうだろう。
イザナギ・イザナミ / i(神)jyan(いのち) gi(人・男?) mi(女陰・女?)
こう想定すると理解し易い。中央の na は「人」で、まず「jyanna(いのちの大びと)」ができた。この語頭に神を示す i を置き、続いて語尾に男女を示す giと mi をつけた……と。沖縄では男女をとわず gi をひとの意味で用いる。アイヌ語で屹立した男根をniit というので、gi は或いは男に限られていたのかもしれない。mi はアイヌ語、シュメル語でも女陰である。神名に「○○の命」と書いて「ミコト」と讀ませているのはここが始りではないだろうか。
イナリ / Narisingar(大きなつのを持っている神) 成田 / nari(タミル 語 ; きつね)
イナリと成田の二つに神を示す i , ta が語幹の前にきているか、うしろにあるかにご注目あれ。「神」があとにつくのは新しい。日本は金属製錬士の上陸によって縄文時代を終わった。だから古代日本でも「つの」への偏執は激しい。つのへの激しい狂執はアーリア人侵入前のインド・モヘンジョ‐ダロに顕著である。そのイ・ナリ(つの神)が日本で 定着したところへ、タミル語・シンハリーズ語系文化が nari(きつね)を運んできて、「つの」のイナリとの間に混淆がおこり、キツネはイナリ神の使いだとの線が定着した。だから、驚くべき事実だが、イ・ナリにしろナリ・タにしろ、ここには明瞭な語源分析力が働いていると言わねばならない。しかし、ここには、別の伏線がある。nari には水道管、噴水という意味がある。埼玉県のシバ川は農耕用の水が常時不足がちだが、文字を刻んだ鉄剣が出土した「稲荷山古墳」にほど近い行田市役所周辺には広い濠が水をたたえている。この行田は古くはナリタといった。これは利根川からの土管や暗渠 による引き水ではなかっただろうか。
イラツコ/ latthi(杖) イラツメ / lattu(うっとりさせる)
イラツコは古墳時代などの読み物などに出てくる「杖刀人」のこと。イラツメに似ているが語源がちがっていたわけだ。
ウネメ / u(大) ne(指導者) me(女)
それが歴史事実としてなんべん繰り返えされたかは知らないが、卓越した大陸文化を取り込んだ優秀な氏族が、次から次に日本列島の王様になった……という図式を想定することは許されるだろう。とくに、古墳の埋蔵品のなかから忽然と耳輪、くび飾りが消えた断絶は、そのことを雄弁に物語っている。その優秀な王族は極めて少数だったため、日本にはウネメの制度があった。地方の大豪族トップの姉妹そのものを「そばめ」みたいにして王の傍におき、王族の人数を増やそうと計ったのだった。とうぜん、ウネメは普通の側女とは格がちがう。あるとき、外国の使節が畝傍(ウネビ)山というべきところを「ウネメ」と言いま ちがえて、あわや斬首にされそうになったという事件もおきている。 なお、ウネビは「大指導者・“ふうの”」という意味。
エカシ / *e(貴人)kas(神) i(ひと)
エウカシ / u(日本古語 ; 大)kasi (神びと)
エカシはアイヌ語へ入っている。オトウカシという語も残っているが、このオトは弟のように「次の」という意味か、ウイルタに残る「一番目の」という意味かは不明である。函館から駒ヶ岳を右にみて、森町を過ぎてすくにあるオトシベ川はウイルタ語の「オト」だろう。
エビス / エ(格上の)ビシュヌ
e (格上の)の古形はレプチャ語 ; je(親方、マスター)に残っている。このje が e と変わって日本にきたか または南方の e(格上の)が日本にきたのかは分らない。しかし、eは間違いな くエデン語であるといえる。ビシュヌのヌが神。それゆえ、上の e とビシュヌのビシュがむすびついた語形が エビス。エミシとは異なる。「エの神」がエビスである。人名地名 ; 江上、江波、江川、江ノ島など。 建林賢司氏からの情報によれば、レプチャ語には bisyu に「外国」という意味がありそうだとのことである。そうするとビシュヌとは「よその神」という意味かもしれない。
エミシ / e(貴)mut(武・刀)si(人)
同じ蝦夷と書いて、エミシと発音するかエミシと言うかは大ちがいだ。漢字などというものは、つい最近日本に入ってきたものである。古代民俗の粛真をミシハセというが、その「ミシ」が注目される。やはりヤマト朝廷と刀を介してヨシミを通じていた「杖刀人(エミシ)」ではなかったのだろうか。
オキクルミ/ okw(IE ; 目)⇒ oku(こども)kur(鳥) mi(尊身・神)
アイヌの始祖神。背恰好もこどもで、こどもの顔をしている。全身から光を発するあまりに、いつも着物のすそや、刀の先が燃えている。発音が「オキ」なので、朝鮮語の oku からの転訛はムリ。IE; okw (目)を受け た朝鮮語がその後 oku という語形に変化したものと思う。「こども」といっても童神が始初概念で、そこから現代までの「こども」へとなった。童神 が世界中に広まったとき、こども ⇒ 童神 が普遍的になって、先進文化地帯の「こども」という語彙が文化の後進地帯へ「童神」の概念で流入した。そして再び、童神 ⇒ 子供への概念移行が起こったことが見られる。 パーリ語の susu の現代の意味はこどもだが、これは童神というよりもむしろ「生命素」ぐらいの意味で受け取られた。柳をアイヌは susu-ni ( / 鈴木)と呼んだ。アイヌ語学ではサルンクル(沙流のくにびと)のようにkur は人間とか家族に用 いられている。しかし、使用例にシャーマンと訳しやほうが適当なものもある。ネパール語の guru は「導師」である。これらは鳥一般が神だったころの偏執(文化)を写したものを、変化させながら現代にひき継いだものである。
鹿 島 / *kas(神)ma(目)
鹿島は縄文海進・縄文海退期での舟の安全を願う神として立てられた。だから掘削地点(流路の中央)に位置する。アイヌ語に atui sik kasima kamui (舟の安全を見護る神……atui は海、sik は目)が残っていた。東南アジア〜インドでは casma (めがね)が広く使われている。*Basが神。has ⇒ kas , 神田 / Candi(女神の名、末尾の -i が女性を示す) だから神田は男の神様。「神田明神スチャラカチャン」。charは「おしゃべり」の意味か。char =N,A;くち。喋りぐち。
ククリヒメ / khukuri(刀)
イザナギにみそぎのやり方を教えた神。いまでも死人を安置するあいだ胸のうえに刀や刃物を置く。このククリは *ku(窯焼き)kuri(銅)として捕らえることができる。日本でも朝鮮でも銅をクリと言った。ククリは菊理と書く。 kuku がなぜ kiku となったのか、筆者にはわからない。ただ、熊本県の菊池市菊池郡あたりで何らかの事件があったのではなかろうか……が匂う。ククリに似ている「クク○○」の神名もみられるが、これはククリに似せて、朝鮮語に残っている *kutkut-(真直ぐ立つ)を表現したものであろう。「まっすぐ立つ」ということは、古代極東ではきわめて重要な精神性だった。大分県のキッチョムさんの kit もまっすぐ立つがその中心概念だった。漢字の屹立もそれである。
天から降りてくるいのちの光をまっすぐな背骨(柱)で受け止める……という考え方は「気高さ志向」の原点である。少年教育では、百万べんの喋り教えよりも、背骨をまっすぐさせたほうが遥かに近道のようだ。 ヒメとあるからといって、これを女性だと決めつけてはならない。「ヒメ」については別項目を参照。
草加の江 / ku(窯焼き) sakha(部門)
おさかべ(刑部)/ o(つの)・・ べ(部……bhed)
部門と訳されている sakha と 部と訳されている bhedがどのように違っていて、 どう重なるかの把握はまだできていない。漢字で坂・阪と当て字されている「サカ」には、境界・町並みなどを示すネパール語での近接発音もある。kusa(草)はサンスクリット語とまったく同一である。この一語を介して日本語の草と英語の grass(草)が同根であると言えるのである。 なお、「江」はギリヤーク語の川であり、土着語である。むかし、草加の江一帯は海流の干満はげしい湖で、浪速(ナ・ニワ)だった。naは流水とか川の意味で、 niwa(速い)はアイヌ語にも入っている。朝鮮語でもnaka が「水辺」であることは、もっと注目されねばならない。 くなどの神 / kuna(かど・隅 英語 ; corner) 語源が分らない学者は「(邪悪よ)来るなの神」と解釈してきた。「来るな」は「なきそ」になる筈。 くなどの神は仏教導入のあとは童顔をした地蔵になる。街角や集落の隅に立てられたサイの神ともダブっただろ う。その元には子供がよく育つようにとか、水子供養、農業生産のイキの神などがあった。
コンピラ / go(神) n(助音) bira(川)
この神社には琴平という別名もついている。ヒラにはダイヤモンドという意味が得られるも、「コト」の意味が出ない。この神社には「河に住むワニが祭神だ」との伝えがある。しかし、いまのところ、bira(河)という語彙はインド各地の“国語”にはみとめられない。どういうことかというと……現代は国語ばかりになったので、氏族語を探すことができなくなった。しかし、“国語”に呑み込まれ姿を消した氏族語には、多くの bira(河)があったにちがいないのだ。シバ神は2000もの別名を持つといわれている。これは2000もの群小ポリス国家がシバ神の名のもとに統一された跡なのである。満州語 bira(川)。オーストラリア・アボリジニ−語bira(川)。枚方市、大平 川、埼玉の平方は五つの市を貫く川べりの地帯である。
サイの神 サエの神 道祖土 五十 佐伯 土佐 ドサ廻り 佐渡 十三湖 インドの貨幣の単位 ; 50 paysa で1 mohar 。2 mohar で1 rupiya。-har と は表情や複数を表わすので、 これを取り払うと 50 + 50 = 1sae(100)。saeは sait(吉兆)に似ている。サイとサエが混同されるのは これに起因する。kiは エデン語で「土地・大地」⇒ 佐伯。 dos は「咎め」 adho は盲。 dosadhは国境の場所。くにざかいにサイの神が立 てられる。道祖土と書いてサイドと読ませる。サイ(の神の)ド(処)。国境近くに佐渡、土佐、十三湖。金属製錬士たちは、ヒマなときには劇団を組んで、出はずれの集落を廻った。これ がドサまわり。 そのときムラゲまでもへたな芝(シバ神物語り?)居をやったのか、ムラ役者はダイコン役者と呼ばれるように なった。cf. SK , N , P ; mula は大根。
コムラがえ り / mula / ダイコン足。
ササキ / sasak(支配) i(者)
ササナミ / sasak nam(名前)i(者)
琵琶湖にかかるまくら言葉は「ささなみの」。けっして「さざなみ」ではないことに注意。 いつのころか、琵琶湖周辺に支配者がいたことを謂っている。「みささぎ」は支配者の mi(神)……形容詞後置形。シカリ / sikhar(狩人) 鹿 マタギの頭領をシカリ(sikhar-i )という。なぜ頭領だけかというと、この sikhar は「山頂」という別の意味も持ち合わせているからである。かなり小さな地図でも、北海道には二つの「シカリベツ」がある。なのに、このシカリはアイヌ語では解けない。ということは、14世紀に結成されたアイヌ民族の主要一派が秋田〜岩手県北山岳地帯にいたということ、そこで鉄の生産技術を持っていたということを物語っている。
シンラ・シラギ(新羅)/ sing(つの) ra(強調末尾辞) gi(ひと)・レプチャ 語 ; sira(光)
シラギは日本人の読みだが、多くの語彙との懸詞らしい。音だけを追ってゆけば sira は hira のダイヤモンド まで行き着く。だが基本的には黒い鳥(カラス)に象徴される旧カニシのあとに日本に入ってきた白鳥(こうの とり)系のカニシ文化である。フィリピン〜台湾〜三陸〜北海道の海岸ちかくに並ぶ「白」はエデン語の岸である。アイヌ語の sirar は岸辺の 波かぶりの礒岩。この分析 si……(時がくれば)自分で rar(潜る)など、どこまでホントウだろうか? 台湾アミ語 ; tsilar(太陽)
スサノオ / s(強調接頭辞)kano(めっかち)0(神)
安里屋ユンタの √マタハリヌ テダラ カヌシャマの「カヌ」は朝鮮にはいって hanul(天)となっている。カヌ・ハヌの音転中間には xa があった。挟擦音X はウイルタ語に著しい。樺太アイヌ語でも chep を chex という。 もともと金属製錬士文化の kano (めっかち)がが沖縄で太陽神となり、xanoが sano にさらに強調辞の S が接頭されたのが スサノオだと解釈するのがむりのない解釈だと思う。
ネパール語の強調接頭辞の S- は、u を伴わない。Suではない。しかし、倭人の ことば癖は徹底して開音化する。スッカラカン、すごく(極く)、ベタ(惚れ)⇒すべて など、子音の前の強調接頭辞 s- は開音されて su となる。
古代語は多くの懸詞をもっているものだが、この「スサ」も多くの分析・解釈をゆるす。 susa から強調接頭辞と思われる s-を取り払うと usa(宇佐・うさぎ)がでる。もし、宇佐と susa が関係ありとすれば、usa に別のネパール語強調接頭辞のN- をつけると幣(ぬさ)となる。su は朝鮮語で鉄である。「鉄のめっかち」もスサノオと解釈できる。「めっかち」にこだわらなくても、朝鮮語一般に saは「里」である。里神は sano になる。
諏訪 /*swa(神)
swa は音転して日本語では「 si 」となる。不思議な音転だが、とにかくそういうことになっていることは確かである。和泉と書いてイズミと読ませるのは、swaの名 残りだとみることができる。それゆえ、S は強調なので wa だけで「神」だったらしい。イズミはアイヌ語に残る *sum (水)にひっかかって、イミズからの音転。清水とはswa(神)の水で、石清水八幡宮ではこれで酒を造った。従来酒造には女性が噛んでいた。ほんとうに乙女らが「噛む」こともあったが、ネパール語 ;*gum は「密閉する・醸造する」という意味がある。
これを STRI(婦人。とじ……Sはただの強調)と呼んでいたがオトコによる集団( jamat ヤマ)で酒造に励んだ。亜 種ブルーベリーのオトコヤマの実(クロマメ)でコクをつけて、随時動員可能なオトコ(予想できる兵)の系統網を造った。
タケル / ta-切る(足を切られる神)< ta -kii(だんだん小さくなってゆく神) dakhal(攻撃・侵略) 高・貴・鷹
ネパール語 ; takat(権力)の語源は「切る・神」である。これは誰でもいっぺんには理解し難い内容だろう。これは柱というものが古代日本語では「神そのもの」だったことを理解することから解け始める。ネパールの主都のカトマンズとは「一本の木で支えられているmandir(ヒンヅ− 教の寺)」という意味である。ここでは「木」と訳したが、柱が本筋である。da(柱)をkar(作る)職人は神に近い mi と呼ばれていた。この語形はそのまま現代までひき継がれた。dakarmi といえば大工のこと。少し音は動いているが、日本語の匠(タクミ)はこれに起因している。日本でも宮大工は最高に尊敬されていた。カトマンズの kat-au は「切ってもらうこと」という特殊な意味になっている。普通の樹木が所定の手続きと匠によって木から神(はしら)へ変身するのだ。日本では伊那市東の高遠(タカトウ……藩)に ta-kat-au の音がそのまま残っていた。伊那の近くには「タギリ」がつく地名が2ヶ所見られる。 日本語の「足」は柱と同根で、幽霊に足がなかったり、「いっちょめどん」が1本足だったりは、これによる。遮光器土偶が全部で何体出土したかは知らないが、両足そろっていたのは僅か3体だけで、あとはすべて足が切られていた。また、シナでは王に仕える男の官僚に宦官がいた。睾丸を取ったと言い伝えられているが、初期の宦官は中足を切って神にちかくなった男たちだっただろう。kii とは「しだいに小さくなってゆくこと」である。ta-kiiという語形は歴史に は現れていないようだが、さに非ず。このような発音が日本語化されるときには「 タキ」となる。滝という日本語は新しい(出現は6〜8世紀か)。命の素子を詰めて落下する水の瀑流は、柱の一種と看做されて修験道場になっている。鉄器ではなく、石器の斧で巨木を柱として取出す……このことは言えばカンタンだが、ここには物凄い習慣が濃密に凝縮されている。どのような経緯で柱を切り続けるところとなったかは知らないが(ホント−は知っている。カイラース山頂に天から降りてきている目には見えない神の通路としての柱……)巨木を切ると猛毒のフィトンチッドが出て、選ばれた伐採グループの大半は死ぬのだ。 死んだ村びとは「ひと柱」となって、樹木の木とともに、その後数十年にわたって集落の護り神となる。そして、ここでの生き残り組みがta-kat で、その集落の“権力”となった……と考えられる(はじめの部分の takat の語源)。日本語の「切る」の語源はネパール語の kii である。kiiが 日本で「キ」音と受 け取られたあと動詞を作る「る」がついたまでである。いや、ここでは思考を切り換えねばならばい、kii などという語形は世界でも珍しい。ネパール語の kii はもともと kiki で、ki が繰り返された語形だろう。アイヌ語; kiki は「引っ掻く」、kike は「削りかけ(木の花?)」である。アイヌ語のほうが古形をとどめているのである。ここに ta-k が taka とともに意識の中枢を占めて巨大な権力志向の偏執(文化)の重層を形成する。日本語になんと「タカ」の多いことよ。強調末尾辞の -e がついてた take が出てきて権力にかかわる諸概念を固定させたことだろう。この takeを 動詞にした語形が takeru(タケル)だった。意味は「(まつろわぬ民を)(こっちの)権力下に置く」だったことだろう。こうして ta-kiru から形成された「タケル」には、たぎり立つの「タギリ(男根)」 やネパール語の dakhal(侵入・攻撃)が内包されている。
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「ワカタキル」という銘文が刻まれていた。 エジプトのファラオの行列で、先頭きって進むのはフォルス(鷹)のマサ(旗)だった。
高市/ dakayti(盗賊団)
taka は「高貴な」、iti は「女性」と置いても思議な現象である。*dak はオセアニア・インドに広くまたがって「盗む」という語彙である。小生の勉強不足ということにしとこ。dakaytiとはインドで伝統ある盗賊団。大衆の支持がなくては数千年も続くはずもない。日本の侠客の精神的伝統と一致するものがきっとあるはず。
大黒 /*da(柱) ik(1) *IE; okw(目)
現代ネパール語の柱は ダンジリ祭りの dandi という。*da(柱)はその語頭音。インド〜オセアニアに広く用いられている ek(1)は、古代日本では ik(1)になっている。英語 ; binocular(双眼鏡)に含まれている IE のokw(目)は、アイヌの始祖神のオキクルミの oku とは異なる。古代で“目”といえば、金属製錬士の「片目」のことである。ik-okw の語形は、下北半島易国間川に残っていた(ma は川)。柱とは“そのまま神”であった。一つ目の柱……金属製錬士の神ということである。国譲りの条件だった出雲の巨大神社とは、三本の柱を青銅でかしめて高く聳えさせた柱(神)のことであった。インド文化は黒、カラス、黒い石の神(Saringar)など黒に彩られている。
タタラ/ dadh(焦す) ara(焼く)
金属製錬とは土を焦し焼くことである。タタラは送風器の「ふいご」と混同されているが、正式にはハムキ(鞴)である。タタラ炉とは粘土を盛り上げて造った「構(ro)」のことである。ku とはもともと天から与えられていなかった物質を新たに戴く行為なので、sex ということだった。この「構(ro)」を上から見ると、溶鉱の自然な比重でに固まりを得ようとしたためか、女陰そっくりである。台湾のヤミ族(だったか)にマタンタタラという舟がある。そりあがった舳に目が描かれている。この場合マタが目、タタラは舟(<女陰)の意である。日本各地に大船山、岩舟などの地名がある。タタラ炉のことだ。アマの鳥舟は「アマtoli(組合い……族)のタタラ炉と 解したほうがいい。フクロのロとは、この「構(ro)」だった。“吹く「構(ro)」”である。鳥のフクロウはここから命名されている。dadh-ara のara はほかでも述べているが、焼酎のエデン語・アラッキのアラである。バスクには“タルタロ”という片目の巨人伝説が残っていた。
脱解 / dhatu(金属) kai(K; 雷神)
新羅の第四代王樣。「龍のくにから漂着した」だの「おかぁさん孝行」だとかの言い伝えが残っている。朝鮮語 kai は雷神だとの解釈は伝統的だが、kai はku(窯焼き)-ai に分解可能 である。金属製錬ということ。
伊達 /dhatu(金属)
語頭に濁音が立つ「ダツ」は言えないので、 i を助音として語頭に持ってきたのが「イダツ」だった。これを漢字に当て嵌めた伊達(イダツ)が現在まで、そのまま残った。王族が多くなり、語頭濁音を言えないことが恥ずかしい時代に入ったとき、「イ」を消した。そのとき、末尾が“e”となった。伊達といえば伊達政宗とか北海道の伊達市なので、固有名詞だと思っているムキも多いだろうが、すべての固有名詞は普通名詞に還元できるのだ。伊達の地名は各地にみられる。龍を辰(たつ)というのもこれによる。 「だて男」とはキンキラキンシのことである。
ところで、どなたか、福岡〜あるいは熊本方面で √キンキラキンシ キンキラキンシ キンキラキンシのがに股どん にあがり(ふざけ)どん という歌があるのですが、この歌詞をご存じの方、ぜひお教えください。小生が国民学校5年生のとき(昭和20)に聞いた歌です。
駿河/ surung(横穴)
溶岩のすきまにできた洞穴を穴居などにする地帯ではなかったか。また、ネパール語には suru(始める)という語彙がある。どこの氏族語でも「はしっこ・する」が「始める」 という語彙になっている。もしかしたら、タマキハル(国威が尽きる)土地が駿河だったのかもしれない。
敦賀/ Durga(神)
アラッキ(世界語で焼酎) 古代語の関係で問題になってくるのはツヌガアラシト伝説だろう。これはぜんたいとしては日本語だが、日本語 にしては少しおかしい。エデン語 ; アラ(焼く)が分らなかったことによる混迷も手伝っている。アラッキは古 代世界に広く用いられた交易品の蒸溜酒(焼酎)のこと。日本では焼き畑の土地をアラチという。 tsu =竜? ヌカは鋳型なのでぜんたいとして金属製錬士を謂っている。金属製錬士のツノは別に「 o (つの)ghar(家) ⇒ 男鹿」「小野」もある。 「つの」はsing(つの)に o がついた singo(篠)から発達した語形だと考えら れる。
ネパール語で牛の屠殺人を gohatya という。go(牛)hat(殺す)ya(屋)。俗に 「おためごかし」、「つのを矯めて牛を殺す」という。この三つから「o =ツノ」 が抽出できる。やってみてください。
ダンジリ/ dandi(柱)*ri(奉納)
神に捧げるおおきな皿を ri といったので、ここではそれを採用した。しかし、インドではta , mi , nu ,などの多くの単節音が「ひと=神」の意味として使われている。その一つに li がある。ダンジリ祭りの末尾の「リ」はこっちのほうかもしれない。岸和田のダンジリ祭りは、300年の伝統があると言われているが、なにかのまちがいだろう。ダンディという語彙だけの歴史なら、ゆうに4000年ぐらいの時間を経過している。
秩父 / tutu(破壊)・ubjaー(生産)
うぶすな / umla-(生まれる)+ クリ シュナ
出雲はヅーヅー弁である。この出雲びとが「つつぶ」と言ったのを、ヤマト新政権の官僚が「これはヅーヅー弁にちがいない」と、勝手にチチブとやり換えたにちがいない。tutu-ub とは破壊と創造のシヴァ神の精神で、これが日本でも“くに造りの神”チチブヒコとなっている。708年、いまの埼玉県秩父郡木毛に自然銅が出土したとき、近畿のガス抜き策もあって、多くの金属製錬士がシバ川筋にやってきた。いや、荒川と利根川に挟まれた細流の平地を農耕地にしようと、この川にシバの名をつけたのだった。中山道にそってズラリとネパール語の市町村名がみられる。木毛の上流4キロの熊木に神社を建ててチチブヒコを祭った。政府は世界に普遍の銅山の守神として二匹のムカデの鋳物を贈っている。ウブスナの「スナ」はインドの神クリシュナの「シュナ」。クリは巫述、大地のいずれかの意味。
出羽 / dewal(神殿)
Deva(神)の同根。Deva は「岩」になる。 芳賀/ bagwan(神) 今のシナ人はどうなっているか知らぬが、とにかくシナの大衆は博打がすきだった。日本の大衆もすきだった。ネパールの下層階級も好きだったとみえて、幸運とかツキを表わす語彙は5〜6ヶあるみたいだ。 その一つが bhage で、秋田のナマハゲや裏日本一帯にみられるアマミハギは、この bhage(幸運)が語幹になっている。
馬場/ baba(修行僧)
普通に考えると馬の調練場のようだが、実際にはきわめて狭い場所にこの地名がある。古代ヒンヅーの修行者は、徒党をくむことを避けてひとりで山奥にこもった。自分をも未熟な神の類だと考えた ところがすざましい。
ハツセ/ badsaha(王)
ハセガワ / P ; naga(山)+ badsaha(王)ka(の) wa(ひと)
この badsaha の語源はわからない。日本に来たときには末尾のha がとれて badsa に強調末尾辞の -e がついて hadse ではなかっただろうか。或いは、「セの君」というように、セは男子の称辞で、若い男をいうので、音がそれに曵かれたのかもしれない。鹿児島の「よかニセ(地・青年)どん」の“セ”である。 長・谷・川と書いてハセガワと読ませる。上のハツセのことを知ったら誰でも、こ の長谷にはハツセが微妙に絡んでいることを直感することだろう。 奈良県地図を見ればわかるが、ナガスネヒコは桜井市東5kmの初瀬にいたのだ。 その北、東北山手の都祁村山添村がナガスネヒコ時代の稲作地で、同時に逃げ城の逃げルートだったことがわかる。ナガスネヒコの「ス」がこの場合少々不明だが、ここはパーリ語にそって「清らかな」と置いてみよう。するとナガスネヒコとは「山地の清い土地(ネ)にいる指導者(ネ……懸詞)の男」となる。だから、山地という性格がつよくでている。この山地の瀬が「ナガセ(長瀬)」だったにちがいなかろう。そしてそこに王がいたからこそ「ナガセ」が「ハツセ」に言い換えられたと推測される。ただ……、九州地方の地名が奈良盆地に飛んで行っている現象はよく言われることだが、九州最大の「チクシ(交通の要衝を水路・運び人で連結させること)」の目付け王国だと思われる秋月の墓場の山の名が長谷山である。上の二つのハセ(長谷)は、どっちが古いとも決めかねる。今後の課題としよう。
はむき(ふいご・鞴)/ hamk-(煽ぐ)
オオナムチ(大黒さん) アイヌ語ではトンボをハンク・チョッチャプという。hamk(はね)kot(つけてい る)tp(もの)の訛りhamuk-i(鞴)は古代に日本語化されていたが、学者たちは「これは鞴(ふいご) のことだろう」と言っている。 hamuki の h が脱落すると、ヅーヅー弁の出雲では「アムチ」となる。これに強調辞の N が接頭されるとオオナムチ(大黒さん)のナムチとなる。牛とは私見では「大風」のことである。いままではせいぜい鹿の皮で造っていた「ふいご」だったが、こんどは牛の皮で作れるのだ。大黒さんが担いでいた袋が大きかったとはこのことを言っている。
平群(へぐり) / beg(いきおい・英語; vigor)li(人)
古代豪族の名前のひとつ。
ヒョッコセ/ 日置(「目ひく一=日 + okw(IE ; 目」) ko(の)se(セニョ 〜ル)
初代新羅王の名前は多いが、その一つ。ヒョットコに無関係なわけがない。ヒャヒュヒョなどの拗音は日本にはあまりなく、シナ・朝鮮に多い。「ヒョッ」という部分をヒオキ(日置)に修正すると、古代日本語によく似ている。
藤原 /psy(*こころ)bala(こども……氏子)
タム(アイヌ語 ; 刀、被覆形 でカミナリ) 時代が大きく動くときには、必ず政治のうえで優秀なNO.2が出現している。 中臣鎌足(藤原鎌足)は中大兄皇子(のちの天智天皇)に仕え、大化の改新を断行させた日本最大のNO.2 である。鎌足の死を惜しみ、天智天皇は彼に最高の名前を贈り、談山の多武(タム)の嶺に葬った。 その最高の名前、壇山、タム、の三つがいづれもネパール語〜西洋語だった。西洋語の psy はサイとも発音する。サイとは当時流行のsait(吉兆)。psy は山 伏、富士にもなっている。「ワラ」はbala 。おとなになっても氏子というようなもの。で、藤原とはバラモンのことをいっている。 「ダン・ヤマ(集会)」のダンは、いまでも檀家というように「施し」という意味 だが、カトマンズ・ネパール語 とはひと味ちがった“dam ”が日本に入ってきていたのだった。玖珠郡森町の豊後浄瑠璃では「だんな、だんな、だまんねぇ早よから、なにごつかえ」というのがある。この「だまんねぇ」は 「dam あるない」という古いいいまわしで「dam ない」という意味である。この dam に似ている語彙はアイヌ語の ram(こころ)だが、これもインド〜中東あたりで根をのばしていた語彙で、ネパール語には「 ram ram (おお、神様よ)」となって残っていた。 出雲の暮らしでは道ばたなどで、人に会った最初の挨拶は「先日はだんだん(ありがとう)」から始る。ドイツ語の Danke と同一だ。ハナシを元に戻そう。ダマンネェの「ダム」は標準形ram が日本に入ってきたと き、倭人は語頭 r 音が言えなくて d にしたのだ(r の濁音は d である)。これは 朝鮮ではゼッタイに言えない。この語頭濁音が「文化的でない」ということで嫌われてできたのが「tam 」だった。日本語の「タマ(魂)」はこの tam をパーリ語〜サンスクリット語的に開音化したものだった。しかし、この「タムの嶺」の「タム」には「刀」が懸詞されているはずである。アイヌでは tam といえば、まず刀である。刀はククリヒメ以来の魔よけ〜鎮魂のマジナイである。アイヌ語 ; tam は刀だが、これにはネパール語のtama(銅)も絡んでいた。タムの嶺……このへんでいいだろうか。
ホヮラン/ phalam(鉄) palan(世話・規則を守ること)
新羅の貴族青年騎馬団の名前で、花郎と書く。新羅第四代の脱解王は偉人だった。その2〜3代あとでは円卓の騎士みたいな小人数だっただろうが、それを中心に膨れあがって集団化した。576年に源花と改名している。この“源”は日本の源氏に引き継がれたことだろうが、もともとは mul(水源・長)だった。 新羅は935年に高句麗に政権を禅譲したのだが、それは軍内部の分裂が原因だった。これは推測でしかないが、新羅の軍隊にはネパール語を濃厚に喋るグループがいて、それらが横暴を極めたのが、その主原因ではなかっただろうか。
マタギ / matha(額) gi(神・ひと)
トンガ・サモア語に matangi , matagi(風……angiは「吹く」)があるが、語源 の中心はこれではない。 エベレストというのは英国の測量士の名前で、シェルパ族はこの山をチョモランマと呼ぶ。ネパールでは sagar matha という。天の額という意味である。 額には目がある。堆積水成岩の層と雪形が卍模様を造っていて、これがほんとうのmata(目)である。まだ、ほとんど知られていないことだが、インド・グループとオセアニア・グループが使っている基礎語彙には 34%もの類似の語彙が認められるのである。これはインドにいた夥しい氏族が西から来た現在のグループからオセアニアに追われたことを意味している。
麿、マラ、丸/ mar(男)
水夫をいう mar はメソポタミアを振り出しに世界に広まっているが、ここで挙げたものはそれとは別系統である。 また、1回2回の回も mal といい、これもエデン語である。IEでの mal は「魔」 に通じて縁起のわるいことに用いる。 mart , murt には「死」の意味があって、 これもエデン語といえる。男の mar は英語の male(メイル) である。初期の物部系の男に、この麿、丸がついているので、物部というところはネパール系外人部隊みたいな傾向が濃密である。
三笠 /mi(神・尊身)kasawdi(窯)
山笠 / jamat(集会 ⇒ ひとだかり)
か まくらkasawdi(窯)の wdi は道具につける末尾辞なので、日本ではkasa だけが採用さ れ残った。 ネパール語には khula(劇場などが空いている、開場)という語彙がある。一方、陶芸などでは窯開きはイヤ に緊張する場面である。秋田などに見られる雪洞のカマクラは、窯の余熱を楽しむ子供の遊び場だと思える。山笠も窯を開いてgoods を取出す興奮と喜びが祭りになったのだと思える。
むらげ / mul(水源・長)
連(むらじ)/ mul-adhin(支配)
田村(トッ プの神) 按司 mul-age( na )……炉(場)の長。形容詞後置形。金属製錬のトップ。配下に関して生殺与奪の権を持っている。治外法権でもある。Mul はムラと開音されて、ムラの語形で日本語に定着した。村とは「地方の長」という意味から興ったのではないだろうか。倭人社会にあっては、水脈ごとでの人々を掌握しているのが「ムラ」だったと思われる。沖縄に現れた支配者を按司(アジ)というが、 mulに按司がついたものがムラジ である。
モノノベ・マトリ / mantri(大臣・長官)
モノノベの「モノ」はK ; mon (もの)と同根。アイヌ語mon の推定祖形を「手」 とする人がいた(村山七郎教授)が、これは「仕事」とすべきである。そうするとこのへんで性格としての「物部」は出るが、厳密な mon , mono の語源にはイマイチなるものを感じる。宮城県には「桃生」と書いて「モノウ」と読ませる郡・町名があるのも気になる。物部の「べ」は bhed(区分・階級)であることは確定的である。武烈帝のときモノノベノマトリが(私見だが)新羅あたりからスカウトをうけて日本に帰化している。物部氏の石上神社ができたのは真鳥の孫のククヒの代になってそれまでのカラクニ神社の呼称を改めたからによる。だから、物部という呼称は朝鮮半島でも使われていたのである。マトリとは mantri にほかならない。mantri のN は 助音infix だから「祭り」がでる。また即 matrix であり、英語の*patri(自国の、母の)でもある。
ヤタガラス / ya(神)ta(神)
三本足のカラスのこと。このヤタガラスをここで掲出するにはムリがある。手許の基礎ネパール語事典にも出ていないし、ya はネパール語固有のものとは言えないからである。ヘブライの「ヤーベ(エホバ)」あたりが慣用されて、ヤタが「軍神」みたいになったと思える。 いやしかし、ヘブライ語をもってくるまでもなく、インドでは「神=ひと」である。日本では「土屋、柳谷、石戸屋、碇屋(ありゃ、北のほうに偏ってる)」など人を示す ya がみられるし、ネパールでは牛を殺すひとを gohatya という。「 ya=神」があっても不思議ではない。ネパール語では旗は janta と duwaja の二形がある。旗のぼりを背中に立てて敵陣に斬り込んでゆくツワモノ……、このツワモノは duwaja 者ではなかったか。ヤタ ガラスはその janta に描かれた三本足のカラスではなかったか( N は助音、infix)。三本足カラスは熊野系神社などに優れたデザインとなって伝えられていた。来年は日韓共同でサッカー・ワールド・リーグが開催される。そのシンボル・マークが三本足のカラスである。このことを早くみんなに報せてあげたいものである。偶然のことだっただろうか、去年のシンボル・マークはオンドリだった。これもカニシの象徴で、樹木を柱として神から戴くとき、その木に最初に打ち込むのが鋸(ノコギリ)だが、そのノコギリの背に刻まれているのがオンドリ・マークである。
ヤハタ/ ya(神)*hata(カミナリ)
日本語の旗はサンスクリット語の pata , pataka が日本に入ってきたものである。秦の始皇帝で有名なシナ……の秦をハタと発音している。このハタはカミナリが始原である。はじめに解説したように、カニシの狂執語彙(複数)は発音を共有する。同じ発音が狂執間をあちこち跳んでまわるのだ。ここを踏まえないと理解が難しい。俳句の用語で「ハタタ」はカミナリで夏の季語である。ハタタの末尾のタが神を謂っている。古代日本語の「ハタく」は「こなごなにする」。ネパール語; hatawdi は「鎚」 ( wdi は道具を示す末尾辞)。かなり遅れて日本にやってきた秦氏だったが、それだけに高文化を持ち込んだ。この氏族はまず九州の香春岳周辺にとっつき、南下して宇佐を拠点にしていた。なぞの多い氏族だが、ハチマン(八幡)はこの氏族から出ているらしい。八幡は軍神で「旗の神」ともなる。各地のハチマン様の祭りには幟(のぼり……ハタ)が翻る。
邪馬台・ヤマト/ jamat(集会・集り)
jamat に強調末尾辞の -ai がついた語形が jamatai。3世紀ごろの日本列島では強調末尾辞はに-ai も使われていたことがわかる。この“-ai” は 時代が下ってくると“e” 1一本になってくる。「邪馬台の文字がちがう、邪馬壱がほんとうだ」という説があるが、こんなにもハッキリした語形があることを、ご存じではなかったのだろう。
ヤマは修験道や寺などの人々の集り 、金属製錬の集り(ヤマがたつ)、鉱山の人々の集り、くろ山のひとだかり、などの集団に用いられた。その後“衆”もそうだが、「おやま」など個人にも適用された。
和気 /wakil(大使)
エジプトでも wakil(大使)の語を使っている。日本語の wak には別に「分ける、枠、別れる」などの意味があるので、wakil・ 大使という発音・意味は時代によって変わっていると思われる。古くは九州をシラヒワケと呼んでいた。エジプト・ネパールの一致がある……ということは、政治用語の多くのものが先進文化地帯から流出し、ほとんどそのまま広域で使われていたということであろう。ネパール語の raja(王)や日本語のサムライあたりもこの類いだろう。サムライを「傍らに侍る」などと分析する時代は終わったといってよい。
ユー・アイ
http://www.you-i.org/kodai01.html瀬川拓男: 私の民話論〜アイヌ古代民話, 日本の原始民主共和制を支えた言霊信仰
私の民話論
瀬川拓男, 1981
中国大陸に並行して弓状に存在する日本。火山列島日本には暖流と寒流がめぐり流れているために,四季折々の微妙な季節変化によって優れた景観と季節の魚菜に恵まれている。日本は自然の恩恵豊かな「母なる地」であるが,その反面,台風・洪水・地震といった自然の猛威にさらされている。
欧米文化は自然に抵抗することによって生まれたが,日本文化は自然に随順であることによって生まれた。
■地域社会を規正した民話
古代日本人は地域生活において生じた善悪・吉凶の全てを神々の倫理に,あるいは適い,あるいは適わぬことをした結果であると信じていた。神々の論理とは一体何かと言うと,それは
天ツ罪
国ツ罪
であると考えていた。
農村の共同生活を破壊することは,神々の倫理に反するという思想であった。
田の畦を壊したり,田の溝を壊して水を通さなくしたり,田に水を入れる樋を壊したりするのは当然天ツ罪を犯したことになった。その他,他人の田へ棒を立てて自分の占有を主張したり,生きたまま馬の皮を剥いだり,糞のような汚いものを撒き散らしたりするのも犯罪としていた。予測できない自然の猛威が突然前触れもなく農村を襲うのは,この罪を犯した者が同一地域内にいるために神々の祟りを受けたと考えた。
天上界におけるスサノオ神話のように,どの地域でも因果応報の物語が生まれ,語り部たちによって語り継がれていくうちに歴史意識が生じてきて,大叙事詩となっていった。そうした物語は古代ばかりではなく中世でも近世でも農村社会には生まれやすく,今でも語り継がれて地域社会の生活秩序を規正させてきた。
■夜明けの叙事詩ー神話的叙事詩
太古,天地は混沌と溶け合って,無限に広がる泥海にギラギラと漂うものがあった。何万年とすぎて,立ち上る陽気は空になって,濁るものは岩や石になった。
岩や石は日に日に大きくなって泥海に黒く光る頭角を現した。空に昇った陽気は炎と燃えて 巨大な火の玉 になって,そこに太陽の女神が誕生した。七色に輝く光は天空に満ちて,暗い地上をバラ色に染めた。
古事記編纂のはるか昔。日本列島に割拠する各部族は,「夜明けの叙事詩」を競って詠んだ。
北海道で漁業に従事する部族は,この地上が巨大な魚「アメマス」の上に作られたとして大地と地震の因果関係を理解した。鳥の霊魂を唯一と信じる部族は,この世の始まりが神の鳥によるものと説いた。湿地帯を切り開いた種族は,泥と植物からできた人間の創造と,恐るべき悪魔の誕生を想像したのであった。
狩猟と採集の採取の時代が何十世紀も続いて,トーテミズムを基盤とする動物民話のうちで,動物の霊力による天地創造神話が準備された。それに続いて初期的栽培段階から複雑な農耕時代へ進むにつれて,
太陽
月
水
風
樹木
穀物の種子
などに対する関心が高まって,ここにも神の雷の誕生を見ることになった。今や万物に霊は宿り,草木石までまでが物言う時代になって,天地創生神話も次第に複雑になった。
神話的叙事詩の発達は生産関係の進化とも対応していた。古代国家成立までの長い陣痛の時期,生産力の著しい発展によって人間相互の共同共産体制に加えて,分業化もまた進んで,その結果部族連合の波状的な拡大をもたらした。言語の発達に合わせて神話的叙事詩も長編詩化の傾向をたどり始めた。
古代国家誕生前夜,「夜明けの叙事詩」が翼を得て羽ばたく時に,原始時代の後の黄金文化は花開いた。その時期を特徴づけるものは雄大な長編叙事詩の成立である。革命的民主文芸の到来であった。
アイヌの神話的叙事詩に象徴されるサケ(繰り返しの節)には「夜明けの時代」の溢れるばかりの希望が込められて,その美しい旋律から人間の歓喜が光の躍動になって伝わってくる。
シロカニペ ランラン ピシカン
シロカニペ ランラン ピシカン
銀の滴 降れ降れ まわりに
金の滴 降れ降れ まわりに
トーヌペ カント カント
トーヌペ カント カント
乳房の光 きらめき きらめき
乳房の光 きらめき きらめき
ユーカラ棒を叩いて,天に向かって地に向かって歌い踊る神々の宴会は,大地に根を張って生き始めた人間たちの凱歌でもあった。豊饒の秋。余剰生産物を手にした彼らは,爆発的な熱狂に身をまかせ,歌い踊って革命的なロマンティシズムを謳歌した。
この時期に天地創生神話について大地開拓神話が叙事詩の主流を形成する。人間の代行者である神の英雄的業績によって,悪霊は駆逐されて原野は開かれる。開拓精神に満ち溢れた物語には,男神と女神のロマンスがつきまとって,男女の対の幻想によって大地の豊饒が約束されるのである。古事記に収録されたスサノオのオロチ退治とクシナダ姫との婚姻物語はその典型であろう。「雷神と女神」「日の女神を救う」「赤神と黒神と十和田の女神」などの民話にもそうした古い時期の叙事詩的残像を認めることができる。
■言霊と民主主義
いうまでもなく「夜明けの叙事詩」には特定の詩人によって創造されたものではなくて,多くは演劇性を伴った原始的儀礼のうちに組み込まれていた。当時の神話的叙事詩には部族の運命を左右するほどの言霊の力が宿っていた。アイヌ民族にしばしば登場する「神々のチャランケ(談判)」には偉大な言霊の力が象徴されている。
ここで強調したいのは,草木ものいう時代に成立した言霊信仰が原始民主主義の思想的支柱になったばかりか,雄大な神話的叙事詩を産む創造的原動力になった点についてである。華麗な響きとともにたくましい力を獲得した祝詞の謎は,言霊信仰との関係ではじめて解くことができる。
アイヌの神話的叙事詩「エゾイタチの女神」は原始的共和制社会の生の姿を鮮やかに映してくれる。
人間の国が大飢饉に見舞われた時に低い空を治めるエゾイタチの女神のもとへ,ミソサザイやミヤマカケスの若い神,カラスの老神,トガリネズミの小さい神,あらゆる動物の神が集まった。人間の国はどうして救うか?どうすれば飢饉を終わらせることができるのか?晩餐の席で神々がありあれこれと討論したが,こともあろうに水辺に住む渡り鳥のシギ神を招くのを忘れていた。重大な討議の時に一人の神でも欠席とあっては大変である。トガリネズミの神は慌てて表へと駆け出した。草の下を転がるように走って,ようやくシギ神のもとへたどり着いた。さてシギ神の参加によって会議は再開した。
本題に入って,エゾイタチの神が,シカの神・サケの神に向かって,山にはシカを出し,川にサケを出すように依頼すると,シカの神とサケの神は堂々と反対論を述べる。この頃の人間はやたらにシカを殺してサケを殺して乱獲も目に余るものがある。これでは自然の富もかりつくすに違いない。何としても人間どもに反省を求めねばならぬ。そこでエゾイタチの女神は人間たちの夢に現れて,生き物を殺す作法・ 魚を殺す作法を教えて乱獲を厳しく戒めた。結果,再び国土は蘇って,山にも川にもいいものが溢れ,神も人も共に幸福な日を過ごすことができたという。。。
非常に親和的叙事詩を目の当たりにすると,皮肉にも現代人が風刺されているかのように見える。公害の空の下にあえぐ人々が国会に嘆願しようと,公害垂れ流しの会社に迫ろうと,エゾイタチの女神ほどのものは見当たらず事態の解決は容易ではない。議会民主主義を唱える国会の場所でも多数党の言論の暴力で少数意見は抹殺されて,野党欠席のまま決議がなされる。シギ神を招くのにキリキリ歯を食いしばって駆け回るトガリネズミ神の努力などどこ吹く風だ。民主主義の世の中に民主主義は空洞化する。
原始共和制を支えたのは他ならぬ言霊信仰による「ことば」への恐れと崇拝であった。生命尊重というほどの重い意味を込めて「ことば」の一つ一つに深く耳を傾けて「ことば」の背後に根ざす魂のありようが求められた時代である。したがって一人の発言意見に対しても,例えばシギ神の参加を求めて討議するといった形で言葉の尊重が徹底化されていたのであった。
原始民主主義はいわば徹底民主主義というものであった。こうしたモラルは実は長い伝統の上に定着したのであった。それは単に人間と人間の横の連帯を意味するだけではない。古くは動物との血縁によって,更には自然との共存元素によって,動物・自然・人間の総力を挙げてこの大いなる世界に挑んで,より良い社会を築こうとした結果,相互連帯意識は進化したのであった。現代人に定着した孤立化された自我ではなく,動物・自然・人間を包み込む巨大な共同体的自我がおそらく当時の民衆の心を揺さぶり続けたのであろう。この大いなる自我が確立する上で言霊の力が大きな役割を果たしたのは事実であった。
連帯意識の前提になるのは,何よりも対象を具体的に把握する認識力であって,その認識によって状況を変革する実践的な力を養成することであった。
エゾイタチの神が優れていたのは,対象認識の深さの上に民主的討論においても卓越した言葉の技術を持って言霊の力を制御して駆使した点にあった。そこで初めてシカの神・サケの神も真実を告白し,飢饉の要因そのものが明らかになって,それを克服する手立ても発見されたのであった。
言霊の計り知れない力を宿す者。それを自在にこなす者。すなわち雄弁なる者は当時にあっては徹底的な民主主義者であって,状況変革への革命的な資源を身につけたものであった。
数千年の昔にさかのぼる神話的がなお現代人の心に鋭く迫って詩情豊かに胸を打つのは偶然ではない。言霊の力が満ち溢れる時に詩章もまた簡潔な表現のうちに重い意味を伝えて,単純な旋律の繰り返しのうちにも様々な心理的欲求や行動への力強い意志を響かせることができた。
饒舌に馴らされた現代人は色あせた言葉の羅列や乱用によって,言霊の力は「罰」としての苦悩を人間に与えた。今では民主主義という「ことば」はあってもそれを守る思想やモラルが衰退して,マスコミ的饒舌の日常の中で人々は分裂した言葉の洪水に押し流されていく。
ー日本の民話,角川文庫,瀬川拓男/松谷みよ子,
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2019年3月15日
アイヌは何故文字を持たなかったのか
縄文人は文字を持ちませんでした。 現在も残存するアイヌも文字を持たない民族です。
アイヌ語で「神」のことを「カムイ」と言います。 アイヌの人々は、自分たちに生きる糧や恵みをもたらし、時に恐ろしい災いをもたらす大自然を神として万物への祈りを捧げ、祭礼を行ってきました。 また、文字を持たないアイヌは、神話や伝説などを口伝えで受け継いできました。 代表的なアイヌの口承文芸として「ユカラ」が知られています。
アイヌの人々が使うアイヌ語は、子音の数が極端に少ないなど、日本語とはまったく異なる言語です。 しかし、「ニセコ(切り立った崖)」や「知床(地の果て)」など、北海道の地名にはアイヌ語が元になったものが多く、「トナカイ」「ラッコ」「シシャモ」などもアイヌ語です。 現在、アイヌ語を母語として話すことのできる人はわずか数人とされ、ユネスコによって「極めて深刻」な消滅の危機にある言語と認定されています。
では、アイヌとはどういう民族なのか?何故アイヌは文字を持たなかったのか?
追求してみたいと想います。
何故アイヌは文字を持たなかったのでしょうか。 それは、持つ必要が無かったからだと推測できます。
以下興味深い記事がありましたので紹介します。
アイヌはなぜ国家を作らなかったかの話
http://shidoyuuichi.hatenablog.com/entry/2016/02/01/004708文字を必要とする民族は、管理することを目的として始めます。 簡単に言えば、税金の取り立て記録や、人員への命令の記録や、支配の正当性の記録や、貢ぎ物の記録がなければ口頭だけでは確実ではないからです。特に、命令が、伝達ゲームでは管理できません。 支配者一人の言葉は、同等に被支配者に伝わらなければ間違いや誤解によって違う結果とならないようにするために共通の合図が複雑化する中で、文字として発達していくのです。逆に言うと、管理社会でない民族には文字は必要性はないのです。ですから、文字を持たない民族や文化が劣っていて、文字を持つ文化が優秀なのではありません。統一国家のような集団を集合させるような構造を持たない民族には文字は必要ではありませんでした。
アイヌには、文字はありません。では、食料の生産能力かと言えば、それも一概に言えません。例えば、沖縄は、稲作が出来ても、大きな国家を作ることをしませんでしたし、武力も大きくなく、薩摩に征服されてしまいます。縄文後期に稲作を初めて止めてしまった縄文人もいます。稲作という視点で見る場合には、人工の増加と言うことは重要です。アイヌ民族は、どうやら3万人程度で推移したようで、人口の大きな増加はなかったようです。ですから、国家も作らなかっただけでなく、武闘集団を作るには人工的に困難でした。
では、なぜ大和は国家を必要としたかというと人口に対して貧しかったからと言えます。つまり、生活的に困らなければ、民族は国家を必要とせず、独自の生活を維持します。困窮する民族は、略奪を求めて強い武闘集団を形成するために国家が必要です。
アイヌの生活が貧しかったというのは間違いで、物が豊富で有ると言うことと生活が豊かであると言う事は一致しません。何故なら、アイヌ民族は、他の民族から孤立していたのではありません。接していながら、見習いたいと思わなかったのです。憧れなかったのです。
大和朝廷は、遣隋使も遣唐使も使って、中国に憧れ、中国の文字を真似、律令制度を真似ることに最大の力を尽くしました。貧しい地域ほど武闘は強かったのです。確かではありませんが古事記で言えば、九州の阿蘇山の噴火で、九州の北部・中部は痩せた土地で大変だったので豊かな土地を求めて征服の旅に出て、ついにたどり着いたのが大和朝廷の前身と言う事と読めます。征服することによって、貢ぎ物を頂く。それが国の豊かさだったのです。朝貢という貢ぎ物を古代の国家は中国にしています。同様に、国内では同じ方式で、国家は地域から貢ぎ物をさせることで成立していました。
都会に憧れる人も、憧れない人もいます。必ずしもものの豊かさが、憧れとはなりません。ものの豊かさに憧れなかったアイヌは、国家も作らず、文字も必要としませんでした。
縄文と古代文化
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3437.html?g=131202fKaimotu_Hatuji: アイヌ民話とカナダ古代民話の烏・八咫烏
2019-09-02
神話と導きのトリックスター ワタリガラス・ヤタガラス 雑考
ヤタカラス ワタリガラス 古代史 アイヌ史考察
ファースト・ネーション(カナダ先住民)神話のRaven(ワタリガラス)
ワタリガラス(Raven)はトーテムポールで羽根をひろげる「海を渡る」カラスだ。先住民の神話では、世界に光をもたらした創造主、最も重要な文化的なヒーロー、何事をも可能にする、いたずら好きで、ずる賢さも兼ね備えた手品師のような存在として位置づけられている。マジックを使い天地創造に関係したと云われており、太陽・月・星を空へ、魚を海に、鮭を川へ、食べ物を陸へ導いたとされる(Haida族伝承)
■アイヌ伝説のカラス
アイヌ民族は、北海道、サハリン(樺太)、クリル(千島)に広がって生活していた。
カラスにまつわる言い伝えは多数あり、神の名(カムイ)のついた「カララクカムイ」、年老いた賢者のカラス「オンネパシクル」、人を化かす妖怪的な「ペンタチコロオヤシ」などのバージョンがある。いずれにしても、道に迷った人間が遭遇するというシチュエーションで、正しく導くか(正)、誤った方向に導くか(邪)の存在だ。
アイヌ学者の知里真志保(アイヌ民譚集)は「オンネパシクル」(賢者のカラス)をワタリガラスとした。
■千島列島を渡るワタリガラス
北千島(クリル)〜カムチャツカ半島で繁殖するワタリガラスのグループは、今でも、知床半島にわたり、襟裳岬まで生息する。70センチの大型で目立ち「カポ〜カポ〜」という独特の啼き声は、アイヌや先祖の縄文の人々が島伝いに海をわたるのに、たよりになる「先導者」だったことだろう。
クリルの先にカムチャツカ半島、その先にアリューシャン列島、さらにその先にはアラスカ、北米大陸。オレゴン州では縄文とよく似た遺跡が多数発掘されている。
■知床のワタリガラスとカナダのRavenのつながり(海の道)が、科学的に明らかになる日が来ることを楽しみに妄想している。
旧約聖書の「ノアの方舟」で大洪水をおこした大雨が終わった後、ノアがワタリガラスを放ち、陸地を探した。北欧の神話ではオーディンの先駆け、フギンとムニンの2羽のワタリガラスがよく知られている。世界共通で、目的地を知らせ、「導く者」としてのイメージ。日本神話にも導きの「ヤタカラス、八咫烏」がいる。
トリックスター (trickster)
象徴心理学の草分け・ユングが提唱した「ストーリーの展開を変える者、物語を導く者」
静かな水面に石を投げるがごとく、安定を崩し、新たなストーリーを展開させる。スサノオがそうであるし、中国では孫悟空、欧米ではピーターパンが有名どころ。ネズミ男もそんな感じ。話の筋道を変えるキーパーソンであるがゆえに「善と悪」「創造と破壊」「賢さと愚かさ」「誠実と気まま」・・・二面性が特徴でたいていイタズラ好き(最後は許されるキャラ)。ファースト・ネーションズのワタリガラスはトリックスターそのものだ。
■ヤタカラス神話
熊野本宮大社では「ヤタガラス」はスサノオのお仕えとされる。下鴨社・上賀茂社では「ヤタカラス」は太陽と云われた賀茂建角身命(かもつぬみのみこと)であると伝承されている。繋いでみるとトリックスター(スサノオ)が送り出したトリックスター(ヤタカラス)が「神武東征」神話を展開させる。
頭が混乱するが「ダブル・トリックスター・キャスト」で展開するストーリーが意味するものは何だろうか?とにかく、日本の神話や古代史にも鳥がよく登場する。
開物発事 (id:Kaimotu_Hatuji) 95日前
ものづくりとことだまの国
https://www.zero-position.com/entry/2019/09/02/050603 縄文海人集団の超人的なパワーとハンパない渡海能力
古代史 アイヌ史考察 youtube 縄文スタイル
www.zero-position.com
ワタリガラスは海を島伝いにわたるカラスで、Ravenとしてアラスカ原住民族の神(トリックスター)だ。
はるか古代、縄文海人はワタリガラス・Ravenの導きで「北の海の道」
北海道−千島列島−アリューシャン列島−アラスカー北米(アメリカ)大陸
を移動(場合によっては往来)していたと考えても、まったく不思議ではない。なぜなら、彼らの行き先を妨げるものは、大自然(海原)のほかに何もないからだ。
■北海道と北米大陸 海の道
縄文海人のパワーは、現代人基準で超人的
先日(2019年10月24日)の記事で「超人的な」とあえて書いたが、国立科学博物館・海部陽介さんの研究(日本一マッチョな縄文人集団)がそれを証明していると思う。ここは開物の考えだが、縄文海人の骨格の太さ(容積比)を、例えば現代人の約1.1倍と考えると、そのパワーは1.1倍以上になる。なぜなら、それだけの上腕骨格と筋量があるということは、対応して、背筋・大臀筋(おしりのきんにく)・股関節周辺の筋量も多く、骨格もしっかりしていたはずだ。結果としての「総合的なパワー出力」は現代人とは比べ物にならないレベルにあったのは間違いないだろう。
日本一マッチョな縄文人集団より
readyfor.jp
プラス、豊富な航海の技量と海の知識
このような基礎体力にプラスして、季節ごと・時間ごとの潮の流れを読み、また沿岸や島の地形を読み、海を渡り超える。海に命を懸けるプロフェッショナル集団、古代には彼らの行き先を妨げるものはなかった、つまり、無敵の自由移動集団といってもよかっただろう。そして日本海に関していえば、縄文海人(とその伝統集団)でなければ海域の長い移動は困難。たとえば渡来系の人々にとって、列島への道行きは海人たちの協力がなければ「一方通行」ということ。
海人の日本海周辺への拡がりという視点での「渡来民族」の考察があってもいいんじゃないかと考えている。海を渡った縄文人・ケルプハイウェー、ワタリガラス、フォートロックサンダル(Youtube)
最近、北米・アイダホ州で縄文に似た遺跡(石器)が発見されて話題になっていた。あらためて情報を整理している。ところでアイダホ州の西隣が「海の道」にあたるオレゴン州。同州でも、すでに縄文の可能性がある遺跡が、複数、発見されている。これらの遺跡の時代(約一万年前)は今よりも温暖であったことが前提だ(縄文海進期)
ご存知の方も多いと思うが、2年前、佐々木蔵之介さん出演の面白い番組があったのでリンク(42分)
*生物大絶滅と縄文人の謎(BS-TBSより)
www.youtube.com
開物発事 (id:Kaimotu_Hatuji) 40日前
ものづくりとことだまの国
https://www.zero-position.com/entry/2019/10/26/130000https://www.zero-position.com/entry/2019/09/02/050603YouTube
https://youtu.be/lJCLD7g7OvM2019-07-30
下鴨神社(7)賀茂御祖神社・ヤタカラス(やたがらす)のナゾナゾ
下鴨神社 賀茂御祖神社 ヤタカラス 熊野本宮大社 そうだ京都行こう 八咫烏 やたがらす
■下鴨神社は、熊野本宮大社の真北
そもそも下鴨神社に興味を持った話をしておこうと思う。理由は地図の通りだ。
地球座標は北緯(N)と東経(E)で決まるが、東経、つまり、東西の座標は、下鴨神社が135度46分23.4秒。熊野本宮大社・大斎原(おおゆのはら)は同46分27.6秒。その差4.2秒。実際の距離に換算して100メートル(1秒=約25メートルで計算)
南北では200数十キロの距離。
なお、大斎原は熊野本宮大社・旧社地。
地理的な単なる偶然と考えるか、意味があると考えるかは判断にお任せするが、ここでは「意味」を考えてみる。
ひとつ言えるのは、天空で唯一動かない点「北極星」を基準にすれば、南北ライン上で東西を測位するのは、古代でもそれほど難しくないということ。つまり、熊野本宮から北極星を目印に、北上し、古代山背(やましろ、京都)を目指した人たちがいた可能性を意味する。
参考に平城京をポイントしてみたが、途中、御所、橿原、三輪、飛鳥、藤原京など、歴代の古代の都あたりを通過するラインでもある。
私は「畿内・天の御中(北極星)のライン」と勝手に呼んでいる。
*****
この大きくて広い地理的関係を頭に入れて、下鴨神社「烏の縄手」の立て札を読んでいただきたい(以下、文字起こし)
・下鴨神社 烏の縄手 立て札
下鴨神社の七不思議として、古くから言い伝えられている一つに「カラスのナワテ」というのがあります。「カラス」とは下鴨神社におまつりされている御祭神・賀茂建角身命は、別のお名前があり、「ヤタカラス、八咫烏」(太陽という意味です)と呼ばれています。「ナワテ」とは細い(せまい)、長い道ということでヤタカラスの神様へお参りする長い参道との意味です。
・熊野本宮大社のやたがらすの解説(一部)
八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊、スサノオノミコト)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。
www.hongutaisha.jp
さてこの二つの話をどう結び付けるのか、まとめることができるのか、何かを暗示しているのか、そもそも別の話なのか、やはり単なる偶然なのか。
The Long And Winding Road・・・古代からのナゾナゾだ。
よかったら皆さんも推理してみてください。
ものづくりとことだまの国
https://www.zero-position.com/entry/2019/07/30/010721https://www.zero-position.com/entry/2019/09/02/050603 坂口成事
日本人は、なぜに海を渡ったのでしょうか。
これまで、西へ渡った大きな理由は、7300〜6300年前のキカイカルデラ火山活動による、壊滅的な環境破壊だと申して参りました。その時の地層も、地生する植物の進化も、いたる所で見る事ができます。
ところが、その倍ほど昔、東へと渡っていたのです。それは、火山活動の時の太陽信仰以前の、超古代の太陽信仰です。太陽の日の足(影延び、日足、太陽の子)が私たちでありますので、太陽が昇る東を求めたのです。さらには、その日足(八咫烏の足)の黒い影が、ワタリガラスの姿として現れ、追いかけて行く事になったのだと考えています。
拝ヶ石巨石群は、太陽観測のための巨石ですが、河内町芳野東門寺という住所で、町全体が石造りでもある河内町(坂口の実家は船津亀石)の東でもあります。
ところで、今週も、地球創世記、最初のアメリカ人は縄文人の、TV番組を観ています。毎週毎週の番組を貫くキーワードは、ワタリガラスです。アイヌから九州へ嫁に来た大叔母の話では、森や村を守るための戦いのため、人々を先導するワタリガラスの話があり、その話は、神武天皇を先導した八咫烏の神伝と似ています。
ところで、環太平洋のその土地土地の、インディアンやインディオの人類創世にかかわってきた金烏(迦那烏)こそ、私たち神日族(神日巣)日本人の祖先(阿耶高)です。偶然、宇宙人を呼び出す時の言葉も、アヤタカだそうです。そして、インディアン、インディオの方々にとって、日本人は、神であったのです。
ところで、縄文人の縄文土器こそ、それまで、人類にとって毒であったものを無毒化し、人口増加を可能にした神器でありました。されど、最も重要な鍵は、海藻を消化できるという、日本人特有の機能です。お隣の国も海苔を食べますが、生海苔は、日本人のようには、消化できません。この能力が、海岸づたいに、舟で遠距離を渡る事を可能としました。また、私たちの祖先が、天神(北極星)を信仰して参りましたのも、元は、航海のためであったと思われます。
坂口の家に伝わる顕幽神の、八咫烏の三本の足を祀る磨製石器も、造舟のための石です。拝ヶ石巨石群の星座が刻まれた巨石も、拝ヶ石では最も信仰された巨石です。
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https://m.facebook.com/groups/724643797680373?view=permalink&id=2059943610817045対馬 天童信仰ついて、こんな記事がありました
テレビ、アンビリーバボーの「日本の3大行っては行けない場所」(仮)みたいな企画で、わが故郷、対馬のある村が紹介された。そこで紹介されたのが通称「オソロシドコロ」という対馬市厳原町の浅藻(あざも)にある八丁郭(はっちょうかく)である。
対馬には古から天道信仰なるものが存在する。これはその天道法師を祭るお墓なのだ。
正直、対馬に生まれながら、ぼくもこの場所のことは一切知らなかったが、祖母がこのへんの村の出身なので聞いてみると、その村周辺では有名な場所で、実際周りの人からはあまり立ち入ってはいけない場所として、知られていたらしい。其の敷地内に入り、立ち去るときは、お墓にお尻を向けずに、動物のモノマネをしながら立ち去らないといけないという、なんともシュールな言い伝えがある。
しかしその祖母でさえもこのことについて、それ以上のあまり詳しい情報はわからないという。オソロシドコロ、、、ますます、気になる、というか萌える。そこで、いろいろ調べている、さらにアツイ記事を発見したので、ご紹介させていいただく。
673年、対馬南部に超能力者が生まれた。
・その母は虚船(うつろぶね、うつぼぶね)に乗って漂着した高貴な身分の女性であり、太陽に感精して子供を産んだ。
太陽=お天道様であり、太陽の子=天童と名づけられた。
・天童法師は嵐をまとって空を飛ぶことができ、上京して文武天皇の病を治し、「宝野上人」の菩薩号を賜った
・天道信仰の中心人物である天童法師の墓所が龍良山南面・の八丁郭にあり、その母の墓所は北面の山中の裏八丁郭にある。
その2つは特に強いタブーの地として「オソロシドコロ」と呼ばれた。
・龍良山全体(山自体)が天道信仰の聖地であり、内院・浅藻・豆酘などの集落はすべて龍良山のふもとに位置している。
・豆酘の集落内にがあり、ここで神事を行っていた。
・龍良山は聖地として立入や樹木の伐採が禁じられていたため、極めて自然度の高い照葉樹林が残されており、大正時代に「龍良山原始林」として国の天然記念物に指定された。
・豆酘は、古代米の一種・赤米が神事とともに伝承されていたり、かつて中国や日本で行われていた古代の占いの技術「亀卜」(きぼく)が現在も行われているなど、固有の民俗・習俗を伝承する地域。
・天道信仰は、天童法師という超能力者の物語を骨格としているが、穀霊崇拝や太陽信仰、山岳崇拝などさまざまな要素が混ざり合っている。
・天道信仰は、伝承では7世紀が起源とされているが、平安時代から中世にかけて神仏習合により形成された対馬固有の修験道の一種で、その祭祀形式や行事には古神道の要素が多く伝承されている。
・対馬北部のにも「天神多久頭魂神社」があり、こちらも天道信仰の中心地だった。
この絵はUFみたいですよね
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