2019年07月10日

beautyhappinesshide: 惑星ヤハウェ,惑星フェイトン

beautyhappinesshide: 惑星ヤハウェ,惑星フェイトン
古代の太陽系大激変と旧約聖書
2010/12/4(土) 午後 6:28
太陽系と地球の真実
その他自然科学
日本を始めとした様々な国からの搾取や軍産複合体を富ます戦争は、最新兵器の実験場として役割と資金集めとして行われている側面もあるようである。
だが、多くの人たちが宇宙意識に目覚めることで、彼らが目論む計画は最終的には失敗に終わるだろう。
その理由の1つにヨーロッパが再び中世期に突入するということもある。
それに、古代に枝分かれした彼らが地球に帰還するということ以上に、地球は空から訪れる大きな災厄の脅威にさらされている。地球上の生命に極めて深刻な危険をもたらす「宇宙における周期的な大事件」である。
これは戦争やテロのことではない。あくまで宇宙的自然災害である。これは未知の天体によって太陽系の調和が乱されることで引き起こされるものだ。
この惨事は地球人にも責任がある。地球だけにしか高度文明が存在しないということが常識化し、宇宙的な厄災など決して起きるわけが無いように振舞って来た。
宇宙的な厄災は過去に何度もあったのにも関わらず、それは単なる作り話だと思ってきた。そのツケが回ってくるかのようだ。こうして「宇宙的な災厄」が再び巡ってくるのである。
「ノアの大洪水」を地球上の起こした巨大彗星ヤハウェは、水星にも接近したことで水星が収縮させた。その上、ヤハウェに破壊された惑星フェイトンの残骸を水星にも叩きつけたので、水星も月と同様なクレーターが多数ある。
一般的に、天体に落下しなかった小惑星や隕石が惑星の重力圏に捕まったときに、その惑星にリングが出来ることがある。
数が少ないと火星の衛星のような存在となるが、形が小さいもので数が多いとリングになる。
これらは全て巨大彗星だったヤハウェが引力で引き連れていたフェイトンの残骸で、これらを木星や土星、それに天王星や海王星にあるリングの一部は小惑星の残骸によって形成された可能性が高い。
その他にも特に土星のリングはその大きさから、土星の衛星が破壊された残骸も混じっているのではないかと思われる。その中で天王星は巨大彗星ヤハウェとニアミスしているようで、地軸が97.9度という横倒し以上の角度で自転するようになっている。
土星の衛星イアペタスは赤道をなぞるように高さが19キロもある突起構造があり、他の天体と接触したときに出来たと思われる表面に削られた跡がある。
これはデススターに似た形状で、もしかするとスターウォーズの製作者は、公表されていなかった宇宙情報を予め知る立場にあったのだろうか。それに人工構造物も存在しているという。
天王星の衛星であるミランダも表面のアチコチに引っかき傷のようなものが存在していることから、巨大彗星ヤハウェとの接触で出来た可能性もある。そして海王星にも多数の衛星があるがその中のトリトンも海王星の他の衛星とは異なり公転方向が逆になっているばかりか公転角度が大きく傾斜している。
その表面の様子は北半球と南半球とでは全く異なっているのだ。
北半球は起伏が無いのに何故か南半球は地表が変化するほどの引っかき傷がありデコボコして荒れている。
特に最下部近くはデコボコが酷い。
これも巨大彗星ヤハウェとの接触によって出来たものだと思われ、そのままビリヤードのように弾き飛ばされ現在のような異様な公転方向と公転角度になってしまったのだろう。
そして、このときに海王星の衛星が弾き飛ばされたのが冥王星と、その同一軌道上を冥王星を追いかける形で太陽を公転しているヘメラである。それに冥王星の衛星であるカロンを含めて3つとも海王星の他の衛星と似ていることから、おそらく海王星の衛星だった可能性が高いだろう。
冥王星にはカロンの他にもニクスとヒドラという衛星があるが、これは火星の衛星であるフォボスとダイモスのようにフェイトンの残骸のような歪な形をしている。
実は冥王星の大きさは直径が約2300キロで月よりも小さいことがわかったことと、冥王星の外側を公転する惑星エリスが発見され、そのエリスは冥王星よりも大きかったために冥王星は矮惑星に降格した。冥王星の軌道は異質で楕円軌道である。
太陽系の惑星は正確には真円軌道ではなく楕円軌道なのであるが、その誤差が極めて少なく地球の離心率は0.02であるが、冥王星は0.25であり楕円軌道を描いている。その影響で海王星の軌道と一部で交差しており、1999年までは海王星の方が冥王星よりも外側を公転していた。
他の惑星は地軸の傾きは様々だが公転面は横道面とほぼ同じである。
しかし冥王星の軌道は約17度も傾いており、海王星の公転面と比較しても約15.4度傾斜している。
このことは全く斉一論では説明がつかない。
これは明らかに太陽系の調和が乱されて宇宙規模の大激変があったと思われるのである。
現在、海王星にもリングが存在することがわかっている。
これも他の大きな惑星と同様に巨大惑星ヤハウェが引き連れていた破壊された惑星フェイトンの残骸が海王星の引力に捕まったからだと思われるが、その他にも衛星が破壊された可能性も高い。
どうやら、現在では小惑星帯になっている破壊された惑星フェイトンの他にも木星・土星・天王星・海王星の衛星も幾つか破壊されているようだ。それに小惑星帯の中に1つの球体をした惑星が発見された。
他の小惑星帯にあるような小さく歪な形とは明らかに異なることから、破壊された惑星フェイトンの衛星だった可能性が指摘されている。その他にも太陽を公転している小惑星は12個存在していることがわかっている。
そうなると大小あわせて合計する20以上の惑星が公転していることになる。
だから月よりも小さな惑星である冥王星が降格したのだ。それにマダ正式には公表されていない「惑星X」と呼ばれる惑星の存在も
明らかになっている。
これは惑星ヤハウェと同様に大衆に知られては困る惑星である。
ナント他の惑星と比較しても異常とも思えるような垂直に公転しているのである。
横道面から87.2度の角度で、冥王星よりも比べ物にならないので、斉一論による「ガス円盤が回転して太陽系が形成された」という説明では全く解明できない現実であり、太陽系に大激変が起ったことを物語っている。
この惑星の公転周期は冥王星の248年よりも遥かに長いことは確かなようだが、弾き飛ばされた影響なのか、冥王星の外側から土星の内側を通る公転軌道なのである。太陽系の中でも異質な存在である、この「惑星ノクス」は今のところはハッキリと公転周期がつかめていない。
それもエハン・デラヴィ氏が主張しているような約3600年周期で公転している太陽の伴星ではなく、キチンとした惑星であり大気も存在しており、主成分は窒素で少量だが酸素も存在しているようで地球に似ている惑星ということだったのだ。
だが、太陽から遠いためか全域が氷で覆われている。
しかし、その氷はメタンではなく普通の水が凍ったものだという。
衛星の数は7個で全てが火星の衛星と似た小惑星のような歪な形をしている。
一方で、ある天体が必要以上に接近したとき、その天体が地球の大きさに近いほど重力による「潮汐作用」を大きく受けることになり、地球に世界規模の地殻変動をもたらし地球上は大変な状態に陥る。
ノアの時代に、エノクのいた町が人々を乗せたまま空中高く浮遊して何処かへ消え去ったという伝承があるが、これを牧師だったスウィフトに「ラピュタ」物語の構想を思いつかせたのである。
そして「聖書外典」にはエノク自身が空中を浮遊したという記述もあり、これもプラズマ領域が関与したことが十分に考えられる。地上から消えたエノクの町は太陽に向かったとする伝承が残されている。
その直後に「ノアの大洪水」が起きていることから、この現象も天体の超接近によって重力が変化してプラズマ領域が至る所で引き起こされたことだろう。
当時、世界各地で様々な温度の自然プラズマが発生していたことは、インド北部とパキスタン南部のモヘンジョダロ一帯に散在しているガラス状地形は、摂氏数千度の超高熱プラズマで大地が焼かれたことを意味していと思う。
イギリスの考古学者であるジョン・マーシャルは、古代に大規模な自然災害が発生したと考えた。
だが、それをに異を唱える古代史研究家のデーヴッド・ダヴェンポートとE・ヴェンセンティは、その大災害こそが古代文明同士で核兵器による戦争が起きた跡であると発表して世界中で驚きと共に支持された。
確かに既存の核兵器の爆発による高熱現象はプラズマによるものであるが、古代においての核戦争は突飛過ぎるのである。核兵器を製造するような文明は長い歴史的積み重ねによって出来るものなのである。
それを造る設備や工場や人材と様々な化学的環境が無ければならないので、イキナリ核兵器を造れるような文明が発生したとは思えない。世界中探しても原子炉施設があった形跡すら存在していないのである。
だから、古代に核戦争が起きたことことは極めて無理がある。
要するに、これだけの超高熱を生むようなことは科学的兵器でなければ出来ないという前提の下で考え出されたものであり、超高熱を生むことは自然現象では起きるはずがないというのも現代科学が抱える傲慢さである。
こうした現象が自然に発生するということを大衆に知られたくないという思惑も一部には存在したのだろう。実はモヘンジョダロが位置する緯度と近い場所に多くの天変地異が集中して起きていたのである。
それは北緯28度近辺であり、世界各地で天変地異が頻発していたころに、インド北部で大発展していたモヘンジョダロが一夜にして廃墟となった。果たして、古代の地球に超高熱を発するような自然災害が起きていたのだろうか。
紀元前1290年、古代イスラエル人はモーセに率いられてエジプトを脱出。
このことは歴史的事実であり作り話や物語ではない。
旧約聖書の記述が非現実的に思えるために、現代のアカデミズムは幾つかの奇跡的な現象を神話や作り話として扱って無視している。しかし、これまで述べたように聖書の記述を宇宙規模で俯瞰した場合、そこには現実の出来事だったことを見つけることが可能となる。
「モーセの奇跡」とされている部分は旧約聖書の「出エジプト記」に書かれており、その1つにナイル川が血の色のように真っ赤に染まって魚が殆ど死滅したことが記されている。
「彼は杖を振り上げてファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った、川の水はことごとく血に変り川の魚は死に悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうしてエジプトの国中が血に浸かった」(出エジプト記、第7章20〜21節)
殆どのユダヤ教徒や一部のキリスト教徒は、この部分をナイル川だけに起きた現象と思っているようだが、エジプトと隣接しているシナイ半島に「紅海」があるが、この「紅」の意味は、過去に海までも赤く染まったことから由来している。
バビロンでも天から降ってきた赤い塵と血の雨が記録されており、これがエジプトだけで起きたことではないことを物語っている。
エジプト人であるイプワーは「川は血なり」とパピルスに書き残し、更には
「水を求む。それこそが我々の最大の望み。これが無ければ一体何を求めようか。後はすべて破滅だけである」
とも記している。
これは聖書以外で起こされているものである。そしてアメリカ大陸の古代マヤ文明の「キチェ文書」にも
「大地が揺れ動き太陽は静止し、川の水は血に染まった」
とあるという。
北欧のフィンランド伝承である「カレワラ」にも
「天空で動乱があり、世界中が真っ赤に染まった」
と残されている。
アジアのアルタイの地に住んでいたタタール人の伝承にも
「血で世界を赤く変えた」
とある。
古代ギリシャの「オルフェウスの賛歌」にも
「壮麗なオリンポスが振動し、海洋が赤紫色の波頭を上げた」
と記されており、バビロニアの神話にも
「天魔ティアマトが傷を負ったとき、地が流れて大地を赤く染めた」
とある。
ティアマトは、ユダヤ系ロシア人の精神分析医だったヴェリコフスキーはフェイトンという名で表現している。
このことから、惑星フェイトンが破壊された影響で地球上に赤い錆びが降ってきたという意味にも取れるのだ。
つまり、モーセの時代に地球上に想像を絶する天変地異が頻発していたのである。
現在のエジプト一帯には鉄分を多く含んだ地層が残されているが、これは酸化鉄(錆び)が降ってきた可能性を示しており、鉄分は惑星の内核の他、小惑星や隕石の重要な成分でもある。
特に酸化第二鉄は処理方法によっては錆びると真っ赤に変色するのだ。
その上、聖書ではエジプト全体やパレスチナを襲った疫病についても記述している。
「見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ロバ、ラクダ、牛、羊に臨ませる」
(旧約、出エジプト記第9章3節)
最近の研究によれば、インフルエンザを含む疫病の蔓延が、彗星の到来する時期と不気味に一致していることがわかってきた。1977年にこのことに気づいたイギリスの天文学者たちは、「ウィルス宇宙起源説」を発表。
1918年に第1次世界大戦の最中に世界中を襲ったインフルエンザが発生した。
それは後に「スペイン風邪」と呼ばれ、最初はアメリカ兵の間で急速に蔓延し、6月にはイギリスに飛び火してイギリス国内に感染が拡大。
そして一気に世界中で広がったことで、その間は僅か2年の間で約2500万人もの死者を出し、日本では約38万人が死亡したのである。
太陽からの放射線を直接受ける宇宙空間の方が、ウェイルスの突然変異が起き易いようで、最近のアメリカでの成層圏より上の高度検査でも、我々の予想以上に多くの未知なる細菌やウィルスが浮遊していることがわかった。
体が溶解していく難病である、劇症溶連菌感染症の患者が初めて発見されたのが、ハレー彗星が地球に最接近した1986年2月9日に近日点を通過したが、その後に最初の患者が発見されたのである。
こうした絶妙なタイミングで新たな難病や奇病が発生していることは、宇宙から降ってきた何か未知の病原体が引き起こしている可能性も考えられるのです。
そして、古代のイスラエル人だけでなく、現代のユダヤ教徒が最高の奇跡として認めている「モーセの紅海割れの奇跡」は、出エジプト記の最高潮の話だが、海が底を現すほど2つに割れるというシーンは圧巻だ。
海には引き潮と満ち潮があるから、これは引き潮が起きたのではないか?という意見も多いようだ。確かに太陽と月と地球が直線で結ぶように真っ直ぐになる新月と満月の大潮の時は干満の差が最大となり海流の方向が変る現象も起きる。
ノバスコシアのファンディ湾は13mの差が発生するし、モン・サン・ミシェルは、海の中に建築された修道院だが、1日に2回も潮が大きく引けて全長が18キロの海の底が出現する。だから、モーセの紅海割れは引き潮だ!という説もある。
しかし、その後の紅海では「紅海割れ」と同様の現象が1度も起きていないことから、当時は未曾有の潮汐作用が働いたと思われる。
地球と同程度の天体が接近したとき、凄まじい潮汐作用は生じて強風を伴う大嵐で海面が高く盛り上がって、一方の海岸線の水が大きく引けることもあるという。そこを偶然にモーセ一行が通りかかったというが、これは旧約聖書の記述とは異なってしまう。
「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった」(旧約、出エジプト記第14章22節)
このことから、天体の接近による潮汐作用の他にも凄まじい磁場が発生し自然プラズマ現象が頻発して起きたのではないか。
以前、テレビ番組で見たことがあるが、九州大学の工学部生体情報システムの実験で、幅10センチ長さ1m深さ5cmの細長い水槽に水を入れて、そこに強い磁場を発生させたところ、水が左右に分かれて底部が露出したのである。
まさにモーセの紅海割れと同様な現象が発生した。水が磁場の強い方から弱い方に向かって動く反磁性を持っていることは事実であり、物理学で既にわかっている。
そして医療用MRIの数倍の強い磁場を放射すると、その磁場を中心として水が両側へ押しやられることで水が垣根のようにそそり立ち底が露出する現象が起きる。その強い磁場を地上の大気中に発生させた原因が地球と同程度の天体なのである。
それは現在では地球の近くに存在し太陽を公転している星である。当時は誕生間もない時期で巨大彗星としてプラズマの尾を引きながら地球に接近した天体とは巨大彗星メノラーだった金星である。プラズマの尾が地球に接触したことで凄まじい磁場を発生させた。
この天体規模の磁力線の交差現象は、太陽表面で起きるプラズマ現象と似た特殊なプラズマを発生させたのだろう。太陽表面で起きている磁力線の特殊な交差現象は既に各国の太陽観測衛星で確認されている。
これは通常のプラズマ火球を発生させる交差とは少し異なっているもので、当時の地球上では想像を絶するような凄まじい雷鳴が鳴り響き、巨大な雹が降り地上全体を暗闇で覆ってしまったことだろう。
「主はエジプトの地に雹を降らせられた。雹が降りその間を絶え間無く稲妻が走った。それは甚だ激しく、このような雹が全土に降ったことは、エジプトの国が始まって以来かつてなかったほどであった」(旧約、出エジプト記第9章23節~24節)
このときエジプト全土を覆った凄まじい闇の記述は、暗黒化したプラズマ現象と非常に酷似している。
「モーセが手を天に向かって差し伸べると、3日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は3日間、互いに見ることも自分のいる場所からも立ち上がることもできなかった」(旧約、出エジプト記第10章22節〜23節)
地球に最接近した巨大彗星メノラー(金星)によって、地球の磁場が捻じ曲げられ、地上では信じられない磁気嵐が生じて自然プラズマ現象が起きていた可能性もある。それが紅海割れを起こしたのだろう。その強い磁気嵐によって自然プラズマが凄まじい雷となって地上を這い回ったと思われる。
プラズマによる巨大彗星メノラーと地球との間で発生した莫大な静電気で、モーセの後を追ってきたエジプト軍の戦車の金属部品を使用した車輪が重くなり速度が遅くなったことも頷ける。
これが聖書で言う「火の柱がヘブライ人を守った」ということに繋がるのだ。
こうして、そのとき地球上では超高熱プラズマが大気中を飛び交っていたと思われるのです。
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」(旧約、出エジプト記第13章21節)
こうして古代エジプトで凄まじい天変地異が起きていた頃、同緯度に存在したインド北部では、モヘンジョダロ周辺に超高熱のプラズマが乱舞し荒れ狂い、地面も含めてレンガや陶磁器など様々な物をガラス状に溶解した。
同緯度で起きた事が天体の超接近によって引き起こされたものであるといえる。実は、このことを木星から噴出した巨大彗星メノラー(金星)と気がついたのが、ユダヤ系ロシア人の精神分析医だったヴェリコフスキーだった。
彼は誕生して間もない灼熱状態で彗星のように長い尾を引いていたと考えて、それがモーセの奇跡を引き起こしたと主張したのである。その根拠として、古代の文献や物語の中に金星に関する記述が紀元前2000年以上前には全く存在しないことに気づいた。
それ以後からは古代バビロニアの粘土板に金星と思われる惑星の記述が登場し、
「大きな星たちに加わった大きな星」
と記されていることから、金星が新しく出現した星と解ったという。古代ローマのアポロニウスの記述にも
「全ての天体が全部そろっていない時代があった」
とある。
古代バビロニアのシュメール人も金星の神イシュタールを"髪のあるもの"と記し、その後の新バビロニアの記録にも「髭のあるもの」とあることで、当時の金星が彗星のように尾を引いていたことだとしている。
金星の誕生について、ヴェリコフスキーはギリシャ神話の中に、「美の女神ヴィーナス(金星)はゼウス(木星)の頭から出てきた」記されていたことに注目し、木星の爆発現象で飛び出した灼熱の金星は、今の公転軌道に収まるまで太陽系内を暴れ回っていたと主張したのである。
以前も書いたが、モーセの奇跡にある天から降ってきた食べ物である「マナ」も空気中の炭化水素が細菌の作用と絶え間ない大気プラズマ放電現象によって食べられる物質へと変ったと思われ、強力なプラズマの発生時に降るフラクタル物質の一種なのだろう。
「朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄く壊れ易いものが大地の霜のように薄く残っていた。・・・イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それはコエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした」旧約、出エジプト記第16章13〜31節)
「モーセの奇跡」は木星の超巨大火山「クロノス」から噴出した巨大彗星メノラー(金星)が引き起こした現象であれば、それは世界規模で起きていたはずであるから、シナイ半島を移動中にイスラエル人たちの前に降ったマナと同じものが世界には存在する。
それは「ギリシャ神話」に残る天から降った食べ物である「アンブロシア」であり、インド神話にもある甘い食べ物「マドウ」でもあり、中国での呼び名は「甘露」という名である。
甘露の意味を国語辞典で調べると「天から与えられた不老不死の霊薬」や「中国古来の伝説にある天子が仁政を行う前に降るという食べ物」と書いてある。これで、古代中国にもマナが降ったことは間違いないと思われる。
そして、モーセがエジプトを脱出した紀元前13世紀頃は、地球の南北が入れ替わった時期でもあった。イプワーの書いたパピルスにも「夏の代わりに冬がやってきて、月日は逆に進み時間は混乱した」とある。
同じ頃の中国でも東西南北の『測量をやり直して、暦を新しく作る作業を皇帝が命令している。古代ギリシャの史劇「エレクトラ」にも「モーセウスは太陽の位置を変え、西からではなく東から上がるようにした」とある。
ヴェリコフスキーは紀元前1400年頃にも再びメノラー(金星)が地球に大接近し、地球を大きく傾斜させたと主張した。これは以前も書いたように聖書のヨシュア記の中に「太陽が1日中、天空で停止した・・・」と記されている。
これは地球が静止したのではない。もし地球の自転が静止すれば赤道付近では時速1674キロもの猛スピードで地上にある物は全て東へ向けて飛んでいってしまうだろう。これは自転が停止するのではなく地球が回転するポールシフト(極移動)が起きたことを示している。
モーセの跡を継いだヨシュアの時代、約束の地である「シオン」を手に入れるべく、アモリ軍との戦闘の時にも大異変は起きた。このとき集結していた敵軍の数が多く、ヘブライ人の運命は風前の灯に近かった。
そこでヨシュアは絶対神ヤハウェに祈ると、ナント太陽が空中で静止したことで敵軍の頭上へ凄まじい大量の岩を降らせたという。
「彼らがイスラエルの前から敗走し、ベト・ホロンの下り坂に差し掛かったとき主は天から大石を降らせた。それはアゼカまで続いたので、雹に打たれて死んだ者はイスラエルの人を剣で殺した人よりも多かった」(旧約、ヨシュア記第10章11節)
天空から巨大な岩石が降ってくるという描写は、今で言えば隕石の大群の「流星雨」だろう。そして巨大な雹まで降ってきたというから、これは大気圏は天体が引き起こす潮汐作用と大規模な気象変動のために、凄まじい状態に陥っていたと考えられるのだ。
このときの起きた極移動によって、モーセの時代に南北が入れ替わった地球が再び回転して元に戻って現代に至っていると思われる。その後、巨大彗星メノラー(金星)は火星とニアミスを起こして火星と衝突寸前にまで接近した。
これはギリシャ神話に登場したアレス(マース・火星)と金星となったアテナは、ホメロスの叙事詩「イリアス」に敵対する関係として登場している。トロイの王プリアムは自国を包囲したギリシャに対して戦いを挑むが、そのときに関わる神の名をギリシャ軍が「アテナ」、トロイが「アレス」としている。
これは実際に起きた戦争を火星と金星が宇宙空間で争ったことを実際の戦争に当てはめたものだと気づいた古代ギリシャの学者ヘラクレイトスは、叙事詩イリアス中に描かれた神々の戦いは、天体同士のニアミス或いは衝突を意味するものと考えた。
同じような表現は古代アメリカのネイティブの伝承にもあり、インカ帝国の守護神「ケツァルコアトル」は金星を意味し、敵対していたアステカ人を「フィチロポチトリ」として火星を示しているという。フィチロポチトリは戦いと殺戮の神とされている。
メキシコに古くから伝わっている宗教儀式の中に、ケツァコアトルの役をする祭司が、フィチロポチトリに矢を射かける場面があるのだが、これは灼熱の巨大彗星メノラー(金星)が火星に向けて惑星間でプラズマ放電したことを意味しているのだと考えられる。
そしてアレキサンダー大王が築いたエジプトのアレキサンドリア図書館にも、紀元前3世紀の図書館長だったエラトステネスが書き残したといわれる文書に「金星は火星を捕らえ、激しい情熱で火をつけた」と記されているというのである。
アッシリアやバビロニアにある碑文を見ると、古代において火星が紀元前9〜8世紀頃になると突如「軍神マルス」として人々に恐怖をい与える天体に変貌したのである。火星は金星から矢を受けると真っ赤な血の色に変化した・・・という伝承もある。
こうしたことは、それまでの軌道から弾き出されて不安定な軌道を描き始めたことによるものだろう。このときに弾き出された影響が現代も続いているかのように、今でも少しづつではあるが火星は地球への接近が継続している。
金星の分厚い大気の下にある地表は赤い色をしている酸化鉄であることは金星探査で判明しているようだが、何故に火星が急に「軍神マルス」として畏敬と恐怖の対象に変化したのかということは、金星から放出された酸化鉄によって火星の表面の一部が赤い色の変ったからだと考えられるのだ。
実際に火星の表面の全部が赤い色をしているのではなく、約半分が赤い色をしているだけで、残りのエリアは黒褐色の大地である。このことから、金星と接触した側に赤い色が付いたのだろう。
これがモーセの時代に地球にも降ってきた赤いサビではないか。金星と火星が衝突寸前のニアミスをした後、火星が急に恐怖の対象となった理由は、巨大彗星メノラーとして金星が太陽系内を暴れまわった代わりに今度は金星に弾き飛ばされた火星が太陽系内を暴れまわったからである。
そして地球に最接近して大災害を与えたから、人々は火星を恐怖の対象とした。そのことは、紀元前702年にアッシリア王だったセンナケリブは、イスラエル南朝ユダ王国のヒゼキヤ王の治世にエルサレムを包囲し、献上された莫大な財宝を戦利品として持ち帰った。
だが、ヒゼキヤが自国の防衛のためにエジプトやエチオピアと同盟を結んだために怒ったセンナケリブは大軍勢を率いて再び南下してきた。
紀元前688年にはアッシリアの遠征軍の数は約20万人という大軍勢に膨れ上がっており、しかし突如としてアッシリア軍勢の殆ど(約18万5千)の人数が何者かによって瞬時に壊滅状態にまで陥ってしまったのである。
「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で18万5千人を撃った。朝早く起きてみると彼らは皆死体となっていた」(旧約、列王記、下、第19章35節)
これは火星の大接近によって発生した灼熱のプラズマがアッシリア軍勢の陣営がある場所に出現し、大勢の命を奪ったことを意味している。「主の御使い」とは光輝くプラズマ火球のことだろう。
そして他の記述には「主の御使いの舌で多くの敵軍が撃たれた」とあるから、大きな光輝くプラズマ火球からアチコチに稲妻のような放電現象が生じたものと考えられる。
「イザヤは答えた。ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって主は約束をなさったことを実現されることがわかります。影が10度進むか10度戻るかです。ヒゼキヤは答えた。影が10度伸びるのは容易なことです。むしろ影を10度後戻りさせてください。そこで預言者イザヤが主に祈ると、アハズの日時計に落ちた影を10度後戻りさせた」(列王記、下、第20章9〜11節)
これが意味することは、太陽が東から昇って西へ移動するのではなく、西から昇って東へ移動したことになる。このとき地球は逆回転していたのである。この異変の主犯は金星であるが、地球に直接的に天変地異をもたらしたのは火星なのです。
何故なら、この当時の記録の多くが火星が凶暴星として扱われているのである。この頃は金星は既に落ち着き始めており、火星は地球よりも小さいために地球に与える潮汐作用も金星ほど大きくなく僅かに地球が傾いた程度の地軸傾斜が起きただけで済んだ。
しかし、地上では凄まじい極移動現象が起きていた。それまで北半球の温暖地域だったシベリア地域が突然に極寒の極地に移動し、マイナス50度前後の地域へと変貌したのである。キンポウゲなど温帯性植物を食べていたマンモスの群れが瞬時に窒息死してしまった。
肺胞へ急激に冷気が入ると肺の中の水分が凍ってしまうのである。南半球では、それまでオーストラリア南部にあった南極の氷河が瞬時に温暖な気候地域に移動したことで、温暖だった現在の南極大陸が極寒の南極地となってしまったのである。
紀元前2世紀頃の中国の歴史家ファイ・ナン・ツェが記した古代現象の中に「ルー・ヤン公がハンと戦っていたとき、戦いの半ばに太陽が沈んでしまったので、公は槍を振って太陽を呼び戻したところ、太陽は公のために三宮だけ戻ってきた」という記述が残っているという。
この現象が起きた頃は中国では紀元前5世紀以前の現象だとされている。三宮というのは横道12宮の中の3つという意味である。こうした現象などで火星が「軍神」として恐れられるようになった記録はアッシリアにも存在したようです。
それにはアッシリア軍が「主の御使い」の攻撃で壊滅したときの王だったセンナケリブは「ネルガル(当時のバビロニアでの火星の名)が嵐の王であり戦いの神で、これが我らに敗北を与えた」と記している。
その後、センナケリブの子で王の座に就いたエサルハットンも、ネルガル(火星)は全能の神として崇拝し、凶暴さと恐怖を与える神として畏敬の念を表している。
古代インドでも紀元前8世紀頃を境に、火星に対しての認識が変わって絶対に観測を怠ってはいけない天体になった。
ローマ帝国の創立は紀元前748年だが、この年のパレスチナでは「ウジアの騒動」と呼ばれる大災害が起きており、中近東では「ナポナサル紀元のはじめ」として全暦の大変革が行われた。
このときに日数を増やして1年を365日に変更したのである。中米マヤの暦の中に1年を360日とした「トゥン暦」が存在するが、これは当時の名残りなのである。この時期を境に火星は「軍神マース」と変り、不吉な星として認識されるようになっていったのです。
「ノアの大洪水」以前の太陽系の惑星は不安定な軌道を描いており、現在のような公転軌道には落ち着いていなかったようで、隣り合った惑星同士は頻繁にニアミスしていた可能性が高いのである。
地球と同じ構造の地殻をもった惑星である金星が木星の大赤斑の真下にある巨大火山「クロノス」から噴出したのであれば、地球も太古に木星から噴出したことになるだろう。エジプトの3大ピラミッドは墓ではない。
一種の神殿でもあり、スフィンクスは日本の神社でいうところの狛犬やキツネに相当し、反対側に口の開いたスフィンクスが存在した可能性がある。それらは「ノアの大洪水」が起きる以前の文明の遺物なのだ

一般的な定説となってしまったクフ王やカフラー王が建造したものではないということになる。ヘロドトスは著書「歴史」の中で、大ピラミッドをクフ王が築いたものであると記していた。
しかし、彼は晩年になって「間違いだった」と記しているが、それはアカデミズムでは取り上げられていないのである。彼らは「定説」が歪められたり覆されるような都合の悪い仮説や発表は黙殺する傾向にある。
彼はクフ王やカフラー王が築いたピラミッドは3大ピラミッドの脇に建つ3つの小さなピラミッドだった!というのである。
大ピラミッドの中の重力拡散の間に記述された「クフ王」を意味する文字は、イギリスのリチャード・ハワードという詐欺師が自分の手柄としたいために自分で書いたもので文字が間違っているという。
構築してきた斉一論や進化論をモデルとする「定説」が覆されるのは困るのだろう。もしかするとハワードは彼らの代理人だったのかもしれない。
エジプトの古い伝承では大ピラミッドを建造したのは「ノアの大洪水」の時代のエノク人とされている。スフィンクスは大洪水で奇跡的に破壊を免れたものなのである証拠に、想像を絶するような大規模な水で短期間で浸食された痕跡が残っているという。
実は「ノアの大洪水」以前の地球上には身長が3mを超える巨人族が存在したようだ。その巨人族の中には5mを遥かに超える民族も存在した。巨人族が存在したことは旧約聖書の中にも、それらしき記述がある。
「当時もその後も地上にはネフィリムがいた」(旧約、創世記第6章4節)
「ぺリシテの陣地から1人の戦士が進み出た。その名をゴリアトといい、ガト出身で背丈は6アンマ半」
(旧約、サムエル記、上、第17章4節)
ノアの大洪水以前の時代には世界中に様々な巨人族が存在し、彼らは戦争に使われ大きな戦力となっていたようですし、彼らも巨大であるというだけで人類の一種だったようです。この旧約聖書の記述にあるネフィリムは巨人族の意味で、英雄とも訳される存在である。
ダビデと戦ったとされるゴリアトも巨人族の1人だった可能性も高く、1アンマが約50センチ弱くらいだから、ゴリアトの身長は3m以上あったと推測される。その他の地域にも更に大きな巨人族がいたと思われます。
そして、今では巨体の哺乳類だった可能性が高くなってきている恐竜と同様に、ノアの大洪水の後に起きた地球大激変の影響で自転速度が遅くなったことで生じた重力変化や酸素濃度の急激な低下現象によって、彼らは次第に自分で立ち上がって歩くことも難かしくなくなってしまって絶滅してしまったと考えられる。
これは、斉一論と進化論を基盤としている現代アカデミズムが根底から覆されることであるから今まで西洋地域を主として隠蔽されてきた。しかし、アジア地域の人々は、そんなことなど関係なく公表しているから、いずれアカデミズムの大崩壊または大幅な修正を余儀なくされることだろう。
こうなるとピラミッド建造した方法が解明できるかもしれない。こうなると定説とされているピラミッド建造方法は虚構となり、巨人族によって建造された可能性が出てくるのである。
今やテレビ放送や図鑑などで定説のような扱いで紹介されている吉○教授やザ○博士などの専門家の主張する仮説も、その根底には斉一論や進化論を基盤としていることから、彼らも近未来において修正を余儀無くされることになるだろう。
殆どの学者は斉一論や進化論から突出した仮説を発表しても取り上げてもらえないどころか、学会から異端視されてしまいますから学者を続けるために彼らも痛し痒しの思いでいる人も多いでしょう。彼らも大変な仕事だと思います。
いまだに未発表である惑星ヤハウェの存在は、現代アカデミズムを完全に崩壊させてしまうほどの威力を持ったものであるからナサも発表できずにいる。しかし、いつまでも隠蔽し続けることは出来ないだろう。
近い将来において太陽の向こう側から顔を出す時が近づいている。多くのアマチュア天文家に発見され彼らが騒ぎ出す直前に発表されるかもしれない。
だが、それは我々人類にとって「ノアの大洪水」が史実であったことや、恐竜が絶滅した年代が数千万年以上前としている定説を覆し、その恐竜などが絶滅した時代が今から約4500年ほど前だったことが信憑性を帯びるとともに、それを確実に証明するものになる。
そうすれば月の真実の姿や「ノアの大洪水」を起こした膨大な水が何処から降ってきたのか、それと共に火星の高度文明が滅亡した時期が「ノアの大洪水」と同じ時代だったことが明らかになるだろう。
これは地球と公転軌道が2点で交差する軌道を描いている。ナサが未発表のまま隠蔽し続けている惑星ヤハウェは、約4500年ほど前に木星の大赤斑の真下に存在する超巨大火山から噴出したものである。
木星から噴出した当時はマダ彗星のように太陽系内を超楕円軌道を描いて公転していた。この巨大彗星だった惑星ヤハウェが地球に最接近したことで、地球の姿を大きく変えてしまったのである。
太古の地球は今よりも1周り小さくて、地上も1つの大きな大陸のような陸地が存在した。上空には分厚い水蒸気の層が重なっている雲があり、これが地球上の多くを温暖な気候にしていた。
「天の下の水は1つに集まれ。乾いた所が現れよ」(旧約、創世記、第1章9節)
これは明らかに天地創造の記述であり、「天の下の水」は海を意味しており、その海を1箇所に集めるためには陸地も1つであるはずだ。ノアの大洪水が起きるまでの地上は「パンゲア」という1つの大陸だったのだ。さらに天地創造の記述もある。
「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された」(旧約、創世記、第1章21節)
ヘブライ語で大きな怪物を調べるとTANHANIMで、その意味は「首を長く伸ばす」という意味である。
もう、わかるだろう。
この怪物とは恐竜のことである。
当時の地球は自転スピードが今よりも少し速かったので重力が今よりも小さく、様々な大きさの人類が存在しており超大型哺乳類だった恐竜と数種の人類が共存していたのだ。
しかし、突如として宇宙的天変地異が起きた。
巨大彗星と化した惑星ヤハウェの超接近で、氷天体で内部に膨大な水を内包していた月はヤハウェの潮汐作用で表面の地殻の一部が破壊され穴が開き、そこから莫大な量の水が噴出。
それが宇宙空間の絶対零度によって氷塊になり地球の引力で地上に落下した。
大気圏に入ると氷は融けて未曾有の大雨として約40日も地上に降り注いだ。何故、旧約聖書の記述に40日も大雨が降ったことが書かれているかといえば、ヤハウェが接近したときの重力で月が地球に「ロッシュの限界」まで接近した。
つまり、地球を周回しながら膨大な水を噴出させたのである。当時は今よりも1周り程度小さかった地球は一時的に水で覆われてしまった。ノアの大洪水の伝説は、このことを表しているのです。
巨大彗星ヤハウェの潮汐作用によって、急速に地球は膨張し始めプレートテクトニクスが初動し大きな大陸は分裂していった。
「ノアの大洪水」の記述にあるように、地表は一時的に水没したが、地球が膨張し始めたので再び地表が出現した。
だが、そのときに再び出現した地表は元の大きな大陸ではなかった。
大陸が分割して移動し、それらが衝突した場所に山脈が形成されたのである。
トルコのアララト山系からノアの箱舟の発見され、各地でも巨大な木造船が見つかっている。
アカデミズムで構築した仮説を定説にまで持ち上げることによって、これが一般人には荒唐無稽な作り話と思わせておき、それらの出来事が約4500年前の出来事だったことを未だに隠蔽し続けている。地球を襲った巨大彗星ヤハウェは、その後に近日点を通過し太陽系の深部に向かった。
ヤハウェは数々の惑星とニアミスし太陽系内を暴れて調和を大きく乱した。
以前にも書いたが、再び木星に接近し月と同様の氷天体の衛星を破壊して木星に木星の重力圏でリングを形成させ、土星に至っては幾つかの氷天体の衛星が破壊されて大きなリングを形成させた。
天王星に超接近して衛星を破壊してリングを形成させた上に天王星の自転地軸を横倒しにした。
海王星も衛星を破壊されたようでリングが存在しているし、その海王星の衛星の中には多数の傷が表面に存在している。
それに元々は海王星の衛星だった冥王星と衛星カロンと冥王星と同一軌道上を公転している惑星ヘメラも現在の横道面から約17度も傾斜した公転軌道となっている。
しかも楕円軌道を描いて海王星の公転軌道の内側に入るという太陽系の惑星としては異質な公転をしているから、海王星の衛星だった3つが冥王星の軌道である現在位置まで弾き飛ばしたと思われる。
冥王星や衛星カロンと惑星へメラの形は海王星を公転する多くの衛星に酷似している。更にナサは未だ発表をしないで隠蔽し続けている垂直軌道を描いて太陽を公転している「惑星ノクス」がある。
これは一説によれば太陽の伴星のネメシス「惑星X」でゼカリア・シッチン氏の主張するニビルではないか?と言われているようだが、シッチン氏の大胆な仮説も斉一論の範疇から抜け出せていないように感じる。
だから、そういう見解になってしまうのだろうし、ジュメール石板の解読ミスも多くあると思われるのである。
この「惑星ノクス」は極寒であるが地球に似た惑星であることを知られたくないという当局の思惑もあるのだろう。
その垂直軌道になった時期が「ノアの大洪水」の時期と重なるかもしれないのである。
こうして、火星の古代巨石文明が滅亡した時期と、ヤハウェの潮汐作用で比較的小さな惑星だったフェイトンが破壊され小惑星帯であるアステロイドベルトが出来た時期と、地球で「ノアの大洪水が起きた時期が、ほぼ同じ時代だったと考えられる。
ホークランドは「火星の古代文明が滅亡したのは約50万年前である」と主張して多くの学者に支持されている。だが、そうではない。火星の古代巨石文明は約4500年前に滅亡したのであるが、何故に50万年前という数字が算定されるかといえば、そう・・・斉一論を基準としているからなのである。
しかも、その火星に存在した古代巨石文明の担い手も我々人類と同じ存在だったのである。
アカデミズムは斉一論と進化論を基盤とした数々の派生モデルを死守するとしたい狙いがある。
それと共に、世界支配層にとっては地球と同時期に地球以外の惑星に我々の様な人類が高度な文明を築いていたということから、目を逸らしたい思惑も働いているように思われるのです。
もはや定説とされている「ラプラスの惑星形成論」は間違っていたのです。
いずれ、金星も地球も火星を始数多くの衛星も木星の超巨大火山から噴出したものであるということが明らかになるだろう。
それに木星と土星と天王星と海王星などの大きな惑星は太陽の地殻に存在する超ド級巨大火山から噴出されたものであるという。
そう、太陽からも惑星が生まれているのです。太陽黒点はいつまでも存在するわけではなく、1年以上存続するものもあれば3日ほどで消えてしまうものもあります。
そして、それら多数の黒点が現れる位置には明らかな共通性があり、現れる時代は大きく違ってもほぼ同じ経緯度に出現しているというのである。

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2019年06月27日

sayufm_musiclabo解析: 出エジプト

sayufm_musiclabo解析: 出エジプト
出エジプトからのイスラエルの旅路は、<民数記>での後半終りがけ第33章で、その旅の宿駅名を順に記す事で一つに纏められたふうに記されている。
しかしこれは、1−2節での説明書きのごとく、モーセがその宿駅(地名?)を書きとめた<古い文書もの>の宿順を参照してそのまま記入したものとみられる。
それゆえ、その大半の宿駅名(地名?)は、古くて今では特定判明することが出来ないし、また、モーセが覚えのため、何ら地名のないところでの宿営地をして、その地理的特徴に当てた宿名を名付けたとの推定もされれうる。
特にシナイ山を後にした、その旅路の初期の2年目、3年目のうちに<雲の柱の確かな先導>により宿営地が定められた折りに名付けたりして、
そして、その後、それから38年の期間、それはほとんど記事記録のない長い空白の時で、その後半終りにモーセ、アロンらに大々的に叛訴する大きな背反事件の起こりとその裁きの顛末処置(民数記16−17章)の詳述がなされた以外、他に目ぼしい記録もなかったが、その貴重な宿駅名録を基に準拠、照らしたかたちで、その長い年数を久しく行き巡る宿営生活が続けられていったという具合であった。
ともかく、ここでの<旅路順遍歴図>の説明としては、その第33章の前、後半の記事を参考に
民数記、出エジプト記、申命記
での他の言及記事、及び関連記事を検証し、それらの記事関係からの矛盾的な点、不明瞭な処を正しく解読し想定したところの<新旅程遍歴図>のものとして、ここにまづ呈示しておきたい。
先ずその旅程順は、出エジプトからシナイ山の荒野までと、シナイ山を離れた後での旅路に分けて見ておこう。
そのあと40年目のその最終旅程をその記事関連から明示しておこう。

Unknown Future
http://www.geocities.jp/sayufm_musiclabo_s/micoHP/indexb.html




pp6520190210258.gif


● 【出エジプト(ラメセス)からシナイの荒野(シナイ山)までの宿順旅程】
*(注)エジプトを出立したその月を年の初めの第一月、いわゆる正月として定めたうえでの旅立ちとなり、その15日早朝からあわただしく動き、ゴセンの地を離れ発った。
この定めの新年月日に依り、宿営の<経過日のり>が記述に順序良く留められている。
その主要な日のり大略は、先ず<エジプトの地を出て、ふた月目の15日にシンの荒野に来た>との記述があり、丁度、まる30日直後の日程を示す。(出エ第16章1節)
そして同じく、エジプト出後の三月目のその日(第一日)にレピデムからシナイ山の荒野に入り、宿営をそこに移したとの記事(出エ19章1−2節)がある。
まる45日を経過した日のりだった事が知られうる。
(シンの荒野からシナイの荒野には丸々15日を要している。)
・《宿駅その1》出立地、ゴセン地域のラメセスを発ち、スコテに宿営:(民数記33章3節)
その宿営の翌朝、午前中の内にそこを発ったかどうか、もう一夜そのまま留まり、旅の準備の不十分さを補ったり、旅の体勢を少しでもより良くする手立て、処遇を計ったりして、日を費やしたかも知れない。
・《宿駅その2》スコテからエタムに宿営:(民数記33章6節)
スコテから大海(地中海)寄りのペリシテびとの国の道が近くて便利であったが、そこへの道に向かわずエタムへ、そこから荒野への道が選択されたかに見えたが、そうではなかった。
イスラエルの民の男子は、国々の兵士のように訓練武装した集団ではなく、皆それぞれが自分なりに防備武装しただけの大群集の分団に過ぎず、戦いには全く不慣れで、戦いを知らない者が大多数であったから、、、。(出エ第13章17節以降、)
(エタムは荒野の端の地で、シュルの荒野の道の入り口。エタムの先、荒野の手前にはエジプトの主要な要塞、防壁が設けられていたようだ。)
・《宿駅その3》エタムから引き返して、ピハヒロテの地へ、その海寄りの傍らに宿営:(同33章7節)
エタムからの出立は、そこから進む方角を変えて、ピハヒロテの地へ引き返すという事態のものとなった。(民数記33章7節)
エタムからの荒野の道は、<シュルの荒野>を縦走してカナン方面へと通じた主なる裏道であったが、このルートも<主なる神の目論み>により、進み行くことはなかった。
*ピハヒロテの地を特定することは、古来、バビロン捕囚後の旧約聖書時代以降、現代に至るまでも、困難な事柄となっている。
だがこの地の海の近くに宿営するや、そこへエジプトの王パロ(ファラオ)率いる全主要な軍団の大軍勢が押し寄せ、追い詰められて行き場の無い事態に直面する状況を
伝える記述が見られ、そして、その面前の海(後の世に“紅海”とギリシャ語70人訳が翻訳されており、それでラテン語、英語などのヨーロッパ諸語はそれに準じているが、)を、神の大いなる奇跡の御業に拠り海面が分かたれることで、水の無い海底を渡リ行くといった状況が、追って渡り入ったパロの大軍勢の顛末が、そこでの大きなやま場の事蹟となって記されている。(出エ第14章〜15章で)
この<紅海の奇跡渡行>の場所に関わる記事、ピハヒロテの地とその海近辺への言及記述は14章2節で “ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、”とあり、<その前とは>即ち<海のかたわら>であり、そこに宿営したという状況を伝えるものだ。
邦訳では、<バアルツェボン>という地名らしき名が連記され、そのピハヒロテの地を位置付ける風に付されているが、その訳文には不明瞭さが残る。民数記33章での宿駅記載では、<バアル・ツェボンの向かい側、前方向>にピハヒロテの地があるといった感じの表記である。
(これは、記載巡歴地図の如くと見なせられる。ただし図示はイメージ配置です。
当時は、現在以上に、ナイルデルタから離れた南東方面の丘陵荒野から標高400、500m以上の岩山、そのピークは今も800m代だが、その山並みがスエズ湾の方向に弧を描くように伸びて、湾ののど元下手の海岸側に達していた。
したがって、ピハヒロテは、それほど広い低地を占めた地域にある居住場所ではなかったようだ。
バアルツェボンは、その向かいの西の方向、山手側の丘陵地にか、或いは山並みをなす岩山の谷あいの高台に設けられた神々の聖所拝殿、礼拝所だったとも見られる。
ある資料によれば、バアルツェボンは、フェニキアの海の交易船乗りたちの守護神との事で、それに比定できるかのようだが、ずっと後の習合によるものかも知れない。)
つまり、原典へブル語の文節で“ミグドルと海との間”の地域は、上記括弧書きのように、それ程広くはなく、海に向かってはだんだん狭くなってくる、その間に位置するピハヒロテに併行した、
西方、前向こうの方角に、バアルツェボンがあるという表現であり、そしてその文章の文頭では、ヘブル原典は、まず初めに“ピハヒロテの前に宿営せよ”と言命している訳で、それに加えてさらに注意深い明白指定
<その手前、その前方、あるいは、それに向かって>
という意味のイコール指定が、<海の傍らに〜>の言葉に付随したものとなっている。
さらにここで注目、題とすべきは“ミグドル”という言葉である。  
この言葉のルーツは、アブラハムが70才代後半以降にエジプトに寄留した頃から、その地で一般
的に使用されていた用語とみられる。海との係わり、特にエジプトのスエズ湾の海でも、その湾の最北奥の海域での、ある地理的状況の土地に密接に関係した意味ある言葉のようである。
つまり、そのエジプト古語(或いはヘブル古語かの)の原意は<湿地帯の土地>を意味、表わすものであったと推せられるものだ。
その湿地した地域の中央部にはアシの生い茂る、深みのある泥土、泥沼〔デイショウ〕が広がっているという地勢状況といったところであった。
その一般的な言葉が、時代が下って、かの預言者エレミヤの時代にはメンフィス、タパネス、パテロス、ヘリオポリスといった地名と並んで、エジプトの名ただたる地名の一つともなっている。
(エレミヤ書44章1節、46章14節)それまでにもそういった湿地帯に隣接した地域に築かれた要塞、或いは人の住む地が、要塞名、町名に転用されてきたケースがあったが、、。
<モーセの出エジプト時の時代>及び、それ以降も未だ地名などに転用されよう形跡は、まったく無く、原意のままのエジプト用語で、外来のヘブル語ともなっていった。
“ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前に”という記事での土地地域には、その東のシナイ側、シュルの荒野方面に対面して、その頃、推察するに、国境を兼ねたエジプトの防壁、防塁が、未だ
そこまで伸び築かれてはいなかった。
それゆえ、それの防備代用として、ピハヒロテの近く、ミグドルの前方に隣接した見通しの利く野地に、レンガや石、木で構築された<見張り台=watch tower>が設けられていた。
(これはエジプト軍の正規ものではなく、民営用のものであった)
その見張りの塔台をモーセらは、<ミグドル>という言葉を模して“ミグダール”と名付けて覚えの宿駅標の用語とし、また、その後の40年の宿営時代には、“塔”を意味するヘブル用語として
定着、用いられる。(それでまた、ミグドル自体も後に塔を表わすようになる。文字語の発展と共に、その子音字スペル は同じだが、発声母音がo オ から a ア の発音系に変わるだけだ。)
言葉上にあっては、<海との対比関係につりあうミグドル>、そして、村か町ふうの居住地らしき地名の<ピハヒロテ>に対比しての、神々の拝殿聖所なる<バアルツェボン>という対組二様の両者対関係の言葉であり、まさに言葉パズルを解くような感じである。
以上が<ミグドル>という言葉についての考察であるが、これに海が係わっている訳だが、この海をいわゆる、ずっと後の旧約聖書の翻訳時代に、ギリシャ語訳のほか、それに続いてヨーロッパ諸語が、その当該の海を<ヤム=海>という語だけで表わした場合と、同義の異名ともなる<アシの海>という表現のヘブル語“ヤム・スーフ=ים-סוף”を<紅海>と訳すに至っている。
ギリシャ語70人訳セプチュア・ギンタが、何ゆえに<紅海>と訳さざるを得なかったか。
ユダヤのラビら、70人余りがアレクサンドリヤにやって来て、その翻訳事業を聖なる仕事として請け負い始めた頃(それはBC3世紀後半〜中葉頃以降、プトレマイオス2世代)その頃の地理知識の常識では、スエズ湾を含めたその海は、<紅海>の名で広く世界に知られること、すでに過去、数百年来に亘っていたという実際的現状があった。したがって、当時のこの常識趨勢の、ギリシャ語ゆえの事情を無視し難いものと受けとめ、むしろ、あえて活用すべきが妥当との判断にて、学者らの意見が一致、
<アシの海を>を、
<ερυθρα θαλασσα=紅海>
と訳したわけであった。これは決して、誤訳の類と見なすべきものではない。
現代のスエズ湾及び、グレート・ビター(大苦湖)湖にはモーセ時代の自然地理地勢の面影は無いに等しいと言える。
地中海に通ずるスエズ運河の起点となり、カイロからは最主要な自動車幹線道路が設けられて、湾岸地域は産業資源の基地化や、都市化された発展状況を呈している。
ギリシャ語の
<ερυθρα θαλασσα=赤い海、紅海>
という名称言葉が定着するようになったのは、ペルシャ、ギリシャの時代に及んでからであったが、太古からの何らかの自然地勢条件及び、気象条件などで、スエズ湾の北端域や、大苦湖、ティムサ湖の周辺にはアシの生い茂る地理年代が、モーセの時代頃までだけでなく、ソロモン時代以降の後々までも少なからず、ずっと継続していたようだ。
現代のシナイ半島東側のアカバ湾では、今日でもアシの茂るところが見い出されるとのことである。
(スエズ湾の最北岸は、近現代の運河が造設される頃と、出エジプト時代の状況を比べるならば、数十キロもその北岸位置が北に寄って、違っていたであろう。
紀元前5千年期なる頃まではスエズ側と地中海側とが自然のままの水運でつながりをなし、スエズ側からの流れが、堆積される土石物を押し流す自然の営みがあったと見られる。
4千年期から3千年紀後半の頃には、北アフリカのナイル・デルタとなる東地域と、シナイ半島側とに一つ、二つの地峡、陸続きが出来てきたと見られる。
とにかくナイル川も5千年期後半頃から急速に大河への発展をなし、下中流域から上流域の動きやすい表層土石類を莫大な水流運搬力で以て、下流へ下流へと押し流していったと見られる。)
モーセらイスラエルの民が渡った場所は、アシの茂みから離れた、いわゆる茂みの終わった端の岩場となる境界の海岸からであった。
そこは、宿営地から南に少し下った所にあったと見なして良い。
かってモーセ時代のスエズ湾最北端地域は、塩分濃度もきわめて低く、半淡水化していたと見られ得る。
大苦湖も大いなる淡水湖であって、その頃は、スエズ湾のほうにその水が浸潤する傾向を見せていたと推定されうる。
それが逆転したのが、おそらく、モーセが率いた出エジプト時での、その<奇跡の海渡り>による出来事以降の事象だと推断される。
また、その泥沼〔デイショウ〕、および湿地帯の土地地域=ミグドルも、近くの丘陵砂状荒野や、岩肌の山地から、その風化により運び寄せられる堆積物事象でもって、長い間のうちにしだいに乾いた荒れ野土壌(中世、近代に至って見られる)ふうに変わっていったようである。
・《宿駅その4》ピハヒロテの海の中、露見した海底を渡渉後、三日路にてメラに宿営:(同33章8節)興奮冷めやらずの<海なか渡渉の奇跡>で心が高鳴るふうであったが、まだまだ旅慣れするほどには日も浅く、その流浪旅は色々な面で十分な余裕がないまま、海沿いの、道なき道、道も途切れ、ほとんど人の通った跡も無い、
<エタムの荒野>
と名付けたその荒野に導かれ行く。その日、昼頃から順次、出立の整えをして、海から上がったその地を後にしたと見られる。
(出エ15章22−25節。エタムの荒野はシュルの荒野域内の一部だが、民数記33章の宿駅では、名付けの覚えとして<エタムの荒野>と表記している。)
<三日路にてメラ(マラ)に>、大群衆団の長だの列、三日路ほど進む間、その三夜を荒野で休寝したようである。
水を求めて三日の間、荒野を進んだが得られず、その三日目の夕、ようやく水のある処に辿り着いた。
が、しかし、そこの水は苦くて飲めなかったと、、、(それでメラと名付けられている。)
飲めばお腹を痛める、病をなすと、、、それで主なる神は、モーセにその水を<中和して甘くする木>を示され、泉に投げ入れ飲めるようにされた。
(これは、その木自体の質に中和力、甘味力が備わっていたかどうかは判明しないが、もし、何でもない普通の木ならば、神がその木を介して、質的な奇跡をなされたということになる。
だが、実際には<なつめやしの木>であったかも知れない。
この名を記すと、書文に重みがなくなる。
次ぎのエリムというオアシスに同名の木があると見れば、、、。いずれにせよ、神様の知恵、みわざの奇跡と見るべきであろう。
あいにくにも、その処置後、そこの水を飲んでも誰一人、病人になるような事はなかった。そこで
<民のため>に、この折に初めて、その最初の<定めや、おきて>を立て与えられた。それは聖別
された神の民となる為の前準備、心備えの事前訓練ともなるものであった。)
*シュルの荒野にはシナイ半島をミデアン、アラビヤ方面に向かう隊商路が、その中央部分を横切るふうにあったが、その大集団のイスラエルの民らは、以上のように、その道に進む事はなかった。
(先ずは、大変な大群衆ゆえ、各方面地域の居住諸族民を騒がせ、刺激しない為に、、、。)
・《宿駅その5》
メラを出立して、エリムに宿営:(民数記33章9節)
先のメラでは、そこに到着した日の翌日にも留まり、その夜も宿泊し、その翌朝エリムの方に旅立ったようである。
エリムは、まさに小規模ながら荒野のオアシスのような所で、そこで十分な休息と、さらに続く旅への、より十分なる備え、色々な繕いの整えをなしたようである。
(ここでの宿営滞在は1週間〜10日以内ほどのものと推定されうる。)
その場所には<水の泉が12と、ナツメヤシの木が70本>
があった〔15章27節〕と記されているが、その泉に関しては、自然の湧き水の場所を見つけ、また他にもあろうかと探し出し、人々が十分に飲めるよう、利用しやすいよう緊急に整備、或いは拡張してのものであったろう。
ともかく、なんとか<12の泉>を確保する事ができたというものであったに違いない。
これは大群団の民が一応12部族余の分団に分けられていたからであろう。
*当時そのオアシス(エリム)に依拠して、土着の人が住み、集落をなしていたか、どうかは定かでない。
この泉のオアシスも生気あふれるものではなく、干からびかけ、やがては自然事象のままに埋まったり、地勢の変化で涸れたりして消え去るものとなったであろう。
・《宿駅その6》エリムを離れて、紅海のほとりに宿営:(民数記33章10節)
このエリムの後の紅海、そのほとりでの宿営は、出エジプト記では省かれ、言及記事は見られない。
15章27節のエリム記事のあとに記される筈の順であるが、そのまま第16章の章区内容の文となり、エリムを出たあとの記述を別の表示内容に関連付けている。
*先のエリムのオアシスで、充分一息つき、元気づいての旅立ちとなったが、紅海のほとりに出て、さらなる英気を養うものとなった。
そこでは海の幸を手に入れ、肉なべを囲む事も出来たとも、、
ここでは、再び旅の再出発、元気旅になるようにとの思惑で、豊かさのある海辺に導かれたものと見られる。
旅にも慣れ、旅生活の知恵も付いてはきたが、次なる道程がさらにきびしく、困難なものとして、控えていたからである。
(モーセは、この海のほとりでの生活模様事、何一つ記してはいないが、ちょっぴり悪い結果面がそこから映じたふうに記述していると見られなくもない事態が後に見られる。
つまりその後の旅の<シンの荒野>で、たちどころに、エジプトでの肉なべの事を思い出させる一因の働きが、この海のほとりでの一抹の宿営生活に潜んでいたからであった。)
ともかく、民らにとっては、紅海のほとりでの宿営は、過酷な荒野での旅路からの一時の解放となり、少なからずの満足と慰めを得て、引率指導者モーセへの訴え、不満を言うような事も暇も無く、その生活時間を費やしたようだ。
それ故、ことさら此処での宿営記事は、何一つ記すべき必要がなかった。
むしろ記すべきでない事が、その判断としてベストな真意ともなっていたと見られる。
・《宿駅その7》紅海のほとりを出立し、シンの荒野に宿営:(同33章11節) 
この紅海のほとり(現スエズ湾のはるか南方)での記事は、出エジプト記には、何一つ記録に残されていない。
モーセが一言も、何一つ書き記さなかったことには、彼なりの聖なる思惑基準があったからであろう。
前記のメラの記事とエリム記事は、それなりの彼の記憶に留まるところのものとなったとも解釈されうるが、当該の出エジプト記第15章22節以降、16章初め(1節)までの間、エリムの次ぎに来るはずの、この<紅海のほとり宿営>は、その土地の名さえなく、記されず、出エジプト記事には見られないものとなる。
(表示記事は、エリムを出発し、そこから<シンの荒野にきた>記すことで、その日までの全道程日数を明確に示す。
その表記が重要だったと見られ、そしてその荒野の位置を示す事を強く意図した文言としている。
もちろん、エジプトを出立しての<二ヶ月目の15日>ということであるが、。
<紅海のほとり>が、エリムとシンの荒野の間の中継点にありながら、外されてはいるが、その日
数の丁度、まる30日間のうちに含まれたことは、間違いなき宿駅順として確かな事実だ。)
*その紅海のほとり宿営での、推定人数140万から、上限170万とされる民らの生活事情、生存状況は何一つ伝えられていない。
が、そこでは恐らく前代未聞の事が起ったと思われる。
エジプトにいた頃、先祖代々ナイル川では行なった事のなかった漁獲の労をなす機会を得たと推定される。
その漁獲とは、海牛とも言われる<ジュゴン>であり、その漁は、かなり大量な数のものであったと見られる。
(ジュゴンの肉は、牛の上質肉より美味しいと言われている。)
(出エジプト出立時の民の数、ラメセス、スコテへの段階で、
<女、子供を除いて徒歩の男子は、約60万人であった>
と、そのおおよそを見て記している。〔出エジプ:12章37節〕、
民数記ではその1年1ヶ月後だが12部族系からの各氏族の下に数えられた20才以上の男子は、その調べの総計として、
60万3千5百50人と挙げている。〔民数記:1章46&2章32節〕
この数はほぼ正確であろうが、しかし、各氏族のそれぞれの父祖の家ごとに挙げた人数であるから、下僕らもその数に入れていたと見られる。
女、子供の数は記されていないが、丁度同じ時、レビ部族を除く、12部族での初子ウイゴの数が上げられている。
これは、生まれて一ヶ月以上からの初子を数えるもので、20才代までの初子〔としての長男〕を含めたものとなるが、その数は、レビ系族を除く全部族で、
2万2千2百73人
であった。〔民数記:3章43節〕
そういった数値から予測すると、女、子供は、それぞれ凡そ30−40万で、x2倍ほどと見られよう。
すると、総計では約60万にこの80万を足して、
140万、
これが妥当な下限の数となる。
因みにレビ族の男子の数が、他の12部族と比べてすこぶる少ない。
生まれて一ヶ月以上の男子の全総数は2万2千人であったと記している。〔民数:3章39節〕
すると20才以上の男子は、その半分を割っていたかも知れない。
12部族のうち最小数は、
ヨセフ系のマナセの諸氏族3万2千2百人、
最多数はユダ系族の諸氏族7万4千6百人、
その数値の間に、
6万代が1部族、
5万代が4部族、
4万代が4部族、
3万代が1部族〔ベニヤミン系・ヤコブの末っ子〕、
という男子20才以上の各々の数であり、レビ族系との大差が明らかに見られる。〔民数:1章20−43&2章、3章39節〕)
モーセの書き記す書は、民らの生活記録を中心テーマにしているわけではなく、神と神の言われる言葉、及び、それに係わる関係状況を記すことが中心主旨としているから、モーセの内にある心意では、神の言葉に直に関わらない、結びつかない生活事情、状況などは、質的に止揚変換されない余分なもの、むしろ妨げとなる事柄類として対処されるというものであった。
だが、モーセは、後にシナイ山での神の言葉啓示の折り、民らのうちに数多く所有されるようになっていた<ジュゴのなめし皮>に関する生活状況で、聖なる還元止揚のものとして、幕屋の天幕及び、聖器具運搬時等でのおおいの保護カバーとして活用される旨の啓示内容を示すに至る。
〔出エジ:25章5、26章14、35章23節、36章19節等、民数:4章6、8、10−12、14節〕
(幕屋聖所に関わる造営資材に関して、その入手ルートなど、エジプトからの持参の物だけでは足りなかったと言えよう。
かの紅海渡渉後、海岸端に打ち寄せたエジプト軍の残骸からも少なからず利用可能な物、戦車の輪や武器武具等々を含め、色々な回収物を得た事であろうが、、、、
<ジュゴンの皮>については、当時の交易市場品としては扱われていなかったと見るべきで、その入手は不可能、それ故、民ら自らのオリジナルなものだったという他ない。
(羊のモジャモジャ毛を紡ぐ技術がすでにあったかどうか、青糸、紫糸、緋糸は、羊毛のものだったかどうか、その当時、自明だったから記事には記されなかったかとも。ヤギの長く垂れ下がった毛を紡ぐ技術があり、その毛糸で機織し、幕屋をおおう天幕のための幕を仕立てた。
〔出エジ:26章7−9節〕)
また、<羊、ヤギ、牛などのなめし皮>の製作技術、染め技術(あかね染め)など、エジプトにいた頃からお手の物であったであろうゆえ、自前で造ることができたと見られる。
かなり多量に必要となった金や銀、及び青銅の金属物に関しては、たまたま立ち寄る交易商人などのルートからも賄えたと見られるが、青銅造りでの銅資源に関しては、当時シナイ半島のシンの荒野近辺地域にあった、エジプト王家所有の銅山所からの入手、或いは、一時的に占拠利用しての確保かも、、。これも民らの自前活動のもの、記録に書き記す必要なき事であった。)
*シンの荒野の宿営では、主なる神との係わり上における、特記すべき事象事蹟の記事が記されている。
これは、その出エジプト記第16章全体を直接読んで頂いたほうが最善であろう。これも後世後々までも有名になるところの記事の一つと言える。
ここでは、主なる神のご主権と、民への御思いが、民らの日常生活、その基本の食と労役面から、神のみわざ奇跡の下に実践的に教育されるごとくである。
先の宿駅メラで、民全体が一つにまとまり、生活の規律パターンとして、共同体的な社会秩序をなすため、主の定めとおきてが立てられている。7日目に民が休むようにと、その安息日を公けに定め与えられたものとなる。
それを守るべく直接的訓練のごとく、神が大いなる御業をもって朝夕の食の供給にたずさわり、その神自らの気遣い労の下にて、なされ試されるものとなる。
(何ゆえ荒野、シナイ山その聖域への民の旅であったろうか、、、。
ただ単に、<民の聖別>の為だとの一言で尽きるものではない。その真理をひも解くに深いものがある。
ともかく、出エジプトを果たしたその民らにとって、これから先に近づかんとするシナイ山、
当時、その地域を特別な聖域として前々から既に定め対処せられ、お待ちなされていたようなものであったが、、
ともかく、その場所を目前に控えての、民らに対する事前予備的カルティベイトであったと見て良いものだ。)
さて、次ぎに下の二つの宿営地・その名、ドフカとアルシについては、出エジプト記ほか、それらに関わる記事は、どこにも記されていない。(民数記に宿営名が挙げられているのみである。)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
・《宿駅その8》シンの荒野を出て、ドフカに宿営:(民数記33章12節)
出エジプト記の第17章1節で、“シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、云々”との表現言葉があり、この<旅路を重ねて、>の旅程のうちにドフカと次ぎのアルシが含まれ、その語句のうちに含まれ、準ずるものとなる。
*シンの荒野からレピデムを経て、シナイの荒野に着くまでの所要日数が15日間であるから、ドフカ、および、アルシは、その旅路で、一晩か、二晩、夜休むだけの宿営だったと見られる。
シンの荒野では10日近く宿営したであろうと想定される事から、、、、。
・《宿駅その9》ドフカを出て、アルシに宿営:(同33章13節)  
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
・《宿駅その10》アルシを出て、レピデムに宿営:(同33章14節)
・《宿駅その11》レピデムを出立して、シナイの荒野に宿営:(同33章15節)
ここで、エジプトの地ラメセスから目指したシナイ山、その荒野、麓地域までの一時的な目的地・道程までの旅が終了するものとなった。

Unknown Future
http://www.geocities.jp/sayufm_musiclabo_s/micoHP/indexb.html










(Google Earth からのコピー転載)
[写真画像の説明]:
写真中央の峰々を中心に、斜め写りになっているが、三つのブロックに大きく分かたれた山岳地形になっている。
中央ブロック山系の前面、斜め上の角あたりが大きな十字路のように広いスペース沿いになっている。
現在は、観光エリアになっており、シナイ山や、聖カタリナ修道院などの観光案内センターの建物、宿泊施設等のホテルなどがあり、リゾートタウン化の様相をなしています。
中央の山系ブロック斜め上、角の十字路から、その中央と上隣ブロック山系との、谷あいの道を斜め下方に下ると、AD4世紀の創始、のちに創設された<聖カタリナ修道院>の建物が小さく写し出されています。
*中央ブロック山系の山並みの下部、後方に<エベル・ムーサー>の峰・山頂名が示されていますが、はたしてその山頂に現在設けられている記念聖堂が位置している場所なのかは判りかねますが、
エベルは、アラビア語のヤベルまたはジェベルからの発音転化のもので、<山>を意味しており、ムーサは、モーセを指しますから、<モーセの山>ということになります。
*しかし、この画像に示された<エベル・ムーサー>位置まで、実際に出エジプト時のモーセが登りわけ入っている訳ではありません。
つまり、3ブロックに分かたれた山々全体が、出エジプト当時に言われたシナイ山感覚の全域観なのです。
したがって、三つの山系ブロックの前、先に述べた十字路の地域を中心に、左右、斜め上手に延びた全地域が、イスラエルの民の宿営地となった<シナイの荒野>ということです。
当時のモーセは、中央のブロック山系、上部角の十字路あたりから、たぶんそのブロック系の上部奥あたりの峰々の一つ(画面下方のエベル・ムーサーまでも行っていない)に留まったと思われます。
このあたりの峰々から下山すると、その途中から民の宿営地全体が見渡せます。又人々の動きも目に入るようになってきます。さらに山頂に近い中腹辺りに、当時には適当な広さの自然のテラスがあったようで、そこからずっと奥の高い峰々(エベル・ムーサーの方角)が望み仰がれるものともなります。
●【シナイ山麓、シナイの荒野での長期宿営】
●【シナイの荒野からの新たな出立、約束の地カナンへの巡り行く旅路の過程】

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2019年06月16日

金子史郎: ソドム・ゴモラの町はどこにあったのか


金子史郎: ソドム・ゴモラの街はどこにあったのか
■死海周辺の地理的景観
細長く南北に延びる死海は,東方から舌状に突き出たリサン半島によって2つの湖(北湖,南湖)に分けられる。
北湖の水深は約400m。湖底には実に800mである。
対照的に南湖の水深は数m。
湖面の高度は先ごろまで− 397mと表示されてきた。
海抜0mの等高線はガリラヤ湖の北,今は間拓されたフーレ湖近くまで伸びている。
ヨルダン川,死海の低地帯は,西側をユダ高地,東側をトランスヨルダン高原で画されて,その幅はせいぜい10〜20km。まさに大地の間である。
こうした地形はここよりも北方のレバノンあたりでも同様である。
地中海側のレバノン山系は,ベカ谷を挟んで東のアンチレバノン山系と対峙する。
この構図は北方シリアでも,またずっと南のアカバ湾を挟んでも認められる。
死海・ヨルダン谷とその南北延長状の低地帯は延長1000kmに及ぶ。
その成因は,地球規模の地殻運動の一環として理解できる。
つまりアラビアプレートとアフリカプレートが接する断層帯上にある土地である。
■ソドムとゴモラの町はどこにあったのか
ソドム・ゴモラの町は一体どこにあったのだろうか。
つい先ごろまで水で覆われていた死海南湖の湖底に今も眠りについているのだろうか。
残念であるが誰もその所在は知らない。
ここで話をアブラハムとロトの旅につなげる。
アブラハムとロトは,エジプトから引き返して,ユダ高地の分水嶺の道をたどって,エルサレムの北東ペテルまで舞い戻った。
ここで有名な創世記の一説がある。
創世記13章10節
「ロトが首を上げてヨルダンの低地をあまねく見渡すと,主がソドムとゴモラを滅ぼする前であったから, ゾアルまで主の園のように,またエジプトの地のように,隅々まで潤っていた。
ソドムとゴモラが死海の北にあったとする北方説は根強い。
疲れを知らぬ魔法の泉アイン・エス・スルタンに支えられるエリコは例外として,ヨルダン川対岸のモアブ平原も全く水源がない。
過去にもナイルの地のように潤ってはいない。むしろ不毛な土地なのである。
2000年前,紀元元年頃,ユダヤの歴史家フラビウス・ヨセフスは,「ユダヤ戦記」の中で,「低地の町」についてこう書いている。
「湖に接してソドムの地」,
「アスファルテス湖(死海)の南端のソドムの地域」
等の記録がある。
つまりヨセフスは死海南方説をとっている。
彼の生きた時代は私たちよりも伝承の時代にずっと近い。
そこには数字では測れない場所の感覚があるはずである。
恵まれた土地からは豊かな収穫があって裕福であったとも書いてある。
さらには
「神の怒りの火の痕跡と5つの町の跡は,今でも見ることができる」
と言うくだりもある。
紀元1世紀のギリシャの歴史家ディオドロスも同時代のギリシャの地理学者ストラボやローマの歴史家タチトゥスと同様にそれとも,「低地の町」は死海の南にあると考えていた。
ストラブはかつてこの地方には13の町があって,ソドムがその主なる町であったと言う土地の人の話を書き残している。
またヘブライ語のルーツをたどってみると,この土地の記述に使用されているヘブライ語
「キツカル(kikkar)」
は実際は広大なヨルダン谷・死海の全盆地の低地を包括して表現している。
これは地質学的に死海・ヨルダン地溝帯そのものを表現している。
つまり創世記の言うところのヨルダン低地は,ヨルダン川沿岸の低地と狭く限定しているわけではない。
この点は創世記第14章よく読むと,「低地の町」のありかをズバリと書いている。
「シデムの谷,すなわち塩ノ海」(創世記14章3節)
である。創世記の編者は
「当時(といっても編者の時代から見て約1000年〜1500年位昔)のシデム谷は今塩の海に覆われている」
と書いている。
しかしこの解釈は微妙であって,果たして編集者はどのあたりまで知っていたのか疑わしい。
ソドム・ゴモラの時代には死海の南1/3位,リサン半島より南の南湖はほとんど陸地であったと考えられる。
ローマ支配の時代,まだバダバ図が作られた紀元6世紀頃も,およそ似た状況であったようである。
そこが後世,塩の海に溺れたことも明らかである。
この辺の地質的事情を聖書の編者が知る由もないのであるが。
こうした情報を総合すると,ソドム・ゴモラがあった時代は紀元前3000年紀後半,舞台は死海南部とその周辺と設定できるのである。
■低地の街は繁栄していた
聖書に述べられている災害物語の舞台は,死海南部とその周辺山麓地帯と考えられる。
南から死海に注ぐアラバ谷やヨルダン山地から流れ込む川の下流には,いくつもの沖積扇状地が広がっていた。
これらの生活の基盤として,初期の青銅器時代第3期(紀元前2650年〜2350年)に属する農業共同体がスタートした。
この時代に先立つ,短い湿潤期が去って間もないこともあって,創世記の指摘がある通り,ヨルダンの低地はよく水で潤っていた事は間違いない。
しかし「低地の町」の時代は,本来乾燥気候であって,以前水没していたシデムの谷にも死海の下から姿を現して,ソドム・ゴモラ盛期の頃にはリサン半島より南の南湖は乾いて陸地になっていたと思われる。
紀元前2500年頃,死海は北湖盆だけの時代を迎えていた。
ヨルダン山地の西側山麓地帯もまた扇状土地を基盤としていて,いくつもの農業集落が成立して,大部分は城壁を成していた。
バーネイらは南湖盆地の水中探査を行っているが,ソドムなど「低地の町」の遺跡らしき姿を発見はしていない。とはいえ,現状では,
バブ・アド・ドラ,
ヌメイラ,
サフィ,
フェイフェ,
クネイジラ,
など5つの都市がまさか悪名高い「低地の町」のモデルそのものだったとも思えない。
聖書の記述では,ソドムやゴモラは,周辺に衛星都市的な小さな集落を配していたように取れる。
これらの街の住人が,やがて裕福な生活へと傾いた理由は,あくまで推測に過ぎないが,多分死海産の
塩・アスファルト・硫黄
などが価値の高い交易品として世界に迎えられる時代が来ていたからに違いない。
紀元前3000年後半,シリアやメソポタミアの大国は,表向き軍事大国にみえても,通商国を目指していたのが本音らしいのである。
すでに見てきたように驚くべき遠距離交易が実現されて,それは国家の枠を超えて機能して,現在顔負けのトランスバウンダリーな性格がチラチラと見えるのである。
ー中公文庫,ソドムとゴモラの滅んだ日,1995年,

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神話ではなかったソドムとゴモラの滅亡 : かつて中東の上空で巨大天体が爆発し、死海周辺の古代文明が「4000℃の熱で一掃」されていたことが判明。回復にかかった時間は600年… 投稿日:2018年12 記事をクリップするクリップ追加
2018/12/11(火) 午後 9:53
世界の事 その他国際情勢
投稿日: 2018年12月11日
ライブサイエンスの記事
Cosmic Airburst May Have Wiped Out Part of the Middle East 3,700 Years Ago
livescience.com 2018/11/28
3700年前に空中での大爆発が中東の一部を消滅させた可能性がある
・タル・エル・ハマム遺跡
約 3,700年前、中東において、空中で大爆発が発生し、その熱と爆風が死海北側のミドル・ゴールと呼ばれる広大な土地を横切った。そして、それにより多くの人命が滅ぼされた証拠を発見したと考古学者たちが発表した。
この空中での巨大な爆発は、そこにあった都市を 100パーセント一掃しただけではなく、それまで肥沃であった土地から農業土壌を奪い去り、その地は、死海の無水塩水が広がることにより長く荒廃することになった。無水塩とは、塩と硫酸塩の混合物だ。
大地が一掃された面積は、死海北部の 500平方キロメートルに及ぶことが調査で判明している。
この研究結果は、アメリカ東洋研究所(American Schools of Oriental Research)において 11月14日から 17日にかけて行われた会合で発表された。
その論文で研究者は以下のように記している。
「考古学的な証拠に基づいて、この土地で一掃された文明が再び確立され、土壌の破壊と汚染から十分に回復するのに、少なくとも 600年かかったと考えられる」
破壊された場所の中には、古代都市タル・エル・ハマム(Tall el-Hammam)があった。
科学者たちが空中での天体の爆発を明らかにした証拠のひとつには、この古代都市タル・エル・ハマムの遺跡で見つかった 3,700年前の陶器があった。
この陶器には珍しい外観があった。
陶器の表面が「ガラス化」していたのだ。
陶器の表面が、ガラスに変化するためには、4000℃以上の熱が必要であり、そのような熱が発生していたとみられる。このような「4000℃の熱を撒き散らす」ような奇妙な破壊を引き起こす可能性のある唯一の自然発生的な出来事は、空中での大爆発で、それはたとえば、1908年にロシア・シベリアのツングースカで起きた大爆発のような現象だ。
また、影響を受けたこの地域内の他の古代都市の考古学的な発掘調査によると、約 3,700年前に、急激に「人口が消滅している」ことが示唆されていた。
この地域の異常な人口の消滅が起きた理由もまた、空中で爆発した流星か彗星によるものかどうかは不明だが、今のところ、この地域の近くでは天体衝突によるクレーターは発見されていない。
500平方キロメートルにわたって、土地が完全に破壊されたという事実は、その爆発が上空の非常に低いところで起きたということを示している。おそらくは、地上 1キロメートルより低い場所で爆発が発生したと考えられる。これと比較すると、ツングースカの大爆発の破壊の面積はさらに広く、2150平方キロメートルに及んだ。

203高地のブログ
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科学メディア「ライブサイエンス」の報道より
・livescience.com
私が、「巨大天体の地球への衝突」ということに興味を持ったのは、前回の記事でもふれましたフレッド・ホイル博士の著作をはじめて読んだ 2012年ころからでした。
ホイル博士の文章で知るまで、「地球が天体の爆撃に見舞われる日々」というようなことは、まともに考えたこともありませんでした。
そういうこを知った頃にふいに書きはじめた記事は以下のようなものでした。
・良い時代と悪い時代(1): 500年ほど続いた「穏やかだけれど傲慢な時代」は終わろうとしているのかも
 In Deep 2012年10月06
ホイル博士は、現在の地球は天体の衝突に関しては「良い時代」だと述べていました。すなわち彗星や小惑星の地球への直撃が「ほとんどない時代」だとしていて、しかし、その時代は終わろうとしていると主張していました。
約 500年間ほど続いた「良い時代」は、じきに終わり、次はまた同じくらい期間の「悪い時代」、すなわち彗星や小惑星の地球への直撃や爆発が多発する時代となるだろうと著作で述べていました。
今回ご紹介させていただくのは、中東の死海の北側で、
中東の死海の北側の上空で、「 3700年前に、500平方キロメートルに渡って、土地も人類も完全に一掃された爆発があった」という証拠が得られた
ことについての記事です。
冒頭のライブサイエンスなどの科学系メディアで、その研究について最近報じられていました。
500平方キロメートルというと、東京都の面積の 4分の1くらいで、地図を見てみますと、
「東京23区がそっくり消える」
というような規模の災害だったようです。
中東で天体の爆発で「消滅した」面積を東京にあてはめると
その 3700年前の爆発時の地上の温度は、一瞬とはいえ、「場所により 4000℃を超えていた」ことが今回の調査でわかっています。
この空中の大爆発で地上が影響を受けるというのは、有名なところでは、1908年にロシアのシベリアで起きた「ツングースカの大爆発」と同じような事象だったと思われます。
このツングースカ系の爆発について、ホイル博士は以下のように記しています。
フレッド・ホイル著『生命はどこから来たか』より
ツングースカ型の爆発は過去1万3000年ほどのあいだに時折起こったに違いない。この時期の最初の頃は、元の彗星の分裂が激しく起こっていただろう。
彗星がまき散らした塵が太陽光を錯乱するために、何年間も黄道帯全体が輝いたのが見られただろう。彗星の分裂や、彗星が長く美しい尾を引く姿は、古代の空ではごく普通に見られたことに違いない。
神話、伝説、宗教がこのような経験を基にしていることは間違いない。そしてその経験は、地球上あちこちに分布した遊牧民の共通した経験であった。
実際、彗星の分裂は神々が争った様子として神話のなかに自然に取り込まれただろう。現在まで残ったほとんどの宗教にも、それぞれ別々の場所にもかかわらず、共通性が見られるものである。
このように書いていて、空中での天体の大爆発が、さまざまな神話や宗教の逸話の中に取り入れられているだろうと書かれていました。
1908年のツングースカ大爆発の想像図
・Universe Today
そして今回ご紹介する 3700年前の「都市の消滅」の場所は、実は、聖書に出てくる都市「ソドムとゴモラ」があったとされている場所の一帯でもあるのです。
ソドムもゴモラもどちらも後にウルトラマンの怪獣名として出てきますが、聖書はウルトラマンの登場(1966年)よりやや古いということで、オリジナルはウルトラマンではなく聖書のようです。
ソドムとゴモラ - Wikipedia
ソドムとゴモラは、旧約聖書の『創世記』19章に登場する都市。
天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされ、後代の預言者たちが言及している部分では、例外なくヤハウェ(聖書における唯一神)の裁きによる滅びの象徴として用いられている。また、悪徳や頽廃の代名詞としても知られる。
こういうものであり、「なぜ滅ぼされてしまったのか」ということについては新約聖書にあるユダの手紙に以下のようにあります。
「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています 」
こんなような聖書の逸話が現実なら、現代社会の私たちのこの世は、もはや猶予ナシの状態なのかもしれないですが、いずれにしても、「滅ぼされた理由」はともかく、ソドムとゴモラの場所は死海周辺とされていることから、「かつて、死海周辺の都市が天体の爆発で消滅した」という出来事は、確かに聖書に書かれた「現実」ということだったのかもしれません。
なお、今回ご紹介する調査がおこなわれた場所は、タル・エル・ハマムという遺跡で、場所は死海北部の下の位置にあります。国家としての領域は、昼でも夜でも「夜だん」と言われて日本人旅行者たちが嘆くとされて久しいヨルダンに属します。

203高地のブログ
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