2019年07月10日

beautyhappinesshide: 方舟は7月17日アララト山頂に漂着した(創世記7章13), 惑星ヤハウェとノアの大洪水

beautyhappinesshide: 方舟は7月17日アララト山頂に漂着した(創世記7章13), 惑星ヤハウェとノアの大洪水
2011
約4500年前に恐竜と古代文明の消失したのは「ノアの大洪水」である。
旧約聖書にはノアの大洪水が地上の殆どの生物を死滅に追いやったとある。
それは地上の管理を神から任されていた人間が堕落し神への畏敬の念を忘れて欲望のままに行動していたからだとしている。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく家畜も這うものも空の鳥も」
(旧約、創世記第6章7節)
「わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、全て命あるもの、全て肉なるものから、2つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい」(旧約、創世記第6章18節)
このときに新世界を切り開くために生き残る生物の中に恐竜は含まれなかったのである。その結果として地上を謳歌した恐竜や人間を含む無数の生物たちの遺骸は、現代では膨大な量の石油となって世界中の人々の生活エネルギーとなっていることは皮肉である。
動物が石油となったように、樹木植物は大洪水で流されて特定の入り江などの漂着し、地球が膨張し始めて陸地が移動して、その隙間に海が出来たり地球内部のマントル層下の外核へ逆流したことで水が次第に引いていくと、積み重なった大量の樹木が化石となり石炭層を形成したのである。
これらの遺物をエネルギーとして現代社会が発展してきた。
世界を沈めた大洪水は世界中で伝説として語り継がれている。
日本の古事記にもイザナギとイザナミの男女が、虚ろなドロの漂う海面に島を造っていった記述が残されていることから、大洪水のときに出来た泥の海を表現する記述だろうと思われる。
「国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂へる時」(古事記、天地の初め)
南北アメリカのネイティブインディアンの間にも洪水伝説が残されているし、古代インドの叙事詩「マハバーラタ」にもマヌの他7人だけが巨大な船に乗って大洪水を生き延びて、ヒマバト山に漂着した伝説がある。これはノアと7人の家族が大洪水を生き延びてアララト山に漂着した話と似ている。
「ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この3人の息子の嫁たちも箱舟に入った」
(旧約、創世記第7章13節)
「第7の月の17日に箱舟はアララト山の上に止まった」(旧約、創世記第8章4節)
これと似た大洪水伝承がインドの「プラーナ聖典」にもあり、聖なる魚に導かれた船によって大洪水を生き抜いたサチュラワタの話が載っている。
北欧の神話にも似たようなエッダ伝説があり、ベルゲルメルと其の妻が大洪水と天に見えた「火の星」がから来た受難を巨大な船で逃れたという。
これは、大洪水のときに出現した謎の天体のことが書かれている。
中国神話の中にも大天変地異で世界が大海原になった記述や、兄と妹が巨大な瓢箪に入って助かったという民間伝説もあり、ノアの大洪水と良く似た物語が世界中に存在している。
イヌイットの伝承にも
「氷と強風とと共に一気に大洪水が押し寄せてきた」
という伝承があり、そのときは数人の家族だけがカヤックを幾つか繋いで洪水を乗り切ったという。
インドネシアでも
「造物主デバータの怒りによって引き起こされた大洪水で世界が壊滅したかのように思えたが、高い山に上っていた夫婦が生き延びた」
という話が残っている。
このように世界中に大洪水の伝承や伝説が多く残されているということは、これが単なる御伽噺ではなく本当に起きたことなんだろうと思われる。
現代アカデミズムは、これら世界各地の千節や伝承などを「局地的に起きた洪水の話である」として全く取り合わないどころか笑いものとしている。
ノアの時代は世界中に散った人類は、文明を発展させて多くの巨石文明を築いたが、やがて神(大自然)を畏怖することを忘れて高慢の極みに達し、自らの利益のためだけに何の罪もない大勢の人間を殺戮し、享楽と退廃し堕落した生活をおくるようになっていたから神が粛清をしたということである。
「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神はこの地をご覧になった。見よ、それは堕落し、全て肉なる者はこの地で堕落の道を進んでいた」(旧約、創世記第6章4節)
そこで神は後の世に生まれてくる子たちのために、腐敗し堕落しきった世界を一度滅ぼす必要があると感じ、ノアやその他の預言者を通じ、巨大な船を造らせた。その箱舟は巨大で特殊な3段構造になっていたと聖書にはある。
「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨が40日40夜地上に降り続いた」
(旧約、創世記第7章11〜12節)
これまでは「ノアの大洪水」の記述が非科学的であり、地球規模の大洪水が1度に起きたことなど絶対にありえないとされてきた。
そのようにアカデミズムが考えた理由は、当時において地球全体を水没させるような水の量が、一体全体どこから来たのかを斉一論を基準として考えた場合、全くもって説明できないからである。
例えば、全ての氷河と氷床が仮に全部解け出してしまったとしても、現在の地球上全てを沈めるような規模にはならないから、ノアの大洪水は神話や御伽噺であり科学的には有り得ないというのがアカデミズムの見解であるようだ。
だが、これは理にかなっているように思える。
しかし、このような見解は、旧約聖書を良く読んでみれば、その見解が間違いだと言うことがわかるのである。
「地の深淵・・・」という言葉を考えた場合、大地の深い所である場所を指し、地の底から膨大な量の水が溢れ出したとも思えるのだ。
プレートテクトニクスやプリュームテクトニクスを考えると、地殻(プレート)が沈み込んでいる海溝と呼ばれる場所と、海底火山やマグマが噴出しプレートの出来る場所である海嶺とがある。
旧約聖書でいう「地の深淵」とは地の裂け目である海溝のことだろう。
そこから大量の水が噴出してきたということは、分厚いマントル層の下に大量の水が存在していると考えられる。
現代において判明している地球内部の構造を見てみると、地表から深さ2900キロまではマントル層と呼ばれるものがあるが、そのマントル層から約5100キロ下には流動体の外核があるという。
この流動体の正体は現在のところは不明なのだが、超高圧に晒された液体層である可能性が考えられる。地震波の横波は水中を伝わらないことから、その外核は液体で満たされているのだと思われる。
これが超高圧下にある水の層だったならば、マントルに亀裂が入ったならば、一気に噴出してきたことだろう。
その圧力は凄まじく爆発的であり、海を高さ1000m以上も熱い水柱を無数に上げていただろうと推測できる。
このときの水蒸気は火山噴火のような規模で一時的に地球を覆ってしまった。
圧が抜けた地球内部では急激に圧力低下が起こり、同じ裂けである海溝から今度は海水が逆流して吸い込まれ外核を満たし、液体層が再び外核に形成されたのである。
大洪水の水が引いていった理由は、マントルが相移転を起こして地球が膨張しプレートテクトニクスが発動たことによるものと共に、「地の底」から噴出した水が再び吸い込まれていったためだと思われるのだ。
一方で、大洪水の時代は地球全体が厚い雲に覆われており、地上に降りそそぐ紫外線などの宇宙線の殆どを遮断していた。
御存知のように紫外線は体の細胞を破壊させ老化することを助長する働きがあることは知られているが、仮に紫外線を遮断できたのなら延命する可能性が高い。
その上、大気中の酸素濃度が現代よりも約50%ほど多かったのかもしれないので、それならば比較的ラクな呼吸で酸素を吸入できるために心臓や肺の負担が減って長寿に貢献していたと考えられる。その他の様々な要因もあっただろうが、ノア自身も950歳まで生きたと記録されている。
「アダムは930年生き、そして死んだ・・・中略・・・
セトは920年生き・・・
エノシュは905年生き・・・
ケナンは910年生き・・・
マハラエルは895年生き・・・
イエレドは962年生き、そして死んだ」
(旧約、創世記第5章3〜20節)
他にも
メトシュラは969年、
レメクは777年である。
ノアは500歳でセム、ハム、ヤフェトの3つ子を妻に産ませている。
そしてノアが600歳のときに大洪水が発生した。
だが、それに比べて現代人の寿命は短命である。
何事も無ければ100歳〜120歳まで生きるのがせいぜい可能であるという程度である。
これはテロメアという自殺遺伝子が存在しているからだと言われている。
それが人間には基本的に約120年分が用意され、それから人間の寿命は120年程度とされていったのであろう。
このことが旧約聖書に書かれている。
「主は言われた『私の霊は人の中に永久に留まるべきではない。人は肉に過ぎないのだから』こうして人の一生は120年になった。」
(旧約、創世記第6章3節)
この言葉は大洪水以前の人々の罪が極限に達したときに発せられたとされている。神が命じたとされる地上の人類への罰として短命したのだということを表現している。これから以後は、次第に人類の寿命はごく一部を除いて短命化していき最終的には約120年になった。
遺伝子が研究されていなかった時代なのに何故に、こういう記述が残っているのだろうか。
大洪水を生き延びた巨大生物たちは、当時の人類よりも長寿だったと思われ、その大きさからすれば数千年くらい生きていたのかもしれない。
もし、それらの古代動物の生き残りが世代を重ねることなく単体で生き抜いていたとしたら、ネッシーを含む世界各地で目撃されるUMAの存在が明らかになっていくかもしれない。
旧約聖書には大洪水までの神の目から見た天地創造の記述は存在していても、地上に住んだ人間側から見た天体の記述は極めて少ない。
聖書外典の記述では、地上に住む者で厚い雲の層を知ることが出来たのはアダムから続く預言者たちだったようで、聖書外典という聖書に編纂されていない聖書のことで、通常ではアポクリファーと呼ぶ。
未来と天体に関する知識の多くは、霊界に住まう絶対神から地上の預言者たちに伝えられ、その預言者を通して一般人に伝達されていた。ノアも其の1人であり、大洪水が到来する可能性が高いことを知らせてきた神の声を聞いたのだろう。
しかし、結果的にはノアの家族8人意外は誰も彼の言葉に耳を傾ける者はいなかったのであろう。
その大洪水を引き起こした膨大な量の水は主として天から降ってきたとされる。
地の深淵から溢れ出てきたこともあるだろうが、当時の全世界の殆どを水没させるような水量は地球上に存在していなかったのだ。
地球上に40日も滝のような豪雨が降り続いたことから、それだけの水が水蒸気も含めて大気圏内に存在したとは思えない。
それは宇宙空間、それも地球に一番近い天体から降ってきたのである。実は水は宇宙空間でも珍しい物質ではないことがわかっている。
月探査機「クレメンタイン」によって月に膨大な量の氷が存在していることがわかった。
太陽系内でも太陽に飲み込まれそうなくらい接近して公転している水星でも1992年に氷の存在が確認されている。
火星には氷冠となって氷が極地に多く存在しているし、それに火星の赤道付近では大昔に大洪水が起きていたことが、火星探査機「マーズ・グローバル・サーベイヤー」によって確認されているという。
木星の衛星であるエウロパは全表面の地殻が分厚い氷で出来ており、その中に膨大な量の水が蓄えられているようだ。
このエウロパのような天体は「氷天体」と呼ばれ、他の惑星を公転している多くの衛星は氷天体も多く含まれていることが確認されている。
そしてナサは最近になって、横倒しで太陽を公転している天王星の太陽の光が当たらない側に地表の上に氷の層が存在しており、それは深さが約8000mの「海」が存在していることを公表した。
・・・ということは、天王星を始めとして木星、土星、海王星など、今までガス惑星だとアカデミズムで言われてきた惑星も分厚い大気の下には海と大陸が存在する地殻天体であり、それがボイジャーなどの探査機によって判明しているのである。
そして、木星、土星、天王星、海王星のリングも殆どが、赤道上空を周回している氷の塊の集合体であることがわかっている。そのリングは各惑星を公転している氷天体の衛星が、かつて太陽系内を暴れまわった惑星に破壊された残骸である可能性が高いのである。
それに、地上に落下する隕石にも水が含有されている。
それだけ、宇宙には水は当たり前に存在している物質である。
ノアの大洪水は小惑星が落下して大津波が引き起こされて低地を飲み込んだだけとは思えないのである。
小惑星や隕石落下説ならば、多くの生物(特に水棲生物)が多く生き残った理由が説明できないのです。
それに、旧約聖書には大洪水の水が150日間も引かなかったと書かれているので、彗星や小惑星や隕石などが落下し大津波を起こしたとしたら、全く辻褄が合わないのです。
「水は150日の間、地上で勢いを失わなかった」(旧約、創世記第7章24節)
両極の氷床が全て融けて大洪水が起きたのではないかという説が持ち上がっているがこれも有り得ない。
大洪水は突発的に起きたものであり、太陽系内の秩序が乱されて起きた現象なのであり、何年もかけてジワジワと海面が上昇していったのではないということだ。
この仮説が不可思議であることは誰にでもわかりそうなものだが、地球温暖化が叫ばれている昨今では意外と支持されてしまっているのだ。でも、40日も断続的に滝のような豪雨が降り、地の深淵からも水が服出してきたとある。
だから、両極の氷床が全て融けて海面が上昇していったということが有り得ないことは、良く創世記を読めばわかることなのだ。ノアの大洪水は当時の地球上にいた全ての人類や動物にとっては、まさに晴天の霹靂ともいえる突発的な天変地異であり、それが宇宙規模で起きたことの副産物であったのです。
人類史上で一番古い記録は旧約聖書であるが、アカデミズムはドチラかといえばメソポタミア文明の初期にあたるシュメール文明の粘土板に書かれた記録が一番古いとしている。ゼカリア・シッチンの惑星ニビル仮説も、この粘土板を独自に解読したことから成立している。
確かに旧約聖書の記述はシュメールの影響を受けていると思われる。
だが、考えてもらいたい。旧約聖書には詳細に人類の祖先であるアダムからの系図が示され、大洪水後の詳細な記述までも書き残されているし、現在よりも太古の地球が重力が少なく酸素濃度も高かったからなのか、彼らが現代人よりも10倍近く長寿だったことまで書かれているのだ。
古代にパンゲアと呼ばれる1つの超巨大な大陸が存在し、その大陸が分割移動して現在のような世界へと変化したという「大陸移動説」が、1912年にドイツ人のアルフレッド・ウェゲナーによって提唱された。
この大陸移動説は、南アメリカの東海岸とアメリカの西海岸の海岸線がジグソーパズルのように合わさることから発案されたものであるが、それが意味することは現在のような分割された各地域の大陸は元々は1つの大陸だったということを主張している。
ウェゲナーは、ブラジルとアフリカの地形が合わさるだけでなく地質でも似ていることに着目し、同種の植物や淡水魚が多く存在しているという共通項が多く見つかった。それらが大挙して大西洋を渡ったとは思えないから、太古に大陸が接合していた証拠だと指摘したのです。
彼はオーストラリア大陸や南極大陸やインド亜大陸も同様に1つの大陸だったものから分離したと主張した。
しかし、古い体質で斉一論と進化論を基盤としたアカデミズムは、この説を異端視して全面的に攻撃したことで、大陸移動説は葬り去られてしまったのです。
しかし第2次世界大戦後の1950年から、機器の発達によって海洋学が大幅に進化し、相次いで海底火山や延々と続く海底山脈が発見され、正確な位置と長さを割り出すと海底火山の中央部に深い裂け目のような亀裂が多く存在していることが判明し、そこを境に地殻プレートが左右に分離していることがわかった。
イギリスのケンブリッジ大学の教授だったF・J・バインとD・H・マシューズは、プレートが大陸と接した部分から海溝に落ちて入り込んでいる様子を確認して公表した。これが「海洋拡大説」として賛否両論の論争に発展していきました。
これを基盤として数名の学者たちが共同で研究し、後に「プレートテクトニクス理論」へ発展したのです。
ここでもアカデミズムは彼らを異端視し、もし仮にパンゲア大陸が実在したとしても、その時代は約2億年以上前の現象だと主張している。
その2億年という数字は、現代のプレートが移動する速度を当てはめて計算した数字であり、地球が突如として起きた大激変の末に現在のような世界になったとは微塵も思っていないようである。
実は斉一論は天体同士がニアミスしたり接近時に互いの激しい潮汐作用を受けて天体内部が攪拌されたり、最悪の場合は互いを破壊してしまうほどの力を持った現象であり、そういう歴史が太古に存在したという話には全くもって反論できないばかりか殆ど無力に等しいので、異端視したりトンデモ学者のレッテルを貼ることしか対抗できていない。
もはや空虚であるだろう。恐竜を滅亡させ人類の殆どを死に追いやった「ノアの大洪水」の直後から、地球の内部も大きく攪拌されて海溝と海嶺が活発化しプレートは現在よりも高速で移動してパンゲア大陸が南北に引き裂かれ、ゴンドワナ大陸とローラシア大陸になり、その後も分裂を続けていったことで、ついにはプレート同士が激しく衝突した。
こその衝突した場所に高い山脈が形成されていったと考えられるのだ。
それが起きたのが、約4500年前であり、短期間のうちに地球は全く様変わりしてしまったということになる。
このことが旧約聖書にも記述がある。
「エベルには2人の息子が生まれた。ひとりの名は、其の時代に土地が分けられたので、ペレグといい、その兄弟はヨクタンといった」
(旧約、創世記第10章25節)
旧約聖書には大陸が分割され移動したことまで書かれていたということになる。
ここがノアの大洪水の後に勃興したシュメールのギルガメッシュ叙事詩とは異なる点である。
旧約聖書の中には
@太陽系の誕生と地球の黎明期の様子が書かれている
A首の長い巨大な怪物が存在した
B1つの大陸と1つの海があった
C大洪水で地上の生物の殆どが死滅した
D大陸が分割して移動した
E巨大な人類が存在した・・・
ことが書かれていると思われる。
旧約聖書とは、単なるユダヤ教の経典というだけでなく、実は地球の歴史を記した凄い記録書だということがわかる。
ただの宗教書ではないのだ。
日本にも古代の記録が書かれたと思われ、旧約聖書の記述と似たものが存在している。
それは「富士宮下古文書」である。
1883年(明治16年)に「富士宮下古文書」が公開された。
それには伊豆半島が約2000年前に移動してきて日本と接合して形成されたという記述がある。
南の沖合いから伊豆半島の陸地が接近してきて本州と衝突して誕生したのが伊豆半島だと書かれている。
当時から日本のアカデミズムは、伊豆半島は最初から日本列島の一部であったとして嘲笑し、挙句の果ては「富士宮下古文書」の記述は偽モノであり、その全てが御伽噺だと主張し「偽書」としたのである。
その後に、静岡県小山町の山奥で、衝突時の形跡と思われる「神縄断層」が発見されたが、それでも国内外のアカデミズムは「もし仮に衝突したとしても、衝突時期は斉一論を加味した結果では約100万年前である」と主張した。
「だから富士宮下古文書」は偽書であり昔の小説のような物語であると糾弾したのである。
伊豆半島の形成の他にも、富士五湖の形成プロセスが書かれていて、それが地質的にも一致しているのだが、形成された年代が斉一論と大きく違うためにアカデミズムは未だに認めていないのが現状である。
この約2000年前という数字は、そう、イエス・キリストが誕生したときに天空に見慣れない星(ベツレヘムの星)が出現し、そのときに天変地異が世界中で頻発していた時期でもある。
そして海外でもユダヤの「ミドラッシュ」にはモーセの出エジプトの頃に頻発した天変地異を
「空は騒がしく・・・、山々は動いた」
と記し、また「ラビの書」には「最初の騒音で天空と大地は移動し、海洋と川は疾走し、山と丘には深部に緩みが起きた」と記されている。
この約2000年前の当時にも、明らかに大地は速く移動したことが記されているのである。
エジプトの「パピルス・イプファー」という記録書にも、
「騒音の年代、騒音には終りが無く、願わくば大地の騒音を止めんことを、もうこれ以上の騒がしさはいらない」
と記され、他の地域との共通点が見られるのです。
ギルガメッシュ叙事詩にも「天は空高く、うなりを発し、大陸はそれに反響して動き騒いだ」とある。
古代中国にも孔子(紀元前551〜479年)が書き残した「書経」には、
「大洪水の後、帝の代に、日の出と日の入りの方向が入れ替わったために、東西南北、及び四季の長さと暦を新しくさせた」
とある。
これらの天変地異は何度も起きたことが推測され、大規模な地殻変動を伴った大激変が幾度も起きていたことは間違いなく、その元凶が太陽系を暴れまわった幾つかの惑星だったのです。紀元前の時代に幾度も起きたポールシフトで南北の極が入れ替わったり、極が移動アチコチに移動しては、そこが一時的に極寒の地となった。
だから氷河期などは1度も無く、単に極が移動した場所に分厚い氷床や氷河が短期間に作られたのだろう。
アフリカのサハラ砂漠にも氷床痕があり、オーストラリアにも氷床痕があることから、各地が一時的に極地になったのであろう。
現在の南極大陸が昔は温暖な気候の時代が存在したことが既に判明している。
そして氷漬けマンモスが出土することからも、前回の北極はシベリア地域だと想定される。
それは太陽の裏側を公転しているナサが隠蔽している未発表の
「惑星ヤハウェ」、
その後に誕生した金星が
「巨大彗星メノラー」
として太陽系内を暴れ、その金星に弾き飛ばされた火星も太陽系内を暴れ地球に幾度もニアミスや最接近した。
こうして火星は戦いの神「軍神マルス」と言われるようになった。
特に惑星ヤハウェは「ノアの大洪水」を引き起こした主犯であり、火星の古代文明を壊滅させ、
現在の小惑星帯(アステロイドベルト)にあった惑星とニアミスして破壊させた惑星であるから、太陽に隠れて天文家でも見えないのをいいことにナサは未だに発表しないでいる。
惑星ヤハウェの存在が表沙汰になれば、「ノアの大洪水」が事実だったことが判明するばかりか、斉一論や進化論を基盤に構築してきた既存のアカデミズム体系が全て虚構となり完全に崩壊してしまうからである。
古代アメリカのマヤ文明では、太陽が逆行することを「テオトル・リクスコ」と読んで畏怖した。
以前も書いたが、地軸移動や地軸傾斜と、ポールシフト(極移動)とは明確に異なる現象なのです。
極移動は自転軸は特に変らないのだが、地球そのものの球体が転ぶ現象であり、一定方向に回転しながら引っくり返る現象である。
それに地軸傾斜や地軸移動もポールシフト(極移動)と同時期に起きたことがあると思われるのだ。
こうして地球規模で大変動が起きることで、地上の生物にも「天変地異」という物理的な影響が与えられるのだ。
月の内部にあった水が地球上へと落下したことで起きた「ノアの大洪水」のような事は、既に月が空洞になっているから、仮に惑星ヤハウェがニアミスしても同様な大洪水は起きないと思われるが、もしかするとポールシフトや地軸傾斜が起きる可能性は十分にあるのである。
その未知の惑星によって近い将来において再び引き起こされる可能性も高いかもしれない。
マヤの暦が終わるという話は、最悪の場合はポールシフトが起きて暦も季節も大きく書き換えられるという可能性を暗に示唆しているようにも感じるのだ。
詳細は「地球問題」の書庫の「かつて世界は大激変した」シリーズをご覧下さいませ。

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木内鶴彦霊視: 月の誕生,ノアの大洪水 (>>祇園祭)
超古代の宇宙を飛ぶ
時空を自由自在に生まれるのならば,古代の宇宙を確かめたいという衝動に駆られました。
三途の川や故人との出会いは私の中では第一臨死体験として,未来や古代宇宙等の体験は第二次臨死体験として私の中では記憶しています。
■臨死体験で見た古代地球の歴史
私が第二臨死体験で見てきた地球の歴史は,現在の常識では考えられないものでした。
月が誕生する前,地上では高度な文明社会が築かれていました。
その世界は今の歴史学の常識からすれば,信じられないような姿だと思います。
この古代都市は当初地球の地下に作られました。
人間が自分たちの生活空間を地下に求めた理由は実にシンプルなものでした。
地上に街を作ると自然を破壊しなければならないからです。
当時の文明は,地球の生態系の主役は植物だと言う認識に立脚していたんです。
都市と同じ理由から道路や線路も作られませんでした。
道を作らなくてもいいように,彼らは空を移動する乗物を開発しました。
それは今で言えば飛行機というよりもUFOに近いものでした。
緑に覆われた大地,そこには数々の動物が循環を繰り返していました。地下に住む人間も巨大な恐竜も共存して生きていました。
そうです,月が誕生するまで前まで人間と距離は1つの生態系の中で生きていたのです。
人間は文明の進化とともにその生息圏を拡げていきました。
それは草しか生えないような山岳地帯に植物を育てたり,砂漠地帯を緑に変えるための移住です。
当時の科学力はある意味では現在よりも進んでいたのかもしれませんが,価値観が今とは異なるので,比べるのが難しいところもあります。
でも天文に関しては今と同程度位まで発展していました。
だからこそ,臨死体験から戻ったときに月の年代を割り出すための正確なデータが得られたんです。
残念なことにこの超古代文明は月が地球にもたらした大洪水によって失われました。
■月の誕生
第二臨死体験の中で,私の意識は,その当時の天体観測をしていた人の体に入り込むことによって当時の星空の詳細を観察しました。
そして臨死体験から生還。3ヶ月近い入院生活を終えた私は,しばらく実家に戻って休養しました。退院したとはいえ,職場に復帰できるほどに体力はまだまだなかったからです。
臨死体験で見てきた親戚や友人の様子など,様々なものを後からアルバムで確かめました。
その結果はどれも私の見てきたものを事実だと思わせるものばかりでした。臨死体験で見てきたものが事実であるならば,そこで見た地球の歴史もまた正しいはずです。
そこで私は確かめられそうなものから色々と検証してみることにしました。
最初に確かめたのは月でした。
月は私たちにとって大変身近な存在ですが,まだわかっていないことも多い天体です。いつどのようにして誕生したのかといったについても,まだ定説はありません。
地球の一部がちぎれてできたと言う説もあれば,太陽系を漂っていた小惑星が地球の引力に取り込まれたと言う説もあります。
地球から見た月はいつも同じ顔をしています。そのために地球から見える側が表,見えない側が裏といわれています。
これは月の一公転に対して一回の自転しかしていないからです。
そして月の一定面を常に地球に向けているのは,表側の方が裏側よりも質量が重いからです。
私は月のクレーターの数から月が地球の衛星となってからの年数を割り出すことを考えました。
星の歳差運動は一定の周期に基づいているので,計算すれば何年の北極星がどの星かということがわかります。それと星の固有の運動から割り出した数字を合わせれば,かなり正確な年代が確定できるというわけです。
そうして私が導き出した,月が誕生した年代は,約15,000年前というものでした。
巨大彗星が地球に接近して地球環境を大きく変化させたのは意外にもそれほど古い時代のことではありませんでした。すでに人類が誕生して,文化的な生活を営んでいたんです。
月がもともと巨大な彗星であったならば,月のクレーターは水分が蒸発して地球に吸い取られた後にできたと考えることができます。クレーターというのは隕石の地表にぶつかったときの衝撃でできる凹みのようなものだからです。
月には暗い部分と明るい部分があって,暗い部分は「海」,明るい部分は「陸」と呼んでいます。
私の幼い頃にウサギだと信じていたのは,この海と呼ばれる体の部分でした。
なぜ「海」が暗く見えるのかというと,ここは「陸」と呼ばれる部分よりも少し低くて,光の反射率が悪いからです。「海」はクレーターの数が少なくて,比較的楽に観察することができます。
そこで一定期間この海の部分にできる新しいクレーターの数を観察して,平均値を出します。
そして現在あるクレーターの総数をその平均値で割れば,月の誕生したおおよその年代を特定することができます。
こうしたクレーターの観察結果をもとに月の年代を測定したところ,やはりここでも約15,000年前と言う,私の臨死体験から導き出した答えと一致する数字が出たのです。
15000年前,地球は今とだいぶ違う状態にありました。
現在の地球の陸と海の割合は約1:2ですが,当時は海は地表の3分の1しかありませんでした。そして月が存在していなかったのです。
今よりも水が極端に少なかった地球は,質量が少ないために重力も少なかったようです。
地球が緑におおわれるのに伴い,様々な動物も海から陸に上陸して, 水圧から解放された動物は重力の弱い陸上で巨大化していきました。
現在恐竜の化石を復元すると,体の割に足が小さいためにうまく歩くことができなかったのではないかという説を唱える人がいますが,私の臨死体験で見た光景はこの疑問を解決してくれます。
私は臨死体験の中で,約15,000年前に大量の水分を含んだ巨大彗星が地球に大接近したのを見ました。
巨大彗星は火星の付近まで到達したときに,水分が蒸発して太陽よりも巨大なガス状の天体に変化しました。
そのガスは地球にまで達しました。
そしてガスの部分は地球の引力に引き寄せられて行きました。ガスは地表に近づくに従って冷えて,雨になって地上に降り注ぎます。こうして大地の3分の1が海底に沈むほどの大雨が地球に注いだんです。
その頃すでに文明を持っていた人類は天文についての知識もあったので,巨大彗星接近による被害を予想していました。少しでもその被害から生まれるために人々は高い山の頂上などに避難していましたが,それでも大多数の命が失われてしまいました。恐竜が絶滅したのもこの天変地異によってです。
その洪水から生き延びたのは,高い山の山頂に避難できたごくわずかの人でした。
巨大彗星が持っていた水が地球に降り注いだことによって地球上の水分量は
旧約聖書のノアの方舟の物語を始め,世界各地には洪水の伝説が広く残っています。
7日7晩降り続いた大雨によって高い山までが水の下に沈んだという伝承の全てが想像の産物であるとは私には思えません。
これらの伝説は月が誕生したときに地球におきた異変を伝えるものなのかもしれません。
私は臨死体験での自分の記憶を頼りに地球上の陸地と海の割合の変化から,増えたと考えられる水分の量を計算して,それを現在の月と合わせてみたんです。するとそれは見事にバランスが取れたんです。
ー生き方は星空が教えてくれる,木内鶴彦,サンマーク文庫, 2015年8月刊,

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2019年01月25日

『宮下文書』に記録された幻の富士南朝


幻の富士南朝-『宮下文書』-
富士古文書(『宮下文書』)とは
山梨県富士吉田市明見周辺にて発見された古文書群である。
なかでも宮下源兵衛氏の保管するものが最も多く、よって『宮下文書』ともいう。
数多い古文書のうち神代から太古史に至る部分は、
不老不死の秘薬を求めて富士に渡来・定着した徐福一行が子孫七代に渡って編纂したものであるという。
古文書は小室浅間神宮(阿祖山太神宮)の宝物として保管され、大宮司宮下氏が代々これを守ったという。
時間が経つとともに文書は逸散したという。
時間とともに腐朽するか、または時の権力者(足利尊氏も名を連ねている)の迫害に遭って焼却されたと伝える。
第六十七代大宮司宮下宗忠のとき、領主である秋元喬知の苛政を責めたため、大宮司職を剥奪され古文書の多くも失われたという。
以後、一族は残片を保護のみに徹したが、徳川幕府が消滅し文明開化を目の当たりにするに及び、明治十六年二月二十二日に再び公開したという。
小生が確認したのは富士古文書そのものではなく、これらをまとめた
『神皇記』
『富士史』
『長慶天皇紀略』
である。
ここでは、南北朝時代関連の記事のみ扱う。
有名な記事としては、
護良親王及び雛鶴姫に関する伝説
富士南朝に関する伝説
がある。
戦後に出現した自称天皇のうち、三浦天皇は富士南朝・三河南朝の末裔を称している。
最初に注記しておく。史実を期待してはいけない。
宮下文書著者の空想と民間伝承と軍記物語の結合体と見るべきである。

中世日本紀略
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/fujinancho.html
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概要
1,後醍醐天皇時代
北条高時が執権となった当時、鎌倉幕府に往時の活力は無かった。
後醍醐天皇はこれを察知した。
倒幕の好機であると考えた天皇は、計画を実行するに十分な軍事力を得る為、各地の有力者に密使を派遣した。
富士十二郷には万里小路藤房が派遣され、大宮司宮下義高(三浦氏を称したという)に綸旨をもたらした。
義高は天皇の御志に賛同し、嫡男六左衛門義勝を藤房につけて楠木正成の館へと向かった。
これ以外にも、忠義の心篤き者が各地にて次々と名乗りを挙げた。
すなわち、
楠木正成・三浦義勝・井伊道政・児島範長・名和長重・河野道長・菊池武時・北畠親房
である。
かくして天皇の帷幕に集った八人を、
「二心なき八将」
という。八将は各自の分担を決め、己が意志を血判状に込めた。
分担の内訳は以下の通り。
なお、秘密中央裏大将の役割は、諜報活動にある。
軍勢を動かさず、諸国の状況を天皇方に知らしめ、場合によっては謀略を用いる。
元帥:後醍醐天皇
副元帥:尊雲法親王
副帥:万里小路藤房
西表大将:楠木左衛門尉正成
東表大将:北畠陸奥守親房
中央秘密裏大将:三浦六左衛門義勝
副将:井伊遠江介道政・児島備後守範長(高徳の父)・名和小太郎長重(長年の弟)・河野伊予介道長・菊池肥後守武時
また、表根拠地を河内金剛山に、裏根拠地を富士谷(宮下氏の根拠地)に定め、それぞれ軍事活動の中心・諜報活動の中心とした。
義勝らは更に味方を募り、二十七士がこれに応じた。
宮方は幾度とない敗北に耐え、ついに鎌倉幕府を滅ぼした。
新田義貞が分倍河原合戦に敗れた際、味方に加わって反撃の契機を与えた「三浦義勝」は、かの宮下義勝のことであるという。
また、義勝は義貞に献策した。
「請う、義貞自ら二万の精鋭を率いて稲村ケ崎に向かい、海岸の防塁を攻撃せよ。
予は干潮を見計らって裏山から奇襲をかけ、以て幕府軍を牽制す。」
義貞は策を採用し、鎌倉占領に成功したという。
天下は定まり、年号は建武と改められた。
天皇親政が進むなか、護良親王と足利尊氏の対立が表面化した。
親王は政争に敗れて捕らえられ、鎌倉にいる足利直義の監視下におかれた。
楠木正成は、親王の皇子である万寿王を保護し、義勝に依頼して富士谷宇津峰南城に潜伏させた。
万寿王は
「皇国を再興すべし」
という意を込めて興良親王と名乗り、常陸国平定にあたって陸良親王と改名したという。
中先代の乱が勃発するに及び、直義は淵辺伊賀守に命じて親王を暗殺した。
雛鶴姫は親王の首級を発見し、松木宗忠らがこれを捧持して富士谷に向かった。
残った二人の家来は、身重の姫を守護しつつ、富士谷を目指した。
津久井郡青山村で供養塔を建て、更に秋山嶺の麓に至ったが、無情野にて民家に泊まろうとして断られ、秋山嶺で皇子を出産して死亡した。
皇子は綴連王といい、大事に養育されたが、十二歳で亡くなった。親王の首級は富士神宮に納められた。
湊川の合戦において正成は戦死した。
このとき足利尊氏に届けられた首級は偽物で、本物は富士神宮にて秘匿されたという。
2,後村上天皇
正平七年閏二月十三日、義勝は関東八州に動員をかけ、新田義宗らとともに鎌倉を攻撃させた。
しかし、合戦は南軍の敗北に終わった。
正平十年六月二十八日、義勝は新田義宗・脇屋義治・宗良親王とともに兵を挙げ、再び鎌倉目指して進軍した。
尊氏は上野国にて敗れて武蔵国石濱に追い詰められ、基氏もまた鎌倉を放棄して上総に逃れた。
が、宮方に裏切り者相次ぎ、戦況は逆転した。
義勝は親王らを逃がした後、殿軍をつとめて踏みとどまり、自ら死地を求めるように戦死した。
義勝の首級は縁者の手によって密かに回収され、富士谷に送られた。
義勝の戦死とともに、尊氏は陰大将の存在を感知し、仁木頼章らに富士谷を捜索させた。
松木宗忠は護良親王の首級を朝日山(石船神社)に隠し、楠木正成の首級もまた上野国新田郷花見塚に移されたという。
宮下義高は幕府の追求を受けたが、義勝病死を噂として流布させてこれを逃れた。
3,長慶天皇
文中三年正月、長慶天皇は皇太弟に譲位した。後亀山天皇である。
(この章では、脇屋義隆・新田貞方らが霊山城に拠り奥州に転戦したことを記す。内容は『底倉之記』にほぼ同じ。)
天授三年、脇屋義治は富士谷にあったが、足利幕府の天下いよいよ定まり追求が厳しくなるに及び、伊予にいた新田義宗に救援を求めた。
義宗は義治ともども伊予で病死したかのように見せかけ、富士谷に向かった。
天授五年九月五日、長慶院は富士谷に遷幸した。
八月十五日、楠木正興・正光、和田正久らに警護されて出発し、摂津から伊勢、駿河まで海路をとった。
(この後、三浦義利に賜ったという院宣が引用されているのだが、言葉遣い・書式に疑問あり)
天授六年二月二十日、富士勝山谷東沢深山に御所を造営した。
長慶院はかつて紀伊国玉川宮に住んでいたことがあったので、御所も玉川宮と命名された。
この地を宮原と称するようになり、その前を流れる川を玉川と呼ぶようになった。
北条時行は、宗良親王が薨ぜられると、出家して法鏡禅師と名乗り、諸国を放浪した後、富士谷に落ち着いた。
元中九年、七十四歳にて死去。
元中七年、後亀山天皇は長慶院に対し、兄弟で皇統迭立することを提案した。
元中九年、両朝は合一したが、尹良親王など、幕府に屈せず吉野に残る者もいた。
応永十七年、長慶院崩御。
以下略。

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考証
一、史実との対比
:鎌倉攻めについて
宮下六郎左衛門義勝を三浦大多和義勝に附会し、倒幕計画の秘密陰大将(東表大将は北畠氏、西表大将は楠木氏だそうだ)として暗躍したとするが、どう考えても無理がある。『太平記』分倍河原にて新田義貞を勝利に導いたとする「三浦大多和六左衛門義勝」は、他の記録に見えない。『大多和家譜』によると「三浦大多和平六左衛門義行」または「彦六左衛門義勝」であり、新田勢に加わったとするが、『宮下文書』と符合する事跡も記されておらず他の記録にも見えない。 『大塚文書』では、五月二十二日葛西ヶ谷合戦に関連して「相模国御家人大多和太郎遠明」という名前が見えるので、これの同族かもしれない。
『天野文書』によると、新田軍が「稲村ケ崎の陣を駆け破って」鎌倉内部に進入したのは五月十八日で、一旦は撃退された。『和田文書』三木俊連の書状では、五月二十一日、新田氏義配下にあった三木勢が峰から駆け降り、霊山寺大門に拠る敵を追い落としたとする。『大塚文書』によると、同日鎌倉内部にて大館幸氏率いる軍勢が前浜付近浜鳥居脇にて合戦。義貞は、当初からこの攻略に力点を置いていた可能性もある。現在の稲村ケ崎は、地形が変化して道が消滅している。
雛鶴姫の伝説について
雛鶴姫は親王の首級を抱いていたとする伝承もある。『長慶天皇紀略』のこの部分には、何故か地元の正月の風習まで記されており、やたらと詳しい。
また、山梨県都留市秋山村付近一帯に伝えられる伝説と、護良親王首級および雛鶴姫の末路に関する記述がほぼ一致する。他所で述べた通り、同一人物に関する全く異なる伝説が各地にあるので、これは伝承と考えるべきである。
正平年間の鎌倉攻めについて
『長慶天皇紀略』『富士史』は、正平七年閏二月の南軍による鎌倉侵攻(『太平記』武蔵野合戦事)の後、正平十年六月二十八日にも再攻撃の敢行を記す。正平七年閏二月は前哨戦として扱われ、本格的な記述があるのは正平十年六月の合戦である。
ここでは『太平記』武蔵野合戦事と類似の記述(『長慶天皇紀略』では上野国合戦)が見られ、したがって原書と同じ間違いをおかしている。『太平記』では「南軍は武蔵野合戦にて北軍に勝利した後、鎌倉を占領した」という。が、『園太暦』三月四日条にあるように、まず尊氏は鎌倉を脱出して南軍の鋭鋒を避け、味方の集結を待ってから金井原・人見原で敵を破ったのである。
第一、正平十年六月二十八日の時点で宗良親王が鎌倉への進攻を企画していたのか。むしろ、越後・信濃の確保に重点を置いており、そのような余力は無かったものと見られる。
『三浦和田文書』(正平九年九月二十三日・翌十年四月七日付)
によって中越で転戦していることが知られ、
『園太暦』同年八月十七日条に
「宗良親王が信濃で挙兵したため国中が騒動し、「駒牽」のための馬が献上できなくなった
という記録がある。
駒牽というのは諸国(南北朝当時は信濃望月牧の馬のみ)の牧場から献上された馬を天皇にお披露目する儀式で、八月十五日頃に行われた。
信濃方面で決着がついたのは八月二十日の大合戦であり、南軍が大敗したことが『矢島文書』によって知られる。
いや、そもそも尊氏が鎌倉にいたのか。正平八年七月二十九日(『鶴岡社務録』)尊氏は鎌倉を出発し、九月に京都へ戻った。その後は正平十年三月十三日まで、南朝及びそれに与同する旧直義党と延々二年弱にわたる京都争奪戦を繰り広げたことは『太平記』にも記されている。
では、なぜ『宮下文書』は幻の正平十年六月の攻勢を記さなければならなかったのか。
それは、『太平記』鎌倉攻めにおける分倍河原合戦では義勝が活躍するものの(陰大将にあるまじきことだが)、正平七年の鎌倉侵攻には義勝が登場すらしないからであろう。読者が『太平記』を見たとき、不審に思うのは十分予想できる。これを避けるには、合戦そのものを創作するよりほかは無い。それも、正平十年三月まで尊氏が京都で合戦しているのは『太平記』にも記されていることなので、それ以降でなければならない。
期日の辻褄は合っている。しかし、正平十年以降、尊氏が関東に下向したという記録は『宮下文書』以外に無い。
二、種本について
『太平記』などの軍記物語であると思われる。公家・僧侶による記録を参考にした形跡はない。
奥州における脇屋義隆の戦いについて
応永三年六月三日、足利氏満が十万騎を率いて奥州新田軍を攻めた旨を記す。『底倉之記』と比較するに、兵数は全く同じ、人名もほぼ同じ、表現も酷似している。
『底倉之記』:「射違ふる矢は夕雨の軒端を過るより尚繁く、打ち違ふる太刀の鍔音矢叫びの音は百千の雷の一度に鳴り落ちるかと夥しく」
『長慶天皇紀略』:「流れ矢雨のごとく飛び下り、戦闘の声、百雷の一時に堕つるがごとし」
但し、戦の経過は異なる。例によって富士谷が絡むから。
南北朝統一以後の記述について
『十津川之記』を参考にした形跡あり。登場人物も、『十津川之記』に特有の(他文献に見えず、よって想像上のものと思われる)名前が見られる。戦況の描写までも酷似している。湯浅城の合戦など、最後まで生き残って戦うのが楠木正秀であることが異なる以外、『十津川之記』にほぼ同じ。 長禄の変の期日も『十津川之記』に同じで、やはり間違いを継承している。
本稿でいう「長禄の変」は、「南朝遺臣によって持ち去られた神器を、赤松遺臣が二回にわたる襲撃で奪回するまで」の一連の事件とする。
『上月記(上月文書)』 『経覚私要抄』『大乗院寺社雑事記』など当時の記録は、長禄元年十二月に南朝皇胤二人を討ち取り、翌二年四月に悪党を入れて盗み出し神器奪還に成功した旨を記す。『上月文書』は、実際に襲撃を行った人物が、二十年後に当時を思い出して記したものである。
が、問題は後年に成立した質の悪い文献で、『南方紀伝(長禄二年六月二十七日、一回のみ)』『十津川之記(長禄二年七月二十五日)』『桜雲記(長禄三年六月二十七日)』は期日を間違えている上に、二度にわたる襲撃を混同している。新井白石の『読史余論』も『南方紀伝』準拠のため同じく間違えている。
もし『宮下文書』が当事者によって記され室町時代から保存されているものであれば、主と仰ぐ南帝が暗殺された日と神器を奪還された日を混同して記述することはあり得ない。書写を経ているとしても、そう間違えるものでも無いだろう。それとも、「書写に際して他文献を参照した」と強弁するのであろうか。ならば、もっと信頼できる史料を選択すべきである。
以上、『底倉之記』『十津川之記』との類似及び間違いの継承を指摘した。両書の成立年代及び作者は不明であるが、文化六年成立の『南山巡狩録』に参考文献として挙げられている。少なくとも、文体から察して江戸時代のものと思われる。
問題は、これら江戸時代に作られた軍記物が先か、それとも『宮下文書』が先かということだ。これについては、『宮下文書』を引用した歴史書を見たことが無いので、不明であると言わねばならない。
確かに、私は原書を見たわけではない。しかし、三輪氏が『宮下文書』を要約するにあたって、信頼性に劣る他文献(『底倉之記』『十津川之記』)を混入させることは無いものと信じている。
『宮下文書』の南北朝関連記事に信頼性は期待できないが、現地の伝承を調べる際には有益な情報もあるだろう。
伝承が先か、『宮下文書』が先か、という問題は残るが。
当サイトは、
「たとえ信頼性の低い史料といえど、少しでも史実が含まれているかもしれない」
という立場にある。
が、『宮下文書』については、ここに要約を載せただけでも、かなりご都合主義が目立つ。
「噂を流したところ、世の人はすぐに信じた」
「死んだというのは実は身代わりで、本人は生きている」
などという辻褄合わせがあちこちに出てくる。流石に辛い。
機会があれば、三河南朝、というよりは長慶天皇にまつわる各地の伝説についても、ごく簡単に触れたい。
伝承間に連続性が無いため、深く追求するつもりは無い。

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追記
中村和裕氏からメールを頂いた。
『「古史古伝」論争』(新人物往来社)に偽史研究家として同姓同名の人物がいるけど、本人だろうか?
いくつかのやりとりの中で久しぶりに意欲が湧いてきたので、暇があったら
『神伝富士古文献大成』
でもあたってみる。
本文献の偽書性については、村田正志博士による論証があるため、当サイトでは「元ネタは何か」に重点を置くつもりだ。
『竹内文書』のアレは、全くのフィクションだと思うが。

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2010年10月28日

● デボラとバラク



2009年 03月 07日
デボラとバラク
1:士師記 / 4章 1節
エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、
2:士師記 / 4章 2節
主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。ヤビンの将軍はシセラであって、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。
3:士師記 / 4章 3節
イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである。
4:士師記 / 4章 4節
ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。
5:士師記 / 4章 5節
彼女は、エフライム山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめやしの木の下に座を定め、イスラエルの人々はその彼女に裁きを求めて上ることにしていた。
6:士師記 / 4章 6節
さて、彼女は人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せて言った。「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。
7:士師記 / 4章 7節
わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と。」
8:士師記 / 4章 8節
バラクはデボラに言った。「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません。」
9:士師記 / 4章 9節
デボラは、「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」と答え、直ちにバラクと共にケデシュに向かった。
10:士師記 / 4章 10節
バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに召集した。一万人が彼に従って上り、彼と共にデボラも上った。
11:士師記 / 4章 11節
カイン人のヘベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。
12:士師記 / 4章 12節
シセラはアビノアムの子バラクがタボル山に上ったとの知らせを受けると、
13:士師記 / 4章 13節
すべての戦車、すなわち九百両に及ぶ鉄の戦車に加えて自分に属するすべての軍隊を召集し、ハロシェト・ハゴイムからキション川に向かわせた。
14:士師記 / 4章 14節
デボラはバラクに言った。「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。」バラクは一万の兵を従え、タボル山を下った。
15:士師記 / 4章 15節
主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられた。シセラは車を降り、走って逃げた。
16:士師記 / 4章 16節
バラクは、敵の戦車と軍勢をハロシェト・ハゴイムまで追いつめた。シセラの軍勢はすべて剣に倒れ、一人も残らなかった。
17:士師記 / 4章 17節
シセラは、カイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に走って逃げて来た。ハツォルの王ヤビンと、カイン人ヘベル一族との間は友好的であったからである。
18:士師記 / 4章 18節
ヤエルが出て来てシセラを迎え、「どうぞこちらに。わたしの主君よ、こちらにお入りください。御心配には及びません」と言うと、彼は彼女に近づいて天幕に入った。彼女は布で彼を覆った。
19:士師記 / 4章 19節
シセラが彼女に、「喉が渇いた。水を少し飲ませてくれ」と言うので、彼女は革袋を開けてミルクを飲ませ、彼を覆った。
20:士師記 / 4章 20節
シセラは彼女に、「天幕の入り口に立っているように。人が来て、ここに誰かいるかと尋ねれば、だれもいないと答えてほしい」と言った。
21:士師記 / 4章 21節
だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の釘を取り、槌を手にして彼のそばに忍び寄り、こめかみに釘を打ち込んだ。釘は地まで突き刺さった。疲れきって熟睡していた彼は、こうして死んだ。
22:士師記 / 4章 22節
そこへバラクがシセラを追ってやって来た。ヤエルは出て来て彼を迎え、「おいでください。捜しておられる人をお目にかけましょう」と言ったので、彼は天幕に入った。そこにはシセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには釘が刺さっていた。
23:士師記 / 4章 23節
神はその日、カナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前で屈服させてくださった。
24:士師記 / 4章 24節
イスラエルの人々の手は、次第にカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。

さてはてメモ帳 Imagine & Think!
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