2019年05月05日

八瀬童子と天皇

八瀬童子と天皇
672年の壬申の乱(じんしんのらん)の際、背中に矢を受けた大海人(おおあまのおうじ。後の天武天皇)がその地に窯風呂(かまぶろ)を作り傷を癒したことから
「矢背」または
「癒背」
と呼ばれ、転じて
「八瀬(やせ)」
となったという。
この伝承にちなんで後に多くの窯風呂が作られているし中世以降は主に公家の湯治場として知られるようになったので、まんざらウソでないような気がするけれど、
歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されているようだ。
八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるかもしれない。
しかし、天武天皇にまつわる伝承が歴史的事実でないにしても、平安遷都以降は公家といろいろ繋がりが深かったのは事実だろう。
八瀬(やせ)は昔から御所(ごしょ)とのゆかりが深く、独特のしきたりや風習が根付いている雅(みやびやか)な土地柄である。かっては北の大原とともに 薪炭(しんたん)の生産が主な産業で、大原の大原女(おはらめ)と同じように、その炭や薪(たきぎ)を頭に乗せて京の町へ行商にいったのが八瀬の小原女(おはらめ)だ。
その様子が八瀬や大原の「黒木売、柴うり」として小唄にも描かれ、私の愛唱曲になっている。
わしが在所は 
京の田舎の片辺(かたほと)り
八瀬や大原に 牛曵(ひ)いて
柴打盤(しばうちばん)  
床机(しょうぎ)頭へちょいと載(の)せ
梯子(はしご) 買わんせんかいな
黒木(くろぎ) 買わしゃんせ エエエエ

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私は、八瀬童子というのは、日本古来の伝統・文化を色濃く伝承していた部族だと思う。
その八瀬童子が天皇と関わりを持つのは、少なくとも後醍醐天皇のとき以降と考えてよい。
ひょっとすると、歴史学会では否定だれているけれど、私は、天武天皇とも何らかの関係があったのではないかと思っている。
山の民には山の民たちのネットワークがあったと考えているので、天武天皇が大津から吉野に逃げ込むとき、彼らの素晴らしい助力がないと到底成功しなかったと思うからある。
これと同様に、後醍醐天皇も彼らに助けられた。
このことは歴史学会で否定されていないし、私は間違いのない歴史的事実であると考えている。
正中の変のあと宮中に監禁されていた後醍醐天皇を助け比叡山に逃したのは八瀬童子である。
このことから、八瀬童子は宮中において特別重要な任務を負うのである。
つまり、八瀬童子は、この功績によりこのときから、地租課役の永代免除の輪旨を受けとともに、ときには輿丁(よてい)として朝廷に出仕して、天皇や上皇の御幸或は葬送の際に輿(こし)を担ぐという誠に名誉ある仕事に従事したのである。
大正元年、明治天皇の葬送にあたり、喪宮(もがりみや)から葬礼場まで棺を陸海空いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を
葱華輦(そうかれん)の輿丁(よてい)
とする慣習が復活した。
葱華輦(そうかれん)は天皇の棺を載せた輿のことであって、天皇が用いる屋上にネギ坊主(葱華)形の吉祥飾りを着けた特別の輿であることからその名がある。
明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。
この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
平成元年、昭和天皇の葬送では棺は自動車(轜車)によって運ばれることとなり、葱華輦(そうかれん)は式場内の移送にのみ用いられることとなった。
八瀬童子会は旧例の通り八瀬童子に輿丁(よてい)を任せるよう宮内庁に要請したが警備上の理由から却下され、輿丁には50名の皇宮護衛官が古式の装束を着てあたった。
八瀬童子会からは6名の代表者がオブザーバーとして付従した。
八瀬童子の要請が却下されたのは誠に残念なことである。
天皇は日本国民の象徴であり、日本の伝統・文化を守らなければならない。
八瀬童子は、日本古来の伝統・文化を色濃く伝承してきた部族の子孫であり、しかも少なくとも後醍醐天皇のとき以降天皇と密接な関係にあった人たちである。
天皇は国民といろいろなインターフェースを持つべきであり、八瀬童子のような古代からの伝統・文化を継承している人たちとのインターフェースは大事にされなければならない。
宮内庁の浅学ゆえにこのことが軽視されるのは許しがたいことである。

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小原女(おはらめ)の衣装は、地味だけれどおしゃれな着物を着て御所染めの帯をしめます。
その上にはこれまた感じのいい前掛けを絞める。頭には、古今の名歌や優雅な
図案を刺繍して四隅に絹糸の房を付けた「縫いてぬぐい」をかぶる。小原女は手甲(てっこう)や細帯、前掛けの紐などの小物に、さりげないおしゃれをしたといわれている。
これも京都御所とのつながりを偲ばせる優雅さを表しているのだろう。
さて、八瀬童子は、延暦寺の雑役に従事した童子村で最澄が使役した鬼の子孫と言われているが、平安時代から延暦寺でいろいろな仕事をしていた「山の民」の子孫のことである。
その仕事の中には天台座主の輿を担ぐ役割もあった。「山の民」というのは、多分旧石器時代、縄文時代に繋がるであろう山の人のことであり、京の都では、都人(みやこびと)と違うのはもちろんのこと、郊外の農民とも違う特別な技能を持った人々という風に認識されていた。
ひょっとしたら言葉なんかも違っていたかもしれないし、風習もいろいろと違っていたのであろう。山で生きるひとつの部族と考えて良いと思う。
日本最古の石器は天竜川流域の飯田から出土している。5万年前の石器である。
インドネシアの近くのスンダーランドから黒潮にのって渥美半島に辿り着いた最初の日本人が少しずつ数を増やし、地方に拡散していったが、そのひとつが飯田であったのではないかと、私は想像をたくましくしている。
その後九州方面と北海道方面から旧石器人が全国に拡散していくが、それらの生活の場は山である。
時代は縄文時代へと移っていくが、それら縄文時代の文化はいうまでもなく「山の文化」である。
「山の文化」は現在まで継承されてきており、毛皮や熊の胃、薬草や木の実、炭や鉈(なた)ないしは鎌(かま)など現在おなじみのものも、その基(もと)は縄文時代まで遡る。
ここでちょっと横道にそれるが、縄文文化について語っておきたい。
縄文文化が現在の日本の文化のベースをなしているので、皆さんにそれを知ってもらいたいと思うからだ。
私は、今ここで、八瀬童子を縄文文化の継承者の象徴として取り上げているが、縄文文化の何たるかが判らないと八瀬童子を尊敬の眼(まなこ)で見ることなど到底できない。
縄文文化という世界最高の文化がヨーロッパや西アジアに先駆けて4000年ほどはやくこの日本に誕生した」ということをアッピールしだしたのは,小林達雄である。
小林達雄には、「縄文土器の研究」(2002年4月,学生社)ならびに「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)というすばらしい著書がある。
彼は,「縄文土器の研究」(2002年4月,学生社)で
「少なくとも日本列島の縄文土器は,世界の先史時代における土器づくりレースのなかで、そのスタートがもっとも早かったグループの一つであることはほとんど間違いのないことであろう。」
としか言ってないが,「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房) では次のように言っている。すなわち、
『 土器の製作開始は,重大な技術的革新性を意味するのではあるが、世界のあちこちで独立して発明された訳ではない。
その多くは発明地からの伝播をうけて普及したものである。
しかし,発明地は一カ所ではなく,少なくとも三カ所はあったと考えられる。
その一は,西アジアであり、土器出現の過程が詳細に捉えられている。
9000年前頃と大方の研究者は結論づけており,その年代には今後とも大きな変動はないであろう。
その二は、アメリカ大陸であり,アマゾン河流域に 古い土器の存在が確認されている。
しかし,遡ってもせいぜい7500年程度である。よりふるい時の新発見があれば、それがそのまま新大陸において独自に土器の発見された年代更新ということになるが、いまのところ一万年の大台には決して届かないものと予想される。
その三が日本列島を含む東アジアであり,一万年をはるかに超える古さに遡り,西アジアにおける土器製作の開始年代を少なくとも4000年以上も引き離して断然古い。』
・・・と。
縄文時代に,世界最高の文化がわが国で花開いていたということである。
これは私たちの世界に誇るべきことではないか。
私は、日本の中小企業の技術は世界に冠たるものを持っていると考えているが、その源(みなもと)は縄文時代まで遡る。
否、黒曜石
の加工技術、湧別技法を考えると旧石器時代にまで遡(さかのぼ)る。
 つぎに、縄文製鉄について話をしておこう。古代東北には餅鉄という純度の高い磁性に富んだ磁鉄鉱石を使用した製鉄法があったとされ、明神平でも3600年前頃のカキ殻の付着した鉄滓が出土する。
タタラ製鉄以前の縄文製鉄があったと考えられているのだ。
縄文人は、風の強いところを選んで盆状の野焼炉を造り、餅鉄とカキ殻を入れて火をかけ、還元鉄を取り出していたらしい。
これでヤジリや釣り針を作って いたのである。
ほとんど不純物を含んでいない純粋な素晴らしいものであったと言われている。
正倉院にある「舞草」銘の無装刀は、日本刀のルーツとされているが、岩手県一 ノ瀬の舞川近くの「餅鉄」が発祥の地とされているのである。
次に、諏訪の縄文製鉄について述べておこう。
諏訪地方には御射山祭(みさやままつり)という祭りがある。
御射山祭は二百十日に先立って山上で忌籠もりをし、贄(にえ)として動物を捧げることで祟りやすい山の神を鎮めて台風の無事通過を祈願するのが本来の目的だったという。
諏訪の神はもともと風よけの神として信仰されていた。諏訪大
社には薙鎌と呼ばれる風封じの神器がある。
これは五行説の
「金克木(きんこくもく)」
に基づいた思想で あるといわれている。
火克金(火は金を克する)、
金克木(金は木を克する)、
木克土(木は土を克する)、
土克水(土は水を克する)、
水克火(水は火を克する)
というが、克(こく)するという意味は、制御するという意味である。
つまり金気である鉄鎌を、木気である木に打ち込むということは、間接的に木気である風を封じこめようという呪法なのだ。
南信濃村でも、九月一日には各家で草刈り鎌を竿の竹の棒に縛り付け、軒先につるす風習があったという。
法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌は諏訪大社で製鉄された鎌が起源であり、鎌が風を切るという風除けのまじないである。
法隆寺の鎌はもちろん鉄で作られており、諏訪大社の鎌は縄文製鉄で作られた。
製鉄の材料は高師小僧というが、それは上流の山々から流れ込んでくる酸化鉄が諏訪湖の葦の根元にくっつき、大きく成長したものである。
水中に入り葦の根っこを刈り取って葦を抜くと穴の空いた竹輪みたいなものがとれる。
それが高師小僧である。
その遺物は豊橋市の高師原で発掘されたので高師小僧と呼ばれている。
さて、縄文土器と縄文製鉄で大事なのは、いうまでもなく鉄の材料となる鉱物とそれを還元する「炭」である。
時代が下ってタラ製鉄の時代になっても同様である。
柳田国男は次のような趣旨のことを言っている(「昔話と日本人の心」河合隼雄、1982年2月、岩波書店)。すなわち、
『 炭焼きはなるほど今日の目から、卑賤な職業と見えるかもしれないが、昔はその目的が全然別であった。
炭は他タラ製鉄にも使われるが、その技芸は普通の百姓の到底及ばぬところであった。まさに神業である。』
・・・と。炭焼きは「山の民」のみができる技術であって、これは縄文時代の技術が継承されたものである。
この縄文時代からの技術が連綿と現在までつづいてきて、最近では、私が高機能炭と呼ぶ誠に不思議な炭を生み出している。
高機能炭とは私が勝手にそう呼んでいるのだが、その不思議な炭については、「炭は地球を救う」宮下正次、2002年3月、リベルタ出版)と「炭がいのちも救う」(2005年5月、リベルタ出版)を是非読んでいただきたい。
私がここで言いたいことは、「山の民」の技術が現在にもなお生きているということだ。
さらに縄文文化との関連で申し上げたいことがもうひとつある。現在、北海道に限らず内地でも熊の被害が絶えないが、人と野生動物の共生がまったく忘れられてしまっている。
21世紀の日本は共生社会を作らなければならないが、野生動物との共生を象徴するものとしてどうしても熊との共生を図らなければならないのである。
それには縄文人の知恵に学ぶことだ。
縄文人の知恵に学ぶため、北海道の羆(ひぐま)について、私の長男・岩井基樹が人生をかけて研究しているので、熊のことは岩井基樹に聞いてほしい。
「熊のことは熊に訊け」(岩井基樹、1910年10月、つり人社)を是非見てほしい。

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八瀬童子(やせどうじ)
2008/9/21(日) 午前 1:37
2008年9月21日(日)
八瀬童子(Wikipedia):
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%80%AC%E7%AB%A5%E5%AD%90
八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は京洛北八瀬郷(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、室町時代から天皇の輿丁として奉仕した人々のこと。
延暦寺の雑役に従事した童子村で伝教大師最澄が使役した鬼の子孫とされる。
寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。
現在、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められている。
また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせている。
葱華輦の輿丁:
猪瀬直樹の『天皇の影法師』で紹介されて以来、歴代天皇の棺を担ぐ者として有名になったが、実際には後醍醐天皇以降の全ての天皇の棺を担いだわけではなく、特に近世においては長く断絶した期間もあった。
大正元年(1912年)、明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習が復活した。
明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。
この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
平成元年(1989年)、昭和天皇の葬送では棺は車輌によって運ばれることとなり、葱華輦は式場内の移送にのみ用いられることとなった。
八瀬童子会は旧例の通り八瀬童子に輿丁を任せるよう宮内庁に要請したが警備上の理由から拒否され、輿丁には皇宮護衛官が古式の装束を着てあたった。
八瀬童子会からは数名の代表者が車両から葱華輦に棺を乗せかえる際などにオブザーバーとして関与するに止まった。

ドラゴン忘備録 パワースポット、世界の謎と不思議
https://blogs.yahoo.co.jp/reddishtiger2000/44419137.html?__ysp=5YWr5ZKr54OPIOWFq%2BeArA%3D%3D









八瀬天満宮
菅原道真公を祀った八瀬の産土神(うぶすながみ:その土地を守護してくれる神さま)で、道真公の仏教の師であった比叡山法性坊の阿闍梨、尊意が、道真公没後に勧請したものといわれます。
北野天満宮よりも歴史が古いという伝承もあり、道真公が尊意に教えを請う為、比叡山に登った際に腰を下ろしたと伝わる「菅公腰掛石」があります。
また、後醍醐天皇が足利軍勢から逃れた八瀬坂跡を示す石碑や、弁慶が比叡山から持って降りてきたとされる「弁慶の背比べ石」などがあります。
境内には9つの摂社が祀られ、その内の秋元神社で行われる「燈篭祭」では、京都市登録無形文化財に指定されている
八瀬赦免地踊(しゃめんじおどり)灯籠踊(とうろうおどり)
が行われます。
比叡山の観光に、京都、出町柳から比叡山山頂、京都八瀬をつなぐ叡山ケーブル・ロープウェイ

叡山ケーブル・ロープウェイ
https://eizan.keifuku.co.jp/guide/detail.php?id=12



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posted by datasea at 10:00| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月30日

[年表] 素戔嗚尊の生涯,mb1527説

神社の祭神(古代史の復元)
神社にはスサノオ・饒速日尊及びその系統の人物が祀られている例が圧倒的に多い。
それなりの実績があって始めて神社に祀られるのである。
第3節 神社でまつられている神
第一項 スサノオ
スサノオは全国の神社で「天王さん」と通称されている。
「天皇神社」の祭神はスサノオである。
天王社の総本社は愛知県津島市の津島神社である。津島神社の記録に,
「素尊(スサノオ)は則ち皇国の本主なり,故に日本の総社と崇め給いしなり」
とある。
これはスサノオが神々の頂点に位置していることを意味している。
また,大山祇命を祭る神社は全国に一万一千社あるといわれているが,その総本社は愛媛県大三島にある大山祇神社である。
ここでは大山祇を日本総鎮守として祭ってある。
奈良県の山口神社は大山祇を祭る神社ということでたくさん存在し,いずれも,大和とその周辺の国を結ぶ要路の境界点に建っている。
山口神社の中には祭神が大山祇命・須佐之男命と併記されている神社や須佐之男命のみになっている神社もある。
これは,大山祇命がスサノオであることを意味している。 
また,スサノオの霊廟といわれている島根県の熊野大社でもスサノオはすべての神々の親神であると記録されている。
このようにして,全国の各神社の祭神の関係を調べてみると,その他にスサノオは,
タカオカミ・
イカズチ・
フツシミタマ・
ハヤタマオ・
シラヒワケ・
カミムスビ・
オオワタツミ・
カグツチ・
ホムスビ・
ヤチホコ・
八幡大神等
として祭られていることが分かる。
スサノオは地域の守護神として,あちこちに祭られており,神々の中で最高位に位置している。
これは,古事記・日本書紀に書かれている暴れん坊のスサノオ像とは全くかけ離れたものである。
全国の神社を調べても,元あった神に違う神を祭らせられたり,祭神を消させられたりといったことが出てくる。
スサノオは古代において大変な事業を成し遂げ,全国の神社に日本最高神として祭られたが,後の権力者が都合が悪いと抹殺したものと考えられる。
第二項 饒速日尊
古代より代々の天皇が頻繁に参拝した神社は,大和の
「石上神社」,
「大神神社」,
「大和神社」
が挙げられる。
いずれも神話上の最高神である天照大神とは別の人物が主祭神として祭られているのである。
日本最高の神社といわれる伊勢神宮には,日本書紀以前に参拝した形跡がほとんどない。
そもそも,神話上の最高神を祭った神社が大和にないこと自体がおかしなことである。
古代大和朝廷にとって重要な神社は上に挙げた三神社で,ここに祭られている神は,朝廷にとって重要な人物であるということになる。
その祭神とは,それぞれ,
「布留御魂神」,
「大物主神」,
「大和大国魂大神」
である。これらはいったいどういった人物なのであろうか。
地方の三輪神社を調べてみると,
桐生市,美和神社:建速須佐之男尊,大物主奇甕玉尊
島根県,来待神社:大物主櫛瓶玉命
大物主はスサノオの近親者で櫛瓶玉という別名があることが分かる。
櫛玉という名で神社を探してみると,
愛媛県北条市,国津比古命神社:天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
兵庫県龍野市,井関三神社:天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
福岡県鞍手郡,天照神社:天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
福岡県久留米市,伊勢天照御祖神社:天火明命
京都府,篭神社(元伊勢一宮)主祭神:天火明命
京都府,篭神社(元伊勢一宮)相殿:天照大神,豊受大神
兵庫県龍野市,粒座天照神社:天照国照彦火明神
鏡作坐天照御魂神社:天照国照彦火明命
饒速日という人物が出てくるが,この人物の別名であることが分かる。
篭神社でも分かるとおり伊勢神宮の神の上に位置し,天照という名を持つ神である。
「天照」という名の付いた神社の祭神は大抵この饒速日を祭っているのである。
「天照」とは天照大神を指すのであるから,天照大神を祭っていなければならないはずである。
饒速日は大和朝廷にとって大変重要な人物で,古代の天照大神は,この饒速日を指していたようである。
このようなことから,大物主は天火明命であり,饒速日命であることが分かる。
京都の大原野灰方町にある大歳神社は祭神は大歳神であり,石作連がその祖神を祭った神社であるが,次のような記録がある。
「石作連は火明命の子孫で,火明命は石作連の祖神という。」
これは,火明命が大歳であることを意味している。
大歳は,西日本各地で祭られており,中には
「大歳御祖」とか
「大歳御祖皇大神」
という名で祭られているところも多い。
「御祖」とか
「皇大神」
とかいうのは,他に「天照皇大神」と「豊受皇大神」ぐらいしかなく,ともに伊勢神宮の神である。
この尊称はこの人物が皇祖であることを意味している。
スサノオの出身地である島根県に大歳を祭る神社が多く,飯石郡三刀屋町に大歳神社があり,
「神国島根」によると,
「須佐之男命出雲に於いて大歳を生み給い...」
と書かれており,大歳神はスサノオの子であることが分かる。
つまり,饒速日命はスサノオの子ということになる。
スサノオの住んでいた島根県の須我神社を調べてみると,その摂社にスサノオの子が列記してあり,
その三番目に「琴平 大歳」と書いてある。琴平の神といえば大物主神であり,大物主神は大神神社の祭神である。
次に,大国魂神であるが,
名古屋市 国玉神社
祭神 大物主神
国内神名帳に「従二位大国魂神」と記録されている。
その他,全国の「国玉神社」「国魂神社」は,いずれも大物主神を祭っている。
これより,大国魂神は饒速日であることが分かる。
次に布留御魂大神であるが,茨城県の総社神社に布留大神はスサノオの子であると書かれていた。これも饒速日と考えられる。
饒速日は,そのほかに,
クラオカミ・
ワケイカズチ・
コトサカオ・
トヨヒワケ・
アメノミナカヌシ・
クニトコタチ・
カナヤマヒコ
として全国に神社に祭られている。
古代から大和に祭られて,朝廷が頻繁に参拝している神社には,いずれも饒速日尊が祭られており,スサノオの子である。
饒速日尊は大歳御祖皇大神として祭られていることが多く,皇祖であるらしい。
皇祖であるからこそ,大和の大きな神社にはすべて祭られており,歴代の天皇も参拝を欠かさなかったという事実が説明できるのである。
この人物は大和朝廷にとって大変重要な人物ということになるが,古事記や日本書紀ではほとんど登場しない影の薄い存在である。
日本書紀は饒速日尊をオシホミミの子であるとしているが,全国のどの神社を調べてもそのような伝承はない。
全国の神社に伝わっている伝承は,古事記や日本書紀とは別のものであり,複数の神社の関連を調べていって浮き出てくるものであるので,
これこそ真実を伝えていると判断する。
饒速日尊は,後の歴史改竄作業によって全国の神社から消されたが,完全に抹殺できず,方々に消し漏れがあり,
それによって真の古代史を判明させることができるのである。

古代史の復元
http://www.geocities.jp/mb1527/N1-03jinjanokami.htm
http://www.geocities.jp/mb1527/N1-02-1nendaisuitei.html
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm




































栃木市,大神神社 倭大物主櫛甕玉命
桐生市,美和神社 建速須佐之男尊,大物主奇甕玉尊
島根県,来待神社 大物主櫛瓶玉命
愛媛県北条市,国津比古命神社 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
兵庫県龍野市,井関三神社 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊


cxcxc pc


































































































































素戔嗚尊の生涯
西暦 年齢 出来事
BC37年 高句麗始祖朱蒙布流国滅亡させ、高句麗を建国

父布都御魂、日本列島へ船出する。
BC35年頃 素戔嗚尊、島根県出雲市塩津町石上神社の地で誕生。誕生後沼田郷に移動。
BC30年頃 5 布都御魂、出雲王八束水臣津野命と協力し韓国より先進技術を導入(国引神話)
BC20年頃 15 斐川町出西の久武神社の地に居住

奥出雲地方を訪問し稲田姫と知り合う。
BC18年頃 17 稲田姫と結婚し久武神社近くの稲城の森で新婚生活を送る。

ヤマタノオロチが稲田姫を奪う。

ヤマタノオロチを木次の八本杉の地で殺害し稲田姫を奪い返す。

八重垣神社の地に隠れ住む
BC15年頃 20 出雲国を建国し須我神社の地を都とする。

出雲国内を巡回する。

合議制の政治体系を確立する。
BC12年頃 23 対馬に赴き対馬国を建国。朝鮮半島への足掛かりを作る。

日本列島統一を決意。統一国家の名称を倭国とする。
BC10年頃 25 朝鮮半島に赴き先進技術を取り入れる。

中国山地を超え鞆の浦に瀬戸内海地方統一の拠点を作る。
BC5年頃 30 瀬戸内海沿岸地方を巡回し、先進技術を示し次々と倭国に加盟させる。
AD1年頃 35 瀬戸内海沿岸地域が統一される。

大分県宇佐地方を統一し、以後の九州統一の足掛かりとして宇佐地方に拠点を移す。
AD3年頃 37 大分川大野川流域地方の統一
AD4年頃 39 土佐地方の統一
AD5年頃 40 北九州主要部の戦乱を収め、北九州地方の統一完了

高皇産霊神との協力体制を確立。
AD10年頃 45 南九州地方統一に出発。宮崎の加江田にいた伊弉諾一族と出会う。

伊弉諾一族の娘日向津姫と結婚。
AD11年頃 46 伊弉諾一族の協力を得て、都城一帯を統一。拠点を東霧島神社の地に移す。
AD12年頃 47 鹿児島県国分地方一帯を統一し、拠点を鹿児島神宮の地に移す。
AD15年頃 50 拠点を再び安心院の地に遷し、ここに倭国の都とし、倭国の統治体制を固める。

伊弉諾命、伊弉冊命を伴って近畿地方統一に出発。
AD17年頃 51 山城盆地、近江盆地一帯の統一。

大阪湾岸地方の統一に失敗。

紀伊半島に回る。
AD20年頃 55 倭国の基礎固めを決意

伊弉諾命は紀伊半島の統治。

素戔嗚尊出雲に戻り、大国主命に対して越国統一を命じる。

伊弉冊命は出雲で製鉄事業を始める

安心院に帰還

大阪湾岸地方を統一するためにマレビト作戦を実行することとし、饒速日尊にマレビト集めを依頼
AD25年頃 60 伊弉冊命出雲で亡くなる。

素戔嗚出雲帰還。大国主命に第二代倭国王を譲る。佐田神社の地で隠棲する。

饒速日尊率いる天孫降臨団九州を出発
AD27年頃 62 出雲市唐川地区で製鉄作業を指導
AD30年頃 65 素戔嗚尊死去(製鉄中の事故と思われる)

唐川地区に埋葬



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2012年12月14日

2012年12月21日


2012年12月21日冬至の日 ミルキーウエイ銀河の赤道 太陽系の赤道 太陽 地球が直列する。 銀河の中心と距離が最も近くなる。 26000年に一度起こる (地球の歳差運動)。 26000年ごとに起こるリセット期。

Time Cycle
http://www.harmonion.com/Article2/J-Time_Cycle_Part-1_2012_Galactic_Alignment_12-21-12.html





この前このような直列が起こったのは26000年前となる。 西暦前24000年ごろ。 新人 (クロマニヨン人) が現れて Venus of Willendorf などのアートをクリエイトしたころです。 旧人 ネアンデルタール人から 新人 クロマニヨン人への 新旧交代が起こったのが、この前の直列の時期 西暦前24000年に起こったことかもしれません。 まさに人類の歴史にリセットがかかった感じです。

Time Cycle
http://www.harmonion.com/Article2/J-Time_Cycle_Part-1_2012_Galactic_Alignment_12-21-12.html





変化はもちろん  Gradual ゆっくり起こり、一説 変化期は1980年から始まり、2016年ごろ収束します。

Time Cycle
http://www.harmonion.com/Article2/J-Time_Cycle_Part-1_2012_Galactic_Alignment_12-21-12.html









マヤの長老評議会は、マヤカレンダーでは「終末期の開始時期(2007年10月26日)から7年間(2015年まで)に時間の窓が開き、この期間にポールシフトが起こる」と述べています。
2012年10月22日

In Deep
http://oka-jp.seesaa.net/article/298542174.html





マヤ族には以下の伝説が部族的知識として根底に存在しているようです。
「かつてアトランティスにいたマヤ族は、1万3千年前と2万6千年前の2度、ポールシフトを経験した。この時の経験はマヤ族の部族的知識として蓄えられている」
という「部族的知識」を持つ彼らの未来観は次のようなものです。下は長老の言葉そのものではなく、長老にインタビューした人の記述だと思います。
2012年10月22日

In Deep
http://oka-jp.seesaa.net/article/298542174.html



2010.03.30
Ivan "Evon" Stein
マヤカレンダー/意識の進化
YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=x1EHGrCC8CY&feature=related
いまの変化がはじまったのが600億年前。現在にいたるまでに9つの時を経過している。今の時がはじまったのが2007年11月。経済崩潰がおきた時。そして今の時、カレンダーが終わるのが2011年10月28日。
それぞれの「時」は惑星の意識の進化のプロセスを意味する。
それぞれの「時」には7つの昼の期間と7つの夜の期間がある。それぞれの昼と夜にはそれぞれの意味がある。
マヤ暦「第1の時」の期間は約600億年前〜約8億2000万年前。600億年間。意識レベルは細胞(Cellular)。
マヤ暦「第2の時」の期間は約8億2000万年前〜約4100万年前。約8億年間。意識レベルは肉体(Mammalian)。
マヤ暦「第3の時」の期間は約4100万年前〜約200万年前。約200万年間。意識レベルは家族(Familia)。
マヤ暦「第4の時」の期間は約200万年前〜約10万2000年前。15万8000年間。意識レベルは部族(Tribal)。
マヤ暦「第5の時」の期間は約10万2000年前〜紀元前3115年。約10万年間。意識レベルは地域(Regional)。
マヤ暦「第6の時」の期間は紀元前3115年〜1755年。4870年間。意識レベルは国家(National)。
マヤ暦「第7の時」の期間は1755年〜1999年6月5日。249年間。意識レベルは惑星(Planetary)。
マヤ暦「第8の時」の期間は1999年6月5日〜2011年2月10日。360日間。意識レベルは銀河(Galactic)。
マヤ暦「第9の時」の期間は2011年2月10日〜2011年10月28日。20日間。意識レベルは宇宙(Universe)。

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2012年12月21日
Crystalinks
http://www.crystalinks.com/2012.html
2010年
2012年12月21日は地球に大きな変化がおきるという予測がある。この予測はマヤ暦の「時の終わり(第4の世の終わり)」に基づくもの。マヤ暦ではひとつの世の期間を25,800年だとしている。そしてこれは銀河系のサイクルの長さと同じ。そして「時の終わり(第4の世の終わり)」の時代にブラックホールとの直列、惑星の通過、ポールシフトがおきるだろうとしている。
マヤ長期暦では13個目のバクツン( b'ak'tun )のサイクルがおわる時。グレゴリオ暦では 3114BCE 8月11日にあたる。ユリウス暦では584283にあたる。マヤ暦はマヤ文明の暦。5,125年前に記録がはじまった。マヤ文明は西暦 300年から900年ごろ全盛期をむかえた古代文明。分析によると、この時期、地球と地球にすむ生物にいわば変身がおきるという。

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4つのサイクル
Metaphysical Musing
http://www.inannareturns.com/articles/time.htm
4つのサイクル(時代):
1 カリタ・ユガ(サットユガ)、黄金の時代。
2 トレタ・ユガ、儀式の時代。
3 ダパラ・ユガ、疑いの時代。人は神を忘れ自然の法則から逸脱する。
4 カーリ・ユガ、混乱と混沌の時代。紀元前3012年に始まった。現人類はここにあり世界は荒廃している。
ヒンズー教のサイクルの理論を学び、あなたは現在の社会の混乱がこのサイクルからきていることを学ぶだろう。我々が 現在混乱(カーリ・ユガ)の時代に生きていることを考えれば、現在の社会の混乱について納得がいく。私にとって正確な年数より大切なことは、我々が生きている今という時代は、過去のサイクルにおいて前例のない時代だということである。我々の多くは歴史は教科書にかいてあるような文明からはじまったと誤解している。しかしそれは退廃した文化によって書かれた歴史である。真実の解明というよりも人類の共通の認識をつくるといった意味合いがつよい。

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マヤ・カレンダーではひとつの時代は5125年とされます。 

Time Cycle
http://www.harmonion.com/Article2/J-Time_Cycle_Part-1_2012_Galactic_Alignment_12-21-12.html







地球の軸はコマの軸がフラフラ回るように、26000年くらい、もすこし正確には25800年くらいかけてぐるっと一回りします。自転の方向とは逆に回ります。
軸が延びていった先が天の北極ですから、時代によって
上の輪っかの目盛りは、大ざっぱに大体2000年です。黄色の矢印のところが現在21世紀初頭。ちょっと輪と北極星は、ずれてるでしょ。バッチリ一致しているわけではないのです。
26000年というと、とんでもなく長く感じますが、キリストが生まれた2000年ほど前(割と最近)は、今の北極星はだいぶ離れていて、全然北極星ではなかったのです。
紀元前3000年、古代エジプトの初期王朝のころは、りゅう座のツーバンという星が北極星の役割をしています。ギザの3大ピラミッドはBC2500年代頃のことだから、目盛りの4分の1くらいずれる。
西暦8000年、つまり今から6000年くらい経つと、ケフェウス座のアルデラミンが北極星になります。
西暦10000年、つまり今から8000年くらい経つと、白鳥座のデネブが北極星となります。ちょっと離れてるけどさ。まぁ、大体。

midearth
http://www5e.biglobe.ne.jp/~midearth/bessatsured/hoshi/polaris.htm








氷河期の終わり
Terrence Aym
2012年10月1日
Before It's News
http://beforeitsnews.com/science-and-technology/2012/10/atlantis-found-giant-sphinxes-pyramids-in-bermuda-triangle-2475944.html
Plato(プラトン)
「古代の氷河期の終期、海水位は約400フィート上昇したが、この時の水位上昇はあっという間におきた。当時のアトランチス文明のテクノロジーをもってしてもこの事態に対処する事は不可能だった。」。
前回の氷河期の終わり、気温の上昇によって氷が解け、特に北半球の海水位は急速に上昇、陸地の沿岸地帯から海面下に沈んでいった。島は消え、所によっては大陸さえも水面下に消えた。キューバ諸島沖は大昔は陸地だったが、海水位上昇により海底に沈み、高地の一部がキューバ諸島として陸地として残ったのだろう。
Terra Forming Terraのレポートによると、これらのピラミッド群( Cuban Subsea Pyramid Complex)をはじめとする遺跡が海底に沈んだ時期とアトランチス文明滅亡の時期は一致するという。
Terra Forming Terra
「キューバプレートとユカタンプレートの接合部は構造的に弱い。12,900年周期で発生する気候変動で増えた海水の水圧はこのエリアのプレートを圧迫し、破ったのではないか。」。

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