2019年06月30日

FB古代史研究会: 偽書「旧事紀(くじき)」にみるべきものはないか


FB古代史研究会: 偽書「旧事紀(くじき)」にみるべきものはないか
古荘秀雄
【先代旧事記を復権させよう】
先代旧事記は偽書ということになっていて、資料的価値なしというのがいわゆる通説です。
ウイキペディアにはこう記されています。
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「  先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。
『旧事紀』(くじき)、
『旧事本紀』(くじほんぎ)
ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。
序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。
現在では大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前に成立したとみられている。
物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価する立場の者もいる」
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偽書にあるとされる最大の理由は序文を聖徳太子、蘇我馬子が著したとあるからで、これは成立年の想定からすると明らかに間違いであり、そもそも、その時点で二人はとっくに生きてはいません。
内容についても古事記、日本書記の二番煎じの箇所も多く、総合的に見て後代の作り話であるということになりました。
しかし
です。
聖徳太子らが序文を書いたというのは、ある書物に箔をつけようと後代のものがしただけ。ということは十分考えられるでしょう。
そして記紀とかぶるところはあれども、それでは被らないところはどういうことになるのか?
物部氏という古代最大豪族の一族の記録という視点も必要ではないのか。
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Wikipediaより
「 序文には推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したもの(『日本書紀』推古28年(620年)に相当する記述がある)とある。
このことなどから、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として
『古事記』・『日本書紀』
より尊重されることもあった。
しかし、江戸時代に入って偽書ではないかという疑いがかけられるようになり、多田義俊や伊勢貞丈らの研究によって偽書であることが明らかにされた[4]。
本書の実際の成立年代については
『古語拾遺』(807年成立)
からの引用があること、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年〜938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、『先代旧事本紀』は藤原春海による延喜の『日本書紀』講書の際(904年〜906年)には存在したと推定され、従って、『先代旧事本紀』の成立は
大同年間(806年〜810年)以後、
延喜書紀講筵(904年〜906年)以前
と推定されている。  」
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つまり先代旧事記が偽書というのは
成立年代だけが問題になっているという構造のようなのですね。
十種の神宝(とぐさのかんだから)
などの独自の表現についても一緒くたに作り話になるのはやや乱暴ではないかと思いますし、
饒速日の河内への天孫降臨なども独自のものです。
(記紀よりかなり詳しい)まさに物部に伝わる物語なのだと思うのです。

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posted by datasea at 16:55| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月25日

2019年06月24日

FB古代史研究会: 迦具土(カグツチ,香久)と邪馬土(ヤウマト,大和)

FB古代史研究会: 迦具土(カグツチ,香久)と邪馬土(ヤウマト,大和)
坂本成事
火の国(メソポタミア)の神、迦具土の首長は切られ、誰が首長かわからなくなったその分けた血は、世界人類の文明の血へと流れます。
毎日投稿しております、
お伽話は、逆に、世界人類に分けた血を集めた
百々人(桃人、五色人統合の錦織り成す人)
であります伽耶人の昔話です。
ですから、お伽話という事です。
なぜ、天之伽那(香久)人が、血を集める事ができたのかは、邪馬土(ヤウマトの神民)の馬門(ウマヤド、厩、イエスは厩で生まれたわけでなく馬門の血という事)の御門(帝)だったからです。
大和で、邪馬土(宇土)の馬門石が大王の墓石として使われますのも、オウスが、熊襲(邪馬土)タケルの名を襲名して、ヤマトタケルと名乗りましたのも、御門の血を受け継ぐためです。
ところで、景教(迦那安の原始キリスト教と釈迦の原始仏教の融合)の暗示の景行天皇と迦具(香久)漏姫も、その四世代間に、神伝での無理がありますのは、九州王朝(芳三山)と大和王朝(香久山などの大和三山)が重なる時代があって、それが重なっていないかのように、辻褄を合わせた一面もあったと考えています。
景行天皇ほどではありませんが、
仲哀天皇の皇子の香坂皇子、忍熊皇子と、応神天皇の世代差も同じです。
熊襲を滅ぼしたとしながら名を襲名し、香坂皇子、忍熊皇子を滅ぼした事にしなければならなかったのは、世界皇統の熊襲の歴史や祀りを継承しながら、二重の王朝は避けなければならなかったからだと推察いたします。
現に、景行天皇は熊襲を滅ぼしたとしながら、熊襲の地で、呑気な凱旋パレードをされていますし、滅ぼしに行く熊襲の地、火の国を、日本(ヤマト)だとおっしゃった背景もおかしな事ですし、敵であれば、河内芳野の斎園殿の東の東門寺の拝ヶ石巨石群で、景行天皇が祈られる必要もありませんでしたし、現に、私の祖先からも、滅ぼされた話など伝わってもいませんし、拝ヶ石を下った岩戸山の歌詠みは、古今伝授として、御所に受け継がれてきたわけです。
私は、後世に、その九州王朝の血を守ったのも、大伴氏が鍵をにぎる人物であり、封印したのも、大伴氏が鍵をにぎる人物であったとみています。
因みに、なぜ織田信長が、天皇をお守りする五摂家筆頭の、近衛前久に疎んじられたのかは、隠しておかねばならなかった、香坂皇子、忍熊皇子の末裔を名乗っていたからです。
細川幽斎から智仁親王への古今伝授を支えた近衛家にとりまして、サ迦具土の古今伝授は、日本人の祖先から受け継がれたものであると同時に、決して、公にしてはならぬ秘密でありました。
また、織田信長の天下人の城、安土城は、迦那安と釈迦族を統合した、香久城(迦具土)の天主という事です。
天主は、キリスト教で使われる神の呼び名です。
さらには、拝ヶ石の麓の那古井と名古屋の名は、とても似ています。
また、愛知の犬山の犬は、太郎の曲玉から丶曲と生まれ出た犬神(八百万神)を示しますが、それは、球磨人の犬神の伝承であり、滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモチーフでもあります。
そして、玉名和水(なごみ)のトンカラリンは、地下の内部構造の寸法までが、ピラミッドと同じで、このピラミッドの布石工法は、古代半島の伽耶地方の石垣でもみられます。
また、玉名や芳山周辺の、この地に生息するはずもない獅子は、いつも載せていますタタラ水の獅子も含めまして、馬門の迦具土の首長を示すトーテムです。
そのトンカラリンにとって、星の観測などで繋がる、カムロ山と高葉山の双羽の写真は、お借りしています。

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posted by datasea at 19:21| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする