2019年06月12日

クララ: 明治天皇は乃木希典

クララ: 明治天皇は乃木希典
◆クララの霊視|明治天皇の正体は『乃木希典』
霊視鑑定を通して人々の苦しみに接していると、どうしても悪魔たちのクーデターの明治維新を避けることは出来ません。
このクーデターのメンバーは、アダムとイヴである私たちをエデンの園に返さないように働く悪魔に魂を売った人たちです。
彼らは、綿密にこの計画を練り上げ、今の天皇官僚制度をつくりました。
そのために明治天皇がすり替えられたのは、すでに多くの人が知っているところですが、皆が気づいてないことがあります。
それは、偽明治天皇が、よく言われる“大室寅之助”ということではなく、真の偽明治天皇は、”乃木希典”だということです。
偽明治天皇は、そもそもが虚構なので、複数の人が成りすましていたと思いますが、それは、藤子・F・不二雄のパーマンの身代わりロボットのようなもので 乃木希典が外に出る時は、身代わりに明治天皇を演じる者が複数いたはずです。
私がなぜ、このことに気付いたのかというと、昨年、ある方のルーツを辿るために御殿場に行った時に、その地になぜか、乃木希典の石碑があり、私は、そこでレディーガガや多くのスターや成功者たちが出会って魂を売ったとされている悪魔に出会ったからです。
レディーガガは、無名時代に悪魔に出会った時のことを告白していますね。
私が、悪魔の誘惑にのらないとわかると、悪魔は、私の体から一瞬で逃げ出しましたが、それから、ずっと乃木希典のただならぬ霊気についてずっと思い巡らせていました。
そして、乃木希典こそ、縄文からの直系の日本人にたかるノミ・ダニ制度をつくりあげた張本人だと気づくと、あの時のただならぬ霊気の理由が解けました。
とはいっても乃木希典も悪魔の手先の一人にすぎませんが、正体がわかればこっちもんです。
真実を知ることは、人を強くし、そして悪魔は居場所をなくしていきます。
まあ、郵政民営化にしろ、天皇制にしろ、純粋な日本人をよくもだましてくれたもんだ!私もすっかりだまされました。
日本は、全然、民主主義の国ではありませんでした。
私の曾祖父は、三井三越よりも財を持っていましたが、終戦後、はめられて無一文にされたのは、曾祖父は、イルミナティへの加入を拒んだからだと、今になってわかりましたが、たとえ無一文になろうとも悪魔のささやきになびかなかった曾祖父を私はほこりに思います。
そして曾祖父のカタキ、そしてたくさんの人の幸せを奪ってきたカタキは、曾孫の私クララが曾じっちゃんの名にかけて、そして、イエス・キリストの聖名によって、霊的方面の私のお得意分野からとらせて頂きます。
神様は、この地球をエデンの園として創造されました。
そして私たちは幸せになるために生まれました。
次は、聖書では菊のカーテンについてどう書かれているか、お伝えしたいと思います。
もう、ノートルダム大聖堂も寺院もあんな豪華なもんいらない!
一人一人の心に復活の白いエネルギーである十字架を立てる!
皆のエネルギーが集まれば、凄いエネルギーになるよ!
その日は、近い!
ちなみに、明治天皇だけでなく、日銀総裁もなりすましだよ。
最後の時、正義は勝つ!

預言者クララ
https://shionoyama.com/sengen-gengou/

posted by datasea at 00:00| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月10日

FB寺内: 鳥見山の祀神はウガヤフキアワセズ

Screenshot_20190610-210500.png




FB寺内: 鳥見山の祀神はウガヤフキアワセズ
勾玉 の発見からまた発見‼️《うがや勾玉説😆》
寺内
うがやさん を祀る所は
もしかしたら 勾玉型 ?(o_o)?
・鳥見社の鳥見山公園
・蚕ノ社(元糺すの池)
・吾平山上陵(うがや陵)

この3つは、はっきりと勾玉型です。
・下鴨神社(賀茂御祖神社)

下鴨神社は 勾玉では無い。。。
でも、こじつけかも知れませんが、区画整理など無ければ、勾玉型だった可能性も十分あり得る形状だと思えます。
※ちなみに下鴨神社の本当の御祭神はウガヤさんです。下鴨神社の名称は "賀茂御祖神社" と言いまして、ウガヤの本名はカモヒトです。
御祖神 は みおやかみ=ウガヤの事です💞
これは、ウガヤフキアワセズを祀る所は勾玉の形をしている!
と、言っても過言ではないと思います💕
もしかしたらうがやさん、
どなたよりも 【トの教ゑ】 を大事にされてたのカモ?知れません。
御人柄も素晴らしく、平和な時代だったようです。

Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2271887079557788&id=100002095547751





FB_IMG_1560165493542.jpg


FB_IMG_1560165489397.jpg

FB_IMG_1560165478931.jpg


FB_IMG_1560165484196.jpg






【ホツマツタヱ = 古事記日本書紀の元書】
ホツマツタヱから歴史的大発見😊
(ちゃんと書きました!)
神武天皇が父ウガヤさんを祀った社 と 勾玉の上で大嘗祭! の巻
【とりみやま】(奈良 宇陀)
〈@神武天皇 が 父ウガヤフキアワセズ を 祀った社 鳥見社(鳥見神社)〉
ホツマツタヱ 30あや
〜かもおうつさせ みをやかみまつるはりはら とりみやま〜
ここでの "みをやかみ" は 父ウガヤさん。
祀る 榛原(はいばら) 鳥見山
神武天皇 は 父ウガヤフキアワセズ(かもひと)をここへ歓請し祀った
宇陀市榛原萩原の鳥見山
鳥見山公園の真ん中に 勾玉池
人けの無い、知られてない社
御祭神を調べてみる
皇祖天神(みおやのあまつかみ)
大山祇御祖命(おおやまつみ)
神日本磐余彦尊(神武天皇)
とのネット情報を見つけましたが、いずれも個人の発言でしたので、宇陀市に電話で確認。
よくわからない様子。
近所の墨坂神社が管理してるかもしれない、との情報から、墨坂神社に電話で問い合わせる。
墨坂神社の説明では、
「もうはっきりとした御祭神はわかりません。
"神武天皇にまつわるお社"
ということで(管理者が無いので)私共が年に一度 お祀りさせてもらってます」
との事。
全国にウガヤさんを祀ったところはあると思いますが、ここは神武天皇 自らが(アメトミに命じ) 父を祀った社。
最重要だと思います。
今は良いけど、この先 朽ちていくのか心配です。
〈A神武天皇が大嘗祭を行った 鳥見霊時(まつりのにわ)伝承地〉
日本書紀に
〜霊時(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて、そこをなずけて、上榛原 下榛原と曰ふ。持て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭りたまふ〜
と、
記載されているようです。
まつりのにわ とは、(神武天皇が)大嘗祭を行った場所とされ、ここはその候補地。他にも候補地はあるようで、はっきりとはされていません。
日本書紀にも みおやかみ を祀ったとの記載 & ホツマツタヱからも この社の御祭神は父ウガヤさんだとわかる。
とても山の上です(公園の標高600m)
「こんな山の上で大嘗祭を行っただなんて、お付きの方々は大変だっただろうな。。。たしかに見晴らしは良いけどわざわざこんな所で、、、」
と、思いました。
しかし、家に帰り、気付きました。
この鳥見山公園の地形をグーグルマップで見て驚きました。
この 公園の地形自体が、
なんと‼️ 勾玉‼️‼️‼️
この形、単なる偶然とは思えないのです。
三種の神器 の 勾玉
勾玉が意味する事は何なのか?
本当の意味はホツマツタヱから 知ることができました。
勾玉 は "トの教ゑ"の象徴。
それは 日本人の道徳 教訓。
人への思いやり。私利私欲を持たないヲヲヤケ。
その証の象徴が 勾玉 だということ。
神武天皇は 勾玉の地
トの地の上で、父を祀り即位した。
父からの ミヤコドリの教ゑ
この勾玉の鳥見山
そう考えると鳥肌がたち、涙がとまらなくなりました。
日本は かみ の国
素晴らしい天皇というリーダー
天皇は 支配者ではなく、総てを包み守り、祈る存在。
歴史的に語り継いで行きたいと思いました。
私はここが まつりのにわ だと感じますが、みなさんは どう思われますか?
鳥見山からは、素晴らしい大和を見晴らせました。

Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2266000886813074&id=100002095547751
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2271197702960059&id=100002095547751



見えない力
それを、人はいろんな呼び方をして、神様 とか呼んだり も するんやけど、、、最近 自分に、不思議な力が作用しまくってる気がする。🚙
昨日、偶然にもトある人から すごい御社を教えてもらって 行ってきた⛩
それも、雨やと行けなかったのに、土砂降り予報も跳ね飛ばす程の晴天やった!
そこは、とんでもないすごい御社で、後でもっとちゃんと詳しく投稿するけど。。。
おそらく神武天皇 が 父ウガヤさん を祀り、さらに神武天皇が自身の即位で大嘗祭を行なったであろう場所‼️
日本書紀にも書かれてて、石碑もあるから、
ばくぜんと 歴史の中で言い伝えられてきただろうけど、他にも候補地は あるし、
はっきりした事はもう何もわからなくなってる。
でも。
ホツマツタヱを読み、ここへ来てみたら、間違いなく ここ とわかる。
場所は 鳥見山公園
勾玉池のほとり。
そんな場所があることすら知らんかったし。
確認で、今、グーグルマップで見て鳥肌が立った
ぼーっと見てたら きっと 気づかなかった
勾玉池 は なんとなく 勾玉型
それよりも、鳥見山公園 はまさに勾玉そのもの!!!
鳥肌!!!
三種の神器 の 勾玉
それは、トのヲシテ と、云って。
日本人がみんな持つべき道徳心と愛の事。それを形にしたものが勾玉。
この勾玉の場所で、神武天皇は即位したんやなぁ
どんな 想い と 決意 を持ったのだろう?
いや、それも ヲヲヤケ で、何もかも判断されたんだろうなぁ。

Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2259525134127316&id=100002095547751





posted by datasea at 20:47| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月06日

古代史研究会: 芳三山はオリオンの三星の配置

FB_IMG_1559417153552.jpg



古代史研究会: 芳三山はオリオンの三星の配置
坂口
現在噴火している桜島や阿蘇山は、目立っておりますけれど、だいたいの香具山は、周囲の山より低く、そして目立ちにくい山です。
なぜ低いのかは、火山活動により、光と雷を伴い、天に噴石が吹き上がったからですが、その天と地に土を分ける事が、霊(私の中の宇宙)
と令(宇宙の中の私)に喩えられるからです。
香具耶は、光と共に生まれ天に召します。
また、咲耶の場合は、666の蕾が369と開らく、その蕾が、光と雷(ラィエデン、神成、神の子の種、三種神器、十種神宝)を秘めているという事です。
ところで芳三山は、
665m、685m、681m
の三ツ子の山ですが、もちろん、最後に噴火したのは一の岳の金峰山ではありますが、芳三山の12の斎石の中心は、斎園殿(エデン)の東の芳野東門寺という事になります。
その小さな山の頂上が、拝ヶ石巨石群となります。
超古代の火山爆発によりカルデラ湖が形成されて、湖の上に顔を出した山でした。
芳野拝ヶ石の亀石は、海の島の火山といわれる、真の東勝神州芳来の山であり、イエスが、私は雲に乗ってくると申した
耶蘇島(邪馬土を示す八十(逆さで666)、
熊襲タケルの本名のヤソタケル)、
角力斗雲に乗ってくる孫悟空(猿田彦)が生まれた花果(369の花から666の実に気づく)
山でもあります。
また、ギリシャ神話では、オリオン(三ツ星)は、東の国で、みえなくなった目が観えるようになります(籠目→龍目の竹取り、竹は生長の比喩で、龍目は決して生まれも死にもしない何か)。
写真は、ギザの三大ピラミッドと芳三山と、イエスが一番鳥が泣くまでにと申した朱鶏の鶏冠(ト坂)の比較と、想像でしかない中国の仙石と、拝ヶ石の本物の仙石(亀石)です。
そして、孫悟空のきんと雲の形をご覧になりますと、亀そのものです。
雲に乗るは、亀に祈るという示しです。
天水を掬う雨宮柄杓星の、北斗七星と北極星の鶴と亀(天神)が統べるでもあります。
龍宮へ行くという生宮(龍目)への挑戦は、亀に意乗る、拝ヶ石(お亀意志)という事です。
縄文渦巻き雲の石は、火山湖を切った岩戸山のものです。
古今の歌詠みの修行の場こそ、その切り口です。
写真は、お借りしています。

Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=875338369497097&id=100010628255647



FB_IMG_1559417184411.jpg


FB_IMG_1559417148249.jpg


FB_IMG_1559417130940.jpg


FB_IMG_1559417153552.jpg


Screenshot_20190606-063711.png


Screenshot_20190606-063756.png







posted by datasea at 04:32| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月03日

古代史研究会: 八咫烏はユダヤ支族ダン族の末裔ではないか

古代史研究会: 八咫烏はユダヤ支族ダン族の末裔ではないか
神武東征の謎を斬る!そのM 
八咫烏は空を飛んだか?!
Chiaki Matsumotoさんが言われるには
「ヤタガラスは絶対空を飛んでいた!」。
・・・そう言われれば、熊野の道なき道を進んで無事に神武軍を案内したり、敵の本陣の真ん中に飛び込んで行ったり、敵の大将の家に忍び込んだりと、ヤタガラスの動きはどれも人間離れしている。
まるで後世の忍者のようだ。
・・・空でも飛ばないとできそうもないことをやったのがヤタガラスたちだった。
では、彼らはほんとうに空を飛んだのか?・・。
人が空を飛ぶ、ということが可能かどうか考えてみると、歴史上、空を飛んだ人物が一人思い浮かぶ。修験道の開祖・役小角だ。
役小角には、流刑になって流された伊豆の大島から毎晩富士山まで飛んできていたという逸話が「日本霊異記」に伝わる。
・・・では、ヤタガラスと役小角になにか関係があるかというと、これが、ある!
役小角の出生した役家という家は、三輪系賀茂氏の出身であり、先祖をたどるとヤタガラスにまで行き着くのだ・・。
ヤタガラスがすでに神武東征時に空中飛行術を身に着けていたとしたら、役小角は先祖の秘術を受け継いだだけ、ということになる・・・。
さらに言えば、役小角の出生地は大和国葛城郡茅原郷。
神武東征時にヤタガラスが大活躍していた古戦場である。その上、役小角が若いころ修行していた場所はなんと熊野山中・・・。
・・役小角以外にもヤタガラスは、陰陽道の大成者である安倍晴明の先祖でもあるようだ。安倍晴明の師匠の名前は賀茂忠行と言い、この人も安倍氏もまた賀茂氏の一族である。
つまり、日本において一大開花した修験道も陰陽道も、もとをたどればそのルーツはヤタガラスにある。
では、ヤタガラスとはいったい何者だったのか?
ヤタガラスの本名は賀茂建角身命。
秦氏と並んで神武東征の戦いを勝利に導いた立役者であり、両者ともにその正体は北イスラエルから来たユダヤの10支族のひとつではないかという説がある。
私の推測だが、賀茂氏は10支族のうち、ダン族の末裔ではないだろうか・・・。
この賀茂氏という氏族、秦氏に比べると、かなりブラックな要素が見て取れる。
金鵄である秦氏に対して、ヤタガラス・賀茂氏。
これだけでも陽と陰、光と影、正と邪を対比させているような名前なのだが、それぞれの性質や言行を見ても、この対比は一層鮮明になって行く・・。
ヤタガラスは東征の戦いにおいて、
シキ兄弟、
ウカシ兄弟
と言う敵の大勢力を打ち破るために、誘降による内部攪乱という高度な心理占術を仕掛けている。
いずれの場合も内密理に弟に近づて説得し、寝返らせることに成功、敵の作戦や布陣まで詳細に聞き出したうえで対策を練り、見事勝利している。
ヤタガラスはオトシキやオトウカシに向かって、こんな風に言っていただろう。
「わが君の一族は末子相続なので、本来ならあなたのような弟君が家長の座に座るのです。
今のまま兄者に使われているより、わが君に仕えてこの地域の王になりませんか? 
それに、ナガスネヒコはどうしようもない乱暴者。
わが君の戦いは正義の戦いなのです。
勝ったときの恩賞は欲しいままですぞ。」・・・ 
正義を建前に名分を与え、本音のところは実利で誘う。こうして人の心を掴んでゆくヤタガラスのやり方のあざとさ、狡猾さ、人間というものの心の奥の奥まで知り抜いたような抜け目のなさは、なんとなく、現在のユダヤ商人にも繋がるものに思えるのだ。
神武やニニギといった天孫一家の人々が、人を疑うことすら知らず、ひたすら世の中のために奉仕するような善良無垢な一族であったのと好対照である。
実際、東征の戦いにおいてもヤタガラスの活躍する部分だけが巧妙で狡猾なスパイ活動であり、神武自身は仁徳の人で、そういう方面とは正反対の志向がある・・。
ヤタガラスのこういう性質はどこから来ているのか?
安倍晴明が大成した陰陽道という巫術は、どちらかというと、神様に祈念して世の中に恵みをもたらすというよりは、人を呪い殺すような目的のときに効果を表す、黒魔術的な巫術である。
・・・失われたユダヤ10支族は、それぞれ紋章を持ち、それぞれはっきりとした役割と特性を備えた部族であったという。
ダン族の紋章は「蛇」である。
また、ダン族の特性は、
「己の民を裁く。マムシのような狡猾さ。」・・・
・・・日本には蛇を祭神とした神社も多い。
特に九州には多く見られる。
蛇は邪神のように思われるが実は日本では金銭的な富貴をかなえる神であり、また、転生の象徴でもある。
もしも、ダン族が古代にイスラエルからインド経由で朝鮮半島にやってきて居住し、神武東征の頃、日本にやってきたのだとしたら、どうだろうか?
蛇を進化させた形が「龍」である。
龍神信仰もまた日本に多く残っている。
龍神は水を操る神として、古代から海人族の信仰する神であった。
神武の時代よりかなり前、南インドから塩土族というドラヴィダ系の民族が南九州に渡来し、勢力を持っていたという。
神武の曽祖父である天孫ニニギが降臨した際、彼はまずこの塩土族の本拠であった笠沙の岬を目指している。
そのあたりから西日本一帯、そして朝鮮半島の南半分までは、倭人が勢力を張っていた。
塩土族は倭人と戦うことなく交流し、交易などを通じて仲が良かった。
この一族の中から塩土老翁という大物が出て、神武に東征を決断させている。
…塩土族が南インドから九州を目指した時、ダン族の人々も同行していたとしたらどうだろうか?・・・白蛇信仰や龍神信仰がもたらされた経緯が見えてくるような気がする・・。
(写真は京都市にある晴明神社の鳥居。
五芒星が描かれている。
六芒星がユダヤ民族の象徴であり、精神と肉体の調和、現実世界と霊的世界の調和を表すのに対して、五芒星は現世での理想の実現を表し、時に悪魔の象徴にもなるという。
・・・どちらもユダヤの紋章である。)

Facebook
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/


posted by datasea at 11:07| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月30日

知識の小部屋: 平原大鏡が記紀の八咫鏡である

知識の小部屋: 平原大鏡が記紀の八咫鏡である
二部第10回
前回、少々細かい点ですが、周尺は18cmであり、その長さが許慎のいた漢代には、咫と言われる長さであると考えられていたことを確認しました。
平原大鏡は、銅鏡の本場、中国大陸にも類例がない大きさであることなどから、倣製鏡(日本製)であると考えられていますが、果たして弥生時代の日本人に中国でもあまり使われた形跡の乏しい「咫」なる長さの単位を認識していたと考えて問題ないのでしょうか?
既に伊都国での漢字への理解の形跡は、何度か指摘してきましたが、私は、この問題についても、当時の伊都国人が、「咫」の意味を認識していたと考えて全く問題ないと思います。
それは平原大鏡自体が示しています。
即ち、平原大鏡は、その単に大きいだけで特別というわけではなく、その文様も他の内行花文鏡に全くない、八葉座であることと、そして、その内寸が漢尺の2尺に相当する46.5cmであるからです。
つまり、
「漢尺の2尺で銅鏡を作ると円周8咫の鏡になる」
ということを理解していることを主張する意味が込められたからこそ、平原大鏡は、類例が皆無の八葉座を持っているです。
八弧文、
八葉座、
八咫、
こうして意図的に八という数字に合わせこんで作られた特別な銅鏡、それが平原大鏡なのです。
またこうしてみると、それが記紀の
「八咫鏡」
であったとすると、八咫鏡が伊勢神宮とそして皇居の賢所はその形代(レプリカ)が有るとされていることも、いとも無造作に理由が想像されます。
即ち、平原ではすでに5枚の大鏡がありますが、恐らくは当時は8枚作られ、その鋳上がりが一番良いものが伊勢にあり、皇居の賢所にもお形代として残ったのではないでしょうか? 
これでは、合計7枚で一枚残るわけですが、私は最後の一枚が箸墓から出てくるのではと期待しています。
箸墓の主、モモソヒメは国譲りの調和の精神の体現者として、彼女個人の所有物として八咫鏡の内一枚を副葬される権利を十分に持っていると思います。
箸墓主体部の発掘・考古学的な調査は何時になるのかも知りませんが、何とか長生きして、この推論が当たったかどうか見てみたいです。
また記紀や伝承に残る「八咫鏡」という単語ですが、これが大きい鏡を意味することは、これを円周長を表したと捉えないと、途端に不自然になります。
何故ならば、咫という単位は、尺よりも更に小さい長さの単位であり、基本的に中国の文献では、「咫尺」と熟して、小さいものの例えに用いられるからです。
既に一部の13回で、述べたとおり、身体尺としての長さ15cmの拇人指咫では、ヤマトの2枚の大型内行花文鏡が八咫鏡にあたり、18cmの拇中指咫では、平原大鏡が当たります。
もし記紀が単に後世の創作に過ぎないなら、その編者は、大きい鏡を表現したい場合には、
「八尋の鏡」でも
「八丈の鏡」でも、
もっと相応しい言葉を選ぶことをしたはずではないでしょうか。(「尋」は、両手を広げた長さ、「丈」は背丈の長さを示す身体尺です)
弥生末期の巫女王であった平原王墓から、古墳時代の始まりを告げるモモソヒメの箸墓、そして元伊勢伝承の始まりのトヨスキイリヒメから、最後に伊勢にたどり着いたヤマトヒメへ、銅鏡を憑代として太陽を奉斎する巫女の系譜が、倣製の大型内行花文鏡に注目することで自ずから立ち現れてきます。
「伊都から大和を経て伊勢へ、日本古代史を一つの継続的事象として捉える」
平原大鏡が八咫鏡に他ならないという結論が我々に示す意義は、この点にこそあります。
このことは極めて重大ですので、慎重に考えなければなりませんが、もし、俄かには肯定しかねるとして、これら事実を単に「わからないこと」として、あっさりと我々の「歴史」の範疇から蹴り出してしまうことは、余りにも勿体ないことだと思います。
この事実を否定的に捉えたい方には、平原鏡はなぜその面径が丁度、漢2尺なのか、なぜ前例・類例のない八葉座なのか、そして、なぜ記紀では、小さいものの形容に使われる
「咫」
なる特殊な字を使って大きな鏡を表現しようとしたのか、その全てを整合的に説明する対案を期待したいと思います。
平原の銅鏡については、まだまだ語るべきことは多いですが、ここでは一旦先を急ぐことにして、次から平原にある3種の神器の残り2つ(剣と玉)を見てみたいとおもいます。

知識の小部屋 - a room of wisdom -
https://aroomofwisdom.blogspot.com/

Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1040919979437516&id=965535333642648





FB_IMG_1559136740184.jpg






posted by datasea at 03:17| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月23日

古代の人体蘇生術ー神武蘇生伝説とユダヤ神器


FB_IMG_1558587378941.jpg


FB_IMG_1558587381749.jpg



古代の人体蘇生術ー神武蘇生伝説とユダヤ神器
人体蘇生と申しますと、何か胡散臭い話ですが、筑紫(熊本の宇土)から来た火の君(姫氏)が、その術式を使って生き返らせた話は、播磨国(姫路)風土記にあります。
その土地の地名は継となったとの事。
また、蘇りの術式は、継体でもあります。
神武天皇の蘇りなど、東征前の九州での古の天皇、もしくは斎王は、この継体の王であったのかも知れません。
ところが、熊襲タケルから継(火の君)を襲名した大和タケルは、草火をコントロールする、蘇りの剣である、草薙ぎの剣を使いきれず火に倒れます。
草薙とは、那岐と分けた曜玉です。
人体では、五臓六腑一性殖(五組連玉と二独玉で七岐)です。
それを真釣り合わし直すという事です。
それで、古代の真剣は真釣る木と申すのです。
ムラムラと湧き上かる叢雲の生命の木でもあります。
草叢から飛び立つ雉(霊)を、もう一度草(人体)に納める薙ぎの剣でもあります。
八咫烏で申せば、三本足を挙げて飛鳥と成ってしまった足を、再び二本を戻すという事です。
泡沫(歌方土)の淡(気流柔剛の火と水)と固まる淡路の秘め路は、ア行からワ行の、敷島に磯辺(五十音鈴)と幸拾う国(日本)の言霊でもあります。
祖母継乙女は亡くなりましたが、私のプロフィール写真では、古代、海へ入水した斎王の真似事をしております。
ちょうど、ミミズが入れものとなって土を通しますように、水瓶(魄)と成って、足比日口縄から手比日囗縄の握り(ニニギ)により、水(令)を通すのが人の生き宮です。
禊ぎの方法もそれに習います。
草薙の示しの写真は、お借りしています。

Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=868838410147093&id=100010628255647
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/permalink/1944032335741507/





神武東征の謎を斬る! そのL 高倉下はいかにして神武を蘇生させたのか?
神武東征の戦いの中でも最大の危機は、戦いに敗れて熊野に迂回しようとした神武が敵の放った毒気によって倒れ、全軍が昏倒、あとは全滅を待つばかりとなった時だった。
この時、謎の武将・高倉下(タカクラジ)が忽然として現れ、神剣・布都御魂を使い、神武を蘇らせたということになっている。
・・・しかし、剣を振り回しただけで死にかけている人を蘇らせることができるのか?
今回は、タカクラジが行った神武蘇生の秘儀に迫ってみたい。
写真は、右がタカクラジが使用したとされる布都御魂であり、左がユダヤの祭祀で使用される、メノラーと呼ばれる燭台である。
布都御魂は別名、七星剣とも呼ばれ、メノラーは別名、七星台とも呼ばれる。
名前も似ているが、その形も似ている。
(画像が見つからなかったのだが、メノラーの中には布都御魂のように互い違いに枝分かれしたデザインのものもある。)
古代ユダヤ地方では、人が死にそうになると祭司が祭壇にメノラーを設置して、それに七つの炎をともして生命力復活の儀式を行ったという。
この祭祀法は今でも残り、ユダヤ教のみならずカソリックの人々の中でも行われている。ただしこの蘇生法は祭司以外はだれも見てはならないという秘儀であり、現在でも秘儀として伝えられているため、その様子を見ることはできない。
記紀によれば、高天原にいた天照大神と高木神から神武救済の依頼を受けた健御雷神が、
「私が行かずともこの剣を降せば良い」
と言ってタカクラジに授けたのが布都御魂であるという。
高天原は現在の南朝鮮にあって、当時、ガド族、ダン族といったユダヤ10支族の末裔が流れてきていたらしい。
彼らは古代ユダヤの蘇生法を熟知していた。
ユダヤ人が死者蘇生を行う黄金のメノラーを作るときは、鋳型で作ることは許されず、鍛治者が槌で打って作る必要があったという。そして、一回一回の槌の打撃に祈念を込め、祈りの力を込めてメノラーを作っていった。そうして出来上がったメノラーは神秘的な力を持ち、しばしば死者を蘇らせることができたという・・・。
古代日本にはロウソクというものがなく、燭台もなかったが、その代わりに剣というものが神秘的な力を持つ霊器であるとされ、三種の神器の中にも入れられている。
半島に流れてきたユダヤ族たちは、その地にあった宗教儀礼と自らの伝統的な宗教様式を合わせることで、神剣・布都御魂を作ったのではないだろうか?・・・。
鍛冶者たちは祈りながら、魂を込めて、メノラーの形をした剣を鋳造した。
出来上がった剣は聖なる力を持ち、ユダヤの蘇生法の秘術を持つ特別な祭司の手によってそれが使われるとき、その力を発揮した・・・。
その祭司の名は、健御雷命であり、タカクラジであった。
剣だけに霊力があっても、祭祀を行う者と、その祭祀法にも霊力を伴わないと蘇生は成功しない。
タカクラジはどうやって布都御魂を使い、祭祀を行ったのか?・・。
この時タカクラジが行ったのは、現代で言えば「祈祷」だったのではないかと思われる。
神道、
加持祈祷法、
修験道
などは日本独特の宗教としてその後発展して行くのだが、これらはすべて神武東征の時、歴史上はじめて出現しているようだ。
その意味でも神武東征の歴史的意義は深い。
祈祷には「祝詞」と呼ばれる、一種の呪文のような文章がある。
祝詞は神様の力を引き出すために考え抜かれ、選び抜かれた言葉によって構成され、これを人々が誠心誠意を込めて心からの祈りを声に出して読み上げるとき、神力が発動する。
・・とある祝詞の一節に
「〜布都神の神剣を遣ひて。ふるべゆらゆらと〜」
という一節がある。
私はこの祝詞こそがタカクラジの唱えた祝詞ではなかったかと思うのだが、祝詞そのものが神聖なものであり、無断転載を禁じられているのでここではごく一部分を掲載させていただく。
・・・この一節の中の
「布都(フツ)」
という言葉は、泉の湧き出る音、もしくは心臓の鼓動を表し、生命力の発現を表す。また、
「ゆらゆら」
という言葉は「魂を揺り動かす」転じて、
「消えそうになった魂を呼び戻す」
という意味があるのではないか?・・・。
布都御魂は別名、布留御魂とも書くほか、いくつかの別名を持っているが、この「フル」という言葉は、生命力が天空から神力によって降り注ぐさまを表しているのではないか?・・・。 
霊力を持った者が、霊力を持つ神器を使い、定められた様式に沿って、赤ん坊が母を呼ぶような赤心を持って神に祈るとき、なにかが発動し、死にそうな人が蘇ることもある。
タカクラジが神武のために祈祷を行ったとき、神武は仮死状態だったと思われるが、この神剣と神への言霊の力によって神武は生命力を取り戻し、蘇生するに至った・・・。
このことを鑑みるとき、なぜその人の諡号が「神武」であったのか?という意味もわかるような気がする。神によって武力を与えられた人、あるいは神の力で武力を行使した人、という意味に受け取れるからである。

Facebook
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/permalink/1947996248678449/
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/permalink/1944032335741507/






8世紀の天皇名の和風諡号
Facebook古代史研究会/古荘氏
2019.5
「2人のハツクニシラスは鎌倉幕府の陰謀か? 天皇」
漢風諡号が現在私たちが言うところの天皇名ですね。
しかしこれは大まかに言うと、8世紀に淡海三船がそれ以前の天皇名の漢風諡号をつけたのであって和風諡号がそれとは別にあります。
『日本書紀』における
神武天皇の和風諡号『始馭天下之天皇』と、
10代崇神天皇の諡号『御肇國天皇』を
両方とも
「ハツクニシラススメラミコト」
と読むようになったのは鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)からであるとの説があります。
『書紀』編纂時は異なっていた可能性があるのです。
同じ読み方だから崇神が実際の初代でそれ以前は神話であるというような説もあります。かなり根強く。
しかし神武が神話であるなら、わざわざ
崇神とハツクニシラス
の漢字の綴りを変える理由が解らない。
神武天皇の和風諡号『始馭天下之天皇』
10代崇神天皇の諡号『御肇國天皇』
と思ったのでここからはちょこっと調べての想像です。
神武の称号内にある「天下」は高天原である天上は天照大御神が治めて、地上である天下は天皇が治めるというニュアンスであろう、と言われています。
日本書記に
「始馭天下之天皇」
と登場する寸前の記述は
高天原まで届くくらい高い宮殿の建物を作ろう
というようなことが書かれています。
「畝傍(ウネビ)の橿原(カシハラ)に宮柱(ミヤハシラ=宮殿の柱)を底磐(シタツイワ=柱を支える岩)の根元にしっかりと立てて、高天原(タカマガハラ)に峻峙(チギ=宮殿の屋根で木材が交差する部分)が届くくらいに高くしよう」
これに続いて
「始馭天下之天皇(ハジメテ アメノシタ シラシメシシ スメラミコト / ハツクニシラススメラミコト)である私は、神日本磐余彦火々出見天皇(カムヤマトイワレビコホホデミノスメラミコト)と名乗ることにしよう」
となっています。
天上の高天原に対して
「始馭天下」   
と言ってるから天上と天下の対比で
天は高天原を神々が 天下はスメラミコトが統治する
という意味合いを感じます。すなわち神武の『始馭天下之天皇』はハツクニシラススメラミコトというニュアンスとは違って明らかに
「ハジメテ  アマノシタ  シラシメシシ(シラス)  スメラミコト」
と読んで天の下の世界を治める王朝の創始者というニュアンスになる方が自然だと思うのです。
漢字に意味をもたせて当て字にしているならば
始馭天下之天皇の馭天下は天下を馭す。
馬を制御するように天下制御するということですから、シラスは治らすでしょう。この
「アマの下 治ラス スメラミコト」
という言い方はのちの世に頻繁に現れます。
同じく8世紀成立の万葉集には(写真参考)
仁徳天皇のことを
「難波高津宮御宇天皇」
と表記しこれを
「難波の高津宮にアメノシタ シラシメシシ スメラミコト」
と読んでいます。
またすぐあとに万葉集は天智天皇のことを
「近江大津宮御宇天皇」
と書いて
「近江の大津宮にアマの下 シラシメシシ スメラミコト」
と読んでいます。このあたりの事情から日本書記成立のころ天皇のことを
「アマノ下 シラシメシシ スメラミコト」
と表現していたようでありつまり
「天下を統治する王」
というのが天皇の称号だったようです。
神武は初代天皇であるから
「始めて アマノ下 治らしメシシ スメラミコト」
と読んでいたとするのが自然に思うわけです。
それに対して崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものなのでハツクニシラススメラミコトは
「はじめて大和と言う国を全国に知らしめた天皇」
というニュアンスだったのではないか。
現に古事記の表記では
「所知初国之御真木天皇」
これは普通に読めば
初国を知らしめるところのミマキスメラミコト
ではないか?
初国とは、周辺国がその国を初めて知るという意味であったと古田武彦さんが書いていました。
だから実はハツクニシラス天皇が二人いたわけではない。
まったく異なる意味合いでつけられた二人である。
神武は
「初めて アマの下 シラシメシシ スメラミコト」
シラスは統治の意ですね。
崇神は
「初国を 知らす スメラミコト」
シラスは知らせる
であった。
などなど、
半分は想像の産物として一筆したためました。

Facebook
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/permalink/1944032335741507/









神武天皇の血流を追って ニンキジッタ(トート)神の血流を辿る
投稿者 そこちょっとつんつく
日時 2018 年 1 月 05 日 03:20:04: 8EItFG7yGzQIA gruCsYK_guWCwYLGgsKC8YLCgq0
大和をエッタ(穢多)に落としたシラギ神崇拝教|古代被差別部落とは、その3〔裏古事記 日本人のルーツ飛騨〕
http://roots-hida.info/nigihayahi/
実は、崇神天皇こそが神武天皇であり、また、大彦命の事でもあるのです。↓
ニギハヤヒの後継者問題〔 天の王朝〕
https://plaza.rakuten.co.jp/yfuse/diary/201704010000/
「...そしてこのとき、ニギハヤヒが天磐船からこの地を見て「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と名付けたと、『日本書紀』と『先代旧事本紀』に書かれています。
ニギハヤヒが「日本国」の命名者であったことになりますね。
それは彼が統一大和王朝初代の王であるから、当然と言えば当然ですね。...
もし出雲族と日向族の双方が納得のいく統一王朝を作ろうとした場合、誰をどう立てればいいか、という問題に突き当たります。...
ニギハヤヒは悩むわけです。...
ニギハヤヒはその後のことも考えていたと思います。..
たとえば、...一族の血が混ざって、名実ともに統一王朝が生まれると考えたのではないかと思います。
実際、その後の系図を見ると、そうなりました。
ただし、完全に軌道に乗せるには、崇神天皇の時代まで待たなくてはなりませんでしたけどね。
というのも、崇神天皇自身が開化天皇とともに、アマテラス、スサノオ、アヂスキタカヒコネ、オオトシ、オオナムヂ、ナガスネヒコ一族の直系だからです。...」
アマテラス〔何から話そうか〜龍の部屋〕
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099221.html
「『日本神話と史実(上)』(「新世紀の古代史5」)著者石渡信一郎・信和書房(2012)より、抜粋して転載します。
...三輪山の崇神(旨・首露・脱解)の霊はオホヒコ(王日子)・アマテルオホヒコ(天照大日子)・アマテルヒコ(天照日子)・アマテルオホヒ(天照大日)などの神名で呼ばれていたと考えられる。
崇神(旨・首露・脱解)は、稲荷山古墳(埼玉県)出土の有銘鉄剣には「意富比〇」と刻まれているが、
※〇は「土」に「危」で、「おほひこ」です。
「崇神紀」にみえる
大彦命(おおひこのみこと)
は崇神(旨・首露・脱解)の分身であり、「大彦」は「大日子」と同義である。
そして、三輪山の崇神(旨・首露・脱解)の霊
アマテル=オホヒコ
は、ヤマトの日神・建国神であるとともに、加羅系氏族の祖神とされて、諸国の要地に分祀されるようになった。...」
また、
神武天皇=崇神天皇=大彦命血流
は、難波吉士でもありました。
藤原不比等によって、分からなくされてしまっていたのです。↓
「稲荷山鉄剣銘」が明かすワニノ臣(後の春日臣)の実像(7) 日本古代史の謎シリーズ 102 稲荷山鉄剣銘 5代タサキワケ〔 ナミオのブログ〕
http://ameblo.jp/egami-namio/entry-12074278240.html
「...(5)477年に応神(昆支・武)の即位に反対して反乱を起こした時、敗れたオシクマ王とともに自殺した「吉師(きし)の祖五十狭 (いさち)宿禰」(日本書紀)=「吉師部(きしべ)の祖伊佐比(いさひ)宿禰」(古事記)は、
(イ)吉師・吉師部が『新撰姓氏録』に大彦命を祖とする難波吉士・吉志などがみえることと、
(ロ)イサチ=イサヒが「イ(大)・サキ(城・城邑)」と同義とみられることから、
タサキワケと同一人物とみられる。
藤原不比等がタサキワケ=イサチノ宿禰の実像を隠すために、同一人物を敵・味方に分かれて戦うことにしたと考えられる。
(6)『先代旧事本紀』国造本紀によれば、
@无邪志(むさし。武蔵)国造条には、
志賀高穴穂朝世、出雲臣の祖、名は二井之宇迦諸忍之神狭命十世の孫、兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定め賜ふ。とあり、
A胸刺(むなさし。武蔵)国造条には、
岐閉国造の祖、兄多毛比命(えたもひのみこと)の児、伊佐知直(いさちのあたい)を国造に定め賜ふ。とある。
「兄多毛比」は、
『高橋氏文』に「无邪志(むさし)国造の上祖大多毛比(おほたもひ。大伴部)」とあり、
「伊佐知直」は、
五十狭 宿禰=タサキワケと同一人物で、父「兄多毛比命」と同じく「武蔵国造の上祖」とみられるので、
「伊佐知直=タサキワケ」の父「兄多毛比」が
「无邪志国造の上祖大多毛比(おほたもひ。大伴部)」=タカハシワケ
であることが分かる。
 (7)タサキワケのワケの尊称が無くなり伊佐知直(いさちのあたい)とされている理由の一つは、442年に珍(ワカキニイリヒコ)が死亡した直後、珍(ワカキニイリヒコ)の王子和訶奴気(わかぬけ)王(『古事記』)=大江王(『古事記』)=彦人大兄(『日本書紀』)が、既に珍(ワカキニイリヒコ)の後継者と決まっていた済(ホムダマワカ)と争った時、「杖刀人首(軍総司令官)」タサキワケが済(ホムダマワカ)に味方して彦人大兄を殺したが、彦人大兄が中臣(藤原)氏・物部氏の祖オシクマ王の祖父であるところから、藤原不比等に恨まれていたためとみられる。...」
当投稿上方の「ニギハヤヒの後継者問題」〔 天の王朝〕というリンク先にもありましたが、
崇神天皇と開化天皇こそは、日本国の命名神の饒速日尊が、日本国の平和安寧と幸福のために待ち望んだ全ての神々や日本の王たち(大国主命の長男の事代主血流含む)の統合した血流であると。
大彦命は孝元天皇の皇子であり、雀部臣伝承と合致しています。↓
孝元天皇・開化天皇(古代史の復元)
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-19-1kougen.html
「...そこで名前が挙がったのが神武天皇の長男で日子八井耳命の系統の雀部臣の子である 国牽尊(クニクル)が以前より,素盞嗚尊祭祀に理解を示していた関係で第八代天皇(孝元天皇)に推挙された。
 孝元天皇は孝霊天皇と細姫の子となっているが、雀部家に伝わる伝承では、神八井耳命の子孫である武恵賀前命の御子が第八代の孝元天 皇だという。
原田氏は実際にこの子孫に面接して聞き出している。
雀部家の記録は、持統天皇が記紀を編纂するに当たって没収されたそうである。
他に春日臣、安部氏、穂積氏等十六家の系図が没収の憂き目にあっているらしい。
記紀編纂時、不都合な事は隠蔽してしまおうとしたのであろ う。...」
しかし、大彦命族というと安倍氏ですが、実際には大彦命血流にも関わらず拾われた捨て子の大彦命擬姓氏族だの、新羅渡来人だのとされた難波吉士とあべこべで、
安倍氏の祖先の長脛彦(安日彦)は、大彦命(神武・崇神)と戦って軟禁され、皆が長脛彦を処刑しろときかない中を、大彦命(神武・崇神)は処刑した事にして、何れ大和朝廷のために役立ってくれれば良いからと、こっそり逃がし、
痛く感謝した長脛彦(安日彦)が、後に大彦命(神武・崇神)末裔の難波吉士を厚く保護して、安倍氏は大彦命(神武・崇神)擬姓氏族となったようです。↓
阿部姓の大彦命(神武・崇神)血流族は、阿拝臣末裔などで、居ても少ないようです。
ウエツフミによる神武天皇の正しい系図〔ウガヤフキアエズ王朝実在論〕
https://ugaya.jimdo.com/2015/10/03/%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%83%84%E3%83%95%E3%83%9F%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E6%AD%A3%E3%81%97%E3%81%84%E7%B3%BB%E5%9B%B3/
「...◆玉島姫(のちに亘理姫)・・・・・「陸奥の国の覇精高の上・亘理彦の夫人となった」とありますので、ナガスネヒコ一族のもとに嫁いだようです。ウエツフミはナガスネヒコのルーツを「亘理の覇精高の上であったが、追い払われて奈良に辿り着いた」と伝えています。
...」
倭と中央アジアに確認できる長脛と安日〔たっちゃんの古代史とか〕
http://tacchan.hatenablog.com/entry/2016/02/23/073231
大彦命こと神武天皇(崇神天皇)は、須佐之男尊出雲王国の家督相続者であり大和王国姫(長臑彦の妹)に入り婿した饒速日尊様から、正しく家督相続権を与えられ、また、飛騨王国アマテラス様からも正しく家督相続権を与えられた邇邇芸尊(ニニギノミコト= 金首露王)の孫であり、
その金首露王は、フェニキア人たちのタルシュシュ船のオーナーでもあり、「オフル(プント)人」を率いて、シバの女王の国のあったところ辺りの、黄金都市と謎の石造建築物都市の国から来たといいます。
金首露王は「オフル(プント)」の王様であり、「オフル(プント)」とは、旧約聖書に登場する黄金の国であり、それは古代ユダヤ王のダビデ王とカナン人(フェニキア人)姫との間に生まれた王子であるソロモンの子メネリケを産んだシバの女王の国、或いはソロモンが黄金を調達した国であったといい、また、
オフル(プント)とは、「羽毛ある蛇」だとか「翼ある蛇」
という意味であるという。↓
【クルタシロス】~金官加羅の首露王〔新次元の叡智を生きるーBlue dragon for New Earth〕
http://trakl.exblog.jp/17794166/
国東 オッフルは東表国 エルダーソロモンの霊統〔新次元の叡智を生きるーBlue dragon for New Earth〕
http://trakl.exblog.jp/18360229/
同和関係資料でも、神武天皇はジンバブエ辺りから来たと伝えられているらしい。↓
『日本の歴史と同和問題の始まり』【ことらの日記】
http://kotora888.art-studio.cc/douwa/HTML/index.html
ジンバブエは遺跡が見つかり、シバの女王の国だったとか、ソロモンの黄金採掘都市だったとか発表されたが、
それから次第に欧米人にとっては都合の悪い遺跡物が多数見つかってしまい、
それらは隠匿されたあとで、やっぱり比較的最近の遺跡という事にされたと思える。
ギリシャの遺物 大英博物館に返還迫る 独の大学は「返します」〔日付のある紙片(インポート)〕
http://blog.livedoor.jp/ali_bin_ibrahim/archives/51719906.html
「...イギリス人による遺跡蔵匿隠秘
19世紀末、イギリス人が「ローデシア」と名づけたジンバブエで、アクロポリス、神殿などからなる巨大な石造建造物群が発見されたが、白人はそれをどうしても黒人が作ったものと認めたがらなかった。
それで彼らはそれを旧約聖書「列王記」にあるオフェール(オフルOphir)の遺跡だと発表した。
しかし、ジンバブエ遺跡から発見された遺物の中にはそれが黒人文化の所産であることを示す像などがあり、アラブや中国との交易を示すものも見つかった。
それでもイギリス人はそれを認めず、都合の悪い遺品を隠蔽して公にしないという暴挙に出た。
それらの多くは現在なお公表されていないのである。(文春新書「民族の世界地図」より)
白人の教える歴史によれば、古代エジプトも西洋史も組み入れられる。
遺品が正当に公開される場合でも、それが大英博物館で公開される限り、西洋の遺物であれ東洋の遺物であれ、白人文明を中心とした歴史の文脈の中に位置づけられることになる。
この点は注意を要する。
大英博物館の展示を見る人は、何を見ても、「唯一の文明」の精華を見たような錯覚に陥り、イギリスの偉大さに感服するだろう。...」
『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第5章1 近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦 (第5章1)フェニキア人〔木村書店WEB文庫無料公開〕
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-42.html
「...1920年代、フェニキア人の植民都市として有名なカルタゴの神殿遺跡の発掘が行なわれた。  タニットの神殿とよばれるフェニキア(カルタゴ)人の聖所には、ひとつの石棺があった。フランス人のピッタールは、1924年に、この石棺から発見された遺体について、つぎのように書いている。
 「カルタゴの……タニットの女神像のあの驚くべき石棺……外形は恐らく女神自身を表わしているこの石棺こそは、宗教上の最も高貴な人物の墳墓であったに違いない。ところで、そこに埋葬されていた女は類黒人の特徴を持っていたのである。人種的には、1人のアフリカ女であったのだ」(『人種学的に見たる民族発達史』、4分冊、p.50)
このピッタールの本は、当時抬頭しつつあったファシズムとのたたかいの一環として書かれたものであった。しかし、この「類黒人」(ネグロイド)の特徴をもつ女性について、その後の人類学者、歴史学者は何も語っていない。これはどういうことであろうか。
また、フェニキア人とは、本来、どういう人種を中心にしていたのであろうか。 ...」
大彦命(神武・崇神)の先祖の金首露王は、オフル人(プント人)の王ですが、オフル人(プント人)の王の事を、ケツァルコアトルやククルカンとも言います。↓
プント人の謎F〔むろまっち〕
http://majinnnn.jugem.jp/?eid=1078
「... この地に「羽毛を持った蛇に囲まれたオルメク人の姿」という浮き彫りがある。 
羽の生えた蛇はククルカンといって、オッフルもまた「羽のある蛇」の意で、オッフルは現ソマリア
(現在の住民は古代住民(セム系)とは全く異なる)
古名プントのことである。
このオルメク遺跡の南端に、高さ四メートル二十センチ、幅二メートルの石碑に二人の人物が彫られていて、今から三千年前の物と言われている。
他にも同じ風体の二人の人物を彫った石碑があり、これ等は地中海から来たフェニキア人だという。
白人たちはフェニキア人を白人と思っているが、フェニキア人はセム人で、セム人は黒髪・黒い目・褐色の肌を持つ東洋人なのだ。
フェニキア人は、
遊牧民族のベドウィン、
紅海・アラビア海の海人のプント人、
カナンのエプス人等、
いろいろの民族の混じった航海人種で 謎の人種と言われ、前史生き残り人種で、三千年前に中南米に現れたのも不思議はない。...」
『黄金の国プント −ハトシェプストのプント遠征 その1 』【オルタナティブを考えるブログ】
https://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/26535969.html
『700年にわたってアフリカで造られた不可思議な石造建築』【世界遺産の不思議な謎】
http://www.merryquiffmas.com/index.php?UID=1420815101
また、ケツァルコアトルとは、ニンキジッダの事であり、ニンキジッダとは、天のアヌンナキ王アヌの血流で、人類の創造者エンキ神の助手として、科学者として共に地球人類を創造したエンキの王子の一人の事でもあります。
同じくエンキの王子で、覇気旺盛なマルドゥクとの争いを避けるように言われて、
南米などに身を引き、ケツァルコアトル等と呼ばれ、プレ・アメリカ文明の神となりました。
のちにエジプトに戻る事が許されてトート神と呼ばれ古代エジプト文明の神となりました。
プレ・アメリカ文明と古代エジプト文明の神であるニンギジッダはアヌンナキなので、巨人の白人男性ですが、
これらの文明の担い手は黒人の特徴を持っていたようです。
これら黒人の特徴を持つ人達は、フェニキア人や日本人の先祖かも知れません。↓
トートと饒速日大神 3/14太陽神アン|心の物語 『シャングリラへの道』
https://ameblo.jp/0-580/entry-12265136877.html
「...私なりに調べたことを補足しておきます。
※1.
地球人はなぜ人類に地球を与えたのか(ゼカリア・シッチン 著、竹内慧 訳)
[地球の主]エンキの失われた聖書 二ビルから飛来せし神々の記録(ゼカリア・シッチン 著、エハン・デヴィ 序文、竹内慧 訳)
※2.
本によれば、トートはエンキの長男(異母兄弟の兄)マルドゥク(後のエジプトの太陽神アモン(アメン※3)/ラー)の嫉妬により、父エンキに「平和のために他の土地へ行け」と言われたようです。マルドゥク=太陽神とトート=月神の暦のアツレキ…によるのか、トートは職務として追放。
トートは心棒者の一団を連れて海の向こうの土地へと向かいました。
トートは南米(ナワトル族、マヤ族の土地が主な領地)ではケツァルコアトル(羽飾りの蛇)とかククルカンと呼ばれていたようです。
そこで、今までにない暦を新しくつくったとあります。それがマヤの暦だと。
『蛇』はエンキと彼の血縁者、特に「羽飾りの蛇」として知られた神の紋章。...」
ケツァルコアトルでありトートであるニンキジッダは、また、預言者「エノク」であり、
オリュンポス12神の「ヘルメス」であり、アラブの「イドリス」であるともされます。↓
これが、大彦命(神武・崇神)難波吉士らの男系血流です。
聖書における神の臨在場所〔月の光 - 岩戸開き〕
http://www.tukinohikari.jp/tanpounote/12-kami-rinzai/index.html
銀河のタイムライン/シュメールの粘土板の話 - 7つ目の超宇宙
http://7thsu.blog.fc2.com/blog-entry-61.html?sp
第3章 レムリアとアトランティス @人類の起源〔アセンションへの道 PartT その理論と技法〕
http://blog.goo.ne.jp/wyatt999/e/84c83bbaa2472cb66445b16a03a41d3f
しかし、一方で、ケツァルコアトルはシリウスから来たという話もありますので、大彦命(神武・崇神)難波吉士らの男系血流は、シリウスから来た神という事になるのかも知れません。↓
シリウス・ミステリー「イルミナティ」とスメラミコトの故郷〔神仙組T【ハルマゲドン編】光と闇の黙示録〕
http://mujaki666.seesaa.net/article/169405966.html
大彦命(神武・崇神)難波吉士らは、以上の神々とされる男系血流に加えて、大物主(饒速日尊)に入り婿してから、大物主(饒速日尊)のメネリケ(ダビデ王の孫。イスラム教では聖人とされているソロモンの息子。)血流も併さりました。↓
これが、被差別部落やサンカの人達のご先祖がたが、命懸けで守ろうとした血流です。
世界最古の王朝〔セレンディピティ〕
https://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/201306120001/
「...日本の天皇家は世界最古の輝かしい歴史を持つ王朝です。
オリエントでアッシリア帝国と覇を争い、キンメリ人と連合して
シルクロードを東遷したウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨し、
ソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族(公孫氏)と同盟して邪馬壱国を建て、さらに百済国を建てました。
...」
__________________________________________
(参考付記リンク)
絶対に明かしてはいけない天皇家の正体 世界が騙された〔阿修羅〕
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/319.html
(当投稿裏話になりますが、水戸の創価学会被害者氏が難波吉士ご末裔で霊能力があり、何年か前に、
北斗七星の破軍星〜豊受星
に、地球の何十倍の巨大宇宙船による啓示があり、その後に、複数の虹を纏い何市町村にも及ぶ大きさの美しい霊鳥
「籠の中の鳥」
が頭上に出現し、
それが片側三枚ずつ合計六枚の翼で、熾天使を表し、まさにニンキジッダを表すシンボルと後に知ったという事で、果たして宇宙船による現象か、ご先祖筋の饒速日尊によってか、それともご先祖のニンキジッダ様によるものか分からないとの事ですが、
この事実は既に、水戸の同被害者を狙う闇組織の一部にも知られているようですが、
打ち明け話として、そういった、人知を超えた神々の啓示に本投稿は導かれています。
(ニンキジッダ→ニニギ・シッダ→ニニギ尊。)↓
「我は天帝龍神シリウスなり」徴の星の証/2008年北斗七星-c
http://www.asyura2.com/11/test22/msg/699.html
直属の霊能者によると、饒速日尊が、アニメ監督の意識に働きかけて作らせたアニメ。↓
【劇場版予告】千と千尋の神隠し -Spirited Away Trailer- 〔YouTube〕
https://www.youtube.com/watch?v=xvKw3CJKQXg
神隠しされた神、ニギハヤミ→ニギハヤヒ。
天照国照天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまに ぎはやひのみこと)。

★阿修羅♪
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/321.html
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/319.html

オルタナティブを考えるブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/26535969.html

ことらの日記
http://kotora888.art-studio.cc/douwa/HTML/index.html

裏古事記 日本人のルーツ飛騨
http://roots-hida.info/nigihayahi/













■神武天皇,崇神天皇,大彦命,おおひこのみこと
神武天皇=崇神天皇=大彦命
神武天皇=大彦命,東征で九州から大和地方へと勢力を伸ばしていった,
神武天皇,西暦紀元前660年2月11日に橿原の宮で即位,
神武天皇,西暦紀元前660年2月大和を平定,
神武天皇,橿原の宮で初代・神武天皇として即位,
神武蘇生伝説,筑紫(熊本の宇土)から来た火の君(姫氏)が、その術式を使って生き返らせた話
神武蘇生伝説の土地の地名は継となった
神武蘇生伝説,播磨国(姫路)風土記にあります。
神武蘇生伝説,蘇りの術式は継体でもあります
神武蘇生伝説,草火をコントロールする蘇りの剣である草薙ぎの剣
神武蘇生伝説,草薙とは那岐と分けた曜玉
解析
崇神天皇こそが神武天皇であり,大彦命の事でもある
大彦命(神武・崇神)
神武天皇=崇神天皇=大彦命血流
アマテル=オホヒコは、ヤマトの日神・建国神
大彦命こと神武天皇(崇神天皇)は,須佐之男尊出雲王国の家督相続者
崇神天皇は,アマテラス,スサノオ,アヂスキタカヒコネ,オオトシ,オオナムヂ,ナガスネヒコ一族の直系
大物主(饒速日尊)に入り婿してから,大物主(饒速日尊)の血流も併さりました,
「崇神紀」にみえる大彦命(おおひこのみこと)は三輪山の崇神(旨・首露・脱解)の分身
大彦命の先祖の金首露王はオフル人(プント人)の王
大彦命(神武・崇神)難波吉士らの男系血流は,シリウスから来た神という事になるのかも
加羅系氏族の祖神とされて、諸国の要地に分祀されるようになった
オフル人(プント人,大彦命の先祖の金首露王)の王の事を,ケツァルコアトルやククルカンとも言います
崇神天皇と開化天皇こそは,饒速日尊が待ち望んだ全ての神々や日本の王たちの統合した血流である
大彦命は孝元天皇の皇子であり、雀部臣伝承と合致しています
神武天皇はジンバブエ辺りから来た 同和関係資料
ジンバブエは遺跡が見つかり、シバの女王の国だったとか、ソロモンの黄金採掘都市だったとか発表された
大彦命こと神武天皇(崇神天皇)は、須佐之男尊出雲王国の家督相続者
「崇神紀」にみえる大彦命(おおひこのみこと)は三輪山の崇神(旨・首露・脱解)の分身
大彦命の先祖の金首露王はオフル人(プント人)の王
大彦命(神武・崇神)難波吉士らの男系血流は,シリウスから来た神という事になるのかも
加羅系氏族の祖神とされて、諸国の要地に分祀されるようになった
オフル人(プント人,大彦命の先祖の金首露王)の王の事を,ケツァルコアトルやククルカンとも言います
崇神天皇と開化天皇こそは,饒速日尊が待ち望んだ全ての神々や日本の王たちの統合した血流である
大彦命は孝元天皇の皇子であり、雀部臣伝承と合致しています
『日本の歴史と同和問題の始まり』【ことらの日記】http://kotora888.art-studio.cc/douwa/HTML/index.html
Facebook https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=868838410147093&id=100010628255647

vfczxvcvxcvcx











posted by datasea at 14:05| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月12日

古荘氏: 半島から対馬海峡を見る視点

FB_IMG_1557638984542.jpg


FB_IMG_1557639228135.jpg


FB_IMG_1557639249563.jpg







古荘氏: 半島から対馬海峡を見る視点
北が上の地図を見ると日本の古代史はとても分かりづらい。
北が上の地図で東京を首都とする固定観念があると、出雲などは辺境に見えてしまう。
しかし古代日本の倭国時代においては、半島から対馬海峡を見る視点が不可欠だろうと思う。
対馬も壱岐も魏志倭人伝で南北と交流すると書かれている。
対馬と壱岐を合わせて南北と交流すると九州と半島は交流しているのである。
壱岐対馬の海人の手によって日常的に行き来をしていたとなる。
そして動乱の大陸や半島から日本列島に移住する人たちは倭人に加羅の地で会ったことは想像に難くない。なぜならそこに来ているからだ。
そして半島南端から見える対馬を指さしてあの倭の地に行きたいと言われて、なんらかの報酬(鉄剣や稲作の方法など)をもらって運んでいただろう。そして対馬は特に壱岐には移住者たちのベースキャンプができていたと思うのである。
なぜなら何の計画性もなくいきなり九州に上陸するのは危険でもあったろうし、どのみち、唐津や糸島からいずこかに行かねばならないのだ。
どう考えても平地の多い壱岐で集団はとどまり先遣部隊が土地探しに冒険に出たと思うのである。
あるいはこのことが国譲りのモチーフになったかもしれない。高天原である壱岐から、出雲の地はどうかと先遣部隊が行くが大国主に取り込まれて帰ってこない・・・・
これは想像だがいずれにしても対馬と壱岐にとどまり移住先を探したことは間違いないだろう。
あるいはその際に案内した壱岐対馬の船員たちを猿田彦と呼んだのかもしれない。
断っておくが、当時日本なる概念はなく対馬海峡両岸世界と、島々の世界があっただけだから侵略と敵とかはまったくあてはまらない。
そして半島目線で見るとき神武東征には瀬戸内海と日本海の交易圏争いがあったようにも思うのだる。
宇佐と吉備の連合VS出雲丹後の連合である。

Facebook
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/permalink/1936545326490208/
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/permalink/1938022969675777/



posted by datasea at 16:05| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月05日

八瀬童子と天皇

八瀬童子と天皇
672年の壬申の乱(じんしんのらん)の際、背中に矢を受けた大海人(おおあまのおうじ。後の天武天皇)がその地に窯風呂(かまぶろ)を作り傷を癒したことから
「矢背」または
「癒背」
と呼ばれ、転じて
「八瀬(やせ)」
となったという。
この伝承にちなんで後に多くの窯風呂が作られているし中世以降は主に公家の湯治場として知られるようになったので、まんざらウソでないような気がするけれど、
歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されているようだ。
八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるかもしれない。
しかし、天武天皇にまつわる伝承が歴史的事実でないにしても、平安遷都以降は公家といろいろ繋がりが深かったのは事実だろう。
八瀬(やせ)は昔から御所(ごしょ)とのゆかりが深く、独特のしきたりや風習が根付いている雅(みやびやか)な土地柄である。かっては北の大原とともに 薪炭(しんたん)の生産が主な産業で、大原の大原女(おはらめ)と同じように、その炭や薪(たきぎ)を頭に乗せて京の町へ行商にいったのが八瀬の小原女(おはらめ)だ。
その様子が八瀬や大原の「黒木売、柴うり」として小唄にも描かれ、私の愛唱曲になっている。
わしが在所は 
京の田舎の片辺(かたほと)り
八瀬や大原に 牛曵(ひ)いて
柴打盤(しばうちばん)  
床机(しょうぎ)頭へちょいと載(の)せ
梯子(はしご) 買わんせんかいな
黒木(くろぎ) 買わしゃんせ エエエエ

Kuniomi.jp
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ten05.pdf#search='%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F+%E5%85%AB%E7%80%AC'
http://www.kuniomi.gr.jp/







私は、八瀬童子というのは、日本古来の伝統・文化を色濃く伝承していた部族だと思う。
その八瀬童子が天皇と関わりを持つのは、少なくとも後醍醐天皇のとき以降と考えてよい。
ひょっとすると、歴史学会では否定だれているけれど、私は、天武天皇とも何らかの関係があったのではないかと思っている。
山の民には山の民たちのネットワークがあったと考えているので、天武天皇が大津から吉野に逃げ込むとき、彼らの素晴らしい助力がないと到底成功しなかったと思うからある。
これと同様に、後醍醐天皇も彼らに助けられた。
このことは歴史学会で否定されていないし、私は間違いのない歴史的事実であると考えている。
正中の変のあと宮中に監禁されていた後醍醐天皇を助け比叡山に逃したのは八瀬童子である。
このことから、八瀬童子は宮中において特別重要な任務を負うのである。
つまり、八瀬童子は、この功績によりこのときから、地租課役の永代免除の輪旨を受けとともに、ときには輿丁(よてい)として朝廷に出仕して、天皇や上皇の御幸或は葬送の際に輿(こし)を担ぐという誠に名誉ある仕事に従事したのである。
大正元年、明治天皇の葬送にあたり、喪宮(もがりみや)から葬礼場まで棺を陸海空いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を
葱華輦(そうかれん)の輿丁(よてい)
とする慣習が復活した。
葱華輦(そうかれん)は天皇の棺を載せた輿のことであって、天皇が用いる屋上にネギ坊主(葱華)形の吉祥飾りを着けた特別の輿であることからその名がある。
明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。
この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
平成元年、昭和天皇の葬送では棺は自動車(轜車)によって運ばれることとなり、葱華輦(そうかれん)は式場内の移送にのみ用いられることとなった。
八瀬童子会は旧例の通り八瀬童子に輿丁(よてい)を任せるよう宮内庁に要請したが警備上の理由から却下され、輿丁には50名の皇宮護衛官が古式の装束を着てあたった。
八瀬童子会からは6名の代表者がオブザーバーとして付従した。
八瀬童子の要請が却下されたのは誠に残念なことである。
天皇は日本国民の象徴であり、日本の伝統・文化を守らなければならない。
八瀬童子は、日本古来の伝統・文化を色濃く伝承してきた部族の子孫であり、しかも少なくとも後醍醐天皇のとき以降天皇と密接な関係にあった人たちである。
天皇は国民といろいろなインターフェースを持つべきであり、八瀬童子のような古代からの伝統・文化を継承している人たちとのインターフェースは大事にされなければならない。
宮内庁の浅学ゆえにこのことが軽視されるのは許しがたいことである。

Kuniomi.jp
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ten05.pdf#search='%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F+%E5%85%AB%E7%80%AC'
http://www.kuniomi.gr.jp/











小原女(おはらめ)の衣装は、地味だけれどおしゃれな着物を着て御所染めの帯をしめます。
その上にはこれまた感じのいい前掛けを絞める。頭には、古今の名歌や優雅な
図案を刺繍して四隅に絹糸の房を付けた「縫いてぬぐい」をかぶる。小原女は手甲(てっこう)や細帯、前掛けの紐などの小物に、さりげないおしゃれをしたといわれている。
これも京都御所とのつながりを偲ばせる優雅さを表しているのだろう。
さて、八瀬童子は、延暦寺の雑役に従事した童子村で最澄が使役した鬼の子孫と言われているが、平安時代から延暦寺でいろいろな仕事をしていた「山の民」の子孫のことである。
その仕事の中には天台座主の輿を担ぐ役割もあった。「山の民」というのは、多分旧石器時代、縄文時代に繋がるであろう山の人のことであり、京の都では、都人(みやこびと)と違うのはもちろんのこと、郊外の農民とも違う特別な技能を持った人々という風に認識されていた。
ひょっとしたら言葉なんかも違っていたかもしれないし、風習もいろいろと違っていたのであろう。山で生きるひとつの部族と考えて良いと思う。
日本最古の石器は天竜川流域の飯田から出土している。5万年前の石器である。
インドネシアの近くのスンダーランドから黒潮にのって渥美半島に辿り着いた最初の日本人が少しずつ数を増やし、地方に拡散していったが、そのひとつが飯田であったのではないかと、私は想像をたくましくしている。
その後九州方面と北海道方面から旧石器人が全国に拡散していくが、それらの生活の場は山である。
時代は縄文時代へと移っていくが、それら縄文時代の文化はいうまでもなく「山の文化」である。
「山の文化」は現在まで継承されてきており、毛皮や熊の胃、薬草や木の実、炭や鉈(なた)ないしは鎌(かま)など現在おなじみのものも、その基(もと)は縄文時代まで遡る。
ここでちょっと横道にそれるが、縄文文化について語っておきたい。
縄文文化が現在の日本の文化のベースをなしているので、皆さんにそれを知ってもらいたいと思うからだ。
私は、今ここで、八瀬童子を縄文文化の継承者の象徴として取り上げているが、縄文文化の何たるかが判らないと八瀬童子を尊敬の眼(まなこ)で見ることなど到底できない。
縄文文化という世界最高の文化がヨーロッパや西アジアに先駆けて4000年ほどはやくこの日本に誕生した」ということをアッピールしだしたのは,小林達雄である。
小林達雄には、「縄文土器の研究」(2002年4月,学生社)ならびに「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)というすばらしい著書がある。
彼は,「縄文土器の研究」(2002年4月,学生社)で
「少なくとも日本列島の縄文土器は,世界の先史時代における土器づくりレースのなかで、そのスタートがもっとも早かったグループの一つであることはほとんど間違いのないことであろう。」
としか言ってないが,「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房) では次のように言っている。すなわち、
『 土器の製作開始は,重大な技術的革新性を意味するのではあるが、世界のあちこちで独立して発明された訳ではない。
その多くは発明地からの伝播をうけて普及したものである。
しかし,発明地は一カ所ではなく,少なくとも三カ所はあったと考えられる。
その一は,西アジアであり、土器出現の過程が詳細に捉えられている。
9000年前頃と大方の研究者は結論づけており,その年代には今後とも大きな変動はないであろう。
その二は、アメリカ大陸であり,アマゾン河流域に 古い土器の存在が確認されている。
しかし,遡ってもせいぜい7500年程度である。よりふるい時の新発見があれば、それがそのまま新大陸において独自に土器の発見された年代更新ということになるが、いまのところ一万年の大台には決して届かないものと予想される。
その三が日本列島を含む東アジアであり,一万年をはるかに超える古さに遡り,西アジアにおける土器製作の開始年代を少なくとも4000年以上も引き離して断然古い。』
・・・と。
縄文時代に,世界最高の文化がわが国で花開いていたということである。
これは私たちの世界に誇るべきことではないか。
私は、日本の中小企業の技術は世界に冠たるものを持っていると考えているが、その源(みなもと)は縄文時代まで遡る。
否、黒曜石
の加工技術、湧別技法を考えると旧石器時代にまで遡(さかのぼ)る。
 つぎに、縄文製鉄について話をしておこう。古代東北には餅鉄という純度の高い磁性に富んだ磁鉄鉱石を使用した製鉄法があったとされ、明神平でも3600年前頃のカキ殻の付着した鉄滓が出土する。
タタラ製鉄以前の縄文製鉄があったと考えられているのだ。
縄文人は、風の強いところを選んで盆状の野焼炉を造り、餅鉄とカキ殻を入れて火をかけ、還元鉄を取り出していたらしい。
これでヤジリや釣り針を作って いたのである。
ほとんど不純物を含んでいない純粋な素晴らしいものであったと言われている。
正倉院にある「舞草」銘の無装刀は、日本刀のルーツとされているが、岩手県一 ノ瀬の舞川近くの「餅鉄」が発祥の地とされているのである。
次に、諏訪の縄文製鉄について述べておこう。
諏訪地方には御射山祭(みさやままつり)という祭りがある。
御射山祭は二百十日に先立って山上で忌籠もりをし、贄(にえ)として動物を捧げることで祟りやすい山の神を鎮めて台風の無事通過を祈願するのが本来の目的だったという。
諏訪の神はもともと風よけの神として信仰されていた。諏訪大
社には薙鎌と呼ばれる風封じの神器がある。
これは五行説の
「金克木(きんこくもく)」
に基づいた思想で あるといわれている。
火克金(火は金を克する)、
金克木(金は木を克する)、
木克土(木は土を克する)、
土克水(土は水を克する)、
水克火(水は火を克する)
というが、克(こく)するという意味は、制御するという意味である。
つまり金気である鉄鎌を、木気である木に打ち込むということは、間接的に木気である風を封じこめようという呪法なのだ。
南信濃村でも、九月一日には各家で草刈り鎌を竿の竹の棒に縛り付け、軒先につるす風習があったという。
法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌は諏訪大社で製鉄された鎌が起源であり、鎌が風を切るという風除けのまじないである。
法隆寺の鎌はもちろん鉄で作られており、諏訪大社の鎌は縄文製鉄で作られた。
製鉄の材料は高師小僧というが、それは上流の山々から流れ込んでくる酸化鉄が諏訪湖の葦の根元にくっつき、大きく成長したものである。
水中に入り葦の根っこを刈り取って葦を抜くと穴の空いた竹輪みたいなものがとれる。
それが高師小僧である。
その遺物は豊橋市の高師原で発掘されたので高師小僧と呼ばれている。
さて、縄文土器と縄文製鉄で大事なのは、いうまでもなく鉄の材料となる鉱物とそれを還元する「炭」である。
時代が下ってタラ製鉄の時代になっても同様である。
柳田国男は次のような趣旨のことを言っている(「昔話と日本人の心」河合隼雄、1982年2月、岩波書店)。すなわち、
『 炭焼きはなるほど今日の目から、卑賤な職業と見えるかもしれないが、昔はその目的が全然別であった。
炭は他タラ製鉄にも使われるが、その技芸は普通の百姓の到底及ばぬところであった。まさに神業である。』
・・・と。炭焼きは「山の民」のみができる技術であって、これは縄文時代の技術が継承されたものである。
この縄文時代からの技術が連綿と現在までつづいてきて、最近では、私が高機能炭と呼ぶ誠に不思議な炭を生み出している。
高機能炭とは私が勝手にそう呼んでいるのだが、その不思議な炭については、「炭は地球を救う」宮下正次、2002年3月、リベルタ出版)と「炭がいのちも救う」(2005年5月、リベルタ出版)を是非読んでいただきたい。
私がここで言いたいことは、「山の民」の技術が現在にもなお生きているということだ。
さらに縄文文化との関連で申し上げたいことがもうひとつある。現在、北海道に限らず内地でも熊の被害が絶えないが、人と野生動物の共生がまったく忘れられてしまっている。
21世紀の日本は共生社会を作らなければならないが、野生動物との共生を象徴するものとしてどうしても熊との共生を図らなければならないのである。
それには縄文人の知恵に学ぶことだ。
縄文人の知恵に学ぶため、北海道の羆(ひぐま)について、私の長男・岩井基樹が人生をかけて研究しているので、熊のことは岩井基樹に聞いてほしい。
「熊のことは熊に訊け」(岩井基樹、1910年10月、つり人社)を是非見てほしい。

Kuniomi.jp
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ten05.pdf#search='%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F+%E5%85%AB%E7%80%AC'
http://www.kuniomi.gr.jp/






八瀬童子(やせどうじ)
2008/9/21(日) 午前 1:37
2008年9月21日(日)
八瀬童子(Wikipedia):
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%80%AC%E7%AB%A5%E5%AD%90
八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は京洛北八瀬郷(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、室町時代から天皇の輿丁として奉仕した人々のこと。
延暦寺の雑役に従事した童子村で伝教大師最澄が使役した鬼の子孫とされる。
寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。
現在、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められている。
また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせている。
葱華輦の輿丁:
猪瀬直樹の『天皇の影法師』で紹介されて以来、歴代天皇の棺を担ぐ者として有名になったが、実際には後醍醐天皇以降の全ての天皇の棺を担いだわけではなく、特に近世においては長く断絶した期間もあった。
大正元年(1912年)、明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習が復活した。
明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。
この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
平成元年(1989年)、昭和天皇の葬送では棺は車輌によって運ばれることとなり、葱華輦は式場内の移送にのみ用いられることとなった。
八瀬童子会は旧例の通り八瀬童子に輿丁を任せるよう宮内庁に要請したが警備上の理由から拒否され、輿丁には皇宮護衛官が古式の装束を着てあたった。
八瀬童子会からは数名の代表者が車両から葱華輦に棺を乗せかえる際などにオブザーバーとして関与するに止まった。

ドラゴン忘備録 パワースポット、世界の謎と不思議
https://blogs.yahoo.co.jp/reddishtiger2000/44419137.html?__ysp=5YWr5ZKr54OPIOWFq%2BeArA%3D%3D









八瀬天満宮
菅原道真公を祀った八瀬の産土神(うぶすながみ:その土地を守護してくれる神さま)で、道真公の仏教の師であった比叡山法性坊の阿闍梨、尊意が、道真公没後に勧請したものといわれます。
北野天満宮よりも歴史が古いという伝承もあり、道真公が尊意に教えを請う為、比叡山に登った際に腰を下ろしたと伝わる「菅公腰掛石」があります。
また、後醍醐天皇が足利軍勢から逃れた八瀬坂跡を示す石碑や、弁慶が比叡山から持って降りてきたとされる「弁慶の背比べ石」などがあります。
境内には9つの摂社が祀られ、その内の秋元神社で行われる「燈篭祭」では、京都市登録無形文化財に指定されている
八瀬赦免地踊(しゃめんじおどり)灯籠踊(とうろうおどり)
が行われます。
比叡山の観光に、京都、出町柳から比叡山山頂、京都八瀬をつなぐ叡山ケーブル・ロープウェイ

叡山ケーブル・ロープウェイ
https://eizan.keifuku.co.jp/guide/detail.php?id=12



pp6520190400551.jpg










posted by datasea at 10:00| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月30日

[年表] 素戔嗚尊の生涯,mb1527説

神社の祭神(古代史の復元)
神社にはスサノオ・饒速日尊及びその系統の人物が祀られている例が圧倒的に多い。
それなりの実績があって始めて神社に祀られるのである。
第3節 神社でまつられている神
第一項 スサノオ
スサノオは全国の神社で「天王さん」と通称されている。
「天皇神社」の祭神はスサノオである。
天王社の総本社は愛知県津島市の津島神社である。津島神社の記録に,
「素尊(スサノオ)は則ち皇国の本主なり,故に日本の総社と崇め給いしなり」
とある。
これはスサノオが神々の頂点に位置していることを意味している。
また,大山祇命を祭る神社は全国に一万一千社あるといわれているが,その総本社は愛媛県大三島にある大山祇神社である。
ここでは大山祇を日本総鎮守として祭ってある。
奈良県の山口神社は大山祇を祭る神社ということでたくさん存在し,いずれも,大和とその周辺の国を結ぶ要路の境界点に建っている。
山口神社の中には祭神が大山祇命・須佐之男命と併記されている神社や須佐之男命のみになっている神社もある。
これは,大山祇命がスサノオであることを意味している。 
また,スサノオの霊廟といわれている島根県の熊野大社でもスサノオはすべての神々の親神であると記録されている。
このようにして,全国の各神社の祭神の関係を調べてみると,その他にスサノオは,
タカオカミ・
イカズチ・
フツシミタマ・
ハヤタマオ・
シラヒワケ・
カミムスビ・
オオワタツミ・
カグツチ・
ホムスビ・
ヤチホコ・
八幡大神等
として祭られていることが分かる。
スサノオは地域の守護神として,あちこちに祭られており,神々の中で最高位に位置している。
これは,古事記・日本書紀に書かれている暴れん坊のスサノオ像とは全くかけ離れたものである。
全国の神社を調べても,元あった神に違う神を祭らせられたり,祭神を消させられたりといったことが出てくる。
スサノオは古代において大変な事業を成し遂げ,全国の神社に日本最高神として祭られたが,後の権力者が都合が悪いと抹殺したものと考えられる。
第二項 饒速日尊
古代より代々の天皇が頻繁に参拝した神社は,大和の
「石上神社」,
「大神神社」,
「大和神社」
が挙げられる。
いずれも神話上の最高神である天照大神とは別の人物が主祭神として祭られているのである。
日本最高の神社といわれる伊勢神宮には,日本書紀以前に参拝した形跡がほとんどない。
そもそも,神話上の最高神を祭った神社が大和にないこと自体がおかしなことである。
古代大和朝廷にとって重要な神社は上に挙げた三神社で,ここに祭られている神は,朝廷にとって重要な人物であるということになる。
その祭神とは,それぞれ,
「布留御魂神」,
「大物主神」,
「大和大国魂大神」
である。これらはいったいどういった人物なのであろうか。
地方の三輪神社を調べてみると,
桐生市,美和神社:建速須佐之男尊,大物主奇甕玉尊
島根県,来待神社:大物主櫛瓶玉命
大物主はスサノオの近親者で櫛瓶玉という別名があることが分かる。
櫛玉という名で神社を探してみると,
愛媛県北条市,国津比古命神社:天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
兵庫県龍野市,井関三神社:天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
福岡県鞍手郡,天照神社:天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
福岡県久留米市,伊勢天照御祖神社:天火明命
京都府,篭神社(元伊勢一宮)主祭神:天火明命
京都府,篭神社(元伊勢一宮)相殿:天照大神,豊受大神
兵庫県龍野市,粒座天照神社:天照国照彦火明神
鏡作坐天照御魂神社:天照国照彦火明命
饒速日という人物が出てくるが,この人物の別名であることが分かる。
篭神社でも分かるとおり伊勢神宮の神の上に位置し,天照という名を持つ神である。
「天照」という名の付いた神社の祭神は大抵この饒速日を祭っているのである。
「天照」とは天照大神を指すのであるから,天照大神を祭っていなければならないはずである。
饒速日は大和朝廷にとって大変重要な人物で,古代の天照大神は,この饒速日を指していたようである。
このようなことから,大物主は天火明命であり,饒速日命であることが分かる。
京都の大原野灰方町にある大歳神社は祭神は大歳神であり,石作連がその祖神を祭った神社であるが,次のような記録がある。
「石作連は火明命の子孫で,火明命は石作連の祖神という。」
これは,火明命が大歳であることを意味している。
大歳は,西日本各地で祭られており,中には
「大歳御祖」とか
「大歳御祖皇大神」
という名で祭られているところも多い。
「御祖」とか
「皇大神」
とかいうのは,他に「天照皇大神」と「豊受皇大神」ぐらいしかなく,ともに伊勢神宮の神である。
この尊称はこの人物が皇祖であることを意味している。
スサノオの出身地である島根県に大歳を祭る神社が多く,飯石郡三刀屋町に大歳神社があり,
「神国島根」によると,
「須佐之男命出雲に於いて大歳を生み給い...」
と書かれており,大歳神はスサノオの子であることが分かる。
つまり,饒速日命はスサノオの子ということになる。
スサノオの住んでいた島根県の須我神社を調べてみると,その摂社にスサノオの子が列記してあり,
その三番目に「琴平 大歳」と書いてある。琴平の神といえば大物主神であり,大物主神は大神神社の祭神である。
次に,大国魂神であるが,
名古屋市 国玉神社
祭神 大物主神
国内神名帳に「従二位大国魂神」と記録されている。
その他,全国の「国玉神社」「国魂神社」は,いずれも大物主神を祭っている。
これより,大国魂神は饒速日であることが分かる。
次に布留御魂大神であるが,茨城県の総社神社に布留大神はスサノオの子であると書かれていた。これも饒速日と考えられる。
饒速日は,そのほかに,
クラオカミ・
ワケイカズチ・
コトサカオ・
トヨヒワケ・
アメノミナカヌシ・
クニトコタチ・
カナヤマヒコ
として全国に神社に祭られている。
古代から大和に祭られて,朝廷が頻繁に参拝している神社には,いずれも饒速日尊が祭られており,スサノオの子である。
饒速日尊は大歳御祖皇大神として祭られていることが多く,皇祖であるらしい。
皇祖であるからこそ,大和の大きな神社にはすべて祭られており,歴代の天皇も参拝を欠かさなかったという事実が説明できるのである。
この人物は大和朝廷にとって大変重要な人物ということになるが,古事記や日本書紀ではほとんど登場しない影の薄い存在である。
日本書紀は饒速日尊をオシホミミの子であるとしているが,全国のどの神社を調べてもそのような伝承はない。
全国の神社に伝わっている伝承は,古事記や日本書紀とは別のものであり,複数の神社の関連を調べていって浮き出てくるものであるので,
これこそ真実を伝えていると判断する。
饒速日尊は,後の歴史改竄作業によって全国の神社から消されたが,完全に抹殺できず,方々に消し漏れがあり,
それによって真の古代史を判明させることができるのである。

古代史の復元
http://www.geocities.jp/mb1527/N1-03jinjanokami.htm
http://www.geocities.jp/mb1527/N1-02-1nendaisuitei.html
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm




































栃木市,大神神社 倭大物主櫛甕玉命
桐生市,美和神社 建速須佐之男尊,大物主奇甕玉尊
島根県,来待神社 大物主櫛瓶玉命
愛媛県北条市,国津比古命神社 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
兵庫県龍野市,井関三神社 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊


cxcxc pc


































































































































素戔嗚尊の生涯
西暦 年齢 出来事
BC37年 高句麗始祖朱蒙布流国滅亡させ、高句麗を建国

父布都御魂、日本列島へ船出する。
BC35年頃 素戔嗚尊、島根県出雲市塩津町石上神社の地で誕生。誕生後沼田郷に移動。
BC30年頃 5 布都御魂、出雲王八束水臣津野命と協力し韓国より先進技術を導入(国引神話)
BC20年頃 15 斐川町出西の久武神社の地に居住

奥出雲地方を訪問し稲田姫と知り合う。
BC18年頃 17 稲田姫と結婚し久武神社近くの稲城の森で新婚生活を送る。

ヤマタノオロチが稲田姫を奪う。

ヤマタノオロチを木次の八本杉の地で殺害し稲田姫を奪い返す。

八重垣神社の地に隠れ住む
BC15年頃 20 出雲国を建国し須我神社の地を都とする。

出雲国内を巡回する。

合議制の政治体系を確立する。
BC12年頃 23 対馬に赴き対馬国を建国。朝鮮半島への足掛かりを作る。

日本列島統一を決意。統一国家の名称を倭国とする。
BC10年頃 25 朝鮮半島に赴き先進技術を取り入れる。

中国山地を超え鞆の浦に瀬戸内海地方統一の拠点を作る。
BC5年頃 30 瀬戸内海沿岸地方を巡回し、先進技術を示し次々と倭国に加盟させる。
AD1年頃 35 瀬戸内海沿岸地域が統一される。

大分県宇佐地方を統一し、以後の九州統一の足掛かりとして宇佐地方に拠点を移す。
AD3年頃 37 大分川大野川流域地方の統一
AD4年頃 39 土佐地方の統一
AD5年頃 40 北九州主要部の戦乱を収め、北九州地方の統一完了

高皇産霊神との協力体制を確立。
AD10年頃 45 南九州地方統一に出発。宮崎の加江田にいた伊弉諾一族と出会う。

伊弉諾一族の娘日向津姫と結婚。
AD11年頃 46 伊弉諾一族の協力を得て、都城一帯を統一。拠点を東霧島神社の地に移す。
AD12年頃 47 鹿児島県国分地方一帯を統一し、拠点を鹿児島神宮の地に移す。
AD15年頃 50 拠点を再び安心院の地に遷し、ここに倭国の都とし、倭国の統治体制を固める。

伊弉諾命、伊弉冊命を伴って近畿地方統一に出発。
AD17年頃 51 山城盆地、近江盆地一帯の統一。

大阪湾岸地方の統一に失敗。

紀伊半島に回る。
AD20年頃 55 倭国の基礎固めを決意

伊弉諾命は紀伊半島の統治。

素戔嗚尊出雲に戻り、大国主命に対して越国統一を命じる。

伊弉冊命は出雲で製鉄事業を始める

安心院に帰還

大阪湾岸地方を統一するためにマレビト作戦を実行することとし、饒速日尊にマレビト集めを依頼
AD25年頃 60 伊弉冊命出雲で亡くなる。

素戔嗚出雲帰還。大国主命に第二代倭国王を譲る。佐田神社の地で隠棲する。

饒速日尊率いる天孫降臨団九州を出発
AD27年頃 62 出雲市唐川地区で製鉄作業を指導
AD30年頃 65 素戔嗚尊死去(製鉄中の事故と思われる)

唐川地区に埋葬



posted by datasea at 00:00| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月14日

2012年12月21日


2012年12月21日冬至の日 ミルキーウエイ銀河の赤道 太陽系の赤道 太陽 地球が直列する。 銀河の中心と距離が最も近くなる。 26000年に一度起こる (地球の歳差運動)。 26000年ごとに起こるリセット期。

Time Cycle
http://www.harmonion.com/Article2/J-Time_Cycle_Part-1_2012_Galactic_Alignment_12-21-12.html





この前このような直列が起こったのは26000年前となる。 西暦前24000年ごろ。 新人 (クロマニヨン人) が現れて Venus of Willendorf などのアートをクリエイトしたころです。 旧人 ネアンデルタール人から 新人 クロマニヨン人への 新旧交代が起こったのが、この前の直列の時期 西暦前24000年に起こったことかもしれません。 まさに人類の歴史にリセットがかかった感じです。

Time Cycle
http://www.harmonion.com/Article2/J-Time_Cycle_Part-1_2012_Galactic_Alignment_12-21-12.html





変化はもちろん  Gradual ゆっくり起こり、一説 変化期は1980年から始まり、2016年ごろ収束します。

Time Cycle
http://www.harmonion.com/Article2/J-Time_Cycle_Part-1_2012_Galactic_Alignment_12-21-12.html









マヤの長老評議会は、マヤカレンダーでは「終末期の開始時期(2007年10月26日)から7年間(2015年まで)に時間の窓が開き、この期間にポールシフトが起こる」と述べています。
2012年10月22日

In Deep
http://oka-jp.seesaa.net/article/298542174.html





マヤ族には以下の伝説が部族的知識として根底に存在しているようです。
「かつてアトランティスにいたマヤ族は、1万3千年前と2万6千年前の2度、ポールシフトを経験した。この時の経験はマヤ族の部族的知識として蓄えられている」
という「部族的知識」を持つ彼らの未来観は次のようなものです。下は長老の言葉そのものではなく、長老にインタビューした人の記述だと思います。
2012年10月22日

In Deep
http://oka-jp.seesaa.net/article/298542174.html



2010.03.30
Ivan "Evon" Stein
マヤカレンダー/意識の進化
YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=x1EHGrCC8CY&feature=related
いまの変化がはじまったのが600億年前。現在にいたるまでに9つの時を経過している。今の時がはじまったのが2007年11月。経済崩潰がおきた時。そして今の時、カレンダーが終わるのが2011年10月28日。
それぞれの「時」は惑星の意識の進化のプロセスを意味する。
それぞれの「時」には7つの昼の期間と7つの夜の期間がある。それぞれの昼と夜にはそれぞれの意味がある。
マヤ暦「第1の時」の期間は約600億年前〜約8億2000万年前。600億年間。意識レベルは細胞(Cellular)。
マヤ暦「第2の時」の期間は約8億2000万年前〜約4100万年前。約8億年間。意識レベルは肉体(Mammalian)。
マヤ暦「第3の時」の期間は約4100万年前〜約200万年前。約200万年間。意識レベルは家族(Familia)。
マヤ暦「第4の時」の期間は約200万年前〜約10万2000年前。15万8000年間。意識レベルは部族(Tribal)。
マヤ暦「第5の時」の期間は約10万2000年前〜紀元前3115年。約10万年間。意識レベルは地域(Regional)。
マヤ暦「第6の時」の期間は紀元前3115年〜1755年。4870年間。意識レベルは国家(National)。
マヤ暦「第7の時」の期間は1755年〜1999年6月5日。249年間。意識レベルは惑星(Planetary)。
マヤ暦「第8の時」の期間は1999年6月5日〜2011年2月10日。360日間。意識レベルは銀河(Galactic)。
マヤ暦「第9の時」の期間は2011年2月10日〜2011年10月28日。20日間。意識レベルは宇宙(Universe)。

local pc






2012年12月21日
Crystalinks
http://www.crystalinks.com/2012.html
2010年
2012年12月21日は地球に大きな変化がおきるという予測がある。この予測はマヤ暦の「時の終わり(第4の世の終わり)」に基づくもの。マヤ暦ではひとつの世の期間を25,800年だとしている。そしてこれは銀河系のサイクルの長さと同じ。そして「時の終わり(第4の世の終わり)」の時代にブラックホールとの直列、惑星の通過、ポールシフトがおきるだろうとしている。
マヤ長期暦では13個目のバクツン( b'ak'tun )のサイクルがおわる時。グレゴリオ暦では 3114BCE 8月11日にあたる。ユリウス暦では584283にあたる。マヤ暦はマヤ文明の暦。5,125年前に記録がはじまった。マヤ文明は西暦 300年から900年ごろ全盛期をむかえた古代文明。分析によると、この時期、地球と地球にすむ生物にいわば変身がおきるという。

local pc






4つのサイクル
Metaphysical Musing
http://www.inannareturns.com/articles/time.htm
4つのサイクル(時代):
1 カリタ・ユガ(サットユガ)、黄金の時代。
2 トレタ・ユガ、儀式の時代。
3 ダパラ・ユガ、疑いの時代。人は神を忘れ自然の法則から逸脱する。
4 カーリ・ユガ、混乱と混沌の時代。紀元前3012年に始まった。現人類はここにあり世界は荒廃している。
ヒンズー教のサイクルの理論を学び、あなたは現在の社会の混乱がこのサイクルからきていることを学ぶだろう。我々が 現在混乱(カーリ・ユガ)の時代に生きていることを考えれば、現在の社会の混乱について納得がいく。私にとって正確な年数より大切なことは、我々が生きている今という時代は、過去のサイクルにおいて前例のない時代だということである。我々の多くは歴史は教科書にかいてあるような文明からはじまったと誤解している。しかしそれは退廃した文化によって書かれた歴史である。真実の解明というよりも人類の共通の認識をつくるといった意味合いがつよい。

local pc





マヤ・カレンダーではひとつの時代は5125年とされます。 

Time Cycle
http://www.harmonion.com/Article2/J-Time_Cycle_Part-1_2012_Galactic_Alignment_12-21-12.html







地球の軸はコマの軸がフラフラ回るように、26000年くらい、もすこし正確には25800年くらいかけてぐるっと一回りします。自転の方向とは逆に回ります。
軸が延びていった先が天の北極ですから、時代によって
上の輪っかの目盛りは、大ざっぱに大体2000年です。黄色の矢印のところが現在21世紀初頭。ちょっと輪と北極星は、ずれてるでしょ。バッチリ一致しているわけではないのです。
26000年というと、とんでもなく長く感じますが、キリストが生まれた2000年ほど前(割と最近)は、今の北極星はだいぶ離れていて、全然北極星ではなかったのです。
紀元前3000年、古代エジプトの初期王朝のころは、りゅう座のツーバンという星が北極星の役割をしています。ギザの3大ピラミッドはBC2500年代頃のことだから、目盛りの4分の1くらいずれる。
西暦8000年、つまり今から6000年くらい経つと、ケフェウス座のアルデラミンが北極星になります。
西暦10000年、つまり今から8000年くらい経つと、白鳥座のデネブが北極星となります。ちょっと離れてるけどさ。まぁ、大体。

midearth
http://www5e.biglobe.ne.jp/~midearth/bessatsured/hoshi/polaris.htm








氷河期の終わり
Terrence Aym
2012年10月1日
Before It's News
http://beforeitsnews.com/science-and-technology/2012/10/atlantis-found-giant-sphinxes-pyramids-in-bermuda-triangle-2475944.html
Plato(プラトン)
「古代の氷河期の終期、海水位は約400フィート上昇したが、この時の水位上昇はあっという間におきた。当時のアトランチス文明のテクノロジーをもってしてもこの事態に対処する事は不可能だった。」。
前回の氷河期の終わり、気温の上昇によって氷が解け、特に北半球の海水位は急速に上昇、陸地の沿岸地帯から海面下に沈んでいった。島は消え、所によっては大陸さえも水面下に消えた。キューバ諸島沖は大昔は陸地だったが、海水位上昇により海底に沈み、高地の一部がキューバ諸島として陸地として残ったのだろう。
Terra Forming Terraのレポートによると、これらのピラミッド群( Cuban Subsea Pyramid Complex)をはじめとする遺跡が海底に沈んだ時期とアトランチス文明滅亡の時期は一致するという。
Terra Forming Terra
「キューバプレートとユカタンプレートの接合部は構造的に弱い。12,900年周期で発生する気候変動で増えた海水の水圧はこのエリアのプレートを圧迫し、破ったのではないか。」。

local pc










posted by datasea at 05:00| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする