■隼人
隼人は山幸海幸神話(幸易説話)に出てくる海幸ことホノスセリノミコトを祖とすると記録されている。だから本来ならば天津神系ということになる。それにもかかわらず九州の異族として次に述べる熊襲と並んで古代朝廷に反抗した九州のチャンピオンとされているものだからいささか奇妙である。ということは山幸(ホオリノミコト=ヒコホホデミ)に海幸が破れて 服属することになったことと,紀記編纂の時点で隼人がすでに大和朝廷に服属していたことをこの伝承に結びつけた理由であろう。あるいはホスセリはホオリ(天孫系)と九州で張り合って敗れた先住民の首長であったとも考えられる。むしろ後者のケースの方がより現実であるかもしれない。。
さて「隼人」の名称であるが,本居宣長は「早人(ハヤト)」つまり勇猛果敢で行動が敏速な民族であったことからのネーミングであると『古事記伝』で説いている。
また喜田貞吉博士は「隼人」の「ハヤト」を地名と考えた 。すなわち中国の史書『新唐書』に
「ソレ東海ニ邪古(ヤコ),波邪(ハヤ),多泥(タネ)の三小王アリ」
という一節から邪古(ヤコ)は夜句(ヤク),つまり屋久島,多泥(タネ)は種子島,そして波邪(ハヤ)もやはり屋久島と種子島の近くの地名であると考えた。その波邪(ハヤ)島に住む人,つまり「波邪人」がつまって「隼人」と呼ばれるようになったというわけである。
■熊襲
現在の私たちにはよく知っているいわゆる「異族」は「熊襲」と「隼人」であろう。
この熊襲であるが,これは隼人と同一とみなす考えもある。また『魏志倭人伝』で言う倭人の子孫であるとした学者もいた。本居宣長は「熊」を勇猛の意味に,「襲」を「おぞましい」が詰まった「オゾ」がつまった語でやはり勇猛の意味と理解して,日向の南半から大隈,薩摩にかけて住んでいた勇猛な部族であるとした。
また明治に入るとクマ族とソ族を合わせた名称という見解が出てきた。つまり
クマ族=クマ人=隈人=僻地の住民
ソ族=ソ人=背人=山の陰の住民
で前者は熊本県の球磨郡,後者は鹿児島県の曽於郡にその名をとどめているが,その両者をあわせて球磨郡になったという説である。
また「熊」は「コマ」で「高麗」,「襲」は「シ」で「新羅」であって,つまり朝鮮半島から渡来した新羅人であるという説もあった。確かに紀記では熊襲が新羅と共謀して叛いたという記録もある。そのため神功皇后は熊襲を討つ前にその背後の新羅を征伐している。しかしこの見解は日韓同祖論者の金沢庄三郎のものであるだけにいささか朝鮮傾倒の観がないでもない。
■肥人
鎌倉時代に成立して日本に現存する最古の図書目録とされる『本朝書籍目録』に「肥人書五巻」と記されている。
肥人とは古代に西九州の海岸地帯で漁業生活を営んでいた人々とされるが,これは 記紀には載っておらず万葉集に出てくる。
肥人の額髪結へる染木綿の
沁みにし心われ忘れめや
したがって肥人の実在したことだけははっきりしているが,詳細は万葉集のこの歌から伺える若干の風俗以外は不明である。ただこの肥人が古史古伝で注目されたのは肥人書が 神代文字で書かれていたという平田篤胤の説からである。
ただ平田への批判者である大伴信友は肝心の肥人書の実物がない,証拠がないのだからと軽くいなした。一方近代に入って早稲田大学の教授であった西村真二が『日本文化史概論』でこの肥人書について中国西南部の苗部族の書でないかはないかとしていた。ということはこの肥人はあくまでもコマビト(高麗人)ではなくて照葉樹林文化複合をもってインドシナ半島か中国南部から渡来した人である可能性が大きいことを意味している。
実際 『万葉集』の歌を読めば,額の髪に草木染めか何かの木綿の布をアクセサリーとして巻いていたという可憐な若い女性のイメージは,安南とかカンボジアの苗族系のエキゾチックな風俗を思い起こさせるものである。
この肥人が紀記にその名前をとどめなかったのは,おそらく彼らが例えば 熊襲,隼人,蝦夷などと違って,権力に抵抗したり反逆したりしないで平和な温和な人々であったからであろう。
■土蜘蛛
紀記から伺われる日本列島の先住民として熊襲,蝦夷と別に「土蜘蛛」が重要である。神武天皇東征の際も抵抗感して「誅」されたし,
景行天皇は九州中部(豊後)の「土蜘蛛」をやはり「誅」したとある。神功皇后も九州中部(筑後山門県)の土蜘蛛の首領である田油津媛を「誅」したという。
紀記以外にも『日向風土記』には天孫降臨の際に大柑,小柑という二人の「土蜘蛛」が出てきて悪天候に悩まされていたニニギノミコトに助言した旨を記録されている。『日向風土記』以外にも豊後,備前,摂津,常陸,陸奥,さらに越後の風土記にも土蜘蛛の記録がある。つまり土蜘蛛と称された先住民は九州〜近畿〜東国にわたって広く分布していたわけである。
その土蜘蛛と称された民族は,紀の神武天皇の条によれば,外観は身長が低くて足が長く,小人に分類される人間であったという。また『日本書紀』の現存最古の注釈書である『釈日本紀』によれば彼らは穴居住居に生活をしていたためにこの名称が生じたとある。
性格は一般に温順であって,天孫降臨の一行が悪天候で困っていた時に助けたし,また神功皇后の三韓征伐の際に遭難した軍船を救助したりしたように ,外来者に対しても親切である。したがって彼らが反抗したいというのはよっぽどのことだったに違いない。
■毛人
中国の史書『宋国倭国伝』に倭王武(雄略天皇と比定されている)の順帝への上表文が載っている。その中に
「東ニ毛人五十五国を制ス」
という一文がある。この「毛人」は紀記成立の年代では「エミシ」と呼ばれていることから「蝦夷」と同じではないかと考えられてきた。しかしこの上表文には
「渡リテ海ノ北九十五国ヲ平グ」
という文がある。これは朝鮮半島の国を征服したと理解されてきた。それに対して水野祐氏は
「海ヲ渡リテ北ニ九十五国ヲ平グ」
と読んでこの95国を日本列島の太平洋沿岸の北部,東北地方の太平洋沿岸を征服したと解すべきではないかと考えている。そしてこれが日高見国であって蝦夷の国であるから毛人とは別であると推定される。
「毛人」という名前からまず「毛深い人」というイメージが出てくる。ここから毛人=アイヌという線が考えられたのだろうが,多毛=アイヌ人というのは論理に若干飛躍がありそうだ。しかも「毛人」と「蝦夷」が武の上表文の文脈からして別々の存在であるのだから「毛人」は「蝦夷(日高見)」ではなく,しかも中央=畿内からみて北の地域の先住民が「毛人」ということになる。とすれば古来「毛野国」と呼ばれた関東地方北部の地域,さらに言えば毛野国に加えて関東地方の太平洋に面した地域に住んでいた人々が「毛人」ということになるだろう。ちなみに朝鮮の人々に比べれば日本列島の先住民族系の人々は概して毛深いが,中でも特に毛深い人々が「毛人」と呼ばれたのかもしれない。しかし人種的にはどのような人々か?その点について水野氏は
「アイヌ人であったかどうか甚だ疑問とされ,毛人が全てアイヌ人 だったと断定する勇気を私は持っていない」
と述べている。
■蝦夷
蝦夷こそ隼人,熊襲,毛人などが抵抗を辞めた後も依然畿内朝廷に抵抗を続けていた先住民族のチャンピオンと言えるだろう。
この蝦夷の「蝦夷」の名前が最初に出てきたのは『日本書紀』の『景行天皇紀』である。すなわち景行27年2月の武内宿禰の言葉である。
「東ノ夷(ヒナ)ノ中ニ日高見国アリ。ソノ国ノ人男女並ビニ髪結ケ身ヲ文ケテ為人勇ミ怖シ。是レ総ベテ蝦夷ト曰フ。土地肥沃ヘテ広シ。撃ッテ取リツベシ」
この言葉は景行25年7月,天皇の命を受けて北陸と東方の諸国を偵察して27年3月に帰還した武内宿禰の報告である。終わりの「土地肥沃ヘテ広シ。撃ッテ取リツベシ」がスゴイ。これは美辞麗句の底にある本音をずばり表現したものである。しかし景行天皇は慎重であった。彼が 蝦夷征伐に踏み切るのは熊襲征伐が一段落して12年後,景行40年7月であった。
ー佐治芳彦,日本国成立の謎,
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