2019年07月14日

先代旧事本紀大成教: 失われた古代日本文献

先代旧事本紀大成教: 失われた古代日本文献
ウエツフミとウガヤフキアエズ王朝の研究
----大分に実在した古代国家----
11日 7月 2019
⬛聖徳太子が始めた古代史編纂プロジェクト
みなさんもよくご存じの『先代旧事本紀』という古文書、正確にはこれを『さきつみよの ふるみことの もとつふみ』と読みますが、2種類の記述が伝わっていることをご存知でしょうか?
ひとつは、物部氏が信仰するニギハヤヒが中心に語られた『先代旧事本紀』であり、
もうひとつは、その記述内容が不明となっている『先代旧事本紀 大成教』なのです。
「大成教」が付くか付かないかだけで、全くその記述内容が異なっているのは、なぜなのでしょうか?
無理もありません。
聖徳太子の時代には、少なくとも7種類以上の神話が伝わっていたからです。
しかも、その内容がバラバラなうえ、それを大事に守り続けてきた一族だけの極秘扱いで門外不出となっていました。
だからこそ、聖徳太子はこれらを統一しようとしたのですが、不幸にも志し半ばにして亡くなってしまいます。
その後、物部氏が完成させたものが
『先代旧事本紀』
推古天皇が完成させたものが
『先代旧事本紀 大成教』
だと考えられています。
⬛神道サミット in 飛鳥時代
まず、聖徳太子自身は、一体どんな考え方で、何を行おうとしたのか?
をざっと見てみましょう。
幸いにも聖徳太子自身の言葉が、推古天皇が書いた『大成教』の序文に残されているからです。
【出典】神代皇代大成経序
<聖徳太子の主張>
我が国は神国であり、天皇は日の神の子孫である。
だから神の徳が盛んなときは国家も豊かであり、神の真理が正しく行われているときは政治も隆盛である。
しかしながら、最近の歴史家たちは、隠したり、偏ったり、あるいは私利私欲に走ったりして、本当の歴史が徐々に失われつつある。
だかこそ今、古代の天皇たちの功績を明らかにして、それを正しく記録し、後代の天皇の参考とすることができなければ、神道とわが日本国は滅んでしまうことであろう。
この大演説を聞いた推古天皇はただちに賛同して、こう述べます。
「聖徳太子の思うことは、私も常に考えていました。すぐにそれを実行しなさい!」
さっそく、下記のとおり「編集委員会」が招集され、それぞれの家が秘蔵していた「神代文」を全て提出するようにとの勅令が出されます。
そのメンバーと、彼らが信仰していた神々を(私の推測も交えながら)一覧表にしてみました。
どうですか、このメンバーを見ているだけで、「いかに日本神話をまとめあげるのが難しいか?」ということが、切々と伝わってきます。
この大事業にキャッチフレーズを付けるとするとすれば、
「神道サミット in 飛鳥時代」という感じでしょうか?
聖徳太子にしかできなかったこの大事業は、ある意味で「日本国をひとつにまとめ上げる」ための大切なプロセスにほかならなかったのです。
そして会議は踊る
この『神代皇代大成経序』から読み取れる編集会議の様子を、レポートしてみます。
そこには、異文化同士の不協和音がみごとに表面化してしまいました。
最初からまとまるはずも無かったこの難事業は、それぞれの家系のエゴがもろに対立する様相となり、最終的には物部氏と蘇我氏の全面戦争へと発展してしまいます。
⬛プロデューサー・聖徳太子
よく、聖徳太子はユダヤ人であるとか、キリスト教徒であるとか、まことしやかな迷信が拡散されていますが、全く違っていました。
彼は、あくまでも教養として仏教・儒教・景教などありとあらゆる宗教や思想を学んでいますが、どれも日本人にはふさわしくないと結論付けています。
つまり、聖徳太子自身は、ガチガチの神道人であり、愛国者であり、天皇家擁護派でした。
そのことがよく分かる記述をここに添付しておきます。
「外国の思想や宗教は、外国人のものであり、これを用いるべきでない。
ペルシャ人たちの“人はもともと罪人”であるという考え方は、日本人向きではない。
また、“人が人を仁義で支配する”という中国の思想もなじまない。
だから、唐土では常に政権争いが絶えないではないか。
さらに、天竺の仏教も、修行に重きを置きすぎて人間性を軽視している。
わが国は、神が治める国であり、その下に平等で正直(まめやか)な人民が居るのであって、これを「神祇の法」という。
だから、神国であるわが国には正しい歴史書が必要なのだ。」
【出典】神代皇代大成経
編集長・蘇我馬子
この大事業が託された編集長は蘇我馬子であり、彼は皇室に伝来していた
『ウチツフミ(内つ録)』
つまり『帝紀』を預かります。
なぜ聖徳太子はこの人物に絶大な信頼を置いていたのでしょうか?
大分県に伝わる『真名野長者伝説』には、二人の意外な関係が書かれています。
それは、聖徳太子と蘇我馬子は腹違いの兄弟、または伯父と甥の関係にあたるということです。
肉親だからこそ、安心して全権を委任できたんですね。
さらに、蘇我馬子の出自を詳細に伝えているのが『百合若説教』であり、それには「真名野長者の後継ぎ息子は幼名を百合若といい、都に出て大臣となった。」と書かれているのです。
一方、聖徳太子は真名野長者の娘に用明天皇が孕ませた私生児であり、ともに真名野長者ファミリーでした。
つまり、彼らのバックには真名野長者という大金持ちがスポンサーについていたということになります。
いずれにせよ、蘇我氏の一族はいわずと知れた仏教徒であり、しかも日本で最初に仏教を導入した先駆者でした。
だからこそ、日本の神々と仏教思想と結びつけるという、いわゆる「神仏習合政策」を行おうとしていたのです。
編集委員・物部守屋
これに対して猛反発したのが、物部守屋でした。
彼の祖先は由緒正しい軍人(物部とはモノノフの部の民)であり、当時はタカ派の最先端を自称する、いうなれば裏の世界の大ボスだったようです。
この編集会議の席でも、「その昔、盗人の東漢直駒(やまとのあやのあたひこま)に命じて崇峻天皇を暗殺させたのは私だ!」と、大スキャンダルを告白して、編集委員のメンバーを恫喝しています。
つまり、「オレのいうことを聞かないと怖いぞ」ということなのですね。
彼は、自分たちの祖先であるニギハヤヒが無視されていることに我慢がならなかったようです。
その後、蘇我氏と全面戦争になることは歴史が伝えているとおりです。
さらに、聖徳太子を暗殺したのは、この物部守屋ではないか?とする説もあります。
編集委員・中臣御食子(みけこ)
この物部守屋に、かなり賛同していたのが、中臣御食子でした。
この頃の中臣氏は、まだ藤原姓を賜る以前の弱小氏族であり、悪く言えば「風見鶏」的な態度が目につきます。
この編集会議の席でも「私の祖先の鎌子連(鎌足とは別人)は、欽明天皇の時代に物部尾輿とともに、蘇我稲目の仏像を焼きましたが、今にして思えば大変な愚挙でした」と反省するそぶりを見せながら、暗に蘇我氏の仏教に反対する態度を表明しています。
また、「聖徳太子は若い頃、仏教に傾倒して臣下の者たちに8つのお経を勉強させ、仏教と儒教の2つの教えを導入しようとしました。
これに守屋と勝海は“若気の至り”と反発しましたが、神は怒りませんでした。(今にして思えば)この2教の排斥は明らかに先人の犯した誤りでしたが、歴史にはハッキリとそう書き記す必要があります。」と、暗に聖徳太子を批判しているともとれる発言をしています。
よくいえば、流れを読むことに長けた知識人であり、別の意味では自分の意見をハッキリと述べない慎重派。
だからこそ忌部家を追い出して、天皇家の神事を独占してゆくのです。
このあたりの経緯は『古語拾遺』に詳しい。
そして、のちに中臣鎌足が中大兄皇子と組んで、蘇我氏一族を完全に滅ぼしてしまうことはご存知のとおりです。
編集委員・忌部家/卜部家
最後までこの編集事業に「非協力的な態度」を採っていたのが、忌部家と卜部家でした。
なんと彼らは、先祖伝来の『土笥(はにはこ)』を隠して、その提出を拒否していたのです。
その土笥のいわれとは、
「磐余彦(神武天皇)の時代に、豊天富命と天の種子命が、これを神魂と称して土笥に入れて、元つ祠に安置したもの」であり、
事務局の小野妹子が平岡宮(大阪の枚岡)に取りに行き、同じく秦河勝が泡輪宮(千葉県の安房郡神戸村)に取りに行って、それぞれ聖徳太子の御前に提出されます。
そにに収められていた『土簡(はにふだ)』と『五十筒(いそもの)』は、改ざんされていない原文であると分かり、そこに書かれていた記述内容から、やっと本当の古代史が判明したと聖徳太子は喜んで、その原典をもとの場所に返します。
なお、6人の編集委員それぞれの家(これを六家という)には、このような「神代文」が伝わっていたということであり、それらが『旧辞』と呼ばれていたようです。
事務局・小野妹子/秦河勝
上記の逸話から、聖徳太子がこの2人を信頼して重用していたという事実が伝わってきます。
ただし、あくまでも優秀なテクノクラートとして、あるいはアシスタントとして彼らを使っていたということであり、聖徳太子と秦河勝は同一人物だなどと唱えている方は、もっと古文書の原典を読むべきだと思います。
その他の編集委員
あとここに登場する、アチ家(吾道の字が充てられている)、出雲家、三輪家の御三家ですが、人物名さえも書かれていませんが、現在でも重要な家系であることは間違いありません。
ただし、アチ家に関しては、ほとんど行方不明となっているので、私のほうで推測で書いています。
詳しい情報をお持ちの方はぜひお知らせください。
⬛聖徳太子亡きあと
さてさて、この編集作業が終わらないうちに、聖徳太子が没してしまったことは、前にも書いたとおりですが、ここから編集委員会は事実上の空中分解となります。
なぜなら、蘇我氏と物部氏の対立が激化して、激しい暗殺合戦となってしまったからです。
実は、このことを聖徳太子は予言していました。
「私が密かに天運を読んだところ、おそらくこの書は、近いうちに滅びるであろう」と・・・・。
聖徳太子はこのことを大いに嘆き、密かに自筆の原稿を隠しておいたのです。
その遺稿を受け継いだ推古天皇は、これに自ら筆を加えて歴史書を完成させ、それを『大成教』と名付けました。
やっと聖徳太子の意志が“大成した”という意味にもとれますが、正式にはこれを「ふとみなしののり」と読み、
「我が日本国の成り立ちを示す根本の教え」
という意味なのです。
ところで、このとき聖徳太子は歴史書以外の遺稿も多く残していました。
もっとも有名なものは『未然記』という予言の書なのですが、そのほかにも、医学・陰陽道・暦・占い・兵法・言語など全部で20篇、8書にもおよぶ膨大なものでした。
これを推古天皇は、世に発表すべきかどうか迷ってご神託を立てます。
つまり、発表すれば誰かに消されるのではないかと危惧していたのです。
中臣御食子が伊勢神宮に行って天照大神に伺いを立てたところ「入れるべし!」とのご神託が下ります。
このような経緯で『大成教』はようやく完成し、「五十の鈴宮(伊勢神宮)」
「大三輪の宮(大神神社)」
「四天王寺」
の三か所に奉納されました。
ちなみに、この『大成教』の序文である『神代皇代大成経序』は次の一文で終わっています。「時に、我が人の皇、皇極を立て、一千百四十有り五年也」つまり、
「わが天皇家の祖先が、皇室を起こしてから、1145年が経った」
ということであり、逆算すると紀元前500年ごろとなるのですが、この人皇を「神武天皇」と解するのか、「ニニギの命」と解するのかは、現在でも学説が分かれています。
⬛聖徳太子の悪い予感が当たる
このように、推古天皇が苦労してまとめあげた『大成教』ですが、現在では正しく伝わっていません。
それどころか、下記の通り大混乱の状態となっているのです。
例えば、
推古天皇自身が書いたとされる「序文」は2種類発見されています。
そのうちのひとつが、ここにご紹介した『神代皇代大成経序』なのですが、このほかにも『大成教序伝』という別の序文があります。
一体どちらが本物なのか分かりませんが、誰かがあとから全く別のニセ物を付け加えたとしか思えません。
つまり、本当にヤバいことが書かれていたので、当事者の子孫たちが攪乱工作を行ったのでしょう。
現在伝わる『先代旧事本紀』には、「天孫降臨したのはニギハヤヒであり、そのお供(物部氏の祖先が多く含まれる)を何千人も連れて大和に降臨した」と書かれています。
日向の二神山に降臨したとされるニニギの命は、一体どこに行ってしまったのでしょうか?
そのエッセンスは『竹内文書』にも引き継がれています。
多分、このニギハヤヒに関する記述は、滅ぼされた物部氏の子孫たちが、未完成の『先代旧事本紀』に大幅な加筆修正を施して、自分たちの祖先神を入れ込んできたものではないかと思われるのですが、確固たる証拠がありません。
もっと分かりやすくいえば、
「ニギハヤヒの子孫である物部氏こそ本来の皇族である」
ということになりますが、誰が書いたかは自明の理というものですね。
とどのつまりは、江戸時代に発生した『伊雑宮事件』です。
延宝七年(1679)、戸嶋惣兵衛の店からこの『大成教』が出版されたのですが、そこにあった下記の記述が大問題となり、当時の江戸幕府はこの『大成教』を偽書であると断定して、関係者が処分されます。
「アマテラスを祀る社は伊雑宮であり、内宮は星神ニニギ、外宮は月神ツキヨミを祀る」
【参考サイト】https://blog.goo.ne.jp/tabijinja/e/52f7ad0d7ad4d1eb0def7fffe58941ba
さてさて、この事件では伊勢神宮のご由緒だけにスポットが当てられていますが、最も大切なことは、「そのほかの部分に何が書かれていたのか?」なのです。
いずれにせよ、この事件が起こってから『大成教』は徹底的に弾圧され、現在伝わっている写本でさえ、それが本物であるという確証はどこにもありません。
聖徳太子の予言どおり、すべては闇の中に消えてしまったのでしょうか?
⬛結びにかえて
さてさて、日本神話という未知の世界を論ずる人間は、そこに無数の異説が存在することを忘れてはなりません。
なぜならば、もともと日本民族はひとつでは無かったからです。
飛鳥時代でさえ、天皇家と6つの名門家系が伝えてきた神話はそれぞれ異なっていたのですから、それらを俯瞰的に眺められる聖徳太子のようなマルチな視点が必要なのです。
つまり、どんな家系がどんな神話を伝えてきたのかを理解しておけば、古代史の真相がもっと現実味をおびてくるはずです。
なぜなら、推古天皇自身もこう述べているからです。
「神代の歴史書は、それぞれの絶体的真実を追求して、しかも天皇家の一本化を図ったものばかりである。この書は、各家の記録を集めてはじめて天下の公式文書とし、そこに聖徳太子の研究成果を付け加えて解説し、最終文書とした。」
なんとしても読んでみたいこの『大成教』ですが、その原典は果たしてまだ存在しているのでしょうか?

ウエツフミとウガヤフキアエズ王朝の研究----大分に実在した古代国家----
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2018年04月19日

未来記

「未然記」は1000年間の予言が記されているという。
それは西暦622年に始まり,1000年間の国事に関する森羅万象の予言が未然に記録されていることになる。
だからといって西暦622年から西暦1621年までの1000年だけの事件を記録する予言書ではない。
なぜなら未然記の最終巻「第十百歳」の中に,
「過去1000年の世の中を知り未来に起こる1000年のことを知る」
と記されているからだ。
これにより未然に防ぐ記録に一緒に年分の予言しかなくてもその時の予言後もその中に含むことが判明する。
さらに
「未然記を未来記とともに解く者は,未来の出来事をさらに深く解することができる」
と書かれている。
ー聖徳太子秘文「未来記」録開封,徳間5次元文庫

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聖徳太子はあまりににも謎が多い人物である。
天皇家の血筋でありながら推古女帝に仕える摂政に甘んじ,聖人としての政治を行い,日本の舵取りを過たなかった。
そのため現在では「真実の天皇」の意味で「裏天皇」とも称されている。
そのブレインがまた謎に満ちている。
当時,聖徳太子と謎の一団の関わり方は尋常ではなく,その一団の名前は「秦氏」と言う。
歴史的に秦氏は帰化人である。 応神天皇の頃,朝鮮の百済を経由して,渡来したとされるが,実際には新羅経由で渡来していることが判明している。 にもかかわらず,「日本書紀」では百済経由と偽っている。 国の歴史が偽る理由は1つしかない。出生を隠すためだ。 日森氏氏子の使った瓦家紋は新羅系の八花弁の菊紋で,氏寺のある京都市の「広隆寺」に安置されている「弥勒菩薩半加思惟像」も新羅系の仏像である。
さらに秦氏は始皇帝の死後におきた戦乱によって,始皇帝が築いた秦国から流れてきたと言うが,もしそうなら漢系の民族となる。
ところが大陸から当時の馬韓/朝鮮半島へと入ってきた秦氏を,魏の国史である「三国志」,「魏史・東夷伝・韓伝」は風俗習慣が全く違う「秦人」と記しているのだ。
漢民族ではない,「柵外の民族」の意味なのだ。
つまり聖徳太子のブレインだった秦氏は,出生も渡来までの経緯も謎だらけの民族なのである。
「未然紀」は「先代旧事本紀大成経」の69巻目として編纂された巻物で,聖徳太子の予言を書き記ししている。
一方の「未来記」はそれ自体が独立した預言者になっている。
法隆寺の秘宝を収める鋼封蔵[とうふうぞう]に長年隠されてきた「善光寺如来御書箱」なる秘宝がある。
それは聖徳太子が長野県長野市にある「善光寺」の阿弥陀如来と3度にわたって交わした巻物とされ,現在法隆寺は表向きには開帳しない姿勢をとっている。
しかし善光寺如来御書箱の内箱には,徳川家の家紋である葵の紋があり,その中には南北朝時代の特徴をもつ“錦の袋”が入っている。
南北朝時代と言えば後醍醐天皇の頃で,それが秘宝であるのに開けられた証拠がある事は,両方の時代に門外不出の「未来記」も開帳された可能性が出てくる。
それを読んだ楠正成の時代が,後醍醐天皇の頃と一致するのである。
善光寺如来御書の箱が開帳された理由は,法隆寺とは言え権威に逆らえなかったからである。
同様に四天王寺で楠正成が「未来記」を閲覧した経緯についても,一地方豪族のために秋之坊当大僧正が秘蔵の予言書を閲覧させるとは思えない。
その裏に正成が支えた後醍醐天皇の勅命があったと考える方が理にかなう。
国立国会図書館から「未来記」,「未然紀」の両方の書類が揃い出た時,さすがの私もあっけにとられたが,その後「高野山大学」にも「未来記」があると分かり,東京都内の某図書館にも「未来記」が保管されているということが判明した。
高野山大学は空海が開いた「金剛峯寺」(和歌山県伊都郡)に関わる大学で,空海と言えば秦氏が後ろ盾となって唐に送り込んだ弘法大師のことである。
弘法大師はわずか半年で長安の恵果から唯一の密教継承者として認められ,大陸から仏教の奥義を持ち帰り,「真言密教」の開祖となった人物だ。
その大師が訓話の中で,神道と仏教と儒教は同じ根から派生したと解き明かしている。
同じ頃唐から戻った最澄が,密教奥義の伝授を大師に依頼するも,あなたには無理だと諭されている。
これを高慢と捉えてはならない。
密教は奥義であり,誰にでも明かすのではないとされている。
ユダヤ密教では,それを「カッバーラ(カバラ)」と称し,天が選んだ者以外に伝授すれば,受けた者が自滅することを教える。
授けるのは天の意思であり,それがないと授かってはならないのだ。
実際カバラの意味は受動的な「授かる」の意味で,自ら欲する能動的な意味を含まない。
つまり最澄は知識があっても天から選ばれなかったことになる。だから大師はそれを最澄に伝えただけとなる。
カッバーラと真言密教に何の関わりがあると思う人もいるだろう。
ユダヤと日本ならなおさらだ。
しかしこのように言えばどうだろうか?
カッバーラは“雷の閃光”を象徴とする啓示を要として予言をその奥義としている。
その構造は“3本の木”で象徴されて,三柱構造を神界の仕組みと説いている。
それと同じ構造が京都の太秦[うずまき]にある。
秦氏を祀る「蚕の社」に立つ「三柱の鳥居」である。
ここにも秦氏が登場してしてくる。
蚕は「シルクロード」を暗示し,実際シルクロードの出発点は中東イスラエル付近であり,終着点は極東の日本である。
出発点と終着点両者が無縁であった道理は無い。
ユダヤ密教の三柱構造を解き明かしたのはイエス・キリストとされている。
イエス・キリストは「天の父」,「子」,「聖霊」の三柱の神を明らかにして,それが故に奥義に通じていなかったユダヤ人が,一神教を冒涜したとしてイエスキリストを十字架につけたのである。
そのイエス・キリストは磔刑3日後に復活して蘇ったと新約聖書は伝えている。
「この時から,イエスは自分が必ずエルサレムに行って長老,祭司長,律法学者達から多くの苦しみを受けて殺され,3日後に復活することになっている,と弟子たちに打ち明けられ始められた」
ー新約聖書マタイによる福音書第16章21節
しかし彼らはイエスが生きておられることを知りそして盛り上がっ
それを背負う一族が聖徳太子の頃にいた。
「蘇我氏」だ。
「蘇我」は「我は蘇り」と書き,
「蘇我馬子」は「我が蘇った馬小屋の子」となり,「イエス・キリスト」を暗示する。
「イエスは言われた。私は復活であり命である。」
ー新約聖書,ヨハネによる福音,第11章25節
新共同訳聖書ではなく,欽定訳聖書では以下のようになりさらに明確になる。
「イエスが彼女に言われた。
私は蘇りなり,命である。」
ー新約聖書ヨハネの福音書第11章25節
さらに別の訳では,
「我は蘇りなり,生命なり」とあり,蘇我氏の素性を示している。
「蘇我」と同じ意味を持つのが「厩戸豊聡耳皇子(厩戸皇子)だ。
このことから蘇我馬子と聖徳太子は同時人物の可能性が出てくるが,この事は別の機会に譲る。
では次の事例はどうだろう?
「三本の木」は,「三木」家の「三木」。
秦氏を漢破字法で分解すると,
「三・人・ノ・木」
で三柱と同じ意味になる。
偶然だろうか?
古来,日本人は雷が鳴ると
「くわばら,くわばら」
と呼んで何を避けたが,
「クヮバラ,クヮバラ」で
「カバラ,カバラ」
と叫んでいたことになる。
つまりカバラによる「雷の閃光」の意味である。
さらにクワバラは「桑原」で,
「桑」は
「又・又・又・木」
となり,
又× 3本の木と似通ってくる。
実際「又」の解字体は「∂」で,その意味は「三叉の右手」である。
三叉路は三柱構造,右手はユダヤで聖なる手と教える。
その桑の木が生える原が「桑原」で「高天原」と同じ意味を示す。
実際,陰陽師を古来「漢波羅[カンバラ]」と称した。
だから「クワバラ」が雷避けのまじないとなった。
「高天原」は天照大神が治める神界。
「天照大神」を漢字で分解すればどうなるか?
「大嘗祭」を仕切る京都市・下鴨神社の書き順にならうなら,
天=工・人
照=日・召・炎
大= 一・人
神=ネ・申
となり,統合すれば
「炎の日の神に召された1人の大工と申す」
となる。
大工だったイエス・キリストを示す名称である。
「天照大神」と言えば,「天岩戸隠れ」で知られる。
「隠れる」は日本では「死ぬ」ことを意味し,そこから出てくることを「蘇り」と言う。
新約聖書はそれを「復活」と言う。
藤原不比等(659〜720)の頃それまで男神だった天照大神が女神に変貌させられたことが明らかになっている。
古事記・日本書紀はその直後に編纂されたため,天照大神は女神になって現代に伝えられているのだ。
天和2年(西暦1682年)三重県伊勢市・「伊勢神宮」の別宮とされる「伊雑宮」の神蔵から先代旧事本紀大経」全72巻が発見された。
由来は聖徳太子が蘇我馬子に命じて百官に作られた古代史である。
ー聖徳太子秘文「未来記」録開封,徳間5次元文庫

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未来記

未然紀の時間解読方程式
「未然紀」には622年から1621年までの出来事が予言されている。
問題は未然紀の持つ複雑な計算式を解き得ないと,繰り返される予言の年代がバラバラになってしまうことだ。
1つのヒントに「未然紀」が百歳(100年)刻みで記録されていることだ。
これによって迷う必要はなく122年から始まる1000年をそのまま100年ずつ10個に区分すればいいだけとなる。
問題があるとすると,最初の1000年紀が終わった1621年以降,どの100年紀から繰り返せばいいかで中身が違ってしまうことだ。
それをクリアしないと現在の21世紀を示唆する預言につきあたらなくなる。
そこでまず未然紀の基本構造を明らかにしてみたい。
第初百歳 622年〜721年
第次百歳 722年〜821年
第3百歳 822年〜921年
第4百歳 922年〜1021年
第5百歳 1022年〜1121年
第6百歳 1122年〜1221年
第7百歳 1222年〜1321年
第8百歳 1322年〜1421年
第9百歳 1422年〜1521年
第10百歳 1522年〜1621年
ご覧のように社会に関する予言が1,000年分しかないので,「未然紀」の別名を「千歳紀」と言う。
奇妙なのはなぜ622年と言う中途半端な端数の年代から予言を始めたかと言うことだ。
そのため最終予言部分も1621年と言う端数で終わる羽目に陥ってしまっている。
実は聖徳太子がなくなったのは622年でありその年から予言が始まること自体に聖徳太子の預言者の意味合いが示されていると言う。
がしかしそれでも中途半端な端数が妙に引っかかる。
実は各100年紀の始まりと終わりの西暦年の数字の和がそれぞれ一致するのだ。
それを示してみよう。
第初百歳 622年〜721年 ( 6+2+2=10 〜 7+2+1=10 )
第次百歳 722年〜821年 ( 7+2+2=11 〜 8+2+1=11 )
第3百歳 822年〜921年 ( 8+2+2=12 〜 9+2+1=12 )
第4百歳 922年〜1021年 ( 9+2+2=13 〜 10+2+1=13 )
第5百歳 1022年〜1121年 ( 10+2+2=14 〜 11+2+1=14 )
第6百歳 1122年〜1221年 ( 11+2+2=15 〜 12+2+1=15 )
第7百歳 1222年〜1321年 ( 12+2+2=16 〜 13+2+1=16 )
第8百歳 1322年〜1421年 ( 13+2+2=17 〜 14+2+1=17 )
第9百歳 1422年〜1521年 ( 14+2+2=18 〜 15+2+1=18 )
第10百歳 1522年〜1621年 ( 15+2+2=19 〜 16+2+1=19 )
これは「ゲマトリア」と言う数秘術から発したもので,ユダヤ密教のカバラが持つ基本的な計算術なのである。
ー聖徳太子秘文「未来記」録開封,徳間5次元文庫
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