2020年06月24日

[動画][映画] 機動戦士ガンダムIIー哀戦士(1981)















【機動戦士ガンダムより 哀戦士】
81年 井上大輔さんの曲。
ガンダムを代表する曲の一つ。
井上大輔さんはこの曲でザ・ベストテンにも出演されてましたねd( ̄  ̄)

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先日のガンダムプラモネタにたくさんのコメントありがとうございました。
ガンダムプラモ大ブーム時代の逸話です。全て噂レベルと思ってください(^_^;)
予想外なガンダムプラモ人気にメーカーには注文が山の様に殺到!特に「1/144スケールRX-78ガンダム」は最も人気で24時間フル稼働体制で生産するも全く追い付きません。そんな中、お隣の韓国でガンダムプラモのコピー商品が出回っている事をメーカーは知ります。
普通なら「けしからん!」と抗議し販売を止めさせるがスジです。
そのコピー商品を製造した企業に連絡がとれたので、メーカーはこう言いました・・・
「手直しすれば充分、商品として使える!違法コピーの件はとがめ無いから、引き続き生産して日本へ送れ!」
そうして供給不足を補うべく韓国生産のガンダムが突然市場に現れます。
その期間は短くも「コリアンガンダム」と呼ばれ、完全日本製とは違うパッケージで販売され今では「幻のガンダムプラモ」として完全品は1万円くらいのプレミア価格(定価は300円)でマニアに取引されてます。
画像のオレンジバックのガンダムがそれ!
made in KOREAの刻印がプラモに入っています。箱と説明図は日本で印刷しました。
そしてこのコピー商品を製造した企業は現在メーカーの韓国での正規代理店となったそうな。
プラモの存在は事実ですが、その内情はあくまでも噂ですよ!w

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2020年06月10日

川村康之「図解雑学クラウゼヴィッツの戦争論」

川村康之「図解雑学クラウゼヴィッツの戦争論」
------------おきらく軍事研究会,2017.2.3
『図解雑学クラウゼヴィッツの戦争論』(川村康之著)書評<「FSM」
『戦争論レクラム版』(カール・フォン・クラウゼヴィッツ著,芙蓉書房出版,2001/07)
恵比寿の友隣堂に平積みで入ってました.
早速購入して,腕の筋肉の鍛錬も兼ねて,出勤電車の中で読んでますが,なかなかいいですね.
海の人的には,現代仮名遣いでの訳出は徳間版で読んでいたので,新鮮ではなかったのですが,今ひとつループしていたところとかが,きれいに刈り込まれて良い感じです.
内容的には,まだ1章をやっつけたところですので,全体としてはいえないのですが,今まで読んで理解していた(と思っている)篠田訳も,それほど大意として外しているようではないので,一安心(笑)しました.
少なくとも全訳という意味では,インデックス的な価値のあるものですし,今後も使えるようであればなぁ,と腹黒い企みを抱いていたので,ありがたや.
なにしろ,警句とか寸評とかに都合のよい語句がたくさんあるんですよね,篠田訳って.
そういえば,抄訳ということでどう処理するかなと興味津々だった,序文の防災組合(消防組合だったかな?)の「言痛い」話が,ばっさり「(略)」になっててわらっちゃいました.
それにしても,クラウゼウィッツの慨嘆のように,純粋な金属塊は,いつになったら人類に与えられることですやら.
-------------海の人:軍事板,2001/08/03(金)
【質問】
『戦争論』って何?
【回答】
プロイセンの将軍,カール・フォン・クラウゼヴィッツによって書かれた軍事書.
ナポレオン戦争の経験から得られた教訓を元に,戦争という現象を体系化しようとした論述書といわれる.
内容については,毀誉褒貶が相半ばしている.
しかし,プロの軍人に一番読まれている本だろう.
よくも悪くも必読の本であり,軍人の常識の一部か.
軍事板,2001/02/16(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
Clausewitzの戦争論読んでいこうと思ってるんだけど,どこの出版がおすすめ?
できるだけ原著に忠実なのがいいんだけど.
【回答】
クラウゼヴィッツの戦争論は,邦訳されたものでは岩波文庫版が比較的無難に訳しているようです.
原著初版本に近いのは扶桑書房のレクラム版ですが,抄訳です.
クラウゼヴィッツの訳でどれがいいかという議論がよくあるけれど,断然,清水多吉訳(中公版)を推薦したいと思います.
ドイツ語の原文で読んでも意味をとりにくいところも,きちんと文意を生かして訳しているし,訳文も流麗で読みやすい.
何よりパレット版のように勝手に解釈をしていないのは大きいと思う.
確かに最近議論されている論点については,訳文が対応していない点はあるけれど(「摩擦」→清水訳では「障害」),全体的に言って,岩波版や芙蓉版よりいいですよ.
たとえばクラウゼヴィッツが,
「最高の将帥を内閣に入れて,内閣が軍事に関与出来る様にしなければならない」
と書いたのが初版(清水版)ですが,岩波が元にした後の版だと,
「軍事が内閣に関与出来る様にしなければならない」
と正反対.
ちなみに中公の清水訳では,該当の部分は
「最高司令官を内閣の一員として,主要な評議や決議に参加させることである」
となっています.
扶桑書房のレクラム版では,
「最高司令官を内閣の一員に加え・・・内閣は,彼の最も重要な決定に関与・・・」
です.
Howard&Paretの"On War"では,注で初版と第2版の相違に触れつつ,
... to make the commander-in-chief a member of the cabinet, so that the cabinet can share in the major aspect of his activities.
としています.
ただしここの英訳は必ずしも正確とは言えない.
ドイツ語(レクラム版,S.335)だと,以下の文章になる.
括弧のところはパレットの英語版の注釈では省略されているところ.
so bleibt, (wo der Staatsmann und der Soldat nicht in einer Person vereinigt sind,)
nur ein gutes Mittel uebrig, naemlich den obersten Feldherrn zum Mitglied des Kabinetts zu machen, damit dasselbe Teil an den Hauptmomenten seines Handelns nehme.
政治家と軍人とが同一人のうちに体現されていない限り,とるべき手段はただ一つしかない.
すなわち,最高司令官を内閣の一員として,主要な評議や決議に参加させることである.(清水訳)
英訳版は,so that the cabinet can share in the major aspect of his activitiesだが,副文の主語を勝手に the cabinetとしているので,日本語訳をするときに誤訳が生じている.
清水訳は,ここの部分の主語をzum Mitglied des Kabinetts(内閣の一員→das Mitglied des Kabinetts=daselbe)でとっているので,原文を照らし合わせてみると清水訳の方が正しい.
どうも芙蓉書房のレクラム版は,英訳の影響を受けすぎている気がする.
軍事板,2009/08/17(月)〜08/19(水)
青文字:加筆改修部分
▼なお,戦略論大系シリーズには,けっこうな分量の解説論文がついてます.
ちなみに,レクラム版自体もクラウゼヴィッツ「戦争論」の抄訳です.
軍事板,2002/02/25
青文字:加筆改修部分

▼96 :名無し三等兵:2012/02/08(水) 00:25:24.02 ID:???
ドイツ語を学んで独語版を読むのが一番忠実だよ!だよ!
軍事板,2012/02/08(水)
青文字:加筆改修部分

【質問】
「戦争論」って岩波と中公,どっちのほうがいいんでしょうか?
【回答】
岩波の,今いち分からん表現のところを,徳間と芙蓉ので確認しながら読み進むというのが,海の人的には分かり易かったれす.
翻訳に難があったとしても,全訳という価値を考えると,やはり軸は岩波ですなぁ.
(別に谷沢さん罵倒するところの,明治の衒学者のごとく,全訳を礼賛するわけじゃないけれど)
海の人●海の砒素:軍事板,2002/07/16
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦争論の完全版って,どこの出版社から出ていますか?
【回答】
ドイツのレクラム社
日本では,
・日本クラウゼヴィッツ学会訳,「戦争論レクラム版」,芙蓉書房出版,省略あり
・篠田英雄訳,「戦争論」上中下,岩波書店
・完訳だったら,中公文庫版
【質問】
これから『戦争論』を読もうと思うのですが,留意しておくべきことはありますか?
【回答】
経験者からのおせっかいをひとつ.
まず,がんばって全部読みましょう.
一度で読めなくても,繰り返し,
ちょっとずつでも消化して,全文読破をするべきだと思います.
戦史や当時の人物など,「知らない」「興味が湧かない」記述にぶつかったら,読むのをやめ,戦史を勉強しましょう.
ビジネスマン向けの解説書や,抄訳にうかつに手を出さない方が賢明と思います.
(その意味では,中公文庫版の解説もどうかと思います.
そういえば,解説書いている是元信義って,「戦史の名言」(PHP文庫)も書いてましたね.
世界の艦船の書評に載っていたんで買ってみたんですが,「広く浅く」って感じでした)
また,本書は研究書であり,ハウツー本ではないので,文中の「すべきである」といった記述を,術としてではなく理論として読むと,全体の思想を理解し易いかもしれません.
ともあれ,かつてのクラウゼヴィッツの後輩や,後世の批判者などのような誤解をしないよう,じっくり読むことが重要かと思います.
えらそうなことを書きまして,申し訳ありませんが,なにかのお役に立てば.
軍事板,2002/01/13
青文字:加筆改修部分
【質問】
『クラウゼヴィッツ「戦争論」入門』ってのが復刊するみたいだが,どういう内容?
【回答】
井門満明『クラウゼヴィッツ「戦争論」入門』(原書房,2010.7)は,クラウゼヴィッツ『戦争論』の内容を丹念に読み込み,要点を無駄なくまとめた名著.
ナポレオン戦争中の戦史なんかは,巻末にまとめられているけど,ほとんど余計な言及なんかがないから,戦争論をきちんと読んでいこうとするにはいい本.
ある種,戦争論を読まなくても,読み解かなくてはいけないポイントは,原文に沿って全部おさえている.
正統派の入門だから,マンガ入りの入門と違って,いつまでも古びなくていい本だと思う.
軍事板,2010/07/06(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
クラウゼヴィッツは主力決戦主義者なの?
【回答】
No.
クラウゼヴィッツは「戦争に勝利するためには決戦をせねばならない」とは書いておりません.
戦争の勝利=敵国の交戦能力の消滅=敵国の戦闘力の消滅=敵野戦軍の撃滅といっているだけです.
そして,敵野戦軍を完全に撃滅できなくても戦争に勝利する場合もある,と書いております.
この記述は,戦争の勝利が敵国の戦闘力を叩くことをまったく考慮せずとも達成できる,という当時の一部の兵法に対する批判を含めているので,それをふまえる必要があります.
つまり,戦争の勝利は敵国が交戦意欲を失えば得られるわけですが,たとえ敵国の首都や欲しい領土を奪取したとしても,敵国が停戦に応じず,そのうえ敵の戦闘力が保持されたままであれば,戦争が終わらない可能性がある,ということを指摘しているわけです.
さらに敵野戦軍の撃滅には,主力同士の決戦が必ずしも必要でない場合があります.
要するに敵野戦軍が戦闘能力を喪失すればよいわけですから,敵の弱い部分を攻め,突破し,分断し,混乱させ,各個撃破する,という戦術が生まれることにもなります.
つまり,敵野戦軍の撃滅を達成するために必要なのが敵戦闘力の無力化で,弱いところを攻める,というのはそのための手段,ということになります.
ちなみに,クラウゼヴィッツは主力同士の決戦を主張した,と誤読したひとは多く,後のプロイセン参謀本部の一部にもそのような空気があったようです.
【質問】
ご多忙のところ恐縮ですが,質問させていただきます.
杉之尾宜生『戦略論体系1孫子』におきまして,クラウゼヴィッツは戦争の定義に関し,
「この定義はあくまでも観念上のもので,『現実の戦争』では,理論の上では取り除いた不純物がまといつき,すっかりその様相・形態を変貌させると述べてはいる.
しかし,クラウゼヴィッツの後継者達は,彼の注意喚起を気づかずにか,あるいは無視してか,その後の軍事科学技術の驚異的な発展との相乗効果の上に,彼が述べた『概念の戦争』である『絶対的戦争』を,現実の世界に顕現させようと,ひたすらに努力したのであった」(p.194-195)
とありますが,そのような「努力」は本当にあったのでしょうか?
消印所沢 in twitter,2012.2.22
【回答】
「努力」かどうかはわかりませんが,勘違いしていた面はあるかと.
クラウゼヴィッツは2人おりまして,1827年以前の人格である「観念主義者」と,それ以降の人格である「現実主義者」です.
それで,後継者たちが必死に習おうとしたのが,前者の「観念主義者」のクラウゼヴィッツのほうということは言えます.
つまり「努力」していたというよりは,「戦争論」の複雑性をわからずに,勝手に解釈したというほうが正確かと.
奥山真司 in twitter,2012.2.23
https://twitter.com/#!/masatheman/status/172408473525567488
https://twitter.com/#!/masatheman/status/172410758389444608
横槍失礼.
政治に対する軍事の優越の主張.
攻勢主義.
兵力の空間的・時間的集中.
とくに1つ目.
自分たちが好き勝手に行動するための「努力」はあったと思います.
山田洋行 in twitter, 2012.2.23
【質問】
『戦争論』は,
「クラウゼヴィッツによって全てがうまく行く!」
というような「ハウツー本」なのか?
【回答】
ブログ『地政学を英国で学ぶ』,2005-05-19-03:52付によれば,それは大きな間違いなのだという.
なぜなら,クラウゼヴィッツ自身が『戦争論』をハウツー本として書いておらず,戦争を知らない人(?)に向けて,「戦争とはこういう性質のものだ」という説明を意図して書いたものなのだからだという.
同ブログによれば,「こうすれば勝てる」というハウツー本の典型的なものは,むしろジョミニのほうだとしている.
同ブログによれば,クラウゼヴィッツの主張は,3つに要約できるという.
1,戦争には政策的,機能的な目的(instrumental purpose)がある,ということ.
2,すべての戦争はエスカレートする傾向があること.
3,戦争には三つの要素(人民,軍隊,政府)がうまくかみ合わないと勝てない.
また,この「戦争論」全体に貫かれているものには
1,歴史主義
2,ロマン主義
3,ドイツ観念論
4,戦争は科学で割り切れない.むしろアートである.
5,とにかく戦争には予測不可能な事態が起こる.
6,人間的な面を絶対に忘れてはならない.
7,絶対的な戦争(absolute war)というのはありえない=フィクション
などの特徴があると指摘されている.
詳しくは同ブログを参照されたし.
【質問】
クラウゼヴィッツは,テロの起こる現代においてはすでに時代遅れになった考えなのでは?
【回答】
ブログ『地政学を英国で学』,2005-05-20-04:46付によれば,それはちょっと厄介な間違いなのだという.
そのような主張をしている人に,マーティン・ヴァン・クレヴェルドというユダヤ系の戦略家や,ロンドン大学(LSE)の正教授,メアリー・カルドーがいるが,クラウゼヴィッツは戦争の性質というものを理論化していただけなのであって,結局どういう形であれ,「政治の継続としての暴力的な手段の行使」というのは変化しない,ということを説明しているのだという.
また同ブログは,たしかに「戦争論」の第1章28節において,クラウゼヴィッツは三位一体を「国民」「軍隊」「政府」になぞらえるとは言っているのですが,実はこれは本来の三位一体の基本三要素ではなく,本当の基本三要素は「暴力行為」「偶然性」「知性」なのであると述べる.
よって,「国民」「軍隊」「政府」というのは,実は「暴力行為」「偶然性」「知性」という基本三要素が発展した,いわゆる二次的なものであり,二次的な部分である「政府」という部分だけを取り上げて,
「ホラ見たことかいな,クラウゼヴィッツは国家間戦争だけを考えてる!間違っとるわいな!」
としているヴァン・クレヴェルドの指摘こそ,間違いなのだという.
[quote]
ちなみに冷戦後の世界ではクラウゼヴィッツの理論が時代遅れになったという批判が欧米の学界ではかなり噴出したのですが,どっこいテロの時代でもクラウゼヴィッツの理論は生きている,というのがうちの先生らの意見です.
[/quote]
???「地政学を英国で学ぶ」,2005-05-08-06:13
【質問】
現代において『戦争論』の持つ意味なんて,シビリアン・コントロールの権威付けぐらいでは?
【回答】
それは古い解釈だね.
クレフェルトとか,マーレーとか,ホーニヒの論文を読むと考えが変わるよ.
たとえば,クレフェルトはクラウゼヴィッツの視点が,国家間戦争,合理性の中の営みに限定されているという点に注目して,非対称戦争の問題点をえぐり出すための土台にしている.
マーレーなんかは,現代アメリカのテクノロジー優先を批判するため,クラウゼヴィッツの「摩擦」なんかをよく使っている.
ホーニヒなんかは,まさに『戦争論』が政治のみに限定して,議論されてきた問題点を批判してるね.
ハワードとかパレットなんかは,まさに政治に関する議論を過度に強調しすぎた嫌いがあったから.
出版から200年経っても,多角的な視野を提供してくれる文献として,今でも古典の位置を占めるのだから,表現についても議論されるのは別に不思議でもないんじゃない?
現代に至るまでの変遷を正しく認知していないと,今の現状を正しく理解はできないし,未来のことを正しく予測なんてできないよ.
クラウゼヴィッツの全てがそのまま現代で通用しないのは当たり前の前提なんだから.
古いの一言で切り捨てられるなら,歴史なんて学ぶ必要はない.
過去を遠くまで見渡すことができれば,未来もより遠く見通せるやら,って誰か言ってたね.
若いならもっと視野を広く持たないと駄目だよ.
軍事板,2009/08/19(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
御三方とも,啓蒙の残滓でしかない『戦争論』についての議論なしに,無条件にありがたがってるっていうことには変わりないんじゃないの?
【回答】
本を読んでもらった方がいいと思う.
清水・石津『クラウゼヴィッツと「戦争論」』に該当の論文があるから,既にそういう段階を遙かに越えて議論が進んでいることが分かるはず.
現状進んでいるクラウゼヴィッツ・ルネサンスの方向性は,『戦争論』の卓越性は共通の前提としつつも,その成立過程,戦争の本質をめぐる議論,現状の戦争への適用の問題なんかが議論されているね.
クレフェルトもまさにその立場,
でもクレフェルトとのクラウゼヴィッツ批判は批判も多いし,そもそもナポレオン戦争以降の国民戦争を批判した文献に,21世紀の非対称戦争のことが書かれていないじゃないかと言ってもしょうがないんじゃないかと思うけどね.
でも,『戦争論』は非対称戦争についても有意義な指摘を残しているし,クレフェルトの批判はその点を無視しているね.
軍事板,2009/08/20(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
クラウゼヴィッツは政治以外の視点を主張してたっけ?
【回答】
戦争の「三位一体」とか,「摩擦」とか,「重心」とか.
政治だけじゃないよ.
多角的な視野という意味では,「重心」も重要な視野ではあるよ.
軍事戦略の面においては今でもよく使われるね.
ちなみにクラウゼヴィッツは,かなり広い社会的背景をも含めて議論しているから,文化や嫌悪(感情として認識)など,かなりいろいろな領域について触れている.
もちろん時代的制約から,経済や兵站の分野に関する議論は少ないけど,ナポレオン戦争以降の国民戦争を分析する根本的な視点という意味では,いまでも一流の研究だよ.
軍事板,2009/08/20(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「戦争論」を買って今後読もうと思っています.
絶対に読んでおくべき章(逆にあまり読む必要の無い章)があるなら,教えて頂きたいのですが・・・
【回答】
我々軍ヲタであれば,序文から第3編まで読めば,結構なボリュームになるのではないかと.
その中でも,序文の覚え書きと,第1編第1章は,戦争論全てを規範する文章であって,何度でも繰り返し読んだ方がよいのではないかと思います.
第4編以降に関しては,作戦・戦術に関する技術的な解説が多くなってきますので,本職でない限りは,そんなにリキ入れて読む必要は無いと思います.
何かのおりにでも,ちょこちょこ読んで,また第1編を読み返す,というようなペースで十分ではないかと.
海の人:軍事板,2001/12/11
青文字:加筆改修部分
海の人さんもおっしゃっていますが,第1〜3編は必読.
あとは第8編でしょうか.
そこまでいったら,あとは第4編を.
5〜7は後回しでもいいかと思います.
ただし,クラウゼヴィッツは4〜7を前提として,1〜3編を理論づけていますので,最終的には目を通す必要はあるかもしれません.
軍事板,2001/12/11
青文字:加筆改修部分
【質問】
クラウゼヴィッツの戦争論を分かり易く解説した本てないですかね?
今まで岩波版レクラム版徳間の淡版大橋の解説柘植の解説!を読んだけれど,あまり理解できないんです.
こんな俺は文書読解能力がないんでしょうか?
今,手元に中公文庫版があるけれど,これを読んで理解できなかったらと思うと,怖くて読めない.
【回答】
「戦争論」を分かりやすく,とのことですが,ハイデガー,カント,スピノザ,ドゥルーズなどを分かりやすく読むことが難しいのと同様,クラウゼヴィッツも,その重要な部分を落とさず解説すれば,分かり易くはならず,あまりにも簡単に説明すれば,重要な部分が削がれるというように思います.
結局,ゆっくり時間をかけ,戦史に親しみ,何度も読んでは自分の中でかみ砕くという作業が必要だと思います.
「戦争論」は,もともと一般の人向けに書かれたものではなく,ひらたく読んで,そく理解,というのは無理ではないかと思います.
生意気なことをいわせていただければ,それこそ読書の楽しみなのだと感じるところです.
私は岩波文庫版を20年前(中学時代)に購入し,それこそすり切れるまで読みましたが,最近中公文庫版を改めて読み直し,いまだ勉強中と感じています.
ただ,わかりにくい部分は,掲示板などで質問すれば,詳しい方の,それぞれの解釈や解説を得ることはできるかもしれません.
軍事板,2002/02/05
青文字:加筆改修部分
【質問】
知り合いからの質問で
「クラゼヴィッツの『戦争論』が読みたいんだけど,原著は難解過ぎるから何か読みやすいのはないか?」
というものがあったんです.
軍事学への入門というより,とりあえず『戦争論』自体を読み解きたいということらしいです.
良い本があればお教え願えませんでしょうか.
VF-22 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【回答】
どうでしょうねえ.
以下のようなものがあることはあるのですが,当方は未読ゆえ,評価は控えます.
『図解クラウゼヴィッツ「戦争論」入門』 (是本信義著,中経出版,2006.10)
『クラウゼヴィッツの戦争論のことがマンガで3時間でマスターできる本』(杉之尾宜生著,明日香出版社,2003.2)
ただ一般的に申しまして,分かり易いとか,すぐ分かるといった本は,要するに「ごく大雑把にはしょって書いてある」ということとほぼ同義ですので.
それに当時のナポレオン戦役の知識があったほうがいいと思いますので,いきなり戦争論に行かずに,ナポレオン戦役の娯楽的な読本を読むという,ワン・クッションを置いたほうがいいかもしれません.
それこそ
『ナポレオン 獅子の時代』(長谷川哲也著,少年画報社)
でも,
『ナポレオンの生涯』(ロジェ・デュフレス著,白水社,2004.2)
でも,
『ナポレオン秘話』(ジョルジュ・ルノートル著,白水社,1991.8)
でも,
『勇将ジェラールの冒険』(コナン・ドイル著,創元推理文庫,1971)
でも.
消印所沢 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
そう言えば,早川文庫に『ナポレオン戦争の勇者たち』シリーズ(海のホーンブロワーものみたいな感じの)がありましたけど,2冊で打ち止めなんですよねぇ.
Italy戦役の後,Egyptに進出するところで終わりで,その後の美味しいとこは未だ出てないんですよねぇ.
再開してくれないかなぁ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
>・図解クラウゼヴィッツ「戦争論」入門 (是本 信義/ 出版:中経出版)
コレ持ってた.「2時間でわかる図解」シリーズ.
軍事学入門な内容で,クラウゼヴィッツや彼の生きた時代に関する記述は少なく,ワーテルロー会戦くらい.
むしろ実例であげられたポエニ戦争・第二次世界大戦・日本の戦国時代の話がページも多く,面白かったです.
CRACKER(・x・) in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
・クラウゼヴィッツの戦争論のことがマンガで3時間でマスターできる本
を自分で読んでみました.
大雑把な「戦争論」解説が十数ページ(半分は漫画).
クラウゼヴィッツの人となりが十数ページ(半分は漫画).
残る半分以上のページが,ビジネスと軍事のかかわり,ビジネスにおける戦争論の応用……(半分は漫画).
要するにビジネス書でした.
「戦争論」の中身に関する突っ込んだ話は殆どありません.
初心者でしたら本書は読む意味がありません.
▼……と思いましたが,考えてみれば軍事のみに関心がある層より,ビジネスに関心がある層のほうが厚そうなので,商業的には「あり」なんでしょう.▲
消印所沢 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
『クラウゼウィッツ兵法ナポレオンに勝った名参謀の戦略』(大橋武夫著,マネジメント社,1980.4)
が割と使える.
自分が使ってる本.
内容は,文字ばかりで,ところどころに図がつく程度.
文章は硬いし,高校以上の教科書に似てる感じ.読書慣れしていないと,読むのはきついかも.
しかし,中古が安く手に入るのと,前半部の戦争論からの名言抜粋と,実際の戦場を例にした解説が,面白いと思う.
値段のわりに使える.
極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【関連リンク】
「Flying Spaghetti Monster」:戦争論のススメ
【質問】
クラウゼヴィッツは,「ナポレオン戦争で幾多の経験を積んで昇進を重ね,陸軍士官学校の校長まで務めた(林信吾著『戦争に強くなる本』 p,22)
というのは本当ですか?
【回答】
……それ,閑職なんですが.
クラさんは,ナポレオンへの抵抗運動に参加するため,プロイセン軍を離脱してロシア軍に入ったんですが,プロイセンはロシアとも敵対していたため,帰国後に彼は非難され,プロイセン軍にはなかなか復帰できず,ロシア軍の連絡将校扱いされるわ,そういう閑職に回されるわという羽目に.
ホホイの記述は,大きな誤解を招きかねません.
▼クラウゼヴィッツについてですが,私は米国防省がやっている以下のサイトを参考にしております.
http://www.clausewitz.com/CWZHOME/CWZSUMM/CWORKHOL.htm#AShortBiography
この中で以下の箇所があります.
=====
n the Russian service, Clausewitz was somewhat hobbled by his ignorance of the Russian language. He nonetheless participated in the drawn-out Russian retreat, fought in the slaughterhouse battle at Borodino, and witnessed the disastrous French retreat from Moscow, including the catastrophic crossing of the Beresina river. Slipping through the French lines, he played a key role in negotiating the "Convention of Tauroggen," which infuriated the King, brought about the defection of General H.D.L. Yorck von Wartenburg's Prussian corps from the French army, and eventually forced Prussia into the anti-French coalition.
None of this won him any affection at court in Berlin, where he was referred to on at least one occasion as "Louse-witz."*14 Still, Prussia's change of sides led, after some delay, to his reinstatement as a colonel in the Prussian army. Clausewitz participated in many key events of the War of Liberation (1813-1814), but bad luck and the lingering resentment of the King prevented him from obtaining any significant command. He served instead as an aide to General August von Gneisenau, Field Marshal G.L. von Blucher's chief of staff 1813-1815 and one of the principal leaders of Prussia's military rebirth. He sometimes found himself in the thick of combat, as at Lutzen (Grossgorschen) in 1813, where he led several cavalry charges and was wounded. (Scharnhorst died of wounds received in the same battle.)
During the campaign of 1815, Clausewitz served as chief of staff to Prussia's 3rd Corps commander, General J.A. von Thielmann. The corps fought at Ligny, successfully extricating itself from the Prussian defeat there. Then, outnumbered two to one, it played a crucial if often uncelebrated rear-guard action at Wavre. This action prevented Marshal Grouchy's detached forces from rejoining Napoleon at Waterloo.*15
In 1818, Clausewitz was promoted to general and became administrative head of the General War College in Berlin. Perhaps because of the conservative reaction in Prussia after 1819, during which many of the liberal reforms of the war years were weakened or rescinded, this position offered him little opportunity to try out his educational theories or to influence national policy. He had nothing to do with actual instruction at the school. Clausewitz therefore spent his abundant leisure time quietly, writing studies of various campaigns and preparing the theoretical work which eventually became On War.
Clausewitz returned to active duty with the army in 1830, when he was appointed commander of a group of artillery brigades stationed in eastern Prussia. When revolutions in Paris and Poland seemed to presage a new general European war, he was appointed chief of staff to Field Marshal Gneisenau and the Army of Observation sent to the Polish border.
====
これから見ると,回答の中にある「帰国後,非難され,プロイセン軍にはなかなか復帰できずにロシア軍の連絡将校扱いされるわ,そういう閑職に回されるわという羽目に」というのはちょっと微妙ですね.
王様に嫌われていたことは確かですが.
むしろここでハッキリしているのは,プロイセン軍の中の保守的な雰囲気があったために,改革派と見られていたクラウゼヴィッツは嫌われた,という国内的な事情ですよね.
同じような記述はピーター・パレの「戦争論」の英訳版の解説(p.19)の中にもありました.
ということで,私が確認できるのは,
1,閑職だったことはおそらく本当
2,ロシアの連絡将校と見られていたかどうかは微妙
3,改革派と見られていたために嫌われていたというのは本当.
コバケン by mail

▼アレクサンドル1世は,見た目こそ玉葱頭の薄らハゲだが,人を見る目はあったかもしれんな.
クトゥーゾフやバクラチオン,バルクライ・ドゥ・トーリーのみならず,一時はジョミニやクラウゼヴィッツも召し抱えてた.
そこ行くとルイ14世って,人を見る目がなかったんだなあ.
プリンツ・オイゲン(のちの神聖ローマ帝国随一の名将)を用いなかったんだから.
プリンツ・オイゲンは見栄えが悪いうえに,同性愛疑惑もあるから,気持ちも分からないではないが.
395 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2009/04/21(火) 14:06:21 ID:???
アレクサンドル1世というと,どうしても長谷川哲也のあれしか思い浮かばない…
あの髪型が,そこそこ史実に忠実だと知って驚いたもんだ.
396 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2009/04/21(火) 18:14:34 ID:???
なんの事だろうと思って,ググって見てびっくり.
軍事板,2009/04/21(火)
青文字:加筆改修部分

【質問】
『戦争論』の出版は奥様の仕事だったってホント?
【回答】
そうだったよな.
と思いつつ序文を読み返すと,
??????
われわれの幸福な結婚生活を知り,また,どんなに私たちが,喜びや悲しみばかりでなく,日常生活のいかなる仕事も関心事も”すべて”共に分かち合ってきたかを知っている人は,私の愛する夫が私に知らせずにこの仕事を行えないことを知っています.
ですから私以外には誰も,夫が著作に捧げた情熱と愛情,この著作につないだ希望,さらにこの著書の成立の過程や時期について証言することはできません.
??????
・・・やっぱり良い夫婦だったようだ.
クラウゼヴィッツ家と奥さんの家系とは,結構差があったらしい(奥さんの方が上)
奥さん(マリー本人)は気にしなかったようだが,そうはいかないのが当時の社会で・・・
そうこうしている間に,クラウゼヴィッツはフランスの捕虜になるわ,帰国してからは「ジャコバン (プロイセン社会の改革派)」として国王から嫌われるわ・・・
こういう難局を経て,ようやく結婚できた二人だ.
男から見ると「良く出来た嫁」だが,クラウゼヴィッツ本人としては,奥さんには頭が上がらないところが多かったんじゃなかろうか.
軍事板,2009/04/21(火)

総記別館
http://www.geocities.jp/p_tokorozawa/faq12e02c.html






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2020年05月16日

Boccacio「デカメロン」〜中世ペスト終焉後の世界はどうなったか

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Boccacio「デカメロン」〜中世ペスト終焉後の世界はどうなったか
人類と感染症の歴史 克服した文明のみが生き残る
5/15(金) 7:05配信
新型コロナウイルス感染症対策専門家会議は5月1日、「多くの市民の協力により爆発的な感染拡大(オーバーシュート)は免れたものの、長丁場に備え、感染拡大を予防する『新しい生活様式』に移行していく必要がある」と提言した。世の関心は「いつになれば元通りの生活ができるのか」という一点に集中するが、もう“元通りの生活”は戻ってこないと覚悟するべきなのだ。つまり、私たちはこれからも、この新しいウイルスと生きていかなければならないにほかならない。ひとまず4日には緊急事態宣言が延長され、子供たちの休校や外出自粛期間は継続されることになった。社会生活や経済活動が大きく制限され、レジャーはもちろん、職場に行くことや買い物さえままならない。新たな収録を行えないため、テレビをつけても「総集編」や「再放送」ばかり──「こんな異常事態は経験したことがない」。誰もがそう感じているはずだが、実は有史以来の人類の歴史を振り返ると、そこには常に感染症との闘いがあったといっても過言ではない。
古くは14世紀に流行したペスト。「黒死病」と呼ばれヨーロッパで猛威をふるい、人口の約半数が死亡したとも伝えられる。そんな折に書かれたのが中世イタリアを代表する文学作品『デカメロン』だ。
このタイトルはギリシャ語で「10日間」という意味を持つ。都市部のフィレンツェからペストを避けて田園へと疎開した富裕な男女10人が、10日間を使って1日1話ずつ語るという設定で、エロスもふんだんに盛り込まれる同作だが、現代に至るまで傑作であると評価されるのは、彼らの語る物語の背景に「ペストへの恐怖」「死からの心理的逃避」があるからだといわれる。
ペストによってヨーロッパは人口激減に見舞われ、社会は大きな変革を迎える。それまで農民は封建領主に奴隷のように扱われてきたが、ペストで農民の数が激減したことで、そうした荘園制が崩壊。キリスト教の厳格な支配も、「こんなに無慈悲に人が死んでいくのだから、神なんているはずがない」という庶民の“気づき”によって崩れていく。疫病は結果的に、封建的身分制度を解体させ、中世という暗い時代が終わりを告げる。ペスト流行が落ち着いたとき、ヨーロッパでは華やかで人間的なルネサンス期が始まり、近代へ続く扉が開いた。
このように感染症は世界史にも大きく関与し続けてきた。
時は大航海時代の16世紀。スペインの軍人フランシスコ・ピサロは、金銀を産出する南米のインカ帝国を征服しようと侵攻する。当時、皇位継承をめぐり内戦状態にあったインカ帝国の混乱に乗じ、たった170人の兵で8万の兵を擁するインカ帝国を征服したと伝わる。
なぜそんなことができたのか。教科書のうえでは「馬と鉄器」を持つスペインと持たないインカの「軍事力の差」として説明される。しかし実はその背後には伝染病の「天然痘」があった。すでに免疫を獲得していたスペイン人が天然痘ウイルスを持ち込み、免疫を持たないインカ側は人口の6〜9割もの人たちが天然痘によって命を落としたとされる。先住民らは、病に屈しない侵略者と自分たちの違いは「信仰」にあると考え、キリスト教を信仰するようになった。
■石川啄木、樋口一葉、竹久夢二、中原中也も
東京外国語大学大学院教授で国際政治学者の篠田英朗さんが解説する。
「スペインによるインカ帝国征服では、武器で殺された先住民よりも天然痘の感染によって死んだ人の方が多かった。一方で、第一次世界大戦時には、アメリカで生まれ、アメリカの軍人が持ち込んだウイルスが原因である『スペイン風邪』によりヨーロッパの没落が加速。ウイルスを持ち込んだアメリカは一層の覇権を獲得しました。すなわち、感染症を克服した文明は生き残り、そうでない方が淘汰されるということが、人類の歴史では繰り返されてきたのです」
新型コロナの感染拡大とともに再び脚光を浴び、この4月、国内での累計発行部数が100万部を超えた小説がある。ノーベル文学賞受賞作家、アルベール・カミュの小説『ペスト』(1947年発表)。突然降り注ぐ感染症という不条理な災厄に対して人々がどう立ち向かうかを描いた物語で、現代の新型コロナに苦しむ私たちと符合する点があまりにも多い。
日本でも、明治期に活躍した歌人の正岡子規もやはり感染症である結核に苦しみ、そして死に至った。この病気で落命した文化人は石川啄木、樋口一葉、竹久夢二、中原中也など枚挙にいとまがない。
このように、周期的に見舞われる感染症は、これまでも人類の持つ文明や生活に大きなインパクトを与えてきた。その影響を受けるのは、われわれ人間だけにとどまらない。
『ざんねんないきもの事典』(高橋書店)の監修を務める動物学者で日本動物科学研究所所長の今泉忠明さんが話す。
「1億4000万年もの長い間、地球上に生息し、陸上で最も繁栄していた生物だったとされる恐竜も、一説にはウイルスによる伝染病で絶滅したといわれています」
感染症の原因となる病原体には細菌やウイルスなどがあり、今回の感染症「COVID-19」は、「新型コロナウイルス」と呼ばれるウイルスが“犯人”だ。ウイルスの起源には諸説あるが、少なくとも30億年前には存在したと考えられている。それに比べ、最も古い猿人の登場はおよそ700万年前といわれ、人類の方がウイルスよりもはるかに“新参者”というわけだ。つまり、「コロナウイルスさえなければ」という恨み節は、地球上の生物の歴史から見直すと筋違いといえる。ウイルスのように私たちも変化し、共存していく姿勢が求められているのだ。
※女性セブン2020年5月21・28日号

Yahoo!
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200515-00000003-pseven-soci&p=3






ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』〜168人のスペイン軍が8万人のインカに勝利できた理由
外出自粛中に『銃・病原菌・鉄』を読んで分かった 人類史における「新型コロナ」の異様な恐ろしさ
5/2(土) 11:00配信
ジャレド・ダイアモンドによる異色の歴史書『 銃・病原菌・鉄 』。新型コロナウイルスの感染拡大を前に、この世界的ベストセラーを再び手に取る人が増えているという。本書に綴られた「人類とウイルスの歴史」から、“コロナ時代”を生きる私たちが学べるものとは――。大阪大学医学部教授で病理学の専門家、仲野徹氏が紹介する!
■『銃・病原菌・鉄』
『銃・病原菌・鉄』、いわずとしれた、ピューリッツァー賞に輝いたジャレド・ダイアモンドの名著である。
ニューギニア人であるヤリの「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征服することにならなかったのか?」という問いに答えるべく書かれたこの本。人類1万3000年の歴史について、人類学、地理学、遺伝学だけでなく、植物学や言語学も駆使して、文字通り縦横無尽に論が展開されていく。
畢生の名著が快刀乱麻を断つがごとく導き出す結論は極めて明快である。世界における文明発祥の違いや現代世界における富と権力の不均衡を生み出したのは、「人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない」ということだ。
さらに、「人類社会を形成したのは、征服と疫病と殺戮の歴史」であったとする。そのことを説明する顕著な例としてあげられているのが、スペイン人フランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服だ。文字を読むことすらできなかったピサロが、ならず者の部下といっしょに、いかにしてそのような「偉業」を成し遂げることができたのか、その答えが、タイトルの『銃・病原菌・鉄』である。
■168人の軍勢で8万人に勝利できた理由
1532年、ピサロとインカ皇帝アタワルパがペルー北方の高地カハマルカで出会った時、一瞬といっていいほどの時間で、その勝負に決着がついた。何百万の臣民を抱える皇帝アタワルパの率いる兵士は8万人。それに対するピサロの軍勢はわずか168人にすぎなかったにも関わらず、あっという間にアタワルパが捕らえられてしまったのだ。
インカの人びとがそれまでに見たこともなかった動物である馬の突撃、銃による攻撃のインパクトが大きすぎて、驚きのあまり逃げ惑うしかなかったのだ。そして、武器を作り出す素材の違い。インカには石や青銅で作られた棍棒のような武器しかなかったが、ピサロ軍団は鉄製の武器を持っていた。勝負にならなかったのは当然だ。ちなみに、鉄や銃は、ユーラシア大陸において、その地の利から発明され伝播されたものである。
しかし、インカ帝国を滅亡に導いた最大の要因は、もうひとつ別のものであった。
■「人口の95パーセントを葬り去ってしまった」
それは天然痘。
「ヨーロッパからの移住者たちが持ち込んだ疫病は、彼らが移住地域を拡大するより速い速度で南北アメリカ大陸の先住民部族のあいだに広まり、コロンブスの大陸発見以前の人口の95パーセントを葬り去ってしまった」
のであるから、そのすさまじさがわかろうというものだ。
これで、銃、病原菌、鉄が出そろった。こまかいことをいうと、天然痘はウイルスによるものだから、病原「菌」ではない。原題は、「Guns, Germs, and Steel」で、Germsに「病原菌」という訳語があてられている。germというのは、日本語でいうとバイ菌といったところなので概念としては細菌とウイルスの両方を含んでいるということを、ダイアモンドの名誉のため(?)に言っておきたい。
ことほどさように、人類は新規の病原体に弱いのだ。天然痘のように病原性の強いウイルスならばなおさらだ。ただ、インカ帝国は天然痘ウイルスのせいで滅亡してしまったが、最終的に人類は天然痘ウイルスに打ち勝った。これまでに、地球上から撲滅された唯一の感染症が天然痘だ。いまやそのウイルスは、ロシアと米国の研究所の冷凍庫の中にしか存在しない。
■感染症を撲滅するには“三つの条件”が必要 
天然痘を撲滅できた最大の理由は、言うまでもなく種痘(=天然痘ワクチン)の開発である。18世紀の終わりに英国のエドワード・ジェンナーが開発した種痘は世界中に広まった。そして、1977年のソマリア人青年アリ・マオ・マーランを最後の自然感染の天然痘患者にして、世界保健機関(WHO)が3年後の1980年に撲滅を宣言した。
ある感染症を撲滅するには、三つの条件が必要である。ひとつはもちろんワクチンの存在。あとのふたつは、不顕性感染(症状を呈さない感染)がないことと、ヒト以外に宿主がない、すなわち、ヒト以外には感染しないことだ。逆に考えると、この三つの条件を満たさない場合は、やっつけるのに骨がおれる、ということになる。
なぜ新型コロナウイルスは厄介なのか?
新型コロナウイルス、本名SARS-CoV-2という。CoVはコロナウイルスの略で、SARS(重症急性呼吸器症候群)ウイルス(SARS-CoV)に似たウイルスという意味である。その新型コロナウイルスは、いまのところワクチンはない。不顕性感染はおそらくかなり多い。そして、これも確証はないが、コウモリのウイルスが起源ではないかとされている。三拍子そろって厄介なウイルスなのだ。
知らない間に、そのウイルスに対する免疫能を獲得できるのだから、一般論としては不顕性感染が多いというのは、決して悪いことではない。しかし、新型コロナウイルスのように、死に至る重症化率が高い場合は大きな問題になる。不顕性感染の患者が、知らない間にウイルスをばらまいている可能性が出てくるためだ。だから、“三つの密”の回避が必要になる。
■最も恐ろしいのは「情報の欠如」だ
インカ帝国の滅亡には、もうひとつ大きな理由があった。それは、情報不足である。インカ帝国には文字がなく、紐の結び目で記録するキープという方法しかなかった。なので、ピサロたちについての正確な情報が、アタワルパに伝わっていなかった。馬、鉄の武器、銃について、前もって情報を得ていたら、恐怖のためにひたすら逃げ惑うようなことはなかっただろう。一方のピサロは文字が読めなかったが、読み書きのできる部下たちからインカ帝国の状況について適切な情報を得ていた。
新型コロナウイルスの最も恐ろしいところは、その情報の少なさである。いまだに、どこからやってきたのか、不顕性感染がどれくらいの率なのか、ちゃんと免疫能が獲得できるのか、など、不確定なことが多すぎる。情報の欠如と、それによる人心の惑いがいかに恐ろしい結末をもたらしてしまうか。我々はアタワルパの悲劇から学んでおいたほうがよさそうだ。
天然痘は新大陸に新しい「秩序」をもたらした。新型コロナウイルスが恐ろしいとはいえ、天然痘の爆発的な感染力と病原性の強さには比ぶべくもないし、時代も違う。それでも、新型コロナウイルス後の世界秩序は大きく違ったものになるだろう。その時、すこしでも良い世界が訪れるように、個人としてできることを考えておきたい。この緊急事態宣言で外出ができない退屈な毎日に。

Yahoo!
https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/zasshi/life/bunshun/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9oZWFkbGluZXMueWFob28uY28uanAvYXJ0aWNsZT9hPTIwMjAwNTAyLTAwMDM3NTM1LWJ1bnNodW4tbGlmZQ--





 




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2020年05月13日

アルベール・カミュ「ペスト」〜ペスト感染で封鎖された1940年代フランスの町

アルベール・カミュ「ペスト」〜ペスト感染で封鎖された1940年代フランスの町
コロナ禍の現在と酷似、日常を取り戻す道は 災厄の時代に読む『ペスト』(上)
5/13(水) 7:02配信
アルベール・カミュ著『ペスト』(宮崎嶺雄訳、新潮文庫)の発行が累計120万部を突破、さらに部数を伸ばしている。450ページ超の長編で、決して楽に読める小説ではない。それでも売れているのは、小説が描きだす世界が、新型コロナウイルスの猛威に苦しむ私たちの「いま」に酷似しているからだろう。
ではその小説は、私たちが直面する困難を生き延びるための羅針盤となり得るのか。なり得るとすれば、それは社会や個人に対して、何を指し示しているのか。
2人の女性作家とビデオ会議アプリ「Zoom(ズーム)」を使った読書会を開き、小説『ペスト』の世界と現在の社会状況を重ね合わせた。2人の助けを借りて、2回にわたって考察する。(共同通信=田村文)
■孤立した町オランが舞台の群像劇
読書会に参加してもらったのは「雪子さんの足音」などで知られる木村紅美さんと、「自画像」「君たちは今が世界(すべて)」などの作品がある朝比奈あすかさん。木村さんは学生時代、この小説を読んで作家を志した。朝比奈さんは東日本大震災直後に読んだという。私を含め3人とも再読して議論に臨んだ。
物語の舞台は1940年代、フランス領アルジェリアの港町オラン。ネズミの死骸が予兆だった。死骸の数が増えていく。やがて人が次々に亡くなる。ペストの感染が始まったのだ。歴史上何度も発生し、人々を混乱の渦に巻き込んだ恐ろしい病。オランは遮断され、孤立する。感染者は隔離され、埋葬場所が足りなくなる。人々は噂に踊らされ、偏見による差別や分断も起きる。
主な登場人物は医師のリウー、外部の町からたまたまオランを訪れていたタルー、やはり偶然、町に来ていた新聞記者のランベール、作家志望の真面目な役人グラン、神父のパヌルー、ペストのおかげで逮捕を免れているらしい犯罪者のコタールら。物語は彼らの群像劇として進行してゆく。
病気の妻を山の療養所に送り出したリウーは、母の援助を受けながらペストと闘う。敗北(患者の死)の連続だが諦めない。タルーやグランらは保健隊を組織し、地道な努力を続ける。しかし、ペストはなかなか去ってゆかない。
『ペスト』には、災厄に襲われたときの人間たちの姿が活写されている。人々は初め、なかなか現実を直視できない。戸惑い、混乱、脅え、いら立ち、疑心暗鬼…。やがて絶望が社会を覆う。
私たちのことが書かれている。そんな錯覚を起こしそうな描写がいくつも出てくる。
「ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった」
「市門の閉鎖の最も顕著な結果の一つは、事実、そんなつもりのまったくなかった人々が突如別離の状態に置かれたことであった」
「ペストの日ざしは、あらゆる色彩を消し、あらゆる喜びを追い払ってしまった」
「ハッカのドロップが薬屋から姿を消してしまったが、それは多くの人々が、不測の感染を予防するために、それをしゃぶるようになったからである」
「ペストは観光旅行の破滅であった」
「ペストはすべての者から、恋愛と、さらに友情の能力さえも奪ってしまった」
木村紅美さん
「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである」
■われわれはペストの中にいる
木村さんは、初めてこの作品を読んだ大学時代からずっと、登場人物の一人であるタルーへの思い入れが強いという。
タルーは町の外から来ていた「よそ者」だ。運悪くペストに巻き込まれてしまったのだが、その彼が保健隊を組織し、町を救うために命懸けでペストと闘い始める。そのタルーと、やはりペストと格闘する医師のリウーが、物語の後半で対話する。クライマックスの一つだ。
タルーはリウーにこんな告白をする。
「僕はこの町や今度の疫病に出くわすずっと前から、すでにペストに苦しめられていたんだ」。タルーがここで言う「ペスト」とは、比喩である。何を指しているのか。
タルーの父は検事だった。17歳のとき、その父に論告を聴きに来るように言われ、裁判所へ出向く。父が被告人に死刑を求刑するのを見て、衝撃を受ける。死刑とは国家・社会による殺人だと気づいたのだ。
その後、政治運動に身を投じる。しかし、その運動の中でも処刑が行われていた。タルーは思い知る。「自分が何千という人間の死に間接に同意していた」と。こうも言う。「自分が殺害者の側にまわっていたということが、死ぬほど恥ずかしかった」「われわれはみんなペストの中にいる」  タルーの言う「ペスト」とは、戦争や死刑、革命など、大義の下に社会や集団が行う殺人のことだ。殺害する側に与しないために、彼は常に犠牲者の側に立ち「なすべきことをなさねばならぬ」と決意する。それこそが、災厄の際の彼の信条なのだ。
■ささやかな仕事で役立ちたい
「ペストの中にいる」という感覚は、木村さんにもあるという。沖縄の米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対する抗議活動に何度か参加し、「自分を含めたほとんどの日本人は、沖縄を犠牲にする側に加担している」と感じているからだ。
朝比奈さんは、タルーが組織した保健隊を巡るエピソードに感動したという。役人のグランがこの保健隊に誘われたときの場面だ。
「彼はいつもの彼そのままの善き意志をもって、躊躇なく、『うん』といった。ただ、彼が望んだのは、ささやかな仕事で役に立ちたいということだけであった」
朝比奈さんは「グランのようなヒーロー的ではない人物に光を当てるところが、この作品の特徴だと思う。コロナ禍にある現在も、医療関係者や生活の基盤を支えてくれる人たちによって社会が支えられていることに重ね合わせて読んだ」という。
私自身が最も感銘を受けたのは医師リウーの言葉だった。
「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。(中略)ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」「つまり自分の職務を果すことだと心得ています」
タルーもグランもリウーも、危機に踊らされたり、自失したりすることなく、目の前にある課題や仕事に取り組む。命懸けといってもいい仕事だが、ヒロイズムは存在しない。日常を失わない誠実さこそが、災厄を乗り越え、日常を回復する道なのだ。
彼らは連帯してペストに立ち向かう。それが淡々と記される。連帯と共感の持つ底力が、静かに語られてゆく。(続く)

Yahoo!
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2020年05月10日

宇野常弘「遅いインターネット」〜吉本隆明「共同幻想論」で今のSNSネット社会を解く

宇野常弘「遅いインターネット」〜吉本隆明「共同幻想論」で今のSNSネット社会を解く
評論家,雑誌Planet編集長,宇野常弘
ー幻冬舎から「遅いインターネット」を出版した氏がラジオ/TokyoFM,茂木健一郎-Dream Heartに出演。
■遅いインターネット
デビュー以来どちらかと言うとサブカル評論をテーマに書いてきました。この「遅いインターネット」はいわば僕が初めて書いた社会評論です。
ずっとサブカルチャーの批評を書いてきて,そこで培った理論や世界観というものを使って,今のメディア論を中心に,今の世の中っていうのの見取り図を書くと。見取り図を書くと問題がわかる。問題をえぐり出す。その問題への解答を探る。そういう全く別の事に応用したのがこの本です。
今のインターネットは速すぎると思いませんか?
タイムラインをハックして時代に乗る。そして物事を呼び起こし一気呵成に成し遂げるという世の中の流れになってきている。でもそうじゃない。これからは違う流れにしなくちゃいけない。「遅いインターネット」。タイムラインの潮目なんかから距離を取らなきゃいけないんだ。っていうボールをぶつける事で(幻冬舎の作者レーベルを)広げるという意味で仕掛けた本です。
キーコンセプトは「タイムラインの潮目」です。
例えばある芸能人が不倫をした。すると「コイツはとんでもない」という事で皆が一斉に石を投げる。その時に皆こう考えると思う。「あ,このタイミングなら今こいつにダメ出しできるよね。ダメ出しすることによって自分はマトモな多数派であると思って安心できる」そう思ってTwitterやFacebookで今叩いてもいいということになっている目立ち過ぎた人,失敗した人に石を投げる。そうするとちょっとすっきりして安心できる。その楽しみをわるい意味で覚えてしまった人が一杯いる。それが「タイムラインの潮目」を読むという表現です。
ひとつのニュースとか関連情報をまさぐったりとか,ちょっと資料批判的な感じでソースを探してみたりとか,そんな事する人はほとんどいないと思います。特にTwitterやソーシャルブックマークに投稿する事が好きな人っていうのは,ひとつの話題に対してYesかNoか,どちらに荷担するほうが良いのかっていう「タイムラインの潮目」を読む事しか考えていないと思う。上手く潮目を読んで,今叩いても良いことになってる相手に上手く石を投げる。そして相手に上手く石が当たれば座布団が沢山もらえてフォロワー数が増える。そんな「いじめ大喜利」みたいな事が今のインターネットジャーナリストの中心に居座ってしまった。
本来インターネットは好きな時に好きなテーマを発信できる自由なメディアである事が売りのはずだった。しかしいつの間にか「タイムラインの潮目」を読んで,皆と同じ行動をとることによって安心する道具になっちゃってる。それがいわば「速いインターネット」です。
■吉本「共同幻想論」で今のSNSネット社会を解く
ーこの本で「共同幻想」っていう考えが重要な役割を果たしているように思います。
「共同幻想」っていう言葉は年配の方はよく聞いた言葉だと思います。
1960年代の学生運動でのカリスマ的存在であった思想家・吉本隆明さんの思想ですよね。全共闘時代に刊行された「共同幻想論」。
人間が社会をイメージする時に,三つの幻想を用いている。
自己幻想
対人幻想
共同幻想
の三つですね。わかりやすく言えば,
自己幻想とは「俺ってこういう人間だよね」
対人幻想とは「俺とアイツの関係ってこうだよね」
共同幻想(社会幻想)とは「社会のイメージ」
当時は若者の自分探しにとって政治イデオロギーが大きかった。大き過ぎる存在だった。その大きすぎる「共同幻想」に取り込まれると自分を見失うぞっていう問題提起をしたのがこの本です。
で,彼の当時の議論っていうものを50年後の今に応用すると,意外と今のSNSのインターネット社会を読み解く手掛かりになるのではないかという事を「遅いインターネット」で書いてます。〜
TokyoFM,茂木健一郎-Dream Heart,2020.5

tyuyyuuuu pc


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2020年04月29日

inu: 小林よしのり「戦争論」の感想と私の考え

inu: 小林よしのり「戦争論」の感想と私の考え
「戦争論」の感想と私の考え
実家に帰っている間、弟の持っていた「戦争論」(ゴーマニズム宣言の著者,小林よしのり氏のマンガ)を読んでみました。
この本の要旨は、以下のようになるかと思います。
戦後の日本人には「個」が確立されていない。
そしてそれは「公」の不在と密接な関連がある。
日本の戦争には正義があった。
戦争でなくなった方は、何らかの愛するものを守るために戦ったのである。
ゆえに我々は、父祖達を誇りにすべき。
最近は著者の小林よしのり氏は右翼と呼ばれるようですが、果たしてそうでしょうか。
(右翼、左翼という呼称自体が思考停止の現れであり、知的な人間の用いる概念でないことは自明ですが)
彼の主張はがいして、目新しい点はないのではないかと思われます。
1,2に関しては広く認められれているところでしょう。
氏は西洋の個人主義が、宗教と地方共同体という関係性の中で確立されることを述べておりますが、これに対する異論はないでしょう。
「個性は模倣によって生じる」、私はこのように考えます。
生理学的にも、他者との接触なしに社会的存在としての「人間」が成立し得ないのは多くの例を見れば明らかかと。
そして第3点に関して。
私個人は陸軍の中国進出は侵略行為であると思いますが、当時の詳細な国際関係の知識のない私には自衛のために必須であったとの主張を否定することはできません。
(かなり胡散臭いですが。)
対して対米開戦は、「陸軍がソ連とやるなら我々海軍はアメリカと」、「このままではジリ貧なので気流の都合の良い冬前に」などどうにもならない愚かな要因が見られます。
が、日系移民排斥を初め石油の禁輸措置にきわまり、一体いかなるどうしたら良いのでしょうか。
少なくとも当時の国際社会において、外交手段の一つとして武力行使は当然にかんがえられたのではないでしょうか。
今でもアメリカ合衆国はそうですよね。
日本の侵攻で東アジア植民地の独立が早まったことは事実すし。
(だからといって植民地支配を肯定する意図はないです。)
朝鮮半島で過酷な支配を行ったことも事実なら、多額のインフラ投資を行ったことも(資料上は)事実なんですよね。
(創氏改名や宗教の強制など、このあたりの事情をみるに日本は国民国家であって帝国ではありえませんね、どうでもいいですが。)
この場合の「正義」が厳密な法哲学的考証にもとずくものではなく、不純な動機を多数含むことも事実なら、国際関係敵に追い込まれてやむを得ない事情もあり。
歴史が単純に二元論的に評価できないのも、当たり前のことかと。
そして4,5ですが、戦争製作遂行者と一般兵卒が異なることも自明の真理。
故にこそ、靖国神社は問題になるのではないですか。
ある意味、国家政策の擬制にされた人と、否定仕様のない戦犯と、この二者が合祀され、しかも前者が大多数なわけですから。
実際に見たこともない人間で靖国を論じる者は、一体いかなる了見なのでしょう。
こうして具体的に眺めても、やはり彼の本にさほど目新しい主張はないかと思われます。
私が氏の著作の中でもっとも共感を抱いた点は、以下の点です。
「歴史の十分な知識もなく、かつ事実を学ぶ意欲もないものには、歴史を評価する資格はない。」
このような例は多数思い浮かびませんか。
卑近な例を挙げるなら、シューティングゲームの場合、何らの基礎もなく、学ぶ意図もなく、努力なしに「クソゲー」と断定している知的に恵まれない人々がウェブ上に多数いらっしゃるでしょう。
自己に言及の資格がないことを認識できないわけですが、そもそも真摯に学ぶ意図のある人間はこのような愚行は犯しません。
戦争の歴史もまたしかりです。
・植民地化されたアジアの国々の歴史
・植民地化の過程
・ヨーロッパの帝国主義の歴史
・明治維新以降の日本史
・当時の国際関係
・日本軍の組織
・第二次大戦の歴史
この程度は必要最低限でないですか。
そしてこれらは、「中公新書」などに多数出版があるはず。
たとえ一時の認識が誤っていたとしても、ひたすら多くの書をひもとき続ければ正しい理解が得られてくるはずです。
第二次大戦当時の軍部の戦争遂行が如何に杜撰であったか、そしてそれはいかなる制度上の理由から生じた問題か、そしてそれ故にいかに多くの人名が虚しく失われたか。
このような正確な認識があって初めて、東条英機らの戦争責任というものは明らかになるでしょう。
指導部は杜撰な製作の責任を負って当然に死ぬべきであった、と自分は思います。
少々話題が飛びますが、昭和天皇の戦争責任という問題がしばしば議論されました。
これとて、政治制度の知識なくしては全く結論のでない問題と思います。
日本国は立憲君主制でした。
憲法上天皇は主権者ですが、昭和天皇は(内閣官制に基づくに過ぎない)内閣制度を尊重され、決して自ら政治的決断を下そうとはされません。
軍部の台頭よりも、天皇の政治介入による立憲政治の崩壊という自体を回避することをより重視されてのご判断だったのでしょう。
ですから、ありとあらゆる上奏を裁可し、拒否権を行使なさることなどありませんでしたよね。
つまり天皇には政治的決断を下すべき法的地位になかったのですから、一切の政治的責任は無いはずです。
個人的にですが、かれには大変に高度な次元での「道義的戦争責任」はあったと思いますよ。
彼以外に戦争を止められる可能性のある人物はいなかったわけですから。
ただこの作為義務は、他に遂行可能性のある人物の不在、きわめて甚大な戦争の結果ということから導かれるものです。
大変に困難で、成功可能性のほとんどない作為義務ですね。
私個人は昭和天皇を偉大な政治家として尊敬しますよ、やくざまがいの陸軍などとやり合ったかたですからね。
「朕自ら近衛兵をひきいて誅滅せん。」でしたっけ(515か226かどちらか忘れましたが)、素晴らしいお心です。
私個人として、もっとも重大な戦争責任を負うと考える人々がおります。
内地にあって、何らの思慮もなく、「非国民」などと騒ぎ立てていた、町内会などの小組織での隣人の監視役を務めた、一般の国民です。
何らの思慮もなく、自己の行為の意味を考えず、政府公報を鵜呑みにし、少しでも自分と異なる人を迫害していた輩ですね。
そしてこういう人は今でも多数存在するでしょうk。
歴史の知識はなにもなく、学ぶ意志もないのに、戦争について語る人間を右翼扱いして喜んでいる前述の人々です。
(極端な例を挙げると、彼らの無知ぶりはからは「中国への旅」すら読んでいるかどうか疑わしい。)
自分の行為の意味を考えることなく、右ならえで自分と異なるものを迫害する人々。
こういう人々が政治過程におけるチェック機構を無効化していったことも、日本軍の歴史を学べば見えてくるはずです。
戦争責任は、ごくごく身近なところに存在すると私は思いますよ。
そしてひたすらに正しい知識を多数もとめ、意味そのものを考えること。
これが私の考える、戦争に対する正しい向き合い方です。
以上です。

ビデオゲーム、書籍等に関して
http://www2.ttcn.ne.jp/~inu/syumi/sensou.html








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2020年04月25日

Ray Bradburry「火星年代記」〜2005年12月,火星のゴーストタウンに棲む人々

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Ray Bradburry「火星年代記」〜2005年12月,火星のゴーストタウンに棲む人々
レイブラッドベリ(Ray Bradburry)
火星年代記
2005年12月
火星の沈黙の町
死んだ火星の海の縁に小さな白い沈黙した街があった。
街は空っぽであった。動く人の姿もなかった。
軒を並べた店の中で一日中寂しいあかりが灯っていた。
家のドアというドアはまるで鍵をかけずに人々が飛び出して行ってしまったかのようにあけっぱなしになっていた。
その街は死んでいた。。
家の中のベッドは空っぽで冷たくなっていた。
聞こえる物音とはいえば,未だに一人で勝手に動く電線用発電機に流れる電気のうなりだけであった。街の向こうにあるロケット空港には,最後のロケットが地球に向けて飛び立っていった頃のまだ激しい焦げたような臭いが残っていた。
貸望遠鏡に10セント硬貨を入れて地球に向けてみたなら,そこに大戦争が起こっているのを見ることもできるだろう。
町の人通りのない通りを口笛を吹きながら背の高い痩せぎすの男が歩いていた。男の名はウォルター・グリップ。青い火星の深い山奥に砂金鉱山と丸太小屋を持っていて2週間に1度物静かで聡明な結婚相手を探しに街へ降りてくるのは習慣であった。しかしもう何年もの間いつも一人ぼっちでがっかりしながら丸太小屋に帰るのであった。そして一週間前町に来てみると今言ったような状態になっていたのである。
ウォルターは火星の全部の電話番号が載っている薄っぺらな電話帳の5万ほどの番号を眺めた。
ウォルターは電話帳の1番から電話をかけ始めた。応答はなかった。2番目の電話番号の主は青い山脈の向こう5000マイル彼方のニューニューヨークに住んでいた。これも返事がなかった。3番4番5番とかけていき,終いに指がピクピクして受話器を廻せなくなった。
ウォルターは火星連絡駅に,ニューボストンに,アーカディアに,ルーズヴェルト市に,およそ電話をかける人のいそうな場所に次々と電話してみた。それから旧都市の公共施設にもかけてみた。一流ホテルにもかけた。贅沢三昧に暮らしたいのが女だからだ。
ウォルターは手を打ち合わせた。そうだ。もちろんそうに違いない。ニューテキサスで一番大きな美容院に長距離電話をかけた。そもそも女は顔をパックしたりドライヤーをかけたりしながらウロウロしている場所といえば,ビロードやダイヤモンドみたいな美容院のほかない。
受話器を取り上げかける。
「もしもし?」
「もしもこれが録音ならそっちまで出かけて行ってぶち壊してやるぞ」
ウォルターは言った。
「録音じゃないわ。もしもし?ああ,もしもし?まだ生きてる人がいたのね?どこにいるの?」
女は嬉しい悲鳴をあげた。ウォルターはもう少しでヘナヘナと座り込みそうになった。
「君名前は何て言うんだい?」
「ジュヌヴィエーブ・シルサーよ 」
女は電話口で泣いていた。
「あなたの声が聞けてとても嬉しい。あなたは誰でもいいわ」
「ウォルター・グリップです」
高揚した気分で足が浮き上がる気分だ。
「もしもし?」
ジージー
ウォルターは電話を切る。かけ直すがダメだ。風でどこかの電柱が倒れてししままったんだろうか?もう一度ダイヤルを回すが電話は切れたままだ。
とにかく場所が分かっている。
ウォルターは家の外に走り,他人のガレージから車を後ろ向きに引き出して,持ち出した食料を積み込むと,時速80 km で一路ニューテキサス目指して街道を走り出した。
「ジュヌヴィエーヴ!今行くからな!」
日が沈む頃,7時間ぶっ通しの運転に疲れ果て,ウォルターは道端に車を停めた。 風がそよそよと吹いて,横たわるウォルターを包んだ。何百万年という古い火星の山々がウォルターを取り囲んでいた。
青い山間にあるチェスの駒よりも大きく儚い火星の小さな町の尖塔に星の光がキラキラと反射してウォルターは夢と現の境をさまよっていた。

ジュヌヴィエーヴは蓋の開いたクリームチョコレートの箱を抱え込んでいた。箱を抱いているその体はぶよぶよ太って色艶が悪かった。日の光の下に出てきたその顔はまん丸く肥えていて目は真っ白なパンをこねた中に突っ込まれた2つの大きな卵のようであった。
足は木の幹のように太くて,それを引きずって歩いていた。髪の毛は判然としない茶褐色で,鳥の巣の御用を何度も務めさせられていたように見えた。唇らしいものが全くなく,その埋め合わせに大きな輪っか状に脂ぎった口が描かれていて,眉毛は余分な毛が抜かれて細いアンテナ線みたいな形にされていた。
「ここにもお菓子屋さんがあったわ!ほんとにアタイ,あの大騒ぎの後はしたいように暮らしているの。アタイあいつらなんか大嫌いだったの。皆馬鹿よ。2月前にロケットに乗って行っちゃった。アタイも一番最後にロケットで行くはずだったんだけど。。結局残ることにしたの。どうしてか分かる?みんながアタイをいじめるからさ。だから体にどれだけ香水かけても何万杯ビール飲んでも何も言われない。「カロリー摂りすぎだ」なんて言われないでお菓子食べたいだけ食べられるところに残ったの」
ウォルターは目をつぶった。女の声は電話の声と同じように優しく甘い潤んだ声であった。しかしいざ目を開けて女の姿を見ると。。
ウォルターはは後ずさりしながら
「素晴らしい」
「言いたいいことはあばよってことさ」
ジュヌヴィエーヴが悲鳴を上げる間もなくウォルターは車に乗りその場を去った。

ーRay Bradburry「火星年代記」,ハヤカワ文庫,1954年初刊

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30.4.22
封鎖下の東京を歩きふとBradburryの世界を思い出す。

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2020年04月20日

神ノ國ヲ: パンデミック>>大地震>>核戦争〜小松映画『復活の日』のシナリオ

神ノ國ヲ: パンデミック>>大地震>>核戦争のシナリオ〜小松映画『復活の日』のシナリオ
新型コロナを日本のSF作家「小松左京」が完全予言!
TOCANA
新型コロナを日本のSF作家「小松左京」が完全予言! パンデミック後に大地震→核戦争勃発も!?
2020.04.19
日本を代表する天才的SF作家・小松左京が「イタリア風邪」として全世界コロナ・パンデミックを予言していた! 作品に込められた予言から見えるやばい未来を宗教・オカルトの専門家・神ノ國ヲが徹底解説!
復活の日(KADOKAWA)
――小松左京の予言ですか……?
(神ノ國ヲ) 小説家・小松左京(1931-2011)原作の映画『復活の日』については、多くの方がご覧になっていると思います。元々は1980年の正月映画として撮影が進められていましたが、延期となり、それに代わって『戦国自衛隊』が話題となりました。結局、1964年の原作小説をもとに、深作欣二(1930-2003)監督によって映画化された『復活の日』は、同年夏に公開されました。今では往年の名優である、草刈正雄、千葉真一、E.J.オルモスらが出演しています。30億円超の製作費で、南北アメリカ大陸・南極ロケを敢行し、チリ海軍の潜水艦と哨戒艦まで使った壮大なスケールの作品です。そして、この作品が現在の「コロナ災禍」を予言していると話題になっています。事実、原作文庫版(2018年)が、いまさらAmazon「SF・ホラー・ファンタジー」売れ筋ランキングで第一位にもなっていました。
―― いったいどんな予言が!?
(神ノ國ヲ) ネタバレ含みで映画版『復活の日』のストーリーを要約しましょう。同作品は、東西冷戦の最中、開発されたウイルス兵器「MM-88」が漏洩し、世界各地で疫病が蔓延する様子を描きます。その疫病の名前が「イタリア風邪」です。それは、最初「死者3500万人、致死率45%」といわれ、文字通り全世界がパニックになり、医療崩壊、都市封鎖、社会インフラの崩壊、軍部の陰謀が描かれているんです。
―― いきなり当たっているんですかッッ!?
(神ノ國ヲ) SNSなどで検索してみれば、多くの人が指摘しています。ここまで合致しているなんて……と絶望していますよ。
もちろん、話は意図的にズラされています。たとえば、『復活の日』の映画版では千人未満、原作では約一万人が南極にいて生き残っています。さすがに、まだ人類は何十億単位で生きていますからね。さらに、『復活の日』は米ソ東西冷戦時代が背景ですから、すでに人類が死滅しているのに、大地震を核爆発と誤認して相互迎撃システムが作動し、世界が二度目の「死」を迎える様子を描いています。そういう形では、我々はまだ辛うじて「第三次世界大戦」を経験していません。
しかし「殺人ウイルスの世界的大流行による人類社会の破滅と崩壊」の描写は、我々がいま経験している21世紀冒頭を映しているかのようです。これは警告的な予言の可能性があります。
―― まさか小松左京は予言者だった!?
(神ノ國ヲ) 可能性は否めません。彼は星新一(1926-1997)と筒井康隆(1934-)と並ぶ、日本を代表するSF作家です。しかし、あの膨大な著作活動と「未来」への想像力はどこから来たのでしょうか。
たとえば、小松独特の人類史全体を構想する文体は、
1997年のジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』、
2016年のユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福』
にも通底します。しかし、小松は、すでに1967年の時点で『未来の思想―文明の進化と人類』を記しています。アメリカの生物学者、イスラエルの歴史学者に先駆けて、なぜ日本の小説家が、そのような視点を得ることが出来たのか。おそらく、何かしら未来を予見する能力があった、または可能世界と接続する方法を持っていたと思わざるを得ません。

TOCANA
https://tocana.jp/2020/04/post_152404_entry.html





厳選・感染症パニック映画7作が描いた「パンデミック後の世界」
4/18(土) 16:05配信
致死率100%のウイルスに立ち向かう『アウトブレイク』(写真/共同通信社)
中国や欧米に続いて日本でも新型コロナウイルスとの本格的な戦いに突入したいま、次なる関心は「パンデミック後」の世界だ。
【写真】感染爆発を題材にした『コンテイジョン』のワンシーン
今後、人類はどんな恐怖に直面し、どんな勇気をふりしぼり、どんな叡知を見せるのか。映画評論家・前田有一氏による見どころ解説とともに、未来を示唆する映画7作品を紹介する。
世界中に拡散した新型の致死性ウイルスを封じ込めるため、米CDC(疾病予防管理センター)など関係機関の奮闘と社会の混乱を描く──その圧倒的なリアリティが再評価された映画『コンテイジョン』が動画配信サービスで視聴数を急増させている。前田氏はこう語る。
「2011年の公開当時は感染拡大の様子を淡々と描く手法が“退屈”だとして4億円程度の興収でしたが、いま見返すとまさに世界の現状そのもの。感染拡大で起きうる危機を先取りし、対処の手本としての評価も高いです」
他にも、『アウトブレイク』や『復活の日』など感染症を扱った名作は少なくない。その多くは人類とウイルスの対決だけでなく、危機に瀕した人間の心理や社会の変容も示唆している。
「『コンテイジョン』が1999年にマレーシアで起きたニパウイルス感染症をモデルにしているように、実際の感染拡大を取材して数年後に映画が作られることは多い。いま人類が直面する難局を乗り越えるヒントが映画には詰まっています」(前田氏)
以下、感染症にまつわる映画作品を紹介しよう。
【感染症パニック映画7選】
■『コンテイジョン』(2011年)
(監督:スティーブン・ソダーバーグ/出演:マリオン・コティヤール、マット・デイモン、ジュード・ロウほか)
【内容】
出張先の香港から帰国したアメリカ人女性が体調不良を訴えた後に死亡し、同じ症例の死亡者が世界各国で相次ぐ。新型ウイルスに対抗すべく、研究者たちは感染源の特定からワクチンの開発にと奔走する。感染拡大を防ぐための都市封鎖や、政府の陰謀論を唱えたデマの拡散によって民衆は暴徒化。さらには開発されたワクチンが人々の手に渡るまでの紆余曲折が、科学的な考証と緻密なシミュレーションによって導き出され、ウイルス感染における恐怖が描かれている。
【見どころ解説】
 中国圏から発生したウイルスが世界に広がりパニックを巻き起こす。クラスター感染や子供たちの休校、生物兵器陰謀論がネットで蔓延、急造病院の出現、議員への感染拡大など、あまりにも現実と符合する内容で驚かされる。
■『アウトブレイク』(1995年)
(監督:ウォルフガング・ペーターゼン/出演:ダスティン・ホフマン、レネ・ルッソ、モーガン・フリーマンほか)
【内容】
ザイールの小さな村で出血熱が猛威を振るっていた。そんな折、密輸者の手によってアフリカから持ち込まれた1匹の猿が感染源となり、アメリカでも飛沫感染によってウイルスが拡散してしまう。この未知の伝染病は、過去にザイールの内戦に参加していた傭兵部隊で流行し、アメリカ陸軍が隠蔽した出血熱と同一であると判明する。既に作られていた血清は、さらに変異を起こしたウイルスには効果がなく、危機的状況のまま、人類は致死率100%のモンスターウイルスと相対することになる。
【見どころ解説】
エボラ出血熱をヒントにした架空の致死性ウイルスに、どう立ち向かうかを描いたエンタメ作。“3密”の劇場で感染が広がったり、ウイルスがやがて空気感染タイプへ変異するなど、来るべき感染爆発の最悪のパターンを見て取れる。
■『復活の日』(1980年)
(監督:深作欣二/原作:小松左京/出演:草刈正雄、夏八木勲、多岐川裕美ほか)
【内容】
東西冷戦末期の1980年代初頭、東ドイツの陸軍細菌研究所で作られたウイルス『MM-88』が研究所から持ち出されたことに端を発し、人類崩壊へのカウントダウンが始まる。大気に晒され、とてつもないスピードで増殖するウイルスは、瞬く間に全世界で大流行し、南極大陸に駐在していた900人弱を残し、ほとんどの人類が絶滅してしまった。人類の未来を託された各国の南極基地隊員は叡智を結集し、人類再生・世界救出の術を手探りで模索していく。
【見どころ解説】
国産終末SF超大作。40年前の作品ながら、気温によってウイルス活動が左右されたり、イタリアで爆発的感染が起きたりと、予言的な内容をはらむ。減りすぎた女性との性交渉が管理されるなど、崩壊する人間社会の姿が不気味だ。
■『感染列島』(2009年)
(監督:瀬々敬久/出演:妻夫木聡、檀れい、国仲涼子ほか)
【内容】
とある総合病院で第一感染者が死亡した。当初は鳥インフルエンザが変異を起こしたものとみられていたが、ウイルスの真の正体と発生源、その治療法を見つけるべく人類は奔走する。その間にもウイルスは蔓延し、都市部から全国へと爆発的な感染力で列島を地獄絵図に変えていく。人工呼吸器や医療従事者の不足で医療現場が崩壊していく様や、都市の封じ込め政策から都市機能が停止していく過程等、未知のウイルスを前に、滅亡の危機に晒される日本の姿を描く。
【見どころ解説】
現代日本を舞台にした感染もの。CGを駆使したウイルス感染シーンと、荒廃した東京の街が衝撃的。大学病院など専門家監修によるリアルさが売りで、病院閉鎖からトリアージへと続く医療崩壊は、まさにいま、絶対に避けたい展開だ。
■『FLU 運命の36時間』(2013年)
(監督:キム・ソンス/出演:チャン・ヒョク、スエ、パク・ミナほか)
【内容】
香港からの不法労働者が詰め込まれたコンテナが、ソウル郊外・盆唐(プンダン)区に到着した。中は死体の山となっており、その中から唯一の生存者が逃げ出し行方をくらましてしまう。彼は新型インフルエンザに感染しており、強力な感染力を持つウイルスが撒き散らされた盆唐区では国家災難事態が発令され、都市の完全封鎖が敢行される。救急隊員のジグは、女医のイネとその娘・ミルを守るため、封鎖された都市に残る。一方で、世界的感染を防ぐため米軍による都市消滅計画が進められていた。
【見どころ解説】
韓国で大ヒットした感染パニック映画。鳥インフルエンザをモデルにした致死性ウイルスを封じ込めるべくロックダウンが行なわれる。都市封鎖による混乱と、人命救助に奔走する救急隊員らの姿が感動的に描かれている。
■『レック4 ワールドエンド』(2014年)
(監督:ジャウマ・バラゲロ/出演:マヌエラ・ベラスコ、パコ・マンザネド、エクトル・コロメほか)
【内容】
 感染した人間がゾンビ化し、生存した人間を襲うゾンビホラー映画『REC』シリーズの4作目である本作は、シリーズ中唯一の生き残りである主人公・アンヘラが、救助に現われた医師・グスマンに救出されたところから始まる。目覚めた2人は、感染症研究のために隔離された船内にいた。寄生体に感染しているはずのアンヘラだが、血液検査の結果は陰性。しかし研究室で隔離中だった猿が脱走したことで、船内に感染が広がっていく。
【見どころ解説】
 ドキュメンタリータッチで高く評価されたスペイン製ホラー。感染者の隔離に最適のはずの船内でウイルスが拡散。逃げ場のない密室へと一変する恐怖は、ダイヤモンド・プリンセス号の騒動を経た現在では絵空事とは思えない。
■『28日後…』(2002年)
(監督:ダニー・ボイル/出演:キリアン・マーフィ、ナオミ・ハリス、クリストファー・エクルストンほか)
【内容】
 ジムは交通事故に遭い、昏睡状態に陥っていた。事故から28日後、病院で目を覚ました彼が目にしたのは、人が消え去り荒れ果ててしまったロンドンの街だった。すべての元凶は一匹のチンパンジー。襲った人間の精神を破壊し凶暴化させる恐るべきウイルスが蔓延した結果、街がゴーストタウンと化してしまっていたのだ。襲い掛かってくる感染者から数少ない生存者とともにサバイバルを繰り広げるSFホラー映画として、第30回サターン賞の最優秀ホラー映画賞を受賞した。
【見どころ解説】
 感染すると怒りの感情が増幅し他者を襲い始めるウイルスによる異色の終末SF。異常な感染力とスピードが巻き起こすパニックが、コロナ禍を彷彿とさせる。気の抜けない緊迫感の中でのサバイバル劇は他人事とは思えない。
※週刊ポスト2020年4月24日号

Yahoo!ニュース
https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/zasshi/ent/pseven/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9oZWFkbGluZXMueWFob28uY28uanAvYXJ0aWNsZT9hPTIwMjAwNDE4LTAwMDAwMDE1LXBzZXZlbi1lbnQ























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2020年04月15日

Defoe「ペスト」〜17世紀ロンドンペスト封鎖, 一時収束後に第二波絶頂期

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Defoe「ペスト」〜17世紀ロンドンペスト封鎖, 一時収束後に第二波絶頂期
■1665年5月ペスト一時収束
ペストが収束し始めるや否や,直ちにロンドンに忽然として夥しい人々が現れた。
ペスト感染初期の頃の話であるが,逃げ出すことも思いのままにできる人々や田舎に疎開先を持っている人々は我を争って田舎へ逃げて行ったが,その数は全くおびただしいものであった。
さらにいよいよ病勢が激しくなると,頼るあてもない中流階級の市民達も避難できるとこならどこへでも全国至る所に逃げていった。なんとか自活できるお金のある人も,そういうお金のない人も,みんなぞろぞろ英国の郊外へ逃げたのである。
お金のある市民はとにかく食っていけるのでできるだけ遠い方へ逃げるというふうであった。しかし貧乏な連中となるとその難儀はひどいものであった。そしていよいよ生活に困ると田舎に迷惑をかけるということになる。そのために田舎の街が騒然となることもしばしばであった。時には避難民を逮捕することもあった。しかし逮捕したところでさてどうするというあてもなく,罰するつもりも大してあるわけではなかった。結局無理やりに追いたてるだけの話で,そんなわけで避難した者もやむなくロンドンに舞い戻るという事であった。
身寄りのない多くのロンドンの難民がいたる所の田舎に逃げていって,小さな仮小屋や納屋や離れ家などを作ってそこに住んだということも事実であった。もちろんそれができるのは地方の人たちの好意を得ることのできるところに限られていた。特に少しでも自分たちの健康の証明や,ロンドンを出たのはそんなに最近ではないということの証明をはっきりさせることの できたところではそれは容易であった。このほかこれまた大勢だが,野原や森の中に掘立小屋・避難小屋を作って住んだり,洞窟の中で仙人みたいな生活をした人々も大勢いた。そういうところでの生活がどんなに苦しく困難であるかは容易に想像できる。しかし終いにはどんな危ない目にあっても構わないという気持ちになって多くの者はロンドンに帰っていったのである。そのために掘立小屋で空っぽのままのものがずいぶんたくさん残っていた。田舎の人はこれはてっきりペストにやられて,小屋の住人が死に絶えたものと思い込んで近づこうともしなかったものである。かなり長いことそういう状態が続いた。
不運な放浪者の中には孤立無援のままに 人に知らず住んでいた者がいた。ある時などはテントだか納屋だかの中に一人の男が死んでおり,すぐ近くの畑の門のところに不揃いな字で次のような文句がナイフで刻みつけてあった。
もういけナイ
二人ともスグ死ぬ
ああ
テムズ川下流では,いわゆる「沖泊」というのであるが,幾層もの船がずっと纜(ともづな)を結び,列をなして停泊していた。聞くところによればこういう状態は下流のクレイブゼンドに至るまで続いていたということであった。波風の心配がなく安全に停泊できるところならずっと下流に至るまで,ほとんどあらゆるところでそういう光景が見られたということであった。そのような船に乗り込んでいた人たちでペストにかかった人の話は私はまだ聞いたことがなかった。乗っている人たちが上陸して近い町や村や百姓の家に新鮮な食料品・鶏肉・豚肉・牛肉などを買いにしばしば出掛けたにもかかわらず,誰も病気にかからなかった。ただ例外としてはプールやずっと上手のデッドフォド入江辺りに停泊中の船は相当にやられていた。ロンドン橋から上流にいた船頭たちも,我勝ちにと上流へと逃げていった。その大多数の者は彼らの天覆いや鏨(たが)を上からかけた船に家族を乗せていた。寝るためには船底に藁を敷き詰めていた。こういう有様であって,船頭等は川沿いの沼地にずっと上の方まで停泊していたのである。ある連中は昼間は川岸にちょっとしたテントを張って休んで,夜になると船に戻っていくという生活をしていた。話に聞くとこんな状態で川岸に沿ってずっと上流まで長蛇の列の船が並んでいた。何か食べ物が手に入るところ,その近辺から何か買えるところならばどんな遠いところでもその遠さをものともせずに船の列が続いていたという。事実田舎の人は紳士はもちろんのことその他の人たちもこういった緊急の際は喜んで援助の手を差し伸べた。ただしかし船頭等を自分の町や家に入れてやろうとは絶対にしなかった。それは無理無理もないことであった。
ロンドン近隣町村の住民が,感染を恐れて逃げてくるロンドン市民に対して残酷な態度に出たことが非難されていたことは私もよく知っている。実際無慈悲なことも行われていた。しかし自分の身に危害を加えられる事が明らかでなければ,ともかくそうでない限りは信仰の人々は良心に恥じない程度の慈善と援助の手を喜んで彼らに差し伸べていたことも私としては言っておかなければならない。しかしどの村も結局自分が可愛いことに変わりはなかった。従って苦し紛れに逃げ出したロンドン市民たちは結局虐待されて,とどのつまりロンドンに追い返されるという場合が実に多かったのである。当然ロンドン市民の間には近郊の町や村に対する喧々囂々たる不満がこだました。その非難の声は終いには収集できないほどになった。ところで町村側の警戒にもかかわらず,ロンドンを中心とする半径10マイル以内にあるちょっと名の知れた町や村ではペストに侵され,また若干の死者を出さなかった地はひとつもなかったのである。
この他にロンドン市民に対する田舎の人々の警戒心を一層強めさせたもう一つの問題があった。それは特にロンドンの貧乏人に対する警戒心であった。このことには,既に病気にかかった人たちの間に今度は病気を他に伝染してやろうという恐るべき傾向があるらしいということであった。このことについては医者仲間で議論が戦わされた。こういう傾向はこの病気のしからしめるところだと説く医者もいた。その説によれば,病気にかかった人間には自分の仲間に対する一種の狂乱と憎悪の念が例外無しに生まれる。病気そのものの内に他の人に伝染してやろうという悪性なものはあるばかりではなく,患者の性格の中にもそういう悪性が現れてきて,ちょうど狂犬病の場合と同じく,他にも悪意をもって悪い目つきで見るようになるというのである。狂犬病にかかった犬はどんなに大人しい犬であってもたちまち手当たり次第に飛びかかってくる。それも以前よく懐いていた人であろうとなかろうと構わずに食いつくと言われる。それと全く同じだというのである。人間の性質のものが腐敗しているからだという説明をする人もいた。つまり同じ人間の仲間でいながら自分だけが他のものよりも悲惨な状態にあるという事実に耐えられずに,あらゆる人間が自分と同じぐらい不幸な目に遭うか哀れな境遇に 落ちて欲しいという欲望を持つに至るというのである。
ロンドン市民が徒党を組んで大挙して押し寄せてくる,それも助けを求めるためどころか略奪しに来るのだという情報が田舎の人々の耳に伝わって皆愕然としたそうであるが,そう驚くのをもっともなことだと思われる。その情報によれば市民たちは病気にかかったらかかりっぱなしにただやたらにロンドン市内を右往左往しているとか,患者の家を検査して患者が他の人に感染させるのを防ぐのという何らかの手段を講じられていないとか,そういったことは言われていたのである。
しかしこれはロンドン市民の名誉のために言っておかなければならないが,先に述べた特殊な場合を除いては,伝えられたようなことは絶対に行われなかったのである。むしろ万事が綿密な考慮のもとに処理されていったというのが真相であった。ロンドン全市はもちろんその郊外も市長と市参事によって見事な秩序が保たれていたのである。外教区(アウト・パリシュ)では治安判事と教区役員が見事にその責任を果たしていた。そんなわけでペストが最悪の猛威を振るった時期でも立派な統制が取れて見事な秩序が市内至る所に保たれていた。
これについてただここで述べておきたいことは,ある一つの事が主として治安関係の役人により慎重な配慮によって達成されたということである。そしてこのことは彼らの名誉のためにも言わなければならないことだと思うのである。それは何かと言うと家屋閉鎖という困難な大事業をやるに際して彼らの取った緩急よろしきを得た措置である。家を閉じてしまうということは市民の非難の的であったことは事実である。当時としては市民唯一の非難の的と言っていいほどであった。同じ家に患者も健康の人も一緒に閉じ込めてしまうことは誰にも残酷なことと言われていた。そうやって閉じ込められた人の訴えるこえは悲惨の極みだった。その声は道路を歩いていても聞こえるほどであった。それを聞くと同情の念が悠然として湧き上がってくる。時には痛切な怒りの念を覚えることもあった。家の人々が友人と話ができるのは窓のところからだけであった。その悲痛な訴えは話し相手の心を動かすことはもちろん,たまたま通りかかった人の心を動かすことも再三あった。こうやって閉鎖された家から色々秘術を尽くして監視をごまかしたりへこましたりして逃げ出そうとする話や,実際に逃げ出した人々の話もあった。そのことにはしかし治安当局が閉鎖された家の人間に対する処置にかなりな裁量を加えていたことは言っておきたい。ことに家人が病人をペスト病院か何かに本人の希望に応じて移す場合,あるいは病j.人自身が移される場合などかなり酌量が払われた事を言っておきたい。
■1665年8月,9月,第二波絶頂期
8月・9月の1番の絶頂期に病気にかかった人間で死を逃れた人間はまずいなかった。この頃の病状は6月・7月・8月初旬の頃の一般的病状と全然違っていたということである。初夏の頃に病気にかかった人間は,かかったままで何日も生き続け血管の中に病気の毒を養ったあげくぽっくり死んでいった者が多かったのである。ところが今度は反対で,8月後半の2週間〜9月前半の3週間後に病気にかかった人間はどんなに長くても2〜3日でだいたい死んでいった。かかったその日に死んだ人間も多かった。こういう無残なことが起きるのは暑い土用のせいかそれとも占星術師が言うように狼星(Dog Star)の感応力からしめることかどうか私は知らない。それとも前から持っていた病気の種子がこの時期になって一気に発育したもの かどうかも私は全く知らない。とにかくこの時期は一晩で3000人以上の死者が報告された時期であった。事実を詳しく調べたと敢えて称する連中が伝えるによれば,死者はすべて2時間以下の間に,つまり午前1時〜3時までの間に死んだそうである。以前に比べてこの時期になって病人の死に方があまりに唐突になった事についてはその実例がおびただしくある。
私の近所だけでもいくつかあげることが出来る。ロンドンの関門の外側の私の家からさほど遠くないところに住んでいたある家族は,月曜日に全員健康そうに見えていた。家内は10人家内であった。ところがこの月曜日の夕方に女中1人と小僧1人が発病し翌朝に死んだ。同時にもう1人の小僧と主人の子供2人が発病して3人はその夕方に死に,残りの2人が翌週の水曜日死んだ。こういうわけで土曜日の昼までに主人主婦,4人の子供,4人の方奉公人全員が死んでしまった。家ががらんとなった後にはただ一人亡くなったその主人の兄弟の依頼で家財道具を片付けに来ていた老婆だけがぽつんと残っていた。その兄弟というのはあまり遠くないところに住んでいて病気にかかっていなかったそうである。
おびただしい家屋がらんどうになった。
ロンドン関門の少し向こうのところであるが,先ほどの地区を進んでいくと「モーゼとアロン」という街の標識があった。そこから入っていった小路などなどひどいものであった。 何軒かかたまった地区では全部合わせても一人も生きている人間はいなかったという。小路の死者があまりに多くて埋葬人や墓堀人に埋める通告を出す人がいなかったという状態であった。
市民はあまり悲しみのどん底に陥って生きる望みを失って自暴自棄になった状態が続いた。すると最悪の3週間から4週間を通じて意外な現象がおk8た。つまり市民がやたらに勇敢になったのである。たがいに逃げ隠れをもなくなったし家の中に人に閉じこもるのも辞めてしまった。それどころか,どこだろうがそこだろうが構わず出歩くようになった。相手がまず話しかけるようになった。片割れの人間に向かって次のように言う人もいた。
「あなたのご機嫌を伺っても仕方ないし,私の機嫌のことを言っても仕方がない。ともかく一同揃って迎えが来たらいくわけですから。誰が病気で誰が健康だと言ったところで始まらない」
そんなわけで平気で公衆に混じり,どこへでもどんな人ごみの中でも出かけていった。平気で公衆の中に混じるようになるに連れて,教会にも群れをなして出掛けるようになった。席のそばに誰が座ってるかなどもはや問題ではなかった。悪臭を放つ人間と一緒になろうが,右がどんな様子の者であろうが介しなかった。累々と積まれた死体であるとでも考えているのか,教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば生命は価値を持たないとでも考えているようであった。熱心に教会に来て真剣な表情で説教を聞いている姿は全く驚くほどであった。そういう光景を見ていると彼らの神を拝むということをどれだけ重要視してるかは明らかだ。
この他にも思いがけない現象が生じた。市民が教会に行って説教壇上の人間を見てもそれが誰であろうと従来のような偏見に満ちた態度を一切示さなくなったこともその一つであった。
病気の最も激しかった頃の私の見聞について話を続けよう。
もう9月になっていた。この9月ほど悲惨な9月をいまだかつてロンドンは味わったことが無かったのではないかと思う。
以前にロンドンに起こった悪疫流行の記録を全部見てみたが今度のような惨状はいまだかつてなかった。8月22日〜9月26日までの僅か5週間で,死亡週報の報ずるところによれば,ほとんど40000人からの人が死んでいた。これでだけでも膨大であったがこの計算がすこぶる不十分なものだったと信じる理由があった。その理由を知ればこの5週間のどんな週でも週に1万人以上の死亡者数がいて,その期間の前後の週にもそれ相応の死者があったことを読者にも容易に信じていただけよう。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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Defoe「ペスト」〜17世紀ロンドンに流行した疫病の記録
それは確か1664年9月初旬のことであったと思う。近所の人たちと話していた時に,私はふとペストがオランダに流行りだしたという噂を耳にした。「また流行りだした」というのはその前の年の1663年にオランダはこのペストのためにひどい目に遭っていたからである。
特にアムステルダムとロッテルダムはその中心地であった。なんでもその時の話の様子では,あるものはその疫病はイタリアから入ってきたと言い,またある者はレバント地方から紀行したトルコの商船 で運ばれた貨物にくっついて入ってきたのだとも言った。いやあれはクレタ島からであるというものもいたし,サイプラスからだと言う者もいた。
しかしどこから疫病がやってきたかは問題ではなかった。問題は再び疫病がオランダに流行りだしたということであった。これには誰も異存はなかった。当時まだ新聞などという報道を伝える印刷物はなかったし,その後長生きしたおかげで私も実際に見てきたような嘘八百を並べ立てては風説や報道をさらに煽り立て様と言ったメディアはなかったのである。
■1664年11月
政府当局は真相については正しい情報を持っていたらしく,国内侵入を防ぐ手段を講じようとしてしばしば会議を開いていたようであった。しかし実際は秘密にされていた。そういうわけでその噂も自然に立ち消えになっていき,我々も元々大して我々に関係したことでもなかったのだという風にいつのまにか忘れかけていた。またあれは本当ではなかったらしいとホッとしたような気にもなっていた。
しかし同じ年1664年11月下旬だったか,それとも12月上旬だったか,突然二人の男がロングエイカーでドルアリ通りの上手の家で疫病のために死んだのである。二人が泊まっていた家の者はできるだけこのことを隠そうと努めたらしい。しかしいつのまにか近所の話題になって,当局者の知るところになった。このことは直ちに教区役員に正式に報告され,教区役員はまた教区役員本部に通報した。死亡週報にはただ簡単にこともなげに
感染 2
感染教区 1
という記事が掲載された。これを見た市民の不安は大変なものであった。ロンドンは上を下への大騒ぎになった。
■1664年12月
その折も折同じ1664年12月の最後の週に同じ家で同じ病気で死んだ者がもう1名でたものだから,その不安には一層大きくなった。しかしまたそれから6週間ばかり平穏無事の日が続いた。その間死者でベストに犯された痕跡を示していたものはなかった。「悪疫は退散した」などと言いあったりした。
■1665年2月
しかしそれも束の間のことで,翌年1665年2月12日頃だと記憶するが,死亡者が1名が同じ教区の別の家からでた。区域も同じなら病気の経過をまた同じであった。
こうなると全市民の目は自然その界隈に注がれるようになった。セントジャイルズ教区の死者数は普段よりもグッと跳ね上がっているのが死亡週報にはっきり表れていた。したがってその界隈の住民の間に疫病患者がいるらしいということが恐れられた。またできるだけ世間の目から隠そうとも勤めていたが,それにもかかわらずおそらく大多数の人が疫病で死んだと思われた。この不安は深刻に市民の頭に染み込んいったようであった。
死亡者数の増加は次の通りであった。
セントジャイルズ インザフィールズ教区とホウボン区のセント・アンドルー教区の一週間の普通の死体埋葬数は多少の増減はあるがだいたいにおいて12〜19というところであった。
ところがセントジャイルズ教区に初めてペストが発生してからというもの,普通の病気による死者数が著しく増加してるのが認められた。例えば
12月27日〜01月03日 34
01月03日〜01月10日 30
01月31日〜02月07日 44
02月07日〜02月14日 24
すべての教区の死亡者数は普通240〜300の間であった。300という数字でも相当に高い死亡者数であると考えられていた。ところがベスト発生以後死者数はみるみるうちにうなぎ上りに上がっていった。すなわち
12月20日〜12月27日 291
12月27日〜01月03日 349
01月03日〜01月10日 394
01月10日〜01月17日 415
01月17日〜01月24日 474
この数字の増加は前回のペストの流行の1656年以降わずか一週間としては実に未曽有のものであってその点まさに恐るべきものであった。
しかしながらこれ以降は何事もなく済んでしまった。天候は寒くなって,前年12月に始まった寒気はほとんど2月の終わりまで衰えずに寒さは極めた。その上まるで肌を刺すような風が吹いた。
死亡者数はずっと減ってロンドンは再び生気を取り戻した。誰も彼も危険はもうさったも同じだと思い始めた。ただそれでもなおセントジャイルズ教区の死者数だけは相変わらず相当なものであった。
■1665年4月
セントジャイルズ教区の死者数は特に4月上旬からはその数は毎週常に25を下らなかったが毎月18〜25日に至る1週間ではこの区域で埋葬したした死体の数だけで30に達した。そのうち
疫病によるもの 2
発疹チフスによるもの 8
ということになっていた。しかし発疹チフスと言っても本当は疫病だと考えられていた。同じような理由で全死亡者数の中でこのチフスのために死亡した者の占める数もずいぶん増えてきた。前の週に8であったものが今週では12といった具合であった。これには我々も再び驚いた。深刻な憂鬱の色が市民の間に漂い始めた。特に気候もだんだんと暖かくなってゆこうとしていたし,夏もおっつけやって来ようという気配であったので一層深刻な物があった。
その翌週にはまた希望の色がみえ始めた。死亡率が下がってロンドン全市を通じて死亡者数はわずかに388人で,疫病によるものは一人もなく,チフスもわずか4人であった。
■1665年5月
しかし次の週にはまたぶり返してきた。疫病は他の2〜3の教区,すなわちボウモン教区,セントアンドリュー教区,セントクレメントレインズ教区にも蔓延していった。しかもその上市民を慄然とさせたことはとうとういわゆるシティ(城中)のセントメアリーチャーチ区域に1名の死亡者を出したことであった。
つまりその場所は正確に言えば 食料品市場の近くのベアバインダー通りであった。この週の死者数のうち疫病によるものは9人,発疹チフス6人であった。しかしさらに調べてみるとこの日ペストバインド通りで死亡した人はフランス人で,かつてはロングエーカーの感染ホテル近くに住んでいたこともあって病気にかかるの恐れて移ってきた人であることが分かった。ところが実にはその人はもうすでに病気に感染していたのを本人が気づかなかったのである。
これが5月の初めのことであった。まだ気候は温和でしのぎやすく程よい涼しさであった。従って市民は未だ幾ばくかの希望を持っていた。こんな風に望みを繋いでいたのは次のような事情もあった。それはロンドンがまだ健全と思われていたことだった。97の教区のうちで疫病に倒れたものはわずか54人に過ぎなかったからである。我々も病気の蔓延しているのはロンドンの中でも専ら問題になっている端の方の教区にすぎない。従ってそれ以上広まる心配はあるまい。そう高をくくり始めた。
5月の9〜16日までの7日間わずかに死亡者数は3人になった。しかもそのうち一人も市内・自由区にはいなかったのである。セントジャイルズ教区では患者が32もあったことは本当であるがそれでも疫病にかかって死んだのはわずか1名に過ぎなかった。こう死亡率が下がってくるとそろそろまた市民たちは安堵の笑みを浮かべるようになった。前週の死亡者はロンドン全体で347人。今週はそれが343人になっていた。
次の死亡通報は5月23〜30日までの期間。セントジャイルズ教区の死亡者数は実に53というまさに戦慄すべき数であった。このうち疫病によるものは9と公表されていた。しかし市長の要請に基づき治安判事たちが徹底的に調査したところ,その区域で実際に疫病で死んでいたものはこの他にも20人もいたということが判明した。しかしこのようなことはこの後に起こった事柄に比べたら全く取りに取るに足らない事柄であった。
■1665年6月
気候はもうすっかり暑くなった初夏6月第1週頃からはこの疫病は恐ろしい勢いで広がっていった。
6月第2週目を迎えるようになると,セントジャイルズ区域では死亡者数は120になった。このうち死亡通報の伝えるところによれば疫病によるものは68に過ぎなかった。しかしこの疫病のいつもの数字の数から考えてみてどう転んでも100人は疫病で死んだに違いないと誰も彼もが信じていた 。
■1665年7月
すでに7月の半ばになっていた。疫病は主としてロンドンの向こう側の地区でイレブン教区及び保護区域のセントアンドリュー教区やウエストミンスター教区よりの地域などで猛威を振るっていた。
私の住んでいる地域に向かって徐々に疫病地帯が移動していた。それは文字通りの東進であって,しかし決して我々の方に向かってまっしぐらに進んできているのではなかった。例えばシティ(城中)はまだまだ相当に平気であったし,川の向こうのサザン教区にもあまり進出してきてはいなかった。
この週の死者数は約1268人でうち疫病によるものは900人以上と考えられていた。一方シティ(城内)ではわずか28人の犠牲者に過ぎなかった。一方セントジャイルズ教区とセントマーティンズ・インザフィールズ教区の二つの教区だけでも実に421人の死者を出していた。しかしこの疫病が陰惨を極めたものは,何と言っても城外区(アウト パリス シティ)つまりかつての城の周辺にある区域だった。何しろ人口が多い上に貧乏人が多いのである。疫病は一層餌を求めて荒れ狂っていたのである。
とにかく病魔は次第に自分たちの方に近づいてくるのを我々は認めていた。すなわちクラーケンウェル教区,クリップゲート教区,ビショップスゲート教区などの区域を追加して迫って来ようとしていたのである。特にこの二つの区域はゴールドゲート教区,ホワイトチャペルし教区などの区域に接していたのであるが病気がいよいよ迫ってきた時にその凶暴さは非常な猛威をふるった。 最初に発生した西部の区域で次第に病気の勢いが衰えていった時でさえも依然として激烈を極めているというふうであった。
7月8日〜7月11日の間に セントマーティンズセント教区・ジャイルズ教区の二つの教区だけでほとんど400人の人がベッドに倒れた。にもかかわらずオールドゲート教区では4人,ホワイトサドル教区では3人,ステファニー教区では1人これだけしか流れなかったこれには我々も驚きを禁じえなかった。翌週7月11〜18日に至る間にロンドン市全体の死亡者数が1761人であったにも関わらず,テムズ川の向こうのシティ地区では疫病に倒れた者はわずか26人であったのである。
■1665年8月
しかしすぐに形成も一変してくる。ゲート教区を始めクラーケンウェル教区などにおいて猛勢をたくましくしつつあった。
例えば8月第2週までにクリップゲート教区だけで886人の死亡者数を出してクラーケンウェル教区も155人の死亡者数を出したが,このうちクリップゲート教区においては実に850人が疫病に関しているものと推定された。
クラーケンウェル教区でも死亡者数ホノルルところでは145人がすぐにあるとのことであった
08月22日〜08月29日 7496
08月29日〜09月07日 8252
09月07日〜09月12日 7690
09月12日〜09月19日 8297
09月19日〜09月26日 6470
8月のロンドンの人口は1月のそれの1/3もなかった。ロンドンの風景は今や全く一変してもはや昔日の面影はなかった。あらゆる大きな建物を始め
シも自由区もウエストミンスター地区もすべてが一変してしまったのである。ただあのシティと言われる特別な一角。あそこだけはまだ被害を受けてはいなかった。しかし一般の様子は前にも言ったようにすっかり面目を一変してしまっていた。どの人間の顔にも悲しみと憂鬱が漂っていた。まだ破壊的な打撃を受けていないところもあったが誰も彼も一様に不安に怯えた顔つきをしていた。私はこの在り様をそっくりそのまま伝えることができたらと思う。近親者の死を悼むために正式の喪服をつけたりする者は一人もいなかった。街にはそれらしい葬式の姿は見られなかった。しかし悲しみの声は街に溢れていた。。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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gamenotatsujin: 死の舞踏〜ペスト流行の歴史
死の舞踏
メメント・モリ(MEMENTO MORI)とはラテン語でいつか自分が必ず死ぬことを忘れるなという意味でもあり,警句でもある。起源は旧約聖書のイザヤ書にある。フランスのル・ピュイのゴシック後期の修道院教会の聖歌隊席(コール)の裏手に有名な「死の舞踏」が描かれている。PS:イザヤ書22:13 しかし,見よ,彼らは喜び祝い牛を殺し,羊を屠(ほふ)り肉を食らい,酒を飲んで言った。「食らえ,飲め,明日は死ぬのだから」と
関連記事:http://web.archive.org/web/20071228223637/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/297.html
■聖書物語〜イザヤ書
https://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/140.html
第二イザヤはトインビーによると「千年期・the Milleniumの間支配する王は,まだ神自身ではなく,単に別の代理者,すなわちメシアにすぎない。しかし,この世界が”別の世界”によって取って代わられるまでの間,”この世界”に出現する奇跡的な”至福千年期”=エデンの園(神の国ではなくて地上の楽園)の思想は,異なっているばかりでなく,結局において互いに相容れない二つの思想を妥協させようとする支持しがたい試みである。第一の思想,すなわち,第二イザヤ書の思想は,奇跡的に改善された未来主義的な現世王国の待望である。第二の思想は,”神の国=CIVITAS DEIは時間のうちに存在するものではなく,別な精神的次元に置かれているものであって,このように次元を異にしているからこそ,かえってわれわれの現世生活の中に浸透し,それを変貌させることが出来る,という思想である.......千年期の終末観思想が不可欠な思想的はしごの役目を果たしたかも知れないが,一度上に登ってしまえば,もうそのはしごはなくなっても差し支えない」(トインビー注;千年期が俗に未来の”黄金時代”の意味で用いられるのは,ここからきているのである)
キリストが王として統治する王国は,アカイメネス朝の王をユダヤ人の王に変え,おまけに未来に投影した,世界征服者としてのメシアによって打ち立てられるいかなる王国とも,同じ標準で計ることができない。ピラトに,「あなたの言うとおり,わたしは王である」と答えたのち,「私は真理についてあかしをするために生まれ,また,そのためにこの世にきたのである」<ヨハネ福音書,18・37>。この思いがけないことばは,あるいは無視することも出来よう。
このCIVITAS DEI(神の国)がいやしくも時間の次元に入ってくる限りにおいては,それは未来の夢としてではなくて,現在に浸透する精神的実在としてである。もしわれわれが,実際にどうして,神のみこころが天に行われているとおり,地にも行われるようになるか,ということを問うとすれば,その答えは,神学特有の表現を用いて言えば,神の遍在という概念の中には,超現世的平面における超越的存在だけでなしに,現世における,また,現世に生きるあらゆる人間の魂の中における内在が含まれる,ということになる。
キリスト教の神観では,神の超越的な面(あるいは”ペルソナ”(三位一体の神のおのおのの位格)は”父なる神”のうちに現れ,内面的な面は,”聖霊としての神”のうちに現れる。しかし,キリスト教の信仰の独特の,かつもっとも重要な特徴は,神が二元的存在でなくて三位一体であること,そして”子なる神” としての面において他の二つの面が統一され,この神秘によって,人間の頭では理解できないが,人間の胸ではっきりと感じることのできる一つのペルソナを形成していることである。”まことの神”であると同時に,”まことの人間”であるイエス・キリストのペルソナのうちに,神の社会と現世社会は,この世ではプロレタリアートの間に生まれ,罪人として死ぬが(注:バラバかイエスかという意味で),別の世界では”神の国”の王,神そのものであるところの王となる, 共通の成員をもつ。一方は神的で他方は人間的な二つの性質がどうして単一の人格のうちに同居しうるのだろうか。この問いに対するいくつかの答えが,信条の形で,キリスト教父の手により,ヘレニック社会の哲学者の専門語を用いて作り上げられている。
霊界はなぜ時空ゼロか
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1620698.html
道をたずねた。
老婆は答えた。
上さまに行けば山,
下さまに行けば海。
どちらに行けば極楽でしょう。
どちらさまも天国,
どちらさまも地獄。
世界はあんたの思った通りになる。
文・藤原新也(メメント・モリより)
https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-090_1.html
14世紀からヨーロッパで広がった死者と生者が踊る図や詩を「死の舞踏」という。
1346〜7年に始まり、1348年にヨーロッパで大流行した疫病、黒死病はペストと考えられている。ペストの大流行のころから教会や墓地に「死の舞踏」といわれる壁画が描かれるようになった。その壁画は、生きている人と死者(骸骨やミイラになっている)が一組になり、死者が生者の手を取って行列を作って踊りっている図である。特徴的なことはそこに描かれた人人は、ローマ教皇や皇帝、国王、王女から枢機卿、司祭などの聖職者、騎士や領主、商人や農民、さらに子供までが含まれており、死はそれらの身分や立場を超えて平等にやってくることを示している。これらの絵は「ダンス=マカブル」と言われ、14世紀の初めにフランスの罪なき聖嬰児聖堂の壁画が最初であるらしく、その後ブルターニュなどの地方に広がり、さらにドイツやイタリア、イベリア半島などほぼヨーロッパ全域の教会堂や墓所の壁画に描かれるようになった(その多くは宗教改革の時代に破壊されたり、上から漆喰が塗り込められてしまったが、最近になって原状のままで発見されたものも出ている)。
その起源は諸説あるが、死者を悼む踊りとして元々あり、黒死病の大流行に直面した人びとが死と向き合うようになり、このような絵を描いたものと思われる。生者に対して常に死を忘れるなと言う、「死を忘れるな!」(メメント=メモリ、死を想え!ともいう)という言葉が当時広く説かれたことに関係が深い。
■死の舞踏
木間瀬精三『死の舞踏』より
また、「死の舞踏」は教会堂の壁画だけでなく、その写本が出版されるようになり、写本の形で残っているものも多い。15〜16世紀にもその流行はつづき、表現はさらに深められ、著名な画家であるホルバインのように、死の舞踏をシリーズで出版し、広く受け入れられたという。
図は、1342年にパリの罪なき聖嬰児聖堂記(サン=ジノサン聖堂。16世紀にアンリ4世の暗殺現場となったため取り壊されてしまった)の壁画を元にして、1485年にギュイヨ=マルシャンがパリで出版した本に掲載された「死の舞踏」の一場面。この図では左側が枢機卿、右側が国王がそれぞれ骸骨と手を組んで踊っている。<木間瀬精三『死の舞踏 西欧における死の表現』1974 中公新書>
■「死の舞踏」流行の背景
(引用)暮れなずむヨーロッパ中世に影を落とす生者と死者の舞踏行列。骨と化し、あるいは、内臓や皮膚を残す干からびた死者たちが、身分の貴賤、老若男女を問わず、生きている者たちの手を取って墓場へと誘う。生者たちは、さまざまなポーズをとりながら、過ぎ去りし人生をふり返っては嘆き悲しみ、また、いとおしむ。・・・・‘ダンス・マカーブル’。のちに「死の舞踏」と呼ばれる絵図である。それは苛酷な時代であった。まずはカトリック教会の危機があった。ローマ教皇が南仏のアヴィニヨンに幽閉されたことに始まる教会分裂(1309〜77年、教皇のバビロン捕囚)と、それにつづいて、ローマとアヴィニヨンに二人の教皇が立つという大分裂(シスマ、1378〜1417年)である。かたや世俗世界では、イングランドとフランスの間に百年戦争が起こった。1339年から1453年にわたって繰り広げられたこの戦いには、世俗の諸権力が巻き込まれて分裂する一方、国土は荒廃し、多くの人命が失われた。加えて1347年、シチリアに上陸した黒死病(ペスト)が瞬く間に北上し、全ヨーロッパの風土を洗い流していった。それらはカトリック教会権威の失墜、世俗権力の伸長、そして何より死亡率の上昇を促し、総じて、中世世界の変容を招いたのだった。死の舞踏が成立する背景には、中世後期の三大危機といわれるこれらの事件があったとされるのが通説である。<小池寿子『「死の舞踏」への旅 踊る骸骨たちをたずねて』2010 中央公論新社 p.3-4>
14世紀中ごろ、アジアからヨーロッパにかけて大流行した疫病は黒死病と言われ、ペストと考えられる。百年戦争の最中であった西ヨーロッパでは人口の3分の1が死んだと言われ、人口減少から封建社会の変質の一つの要因となった。その後もたびたび世界的な流行があった。
■14世紀の大流行
1346年から47年にかけて、コンスタンティノープルから地中海各地に広がった疫病の流行は、マルセイユ、ヴェネツィアに上陸、1348年にはアヴィニヨン、4月にはフィレンツェ、11月にロンドンへと西ヨーロッパ各地に広がり、翌年には北欧からポーランドに、1351年にはロシアに達した。発病すると高熱を出し、最後は体中に黒い斑点が出来て死んでいくので「黒死病(black death)」と言われた。恐ろしい伝染力を持つこの疫病は、現在ではペストと考えられている。
ペストの大流行の発生源は解っていないが、ペスト菌を媒介するノミがクマネズミから人間に移り、伝染させる。クマネズミはもともとヨーロッパにいなかったものが、十字軍の船にまぎれ込んで西アジアからヨーロッパに移り住んできたのだという。
ルネサンスへの影響 このときのフィレンツェにおける流行の様子は、ボッカチォの『デカメロン』にくわしく描かれている。またこのころ、ヨーロッパ各地の教会や墓所には「死の舞踏」と言われる壁画が造られた。
百年戦争への影響 当時のヨーロッパは百年戦争の最中であり、英仏両国にも伝染し、戦局に大きな影響を与え、1358年のフランスのジャックリーの乱、1381年のイギリスのワット=タイラーの乱という農民反乱の背景ともなった。しかし、黒死病の大流行による人口の激減は、生き残った農民の待遇を良くすることとなり、農奴解放がさらに進むこととなる。またそのような社会変動の中から、人間性の解放を求めてルネサンスといわれる文芸や美術での動きが活発となっていた。
■黒死病の死者数
大流行は1370年ごろまで続いたが、ヨーロッパ全体での犠牲者は、総人口の3分の1とか4分の1と言われているが、正確な数字は不明である。ある説によると、当時のヨーロッパの総人口約1億として、死者は2500万程度と推定されている。このペストについては、当時の人々は流行の原因がわからず、一部ではユダヤ人が井戸に毒をまいたからだ、などという噂からユダヤ人に対する虐殺が起こったりした。<この項、村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 による>
資料 ボッカチォの『デカメロン』
(引用)さて、神の子の降誕から歳月が千三百四十八年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に恐ろしい悪疫が流行しました。それは天体の影響に因るものか、或いは私どもの悪行のために神の正しい怒りが人間の上に罰として下されたものか、いずれにせよ、事の起こりは数年前東方諸国に始まって、無数の聖霊を滅ぼした後、休止することなく、次から次へと蔓延して、禍いなことには、西方の国へも伝染してきたものでございました。
それに対しては、あらゆる人間の知恵や見通しも役立たず、そのために指命された役人たちが町から多くの汚物を掃除したり、すべての病人の町に入るのを禁止したり、保健のため各種の予防法が講じられたりいたしましても、或いは、信心ぶかい人たちが恭々しく幾度も神に祈りを捧げても、行列を作ったり何かして、いろいろ手段が尽くされても、少しも役に立たず、上述の春も初めごろになりますと、この疫病は不思議な徴候で恐ろしく猖獗になってきました。<ボッカチオ『デカメロン』野上素一訳 岩波文庫 第1冊 p.55-56>
『デカメロン』はボッカチォが1348〜53年の間に書いた物語集で、『十日物語』とも言われる。ペストの流行から逃れてある邸宅にひきこもったフィレンツェの10人の男女が10日間にわたり、1夜にそれぞれが1話ずつ退屈しのぎの話をする形式をとっている。
■その他の地域のペスト
14世紀の中ごろ、イスラーム圏のエジプトを中心としたマムルーク朝にもペストが広がり、人口が減少し、その国力が衰えるきっかけとなった。また16世紀にはヨーロッパからラテンアメリカに持ち込まれ、インディオの減少の一因となった。
■17世紀、19世紀の大流行
14世紀の大流行の後には、17世紀にヨーロッパ全域で大流行している。特に1665年のロンドンで大流行し、『ロビンソン=クルーソー』で有名なイギリスの作家デフォーが『疫病流行記』という記録を残している。ニュートンもこのとき感染をさけて故郷に疎開し思索にとつとめたという(下掲)。
ペストの最後の大流行は19世紀末に起こった。このときは中国から始まり、アジアで急激に広がり日本にも伝わった。しかし、1894年、流行の中心地香港に派遣された北里柴三郎がペスト菌を発見し、ノミがネズミから病原菌を人間に伝染させることが判明した。この流行は1910年代に収束したが、このときの北アフリカ・アルジェリアにおける流行を題材としたのが、アルベール=カミユの『ペスト』である。
■Episode ニュートンの創造的休暇?
1665年のイギリスでのペストの大流行が、科学の歴史上きわめて重要な副産物を残したとされている。というのは、ニュートンはこのときケンブリッジのトリニティ=カレッジを卒業したが、大学がペスト流行の凄まじさのために休校を繰り返していたので、しかたなく故郷の田舎に帰り、ぼんやりと日を過ごすうちに、光の分光的性質と、重力の逆二乗法則を、そしてさらに微積分計算の基本的アイデアを発見したと言われているからである。この「已むを得ざる」休暇とか、「創造的休暇」と呼ばれるエピソードはペストのもたらした最も大きな成果と伝え継がれてきたた。この話はニュートン自身が後年ライプニッツと微積分法の発明の先取権を争ったときに自ら証言したことであるが、どうやらよくある英雄譚の一つであるようだ。<村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 p.180-181>
おまけ〜預金封鎖は近いのか? 5年前のきじですが

ハムレットの水車小屋
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2020年04月13日

池莉「コレラの乱」(1997)〜武漢が舞台の短編小説

池莉「コレラの乱」(1997)〜武漢が舞台の短編小説
小説で感染拡大が予言されていた武漢
中国人女性作家の池莉
米国の作家ディーン・クーンツの小説『闇の目』の中で、「武漢400」という細菌兵器を予告していたことは既に知られている。しかも『闇の目』では、1981年発表当時に「ゴーリキ400」と名付けられた細菌が、2008年版では「武漢400」に改定されているのだ。
さらに、中国で新型コロナを予言していたと話題になっているのは、池莉が1997年に発表した短編小説の「コレラの乱」である。
作者の池莉は武漢で医者として働いた経験があるため、小説の舞台が武漢の病院となっており、それがリアリティを増している。
小説では題名の通りコレラが発生して、村の人々を緊急に隔離する様子が描かれているが、感染は村を超えて大きく拡大はしない。
しかし、田舎の小規模感染に過ぎない話なのに、最初発見した医者がWHOに論文を提出するなど、やや不可解な設定が見られる。これらを見ると、武漢は感染の中心都市として既に少なくとも10年前から、あるいは20年前から目をつけられていたのかもしれない。
野崎晃市(45)

文殊菩薩
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-9766.html








★SF小説の預言?:「武漢400」と「武漢コロナ」
nueqさん2020/03/0213:40 0 0
SF小説の預言?:「武漢400」と「武漢コロナ」 より転載します。
貼り付け開始
 春中国
「 武漢肺炎ウイルスは生物兵器 」 
 米国SF小説の恐ろし予言
 https://www.visiontimesjp.com/?p=4573
 ------------------------------------------
 2020年2月15日
米国有名な小説家ディーン・R・クーンツ氏(Dean Ray Koontz)による1981年の『 闇の目 』(The Eyes of Darkness)には「 武漢-400:Wuhan-400 」というウイルスが言及されている。
現在、武漢から蔓延した新型コロナウイルスによる肺炎とそっくりである。また、ウイルスの出所に関する描写は驚くほどリアルだ。
当該作品には、このような文言がある。
20ヶ月ほど前、李晨(Li Chen)という中国人科学者が米国に亡命した。彼は中国数十年以来最も重要で危険な新型生物兵器の情報を保存しているディスクを持ち出した。それは『 武漢-400:Wuhan-400 』と呼ばれている。なぜかというと、それは武漢の郊外にあるRDNA実験室で開発されたものだから。それは当該研究センターが創造した400個目の完璧な人工ウイルスだ。
 『 闇の目 』では、「 武漢-400 」人造ウイルスは中国共産党政府が反対者を絶滅させる用途に開発されたものとして表現されている。ワクチンも治療薬もない、無数の政治犯の体で試験された「 完璧な武器 」と設定された。人がそのウイルスを接触すると、僅か4時間で伝染性宿主になってしまう。
武漢400と武漢コロナ19の比較:表
https://fnnews.jp/wp-content/uploads/2020/02/001-11.jpg
歯医者さんから頂いた情報♪
ありがとうございます!
< newsNueq-2528:イランの武漢コロナはアメリカISISのテロ? > 配信直前に情報を頂き末尾に加えたけど、やっぱこれは別建てが良いと思い、そうしました。
関連する予言的小説としては、ダン・ブラウンの「 インフェルノ 」もある。まさに武漢コロナのヨーロッパ大流行ポイントのヴェネチアが舞台。
Amazon Prime 他で見れます。
911の際も、アメリカで長年過ごしてた2〜3人の知り合いが、随分前にほぼ同じプロットの3流映画を場末の映画館で観たことがある。と、教えてくれました。
ローマ法王:ヴェネディクト16世からフランシスコ1世への交代劇も、ダン・ブラウン「 天使と悪魔 」のプロットそのままだし、ワレサ委員長のグダニクス造船所反乱 〜 ベルリンの壁崩壊 〜 ソ連崩壊と、それに続く500年ぶりのイタリア人以外、それもなんと、ポーランド人のローマ法王とそれに続くナチス法王:ヴェネディクト16世もギュンター・グラス「 ブリキの太鼓 」がまさに預言の書だった。
テロを仕込む「 作家 = アーキテクチャー = プログラマー 」はSF小説のパクリ屋が多いのだろうか。。。。(^o^)ゞ そう云えば、今のインターネット( &コンピュータ・ウィルス )はウィリアム・ギブソンの「 ニューロマンサー 」そのままで今だにその枠から出られてないし、そもそもがこの「 監視社会 」は1948年に書かれたジョージ・オーウェルの「 1984 」そのまま!
ま、この二人自体が、マルクスやダン・ブラウン同様、【 連中 】から「 プログラム 」の概要を渡され、それをベースに「 小説 」を執筆した。とも考えられるわけだが。。。。。。
レーダーを開発したのは実は「2001年宇宙の旅2001年宇宙の旅 」のアーサー・C・クラークでもあるのだが。。。。。                       nueq
貼り付け終わり、ニュークさん解説。

タマちゃんの暇つぶし
https://1tamachan.blog.fc2.com/blog-entry-19928.html









高嶋哲夫「首都感染」(2010)  〜W杯下東京でのパンデミック
社会  
新型コロナウィルス大流行を10年前から予言!? 『首都感染』作者・高嶋哲夫氏に聞いた
2020.02.25
『首都感染』(講談社)
東京でのパンデミックを描いた10年前の小説
コロナウィルスの伝染は広がり、ついに国内でも死者が出る事態になってしまった。  そして和歌山県や北海道などでも感染例が見つかり、もはや「中国の話」ではなくなってしまっている。このまま収束しなければ、東京五輪の開催にも影響が出る恐れが否定しきれない。  実は、今回の事態を約十年前に予測していたかのような小説を書いていた人物がいる。『首都感染』(講談社文庫)の著者・高嶋哲夫氏である。  簡単にあらすじを紹介する。  
20XX 年、中国W杯が開催され、中国代表が決勝まで勝ち進み国内外の盛り上がりは最高潮に達していた。日本代表も上位進出を果たし、日本国内も興奮の坩堝と化していた。  そんな大会の真っ最中に、中国の片田舎で致死率60%の大規模感染症(パンデミック)が発生する。  しかし、中国政府はW杯の盛り上がりを潰すわけにはいかず、ひたすら事態を隠ぺいする。もちろん、そんな隠ぺいが未来永劫続けられるはずがない。  ついに大会中止に追い込まれ、同時に全世界から集まっていたサポーターたちが帰国の途につき、一気にパンデミックが全世界規模のものとなり、日本でも死者が出る。首相は、パンデミックを抑えるために前代未聞の決断を迫られる−−。
■W杯を舞台に設定したリアリティ
この設定が秀逸なのは、言うまでもなく「W杯開催中」という点である。全世界から人が集まり、大会終了後(あるいは母国代表の敗退後)に帰国の途につき散っていく。パンデミックが一気に広がる条件がこれほど整っているタイミングは五輪とW杯だけだ。  実際、2022年に北京冬季五輪が決まっており、21世紀前半のうちのどこかで中国W杯が開催されることもほぼ確実である。不謹慎を承知で言うが、今回のコロナウィルスは「中国W杯」あるいは五輪に重なっていなかったのが不幸中の幸いという側面もあるのだ。  高嶋氏には、『首都感染』の他にも、『東京大洪水』(集英社文庫)という作品もある。超大型台風が二つ重なったために都内の東三分の一が水没してしまう……台風19号で十分にありえたシナリオである。  全くの余談だが、筆者は19号が直撃したその日、手賀沼を目の前にする自宅が水没する恐怖に怯えながら『東京大洪水』を読みふけっていた。また、高嶋氏は3.11より以前に『TSUNAMI』(集英社文庫)も執筆している。内容は言うまでもあるまい。  一度なら偶然かもしれないが、三回続くのは実力であり、必然である。  ということで、神戸市在住の高嶋氏に今回のコロナウィルスをどう見るか話を伺うことにした。
■発刊当時は、パンデミックという言葉があまり知られていなかった
高嶋哲夫氏
「私があの作品を書きたいと構想を固めていったのは、まだ世間に“パンデミック”という言葉が広がっていない時期のことでした。今から二十年以上前のことですから、SARSよりもさらに前の話になりますね。それこそエボラが発生するさらに前のことですが、私が“ペトロバグ”という小説を書いていたんですよ。石油生成菌についての話なのですが、その調査過程で“パンデミック”と言う言葉を知り、書いてみたいと思うようになりました。その後SARSが発生したこともあり、編集者もわかってくれて書けたということですね」  本当は、タイトルも「パンデミック」にしたかったという。  「ただ、今でこそ少し知られるようになった単語ですが、あの当時にはまだこの言葉で意味が分かる人は誰もいないだろうということで、“首都感染”になりました」  小説のテーマ自体が「いかにして感染を首都・東京だけに封じ込めるか」であるから、筆者の目から見ても「首都感染」はいいタイトルだと思う次第である。  「首都感染」と「コロナウィルス」に共通しているのが、まさに「中国発」という点である。そういえばSARSも中国発であった。 「あまり中国ばかり悪者にするのもよくないと思うんだけど、パンデミックが中国で発生しやすいという現実がありますね。SARSもそうでしたから。やはり、まだ未開の地が多く文化の違いが大きい理由なのでしょうね。エボラはアフリカ発でしたが、多くの未知の感染症がアフリカと中国発ですからね。人に触れることなく、山奥にひっそりと生息しているコウモリやネズミがウイルスを持っているんでしょうね」  ただ、中国に未開の地が多いのは事実だがそれを言うなら北朝鮮はそれ以上に「未開」の地域が多いはずではないか。しかし、筆者が知る限り北朝鮮発のパンデミックが発生したというのは聞いたことがない。それはなぜか。 「確かに陸続きですからね。発生してもおかしくはありません。未知の山奥の開発速度や、食文化の違いがあるのかもしれません。地球上には未知の多くのウイルスや細菌がいますから、単に運がいいだけかもしれません」
■「スペイン風邪」という名称の「政治性」
20世紀に発生した最大のパンデミックは、間違いなく「スペイン風邪」であった。 「スペイン風邪とは、要はインフルエンザの一種ですけれども、“スペイン”と名前はついていますが実は米国発なんですよ。当時、第一次世界大戦中で兵士の移動によって世界的に広まりました。中立国であったスペインのみがこのパンデミックを報道したのでスペイン風邪と言われているようです。なんだか、政治的ですね」  「首都感染」においては、パンデミックの致死率が60%という設定になっている。 「大げさな数字なのは確かです。今回のコロナウィルスの致死率はそこまでいっていませんからね。(筆者註:2月12日付ナショナル・ジオグラフィックの記事によると約2%。ただし、罹患者数はすでにSARSをはるかに超えている)ただ、中世ヨーロッパでペストが発生した際には、ヨーロッパ全人口の3分の1前後が亡くなったと言われています。そう考えれば、致死率六割というのも、全くない話とは言い切れないですね」  ということで、次回引き続き高嶋氏には今後の展開の予測および提言を行っていただくものとしたい。 <取材・文・撮影/タカ大丸> 高嶋/哲夫:1949年、岡山県玉野市生まれ。慶應義塾大学工学部卒業。同大学院修士課程修了。日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)研究員を経て、カリフォルニア大学に留学。81年に帰国後、学習塾経営をしながら小説執筆活動に入る。’94年、『メルトダウン』(講談社文庫)で第1回小説現代推理新人賞、’99年、『イントゥルーダー』(文春文庫)で第16回サントリーミステリー大賞・読者賞をダブル受賞

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タカ大丸
ジャーナリスト、TVリポーター、英語同時通訳・スペイン語通訳者。ニューヨーク州立大学ポツダム校とテル・アヴィヴ大学で政治学を専攻。’10年10月のチリ鉱山落盤事故作業員救出の際にはスペイン語通訳として民放各局から依頼が殺到。2015年3月発売の『ジョコビッチの生まれ変わる食事』は15万部を突破し、現在新装版が発売。最新の訳書に「ナダル・ノート すべては訓練次第」(東邦出版)。10月に初の単著『貧困脱出マニュアル』(飛鳥新社)を上梓。 雑誌「月刊VOICE」「プレジデント」などで執筆するほか、テレビ朝日「たけしのTVタックル」「たけしの超常現象Xファイル」TBS「水曜日のダウンタウン」などテレビ出演も多数。

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妙佛: 中国の怪情報・夜歩く死者〜映画「霊幻道士」のモデル,実在する趕屍
中国に実在したキョンシーと歩く死体の謎
幽霊&怖い話
2020/02/1313:24 0 0
1980年代に「霊幻道士」「幽幻道士」などのキョンシー映画が大ヒットした。当時私も見たが、単なるゾンビの中国版だろうと思っていたのだ。
中国の政治経済情報についてディープな解説をする妙佛(ミャオホー)氏がYou Tubeで人気を博しているが、この妙佛氏、ユーチューバーになる前は「中国の怪情報」という中国のオカルト情報に特化したホームページを運営していた。
この中で妙佛氏はキョンシーは中国の湖南省西部に実在したという記事を書いている。
■中国の怪情報
夜歩く死者
湘西(湖南省西部)には趕屍(かんし)と呼ばれる呪術がある。趕屍は死者を歩かせる呪術だ。
この呪術を使う呪術師を趕屍匠(かんししょう)という。湘西は山深く、耕作面積が少ない。だから地元での耕作だけでは生活が維持できず、出稼ぎに出る人が多かった。出稼ぎに出る人が多いと、出稼ぎに出た先で死亡する人もいる。中国では遺体は故郷に埋葬するべきだという強い観念があるが、出稼ぎに出た先で死亡すると、家族は遺体を故郷に運搬することができなかった。
湘西の道は険しく、遺体を運搬するには数人がかりで数日かかるのだが、それには高額の費用が必要となるからだ。このような時に遺族は趕屍匠に遺体を歩かせて故郷に帰らせるように依頼していた。
■趕屍隊
依頼を受けた趕屍匠は複数の遺体を同時に歩かせることが多かった。数体の遺体を一列に並ばせて歩く趕屍匠の一行は趕屍隊(かんしたい)と呼ばれた。趕屍匠は小さな鐘と銅鑼を鳴らしながら歩いたと言われている。死者を歩かせるのは夜間であった。湘西ではこの音を聞いたら犬を屋内に閉じ込め、趕屍隊と遭遇しないように道を譲る習慣があったそうだ。
犬は霊的な作用に干渉するので、趕屍隊が犬と出会うと死体は歩かなくなってしまうのである。湘西には趕屍隊のための特別な宿があったという。そのような宿は死屍客店、死屍店などと呼ばれていた。趕屍匠は死屍客店に泊まり、死体を戸の内側に立てかけた。
だから湘西では戸の裏側は死者の領域であるとされている。今でも湘西では子供が戸の裏側で遊んではならないという禁忌があるそうだ。趕屍隊が遺族の家に近づくと、使者が遺族の家に到着日を知らせた。知らせを受けた遺族は棺を用意して趕屍隊の到着を待ったのだ。遺族の家に到着すると趕屍匠が遺体を棺に納めた。遺体を納める一部始終は絶対的な秘密とされ、遺族の関与は一切許されなかった。全ての作業を趕屍匠と弟子だけが行ったそうだ。
■趕屍匠の流儀
かつての湘西には 複数の趕屍匠がいたようだ。趕屍の方法は秘密であり、弟子にだけ伝えられる秘伝であった。弟子になるにはいくつかの条件が必要であった。先ず体力が優れている必要がある。険しい山道を何日も歩く必要があるからだ。さらに度胸が必要だ。夜間の山道は非常に不気味である。夜の森を恐れるようでは趕屍匠は務まらないのだ。
さらに奇妙な条件があった。
趕屍匠になるには、容姿が醜くなければならないのだ。趕屍匠は独身でなければならない。妻や子がいると、趕屍の秘密が漏れる危険性があるからだ。容姿が醜ければ結婚することができない。だから敢えて容姿が醜い男を選ぶのである。
■実在する趕屍
趕屍は都市伝説の類ではない。かつての中国では多くの人たちが趕屍を目撃している。
例えば共産党政権が誕生した直後の湘西で、共産党の兵士が趕屍を目撃した話が残されている。湘西に派遣された兵士が夜中に一列になって歩く趕屍隊を発見した。不審に思って尾行したところ、趕屍隊は死屍客店に泊まった。そこで死屍客店を調査したところ、趕屍隊の先頭と最後尾の男以外は死体だったというのだ。
この目撃証言は一例に過ぎない。湘西の老人たちは生涯に一度や二度は趕屍隊を目撃しているのが普通なのだ。湘西とはそのような土地なのである。
■死者が歩く謎
数多くの目撃証言がある以上、死者が歩くという信じがたい現象が実際に起きていたことは、疑いようがない。これはあまりにも大きな謎である。現在の中国では何らかのトリックを使って死体が歩いているように見せかけていたという説が主流である。
中国のテレビ番組は趕屍の「タネ明かし」として、死体の脇の下に竹竿を通して、その竹竿を趕屍隊の先頭と最後尾の人間が担いだという説を放映した。しかしその説明には無理がある。
何体もの死体を担いで険しい山道を歩けるはずがないからだ。
画像による説明にアニメーションが使われていたことも「竹竿トリック」の無理を物語っている。「竹竿トリック」が可能なのであれば、ふたりの人間に実演させればよいのだが、実際には無理があるのでアニメーションを使ったのだ。中国のテレビ番組は「趕屍は迷信である」という結論ありきの構成になっているので、強引な「タネ明かし」が行われ、結果的に信憑性を失っているのだ。死者を歩かせる秘術の謎はいまだに明らかにされていない。湘西に現存する最後の趕屍匠は、趕屍は厳しい修行を行ったものだけが獲得できる法術によるものだと主張している。
Posted by 編集長 妙佛大爺
中国の怪情報
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妙佛氏は実在したキョンシーを、You Tube動画でも「湖南省の三大怪奇『湘西三邪』」として紹介している。別のキョンシーについての解説動画「キョンシー3分クッキング」によると、趕屍は湖南省西部に住むミャオ族の呪術師が行っていたのだという。少数民族のミャオ族には伝統的に呪術が伝えられているらしい。この動画によると、「湖南省の三大怪奇『湘西三邪』」のもう1つの呪術「蟲毒」もミャオ族の呪術師が盛んに行っていたのだという。
ネットでミャオ族を検索すると彼らの民族衣装は黒い帽子と刺しゅう入りの鮮やかな青い服で、確かに映画のキョンシーが着ている服装にそっくりである。
さて、死体を歩かせた趕屍術の謎だが、現代中国では単なるトリックだとされている。妙佛氏の記事にもある通り、共産党政権が迷信打破の為によくオカルト超常TV番組でキョンシーを取り上げ、あれは竹竿に手足を切り落とした胴体を括り付けて先頭と最後尾が動かしていたのだと解説しているらしい。それもおかしな話で、それなら胴体だけまとめて背負い籠に入れてロバか馬で運べばいい。わざわざ自分で歩いているように偽装する必要は無い。
妙佛氏は中国伝統の気功で死体に気を流し、気のパワーで死体を動かしたのだろうと動画で推測していた。しかし、どんな優れた気功師でも複数の死体を同時に動かすのは無理だと思うのだ。
私は、呪術を使って霊を憑依させ、霊のパワーで死体を動かしたのだと思う。呪術で死体に霊を憑依させても、元々の肉体の持ち主ではないので上手く体を操れない。せいぜいヨタヨタ歩かせるのが限界だ。それで死体を歩かせて故郷に帰すという「死体歩かせ業」を始めたのだろう。
額に貼った黄色い札は、キョンシーの暴走を防ぐのではなく、「肉体労働」を嫌がって死体から抜け出そうとする霊の逃走防止の為に貼ったのだと推測する。キョンシー三分クッキングの言うようにピョンピョン飛び跳ねたのでは険しい山道を移動するのは無理なので、やはりキョンシーは人間のように2足歩行をしていたと考える。

中国の怪情報
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スピリチュアル野郎の超常的日常
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