2026年01月01日

折口信夫: 除夜の夢・新年の夢〜古来の「獏船」の習慣

折口信夫: 除夜の夢・新年の夢〜古来の「獏船」の習慣
古年の夢・新年の夢
■村々で暦が違った時代
海のかなたの寂かな国の消息を,常に聞き得た祖先の生活から,私の古代研究の話は語りはじめるであろう。
其れは暦の語原たる「日数み(ひよみ)」の術を変へた人によって,月日の運り,氣節の替り目が考へられ,生産のすべての方針が立てられた昔から説き起す。
暦法が行はれても,やはり前々の印象から,新暦に対立して日よみの術が行はれて居り,昔日よみを以て民に臨んだ人の末が,国々に君となり,傳承は,其の部下の一つの職業團體の爲事として受けがれてゐるやうになってゐた。
大倭の国家が意識せられた頃には,もう此状態に進んでゐた。暦法は最遅く移動して来たと思はれる石人(南方漢人)などの用ゐたものが一等進んでゐたであらう。道・秤の数が,記録の指定する年代よりも遙か以前に非公式に将来せられてゐたのと同様,暦法も亦,史の書き留めを超越してゐるものと見てよい。天日矛(あめのひほこ)や、つぬがあらしとなどを帰化民團と見ずに侵入者と認めた時代の,古渡り(こわたり)の流寓民の村々にくっついて渡って来たものと思はれる。だから表向きの暦法の将来せられた時は,ずっと遅れる訣である。唯一般になったと言ふまであらう。かうした村々で,暦法を色々暦法を用ゐ,次第に相融通するやうになりかけた時代に跨って話を進める。従って記録の上では,新暦の時代に還入つてゐても,古代研究の立場からは逆にまた新暦雑多の時代と見ればならぬことも多い。
概算する事も出来ないが,祖先が日本人としての文明を持ち出した事は,今の懐疑式の高等批評家の空想してる所よりもずっと古代にあると考へねばならない多くの事實を見てゐる。
奈良の時代にも古代生活の傍を見る事があらう。私の言ひ慣れた言ひ方からすれば,即「萬葉びと以前」及び「萬葉びとの生活」に通じて,古い種を探り分けながらお話する次第である。
陰暦,陽暦,一ト月遅らしと,3通りの法をまちに用ゐてゐる町々村々が境を接して居ると言ふ現状も,實は由來久しい事なのである。暦法を異にした古代の村々が、段々帰一して来る間に,其々の暦に絡んだ風習がお互いにこんがらがつて来て,極めて複雑な民間年中行事をつくる様になった。例へば,大晦日と元日,十四日年越しと小正月(上),節分と立春との関係を見ると,元々違った其々の日の意味が, 互に接近して考へられて来たのは事実である。私は暦の上に元日と立春との区別の茫漠としてゐた昔語りを試みる。
■寶船の元になった獏船
地震以後「お寶々々」「厄ひませう」も聞く事稀に,春も節分も寂しくばかりなって行く。 「生活の古典」が重んぜられてゐた東京の町がかうでは,今の中に意義を話して偲びぐさとしたくなる。
寶船は,初夢と関係してゐる為に,聰明な嬉遊笑覚の著者さへもとんだ間違ひをして,初夢を節分の夜に見るものを言ふとしてある。元は船が役をすました後に現れる夢を初夢と言うたらしいのである。だが暦法のこぐらかりから,初夢と船とが全然離れ
になったり寶船その物が,好ましい初夢を載せて来るもの様に考へ縫らかしたりしてのであった。初夢と船とに少しの距離を描く必要があったからこそ,江戸の二日初夢などの風が出来た。除夜の夢と新年の夢とには区別を立てねばならなかった。 除夜の夢の為の寶船が,初夢と因縁深くなってからは,さうした隠約の間の記憶は二つの間に区別をつけて居るに拘らず,初夢のつき物として,寶船まで二日の夜に用ゐられるのであった。ともかくも初夢が,元朝目の覚めるに先だって見られたものを示した事は疑ひがない。
歳で,寶船の方は節分の夜か除夜かに使ふのが原則であった。宮廷や貴族の家々で,其家内に起居する者は勿論,出入りの臣下に船の絵を刷った紙を分け奥へることは早く室町時代からあつた。床の下に敷いて寝た紙は,翌朝集めて流すか埋めるかして居る。 だから此の船は悪夢を積んで去るものと考へたところから出た事が分かる。今見る事の出来る限りの寶船の古園は,其れが昔物ほど簡単で,七福神などは載せては居ない。併しあまり形の素朴なものも却って,擬古のまやかし物と言ふ疑ひがあるから信じられないが,石橋臥波氏の研究によると,荒っぽい船の中に稲を数本書き添えたものが一等古いものと考へられて居る。 絵の脇に「かがみのふね」と萬葉書きがしてある。 次は米ばかりを積んだ小舟の絵と言ふ順序である。ここまでは疑はしい。が,其の後の物になると帆じるしに「獏」の字があり,船の外に「又」のしるしが書いてある。更に此れが意匠化して向かひ鍵の絵紋になり,「獏」の字よりも縁起のよい字か,紋所と變つて居る。其れからは段々七賢の絵を積み込み,新しいところで七福神を描きこんである。「又」のしるしは疑ひもなく免符「☓」の変化したものであり,此の絵まで来る間に年月の経ってゐる事を見せてゐる。「獏」は凶夢を喰はせる為であるから「夢違へ」又は「夢祓へ」の符と考へられて居たに違ひない。 一代男を見ても「夢違ひ獏の符(ふだ)」と寶船とが別物として書かれて居る。 畢竟除夜又は節分の夜,去年中の悪夢の大掃除をして流す船で,室町の頃には節分御船など言はれたものがいつか寶船に變つたのであつた。船にすつかり乗せて了うた後,心安らかに元旦又は立春の朝の夢を見たものであった。かう言ふ風に,殆ど一紙の隔てもない嘘から初夢を守る為の物と言ふ考へも出て来た。逐ひやらふべき船が,かうしての入り舟として迎へられる事になった訣だ。が,寶船も元を洗へば獏の符なのであった。
更に原形に遡って見ると,單に夢を祓ふ為ではなかったらう。神聖なる霊の居処と見られた床に堆積した,有形無形數々の畏るべき物・忌むべき物・穢はしい物を,物に託して捨て, 心すがしい霊のおちつき場所をつくる為である。(臥し処・居処を其人の人格の一部と見たり,其れを神聖視する信仰は古代は勿論近世までもあった)。此の風習の起りの一部分は,確かに上流にある。 上から下に船の絵を供へる様子は,大祓その儘である。 穢れた部分全體を託するものとして「形代」と言ふ物が用ゐられた。此で群臣の身を撫でさせたのをとり集めて水に流したのが,大祓の式の一等衰へた時代の姿であった。此の船の絵は,とりも直さず大祓式の分岐したものなる事は,其の行ふ日からしても知れる。其の上,大殿祭(おほとのほかひ)に似た意味も含まれてゐる。其の家屋に住み,出入りする者に負せた一種の課役のやうなものである。其れ等の無事息災よりも,まづ其人々の宗教的罪悪(主として髏穢(そくえ))の爲に,主人の身上・家屋に禍ひの及ばない様にするのであった。此の風が陰陽師等の手にも移ったものと見えて,形代に種類が出来て,楔(みそぎ)の爲の物の外,かうした意味の物が庶民にも領たれる様になり,遂には免符の様な観念が結ばれて来たらしい。神社などの中にも「夢違ひ」の符の意味で,除夜・節分の参詣者に興へる向きが出来たのである。
■獏船が一般化した理由
併しかうした風習の民間に流布したのは,陰陽師の配下の唱門師等の口過ぎに利用した結果が多いのである。けれども,此れが庶民の間にとり容れられたには訳がある。前々からあった似た種に,新来の様式がすっぽりとあてはまったからなのだ。寶船に書き添へた意味不明の文歌「ながき夜のとおの眠りの皆目覚め…」は一種の咒文である。 不徹底に象徴的な効果があるのだが,釈ける部分の上の句は,人間妄執の長夜の眠りを言ふ様ではあるが,実は熟睡を戒しめた歌らしい。 海岸・野山の散居に深寝入りを忌んだ昔の生が,今も島人・山民などの間に残って居る。 夜の挨拶には「お安み(おやすみ)」の代りに「お寝敏く(おいざとく)」の類の言葉を言ひ交す地方が可なりある。此の考へが合理的になると,百姓の夜なべ爲事に居眠りを戒しめるものとして「ねむりを流す」風習が随分行はれて居る。柳田先生の考へでは、奥州の佞武多(ねぶた)祭りも,夜業の敵なる睡魔を祓べる式だとせられて居る。熟睡を戒しめる必要のなくなった為に,さうした解釋をして大昔の祖先からの戒めを無意味に守つて居るのである。此の「眠り流し」の風も元は船に積む形を採った事と思はれる。
ー折口信夫全集2,中公文庫

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松谷みよ子: 正月さん信仰
松谷みよ子『昔話12か月』
正月という声を聞くと私などはもう「正月さん正月さん♪どこまでござった♪」という歌声が耳に響いてくる。日本全国にあるそのわらべ唄は正月さんになつかしく呼びかけて,正月神の召しますことを信じて疑わない。
(関東)
お正月がござった
どこまでござった
神田までござった
何に乗ってござった♪
誰葉に乗って
ゆずりゆずりござった♪
(石川)
正月さま 正月さま
何処までござった
ころころ山の下までござった♪
猫に鰊(にしん),子供に鰹(かつお)
お祖父(じこ)に引導,父さ(つつさ)に煙草
母(かあか)に杓文字,子供に落雁(らくがん)
持たさにゃ利かん
正月さんの姿はさまざまで,福の神の姿を思い浮べるむきもあるが,やはり白髪の爺さまというのが何かふさわしい。 石川のわらべ唄のようにあれも頂
戴,これも頂戴,猫にまでお土産をねだるのである。 優しい爺様に違いない。
しかしこのお正月さまがござるまでには,前の年から準備が必要であった。 暮れに山から松迎えをする。 餅を搗く。鏡餅には米やら干柿,栗,昆布,するめなどその土地土地の習わしで飾るのである。貧しいけれども心やさしい爺,婆が心を込めて正月を迎えるとき,さまざまの奇瑞が顕われる。それらの話は大歳の夜として十二月に多く収めたがここに
集めた歳徳(とくとこ)さんのはじまり,沖の乙姫さまもみな貧しく心やさしい人びとの願望が語り込められている。
それにしてもお正月さんがやってこないのでさがしまわったら溝にこけて唸っていた。「ほりゃ大事だ,お医者さん迎えましょか」いうたら,お正月さんが「医者もいろん,薬もいらん。 わしゃやっぱり灸(旧)がええ」
といった途端消えてしまったという,お正月さんがやってこんという話は興味深い。長い間陰暦で正月を迎えてきた人びとにとって,新暦の正月は馴染めないものだったに違いない。おそらくは季節の感触もおのずから違っていただろう。春を迎えるという心持と新しい年を迎えるという心持が違和感なく融け合っていたのではなかろうか。

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お正月さん
(山梨県「甲州昔話集」,土橋里木)
昔,お正月さんという人ンあった。なかなか世間持ちの荒い人で,良え着物を着て遊んで暮らし,餅を搗いたり,酒を飲んだり,お吸物をこしらえたり,うどんでもこしらえて食ったり,まずまず奢りのつかさをやった。
そして元旦から七日の間に,あるだけの家中の身上をみんな食ってしまい,七日目の日にはもう何にも食う物がなくなって,仕方なしにセリだのナズナだのハコベラだの何だの七色の野菜を集べて来て,ようようそれをお粥にして食った。それでとうとう親たちも大へん怒って,その日のうちにお正月さんを家から追い出してしまった。
それからお正月さんも後悔してホンダレ(穂垂れの意勝の木を用いる)を下げても,ぼろを下げてもええからもう一ぺん家へ帰りたいと言って親たちの前へ行ってよく謝り,とうとう14日の日に家へ帰ることを許された。そしてそれからはすっかり真面目になってよく働いた。
それから後,誰いうとなく「そんだから世間はえらい」というようになった。

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正月神
(新潟県・「吹谷松兵衛昔話集」 野村純一)
あったってや。あるどこい,爺さが,正月が来るんだんが門松結うたってや。そうしたら,くずべっこ (小さな子)が来て
「爺さ,爺さ,松が傾がる,松が傾がる」
ってそういうたって。
「いらんことこきやあがんな!」
そうしてまた一所懸命結うてたら,また
「爺さ,爺さ,松が傾がる,松が傾がる」
ってそういうたって。
「いらんことこきやがんないや,あっち行ってけっかれ!」
ってそういうたって。そうして、また一所懸命でしていたら
「爺さ,爺さ,松が傾がる,松が傾がる」
ってそういうたって。
「こん餓鬼や,うるさい餓鬼だな,今日てえ今日は許さんぞ。結ぐもんだってがんにそんつんことこきやがって!! いっこ今日てえ今日は許さん。こん餓鬼めや!」
っていったら,逃げて行きやがるって。
「ここまでおいで, ここまでおいで」
って逃げて行きやがるって。
「この餓鬼めや!! 人,馬鹿んしゃあがって。今日でえ今日は許さん」
っていうて,迫っ掛けて行ったってや。そうしたら,グングングングン逃げて行くんだんが,追っかけてったら,橋の下い,ツルンて入ったってや。 ほして
「そんつあんとこい隠れたって却さねい。 今日で今日は許さんぞ!」
っていって,橋ん下まで追っ掛けてってや。ほうしたら,いっこ,金袋が南京でひとつ,川ん中い落るばっかしんなって,傾がってたってや。 ほうしてその金をかつねて来ていい正月したっけってや。

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2022年12月27日

折口信夫: 除夜の夢・新年の夢〜古来の「獏船」の習慣




折口信夫: 除夜の夢・新年の夢〜古来の「獏船」の習慣
古年の夢・新年の夢
■村々で暦が違った時代
海のかなたの寂かな国の消息を,常に聞き得た祖先の生活から,私の古代研究の話は語りはじめるであろう。
其れは暦の語原たる「日数み(ひよみ)」の術を変へた人によって,月日の運り,氣節の替り目が考へられ,生産のすべての方針が立てられた昔から説き起す。
暦法が行はれても,やはり前々の印象から,新暦に対立して日よみの術が行はれて居り,昔日よみを以て民に臨んだ人の末が,国々に君となり,傳承は,其の部下の一つの職業團體の爲事として受けがれてゐるやうになってゐた。
大倭の国家が意識せられた頃には,もう此状態に進んでゐた。暦法は最遅く移動して来たと思はれる石人(南方漢人)などの用ゐたものが一等進んでゐたであらう。道・秤の数が,記録の指定する年代よりも遙か以前に非公式に将来せられてゐたのと同様,暦法も亦,史の書き留めを超越してゐるものと見てよい。天日矛(あめのひほこ)や、つぬがあらしとなどを帰化民團と見ずに侵入者と認めた時代の,古渡り(こわたり)の流寓民の村々にくっついて渡って来たものと思はれる。だから表向きの暦法の将来せられた時は,ずっと遅れる訣である。唯一般になったと言ふまであらう。かうした村々で,暦法を色々暦法を用ゐ,次第に相融通するやうになりかけた時代に跨って話を進める。従って記録の上では,新暦の時代に還入つてゐても,古代研究の立場からは逆にまた新暦雑多の時代と見ればならぬことも多い。
概算する事も出来ないが,祖先が日本人としての文明を持ち出した事は,今の懐疑式の高等批評家の空想してる所よりもずっと古代にあると考へねばならない多くの事實を見てゐる。
奈良の時代にも古代生活の傍を見る事があらう。私の言ひ慣れた言ひ方からすれば,即「萬葉びと以前」及び「萬葉びとの生活」に通じて,古い種を探り分けながらお話する次第である。
陰暦,陽暦,一ト月遅らしと,3通りの法をまちに用ゐてゐる町々村々が境を接して居ると言ふ現状も,實は由來久しい事なのである。暦法を異にした古代の村々が、段々帰一して来る間に,其々の暦に絡んだ風習がお互いにこんがらがつて来て,極めて複雑な民間年中行事をつくる様になった。例へば,大晦日と元日,十四日年越しと小正月(上),節分と立春との関係を見ると,元々違った其々の日の意味が, 互に接近して考へられて来たのは事実である。私は暦の上に元日と立春との区別の茫漠としてゐた昔語りを試みる。
■寶船の元になった獏船
地震以後「お寶々々」「厄ひませう」も聞く事稀に,春も節分も寂しくばかりなって行く。 「生活の古典」が重んぜられてゐた東京の町がかうでは,今の中に意義を話して偲びぐさとしたくなる。
寶船は,初夢と関係してゐる為に,聰明な嬉遊笑覚の著者さへもとんだ間違ひをして,初夢を節分の夜に見るものを言ふとしてある。元は船が役をすました後に現れる夢を初夢と言うたらしいのである。だが暦法のこぐらかりから,初夢と船とが全然離れ
になったり寶船その物が,好ましい初夢を載せて来るもの様に考へ縫らかしたりしてのであった。初夢と船とに少しの距離を描く必要があったからこそ,江戸の二日初夢などの風が出来た。除夜の夢と新年の夢とには区別を立てねばならなかった。 除夜の夢の為の寶船が,初夢と因縁深くなってからは,さうした隠約の間の記憶は二つの間に区別をつけて居るに拘らず,初夢のつき物として,寶船まで二日の夜に用ゐられるのであった。ともかくも初夢が,元朝目の覚めるに先だって見られたものを示した事は疑ひがない。
歳で,寶船の方は節分の夜か除夜かに使ふのが原則であった。宮廷や貴族の家々で,其家内に起居する者は勿論,出入りの臣下に船の絵を刷った紙を分け奥へることは早く室町時代からあつた。床の下に敷いて寝た紙は,翌朝集めて流すか埋めるかして居る。 だから此の船は悪夢を積んで去るものと考へたところから出た事が分かる。今見る事の出来る限りの寶船の古園は,其れが昔物ほど簡単で,七福神などは載せては居ない。併しあまり形の素朴なものも却って,擬古のまやかし物と言ふ疑ひがあるから信じられないが,石橋臥波氏の研究によると,荒っぽい船の中に稲を数本書き添えたものが一等古いものと考へられて居る。 絵の脇に「かがみのふね」と萬葉書きがしてある。 次は米ばかりを積んだ小舟の絵と言ふ順序である。ここまでは疑はしい。が,其の後の物になると帆じるしに「獏」の字があり,船の外に「又」のしるしが書いてある。更に此れが意匠化して向かひ鍵の絵紋になり,「獏」の字よりも縁起のよい字か,紋所と變つて居る。其れからは段々七賢の絵を積み込み,新しいところで七福神を描きこんである。「又」のしるしは疑ひもなく免符「☓」の変化したものであり,此の絵まで来る間に年月の経ってゐる事を見せてゐる。「獏」は凶夢を喰はせる為であるから「夢違へ」又は「夢祓へ」の符と考へられて居たに違ひない。 一代男を見ても「夢違ひ獏の符(ふだ)」と寶船とが別物として書かれて居る。 畢竟除夜又は節分の夜,去年中の悪夢の大掃除をして流す船で,室町の頃には節分御船など言はれたものがいつか寶船に變つたのであつた。船にすつかり乗せて了うた後,心安らかに元旦又は立春の朝の夢を見たものであった。かう言ふ風に,殆ど一紙の隔てもない嘘から初夢を守る為の物と言ふ考へも出て来た。逐ひやらふべき船が,かうしての入り舟として迎へられる事になった訣だ。が,寶船も元を洗へば獏の符なのであった。
更に原形に遡って見ると,單に夢を祓ふ為ではなかったらう。神聖なる霊の居処と見られた床に堆積した,有形無形數々の畏るべき物・忌むべき物・穢はしい物を,物に託して捨て, 心すがしい霊のおちつき場所をつくる為である。(臥し処・居処を其人の人格の一部と見たり,其れを神聖視する信仰は古代は勿論近世までもあった)。此の風習の起りの一部分は,確かに上流にある。 上から下に船の絵を供へる様子は,大祓その儘である。 穢れた部分全體を託するものとして「形代」と言ふ物が用ゐられた。此で群臣の身を撫でさせたのをとり集めて水に流したのが,大祓の式の一等衰へた時代の姿であった。此の船の絵は,とりも直さず大祓式の分岐したものなる事は,其の行ふ日からしても知れる。其の上,大殿祭(おほとのほかひ)に似た意味も含まれてゐる。其の家屋に住み,出入りする者に負せた一種の課役のやうなものである。其れ等の無事息災よりも,まづ其人々の宗教的罪悪(主として髏穢(そくえ))の爲に,主人の身上・家屋に禍ひの及ばない様にするのであった。此の風が陰陽師等の手にも移ったものと見えて,形代に種類が出来て,楔(みそぎ)の爲の物の外,かうした意味の物が庶民にも領たれる様になり,遂には免符の様な観念が結ばれて来たらしい。神社などの中にも「夢違ひ」の符の意味で,除夜・節分の参詣者に興へる向きが出来たのである。
■獏船が一般化した理由
併しかうした風習の民間に流布したのは,陰陽師の配下の唱門師等の口過ぎに利用した結果が多いのである。けれども,此れが庶民の間にとり容れられたには訳がある。前々からあった似た種に,新来の様式がすっぽりとあてはまったからなのだ。寶船に書き添へた意味不明の文歌「ながき夜のとおの眠りの皆目覚め…」は一種の咒文である。 不徹底に象徴的な効果があるのだが,釈ける部分の上の句は,人間妄執の長夜の眠りを言ふ様ではあるが,実は熟睡を戒しめた歌らしい。 海岸・野山の散居に深寝入りを忌んだ昔の生が,今も島人・山民などの間に残って居る。 夜の挨拶には「お安み(おやすみ)」の代りに「お寝敏く(おいざとく)」の類の言葉を言ひ交す地方が可なりある。此の考へが合理的になると,百姓の夜なべ爲事に居眠りを戒しめるものとして「ねむりを流す」風習が随分行はれて居る。柳田先生の考へでは、奥州の佞武多(ねぶた)祭りも,夜業の敵なる睡魔を祓べる式だとせられて居る。熟睡を戒しめる必要のなくなった為に,さうした解釋をして大昔の祖先からの戒めを無意味に守つて居るのである。此の「眠り流し」の風も元は船に積む形を採った事と思はれる。
ー折口信夫全集2,中公文庫

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2022年04月14日

Boggy: 枯葉野幻想奇譚〜秋田枯葉野伝承

Boggy: 枯葉野幻想奇譚〜秋田枯葉野伝承
2013/8/20
幻想奇譚
地域の 古い出来事を 調べているうちに 秋田は 伝説や昔話が数多く残っている事に 気づかされた・・・・
お隣 岩手に 劣らず 民話や伝説の宝庫である
雪深く 囲炉裏端で 展開された 先人達の話など 幾世代にも渡って 伝えられてきたのだろう・・・
不思議な話 奇怪な話 哀れな話・・・
中には 県民性がよく現れた豪快な笑い話や 艶笑譚もある
現代の目から見れば 捕るに足らない話でも 薄暗い部屋で ほのかな明かりの囲炉裏端や 蝋燭の揺らめく炎の下では
言葉から 連想される 物語世界は 幽玄であり もの悲しい・・・
とりとめもなく 時間から隔絶した世界がひろがり人々の 想像力の翼が 際限が無いことが推測できる・・・・
遠野物語を引き合いに 共同の幻想を 国家論まで広げて語るつもりは無いが そうした物語を 駆逐してしまっ戦後のメデァの想像力は もはや無いといっていい・・・今
案外 想像力を掻き立てられる幻想の世界観は 快く感じてしまう
帰着の見えぬ物語 どこか哀れで 物悲しくも 滑稽であったりぬめりとした物語世界は どこか 愛おしい・・・
地域の人たちの恐れや畏怖であり 地域に根ざし 愛された物語は商業ペースで 毒気を抜かれた 現代の造られた物語よりも重層で どこか 奥深い・・・
そうした話も 今昔話に織り込みながら 展開していこうと考えている
投稿者: boggy

枯葉野通信
https://white.ap.teacup.com/karehano/






















羽州幻想奇譚
2013/8/20
2013/8/22
2013/8/24
2013/8/28
2013/8/29
久保田の城下から 江戸に向かう羽州街道を行くと 雄物川の支流 淀川と荒川が合流する地点 少し視界が広がる唐松野に入ると 最初の渡し場があった場所が見えてくる・・・
戦乱の時代 久保田の地を支配した秋田氏と 仙北を支配した戸沢氏と意を共にする仙北の国人領主連合軍と鬩ぎ合った 境界線の名残を残す
羽後の境の川・・・・の地
その境を越えると 荒川沿いに蒼い山深い米ヶ森と呼ばれる 丘陵地がある
秋になれば 久保田の城を取り囲むように 黄金の稲穂の水田が広がる秋田平野と打って変わって 周りは 蒼々たる美林の里山が目前にあり
雨が白くたなびき その青々しさは まるで水墨画のように 様相を変えてしまう・・・
ここは 太古からの奥深い森の入り口にあたる・・・・
ここには かつて仙人になったと云われる人が居ついたと 古くからの 伝えがあるが 今でも 雨が煙る蒼い山は 不思議な話の舞台としても 申し分が無い・・・
その後日譚・・・琴弾く猿 蔓でくくり琴を背負い うっそうとした暗い森の木々を 駆け巡り どこかで 南海坊を想い 琴を弾く猿の姿がある・・・
哀れであるが 琴を弾く凛とした猿の姿を 想えば 何故か 愛おしい・・・お話
琴の音色が 山間から流れ出ていても 不思議ではない 平安の世から住み着いたと云われる 山法師 南海坊の伝説は この景色の中に 今でも 息づいているようだ・・・・
■月出野
唐松野は 月出野とも呼ばれていた・・・
羽州街道をまっすぐ行けば 江戸方面
宮田又の沢を渡り 米ヶ森の裾野を抜け 山間を行けば 角館を経由して 陸奥(岩手)へ出るか あるいは 六郷へ向かい 再び 羽州街道に出て 江戸方面へ向かう 交差の地になる
真澄の記録では 唐松野となっているが 上淀川と境の地をあわせて 土出荘とも呼ばれていることを 列記している
また 近くに 貝小淵があり 帆立貝、みるくい 浜蔓などが出るので 近き世まで海であったろうと述べている
月出野という名称名付けは 数多く残されている将軍伝説のひとつで 日暮を出発した 将軍一行が 賊を追ってこの地に着くと
東から 月が昇ったので 月出野と名づけたという伝えである
後世の学者達は 将軍を 坂上田村麻呂を当てているが 近くに ある利仁将軍の伝説があり 一連の話に 田村麻呂の話が 混入して しまったのではないかと 私は 推測している
利仁将軍は おそらく 藤原利仁のことで 田村麻呂より 100年ほど 下った時代の人で 平安時代の代表的な武人として有名になり 多くの説話が残っている
翌延喜15年(915年)下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し武略を天下に知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されていおりこの年には鎮守府将軍となり その最終位階は従四位下であったとされる
なかでも『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話が有名で 芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆した
藤原家から出た 武家で この人の家系から 源氏 平家と並ぶ 武家としての一大勢力となっていく
将門を倒したことで有名な藤原秀郷と並んで藤原氏が 武家社会に進出したことを象徴する人物と言える
鞍馬蓋寺のある 鞍馬山の「大天狗」は【僧正坊】と呼ばれ 日本各地の天狗様の「総元締め」として
また僧正が谷は総本山ともいえる場所として語り継がれていて
天狗は古くから「山岳信仰」とかかわりがあり 修験者が守護神として祀っていたが、中世以降山伏の堕落もあり
天狗を妖怪な「魔物」とみなす風習もうまれるなど 時代ともに姿やイメージも変遷してきた
鞍馬寺は 鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの 最年少であった鑑禎が宝亀元年(770年)に草庵を結び 毘沙門天を安置したのが始まりと云う
私たちには 義経が 天狗と剣の修行したお寺として有名で 天狗との関わりが深い お寺として 認知されている
旧協和地区には 伝説等に天狗や 山伏 修験道の話が 沢山残っており 秋田県における 天狗伝説の宝庫と云っていい
おそらくは 修験者との関わりが深い土地柄 最初に修験者に関わりが深い利仁将軍の話があり 時代と共に 利仁将軍が 人々の記憶から忘れ去られ 今でも 人気のある 田村麻呂将軍の話として 摩り替わっていったという構図が見えてくる
仙北平野部に語り継がれる 将軍伝説は 地名の名付け親だったり 賊を退治する話が多い・・・
本来は 蝦夷側の民衆であったはずで 同情すべきは蝦夷側であるが 物語の中では 蝦夷は悪で 物語りの語り部側に 同調している
あるいは 時代をもっと下り 民衆の意識が もはや蝦夷ではなくなった時代になって 語られたろう事が 物語の構図として見えてくるのだ・・・
伝説の多くは 時間や時代が語られておらず 時間を浮遊し続けている・・・・そのぬめりとした 物語の時間の流れが 妙に 琴線に触れて 私には面白いのだが・・・
利仁将軍の名が はっきり出てくる伝説は 米ヶ森から少し 角館に向かう 荒川鉱山の奥にあるお宮 玉宮の伝説にある・・・・
利仁将軍がこの地の敵を討つため、ここに七日七夜籠もって 祈願したとも 云われている・・・
鶏卵大の白玉で一つを 日照(ひてる)玉 今一つを雨零(ふり)玉というが 旱天続きの時、雨零玉をかりて 池や御手洗水等に沈めて雨乞すると 晴天続きでも雨が降り 日照玉を神に乞い、帰ってこの玉に神酒を奉って 祈ると晴天になるといわれている (天宮伝説の原文の一部)
将軍伝説は 奥羽山脈越えの 真昼岳の名付けから始まり 峰吉川の 沢の名前や 朝方の鶏の声を聞き土地を名付け 唐松野に出る前に 日暮れになり その地を 日暮と名付け 唐松野に出ると 東から月が出たので 月出野と名付ける・・・
一連の将軍は 田村麻呂と名指ししているが 話の流れを読むと 利仁将軍の話に つながっている様に思える
そして 荒川の奥に篭もり祈願する 玉宮伝説につながる・・・
その後の伝説として 旧岩城藩地区の 天鷺城の伝説 八郎潟付近の 大滝丸伝説など 数々の賊を成敗した将軍の伝説に 繋がって行くのだ・・・
将軍たちが生きた時代差は百年ほどあるが どちらの将軍も 史実として この地を 訪れた形跡はなく 正規の記録も無い・・・
田村麻呂が この地に来ていたかも知れないとする根拠になる 払田柵跡の発見は 1902年で それまでは どの歴史書にも この柵の存在は 示されておらず 存在そのものも知られていなかった
年輪による年代測定で 801年に伐採された材である事が判ったのが 1989年で 伝説の方が確実に古く 伝説を裏付ける 資料にはならない・・・・
利仁将軍の話は ある時代では 田村麻呂将軍より 身近であり 将軍と縁がある真言密教を信仰する 修験道の人たちには 伝説にふさわしい人物である
縁起に出てくる利仁将軍の鞍馬寺は 真言宗の寺としていた時期もあり そばの地は 修験道の総本山であり 伝説の天狗たちの総本山でもある
そうしたことを踏まえてみると 伝説の将軍は田村麻呂ではなく これら一連の伝説は 藤原利仁将軍が ふさわしいとなるだろう・・・
米ヶ森の伝説の南海坊も 仙人になっただろうと結ばれているが 修験者としての側面がある
また 南海坊の物語の スピンオフの物語として 朝日姫の物語があるが 苦難の末 米ヶ森にたどり着くが そこで 南海坊の庵に身を寄せていた
恋人と再びめぐり合い めでたしめでたしとなるが 後日談として そばにある 宮沢の滝で 修行し 法力を得 南海坊から 北海という名をもらい 村人の勧めで 月出野に移り住む事になる・・・
物語は 複雑で 色々な要素を含むが 巧妙な物語に 仕上がっており 人々の記憶に残る内容になっている
物語の中で 南海坊は 平安の頃から 修行をしていると 答えているが・・・・
朝日姫の物語は 鎌倉時代 北条時宗の時代の政治的喧騒を 背景とし 時宗と政治的に敵対した側を 好意的に描いており 時宗の歴史的評価と相反している立場から 語られる構図でもある
朝日姫の物語を経て 南海坊が尋常ならない年月を生きて 徳の人物である事が 初めて理解できる 構図でもある
修験者のもつ独特の傲慢さは 南海坊にはなく 人々に優しい 徳のある人物と描かれており 派手な法力はなく 徳を持って 人あるいは動物を改心させてゆく
これは 一般民衆から発生した物語ではなく 学識と仏教説話を熟知した者が 伝えた物語であろう事がよく判るだろう・・・
将軍の一連の土地の名付け伝説と 米ヶ森伝説 朝姫伝説 荒川の玉宮伝説 秋田の各地の賊を討ち取った将軍の英雄伝説は 同じ物語世界を構成しており その背景には 修験道の影があり
物語の真偽とは別として 物語を広めてゆく過程で 山伏と呼ばれる修験道の影響が大きい事も よく判る・・・
■天狗の情郎
江戸時代後期の始め頃(寛政2年〜6年)(1790年〜1794年)
秋田藩士で 国学者 人見蕉雨斎によって書かれた黒甜瑣語という本に
「元禄の頃(1688〜1703) 仙北稲沢村の盲人が伝えし 不思議物語にも多くみえ下賎の者には別して、かどわさるる多し」
という書き出しで始まる 一連の話の中で 江戸初期の刈和野の火事に纏わる 奇譚が収録されている
・天狗のかまかけ (天狗の情郎)
昔仙北の代官の片岡某という人が下男に酒を買いにやらせた。
下男が徳利を下げて酒屋に急いでいると、大山武士は自分に 従い来るようにいう。
下男は主人が夕食に飲む酒を買って帰らなければいけないと断ったが 酒は自分にまかせるようにと徳利をとりあげ、酒は縁先に届いた頃だ
というので、山武士のあとをついて行くことにした。
山伏が下男を連れて刈和野村にやって来て、火事がおこるから 樹の上で見物しようというので、木に登り待っていると 村はずれより出火し、一軒残らず焼失した。
下男は明け方近く山伏に送られ家に帰り、主人にどこに行ったか聞かれ 刈和野の火事をみたと答えた。
飛脚が着き、大火の様子を語ったが、下男の話と全く同じだったという。
(訳文 まま)
黒甜瑣語は 秋田藩士で 1761−1804 江戸時代後期の国学者 人見蕉雨斎 (ひとみ-しょううさい )が ふるい記録の散逸をうれえ,その収集につとめ
「黒甜瑣語(こくてんさご)」「蕉雨斎吟稿」などをあらわしたものだそうだ
黒甜瑣語の原文は 秀麗な文語体で 語られて 陳腐さは無く
訳文より 物語世界は 重厚で 秀逸な物語に仕上がっていて 他にも 秋田の多くの奇譚が 収録されている
ここでは まず この物語を取り上げようと思う
他にも 訳文が違う形で 公開されている話であり 代官片岡某が 石井某だったり 刈和野の大火事が抜けているものがあったりするが 原文には 刈和野の大火事があり この話の重要な部分になる
その他にも 下男が 何度か居なくなり 戻ってきては 津軽の城下の火事 越後城下の大火事などを 見てきた話をして 4〜5年後 江戸に上る途中 又 いなくなり 半月後には 戻ってきて 今度は上方まで行ってきたと話す
士分でない 下賤の者が何度も繰り返し 天狗らしい山伏姿の男に 連れ去れるという話の構図が 原文の世界だろうと思う
盲人の住む 稲沢は 唐松野・米ヶ森から 角館方面に 向かってすぐの荒川の支流 稲沢の沢筋上流にある 集落の村で 旧協和地区にあるが 藩政当時 刈和野村を親郷として 寄郷十六ヶ村として峰吉川村と共に 同じ 共区内という意識があったと思う
盲人が話したのが 元禄の頃 (1688 〜 1703)将軍綱吉の時代
作者人見蕉雨斎は 1761−1804頃の人で 老人とは約百年程の時間差がある
作者は 誰かに この話の元を聞いたか 当時資料として残っていた話を 採録したものだと思うが 他に収録された話は 人伝に聞いた話の場合 誰から聞いたか 詳細を述べられているケースが多々あり この話の元は 当時記録されたものからの採録と推測できる
又 作者も 主人公の下男も話の中では 山伏を天狗と断定していない
大きな山伏姿の男で 会うと奇妙な事に 巻き込まれたというニュアンスで 淡々と 下男の居なくなった後の出来事を 下男が語るという筋だ
何度か 居なくなった理由のうち 刈和野大火事の話が 他の登場人物達が 妙に納得してしまう構図は 刈和野が近くであり 身近であるため村の家々を 全滅するほど火事の記憶も 人々の記憶に 新しい事件と考えられるためと受け取れる
又 100年後に居る この話を 収録した作者にも この火事に 心当たりがあり そのことが説得力を持った 話だったことが 見えてくるだろうと思う・・・
実際 刈和野村は 江戸の初期 明暦2年(1656)大火事があり 町並みや通りを大幅に変え 村を家並みからすべて再建しなければならない 出来事に 見舞われている記録がある
江戸期が始まって 80年〜100年余りである元禄年間では 近在に住んだ 語り部の盲人にも まだ なまなましい出来事であったろう事が判る・・・
室町時代 南部氏の支配 小野寺氏の支配を経て 戦国期には戸沢氏が 仙北地方を支配し 大火前の刈和野村の町割りに 影響されていたのだろうと思う・・・
六郷町 本堂町と町割り区分されている事や 同盟を組んでいた 仙北の他の 国人領主達の名が 冠されている所に現れている
真澄の記録によれば 芦沢手前の丘陵地茶臼山の山頂には 刈和野城があり その麓付近に 館或いは 役所のようなものがあり 戸沢氏の家臣 旗幅氏が 刈和野城ノ介を名乗り 常駐していた
真澄は 芦沢付近 峰吉川の境に刈柴の関という 関所があり 真澄が 訪れた頃にも 建物跡の痕跡があったと記録している
川を挟んで 由利十二党と対峙し 関所を挟んで 安東氏(秋田氏)と対峙する
戦国末期には 土川を過ぎ 角館との境付近には 戸沢盛安の父が
隠居する土川のあたりに城があり(土川黒沢城跡)小杉山に 九道の採掘道をもつ金山があり 今泉集落は大変な賑わいを見せていた伝承がある
金山は 佐竹氏が入部してから 再び 金の採掘道がみつかり 採掘が続けられていたが 金が枯渇した後 閉山し 今泉集落も 徐々に衰退していったようだ
享保の頃(1716〜 1735)には 家が三軒まで減っていた伝承がある
この地帯には 何時の時代か定かでない銀山跡や 銅山跡の伝承のある山があちこちにある・・・
隠し金を埋めた話も含めるとさらにあり 後三年の役の荒川太郎の故事に始まり 藤原三代の資金源を潤す重要な役割を持っていたが
久保田藩 三代藩主 暗君佐竹義処の代で散在し その後 枯渇 金山が復興する事は無かった
修験道者は 金属採掘のスペシャリストの側面があると言われている山伏伝説 天狗伝説は そうした修験道と密接な関係の信仰を持ち 数々の法力や 退魔伝説に彩られた伝承を持つ事を 踏まえると
天狗の存在は当時の人には身近な存在であり 信じるに足る存在だったのではないだろうか・・・・
黒甜瑣語の作者 人見蕉雨斎と同時代を生きた真澄の記録にも 天狗に関するものがあり 他にも 国学者達の著作や沢山の伝承が 記録されており 現代人が思うより 現実的なはなしとして信じやすい 環境であったのだろう
此処では まず 戦国以前と 刈和野村の大火事以後とでは 刈和野村そのものが違った構造だった事だけに まずは 留めておく
物語に登場する刈和野村の大火事のイメージが 何処にあるかといえば 刈和野村は事実 江戸初期の大火事で壊滅的なダメージを負い 村の構成する町割りを大幅に変えて 川沿いに 今も残る町の配置になった・・・
それ以前は もっと丘陵地側に 本堂町・六郷町・八日町の 3町で構成されていた村だったのだ
現在は 当時新しくできた町割り 二日町(上町)五日町(下町)の二つの町だけで構成されており その後できた町も その2町の中に含まれていく・・・
下町 上町の区分は 刈和野を2分して行われる大綱引きの町内区分であり 市が立つ日を冠された町名になるどの日時の市を開くか 綱引きの行事で決めた名残でもある
今 黒甜瑣語の原文を確認できたので 追記しておく
石井某の下男が 何度も かどわかされた話が先にあり 稲沢の盲人が元禄の頃話した伝えになっている
刈和野村へ火事を見た片岡某という代官の下男話が 友人から聞いた話となっており 引き続き書かれている上記の話と 時系列が別の 独立した話になっている
また 秋田城下の広小路の 空の上から声が聞こえる話が続いている
三つの話が 一まとめに 天狗の情朗(やらう)の題目の話で別々の時系列で語られた話で 刈和野村の火事が一番具体的だ
木の上から見てると火事は 村はずれから出火し 村を一宇も残さず焼けたと 記されている
訳文の大山武士は 原文では大山伏と表記されている
このカテゴリーでは 伝承の中の 少し 不思議な話 奇妙な話など取り上げて 幻想的な世界として 読みながら 創造してもらおうと思っていたのですが 意図せぬ方向で 広がってしまいましたね・・・
もっと 身近な河童や その他の妖怪話や奇妙な不思議な話でもと 気楽なつもりで始めたのですが 天狗話は 思ったより 深い・・・テーマだったようで 好奇心の強い私は思わず 予定の散策コースを外れてしまいそうです
この先は 天狗の正体・・・天狗現象など 散策コースが分かれてしまいますが 内容が 地元を離れ 別の方向に進んでしまうので 興味がある方は そのまま進み 自分で調べ 知の散策をしてみてくださいきっと 面白いルートになると思いますよ・・・
私は もうすでに 行ってきましたが・・・いずれ 再び 続きを話す機会があると思います・・・
『黒甜瑣語』 『蕉雨斎吟稿』 『秋田紀麗』 を書いた人見蕉雨斎徳政夜話』 山崎徳政は 菅江 真澄と少し著作した期間がずれているけれど ほぼ 同年代の人で 2人共 秋田の生まれで
当時 最先端の学問 国学の影響を受けている秋田生まれの国学者 平田篤胤 弟子の思想家 佐藤信淵は 同時代の少し下の世代 篤胤は まもなく到来する幕末の勤皇の思想に大きな影響を与えているし信淵は 明治期の統一国家のあり方を示唆した先取りした考え方を持っている・・・・
有名な奇譚話だけでなく 膨大な量の見聞きした話を 書き綴った日記というべきかな『甲子夜話』の 肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)(NHKのドラマ わたしの妻はくノ一にもう一人の主人公として登場していました)
なども 少し下の世代・・・・
何か この時代 意図的な 流れを感じます・・・ね
それに 菅江 真澄 秋田の生まれではないが 秋田の江戸時代を語るには 上記二人と真澄の著作が 欠かせない・・・
国学の思想が出てくるのが 江戸期の中期頃から だから 他の藩に 先駆けている所が また すごい・・・
雪深い東北の藩から アダ花のように始まった日本の写実主義 秋田蘭画事始めも この頃からで 小田野直武 佐竹署山も ほぼ 真澄たちと 同世代・・・
真澄は 彼らが亡くなった後 秋田に滞在しますので 直接対面はないと思われますが・・・・資料として読んでいるふしが多々ある・・・
秋田藩のこの頃の 文化水準はかなり高い時期と思えるおかげで 史料価値が高く 精緻に 比較検討できる複数の資料 ここら辺も 散策すると もっと面白いだろうなあと思いつつも
では 刈和野村の話に 戻ろう・・・
将軍伝説の項で 将軍が通ったルートは 真昼岳から 一気に 刈和野村のはずれ 芦沢の伝承に飛ぶので 途中のルートに 何か手がかりがないか 色々 調べたが 伝説に 繋がる様な 具体的なものは 中々 見つからない・・・
将軍の話は あるには あるのだが 他の伝承のように生々しさは 感じられず 仙北地方は 空白 地帯のままだ・・・
別の形で 神宮寺岳から賊を討つために 山頂から飛んで 降りてきた話があるが これは 少し異質の感じがする・・・
将軍の伝説の真偽は 別として ここでは語り部である話し手が 受け手である地元の当時の民衆が どういう道のりや 周辺の集落などの位置関係をどう目で捉えていたかが 伺えれば 良いと考えている
語り部の時代が 室町期や戦国末期の頃であれば 当然 刈和野を通過し 周辺の地名が 出てきてよさそうだが 伝承はは芦沢集落のみで 鶏の声で 集落があることを 将軍一行が知る話なので そ芦沢まで 集落らしきものがなかった事を意味するが
その続きである日暮以降の地名が 今でも残っていたり それに近いニュアンスの地名であるのに対して 芦沢につけられた 鶏沢の地名は この話だけであり 以後の時代に地名が受け継がれた形跡がなく 地元の方には 唐突で 話に納得できず 説得力のない印象になる
語り部の 大きな話の流れの導入部としては 不備が感じられるが 少なくても 戸沢氏が勢力を持つ以前に 語られた話と 印象付けられる構造のようだ
江戸時代以降の羽州街道は 神宮寺に抜けるコースだが 江戸時代の初期以前は 刈和野村から 角館を回り 六郷に抜けるルートだった
川筋が何本も集まり 大河である雄物川の川幅と 急流の玉川を通過するための 治水工事に 資金と時間と人手が
大勢必要になり 戦乱の時代の5万石以下のレベルの大名である戸沢氏では いくら 勢いがあったと居えども 古来からの道を 整備するレベルはできても 無理な時代だったろうと思う
だから 遠回りでも 刈和野から 角館へ抜け 六郷にでて
雄勝に抜けるルートを辿らなければならなかった 刈和野村周辺を見れば 三条の大きな川筋と それに 注ぐ 芦沢川の芦沢橋 沼田川の三枚橋を通り 土川から角館方向へ行く大佐沢川の田中橋 水尺川(土買川)の水尺橋から 高屋敷の途中の加賀戸(かかと)橋がある
江戸時代頃には刈和野五橋と呼ばれ 沢筋が5本あった
江戸中期の治水工事後になって 雄物川や 玉川を渡らずに通過でき 橋も整備されたのだろう
玉川を渡る渡しは 神宮寺地区にあって(現在の玉川大橋付近)津軽藩主が参勤交代で 江戸へ上る時神宮寺の人足が怖いと 藩主の佐竹氏に訴えたところすぐに 人をやり神宮寺の人足達の首を切り 川原に晒したそうだ
次に 津軽藩主が 此処を通るため 川を渡る時に
(おそらく玉川でのこの話は 江戸中期の治水工事が 終了した後の話だろう)
大荒れに荒れて川を渡れず 人足の祟りとしてとらえ 震え上がらせた逸話が残っている・・・
真澄が描いた神宮寺周辺を描いた絵図には すでに 現在位置付近に 玉川筋が 雄物川と合流した図面になっている
天明2年(1782年)に新川堀替の文字が添えられ 神宮寺側に古川とする 流れ筋があり おそらく 川が遠くなり 運河が造られたものだろう
現在は 残っていない・・・・
新川掘りが 終了するまで 刈和野 神宮寺間は 必要以上に雨が 降り注げば 通過する時には 厳しい難所になり さらに 蛇行する大きな雄物川を2度渡り さらに 玉川の流れを 通過せねばならないのだ
人が少ない時代と考えれば なおさら 往来は 難所であるため 戸沢氏の時代に 刈和野〜角館ルートを整備したと仮定しても 他に 川を渡らずに済む 迂回ルートがあっても おかしくない
それに 語り部 或いは 将軍一行が 刈和野村周辺を通過しないで 芦沢まで 集落がある事を 気づかない不自然さは なくなるのではないか と仮説を 立ててみた・・・
そうすると 案外 見えててくるものだなあ・・・絶妙のルートを 発見した・・・
ここら辺の土地勘が ある方は 一度 推理してみてください ルートが 何通りか見えてくるはず・・・
これは しばし 宿題としておきましょう・・・か
千畑地区に将軍伝説がありましたね・・・
真昼山をのりこえ、この村にたてこもり賊党を打ち払い 賊軍より弓矢一千本二獲したが 将軍は弓矢を池にうめさせた。
一説には 八幡太郎義家が戦勝祈願する時、白岩明神に向かって 千篦征箭(ちのりとがや)を千度遠投して大沼の峯にたてた。
その跡を千本跡と称したが、それが千屋村の名となったものという。
八幡太郎義家の伝説とかぶっていますが となると・・・
真昼岳から千畑地区に下りて 神宮寺地区で 神宮寺岳山頂から 飛び降りながら賊と 戦い 芦沢を通り 荒川へ向かう 筋立てになりますね・・・
あと 保呂羽山で大盗賊夜叉丸を捕まえようとした話があります
私が 推測したルートとは 違ってしまいましたが 千畑から 私が推測ルートを辿り 荒川にたどり着き 天鷺丸や 森吉で戦い 帰途のルートで 神宮寺で戦い 保呂羽山へ向かう 話の流れも 考えられるので ここでは 一応 保留ですね・・・
千畑〜神宮寺ルートであれば 江戸時代 羽州街道が 神宮寺を通過するルートになってから 語りられた話の可能性が 出てくる
それだと 逆に 何本もの沢を渡るのに気づかず 将軍一向が 芦沢の鶏の声で 初めて集落に気づくという 途中何もない話の不自然さを 地元民として 感じてしまう
橋があり 不便さを感じずにいられる時代になってから 語られるという構図ならば 語られた時代の民衆は もっともらしさを信じ 伝承を残すだろうと思う
田村麻呂や利仁将軍一行が 実際 刈和野地区を通れば 何らかの伝承として残っていてもおかしくないほどの特徴ある地形で あり 語り部の時代であれば驚き 特徴つけた話を残すはずだ・・・と思う
語り部の時代には もう 失われ 今日に近い風景であれば 話は 別だが・・・・
真昼岳から 千畑地区にぬけるルートは 払田柵に通じる道であり 非常に古い時代から 長く使用されてきた道である
陸奥(岩手)から来る道筋は 物語のルートとしても 民衆が信じるに足るリアルさがあるのだ
神宮寺を通らず 今は忘れらた古道を通り 一連の物語のあと 神宮寺を通り 保呂羽山へ向かったと話が 繋がるのであれば 語り部は 江戸以前に語った事が 証明できるのではないだろうか
ただ 一連の将軍伝説は 協和地区に残った伝説を集めたものであり
旧協和地区の住民に向けて 語られた話として残されてきたものだ 当時の住民が 信じられるリアルさがなければ 今日まで語り告がれる事は なかったろう
周囲の民衆に もうすでに 風景として魅力のなくなった 刈和野村の時代に語られた話なのか
或いは 人々が 刈和野の地に住んでいないほど 古い時代に 語られた話なのか興味があるが 結論は急がない方が いいだろうと思う

枯葉野通信
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「枯葉野通信」  
枯葉野今昔物語
《 始めに 》
枯葉野は 刈和野地区の古い名称のひとつです
町を迂回する国道・刈和野バイパスができ 町を通過せずに 通りぬける事ができるため 今の町は 時代の喧騒を離れ 静かに佇む 寒疎な東北の田舎町の光景ですが かつては 雄物川の太く大きな流れを 利用し 雄物川水系の各地から集まる船運送の要所として・・・羽州街道の御本陣を伴う 宿場町として・・・また 陸奥(岩手)雫石街道に通じる角館から 刈和野を経由し 岩城藩亀田にでて羽州浜街道へ抜ける 刈和野街道と羽州街道との 交差する要所として栄えました
その時代の恩恵を受け 昭和40年代頃まで 人や車の往来が 多くありましたが その幻影は 徐々に翳りを見せ 往時を生きた人たちの記憶と共に その光芒は時間の彼方へ 消え行くだけとなっていました・・・・
この地の歴史を紐解いてみると 交差する街道と 帆船が行き交う雄物川の大きな流れを舞台に 幾層にも 重厚に積み上げられた 人々の暮らしや葛藤が
あった事が 鮮やかに見えてきます
ある時は・・・劇的な 光芒を伴う 激烈な戦さの舞台として・・・
時には 幻想的な幽玄な物語世界として・・・ 
あるいは 奇妙で不思議な話の舞台として・・・・
そして 物悲しさを持った 切ない話の世界として・・・
そうした 入り組んで積み重なった物語と 時空の迷路を 気ままに散歩しながら 散策してみようと思い立ち このブログを立ち上げました
歴史を紐解く 知の散策コースは 多岐でルートは 様々・・・現在の世界からの幻想と幽玄の狭間の仮想現実世界を 幻視する知の散策の 手助けになれば 幸い・・・です

枯葉野通信
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追加資料
月の出羽路には 稲沢村は
総家員 八八戸
人員 四三一人
馬 一七四疋
山郷で 稲田が少なく 炭焼きの煙が多く立ち 男女は真柴とりと馬引き業が多いとある
刈和野村の 寄郷の12村の一つで土川村や刈和野村と関係が深かった

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2022年01月18日

チャンドラ博士: 悪魔ミシハーミとの交信〜悪魔憑きと悪魔祓い



チャンドラ博士: 悪魔ミシハーミとの交信〜悪魔憑きと悪魔祓い
鬱病女性の催眠脱霊
ハリスチャンドラ博士は患者を壁際の椅子に座らせた。そして掌を上にして上に置かせ,背骨を伸ばしてリラックスするように言った。そして彼は自分のネクタイピンをはずし,患者の頭の上30cmくらいのところで留めると言った。
「さあ,このタイピンを見て,ゆっくりと呼吸して。ほかのことは何も考えずにこのタイピンを見て。さあだんだん眠くなってくる。どんどん眠くなってくる。深く…」
と彼は声を落としていく。ソフトな声でそう言われると見ているこちらも眠くなってきそうだ。
「さあ,深く眠りに落ちていくと,きみの目も自然に閉じてくる。そして眠気が体中に拡がっていく。瞼が重く……重くなってくる。さあ,これから私は数を10まで数えます。数えるごとに,きみの眠りはふかーく,ふかーくなっていきます......
さて,深い眠りに入りました。さてこれから,きみは私の言ったとおりに振る舞うのです。右手に意識を集中して,そうすると右手がだんだん軽くなっていきます。..…腕が上がるにつれて眠りが深くなる、深くなる。そしてまた腕が重くなり下がっていく...下がっていく。インドラーニ(患者の名)は,いまは深い眠りにあります。さて以前インドラーニは昔亡くなったおばあさんのミシハーミに憑かれたことがありました。さてよく聞くように。ミシハーミは私が呼んだらすぐ来ます。そして私が行けと言ったら行きます。いいですね?」
そしてハリスチャンドラ博士は亡くなった祖母の霊を呼びはじめた。
「ミシハーミがやっていることいいことだと思うか?それとも悪いことだと思うか?」
「いいことも悪いこともある」
「いいことって,いったい何だ?」
「私はインドラーニに『権能』を与えに来たのだ」
患者の声が急に堂々と威厳に満ちたものになった。
「『権能』って?」
「お告げを与える権能だ」
「お告げって,おまえは未来に起こることを言えるのか?」
「そうだ。何でも好きなことを問うがよい。ただその場で答えられるかはわからんぞ。呪術師たちのせいで私のパワーは弱められてしまったからな。さあ何でも聞くがよい」
「じゃあ,次の大統領は誰でしょうか?」
「おまえの言っていることがわからない」
「次の首相の名は?」
「首相などという言葉は聞いたことがない。私は教育がない。アルファベットすら知らんのだ」
これを聞いてハリスチャンドラ博士は,ぼくのほうを見ると笑った。患者の祖母も神通力の権威が失墜したらしく声の尊大さが失われていく。
「さて,ミシハーミはドクターの言うことを聞けるな?」
「ドドド……ドクターって?」
「医者のことだ」
「お医者様! はい,言うことを聞きます」
「さあ,それなら約束するのだ。医者の言うとおり従うのだ」
「はい,従います」
「さあ,これからする約束は強力なものだ。おまえはおまえたちの頭,悪魔大王ヴェサムニに対して約束するのだ」
突然の悪魔大王の出現に,ぼくは思わず吹きだしそうになった。診療室の中でエリート医師が悪魔大王だって? すごいミスマッチ。でも祖母の霊には効いたみたいだった。彼女は急に狼狽し体を震わせた。
「ヴェサ厶ニ大王! 怖い……怖い……怖い……」
「怖がることはない。医者の言うとおりにすればいいのだ。私に約束しなさい。おまえはもうインドラーニに迷惑をかけないな?」
「はい,かけません」
「もう二回繰り返すんだ」
「できない,できない」と患者はむせこんだ。
「いいか,繰り返すんだ,これは絶対命令だ。さあ復唱しろ。ヴェサムニ大王の名において,私はこれ以後インドラーニに憑かないことを誓います」
患者は繰り返した。
「さて,いまおまえはジェサハニ大王の名のもとに約束した。もし約束を破ったらどうなるかわかっているだろうな?」
「わかっているとも!」
と彼女は叫んだ。
「永久に約束を破らないことを言えるな?」
「それはできない。もしできそうだったらそうするけれども」
しかしインドラーニは目を覚ます気配はなかった。彼女はただただ泣きつづけた。冷静なハリスチャンドラ博士も少し動揺したようだった。博士の声も少し震えている。
「インドラーニ?いや,まだミシハーミなのか??どっちなんだ?泣いているのか?」
患者はもう泣いているのか笑っているのかわからないような奇妙な声をあげつづけていた。
「ミシハーミ?どうした! おまえは約束したんだぞ?」
「以前も約束したけれどもまた戻ってきた」
インドラーニは以前,悪魔祓いをやったことがあったのだった。
「じゃあ尋ねるが」
ハリスチャンドラ博士の目が光った。
「おまえは医者に向かって約束したことはあるのか?」
「お医者様! お医者様には約束したことはありません」
ミシハーミの霊はどうも医者の権威によわいようだった。
「それじゃあ答えてみろ。インドラーニが病気になったのは精神的な混乱からか?」
「いいや、そんなんじゃない!」
「じゃあインドラーニの将来について教えてくれ。いつインドラーニはよくなるんだ?」
巧みな質問だった。
「そ...そ....その質問には答えられない」
「なぜだ?おまえはさっきお告げの能力があると言っただろう?」
「しかし,私の力は弱められ……」
「それはヴェサム二大王の力がおまえよりもはるかに強いからだ。さあ答えろ。インドラーニがよくなるためには何をすればいい?」
........
ハリスチャンドラ博士はとうとうブッダの名前を持ちださざるを得なかった。これが最後の切札になるのだろうか?
「さあ,ブッダの言葉を聞いて死霊は消え去るのだ。おまえはインドラーニから去るのだ。医者である私の言うことに従うのだ。さあ,私はおまえのすべての力を破壊し尽くし,おまえを遠くに去らせよう。それがおまえのためなのだ」
息者はひたすら泣きつづけるばかりだった。未練を断ちきることができないのだ。
「今日がおまえの力が終わる日だ。悲しみを出しきるまで思いっきり泣きなさい」
ハリスチャンドラ博士はやさしく言った。
「忠者を悩ましたという不徳も今日一緒に消え去るのだよ」
「けれど,私は死んでしまい転生できないかもしれない」
「おまえが転生できるかどうかはわれわれの力の及ぶところではない。われわれができるのはインドラーニを治すことだけだ。いままで被ったどの死霊も決して戻ってはこなかった。だからミシハーミも今日去ったらもう戻ってはこないのだ。さあこれか
をおまえの力は消えていく。おまえの悲しみを出し尽くしたら私に教えてくれ」
インドラーニは声をあげながら泣いて,泣いて,泣きつづけた。そして何かわけのわからないことを言った。
「何だ?」
「ああ,私はもう何も見えない。私の力はあまりにも弱くなってしまった」
「うむ,私の指示は達成されたわけだ! さあ今日おまえの力は消え去る。今日がおまえの死霊として終わる日なのだ。それはおまえにとっては大きな悲しみだろう。死霊よ。悲しみが去るまで泣きつづけるがよい」
「.....私はインドラーニの幸せを祈って彼女から去ります」
「よく言った。去るのだ」
しばらくインドラーニは泣いて,そして目覚めた。ハンカチを目にあて,溢れた涙を拭い下を向いてうなだれた。
「インドラーニ。大変骨を折って,われわれはミシハーミを去らせたよ。彼女はもう来ない。それは確かなことです。50人以上の患者がこの部屋に入っ
で,その後,誰もに憑きものは戻ってきてはいないのだからね。われわれはそれに関しては経験も確かだから恐れることはないんだよ。さあ今日は家に帰りなさい」
―悪魔祓い,上田紀行,講談社プラスアルファ文庫

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2021年10月25日

菊池章太: バーバ・ヤガー〜ロシア民話の魔女伝説

菊池章太: バーバ・ヤガー〜ロシア民話の魔女伝説
■魔女民話のルーツ
むかしから魔女は人々の生活のかたわらによりそっていた。といってもすぐ間近にいたわけではない。町や村から少しはなれたところで,たいていはひとりで暮らしている。
けれどときどき人々は魔女にたよりに行く。占いをしてくれる。恋のまじないをしてくれる。けがをしたとき薬をつくってくれる。医者に見放された病気をなおしてくれる。人々はこまったとき,魔女のもとをおとずれたのである。
魔女はたよりにされ尊敬されていた。その一方で恐れられてもいた。人の命をすくう力をもった魔女は,命をうばう力ももっている。どちらにその力を用いるかによって,よい魔女にも悪い魔女にもなった。かしこい魔女がいれば悪がしこい魔女もいた。善悪の両面をあわせもつ存在であった。
ドイツには魔女をあらわす言葉がいくつかある。普通に使うのは「へクセ」である。これは古いドイツ語の「ハガツーサ」がもととされる。「垣根に乗る者」という意味だといい,土地の境目にもうけられる垣根の上に乗っているのだから境界の守り神ようなものか。その範囲はかなりひろく女神から魔物までおよんでいた。それが次第に魔女の意味にかぎって用いられるようになった。言葉のみなもとにさかのば,やはり魔女の枠組には幅のあったことがわかる。
■ロシア民話の魔女「バーバ・ヤガー」
ロシア民話の魔女「バーバ・ヤガー」もそのひとりである。バーバはロシア語の話し言葉で「おばあさん」のことである。バーバ・ヤガーは一本足の老婆である。足は骨と皮ばかり。木々がうっそうとした森のなかに住んでいる。子どもをさらってさてむさぼり食うという,とんでなく恐ろしい魔女だが,不幸な人を助けてあげたりもする。そうした姿が,ロシアの民話にいきいきとおさめられている。
ふたつ紹介したい。ロシアのグリムと称されるアファナーシェフの『民話集』におさめられた話である。邦訳は中村喜和訳『ロシア民話』岩波文庫。ひとつはそのものずばり「バーバ・ヤガー」というタイトルである。
ひとり娘をのこしておかあさんが亡くなり,おとうさんは新しい奥さんをもらった。この継母は娘をひどくきらった。なんとかしてこの娘を追い出してしまいたい。あるとき娘にこう言った。
「おまえのシャツをぬってやるから,私のねえさんのところへ行って,針と糸を借りておいで」
娘にとって義理の伯母にあたるのが,あわれバーバ・ヤガーだった。娘はそこへ行くまえに自分の実の伯母さんのところへ寄り道した。伯母さんはこんな知恵をつけてくれた。
「猫に見つかったらハムをあたえておやり。犬がはえたらバンを投げておやり。門が閉まりそうになったら敷板に油をたらしておやり。白樺がおまえをたたこうとしたらリボンを結んでおやり」
娘はこれを聞いて出かけていき,さんざん歩いてバーバ・ヤガーの家に着いた。そこには小屋が一軒あり,おばあさんが機械りをしていた。継母の用事を告げると,機織りをかわれという。娘が機にむかって腰をおろすと,おばあさんは外に出ていって召使いにこう告げた。
「風呂をたいてあたしの姪を洗っておやり。明日の朝飯にするから」
おばあさんが行ってしまうと,娘は猫にハムをやって,ここからにげだす方法を教えてもらった。猫は娘にタオルと櫛をくれた。ヤガーが追いかけてきたら,タオルを投げると川ができた。それでも追いかけてきたら,櫛を無げれば森ができるという。娘が逃げ出そうとすると,犬がほえたてた。慌てて犬にパンをやるとほえるのを止めた。門が閉まりそうになったので敷板に油をたらすと通してくれた。白樺が娘を叩こうとしたので、リボンを結んでやると娘を見のがした。娘が逃げたことを知ったヤガーに臼に飛び乗った。杵をオールにして漕ぎはじめる。ほうきで掃いて通りすぎたあとを消しながら追いかけてきた。娘は猫にもらったタオルを投げつけた。すると川ができた。ヤガーは牛を連れてきて川の水を飲みほさせた。そこで櫛を投げると森ができた。ヤガーは木々にかじりついたがいくらがんばってもかじりつくせない。娘は無事に家にもどることができたのである。娘から話を聞いたおとうさんは継母を鉄砲で撃って,それからは娘とふたりで平和に暮らしたという。
バーバ・ヤガーが追いかけてくる姿はなんとも妙だ。杵をオールにして臼を漕ぎ,すごい速さで追いかけてくるという。ほうきで掃きながらというけれど,ずいぶん手間のかかることをする。大きな臼と杵は昔はどこの農家にもあった道具である。穀物の脱穀に用いるので農村の生活にとってなくてはならないものだった。民俗の世界ではまた別の意味が加わっている。ヨーロッパのいなかの結婚式の歌によく出てくる。男女のまじわりを象徴する組み合わせである。はうきも同じである。映画やアニメの魔女はほうきの柄をまえにして飛ぶが,ヨーロッパの古い絵を見ると逆向きになっていたりする。これは男の性器になぞらえているのである。
■死神のなれのはて
バーバ・ヤガーは森のなかの一軒家に住んでいる。それは「遠い国」との境目にあるとされる。小屋へ通じる道が森のなかに延びている。「遠い国」とはつまり死者の国である。ヤガーは死の世界に通じる入口の番人ということになる。あるいは死をつかさどる女神のなれのはてだとも考えられている。
ヤガーと同じような名前の魔女の話は,スラブ語圏にたくさん伝わっている。スラブ語というのは,ロシア語をはじめボーランド語やチェコ語など東ヨーロッパで使われる言語のまとまりをいう。
占いスラブ語では、ヤガーのもとになった言葉に「病気」や「恐れ」の意味があるそうだ、死とと泳りあわせということになるだろう。.....
―中公文庫,菊池章太,魔女とほうきと黒い猫

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2021年08月13日

折口信夫: 盂蘭盆と魂祭り〜古来の風習の記録と考察


折口信夫: 盂蘭盆と魂祭り〜古来の風習の記録と考察
折口信夫
■盂蘭盆と魂祭り
盆の月夜はやがて近づく。広小路のそぞろ歩きに,草市のはかない情緒を懐かしみはするけれども,秋に先立つ東京の盂蘭盆(うらぼん)には虫さえ鳴かない。年に一度開くと言われた地獄の釜の蓋は一片では済まなくなった。 それに「旧暦」が「月暦」に名を改めてからは新旧の間を行く在り来たりの一月送りの常識的方法が山家・片在所にも用いられるようになったので,地獄の釜の番人は「送迎にいとまない」と嘆いているのであろう。
諺に「盆と節句が一緒に来た」というその師走の大祓に祭りや盆を合わせた話をしてみたい。
「地獄の釜の休日が年に3度ある」ということは単に明治・大正時代の不整頓な社会に放たれた皮肉だと思ってはならない。
1月,2月,7月,9月,12月の5回に精霊が戻ってくるものと古くから信じられていた。徒然草の四季の段の終わりにも「この頃は京都では流行らないが,大晦日の晩に東北では精霊が来る」という風に見えている。年に5回行なっていた精霊会が,南北朝の時代には社会的勢力を失って,年にただ1回の盂蘭盆会に痕跡を残したのであるが,7月の盂蘭盆と12月の魂祭り(たままつり)とは古来の大祓の名残であると信じている。こういうことを言うと実際神仏混淆の形はあるが,諸君が心中に不服を抱かれる前に一考を煩わしたう問題がある。
それは民族心理の歴史的根拠を辿っていた時にたどり着く事実である。
外来の風習を輸入するには,必ず在来のある傾向を契機としているので,これが欠けている場合にはその風習は中絶すべき宿命を持っているのである。だから力強い無意識的模倣をするようになった根底には必ず一種国民の習癖に投合する事実があるのである。
斉明天皇の3年に飛鳥寺の西に須弥山の形を作ったという,純粋な仏式模倣の行事が次第に平民化するにしたがって,固有の大祓思想と復活融合をしたので,半年の間に蓄積した穢れや罪を禊ぎ捨つる大祓の日に精霊が帰ってくるということになった。
死の穢れを忌んだ昔の人にも当然縁のある精霊は迎えねばならぬとなれば,穢れついでに大祓の日に呼び迎え,精霊を送り返した後に,改めて禊ぎをするという考えは自然然るべきことである。
吉田兼好の時代,すでに珍しがられた師走の魂祭りは今日においてはその面影を残していないのは然るべきことである。
古代の人には,「折節の移り変り目は守り神の目が緩んで,害物のつけ込む都合のいい時である」という考えがあった。それゆえに季節の移り変わりごとに様々な工夫を持って悪魔を祓った。五節供はすなわちこれである。盂蘭盆の魂祭りにもこの意味のあることを忘れてはならない。
魂迎えには灯篭を重ねて迎え火を焚く。これは皆精霊の目につきやすからしむるためである。冥界に対する我祖先の見解は極めて矛盾を含んだ曖昧なものであった。
大空より来たる神も,黄泉より来たる死霊も冥界の所属という点ではひとつで,これを招き寄せるには必ず目標を高くせねばならぬと考えていたものと思われる。雨乞いに火を焚いて正月の15日あるいは盂蘭盆に柱松を燃やして,今は「送り火」として面影をとどめている京都左京の「左右大文字」,船岡の船,愛宕の鳥居火も等しく冥界の注意を引くという点に高く明るくという二つの工夫を用いているわけである。盆に真言宗の寺々で吹き流しの白旗を木の梢に立てているのは今日でもしばしば見るところである。
■田楽と盆踊り
出雲国神門郡須佐神社では8月15日に「切明(きりあけ)の神事」ということを行う。その時には長い竿の先に割いた竹を放射して,それに御祖師花風の紙花をつけたものを氏子七郷から一つずつ出す。その儀式は竿持ちが中に立って,花笠をかぶった踊り手がその周囲を廻るそうである。
これは岩戸神楽と同様,髭籠(ひげこ)だけでは不安だというので,神を招くために柱を廻って踊ってみせるので,諸冊二尊の天の御柱を廻った話も,あるいはここに意味 あるのであろう。 摂津豊能郡の多田の祭礼にも同様なことが行われるという。長い竿を地面に掘り据えないで人が支えるというのは,神座の移動を便ならしめるためであって,神が直ちに神社に下りない証拠である。
「切明の神事」は旧幕府時代には盆踊りと混同して7月14日に神殿で行われて,名前さえ「念仏踊り」といわれていた。かの出雲阿国が四条河原で興行した「念仏踊り」もあるいは単に念仏を唱え数珠を首にかけていたからだとばかりは定められまい。それにはなお,かの難解な「住吉踊り」を中に立てて見る必要がある。
「住吉踊り」はおそらく祈年祭あるいは御田植神事(おんだじんじ)に出たものと思われるが,江戸には春駒,鳥追同様に正月に来たようだ。田の真ん中に竿を立てて,四方に万国旗を飾る時のように縄を引いて,これに小さな紙しでをたくさんつけておくところがあることなどを考えると,住吉踊りにはおそらく御田植神事に立てた花笠が傘に転じ,その周囲の切明の神事同様の意味で踊って廻ったものであろう。これは「田楽能」が有力な証拠をもたらしている。「田楽能」も田舞いの流とする学者の想像を信じることができるならば,田楽法師の持つ傘は田植えの時に立てられた髭籠(ひげこ)の一種なる花笠の観念化でなければならない。
田楽・住吉踊り・念仏踊りなど,その間の隔たりは天地の差である。しかしながら私はさらに盆踊りという証人を呼び出して,私の考えの保証をさせるつもりである。
「盆踊り」はなぜ音頭取りを中心としてその周囲に大きな輪を描いて廻るのであろうか?ということを考えると,そこに天の御柱廻りの形式の名残りを感じる。伊勢阪下の踊りはどんな月夜にも音頭取りが雨傘を広げて立つという。ちょっと考えてみると不思議なようであるが,この話を最初から注意深く読んでくださった方々にはある理解を得られたことだと思う。すなわちこれは花笠・髭籠であって,田楽能の傘である。切明神事の花笠持ち,盆踊りの音頭取りは神々のよりましてあったものであろう。我々の推測はさらに「百万遍」や幼遊びの「なかなかの小房主」にもまた大柱廻りの痕跡を見るのである。
盆踊りの輪形(わなり)に廻るのには,中央に柱があったことを暗示するのはもちろんであるが,時代によっては高灯籠なり切籠灯籠を立てたこともあったらしい。これらの灯篭が我々の軒端に移ったのはその後のことであろう。踊りにかつぐ花笠も依代の本意を忘れてめいめいにかぶったままで,自然導かれるべき問題は切明神事と盆踊りとの関係である。
地方地方によって盆踊りに立てる髭籠系統柱や竿は夏祭りのものと混同させられている。祭りと盆との期日の接近という唯一の理由を持って判断してしまえばそれまでであるが,はじめに述べた大祓えと盆との関係を根底に持ってかからなければ,隅ない理解は得られないのだろう。
ー古代研究/民俗学編, 折口信夫, 角川文庫

夢日記
http://datasea.seesaa.net/article/476258642.html?seesaa_related=category


























岡山の盆踊りの記録, 1965
年末(としづえ)の念仏踊り
#行事祭り
吉の盆踊りの素朴さに打たれていると,実は吉とほぼ遠からぬ吉備高原の一角に吉の念仏踊りよりまだ現始的な念仏踊りがあり,それは年末(としづえ)というわずか13軒の部落が,部落の外れにある観音堂の境内に集まって新暦7月16日に年中行事として行う念仏踊りで,かつては2回ばかり中止したことがあったが,2回とも部落内に伝染病が流行したので,それ以降は毎年欠かさず開催してるというからその信仰は現在においても根深いものがあるのであろう。
さてその夜がくると部落の人は家を空にして山田のあぜ道を歌いながら観音堂に集まってくる。堂に安置された仏に読経をすませ,予め用意した傘(簡単な割竹の骨組みに紙を貼り付けたものでそれに南無阿弥陀仏と書かれている)を被ってささら(切込みをつけた棒と割竹を組合せたもの)を持って輪をつくり輪の中央に胴丸太鼓が据えられる。何人かは割った大竹に「南無阿弥陀仏」と書いた紙の端をつけて輪の外に並ぶ。これが俗に言う音頭とりに当たるのであろう。この音頭とりが「ただいま据えまするは阿弥陀様のお念仏」と言うと,先達がさいはらを回して歩き始めて太鼓の単調な合図とともに,部落の人々は口々に「南無阿弥陀仏」と唱えてささらを擦りながらぐるぐると回る。
念仏踊りとはいえこの中に踊り的要素はみられない。念仏を唱えることによって浄土の世界を希う昔時の民衆の想いが感じられて,その行事が素朴であるほどに感動をうけ勇気づけられる強い感動を受けるのである。
ー岡山文庫, 岡山の祭りと踊り, 神野力, 1965

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2020年12月10日

msanpei: 瓜子姫と天邪鬼(うりこひめとアマノジャク)〜ちょっと怖い昔話

msanpei: 瓜子姫と天邪鬼(うりこひめとアマノジャク)〜ちょっと怖い昔話
憐れなる瓜子姫の寓話
昔々のお話です。
或る所にお爺さんとお婆さんがおり或る日の事いつもの様にお婆さんが洗濯をしに川へ行くと上流からそれはそれは大きな瓜が流れてきました。
「あらあら見事な瓜ねぇ。折角だから拾ってお爺さんと食べてみようかしら。瓜こっちにおいでこっちにおいで。」
お婆さんがこう言うとまるで言葉が解ったかの様に瓜はお婆さんの側へ寄ってきました。
こうして特に苦労する事無く瓜を手に入れお婆さんは家路へとつきました。
「お爺さん。ほらこんなに大きい瓜を拾ってきましたよ。」
「ほうこれは見事だ。早速食べてみるとしよう。」
お爺さんが包丁で割ろうとした途端瓜がひとりでに真っ二つに割れて中から可愛らしい女の子が出てきました。
勿論お爺さんとお婆さんは吃驚仰天。しかし直ぐに気を取り直し
「おおこれはきっと神様からの贈り物に違いない。大切に育てなければ。」
等と言いながらその不思議な子を育てる事に決めました。
そして女の子は少々安直とも思える「瓜子」という名を与えられたのです。
瓜子は幼い頃から可愛らしい顔をしていたのですが年月を経てますます美しくなり年頃になった頃には優しく美しい娘という事で村でも評判となっており皆は彼女を「瓜子姫」と呼んでおりました。
そしてその評判を聞きつけた庄屋さんに見初められ嫁ぐ事となったのです。
手塩にかけて育てた娘が玉の輿に乗るという事でお爺さんとお婆さんはそれはもう大喜びです。
二人は嫁入りの着物を瓜子姫に買ってやる事にしました。
「瓜子や私達は町へ行ってきますからしっかり留守番をしていておくれ。誰が来ても戸を開けてはいけませんよ。」
「はい。ちゃんと留守番をしていますからゆっくり行ってきて下さいな。」
お婆さんの言いつけに瓜子姫は素直に従いました。
その聞き分けの良さと心配りに感心しつつお爺さんとお婆さんは安心して出掛けて行きました。
お爺さんとお婆さんを見送って一人になった瓜子姫は機を織っていました。
とんからりとんからりと機織の音が響き渡ります。
その音に誘われてアマノジャクがやって来て瓜子姫を誘い出そうと戸を叩きました。
「瓜子姫開けておくれ。一緒に遊ぼうよ。」
「誰だかわからないけれど開けられないわ。私お留守番をしているの。誰が来ても戸を開けちゃいけないって言われてるの。」
瓜子姫はお婆さんの言い付けを守り冷たく断りました。
しかしそれでもアマノジャクは怯む事無く戸を叩きながら言いました。
「庄屋さんの家の裏に畑があるだろう?あそこに美味しい桃が沢山あるんだ。一緒に食おうよ。」
「あらそうなの?」
「知らなかったのかい?あそこの桃は瑞々しくて甘くて正に絶品だね。今が丁度食べ頃なんだぞ。俺が全部食っちまうぞ。」
それ程美味しいという桃を食べてみたくなり瓜子姫は機織の手を休めて戸を開いてしまいました。
「ようやく開けたな。さぁ行こう。」
そう言ってアマノジャクが家の中に飛び込んで来ました。
アマノジャクの悪い評判を前々から聞いていた為瓜子姫は露骨に嫌な顔をしました。
「本当に美味しい桃があるの?あなたが嘘つきで意地悪だっていう事は聞いているのよ。」
訝しげな顔で尋ねる瓜子姫にアマノジャクは大袈裟な身振りを付けて答えました。
「俺が嘘吐きだって?誰がそんな事言ったんだい。それは偏見ってやつだろう。大体あんたに俺が何時嘘をついた?意地悪した?人の事を知りもせずそういう事をいうなんて『心優しい瓜子姫』なんていうのは嘘っぱちだったんだな!」
アマノジャクにそう捲し立てられ瓜子姫は自分の行いを反省しました。
「ごめんなさい。あなたの言う通りだわ。」
「分かってくれたんなら別にいいさ。さぁ行こうよ。」
瓜子姫は素直にアマノジャクの後について行きました。
庄屋さんの畑に着くとアマノジャクの言った通り桃が撓に実っていました。
「ほら採ろうぜ。」
そう言うとアマノジャクは慣れた様子でするすると木に登ると桃を採って食べ始めました。
「あぁ美味い。ほんとに食べ頃だ。」
木に登った事の無い瓜子姫はただ下で眺めるだけです。
「ねぇ私にも頂戴。下に落としてくれないかしら。」
「しょうがねぇなぁ。ほらよ。」
アマノジャクが下に投げた桃を瓜子姫は一口食べましたが酸っぱくて食べられた物ではありません。
「こんなの食べられないわ。もっと甘いのを頂戴。」
「五月蝿いなぁ。これでいいだろ。」
不満気にアマノジャクが投げた桃は虫食いだらけで食べられません。
「何よこれ!ちゃんとした桃を採ってったら。」
「俺が選んだのがそんなに嫌なら自分で採りな。」
怒り出した瓜子姫にアマノジャクは素っ気無く言いました。
そこまで言われて登らない訳にはいかないと瓜子姫は慣れない手つきで木に登り始めました。
かなり高い所まで登りようやく桃に手が届くいう時でした。
突然瓜子姫に向かって上から桃が投げつけられたのです。
咄嗟に身を避けて上を見るとアマノジャクが不適な笑みを浮かべていました。
「何をするの!?危ないじゃないの!!」
そう言ったにも関わらずアマノジャクは又も瓜子姫に桃を投げつけました。
今度は避けきる事が出来ず瓜子姫は真っ逆さまに木から落ちてしまい鈍い音と共に地面に叩き付けられました。
アマノジャクは器用に木から下りると瓜子姫の様子を窺いました。
瓜子姫の首は奇妙な方向に折れ曲がりその目は唯虚空を見つめています。
いくら声をかけようとも揺すろうとも瓜子姫は目を覚ましません。
アマノジャクはそれを確認すると瓜子姫の着物を脱がせ皮膚を奇麗に剥いでそれを被り瓜子姫の着物を着ました。
そうすると少々不自然ながらもアマノジャクは瓜子姫そっくりの姿になっていました。
アマノジャクは急いで瓜子姫を茂みに隠すと走って家へ戻りました。
瓜子姫の家まで逃げて来るとアマノジャクは何事も無かったかの様に見様見真似で機織を始めました。
ぎっこんばったんぎっこんばったんととても乱暴な音が響き渡りました。
日が傾き始めた頃にお爺さんとお婆さんは帰って来ました。
「おや?今日は機の音がいつもと違うようだが・・・」
「言われてみればそうですね。瓜子や誰も来なかったかい?」
「アマノジャクが来たりはしなかったかい?」
かわるがわるに尋ねてくるお爺さんとお婆さんにアマノジャクは瓜子姫の声色を真似て答えました。
「お帰りなさい。お爺さんお婆さん。だぁれも家には来なかったわ」
「声が何だかおかしいねぇ風邪でもひいたかい。」
「そりゃ大変だ。大切な体なんだから今日はもうお休み。」
勝手に騒ぎ出したお爺さんとお婆さんを尻目にアマノジャクはほくそえむのでした。
アマノジャクは持ち前の達者な口でどうにか誤魔化しとうとう嫁入りの日にこぎつけました。
瓜子姫に化けたアマノジャクは奇麗に化粧をして美しい花嫁衣裳に身を包み庄屋さんの迎えの籠に乗りました。
籠屋は元気良く走り出し続いてお爺さんとお婆さんも籠に乗ろうとしたところ鴉の笑い声がお爺さんの耳に届きました。
瓜子姫は何処行った
籠に乗るのはアマノジャク
憐れな憐れな瓜子姫
皮を剥がされ着物奪われ
憐れな憐れな瓜子姫・・・
鴉は笑って歌を歌い続けました。
瓜子姫の少々不可解な行動の理由が解ったお爺さんはアマノジャクの乗った籠を追いかけました。
籠を止めさせお爺さんは嫌がるアマノジャクを外に引きずり出して試しに顔の皮を掴み思い切り引っ張りました。
するとなんの苦も無く皮が剥がれてアマノジャクの醜い顔が露となったのです。
「こいつめ!何て事をしてくれたどうしてくれようか!」
怒りで我を忘れたお爺さんはアマノジャクの両肩を掴み力任せに引き千切りました。
醜い悲鳴をあげながら真っ二つになったアマノジャクの体の片方は蕎麦の畑へもう片方は茅の畑へとお爺さんは放り投げました。
アマノジャクの血は蕎麦と茅の根元に染み込みそれから蕎麦と茅の根は赤くなったということです。
教訓「他人を簡単に信用するのも考え物だ」
−終了−
蛇足とも言うコメント
はい素晴らしい話ですね。殆ど脚色は有りません。歌なんかは適当に作ってしまったのですがアレンジいらない位に残酷な話です。
最初は描写をリアルにしようかと思ったのですが本人の文章力の無さに加えこれはあくまでも童話ということであっさりと書きました。あっさり加減が益々怖いし。
桃太郎のパクリの様な語り始めから猟奇的な展開へと導かれるこの話。
アマノジャクは「天邪鬼・天邪古(あまのじゃくあまのじゃこ・あまのざこ)-民話等に悪役として登場する鬼。天探女(あまのさぐめ)に由来するといわれる」との事ですが今はひねくれ者の意として使われて・・・いますか?
それにしてもお爺さんは怪力ですね。きっと昔は猟師でもしていたんでしょう。
しかしこの話の問題点はこの話が「良い子の昔話」系の本に載っていることでしょう。しかも殆ど同じ形で。瓜子姫が気絶する程度で助かるパターンが多いんですけどね。
蕎麦と茅の根が赤い理由をあんな形でこじつけるとは流石と言うかやり過ぎと言うか…。弟切草のルーツに似ているような気がしません?
そして・・・この話を当時小学校一二年生だった私は「何の疑問も持たず」読んでいたんですよ。子供って凄いな何でも鵜呑みにするところが。
日本の昔話は死人が生き返ったりしない所がグリムとかよりも現実的。
「宇治拾遺物語」なんて結構アダルトな話があったりする。昔の読み物は厳格だなんて思ったら大間違いだね。
かなりあからさまな表現が沢山ありますよ。
これでいいのか古代文学・・・?

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2020年12月07日

msanpei: 信濃更級の姨捨山(おばすてやま)の事〜大和物語

msanpei: 信濃更級の姨捨山(おばすてやま)の事〜大和物語
大和物語 「姨捨山」(おばすてやま) 第百五十六段
信濃の國の更級(長野県更級郡)という所に男が住んでいた。男は若い時に親が死んでしまったのでおば(伯母)が親のように若い時分から一緒に暮らしていた。
ところがこの男の妻には思いやりがなくこの姑が年老いて腰が曲がっているのをいつも嫌っていたのだった。そして男にもこのおばだけが意地が悪く悪い事を言い聞かせたので男も昔のようにおばを大切にせずおろそかに扱う事が多くなっていった。 
さてこのおばはたいそう年老いて腰が曲がって二重になっていた。これをこの嫁はさらに厄介がり「今まで死ななかったものよ」と思ってよからぬ事を言い「おばを連れて行って深い山に捨ててしまって下さいな。」とばかりせきたてるので男は初めはその気はなかったのだが妻にあまりにせき立てられてとうとうそうしようと決心してしまった。 月がたいそう明るい夜に男は「おばあさんさあいらっしゃい。お寺の有り難い法会(ほうえ)をお見せしましょう。」と言うとおばはとても喜んで男に背負われたのだった。
三人は高い山の麓に住んでいたので男はその山の奥まで入って高い山の峰の下りて来られそうもないところにおばを置き去りにして逃げ帰ってしまった。おばは「おいおい。」
と言うけれど男はそれに返事もせず逃げてしまった。家に帰って思い起こしていると妻が告げ口をして腹を立てさせた時には腹が立ってこのようにおばを山へ捨ててしまった。けれども長年親のように自分を養い共に生活してきたのだから男はとても悲しくなった。
この山の上から月がたいそう明るく出ているのを眺めて一晩も寝られず悲しく思って
このように詠んだ
わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月をみて
<更級の私がおばを捨ててきた山の上に照る美しい月を見て私の心はどうしてもなぐさめられない>
と詠んでまた行って迎えて連れてきたのであった。それより後にこの山を姨捨山というそうだ。
姨捨山をなぐさめがたいことの縁語に用いるのはこのいわれによるのであった。

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2020年08月09日

岡山の盆踊りの記録, 1965

岡山の盆踊りの記録, 1965
年末(としづえ)の念仏踊り
#行事祭り
吉の盆踊りの素朴さに打たれていると,実は吉とほぼ遠からぬ吉備高原の一角に吉の念仏踊りよりまだ現始的な念仏踊りがあり,それは年末(としづえ)というわずか13軒の部落が,部落の外れにある観音堂の境内に集まって新暦7月16日に年中行事として行う念仏踊りで,かつては2回ばかり中止したことがあったが,2回とも部落内に伝染病が流行したので,それ以降は毎年欠かさず開催してるというからその信仰は現在においても根深いものがあるのであろう。
さてその夜がくると部落の人は家を空にして山田のあぜ道を歌いながら観音堂に集まってくる。堂に安置された仏に読経をすませ,予め用意した傘(簡単な割竹の骨組みに紙を貼り付けたものでそれに南無阿弥陀仏と書かれている)を被ってささら(切込みをつけた棒と割竹を組合せたもの)を持って輪をつくり輪の中央に胴丸太鼓が据えられる。何人かは割った大竹に「南無阿弥陀仏」と書いた紙の端をつけて輪の外に並ぶ。これが俗に言う音頭とりに当たるのであろう。この音頭とりが「ただいま据えまするは阿弥陀様のお念仏」と言うと,先達がさいはらを回して歩き始めて太鼓の単調な合図とともに,部落の人々は口々に「南無阿弥陀仏」と唱えてささらを擦りながらぐるぐると回る。
念仏踊りとはいえこの中に踊り的要素はみられない。念仏を唱えることによって浄土の世界を希う昔時の民衆の想いが感じられて,その行事が素朴であるほどに感動をうけ勇気づけられる強い感動を受けるのである。
ー岡山文庫, 岡山の祭りと踊り, 神野力, 1965

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折口信夫: 盂蘭盆と魂祭り〜古来の風習の記録と考察
折口信夫
■盂蘭盆と魂祭り
盆の月夜はやがて近づく。広小路のそぞろ歩きに,草市のはかない情緒を懐かしみはするけれども,秋に先立つ東京の盂蘭盆(うらぼん)には虫さえ鳴かない。年に一度開くと言われた地獄の釜の蓋は一片では済まなくなった。 それに「旧暦」が「月暦」に名を改めてからは新旧の間を行く在り来たりの一月送りの常識的方法が山家・片在所にも用いられるようになったので,地獄の釜の番人は「送迎にいとまない」と嘆いているのであろう。
諺に「盆と節句が一緒に来た」というその師走の大祓に祭りや盆を合わせた話をしてみたい。
「地獄の釜の休日が年に3度ある」ということは単に明治・大正時代の不整頓な社会に放たれた皮肉だと思ってはならない。
1月,2月,7月,9月,12月の5回に精霊が戻ってくるものと古くから信じられていた。徒然草の四季の段の終わりにも「この頃は京都では流行らないが,大晦日の晩に東北では精霊が来る」という風に見えている。年に5回行なっていた精霊会が,南北朝の時代には社会的勢力を失って,年にただ1回の盂蘭盆会に痕跡を残したのであるが,7月の盂蘭盆と12月の魂祭り(たままつり)とは古来の大祓の名残であると信じている。こういうことを言うと実際神仏混淆の形はあるが,諸君が心中に不服を抱かれる前に一考を煩わしたう問題がある。
それは民族心理の歴史的根拠を辿っていた時にたどり着く事実である。
外来の風習を輸入するには,必ず在来のある傾向を契機としているので,これが欠けている場合にはその風習は中絶すべき宿命を持っているのである。だから力強い無意識的模倣をするようになった根底には必ず一種国民の習癖に投合する事実があるのである。
斉明天皇の3年に飛鳥寺の西に須弥山の形を作ったという,純粋な仏式模倣の行事が次第に平民化するにしたがって,固有の大祓思想と復活融合をしたので,半年の間に蓄積した穢れや罪を禊ぎ捨つる大祓の日に精霊が帰ってくるということになった。
死の穢れを忌んだ昔の人にも当然縁のある精霊は迎えねばならぬとなれば,穢れついでに大祓の日に呼び迎え,精霊を送り返した後に,改めて禊ぎをするという考えは自然然るべきことである。
吉田兼好の時代,すでに珍しがられた師走の魂祭りは今日においてはその面影を残していないのは然るべきことである。
古代の人には,「折節の移り変り目は守り神の目が緩んで,害物のつけ込む都合のいい時である」という考えがあった。それゆえに季節の移り変わりごとに様々な工夫を持って悪魔を祓った。五節供はすなわちこれである。盂蘭盆の魂祭りにもこの意味のあることを忘れてはならない。
魂迎えには灯篭を重ねて迎え火を焚く。これは皆精霊の目につきやすからしむるためである。冥界に対する我祖先の見解は極めて矛盾を含んだ曖昧なものであった。
大空より来たる神も,黄泉より来たる死霊も冥界の所属という点ではひとつで,これを招き寄せるには必ず目標を高くせねばならぬと考えていたものと思われる。雨乞いに火を焚いて正月の15日あるいは盂蘭盆に柱松を燃やして,今は「送り火」として面影をとどめている京都左京の「左右大文字」,船岡の船,愛宕の鳥居火も等しく冥界の注意を引くという点に高く明るくという二つの工夫を用いているわけである。盆に真言宗の寺々で吹き流しの白旗を木の梢に立てているのは今日でもしばしば見るところである。
■田楽と盆踊り
出雲国神門郡須佐神社では8月15日に「切明(きりあけ)の神事」ということを行う。その時には長い竿の先に割いた竹を放射して,それに御祖師花風の紙花をつけたものを氏子七郷から一つずつ出す。その儀式は竿持ちが中に立って,花笠をかぶった踊り手がその周囲を廻るそうである。
これは岩戸神楽と同様,髭籠(ひげこ)だけでは不安だというので,神を招くために柱を廻って踊ってみせるので,諸冊二尊の天の御柱を廻った話も,あるいはここに意味 あるのであろう。 摂津豊能郡の多田の祭礼にも同様なことが行われるという。長い竿を地面に掘り据えないで人が支えるというのは,神座の移動を便ならしめるためであって,神が直ちに神社に下りない証拠である。
「切明の神事」は旧幕府時代には盆踊りと混同して7月14日に神殿で行われて,名前さえ「念仏踊り」といわれていた。かの出雲阿国が四条河原で興行した「念仏踊り」もあるいは単に念仏を唱え数珠を首にかけていたからだとばかりは定められまい。それにはなお,かの難解な「住吉踊り」を中に立てて見る必要がある。
「住吉踊り」はおそらく祈年祭あるいは御田植神事(おんだじんじ)に出たものと思われるが,江戸には春駒,鳥追同様に正月に来たようだ。田の真ん中に竿を立てて,四方に万国旗を飾る時のように縄を引いて,これに小さな紙しでをたくさんつけておくところがあることなどを考えると,住吉踊りにはおそらく御田植神事に立てた花笠が傘に転じ,その周囲の切明の神事同様の意味で踊って廻ったものであろう。これは「田楽能」が有力な証拠をもたらしている。「田楽能」も田舞いの流とする学者の想像を信じることができるならば,田楽法師の持つ傘は田植えの時に立てられた髭籠(ひげこ)の一種なる花笠の観念化でなければならない。
田楽・住吉踊り・念仏踊りなど,その間の隔たりは天地の差である。しかしながら私はさらに盆踊りという証人を呼び出して,私の考えの保証をさせるつもりである。
「盆踊り」はなぜ音頭取りを中心としてその周囲に大きな輪を描いて廻るのであろうか?ということを考えると,そこに天の御柱廻りの形式の名残りを感じる。伊勢阪下の踊りはどんな月夜にも音頭取りが雨傘を広げて立つという。ちょっと考えてみると不思議なようであるが,この話を最初から注意深く読んでくださった方々にはある理解を得られたことだと思う。すなわちこれは花笠・髭籠であって,田楽能の傘である。切明神事の花笠持ち,盆踊りの音頭取りは神々のよりましてあったものであろう。我々の推測はさらに「百万遍」や幼遊びの「なかなかの小房主」にもまた大柱廻りの痕跡を見るのである。
盆踊りの輪形(わなり)に廻るのには,中央に柱があったことを暗示するのはもちろんであるが,時代によっては高灯籠なり切籠灯籠を立てたこともあったらしい。これらの灯篭が我々の軒端に移ったのはその後のことであろう。踊りにかつぐ花笠も依代の本意を忘れてめいめいにかぶったままで,自然導かれるべき問題は切明神事と盆踊りとの関係である。
地方地方によって盆踊りに立てる髭籠系統柱や竿は夏祭りのものと混同させられている。祭りと盆との期日の接近という唯一の理由を持って判断してしまえばそれまでであるが,はじめに述べた大祓えと盆との関係を根底に持ってかからなければ,隅ない理解は得られないのだろう。
ー古代研究/民俗学編, 折口信夫, 角川文庫

夢日記
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2020年07月15日

折口信夫: 盂蘭盆と魂祭り〜古来の風習の記録と考察


折口信夫: 盂蘭盆と魂祭り〜古来の風習の記録と考察
折口信夫
■盂蘭盆と魂祭り
盆の月夜はやがて近づく。広小路のそぞろ歩きに,草市のはかない情緒を懐かしみはするけれども,秋に先立つ東京の盂蘭盆(うらぼん)には虫さえ鳴かない。年に一度開くと言われた地獄の釜の蓋は一片では済まなくなった。 それに「旧暦」が「月暦」に名を改めてからは新旧の間を行く在り来たりの一月送りの常識的方法が山家・片在所にも用いられるようになったので,地獄の釜の番人は「送迎にいとまない」と嘆いているのであろう。
諺に「盆と節句が一緒に来た」というその師走の大祓に祭りや盆を合わせた話をしてみたい。
「地獄の釜の休日が年に3度ある」ということは単に明治・大正時代の不整頓な社会に放たれた皮肉だと思ってはならない。
1月,2月,7月,9月,12月の5回に精霊が戻ってくるものと古くから信じられていた。徒然草の四季の段の終わりにも「この頃は京都では流行らないが,大晦日の晩に東北では精霊が来る」という風に見えている。年に5回行なっていた精霊会が,南北朝の時代には社会的勢力を失って,年にただ1回の盂蘭盆会に痕跡を残したのであるが,7月の盂蘭盆と12月の魂祭り(たままつり)とは古来の大祓の名残であると信じている。こういうことを言うと実際神仏混淆の形はあるが,諸君が心中に不服を抱かれる前に一考を煩わしたう問題がある。
それは民族心理の歴史的根拠を辿っていた時にたどり着く事実である。
外来の風習を輸入するには,必ず在来のある傾向を契機としているので,これが欠けている場合にはその風習は中絶すべき宿命を持っているのである。だから力強い無意識的模倣をするようになった根底には必ず一種国民の習癖に投合する事実があるのである。
斉明天皇の3年に飛鳥寺の西に須弥山の形を作ったという,純粋な仏式模倣の行事が次第に平民化するにしたがって,固有の大祓思想と復活融合をしたので,半年の間に蓄積した穢れや罪を禊ぎ捨つる大祓の日に精霊が帰ってくるということになった。
死の穢れを忌んだ昔の人にも当然縁のある精霊は迎えねばならぬとなれば,穢れついでに大祓の日に呼び迎え,精霊を送り返した後に,改めて禊ぎをするという考えは自然然るべきことである。
吉田兼好の時代,すでに珍しがられた師走の魂祭りは今日においてはその面影を残していないのは然るべきことである。
古代の人には,「折節の移り変り目は守り神の目が緩んで,害物のつけ込む都合のいい時である」という考えがあった。それゆえに季節の移り変わりごとに様々な工夫を持って悪魔を祓った。五節供はすなわちこれである。盂蘭盆の魂祭りにもこの意味のあることを忘れてはならない。
魂迎えには灯篭を重ねて迎え火を焚く。これは皆精霊の目につきやすからしむるためである。冥界に対する我祖先の見解は極めて矛盾を含んだ曖昧なものであった。
大空より来たる神も,黄泉より来たる死霊も冥界の所属という点ではひとつで,これを招き寄せるには必ず目標を高くせねばならぬと考えていたものと思われる。雨乞いに火を焚いて正月の15日あるいは盂蘭盆に柱松を燃やして,今は「送り火」として面影をとどめている京都左京の「左右大文字」,船岡の船,愛宕の鳥居火も等しく冥界の注意を引くという点に高く明るくという二つの工夫を用いているわけである。盆に真言宗の寺々で吹き流しの白旗を木の梢に立てているのは今日でもしばしば見るところである。
■標山
この柱松屋や旗の源流に遡っていくと,そこにありありと古代の大嘗会に引き出された標山(しめやま)の姿が見えてくる。天子登極の式には必ず神泉宛から標山というものを内裏まで引いてきたので,その語源を辿ってみれば,神々の 天下りについて考えるところがある。標山は「神の標めた山」という意味である。高天原から地上に降りて占領した根拠地なのである。標山には必ず松や杉や真木の一本優れて高い木があって,それが神降臨の目標となるわけである。
これを形式化したものが大嘗会に用いられるわけであって,ひとまず天つ神を標山に招き寄せて,その標山のままを内裏の祭場まで釣れますのである。今日の祭りに出る,だんじり,だいがく,だし,ほこ,やまなどは皆標山の系統の飾り物であって,神輿とは意味を異にしている。
■田楽と盆踊り
出雲国神門郡須佐神社では8月15日に「切明(きりあけ)の神事」ということを行う。その時には長い竿の先に割いた竹を放射して,それに御祖師花風の紙花をつけたものを氏子七郷から一つずつ出す。その儀式は竿持ちが中に立って,花笠をかぶった踊り手がその周囲を廻るそうである。
これは岩戸神楽と同様,髭籠(ひげこ)だけでは不安だというので,神を招くために柱を廻って踊ってみせるので,諸冊二尊の天の御柱を廻った話も,あるいはここに意味 あるのであろう。 摂津豊能郡の多田の祭礼にも同様なことが行われるという。長い竿を地面に掘り据えないで人が支えるというのは,神座の移動を便ならしめるためであって,神が直ちに神社に下りない証拠である。
「切明の神事」は旧幕府時代には盆踊りと混同して7月14日に神殿で行われて,名前さえ「念仏踊り」といわれていた。かの出雲阿国が四条河原で興行した「念仏踊り」もあるいは単に念仏を唱え数珠を首にかけていたからだとばかりは定められまい。それにはなお,かの難解な「住吉踊り」を中に立てて見る必要がある。
「住吉踊り」はおそらく祈年祭あるいは御田植神事(おんだじんじ)に出たものと思われるが,江戸には春駒,鳥追同様に正月に来たようだ。田の真ん中に竿を立てて,四方に万国旗を飾る時のように縄を引いて,これに小さな紙しでをたくさんつけておくところがあることなどを考えると,住吉踊りにはおそらく御田植神事に立てた花笠が傘に転じ,その周囲の切明の神事同様の意味で踊って廻ったものであろう。これは「田楽能」が有力な証拠をもたらしている。「田楽能」も田舞いの流とする学者の想像を信じることができるならば,田楽法師の持つ傘は田植えの時に立てられた髭籠(ひげこ)の一種なる花笠の観念化でなければならない。
田楽・住吉踊り・念仏踊りなど,その間の隔たりは天地の差である。しかしながら私はさらに盆踊りという証人を呼び出して,私の考えの保証をさせるつもりである。
「盆踊り」はなぜ音頭取りを中心としてその周囲に大きな輪を描いて廻るのであろうか?ということを考えると,そこに天の御柱廻りの形式の名残りを感じる。伊勢阪下の踊りはどんな月夜にも音頭取りが雨傘を広げて立つという。ちょっと考えてみると不思議なようであるが,この話を最初から注意深く読んでくださった方々にはある理解を得られたことだと思う。すなわちこれは花笠・髭籠であって,田楽能の傘である。切明神事の花笠持ち,盆踊りの音頭取りは神々のよりましてあったものであろう。我々の推測はさらに「百万遍」や幼遊びの「なかなかの小房主」にもまた大柱廻りの痕跡を見るのである。
盆踊りの輪形(わなり)に廻るのには,中央に柱があったことを暗示するのはもちろんであるが,時代によっては高灯籠なり切籠灯籠を立てたこともあったらしい。これらの灯篭が我々の軒端に移ったのはその後のことであろう。踊りにかつぐ花笠も依代の本意を忘れてめいめいにかぶったままで,自然導かれるべき問題は切明神事と盆踊りとの関係である。
地方地方によって盆踊りに立てる髭籠系統柱や竿は夏祭りのものと混同させられている。祭りと盆との期日の接近という唯一の理由を持って判断してしまえばそれまでであるが,はじめに述べた大祓えと盆との関係を根底に持ってかからなければ,隅ない理解は得られないのだろう。
ー古代研究/民俗学編, 折口信夫, 角川文庫

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