Boggy: 枯葉野幻想奇譚〜秋田枯葉野伝承
2013/8/20
幻想奇譚
地域の 古い出来事を 調べているうちに 秋田は 伝説や昔話が数多く残っている事に 気づかされた・・・・
お隣 岩手に 劣らず 民話や伝説の宝庫である
雪深く 囲炉裏端で 展開された 先人達の話など 幾世代にも渡って 伝えられてきたのだろう・・・
不思議な話 奇怪な話 哀れな話・・・
中には 県民性がよく現れた豪快な笑い話や 艶笑譚もある
現代の目から見れば 捕るに足らない話でも 薄暗い部屋で ほのかな明かりの囲炉裏端や 蝋燭の揺らめく炎の下では
言葉から 連想される 物語世界は 幽玄であり もの悲しい・・・
とりとめもなく 時間から隔絶した世界がひろがり人々の 想像力の翼が 際限が無いことが推測できる・・・・
遠野物語を引き合いに 共同の幻想を 国家論まで広げて語るつもりは無いが そうした物語を 駆逐してしまっ戦後のメデァの想像力は もはや無いといっていい・・・今
案外 想像力を掻き立てられる幻想の世界観は 快く感じてしまう
帰着の見えぬ物語 どこか哀れで 物悲しくも 滑稽であったりぬめりとした物語世界は どこか 愛おしい・・・
地域の人たちの恐れや畏怖であり 地域に根ざし 愛された物語は商業ペースで 毒気を抜かれた 現代の造られた物語よりも重層で どこか 奥深い・・・
そうした話も 今昔話に織り込みながら 展開していこうと考えている
投稿者: boggy
枯葉野通信
https://white.ap.teacup.com/karehano/ 羽州幻想奇譚
2013/8/20
2013/8/22
2013/8/24
2013/8/28
2013/8/29
久保田の城下から 江戸に向かう羽州街道を行くと 雄物川の支流 淀川と荒川が合流する地点 少し視界が広がる唐松野に入ると 最初の渡し場があった場所が見えてくる・・・
戦乱の時代 久保田の地を支配した秋田氏と 仙北を支配した戸沢氏と意を共にする仙北の国人領主連合軍と鬩ぎ合った 境界線の名残を残す
羽後の境の川・・・・の地
その境を越えると 荒川沿いに蒼い山深い米ヶ森と呼ばれる 丘陵地がある
秋になれば 久保田の城を取り囲むように 黄金の稲穂の水田が広がる秋田平野と打って変わって 周りは 蒼々たる美林の里山が目前にあり
雨が白くたなびき その青々しさは まるで水墨画のように 様相を変えてしまう・・・
ここは 太古からの奥深い森の入り口にあたる・・・・
ここには かつて仙人になったと云われる人が居ついたと 古くからの 伝えがあるが 今でも 雨が煙る蒼い山は 不思議な話の舞台としても 申し分が無い・・・
その後日譚・・・琴弾く猿 蔓でくくり琴を背負い うっそうとした暗い森の木々を 駆け巡り どこかで 南海坊を想い 琴を弾く猿の姿がある・・・
哀れであるが 琴を弾く凛とした猿の姿を 想えば 何故か 愛おしい・・・お話
琴の音色が 山間から流れ出ていても 不思議ではない 平安の世から住み着いたと云われる 山法師 南海坊の伝説は この景色の中に 今でも 息づいているようだ・・・・
■月出野
唐松野は 月出野とも呼ばれていた・・・
羽州街道をまっすぐ行けば 江戸方面
宮田又の沢を渡り 米ヶ森の裾野を抜け 山間を行けば 角館を経由して 陸奥(岩手)へ出るか あるいは 六郷へ向かい 再び 羽州街道に出て 江戸方面へ向かう 交差の地になる
真澄の記録では 唐松野となっているが 上淀川と境の地をあわせて 土出荘とも呼ばれていることを 列記している
また 近くに 貝小淵があり 帆立貝、みるくい 浜蔓などが出るので 近き世まで海であったろうと述べている
月出野という名称名付けは 数多く残されている将軍伝説のひとつで 日暮を出発した 将軍一行が 賊を追ってこの地に着くと
東から 月が昇ったので 月出野と名づけたという伝えである
後世の学者達は 将軍を 坂上田村麻呂を当てているが 近くに ある利仁将軍の伝説があり 一連の話に 田村麻呂の話が 混入して しまったのではないかと 私は 推測している
利仁将軍は おそらく 藤原利仁のことで 田村麻呂より 100年ほど 下った時代の人で 平安時代の代表的な武人として有名になり 多くの説話が残っている
翌延喜15年(915年)下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し武略を天下に知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されていおりこの年には鎮守府将軍となり その最終位階は従四位下であったとされる
なかでも『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話が有名で 芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆した
藤原家から出た 武家で この人の家系から 源氏 平家と並ぶ 武家としての一大勢力となっていく
将門を倒したことで有名な藤原秀郷と並んで藤原氏が 武家社会に進出したことを象徴する人物と言える
鞍馬蓋寺のある 鞍馬山の「大天狗」は【僧正坊】と呼ばれ 日本各地の天狗様の「総元締め」として
また僧正が谷は総本山ともいえる場所として語り継がれていて
天狗は古くから「山岳信仰」とかかわりがあり 修験者が守護神として祀っていたが、中世以降山伏の堕落もあり
天狗を妖怪な「魔物」とみなす風習もうまれるなど 時代ともに姿やイメージも変遷してきた
鞍馬寺は 鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの 最年少であった鑑禎が宝亀元年(770年)に草庵を結び 毘沙門天を安置したのが始まりと云う
私たちには 義経が 天狗と剣の修行したお寺として有名で 天狗との関わりが深い お寺として 認知されている
旧協和地区には 伝説等に天狗や 山伏 修験道の話が 沢山残っており 秋田県における 天狗伝説の宝庫と云っていい
おそらくは 修験者との関わりが深い土地柄 最初に修験者に関わりが深い利仁将軍の話があり 時代と共に 利仁将軍が 人々の記憶から忘れ去られ 今でも 人気のある 田村麻呂将軍の話として 摩り替わっていったという構図が見えてくる
仙北平野部に語り継がれる 将軍伝説は 地名の名付け親だったり 賊を退治する話が多い・・・
本来は 蝦夷側の民衆であったはずで 同情すべきは蝦夷側であるが 物語の中では 蝦夷は悪で 物語りの語り部側に 同調している
あるいは 時代をもっと下り 民衆の意識が もはや蝦夷ではなくなった時代になって 語られたろう事が 物語の構図として見えてくるのだ・・・
伝説の多くは 時間や時代が語られておらず 時間を浮遊し続けている・・・・そのぬめりとした 物語の時間の流れが 妙に 琴線に触れて 私には面白いのだが・・・
利仁将軍の名が はっきり出てくる伝説は 米ヶ森から少し 角館に向かう 荒川鉱山の奥にあるお宮 玉宮の伝説にある・・・・
利仁将軍がこの地の敵を討つため、ここに七日七夜籠もって 祈願したとも 云われている・・・
鶏卵大の白玉で一つを 日照(ひてる)玉 今一つを雨零(ふり)玉というが 旱天続きの時、雨零玉をかりて 池や御手洗水等に沈めて雨乞すると 晴天続きでも雨が降り 日照玉を神に乞い、帰ってこの玉に神酒を奉って 祈ると晴天になるといわれている (天宮伝説の原文の一部)
将軍伝説は 奥羽山脈越えの 真昼岳の名付けから始まり 峰吉川の 沢の名前や 朝方の鶏の声を聞き土地を名付け 唐松野に出る前に 日暮れになり その地を 日暮と名付け 唐松野に出ると 東から月が出たので 月出野と名付ける・・・
一連の将軍は 田村麻呂と名指ししているが 話の流れを読むと 利仁将軍の話に つながっている様に思える
そして 荒川の奥に篭もり祈願する 玉宮伝説につながる・・・
その後の伝説として 旧岩城藩地区の 天鷺城の伝説 八郎潟付近の 大滝丸伝説など 数々の賊を成敗した将軍の伝説に 繋がって行くのだ・・・
将軍たちが生きた時代差は百年ほどあるが どちらの将軍も 史実として この地を 訪れた形跡はなく 正規の記録も無い・・・
田村麻呂が この地に来ていたかも知れないとする根拠になる 払田柵跡の発見は 1902年で それまでは どの歴史書にも この柵の存在は 示されておらず 存在そのものも知られていなかった
年輪による年代測定で 801年に伐採された材である事が判ったのが 1989年で 伝説の方が確実に古く 伝説を裏付ける 資料にはならない・・・・
利仁将軍の話は ある時代では 田村麻呂将軍より 身近であり 将軍と縁がある真言密教を信仰する 修験道の人たちには 伝説にふさわしい人物である
縁起に出てくる利仁将軍の鞍馬寺は 真言宗の寺としていた時期もあり そばの地は 修験道の総本山であり 伝説の天狗たちの総本山でもある
そうしたことを踏まえてみると 伝説の将軍は田村麻呂ではなく これら一連の伝説は 藤原利仁将軍が ふさわしいとなるだろう・・・
米ヶ森の伝説の南海坊も 仙人になっただろうと結ばれているが 修験者としての側面がある
また 南海坊の物語の スピンオフの物語として 朝日姫の物語があるが 苦難の末 米ヶ森にたどり着くが そこで 南海坊の庵に身を寄せていた
恋人と再びめぐり合い めでたしめでたしとなるが 後日談として そばにある 宮沢の滝で 修行し 法力を得 南海坊から 北海という名をもらい 村人の勧めで 月出野に移り住む事になる・・・
物語は 複雑で 色々な要素を含むが 巧妙な物語に 仕上がっており 人々の記憶に残る内容になっている
物語の中で 南海坊は 平安の頃から 修行をしていると 答えているが・・・・
朝日姫の物語は 鎌倉時代 北条時宗の時代の政治的喧騒を 背景とし 時宗と政治的に敵対した側を 好意的に描いており 時宗の歴史的評価と相反している立場から 語られる構図でもある
朝日姫の物語を経て 南海坊が尋常ならない年月を生きて 徳の人物である事が 初めて理解できる 構図でもある
修験者のもつ独特の傲慢さは 南海坊にはなく 人々に優しい 徳のある人物と描かれており 派手な法力はなく 徳を持って 人あるいは動物を改心させてゆく
これは 一般民衆から発生した物語ではなく 学識と仏教説話を熟知した者が 伝えた物語であろう事がよく判るだろう・・・
将軍の一連の土地の名付け伝説と 米ヶ森伝説 朝姫伝説 荒川の玉宮伝説 秋田の各地の賊を討ち取った将軍の英雄伝説は 同じ物語世界を構成しており その背景には 修験道の影があり
物語の真偽とは別として 物語を広めてゆく過程で 山伏と呼ばれる修験道の影響が大きい事も よく判る・・・
■天狗の情郎
江戸時代後期の始め頃(寛政2年〜6年)(1790年〜1794年)
秋田藩士で 国学者 人見蕉雨斎によって書かれた黒甜瑣語という本に
「元禄の頃(1688〜1703) 仙北稲沢村の盲人が伝えし 不思議物語にも多くみえ下賎の者には別して、かどわさるる多し」
という書き出しで始まる 一連の話の中で 江戸初期の刈和野の火事に纏わる 奇譚が収録されている
・天狗のかまかけ (天狗の情郎)
昔仙北の代官の片岡某という人が下男に酒を買いにやらせた。
下男が徳利を下げて酒屋に急いでいると、大山武士は自分に 従い来るようにいう。
下男は主人が夕食に飲む酒を買って帰らなければいけないと断ったが 酒は自分にまかせるようにと徳利をとりあげ、酒は縁先に届いた頃だ
というので、山武士のあとをついて行くことにした。
山伏が下男を連れて刈和野村にやって来て、火事がおこるから 樹の上で見物しようというので、木に登り待っていると 村はずれより出火し、一軒残らず焼失した。
下男は明け方近く山伏に送られ家に帰り、主人にどこに行ったか聞かれ 刈和野の火事をみたと答えた。
飛脚が着き、大火の様子を語ったが、下男の話と全く同じだったという。
(訳文 まま)
黒甜瑣語は 秋田藩士で 1761−1804 江戸時代後期の国学者 人見蕉雨斎 (ひとみ-しょううさい )が ふるい記録の散逸をうれえ,その収集につとめ
「黒甜瑣語(こくてんさご)」「蕉雨斎吟稿」などをあらわしたものだそうだ
黒甜瑣語の原文は 秀麗な文語体で 語られて 陳腐さは無く
訳文より 物語世界は 重厚で 秀逸な物語に仕上がっていて 他にも 秋田の多くの奇譚が 収録されている
ここでは まず この物語を取り上げようと思う
他にも 訳文が違う形で 公開されている話であり 代官片岡某が 石井某だったり 刈和野の大火事が抜けているものがあったりするが 原文には 刈和野の大火事があり この話の重要な部分になる
その他にも 下男が 何度か居なくなり 戻ってきては 津軽の城下の火事 越後城下の大火事などを 見てきた話をして 4〜5年後 江戸に上る途中 又 いなくなり 半月後には 戻ってきて 今度は上方まで行ってきたと話す
士分でない 下賤の者が何度も繰り返し 天狗らしい山伏姿の男に 連れ去れるという話の構図が 原文の世界だろうと思う
盲人の住む 稲沢は 唐松野・米ヶ森から 角館方面に 向かってすぐの荒川の支流 稲沢の沢筋上流にある 集落の村で 旧協和地区にあるが 藩政当時 刈和野村を親郷として 寄郷十六ヶ村として峰吉川村と共に 同じ 共区内という意識があったと思う
盲人が話したのが 元禄の頃 (1688 〜 1703)将軍綱吉の時代
作者人見蕉雨斎は 1761−1804頃の人で 老人とは約百年程の時間差がある
作者は 誰かに この話の元を聞いたか 当時資料として残っていた話を 採録したものだと思うが 他に収録された話は 人伝に聞いた話の場合 誰から聞いたか 詳細を述べられているケースが多々あり この話の元は 当時記録されたものからの採録と推測できる
又 作者も 主人公の下男も話の中では 山伏を天狗と断定していない
大きな山伏姿の男で 会うと奇妙な事に 巻き込まれたというニュアンスで 淡々と 下男の居なくなった後の出来事を 下男が語るという筋だ
何度か 居なくなった理由のうち 刈和野大火事の話が 他の登場人物達が 妙に納得してしまう構図は 刈和野が近くであり 身近であるため村の家々を 全滅するほど火事の記憶も 人々の記憶に 新しい事件と考えられるためと受け取れる
又 100年後に居る この話を 収録した作者にも この火事に 心当たりがあり そのことが説得力を持った 話だったことが 見えてくるだろうと思う・・・
実際 刈和野村は 江戸の初期 明暦2年(1656)大火事があり 町並みや通りを大幅に変え 村を家並みからすべて再建しなければならない 出来事に 見舞われている記録がある
江戸期が始まって 80年〜100年余りである元禄年間では 近在に住んだ 語り部の盲人にも まだ なまなましい出来事であったろう事が判る・・・
室町時代 南部氏の支配 小野寺氏の支配を経て 戦国期には戸沢氏が 仙北地方を支配し 大火前の刈和野村の町割りに 影響されていたのだろうと思う・・・
六郷町 本堂町と町割り区分されている事や 同盟を組んでいた 仙北の他の 国人領主達の名が 冠されている所に現れている
真澄の記録によれば 芦沢手前の丘陵地茶臼山の山頂には 刈和野城があり その麓付近に 館或いは 役所のようなものがあり 戸沢氏の家臣 旗幅氏が 刈和野城ノ介を名乗り 常駐していた
真澄は 芦沢付近 峰吉川の境に刈柴の関という 関所があり 真澄が 訪れた頃にも 建物跡の痕跡があったと記録している
川を挟んで 由利十二党と対峙し 関所を挟んで 安東氏(秋田氏)と対峙する
戦国末期には 土川を過ぎ 角館との境付近には 戸沢盛安の父が
隠居する土川のあたりに城があり(土川黒沢城跡)小杉山に 九道の採掘道をもつ金山があり 今泉集落は大変な賑わいを見せていた伝承がある
金山は 佐竹氏が入部してから 再び 金の採掘道がみつかり 採掘が続けられていたが 金が枯渇した後 閉山し 今泉集落も 徐々に衰退していったようだ
享保の頃(1716〜 1735)には 家が三軒まで減っていた伝承がある
この地帯には 何時の時代か定かでない銀山跡や 銅山跡の伝承のある山があちこちにある・・・
隠し金を埋めた話も含めるとさらにあり 後三年の役の荒川太郎の故事に始まり 藤原三代の資金源を潤す重要な役割を持っていたが
久保田藩 三代藩主 暗君佐竹義処の代で散在し その後 枯渇 金山が復興する事は無かった
修験道者は 金属採掘のスペシャリストの側面があると言われている山伏伝説 天狗伝説は そうした修験道と密接な関係の信仰を持ち 数々の法力や 退魔伝説に彩られた伝承を持つ事を 踏まえると
天狗の存在は当時の人には身近な存在であり 信じるに足る存在だったのではないだろうか・・・・
黒甜瑣語の作者 人見蕉雨斎と同時代を生きた真澄の記録にも 天狗に関するものがあり 他にも 国学者達の著作や沢山の伝承が 記録されており 現代人が思うより 現実的なはなしとして信じやすい 環境であったのだろう
此処では まず 戦国以前と 刈和野村の大火事以後とでは 刈和野村そのものが違った構造だった事だけに まずは 留めておく
物語に登場する刈和野村の大火事のイメージが 何処にあるかといえば 刈和野村は事実 江戸初期の大火事で壊滅的なダメージを負い 村の構成する町割りを大幅に変えて 川沿いに 今も残る町の配置になった・・・
それ以前は もっと丘陵地側に 本堂町・六郷町・八日町の 3町で構成されていた村だったのだ
現在は 当時新しくできた町割り 二日町(上町)五日町(下町)の二つの町だけで構成されており その後できた町も その2町の中に含まれていく・・・
下町 上町の区分は 刈和野を2分して行われる大綱引きの町内区分であり 市が立つ日を冠された町名になるどの日時の市を開くか 綱引きの行事で決めた名残でもある
今 黒甜瑣語の原文を確認できたので 追記しておく
石井某の下男が 何度も かどわかされた話が先にあり 稲沢の盲人が元禄の頃話した伝えになっている
刈和野村へ火事を見た片岡某という代官の下男話が 友人から聞いた話となっており 引き続き書かれている上記の話と 時系列が別の 独立した話になっている
また 秋田城下の広小路の 空の上から声が聞こえる話が続いている
三つの話が 一まとめに 天狗の情朗(やらう)の題目の話で別々の時系列で語られた話で 刈和野村の火事が一番具体的だ
木の上から見てると火事は 村はずれから出火し 村を一宇も残さず焼けたと 記されている
訳文の大山武士は 原文では大山伏と表記されている
このカテゴリーでは 伝承の中の 少し 不思議な話 奇妙な話など取り上げて 幻想的な世界として 読みながら 創造してもらおうと思っていたのですが 意図せぬ方向で 広がってしまいましたね・・・
もっと 身近な河童や その他の妖怪話や奇妙な不思議な話でもと 気楽なつもりで始めたのですが 天狗話は 思ったより 深い・・・テーマだったようで 好奇心の強い私は思わず 予定の散策コースを外れてしまいそうです
この先は 天狗の正体・・・天狗現象など 散策コースが分かれてしまいますが 内容が 地元を離れ 別の方向に進んでしまうので 興味がある方は そのまま進み 自分で調べ 知の散策をしてみてくださいきっと 面白いルートになると思いますよ・・・
私は もうすでに 行ってきましたが・・・いずれ 再び 続きを話す機会があると思います・・・
『黒甜瑣語』 『蕉雨斎吟稿』 『秋田紀麗』 を書いた人見蕉雨斎徳政夜話』 山崎徳政は 菅江 真澄と少し著作した期間がずれているけれど ほぼ 同年代の人で 2人共 秋田の生まれで
当時 最先端の学問 国学の影響を受けている秋田生まれの国学者 平田篤胤 弟子の思想家 佐藤信淵は 同時代の少し下の世代 篤胤は まもなく到来する幕末の勤皇の思想に大きな影響を与えているし信淵は 明治期の統一国家のあり方を示唆した先取りした考え方を持っている・・・・
有名な奇譚話だけでなく 膨大な量の見聞きした話を 書き綴った日記というべきかな『甲子夜話』の 肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)(NHKのドラマ わたしの妻はくノ一にもう一人の主人公として登場していました)
なども 少し下の世代・・・・
何か この時代 意図的な 流れを感じます・・・ね
それに 菅江 真澄 秋田の生まれではないが 秋田の江戸時代を語るには 上記二人と真澄の著作が 欠かせない・・・
国学の思想が出てくるのが 江戸期の中期頃から だから 他の藩に 先駆けている所が また すごい・・・
雪深い東北の藩から アダ花のように始まった日本の写実主義 秋田蘭画事始めも この頃からで 小田野直武 佐竹署山も ほぼ 真澄たちと 同世代・・・
真澄は 彼らが亡くなった後 秋田に滞在しますので 直接対面はないと思われますが・・・・資料として読んでいるふしが多々ある・・・
秋田藩のこの頃の 文化水準はかなり高い時期と思えるおかげで 史料価値が高く 精緻に 比較検討できる複数の資料 ここら辺も 散策すると もっと面白いだろうなあと思いつつも
では 刈和野村の話に 戻ろう・・・
将軍伝説の項で 将軍が通ったルートは 真昼岳から 一気に 刈和野村のはずれ 芦沢の伝承に飛ぶので 途中のルートに 何か手がかりがないか 色々 調べたが 伝説に 繋がる様な 具体的なものは 中々 見つからない・・・
将軍の話は あるには あるのだが 他の伝承のように生々しさは 感じられず 仙北地方は 空白 地帯のままだ・・・
別の形で 神宮寺岳から賊を討つために 山頂から飛んで 降りてきた話があるが これは 少し異質の感じがする・・・
将軍の伝説の真偽は 別として ここでは語り部である話し手が 受け手である地元の当時の民衆が どういう道のりや 周辺の集落などの位置関係をどう目で捉えていたかが 伺えれば 良いと考えている
語り部の時代が 室町期や戦国末期の頃であれば 当然 刈和野を通過し 周辺の地名が 出てきてよさそうだが 伝承はは芦沢集落のみで 鶏の声で 集落があることを 将軍一行が知る話なので そ芦沢まで 集落らしきものがなかった事を意味するが
その続きである日暮以降の地名が 今でも残っていたり それに近いニュアンスの地名であるのに対して 芦沢につけられた 鶏沢の地名は この話だけであり 以後の時代に地名が受け継がれた形跡がなく 地元の方には 唐突で 話に納得できず 説得力のない印象になる
語り部の 大きな話の流れの導入部としては 不備が感じられるが 少なくても 戸沢氏が勢力を持つ以前に 語られた話と 印象付けられる構造のようだ
江戸時代以降の羽州街道は 神宮寺に抜けるコースだが 江戸時代の初期以前は 刈和野村から 角館を回り 六郷に抜けるルートだった
川筋が何本も集まり 大河である雄物川の川幅と 急流の玉川を通過するための 治水工事に 資金と時間と人手が
大勢必要になり 戦乱の時代の5万石以下のレベルの大名である戸沢氏では いくら 勢いがあったと居えども 古来からの道を 整備するレベルはできても 無理な時代だったろうと思う
だから 遠回りでも 刈和野から 角館へ抜け 六郷にでて
雄勝に抜けるルートを辿らなければならなかった 刈和野村周辺を見れば 三条の大きな川筋と それに 注ぐ 芦沢川の芦沢橋 沼田川の三枚橋を通り 土川から角館方向へ行く大佐沢川の田中橋 水尺川(土買川)の水尺橋から 高屋敷の途中の加賀戸(かかと)橋がある
江戸時代頃には刈和野五橋と呼ばれ 沢筋が5本あった
江戸中期の治水工事後になって 雄物川や 玉川を渡らずに通過でき 橋も整備されたのだろう
玉川を渡る渡しは 神宮寺地区にあって(現在の玉川大橋付近)津軽藩主が参勤交代で 江戸へ上る時神宮寺の人足が怖いと 藩主の佐竹氏に訴えたところすぐに 人をやり神宮寺の人足達の首を切り 川原に晒したそうだ
次に 津軽藩主が 此処を通るため 川を渡る時に
(おそらく玉川でのこの話は 江戸中期の治水工事が 終了した後の話だろう)
大荒れに荒れて川を渡れず 人足の祟りとしてとらえ 震え上がらせた逸話が残っている・・・
真澄が描いた神宮寺周辺を描いた絵図には すでに 現在位置付近に 玉川筋が 雄物川と合流した図面になっている
天明2年(1782年)に新川堀替の文字が添えられ 神宮寺側に古川とする 流れ筋があり おそらく 川が遠くなり 運河が造られたものだろう
現在は 残っていない・・・・
新川掘りが 終了するまで 刈和野 神宮寺間は 必要以上に雨が 降り注げば 通過する時には 厳しい難所になり さらに 蛇行する大きな雄物川を2度渡り さらに 玉川の流れを 通過せねばならないのだ
人が少ない時代と考えれば なおさら 往来は 難所であるため 戸沢氏の時代に 刈和野〜角館ルートを整備したと仮定しても 他に 川を渡らずに済む 迂回ルートがあっても おかしくない
それに 語り部 或いは 将軍一行が 刈和野村周辺を通過しないで 芦沢まで 集落がある事を 気づかない不自然さは なくなるのではないか と仮説を 立ててみた・・・
そうすると 案外 見えててくるものだなあ・・・絶妙のルートを 発見した・・・
ここら辺の土地勘が ある方は 一度 推理してみてください ルートが 何通りか見えてくるはず・・・
これは しばし 宿題としておきましょう・・・か
千畑地区に将軍伝説がありましたね・・・
真昼山をのりこえ、この村にたてこもり賊党を打ち払い 賊軍より弓矢一千本二獲したが 将軍は弓矢を池にうめさせた。
一説には 八幡太郎義家が戦勝祈願する時、白岩明神に向かって 千篦征箭(ちのりとがや)を千度遠投して大沼の峯にたてた。
その跡を千本跡と称したが、それが千屋村の名となったものという。
八幡太郎義家の伝説とかぶっていますが となると・・・
真昼岳から千畑地区に下りて 神宮寺地区で 神宮寺岳山頂から 飛び降りながら賊と 戦い 芦沢を通り 荒川へ向かう 筋立てになりますね・・・
あと 保呂羽山で大盗賊夜叉丸を捕まえようとした話があります
私が 推測したルートとは 違ってしまいましたが 千畑から 私が推測ルートを辿り 荒川にたどり着き 天鷺丸や 森吉で戦い 帰途のルートで 神宮寺で戦い 保呂羽山へ向かう 話の流れも 考えられるので ここでは 一応 保留ですね・・・
千畑〜神宮寺ルートであれば 江戸時代 羽州街道が 神宮寺を通過するルートになってから 語りられた話の可能性が 出てくる
それだと 逆に 何本もの沢を渡るのに気づかず 将軍一向が 芦沢の鶏の声で 初めて集落に気づくという 途中何もない話の不自然さを 地元民として 感じてしまう
橋があり 不便さを感じずにいられる時代になってから 語られるという構図ならば 語られた時代の民衆は もっともらしさを信じ 伝承を残すだろうと思う
田村麻呂や利仁将軍一行が 実際 刈和野地区を通れば 何らかの伝承として残っていてもおかしくないほどの特徴ある地形で あり 語り部の時代であれば驚き 特徴つけた話を残すはずだ・・・と思う
語り部の時代には もう 失われ 今日に近い風景であれば 話は 別だが・・・・
真昼岳から 千畑地区にぬけるルートは 払田柵に通じる道であり 非常に古い時代から 長く使用されてきた道である
陸奥(岩手)から来る道筋は 物語のルートとしても 民衆が信じるに足るリアルさがあるのだ
神宮寺を通らず 今は忘れらた古道を通り 一連の物語のあと 神宮寺を通り 保呂羽山へ向かったと話が 繋がるのであれば 語り部は 江戸以前に語った事が 証明できるのではないだろうか
ただ 一連の将軍伝説は 協和地区に残った伝説を集めたものであり
旧協和地区の住民に向けて 語られた話として残されてきたものだ 当時の住民が 信じられるリアルさがなければ 今日まで語り告がれる事は なかったろう
周囲の民衆に もうすでに 風景として魅力のなくなった 刈和野村の時代に語られた話なのか
或いは 人々が 刈和野の地に住んでいないほど 古い時代に 語られた話なのか興味があるが 結論は急がない方が いいだろうと思う
枯葉野通信
https://white.ap.teacup.com/karehano/ 「枯葉野通信」
枯葉野今昔物語
《 始めに 》
枯葉野は 刈和野地区の古い名称のひとつです
町を迂回する国道・刈和野バイパスができ 町を通過せずに 通りぬける事ができるため 今の町は 時代の喧騒を離れ 静かに佇む 寒疎な東北の田舎町の光景ですが かつては 雄物川の太く大きな流れを 利用し 雄物川水系の各地から集まる船運送の要所として・・・羽州街道の御本陣を伴う 宿場町として・・・また 陸奥(岩手)雫石街道に通じる角館から 刈和野を経由し 岩城藩亀田にでて羽州浜街道へ抜ける 刈和野街道と羽州街道との 交差する要所として栄えました
その時代の恩恵を受け 昭和40年代頃まで 人や車の往来が 多くありましたが その幻影は 徐々に翳りを見せ 往時を生きた人たちの記憶と共に その光芒は時間の彼方へ 消え行くだけとなっていました・・・・
この地の歴史を紐解いてみると 交差する街道と 帆船が行き交う雄物川の大きな流れを舞台に 幾層にも 重厚に積み上げられた 人々の暮らしや葛藤が
あった事が 鮮やかに見えてきます
ある時は・・・劇的な 光芒を伴う 激烈な戦さの舞台として・・・
時には 幻想的な幽玄な物語世界として・・・
あるいは 奇妙で不思議な話の舞台として・・・・
そして 物悲しさを持った 切ない話の世界として・・・
そうした 入り組んで積み重なった物語と 時空の迷路を 気ままに散歩しながら 散策してみようと思い立ち このブログを立ち上げました
歴史を紐解く 知の散策コースは 多岐でルートは 様々・・・現在の世界からの幻想と幽玄の狭間の仮想現実世界を 幻視する知の散策の 手助けになれば 幸い・・・です
枯葉野通信
https://white.ap.teacup.com/applet/karehano/msgcate13/archivehttps://white.ap.teacup.com/applet/karehano/msgcate5/archive 追加資料
月の出羽路には 稲沢村は
総家員 八八戸
人員 四三一人
馬 一七四疋
山郷で 稲田が少なく 炭焼きの煙が多く立ち 男女は真柴とりと馬引き業が多いとある
刈和野村の 寄郷の12村の一つで土川村や刈和野村と関係が深かった
枯葉野通信
https://white.ap.teacup.com/karehano/