2020年12月04日

坪内祐三: 連合赤軍〜高度成長期後期に生まれた革命左派テロ集団


坪内祐三: 連合赤軍事件〜高度成長期後期におきた革命軍の殺人自決事件
■連合赤軍事件に関する著作
連合赤軍事件はその事件を起こした彼ら彼女らと同世代,つまりいわゆる「全共闘世代」と呼ばれる人々にとって一つのトラウマになっている。特にその世代の表現者にとっては。
何人もの作家たちがこの事件を作品化しようと試みて失敗している。小説家の三田誠広は十数年前にこの事件をモデルに『漂流記1972』(河出書房新社)と題するパロディ小説を発表した。同じくパロディ小説である『僕って何』を結構,そして『龍を見たか』をそれなりに面白く読んだ私も,この大作はマッチ・聖子・明菜と名付けられた主人公の若者たちが登場する構成がうすら寒く感じてしまい全く興味が持てなかった。何か前に立松和平が『すばる』に連載していた長編小説『光の雨』で坂口裕の『あさま山荘1972』から大幅な無断盗用を行って連載中止となったのは大きな問題となった 。
小説だけではない。雑誌『SWITCH 1986年4月号』から連載が始まった『日記』もその連載第1回(1986年1月24日)で沢木耕太郎は永田洋子の裁判を傍聴して,彼女が
「私は死刑を宣告されています。また再発の可能性もある脳腫瘍という病気にかかっています。間近に死はありますが,この連合赤軍問題をきちんと総括するために生き抜いていきたい。それが殺してしまった12人の人たち,死んだ14人の人のためにとるべき道だと思います」
という言葉を耳にした後にこう記していた。
「私はこの最後の言葉にほとんど感動したと言って良い。全てを永田洋子の資質にして理解してしまおうとする世の中や裁判官の意図に反して,1年後か2年後かに書かれるはずの私のレポートでは可能な限り彼女の意に沿うものにしたいと強く思ったものだった」
それから15年。レポートはどうなったのだろう.....。

■事件の特異性
赤軍事件の当事者たちがそれぞれにそれぞれの形で事件の真相に対する回想集を出していたという点で連合赤軍事件はかなり特異であると言える。特異というか強力な事件である。
回想集というのは坂口宏『あさま山荘1972』3巻,永田洋子『16の墓標』3巻,植垣康博『兵士たちの連合赤軍』,坂東国男『永田洋子さんへの手紙』を指す。
今回この仕事の執筆の機会に初めてこれらの回想シーンを読んでみて知ったのは,彼ら彼女らがごく普通の人間であることである。知的でユーモア感覚もあり自己を客観視する能力を持ち合わせている。しかも彼ら彼女らの越えたその「ある境界」はオウムの人々のそれとは違い,必ずしも異常の一言で否定できないリアリティを持っている。だからこそ言葉のレトリックに見えてしまうが事件の異常性が際立っている。
つまり「総括」という名のもとに行われた連合赤軍のリンチ殺人事件は異常であっても狂気ではない。
日本の高度成長期の後期の奇妙な開放感とその裏返しの閉塞感の中で革命を目指した若者たちが,その反市民性から闇へと追いやられて,最後には山奥に引きこもり,その密室で小さなエゴがぶつかり,そのエゴが一番権力を持つエゴによって止揚され「総括」されていった。
■連合赤軍の内情
初心者がこの連合赤軍事件を知る上で最も有用な本はアメリカの社会学者パトリア・スタインホフの著作である『日本赤軍派』(木村由美子訳,河出書房新社,1991年)である。アメリカの社会学者らしく細部を読み取る力がきちんとあって,赤軍同世代の人たちのように細部に絡まることなく出来事の全体像を捉えている。
連合赤軍の若者たちが12人もの仲間を殺害してしまったこの事件に対して,スタインホフはこう言う。
「この事件は当時日本の新左翼の間で頻発していたセクト間の抗争,いわゆる内ゲバとは異なるものであった。内ゲバは一党派が内部の意見の不一致を調節できなくなって激しく対立するセクトに分離した時に起こる。連合赤軍粛正はこれと逆であった。
二つの別々のグループが連合赤軍の名のもとに一体化しようとした。グループ内に拮抗はあったものの,山中の出来事は明らかに一つのグループがもう一つのグループに対立した事で起こったものではない。そうではなくそれぞれの側から孤立した個人に対してグループが一体となって集団的に暴力的に行為に及んだものだ。死に至る粛正は統一という儀式の過程で偶発的におきたともいえる。
もしもアメリカで同様の事件が起きたならば,決まってこんな類の情報が流される。ドラッグでもやっていたんだ.....飲んだくれいたんだ......。 ところが連合赤軍がドラッグをやっていた形跡は全くない。アルコール類やタバコさえ注意深く支給されていた。グループが何かでハイになっていたとしたら,それは革命的イデオロギーをおいてほかにはないだろう。気が狂っていた様子もなかった。検察側も弁護側も粛正参加者の精神状態には何の疑いも持ってなかった。しかしマスコミや裁判官の中にはグループの女性リーダーの永田洋子をヒステリックな魔女とみなすものもいた。赤軍に加わった青年たちは概して高学歴であって粛清参加以前に精神に異常があった様子も全くない。後になって彼らは自分たちの行動に対して闘争用語だらけではあるが明晰で論理的な分析をすることができた」

ー坪内祐三,1972年〜はじまりのおわりとおわりのはじまり,文春文庫,2006

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2020年09月05日19:01
今から約半世紀前、私は、一人で家を出て、東京に向かった。友人のツテを頼りに名古屋の某高校から三鷹の高校に転校した。最初は牛乳配達のバイトをしながらだった。私は政治的早熟児で、中学生の頃には、朝日新聞の本多勝一の記事に夢中になって、強い影響を受け、ベトナム戦争に対する強烈な怒りをモチベーションにして、政治活動に加わった。
東京に出た理由は、新宿駅西口の反戦フォークゲリラ集会がたまらなく魅力的で、自分もその場の空気を吸ってみたかったのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=lld8pqk6Pdk&ab_channel=%E4%B8%AD%E6%97%A5%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A4%BE
私が参加したのは、1970年頃だったから、もう激しく弾圧を受けて、事実上終わりを迎えていた頃だった。土曜日の夜は、西口広場は大量の機動隊員で埋め尽くされていて、ゲリラ的に歌おうとすれば、たちまち、機動隊が飛んできて羽交い締めにされた。あの頃は、毎日のように、都心のどこかでデモが行われていたが、私は「ベ平連」に憧れていたから、一人でデモに加わった。誰かが投じた火炎瓶の炎を見て、機動隊の催涙弾に逃げ惑いながら、みんなで手をつないで大通りを駆けた。あの頃の高揚感を思い出すと、香港における若者たちの気概が、手に取るように理解できる。参加者には、人生最大級の連帯感と高揚があったのだ。何十年経っても、あのときのデモの仲間と分かれば、何の気兼ねもなく兄弟のように話すことができた。
私は、やがて、早朝、高田馬場駅に出向いて、人夫寄場で稼ぐことを覚えた。当時、まだ東京は1964年オリンピックの余波が残り、至る所でビル建設ラッシュがあり、仕事には事欠かなかった。朝5時前に立川を出て、6時台に寄場で仕事を探し、7時過ぎには現場にいた。建設現場で、特殊技能がなくとも「片付け」とか「手元」という助手の仕事を一日頑張れば4000円くらいもらえた。みんなが嫌がる苛酷労働の「根切り」とか「汚物仕事」などは、1日、5000〜7000円くらい、もらえたことがあった。当時、学生アルバイトの相場は、日2000円程度だったから、一日で大金を稼ぐことができた。しかし、仕事は苛酷で、終われば魂の抜け殻のように疲労困憊し、翌日も続けて仕事に出られることは少なかった。当時の建設現場の仕事は、セメントやアスファルト、足場板や丸太の運搬なんかだ。もちろん、まだフォークリフトも普及していない時代だったから、すべて手作業だった。とても危険な仕事が多かった。ネコという一輪車にコンクリートを積んで、幅が30センチの板の傾斜で打ち込み現場まで運ぶ。足場も、当時は、枠組み足場や単管足場も普及してなくて、間伐材の檜丸太を荒縄で縛ったものが普通だった。だから、足場から転落して大怪我した職人を何度も目撃した。寄場から連れてこられる我々の仕事の大半が、不安定な足場の上にセメント袋やアスファルトを運び込むという、現場の古参職人が嫌がる仕事ばかりだった。今、ホームセンターで売られているセメント袋は20kGしかないが、当時のセメントは一袋50Kgだった。アスファルトも同じだ。一本20Kgくらいある丸太を1本ずつ運ぼうものなら、たちまち「怠けるな」と怒鳴られ、三本くらい肩に載せられた。今、あの当時のセメント袋を運べといわれても、たぶん、持ち上げることさえできないだろう。当時の建築現場は、すべて、もう遠い別の国の出来事のようになってしまった。今から、当時の世界に戻れといわれても、私は忌避するしかない。
私は、一日5000円の人夫仕事(沖仲仕のようなものだ)をやったあとは、新宿の小便横町の鶴屋でホッピーを飲んで泥酔するのが常だった。そのまま西口にあった浄水場前の公園のベンチで寝てしまうことも多かった。翌日は、全身が痛くて、とてもじゃないが仕事には出られなかった。そんなとき、重い体を欺しながら奥多摩に向かった。持っていた五万図が赤鉛筆で真っ赤になるくらい、いろんなルートを歩き回った。仕事は三日に一度出れば、十分に食べていけた。アパートの家賃は1万円もしなかったし、食費は三食外食でも1000円くらいですんだ。
やがて、建築現場に、フォークリフトやコンベアが導入され、50Kgもあったセメント袋は、40Kg になり、さらに30Kgになり、今では20Kgになったが、それでさえ重くて取り扱うのは大変だ。私は、自宅の改造などでセメント袋を運ぶときは、ネコという一輪車を使わなければ無理になった。足場は、丸太や荒縄が消え、代わりに単管鉄パイプとクランプが登場した。さらにALCという枠組み工法のユニット足場が登場してきた。もう足場板が真っ二つに割れて職人が高所から転落する事故も聞かなくなった。最近では、足場組工法よりも、さらに簡便で安上がりな、バケットリフト車が多く使われるようになった。これは最大で40メートルもの高さの高所作業が可能らしい。足場工法の一割以下の費用で、同じ作業が可能になったらしい。
人間の能力が、どんどん機械に取って変わられてゆくのは、建築現場に限ったことではないが、これが、さらにAI進化するということになると、最後には、人間はまったく不要ということになってしまう。だが、ベトナム戦争に怒った我々が街頭に繰り出して、憤りをぶつけるデモは、機械化されているわけではなく、AI化される予定もない。デモは機械化できない。人間の息吹なのだから。
しかし、権力側は違う。今では、人類史上最悪の極悪集団、中国共産党の臓器抜き取り売買に激怒して街頭に繰り出しても、無数にある街頭監視カメラに撮影され、顔認識システムから個人を特定され、メールや個人情報を抜き取られて監視対象にされる。これが中国国内なら、DNAを採取され、理由もなく拘束されたあげく、外国に売り飛ばす臓器の提供囚人にされてしまうのがオチだ。今、中国共産党の考えていることは、香港のデモに参加した若者たちを拘束して、法輪功修練者のように臓器を抜き取って売り飛ばすことだけだろう。
https://www.youtube.com/watch?list=PLxejGDsVviQgOwFurnG95V1mFfchQ2chr&v=womh3crgBck&ab_channel=NTDTVJP
人生を顧みるに、あれほどきつかった仕事は、どんどん機械化されて楽になっていったが、そのことが、仕事から人を追放し、ごくわずかなオペレーターだけで、何でもこなせてしまう社会になった。社会に対する憤りをデモで示そうとしても、コンピュータと監視カメラによって、身元を特定され、表現者は、社会から排除されるようになった。ありとあらゆる仕事から、人間が追放されるようになった。今はまだ、少数のオペレーターを必要とする仕事でも、AI化が進めば、その彼らも追放される。人間社会なのに、あらゆる部門から、次々に人間が排除されてしまう。コストカットのためだ。中国を見ていると、それらの機械、それらのAIの上に君臨する中国共産党幹部だけが、利益を抜き取り私物化し、人々を監視し、ときには臓器を抜き取って殺してしまう社会が成立している。日本でも同じだ。合理化された仕事は、最終的に誰の利益になるのか?それは、社会のごく少数の(中国共産党のような)特権階級だ。でも、何もかも仕事を失った我々、底辺に生きる普通人の居場所はどこにあるのだろう?
AI社会は、私には幻想にすぎないように見えるが、それでも、どんどん進めば、どんどん仕事を奪ってゆくのは間違いない。仕事を失った我々の行き先は?それは「臓器牧場」なのか?

東海アマブログ
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《よど号事件》自殺行為に等しい無謀さ…日本初のハイジャック事件のずさんな計画の実態
『実録 昭和の大事件「中継現場」』より #1
2020/12/04
実録 昭和の大事件「中継現場」
久能靖
河出書房新社
2020年11月20日 発売
赤軍派が起こした日本最初のハイジャック事件「よど号ハイジャック事件」から50年。首謀者はどのように「よど号」の乗っ取りに成功したのか、どのように北朝鮮に向かうつもりだったのか……
日本テレビのアナウンサーとして数々の事件を報道してきた久能靖氏が、歴史の生々しい瞬間を詳細に振り返った一冊『実録 昭和の大事件「中継現場」』より、「よど号ハイジャック事件」当時の緊迫、さらにその後の取材で判明した衝撃の事実を引用し、紹介する。
◇◇◇
■男性客が機内に持ち込んだ筒状の荷物
1970年(昭和45)3月31日、東京は彼岸を過ぎたとは思えない寒い朝を迎えていた。しかし絶好の飛行日和で、午前7時20分発福岡行きの日航機「よど号」はほぼ定刻通り羽田空港を飛び立った。
この旅客機ボーイング727型機は米国ボーイング社製の短・中距離用で、その後に誕生する大型ジェット機に比べれば小さかったが、当時としては世界の空を飛び回るベストセラー機だった。この日の乗客は幼児2人を含む131人で、満席であった。まだ搭乗口に金属探知機もない時代で、機内に持ち込む手荷物の検査もそれほど厳しくはなかった。このため数人の男性客が大きな筒状のものを機内に持ち込んでも、とがめだてはなかった。
羽田を発った「よど号」が東京湾上空で旋回して高度をとり、機首を西に向けて安定飛行に入った直後、江崎悌一副操縦士からコックピットに飛び込んできた2人の男に、「このままピョンヤンに行け」と脅されているという緊急連絡が入った。
■まさか日本で起こるとは思っていなかった“ハイジャック”
「よど号」がハイジャックされたのだ。航空機を乗客もろとも乗っ取るハイジャックは1931年に南米ペルーの革命派が国内旅客機を乗っ取って以来、多発するようになっていたが、とくにパレスチナゲリラがパレスチナ解放闘争の政治的戦術として行なっていたものの、まさか日本で起こるとは誰も考えていなかったのである。
事件が起きた時「よど号」は横田のエリアを飛行中であったが、ここは米軍が管制するエリアだったため、横田だけでなく、東京の管制センター、それに当然日本航空にも緊急連絡は入っていた。その報せとともに航空自衛隊の小松基地、築城(ついき)基地、新田原(にいたばる)基地からF-86F戦闘機が次々とスクランブル発進し、「よど号」を追尾した。
一方、ハイジャックの報を受けて羽田にある日航のオペレーションセンターの中に急遽、対策本部が設けられ、私はただちにそこに向かうよう指示された。しかしその時すでに「よど号」は給油するため一旦福岡空港に降りること、今どの辺を飛行していて何時頃到着するのかという程度の発表しかなかった。日航でも機内の様子がいっさいわからないのだから仕方がなかったが、オペレーションセンターからはほとんどリポートのしようがなかった。それに福岡に到着してからは系列局の福岡放送のアナウンサーが、ソウルに到着してからは駐在の記者が伝えたので私の出番はほとんどなく、オペレーションセンターに詰めていながらいらいらした時間を過ごさざるをえなかった。
■30年越しで得られた取材機会
これほどの大事件に関わりながら直接取材できない無念さが残ったまま30年の歳月が流れたが、意外なことから事件の全貌を知る機会が訪れた。じつは江崎副操縦士と私は親戚関係にあり、ある宴会の席でたまたま隣り合わせになった際、自然に「よど号」事件の話題になり、改めてくわしく話をしてもらえることになったのだ。また石田真二機長をはじめ、クルーの方々にも会えることになったが、石田機長には大阪の居酒屋で、江崎副操縦士には自宅で、そのほかのクルーや乗客の方には喫茶店や職場などで話を聞いた。それらの取材で得た情報は私が初めて聞くものがほとんどだったが、その全貌を順を追ってまとめておこうと思う。
「よど号」の乗員は戦争中に重爆撃機で主として東南アジアへの輸送任務にあたる一方、特攻隊員の夜間操縦訓練の教官も経験した機長の石田真二、副操縦士の江崎悌一、相原利夫航空機関士、スチュワーデスの神木広美、久保田順子、沖宗陽子、スチュワーデスの訓練生、植村初子の7人であった。
出発前、搭乗口で乗客を迎えたチーフスチュワーデスの神木は数人の男性客が大きな筒状のものを持っていたので「お預りしましょうか」と尋ねたが、「自分で持っているからいい」というのでそれ以上声はかけなかった。しかし製図を巻いて入れるような大きな筒で着席しても膝の上に載せたりしているので、よほど大事なものだろうと思ったという。
「よど号」が離陸し、シートベルト着用のサインが消えたため神木がお茶の用意をと立ち上がろうとした瞬間、短刀を持った男が立ちふさがり、持っていたビニールの洗濯用ロープで後ろ手に縛り上げた。神木は何が起きたかまったく理解できなかったが、ちょうどその頃操縦席では石田機長が操縦桿に機首がやや下がる手応えを感じていた。その時だいぶ機内で人が動いているなと思ったそうだが、じつは客室内で人が前後に移動するだけで機体の重心位置が変わり、それを操縦桿が敏感に感知するのだという。江崎も客席の方が騒がしいなと思っていた。
■「我々は赤軍派の者だ」
その直後、ロックしていないドアを開けて2人の男がコックピットに飛び込んできた。2人は相原と訓練生の植村を客室の方に追いやると抜き身の日本刀らしきものを振りかざし、「我々は赤軍派の者だ。機内は完全に制圧した。このままピョンヤンに行け」と大声でわめいた。よく見ると日本刀を持った手が小刻みに震えていて肚が据わっていないので抵抗するとバッサリやられると江崎は背筋が寒くなったという。
その間にも男たちは女性と子供を除いて男性客全員を後ろ手に縛り上げ、男性客を窓側に女性客を通路側に移動させた。乗客が逃げたり、抵抗したりするのを防ぐためだろう。
一方、コックピットでは石田、江崎と犯人たちとの間でこんな緊迫したやりとりが続いていた。
■「我々は赤軍派の者だ」
その直後、ロックしていないドアを開けて2人の男がコックピットに飛び込んできた。2人は相原と訓練生の植村を客室の方に追いやると抜き身の日本刀らしきものを振りかざし、「我々は赤軍派の者だ。機内は完全に制圧した。このままピョンヤンに行け」と大声でわめいた。よく見ると日本刀を持った手が小刻みに震えていて肚が据わっていないので抵抗するとバッサリやられると江崎は背筋が寒くなったという。その間にも男たちは女性と子供を除いて男性客全員を後ろ手に縛り上げ、男性客を窓側に女性客を通路側に移動させた。乗客が逃げたり、抵抗したりするのを防ぐためだろう。
一方、コックピットでは石田、江崎と犯人たちとの間でこんな緊迫したやりとりが続いていた。
石田「ピョンヤンってどこだ」。
犯人「ピョンヤンを知らないのか。ピョンヤンはピョンヤン。北鮮のピョンヤンだ」。
石田はその言葉で彼らのいうピョンヤンとは普段日本人が平壌(へいじよう)と呼んでいる北朝鮮の首都であることがわかった。
江崎「そんなことをいっても、お前たちはどうやってピョンヤンに行くのか知っているのか。おれたちは行ったことがないんだから」。
犯人「名古屋から美保か米子の上空を通ってまっすぐ北に向かい、あとはレーダーで行けばいいんだ」。
このやりとりから江崎は、この男はどうやって飛行機が飛ぶのかまったく知らないなと感じた。レーダーで飛ぶというのは地上のレーダーが下から飛行機に対して方向を指示し、それに従って飛行するのであって、飛行機にあるレーダーで下を照らせばどこへでも行けるというものではないからだ。
そのあと江崎が「この飛行機は国内便だから、ピョンヤンに行くにしても燃料が足りない。とにかく予定通り福岡へ飛んで給油して、資料などもある程度集めてからピョンヤンに行くから」というと、この説明には説得力があったのか、ひとまず福岡に降りることに同意した。じつはどの飛行機も天候不良などで目的地に着陸できない場合を想定して、余分な燃料が積んである。
■常識的に不可能なピョンヤンへの航行
『実録 昭和の大事件「中継現場」』
そこで、本当に補給なしでピョンヤンまで行くことはできなかったのか私が質問すると、江崎はこう答えた。「我々の常識からすれば不可能です。燃料だけなら多少の余裕がありましたからピョンヤンまで行けたかもしれません。そうではなくてピョンヤンの飛行場がどこにあるのか場所がわからなかったのです。航空図もないし、行ったことがないのですから。我々パイロットの常識としては行先の飛行場がどういうところにあり、標高はどのくらいか、滑走路の長さがどのくらいなのか、誘導してくれる無線の周波数も知らなければなりません。天候も問題です。それらのことを知らないでそういう場所に行こうとする発想自体が湧いてこないのです。直接行くというのは自殺行為に等しいのです。常識としてはまったく考えられません。だから不可能だったのです」。
■「爆死も覚悟しているので不審な挙動をしないように」
「ピョンヤンに行け」という犯人たちの要求をひとまず収めさせ、福岡に向かうことになった理由をそう説明してくれた。
「よど号」が福岡に着陸することが決まると、彼らは乗客に対して急に居丈高になった。
「乗客の皆さん、この飛行機は油が足りなくて予定通り福岡に着きますが、我々は福岡に飛ぶことを目的にしていない。給油し次第北鮮に向かうが、飛行場内にいる時に諸君が少しでも気勢をあげるようなことがあれば、我々は手製爆弾を持っているので断固として応ずる。我々は当然死を期しているし、爆死も覚悟しているので不審な挙動をしないように」。
なぜこのように克明な言葉がわかったかというと乗客の1人がカセットテープに録音していたからだ。その方は私が取材に訪れた時にはすでに亡くなっていたためテープを回した理由はわからないが、テープの最初の部分がスチュワーデスのおだやかな声で始まっているところを見ると、事件が起きたから回したのではないことは間違いない。未亡人に聞かせてもらったそのテープは2時間で終わっているが、事件後の裁判の際も重要な証拠となっている。
■福岡空港での攻防
こうして午前8時59分に福岡空港に着陸すると、江崎は「急いで給油をしてくれ」と地上に要請した。すでに福岡県警本部長のもと発足したばかりの対策本部では、絶対に「よど号」を福岡から飛び立たせないという方針を決定していた。しかし赤軍派の1人がコックピットの燃料計を見ているため、まったく給油しないわけにはいかない。そこで普段やる自動ではなく、手動でわずかずつ行なうことにした。
給油が終わり次第、ピョンヤンに向けて飛び立ちたい江崎は、早急に航空地図を持ってくるよう要請した。やがて棒の先に取りつけられた1枚の地図がコックピットの窓から差し入れられたが、江崎が私にも見せてくれたのは、市販の地図帳からコピーしたとしか思えないただの朝鮮半島の地図であった。平壌の位置を朱丸で囲んであるだけのひどいもので、素人の私でもこれで飛べというのは無茶苦茶だと思った。
■人質の解放
やっと給油を終えた「よど号」が滑走路に移動した午後1時35分、突然機体前方の搭乗口のドアが開き、抜き身の日本刀を振りかざした1人の男が横付けされたタラップの上に姿を現すと、少し間を置いて子供を連れた母親と老人、あわせて23人がタラップを降りてきた。女性と子供を降ろすことを犯人側が受け入れたためだが、降りてきた23人を乗せたバスが機体のそばを離れると、再びドアは固く閉められ、午後1時55分、「よど号」は突然滑走を始めた。その瞬間、滑走路上にいた車はくもの子を散らしたようにあわてて避けたが、この時機体の後方から1人の男が転がり落ちる姿が、各局のテレビカメラでもはっきりととらえられていた。
じつは対策本部では、燃料タンクのバルブを閉めて飛行できないようにしようとしていたのだ。転がり落ちたのはバルブを閉めようとした整備員だったが、失敗に終わった。しかしもし閉めることに成功していたら燃料が流れず、飛び立てたとしても途中で墜落していたかもしれない。事件後、そのことを知ったという石田も江崎もなんという馬鹿げたことをしてくれたのかと怒りを口にしている。
■日航には「ハイジャックに遭遇した場合」の服務規定があった
このフライトは石田の独断であったが、じつは日航が前年に出した「ハイジャックに遭遇した場合」の乗務員の服務規定には次のように明記してあった。「万が一ハイジャックされた時には、乗務員は小細工を弄することなく不法者の希望に逆らわないようにしなければならない」。もちろん石田も江崎もそのことは充分承知しており、その規定通りに対処しようとしていたのだ。その規定を守っていないのはどう見ても会社側であったが、この誠意のない会社の対応に、石田はこうなったら自分が判断せざるをえないと考えたという。
一方、乗客はこの時どう考えていたのだろうか。乗客の1人だった聖路加病院の日野原重明院長はその時の心境を院長室で次のように話してくれた。
「私らとしては、あまり赤軍派にうるさいことをいわないで、早く『よど号』を飛ばしてほしいと願っていたのです。たとえ北朝鮮に連れていかれても、命までは取られないだろう。『よど号』を飛び立たせるのを拒めば、彼らは飛行機を爆破する危険がある。そうしたら乗客は死んでしまう。だから早く飛び立たせてほしいという点では、我々も赤軍派も同じ気持ちだったんですよ。彼らが安全なら、我々も安全。ご無理ごもっともで、赤軍派の希望をかなえてほしいと思っていたのです」。
このように事件発生当初から《早く北へ》と希望する機内と《何とか阻止しよう》とする機外とでは、明らかに温度差があったのだ。
■福岡空港を発つと柔和になった赤軍派
こうして「よど号」はピョンヤンに向けて福岡を飛び立った。しかし福岡で解決できると判断していた政府は大あわてであった。北朝鮮に安全を保障してもらわなくてはならないからだ。
板門店の軍事委員会を通じて米国側から北朝鮮側に依頼してもらったり、日本赤十字社が朝鮮赤十字社に打電したり、あらゆる手を尽くしたが、北朝鮮側からの反応は何もなかった。念のため韓国に降りることもありうるかもしれないと韓国側にも頼んであった。  
福岡を発って初めて食事が配られた。赤軍派がいっさいの差し入れを認めなかったため、機内食として用意してあった朝食用のサンドウィッチだったが、乗客の間にようやく少し落ち着きが見られた。  
いよいよピョンヤンに行けるというので赤軍派の連中もぐっと表情がやわらぎ、「まだピョンヤンまで時間がかかりそうですので、希望者には読み物を貸しましょう」といい出した。誰も返事をしなかったが、日野原院長だけが『カラマーゾフの兄弟』を借りた。五冊の文庫本だったが、1、2ヶ月抑留されてもいいようにわざと大作を選んだという。日野原院長の記憶力はすばらしくこの時赤軍派が挙げたたくさんの書物の名前や音楽にも造詣が深く、機内に流れていた音楽の題名までよどみなく次から次へと出てくるのには驚いた。やはり医者ともなると冷静なんだと感心した。  後日、乗客の1人が「ハイジャックってどういう意味だ」という質問にたいして赤軍派が答えに窮していた時、「私が答えてあげるから縄をほどいてくれ」と手を挙げ、「追いはぎみたいなことをするのがハイジャックで、飛行機ならそれを乗っとることだ。ハイジャックする奴がハイジャックの意味ぐらい勉強しておいてほしいね」といって客室が爆笑に包まれるほど肚の据わった人でもあった。
■韓国・金浦空港へ
天候も良く、「よど号」は順調に飛行を続けていたが、その航跡は当然防衛庁や韓国空軍のレーダーでも捕捉されていた。「よど号」は38度線をかなり越えた江陵(こうりよう)の沖合上空で西に進路を変えた。そのまま進めばピョンヤンに到着するはずであった。  とその直後、思いがけないことが起きた。迷彩色を施した戦闘機が「よど号」の右側に現れたのだ。江崎は胴体のマークからすぐに韓国空軍の戦闘機であることがわかったそうだが、北朝鮮領内に入ったはずなのになぜ韓国の戦闘機が飛んでいるのか理解できなかったという。江崎は38度線を越えないうちに西に進路をとってしまったのかと思ったそうだが、韓国と北朝鮮の国境は38度線ではなく、休戦ラインに沿っているため、実際は朝鮮半島の東側はかなり北まで韓国領なのだ。北朝鮮に行ったことのない2人はそれを知らず、しかも渡された地図には国境も休戦ラインも描いていなかった。  そのうち「こちらはピョンヤンの進入管制です」という管制官の声が飛び込んできた。石田は北朝鮮にしてはずいぶん流暢な英語だと思ったそうだが、当時のボーイング727型機には自機の現在位置を示す装置がついていなかったため、誘導されるまま飛ぶ以外になかった。そして着陸したのが韓国の金浦(きんぽ)空港であった。午後3時18分、福岡を離陸しておよそ2時間20分経っていた。  江崎はそれまでに一度来たことがあったため、すぐに金浦空港だとわかったが、石田は初めてであった。ずいぶんアメリカナイズされた空港だなと思ったそうだが、やがて尾翼の赤いノースウェスト機が停まっていたのを見てピョンヤンでないことがわかったという。
■金浦空港で行われた偽装工作
しかし空港ビルを見ると若い女性が20人ほど花束を持ち、北朝鮮風の原色がかったチマチョゴリ姿で待っている。ピョンヤンに着いたと有頂天になっていた赤軍派はすぐに降りる準備を始めたが、後ろの方にいて窓の外を見ていたメンバーの1人が突然、「ここはピョンヤンではない。シェルのタンクが見えるし、飛行機もアメリカ製だ」と叫んだ。  この男はプラモデルが大好きで飛行機の種類に詳しかったのである。あわてた赤軍派の1人がコックピットの窓から身を乗り出すようにして近づいてきた空港の職員らしい男に声をかけた。「ここはピョンヤンか」「はい、ピョンヤンです」と答えると、「ピョンヤンだというのなら金日成主席の写真を持ってこい」と迫った。北朝鮮の空港ならどこにも金日成主席の写真が飾られているが、金浦空港にあるはずがなかった。しかしその男性職員がうっかり「まもなく大使が見えますからお待ち下さい」と口をすべらせたのが決定打になった。国交のない北朝鮮に日本の大使がいるわけがないからだ。
赤軍派の男たちは「騙したな」とわめき出したが、彼らの1人が同じレシーバーで管制官とのやりとりをすべて聞いていたのだから、石田や江崎に怒りの矛先を向けても仕方がなかった。リーダー格の男はただちに乗客に向かって、「我々は騙された。危うく日本政府と韓国政府の罠にはまるところだったが、こうなった以上、この場所に1週間、1ヶ月留め置かれようとも北に行くという目的は達成する。抵抗する者には徹底的に制裁を加える」と声を張り上げ、やっと解放されると思ってホッとしていた乗客は一気に奈落の底に突き落されたような気分だったという。
■当時の韓国国防部長官への取材
じつは私もこの事態にははたと困った。機内の様子はその後のクルーや乗客のインタビューでわかったが、金浦空港着陸後、韓国側がどう動いたかは韓国の要人に取材しないとわからないからだ。そこに救いの女神が現れた。親しくしていた在日韓国人の女性が私の希望を聞き、幅広い人脈をたどって、当時の韓国国防部にいた丁来赫(チヨンネヒヨク)長官へのインタビューの約束をとりつけてくれたのだ。  当時の韓国は北との間が極度の緊張状態にあったため、6つある空港はすべて軍が管理していたのである。したがって金浦空港も丁長官の指揮管理下にあり、当然「よど号」事件でもすべての指揮をとっていたのだから、取材対象としてこれ以上の人はいない。長官からは2001年(平成13)3月31日の午後3時に、ソウルのホテルで会いましょうと約束し、通訳を頼むつもりでその女性と一緒にソウルへ向かった。もちろん初対面だったが、がっちりした体格の丁長官は元軍人らしい風貌で歳よりずっと若く見えた。ところが、最初にあいさつを交わした途端にびっくりした。じつに流暢な日本語だったのだ。聞けば16歳から20歳まで日本の陸軍士官学校で学んだということで、通訳を介する必要はまったくなかった。  最初になぜこの日時を指定されたのか尋ねると、3月31日の午後3時は「よど号」が金浦空港に着いた時間だったからだという。わざわざその時間に合わせてくれた心憎いばかりの配盧に、冒頭から温かい人柄にひかれるインタビューになった。
作の真相
丁長官はわざわざ持参してくれた当時のメモを見ながらてきぱきと質問に答えてくれたが、「よど号」の金浦空港着陸について「韓国側は事前に知っていて準備していたのか」と尋ねると意外な言葉が返ってきた。
「偽装工作を指示していません」
「事前には何も知らないし、私はいっさい偽装工作を指示していません」。  丁長官は大統領府である青瓦台にいる時に「よど号」が突然進路を変えて南へ向かっているという報告を受けて空港へ向かったほどである。  丁長官が空港に着いた時にはすでに「よど号」は着陸しており、偽装工作のための混乱が始まっていたが、最初は何を騒いでいるのかさっぱりわからなかったという。ただ丁長官は事前に、「よど号」が北朝鮮に向けて飛び立っても航行を妨害しないことと、韓国内に着陸したいと連絡があった場合は着陸に協力することという命令は、全軍に出してはいた。だが、誘導するようにという指示はいっさい出していない。
■「よど号」が急に向きを変えた理由が錯綜
その頃、羽田のオペレーションセンターでは長野運航基準部長が連絡用のインターホーンを通じて石田機長には伝えてあったと得意気に会見していたが、石田も江崎も日航側からそのような指示はいっさいなかったとのちに否定している。また「なぜ『よど号』が急に向きを変えたのか」という質問に長野部長は、防衛庁からの情報だと断わったうえで北朝鮮の対空砲火があったからだと説明したが、その後どんなに調べてもそのような事実は確認できなかったし、北朝鮮の朝鮮中央通信は「デマであり、北朝鮮の威信と名誉を著しく傷つけた」と激しく反発した。  こうなると、いったい誰が金浦空港に「よど号」を降ろしたかである。誰の指示もなく飛行機を誘導して降ろせるとしたら管制官しかいない。丁長官も同じ見方をしていたが、この時、丁長官が調査した限りでは特定できなかった(じつはそれから数年後、自分が独断で誘導したという1人の管制官が名乗り出ているが、私の取材した時点ではわからなかった)。
日本政府の指示でその日の夜韓国入りした山村新治郎運輸政府次官はのちに「北朝鮮領空を飛んでいる飛行機がピョンヤンを呼んでいたらこちらピョンヤンだと応答し、金浦空港に誘導してしまえばいい。それが北朝鮮の飛行機ならそのまま捕まえてしまえばいいのだ」という話を耳にしたと語っている。韓国ではその前年、大韓航空機がハイジャックされ、北朝鮮に着陸させられるという事件があり、機体はもちろん、乗客乗員の一部がいまだに帰ってきていないという状況にあっただけに、管制官が独断で実行したとしてもありえない話ではなかった。
■騙されたといきり立つ赤軍派
そうした情勢であるうえ、陸軍士官学校時代に薫陶を受け、恩義を感じていた丁長官は何とかして日本人を救って恩返ししたいという気持ちが強かったという。そこで丁長官はただちに行動に移り、偽装工作は無用な混乱を招くだけだとして中止させ、「お前たちが乗客をおとなしくただちに降ろせば、行きたいところに飛んで行けるようにする。そうしなければ、お前たちは何日でもこの場所から離れることはできない」という自ら作成したメッセージを管制塔を通じて無線で伝えた。  しかし騙されたといきり立つ赤軍派はそれを無視し、逮捕しようとすれば自爆すると繰り返すだけでその日は暮れてしまった。
久能 靖
最終更新:12/4(金) 6:12
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国際テロの「魔女」逮捕、20年目の真実 刑期満了で2022年に出所へ
11/16(月) 18:02配信
JR東京駅に到着した新幹線の車内で、報道陣に手を振る重信房子=2000年11月8日
激動の20世紀最後の年となる2000年11月8日、大阪府高槻市の路上で1人の女が逮捕された。空港での銃乱射やハイジャックなど、1970年代に数々の国際テロを起こして世界を震え上がらせた「日本赤軍」のリーダーで、「魔女」とも呼ばれた重信房子(75)だった。逮捕から20年。執念で魔女を追い詰めた捜査員たちは今、何を思うのか。2022年に迫った刑期満了を前に、支援者らはどのような気持ちで出所を待つのか。(共同通信=杉山修一郎) 【写真】逮捕の日「今も思い出す」「20年も前!」手紙で重信房子受刑者
重信房子が潜伏していた大阪市西成区内のマンション=2000年11月
▽氏名不詳の女  「一体誰だ」。2000年夏、大阪市西成区の住宅街。日本赤軍関係者のアジトとみられるマンション一室を監視していた捜査員の目が、1人の中年の女にくぎ付けになった。大阪府警は国内にいる関係者の顔と名前を全て把握していたが、該当者はいない。「氏名不詳の女」の素性を明らかにするため、徹底した尾行が始まった。  10月ごろ、日本赤軍の活動から遠ざかっていたはずの男が、兵庫県芦屋市の駅で女を送り迎えする姿を確認した。  日本赤軍との関与を復活させ、さらに送り迎えまでさせる大物―。「まさか重信か」「日本に戻っていたのか」。捜査員の間に動揺が広がった。まぶたに焼き付けていたのは若い頃の写真。目の前の女に、その面影はなかった。
▽現場の意地  府警は態勢を組み、逮捕に備えた。マスコミに漏れないよう、情報共有は公安3課を中心とする精鋭数人と警察庁の一部の人間に限った。  結果を急ぐ警察庁幹部からは「海外に飛ばれたら一巻の終わりだ。職務質問して任意同行しろ。革命家の自負から『自分は重信だ』と認めるはずだ」と指示が飛んだ。しかし、府警は現場の意地で激しく抵抗した。「黙秘されたらどうするんですか。物証を固めて逮捕します」
重信房子の逮捕当時を振り返る高橋清孝・元大阪府警警備部長=20年9月28日、東京都千代田区で撮影
捜査員らは、ほぼ24時間態勢で監視を続け、女が出したごみの空き缶から指紋採取に成功する。元捜査員は「見失うわけにはいかないが、深追いして気付かれたら終わり。常に極限の判断が求められていた」と話す。こうして11月8日未明、指紋の一致が判明した。  
▽逮捕に歓声と拍手  同日午前、大阪府高槻市のホテルから出てきたところを逮捕することが決まった。オランダのフランス大使館が武装占拠された、1974年のハーグ事件に関与した容疑だった。府警警備部長として捜査を指揮したのは、後に警視総監を務める高橋清孝(63)。朝から公安3課幹部と共に、現場の報告を待った。  だがチェックアウトの時間を過ぎても女は現れなかった。周囲で息を潜める捜査員の間に重苦しい空気が漂う。「一分一秒がこんなに長く感じたことはなかった」と元捜査員。  ようやく姿を見せたのは午前10時半ごろ。捜査員が近づき「奥平(おくだいら)か」と偽装結婚後の姓で問い掛けると、女は「うん」とうなずいた。偽造旅券を使用して入国していた。
逮捕の一報を受け、高橋はすぐに会議室に駆け込んだ。府警本部長や各部長が定例の会議中だった。居並ぶ幹部を前に「日本赤軍のリーダー、重信房子を逮捕しました」と報告すると「おーっ」という歓声が上がり拍手が起きた。捜査員の執念の結果だった。重信は逮捕後、日本赤軍の解散を表明。裁判ではハーグ事件に関して無罪を主張したが、懲役20年の判決が確定した。一方で現在も7人のメンバーが国際手配されている。  ▽魔法の人心掌握術  そもそも、重信とはどんな人物なのか。  「長い黒髪、パンタロン姿の洗練されたファッション。熱を込めて革命の意義を語ると多くの人が共感し、資金などの提供を惜しまなかった。魔法のような人心掌握術から『魔女』と呼ばれるようになり、求心力は急速に高まっていった」  日本赤軍の前身組織で出会い、国内から中東へも支援を続けた70代の男性は、70年前後の重信の様子をこう懐かしむ。男性は69年ごろ、ベトナム反戦運動を展開した共産主義者同盟(ブント)が分裂し、赤軍派を結成する過程で重信と行動を共にするようになった。赤軍派は当時、兵たん部門を担当していた重信の集めた資金や物資に支えられていたという。
イスラエル・テルアビブの空港乱射事件の現場=1972年(UPI=共同)
▽革命拠点を海外に  しかし赤軍派の当時のリーダー森恒夫(73年東京拘置所で自殺)とは、闘争方針を巡り対立した。重信は革命拠点を海外に置く「国際根拠地論」を掲げ、71年に中東へ渡る。「日本から支えて革命を実現するのが自分の役割」と考えた男性は、国内にとどまった。  森は同年、別の組織と共闘し「連合赤軍」を結成。メンバーらは離脱者2人のほか、群馬県榛名山などのアジトで仲間12人にリンチを加えるなどして、次々と死亡させた。逃亡した一部のメンバーは「あさま山荘」に立てこもって機動隊と銃撃戦を行い、世間に衝撃を与えた。  加害者側にも殺された側にも赤軍派時代の仲間がいたという男性は「悲劇を止められたのではないかと後悔が頭を離れない。今でも死んだ仲間と一緒に川辺で談笑する夢を見る」と明かす。  イスラエル・テルアビブ郊外の空港では72年、重信と共に中東に渡った男らが自動小銃を乱射し、約100人を死傷させる事件が起きた。「パレスチナ人のために命を懸けた行動だったが、結果的に罪もない市民が巻き込まれて亡くなったことは大いに反省しなくてはならない」と、男性は振り返る。
重信に共感する人の渡航を手助けするなど支援を続けた男性。時には組織の団結の重要性を訴える手紙も受け取った。90年代以降、社会主義が後退し中東への米国の影響力が大きくなると、重信らは徐々に活動の場を失っていった。  「重信さんが逮捕された」。あの日、仲間から電話を受けるまで、帰国の事実すら知らなかったという。  「革命という魔力に引き寄せられ、多くの仲間が志半ばで死んだ。出所後は法律の下で市民のために働いてほしい。激動の人生を歩んだ彼女だからこそ伝えられることがある」。重信への期待感は消えない。  ▽獄中からの手紙  重信は今、何を思うのか。共同通信は代理人弁護士に宛てた手紙の写し7枚を入手した。10月末に書かれ、小さな文字で縦書きにつづられている。  東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)に服役中の重信受刑者は「もうすぐ(逮捕された)11月8日を迎えます。もう20年も前!」と率直な思いを吐露。「(逮捕の日のことを)今もよく思い出します」と記している。
(写真:47NEWS)
面会室にある透明の板の穴が新型コロナウイルス対策でふさがれたことにも触れ「(相手の声が)きちんと聞き取れる自信がありません。補聴器を着けても聞き取りにくいです」と、高齢で万全ではない健康状態への不安ものぞかせた。  7月から民芸品を作る軽作業を始めたとして「出所までに2年を切っており、社会参加に向けて好奇心を持って迎えた」。しかし10月から、ボール紙の切れ端を指で繰り返しもみ、さらに5ミリ以下にちぎるという作業内容に変わると「指先がマヒし、ジンジンと痛みます。夜もジンジンしています」と訴え、「こうした懲役は許されない」と苦情を申し立てたという。  手紙の末尾は「身体はゆったり過ごしてください。出所したら思い切り語り合いたい! コロナに気を付けて! 房子」と締めくくっている。  ▽筆者に届いたメール  直接会って話したいと考えた筆者は今年8月以降、重信に面会などを求める手紙を3通送ったが、返信はなかった。しかし10月、「重信氏の友人です」と名乗る80代の男性から1通のメールが届いた。転送された手紙で面会の申し込みを知り、連絡をくれたのだった。
男性によると、重信はがんのため複数回手術をし、現在も定期的な精密検査が必要だが、容体は安定している。許された手紙の発送は月に5通のみで、面会も原則として親族や弁護士などに制限されている。  メールには「(重信が)返信しなかったこと、できないことを小生から伝えてくれることを期待していると判断」したと記されていた。  重信は自身の近況をごく近しい人に書面で送り、一部は支援者らが発行する季刊誌に掲載している。男性は赤軍派や日本赤軍のメンバーではないものの、明治大在学中から交流を続けてきた。面会したのは数年前が最後だが、手紙のやりとりは続けている。出所後に顔を合わせたら「僕も年だから会えないと思ったが、会えたね」と声を掛けるつもりだという。  ▽担当捜査員の自負  警備部長だった高橋は重信の逮捕後、08年の北海道・洞爺湖サミットの警備を道警本部長として指揮し、警察庁警備局長を経て15年8月から警視総監を務め、退職した。長年重信を追った捜査員の多くも既に退職している。20年前、府警公安3課の主な関心は、国内過激派の「中核派」や「革マル派」だった。両組織の実態把握や取り締まりに予算や人員が割かれ、日本赤軍担当は肩身の狭い思いをすることもあったという。
「目先の成果がなくても、いつか社会のためになると信じて地道な捜査を何十年も続けた。だから逮捕できた」。高齢になった元捜査員の声には、20年を経てもなお自負に満ちた力強さがあった。(敬称略)

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posted by datasea at 02:16| Comment(0) | & 社会現象 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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