2020年07月01日

mediakatsuya: TVワイドショーは必要悪〜その社会的機能について考える〜勝手にメディア社会論



mediakatsuya: ワイドショーは必要悪〜その社会的機能について考える〜勝手にメディア社会論
2013年05月18日
2013年05月19日
2013年05月20日
ワイドショーは必要悪〜その社会的機能について考える
ワイドショーというのは、メディアを語る人間たちの間ではもっぱら「悪者」扱いされることが多い。スキャンダル、ゴシップ、バイオレンスを並べて、野次馬根性を惹起する「マスゴミ」の典型といった論調だ。「人の不幸は蜜の味」で、確かに、この出歯亀的な情報の放出は、ちょっとウンザリしないこともない。実にくだらない、といってしまえば、まさにそのとおりだ。
■ワイドショーを批判は自己言及になってしまう
しかし、どうだろう?だったら、見なければいいだけの話なのだけれど……事情は、必ずしもそうはなっていないようだ。なんのことはない、ワイドショーはそれなりに視聴率を上げているのだ。それを「腐りかけの奥様」(山下達郎”Hey Reporter”)だけが見ているという図式で片付けてしまうのは実に単純。ということは、ワイドショーを「マスゴミの象徴」みたいなモノのイイをしている御仁は天にツバしていることにならないだろうか?結局、ワイドショーを見ているのは「マスゴミ」といって批判している「あなた」ということになる可能性が高いからだ。つまり、お下劣、くだらないというのはあなた自身のことになる。
いや、そうではないだろう。ワイドショーが延々続けられるのは、むしろこういったニーズに何らかの必然性があるからと考えるべきなのだ。だから「マスゴミ、くだらない」「ワイドショーくだらない」と一刀両断するのは、要するに「思考停止」でしかない。
だったらワイドショーの社会的機能とは何なのだろう?今回はこれについて考えてみたい。
■ヒマつぶしの機能
人の足を引っ張ること、不幸を楽しむことを展開するワイドショー。その社会的機能として考えられるのは、先ずはコンサマトリーな側面、つまり「ヒマつぶし」だ。仕事で忙しい人間はともかく、多くの人間は一日のヒマをもてあましている。こういったヒマの相手をしてくれる他者が必要だ。だが、自宅に相手をしてくれる人間が必ずしもいるわけではない、というか普通はいない。そこでテレビがそういった人たちの「お守り」するわけだが、これが教養的なネタじゃ、堅苦しくてちょっとヒマつぶしにならない。だから、肩の凝らないものがいい。そして人にまつわるモノがいい。
ネタ提供機能
しかしこれだけならサスペンス劇場みたいなドラマや一般のバラエティ番組も同様に該当する。だからワイドショーにはコンサマトリーな側面以外にも独自の魅力があると考えなければならない。それは……リアルな世界でのコミュニケーションを開く機能、いいかえれば「ネタ」としての役割だ。
われわれが他者と日常的なコミュニケーションを交わすとき、その中身はどうなっているのか?コミュニケーションというと、あたかも相互に「情報を伝達する」というイメージを浮かべがちだが、実はこれは誤りだ。日常生活でのコミュニケーションにおいて伝える情報内容は、実はほとんどと言っていいほど意味がない。これはわれわれが普段、他人とどういった会話をしているのかを振り返ってみるとよくわかる。ほとんど「どうでもいい話」なのだ。その典型はテレビについての話で、たとえば今日の朝ドラの話をすると言うとき、互いに伝え合う情報はほとんどない。互いにそのテレビを見ており、双方とも番組内容のことをよく知っているからだ。にもかかわらず、われわれは「今日の「あまちゃん」見た?」と、朝ドラの話で盛り上がる。
■コミュニケーションの本質は表出と共有
このとき、われわれが行っているのは「情報内容」の伝達ではなく、「情報内容をチェックしたという行為」の伝達となる。つまり「見たこと」という事実のみが情報伝達内容となるのだ。でも、なぜそんなことをやるのか?それはコミュニケーションが備える情報「伝達」以外の、そして最も重要な機能を利用しているからだ。これは二つある。ひとつは「表出」の機能だ。つまり、自分が「番組を見た」と言うことを相手に伝えると言う行為それ自体によってカタルシス効果を得ようとするのだ。人はコミュニケーション動物なので誰かと関わっていないと耐えられない。これは具体的には他者を目の前に置き、ことばを発することで達成される(モノローグ的なものもでもある程度のカタルシスを感じることができないこともないが、目の前に他者がいてリアクションしてもらうことでリアリティは倍加し、そのカタルシス効果は倍加する)。これは子どもが母親に今日の出来事を話するといったシチュエーションを思い浮かべてもらえばわかりやすいだろう。また、このカタルシス効果は翻って情報のもう一つの機能である「共有」機能を満たすことになる。前述したようにコミュニケーションにおいてわれわれが志向するのは他者であるが、さらにその他者との親密な空間の形成も志向する。こういった親密性を確保するためには相手とコミュニケーションするための共通の話題=ネタが必要なのだ。ネタは会話のきっかけを作り(お見合いで「ご趣味は?」とたずねるのは共有する部分を探ろうとするためだ)、また同じ情報を共有することでわれわれは他者の中に同質性を見る。これが親密性に結びつくというわけだ。さらに、こういったカタルシスを継続的に満たしてくれる相手は「いい人」であり、これを相互に行うことで親密性は一層高まっていく。ただし、こういったネタ提供機能は、ワイドショーだけに限った話ではない。前述したドラマ、テレビ一般、いやそれ以外のメディアもまたそういった機能を備えている。だが、表出と共有による親密性形成に、テレビは有効な機能を備えている、そしてその中でも格好のものがワイドショーなのだ。じゃあ必要「悪」としてのワイドショーの機能とは何か?次回以降、ワイドショーの社会的機能を他のメディアとの差異化を示し、その特性を段階的に絞り込むことによって明らかにしていこう。
■テレビとネットは異なるメディア機能を有する
近年テレビはしばしばオワコンみたいな言われ方をするようになった。お客をネットに取られ、どんどんジリ貧になっている。なおかつ頭脳流出も激しいのでコンテンツ自体もスカになり、垂れ流しているものはまさに「マスゴミ」化しているというようなモノのイイだ。たしかにインターネットの方がテレビよりもアクセス時間増加の傾向にあり、また視聴率はどんどん低落しているので広告収入も低下し、先細りであることは否めない。しかし、だからといってオワコンと言うことは決してないだろう。というのもネットは原則プル・メディア(ユーザー=受け手が主体的に情報を取り出すメディア)、一方テレビはプッシュ・メディア(送り手が大量の受け手に一方向的、垂れ流し的に情報を供給するメディア。受け手は受動的に情報を受け取る)だから、双方がかぶらない部分も当然存在しているからだ(もちろん重複している部分はあるし、その部分の多くをネットが持ち去っているからジリ貧なのだけれど)。テレビの基本的な機能は議題設定。つまり、まだあまり認知されていない事柄を広く周知させることにその本領がある。マスメディアだから一元的な情報を大量に流す。だから、たとえば商品を大々的に売り出したい場合にはテレビという媒体を使ってキャンペーンを繰り広げ周知させるのが手っ取り早いのだ。プル型のネットにはこれは無理だ。つまりテレビが周知させたものについて、それを援護射撃するというかたちが基本になる(もっとも、テレビが取り上げるネタを提供するのも最近はネットだが)。だからこそ、ソーシャルゲームを手広く広げるGREEやMobageが積極的にCM戦略を打っているわけだ(ネットだけで十分に周知されるならば、あんなにテレビでCM展開するわけがない。二つの会社ともネットとテレビのメディア性の違いをよく踏まえて、ああやった戦略を組んでいるというわけだ)。
■プッシュ機能がネタを提供する
このプッシュ型の機能がわれわれのコミュニケーション、とりわけ表出=共有の側面(「伝達」の他にコミュニケーションが備えるカタルシスを獲得し、他者との親密性を形成する機能。実はコミュニケーションの中心を占める)については大きな役割を果たす。まだメディアがそれほど発達せず、対面的なコミュニケーションが中心だった50年くらい前まで、人々はこの表出=共有コミュニケーションのためのネタを対人的な場から捻出していた。そしてそのネタとは互いが共通するネタ、突き詰めてしまえば相互に知っている他者についての話だった。ただし、そういった「よく知った他者」についての話は、結果としてプライベートの暴露ということになった。そして、それは当然ながら話をする自分の身にも降りかかってきた。つまり共通の知人のプライベートをネタにコミュニケーションを交わしていることは、自分がそこに居合わせないときには、今度は自分が共通の知人の立場に置かれ、プライベートがネタになったのだ。だからプライバシーは常態的に暴露され続けた。
だが、時代は変わった。言うまでもなくプライバシーは最も尊重されなければならない権利の一つとなったのだ。だから、おいそれと他人の話など口にすることはできない。ところが、それは表出=共有のためのネタ源を失うことを結果した。これではカタルシスや親密性を獲得できない。
そんなとき、共通の知人についてのプライバシーに関する話でネタになり、そのくせ自分は決して共通の知人としてネタにはされない、つまりネタ源を固定する格好の方法が現れた。それがテレビに登場する「共通の知人」つまりマスメディアに登場する有名人だ。対面的な場でコミュニケーションを交わす人間の間で有名人であるテレビに登場する人間をディスプレイ越しではあるが双方よく知っている。だから、これをネタにすればとりあえずこの表出=共有コミュニケーションの確保は可能になる。また、テレビがその有名人を頻繁に露出させ続けることで、ネタは継続的に提供され続ける。その一方で、ネタになる人物が交代することもない。つまり、プライバシーを暴かれるのはもっぱらディスプレイ上の向こうの人間。だから、自分たちのプライバシー暴露には抵触しない(いや、どころか隠蔽する機能すら果たす。メディア上の相手の話をしていれば、自分たちの話はしなくて済むからだ)。
こういったテレビの機能がプルメディアであるネットにはないことは明らかだ(もっともソーシャルメディアはもう一つのネタを提供口でもあるのだが、こちらについての考察は別の機会に譲りたい)。たとえば、他者との一般的な会話を交わすネタとしてインターネットから拾ってきたものをとりあげたらどうなるか?これは、ほとんどネタとしては機能しないだろう。プッシュメディアではないため一般に情報を認知させる機能をネットは持っていない。自分が知りたい情報をプルするネットは、原則、その情報が細分化されたトリビアルなものになるのだ。だから、そのネタを持ちだしても相手にとってはそれがネタとして共有することが限りなく難しいし、表出として相手が聞かされたら退屈なだけだ。いや、そんなトリビアルなネタを話せば「こいつヘン?」と気持ち悪がられるのがオチだ(これが有効なのはオタク的な同好の士の間でのコミュニケーションに限られる。そしてこういう場合にネットは大きな「ネタ提供機能」を有するようになる)。
というわけで、テレビは人権意識の高まりによるプライバシー意識の向上とインターネットの広がりによる嗜好の急激な多様化に伴うコミュニケーションネタの枯渇をヘッジするという役割をむしろ強く持つことになるのだ。そして、このテレビの機能、つまりネタ供給による表出=共有コミュニケーションの働きを最も効率的に達成可能にするコンテンツの一つが、実はワイドショーなのだ。
前回まではワイドショーが格好のヒマつぶしになること、現代人のプライバシー防衛と嗜好の多様化をヘッジするネタを提供する機能があることを指摘しておいた。ただし、これはある意味「テレビ」というマスメディア全般にも適用可能な特性でもある。だから、テレビの中でもワイドショーが備える特異な社会的機能=必要悪をさらに抽出する必要がある。そこで、最後にこの部分についてツッコミを入れてみよう。
話は再びテレビ≒マスメディアが備えるネタ提供機能に戻る。テレビからは容易に表出=共有コミュニケーション(「伝達」の他にコミュニケーションが備えるもう一つの機能。カタルシスを獲得し、他者との親密性を形成する)のためのネタを取りこむことが可能であることを前回は指摘しておいた。つまり、プッシュ機能(送り手が大量の受け手に一方向的、垂れ流し的に情報を供給する機能。受け手は受動的に情報を受け取る)によって多くの人間がテレビによる一元化した語りに接することになるので、容易にネタとして取り上げることができる。それによって対面の場で情報の共有が可能となり、互いの中に同質性を見出すことで親密性と連帯を感じることが出来るようになるということだった。
■ワイドショーは「悪口」を喚起することで強い連帯と優越性を容易に確保可能にする
そして、この機能にさらに拍車をかける、つまりいっそうの親密性と連帯を加えることを可能にするのがワイドショーなのだ。
これまたすでに述べたことだが、マスメディア発達以前、共同体の中で人々のコミュニケーションのネタは共通の隣人だった。ただし、自分がいない場合には自分がネタにされ、プライバシーが常態的に暴露される。だが、それでは人権意識の高いわれわれにとっては困る。そこで、現代では芸能人などのディスプレイ上の有名人をもっぱらネタの対象とすることで、プライバシーを維持しながら表出=共有のコミュニケーションを可能にする、というやり方が生まれたのだ。
さて、ワイドショーの必要悪としてのアドバンテージのポイントは「人をネタにしたコミュニケーションの構造はどうなっているか?」といったところに立ち入ることで見いだすことができる。かつてあった共同体で相手をネタとするとき、そのネタのほとんどは、実はネガティブなもの、つまり「悪口」だった。なぜ、そうなるのか?この構造は単純だ。われわれは他者とネタを共有し連帯感を得たい。ただし、このときそのネタを共有することでコミュニケーションを交わす双方がネタとなる相手に対する何らかの優越性を獲得できれば、一層カタルシスを感じることができる。そのためにはその他者との差異化を図ればいい。つまりネタとなる相手に比べて自分たちが優れていることを示せばよい。しかし、それは簡単なことではない。優越性を獲得するためには差異を示さなければならなければならないが、そのためには何らかの努力が必要となるからだ。そりゃ、しんどい。
しかし、簡単な方法がある。それが「悪口」だ。自分たちの優越性を誇示するのではなく、ネタの相手をこき下ろすことによって、結果として自分の立場が差異化され、努力なくして優越性を獲得することが可能となるのだ。自分をアップさせるのでなく、相手をダウンさせることで差異を獲得するという戦略だ。そしてこれを二人でやると連帯感はいっそうアップする。まず、ここまで述べてきたようにネタの共有による同質性で連帯感がアップ。さらに話をしている二人はネタになっている相手よりも優越性が高い。そして、それを確認することでもう一つ連帯感が加わるのだ。「あのバカな○○に比べると、私たちってイケてるわよね」ってなことになるのだ。ちなみに、これはコミュニケーションを交わす相手の数が多ければ多いほどその効果は高くなる。自分たちが多数派になり、話題の相手をこき下ろすことに、より正当性が感じられるようになるからだ。そして、これこそがワイドショーの得意とするところとなる。つまり、有名人のゴシップを取り上げこきおろす、犯罪事件を取り上げ、そこに登場した犯罪者を非難し、その一方で被害者に同情を示す。こき下ろそうが、非難しようが、同情しようが、要するに結果として視聴者側はそのような状況に陥っていない自分に優越性を感じ、上から目線でネタとなる相手を見ることができると同時に、その優越性を対面の場で共有して親密性を高めるわけだ。「ヒトの不幸は蜜の味」とは、実はコミュニケーションの本質に関わることばに他ならないのだ。
いわば、長屋の井戸端会議でやられていた「人の噂コミュニケーション」を今日風に「洗練化」したものが、この「ワイドショーをネタにしたコミュニケーション」に他ならない。
■ニュースもまた必要悪?
さて、ここまで必要悪=現代人のコミュニケーションの必需品としてもっぱらワイドショーを取り上げてきたが、実はこれと全く同じ構造を有するテレビのジャンルがもう一つある。それは「一般のニュース」だ。よくよく考えてみればニュースの2013年2013年05月19日月19日05月19日実はどうでもいい内容ばかり。たとえば最近だと橋下徹大阪市長が従軍慰安婦問題について不謹慎な発言をしたなんてのがこれに該当する。一介の市長が従軍慰安婦問題をどのように発言しようと実は大した問題ではない(橋下は首相ではない)。ところが橋下自身がメディアの寵児であり、われわれの表出=共有コミュニケーションのネタとしてはもってこいの存在。そしてそのことをマスコミは知っている。だから、橋下の発言の一部をはしょり、問題視するような文脈に流し込んでねじ曲げ、大々的に報道する。でも、そうすることで「やっぱり橋下さんは〜」みたいなかたちでコミュニケーションが盛り上がる。ねじ曲げた方がネタとしてははるかに盛り上がるからだ(見下しやすい)。全てとは言わないが、ニュースもまたその多くが、こんな「マスゴミ」的なトピック、つまりネタになる情報、そして演出で埋め尽くされている。だからその質としてニュースとワイドショーは五十歩百歩だし、われわれのヒマつぶし、表出=共有コミュニケーションを開くという重要な「必要悪」としての機能を備えていることでも五十歩百歩ということになる。そして現在、こういった「どうでもいい報道」パターンが一般のニュースをどんどん浸食しつつある。そう、実は報道自体がどんどんワイドショー化しているのだ(NHKの7時のニュースで被害者の葬式が報道されたことがあったが、これって「伝達内容」としてはほとんど情報価値0%、つまり「必要なし」。しかし、メロドラマのお涙頂戴という「表出=共有」機能なら情報価値100%、つまり「必要不可欠」だ。これをNHKですらやるような時代になったのだ。まあ「みなさまのNHK」というキャッチフレーズがポピュリズムを意味するのなら正しいけれど(笑))。そして、それはある意味、時代の必然。つまり、報道全般のワイドショー化は現代人のコミュニケーションのための重要な社会的機能の一部を担っているということになる(念のために付け加えておくが、この機能を担っているメディアは他にもある。もちろんインターネット上でも。ただし、テレビが最大かつアドバンテージを有することは間違いないだろう)。
■だからテレビはなくならない
テレビはジリ貧だ。だが、こういった機能を備えている限りなくならないし、むしろこちらに特化していくことで生き残りが可能になる。だからこれからワイドショー、そしてニュースを含めた報道コンテンツは、テレビ番組の中でますますその比重を増やしていくだろう。これらはわれわれのコミュニケーションにとってきわめて重要なのだから。
ちなみに、この他にもテレビのコンテンツとしてヒマつぶしとネタ供給機能を備えているのはスポーツ中継、そして情報バラエティだ。だから、これらが番組のジャンルとして伸びていくのではなかろうか。
  
勝手にメディア社会論
http://mediakatsuya.livedoor.blog/archives/cat_51801.html?p=5
http://mediakatsuya.livedoor.blog/
https://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/


posted by datasea at 14:15| Comment(0) | ♪  アート,エンタメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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