2020年06月05日

beautyhappinesshide: フォッサマグナと日本の東西文化

beautyhappinesshide: フォッサマグナと日本の東西文化
フォッサマグナと日本の東西文化に関して
2009/10/3(土) 午後 5:34
歴史・古代史 歴史
■縄文時代が終わって弥生時代が始まったのではない
日本史の教科書等でも書いてあるように,一般的な定説によれば日本の縄文時代は遥かに古い時代であり,今から約1万2000年前に遡るという。
その頃はちょうどヴュルム氷河期が終わった直後から日本人は縄文時代を育んできたことになる。はたして,定説といわれているその年代は何処まで信用できるだろうか。
数年前に,旧石器捏造事件が発覚して大問題となったが,捏造がなかなか表沙汰にならずにいたのは,旧態依然とした考古学の体質とは別に,いかに年代測定法自体がかなりいいかげんなものであったかを世に知らしめてしまった。
考古学者の多くは,出土した土器の形を並べて紋様から時代を仮定しているだけに過ぎない。また,炭素14法では誤差が多くて古い年代ばかり算定されるので,今ではあまり信用されなくなっている。
そして,縄文時代が約1万2000年間も続いたという仮説も「地球激変論」を考えれば崩れ去ってしまうだろう。
定説となっている,旧石器時代から縄文時代を経て弥生時代から古墳時代へという,一連の流れははたして正しい時代解釈なのだろうか。
日本の考古学の時代解釈は斉一論をもとに決められている。斉一論とは「激変などは一切無く,小さな変化が継続して起こり,やがて気の遠くなるような年数をかけて大きな変化になっていった」というものである。
地球激変論が正しければ,これらの定説が全て覆されるのだ。飛鳥昭雄氏の説では,約4500年ほど前に『ノアの大洪水』が起こり,地球環境が激変して地殻プレートが動いていた時代だという。
そのような天変地異が世界各地で襲っていた時代に,平和的な縄文時代が何千年も続き,約2500年前に稲作が伝来して始まったという現在の定説は一気に吹っ飛んでしまうだろう。
2003年5月に,千葉県の国立歴史民族博物館は,弥生時代の年代に関して新しい歴史観を提示しました。それまでの定説を覆し,弥生時代の始まったとされる年代を約500年繰り上げて,紀元前1000年ごろにすべきだと主張したのである。
これは,九州北部の弥生時代早期の遺跡である橋本一丁田遺跡や梅白遺跡や雀居遺跡の土器に付着した有機物などを分析した結果,その土器の製作された年代が紀元前9世紀〜紀元前8世紀頃だとはじき出された。
これによって,稲作が九州北部に伝わって弥生時代が始まったとされるのは,少なくとも紀元前1000年頃であると考えるのが妥当であるという結果になったという。
定説では弥生時代は邪馬台国の時代まで続くのだというが,最近の研究では卑弥呼の統治した時代が古墳時代の初期とみなしている。
しかし,その間に弥生文化は日本列島全域にくまなく伝わったのだろうか。実はそうではない。稲作が伝来しても,主として東日本地域では縄文時代が続いていたのだという。
実際に東北地方には弥生文化は育っていない。稲作は伝来し普及はしたものの,実質的には縄文文化は存続し,その縄文文化は「大化の改新」や「律令制時代」まで続いていたのである。
ここで重要なのは「縄文時代が終わって弥生時代が始まったのではない!」ということである。
当時の日本列島には同じ時代を共有した縄文文化と弥生文化が存在し並列していて,縄文人と弥生人が同時に存在していてたという。
有名な青森県の三内丸山遺跡の発見によって,縄文時代の文化程度が予想以上に高かったことがわかってくると,もう,未開の縄文人から進んだ弥生人へと変化したというような,人類が進化したとされる歴史観は全て虚構であることは浮き彫りとなる。
縄文人が進化して弥生人となったのではない。日本は大きく2つの文化圏が存在したのだ。それは縄文文化圏と弥生文化圏が存在した。
もっと詳しく言えば,日本列島はフォッサマグナで分かれていて,東日本列島が縄文文化圏で,西日本列島が弥生文化圏だったようである。
大阪にある「国立民族学博物館」の小山教授は,日本の縄文時代に関する教育が間違っており,縄文時代の人々の文化レベルの高さは,出土した着衣からも見ることが出来るといい,なめし皮や手編みの着物も身に着けていた。
髪型も伸び放題のボサボサ髪ではなく,様々なデザインの髷や結髪をしていたことは,土偶をみても明らかだという。装飾品の工芸技術もレベルが高く,イヤリング,ネックレス,櫛など様々な飾り物を作っていたようなのだ。
日本列島は大きく分けて2つ存在し,東日本列島は「狗奴国」で,西日本列島は「邪馬台国」であり,お互いに戦争をしていた。当時,九州から畿内にかけては邪馬台国の勢力下にあり,西日本地域が邪馬台国連合である。
「狗奴国」が邪馬台国と戦争をしていたということは,邪馬台国連合と互角或いは匹敵するくらいの勢力を持っていたことになる。
そうなれば,「狗奴国」は東海地方を含む関東から東北地方も含めた東日本を勢力下においていたことが予想される。日本では,昔からに東日本と西日本の文化は共存してきたが,本来は言語や風俗や風習も東西では微妙に異なっていた。
民俗学の世界では常識であるが,東西文化の境界線は糸魚川〜静岡構造線(フォッサマグナ)であることが知られている。このフォッサマグナを境にして食べ物を始め風習なども異なっている。
例えばこの境界線付近から餅の形が四角か丸か異なっている。このフォッサマグナの問題に関して興味深い事実がある。長野県に安曇野という地名がある。安曇野とは,古代の海人族として知られる安曇族に由来している。
海人族が川を遡行してきて深い山地へとやってきたのだと定説ではいわれている。しかし,現地を訪ねてみると,かつて辺り一帯は海だったという昔話があるのだという。安曇族が海人伝説を持ち込んだとも思われるかもしれないが,なかには浦島太郎のような伝説もある。
どうも,おかしい。海人族だった安曇族が海に憧れたにしては,安曇野は日本の屋根ともいわれているアルプスの真ん中なのである。このような高地に何故,海に関わる伝承が数多く残っているのだろうか。
世界最高峰を誇るヒマラヤ山脈にあるエベレスト山もかつては海の底だったのだ。その証拠に,ヒマラヤ山脈ではアンモナイトの化石がゴロゴロ出土するという。
ヒマラヤ山脈はインド亜大陸がプレート移動しユーラシア大陸に激突したことで,地殻が盛り上がって形成された地形である。同様に,伝説どおりに考えれば日本アルプス一帯が海であった可能性もある。
今や標高3000メートル以上の山々が連なっているが,かつては海の底だったのかもしれない。そうなれば,フォッサマグナは,物理的に離れていた東日本列島と西日本列島が衝突してできた構造線であり,境界付近は海だった。
これはヒマラヤ山脈と状況は似ている。そう考えれば,海人族が内陸に入ってきて住み着くことも充分に考えられる。東西の日本文化や風習が違うことは,実はそれぞれ別の島で発達した文化だっとものとして解釈できる。
これが,狗奴国連合と邪馬台国連合とが海を隔てて対立していた地勢的原因の1つだと考えれば納得がいく。もちろん,東西に分かれていても同じ倭人であって,人間や物資の交流はあったはずである。
政治的に対立していたからといって,経済的に対立していたとは限らないのだ。人間が存在する以上,人と物の移動は頻繁にあったと思われます。
少量であるが,東日本地域から弥生土器が出土し,西日本地域から縄文土器が出土することがあるのは交易があったら当然のことなのだと思う。
大きく分けて2つの日本列島が太平洋上にあった時代,アメリカ大陸を故郷とするインディアンを先祖に持つポリネシア人たちが次々と上陸してきた。
東日本列島には,主として南米インカ系のインディオが中心となって,それ以前に住んでいたイヌイットをルーツに持つ人々を吸収して縄文文化を形成して狗奴国連合を形成していったのである。
一方の西日本列島は主として中米マヤ系のインディアンたちが中心となって弥生文化を形成していった。彼らマヤ系インディアンたちは,中国や東南アジアから伝来した稲作を導入することによって勢力を拡大していった。
そして,神(異次元の存在)と交信できるシャーマンであった卑弥呼を担ぐことによって邪馬台国連合を形成していったのだが,卑弥呼が邪馬台国の女王として担ぎ出される直前に,日本列島に大事件が起きた。
東西の日本列島が衝突したことで,とてつもない天変地異が各地で発生したと思われる。想像を絶するような巨大地震と火山噴火が頻発したはずである。このときの異変を記録したものが「倭国大乱」である。
お互いに海を挟んで牽制しあっていた2つの倭国が陸続きになったおかげで,両者間で争いが勃発したのである。
■全地球規模で地殻変動が起こった
ただでさえ人々の感情が地震などの天災によって高ぶっていた上に,作物の不作などで不平不満がたまっているなか,暴動に近い形でので部族間対立が各地で頻発したと思われる。
中国の史書である『後漢書』の「東夷伝」に,桓帝と霊帝の治世の間,倭国は大いに乱れ,さらに互いに攻め合い,何年も王が存在しない時代が続いたと記されている。
これは卑弥呼が即位する以前に起こったことで,「魏志倭人伝」にもそれを裏付ける似たような記述がある。邪馬台国は女王としてシャーマン卑弥呼を担いで事態を収拾し,西日本列島は,緩やかな連合国家群が形成されていった。
こうして,東西の日本列島は狗奴国と邪馬台国が台頭し,日本列島の支配権を巡って両者は戦いを続けていった。これは,最近の中世期であった鎌倉・室町・戦国・江戸時代のもう1つ前の中世期に起きた出来事である。
しかし,皮肉なことに最終的に日本列島を手中に収めたのは邪馬台国でもなければ狗奴国でもなかった。そのどちらでもない第3の勢力が瞬く間に上陸し,狗奴国と邪馬台国を遥かに上回る圧倒的な軍事力で日本列島を征服していったのです。
先の小山教授のデータによれば,このとき日本列島の人口が急激に変化したという。東日本列島の人口が激減し,西日本列島の人口が増加した。
人口が少なくなったのは天変地異による環境の変化の他,繰り返された戦争が原因だろうが,西日本地域にに人口が増えたというのは何故か。
西日本の邪馬台国地域に東日本の人間が大量に移住したわけでもないようだ。もし,そうなら西日本地域に東日本の縄文文化が色濃く残っているはずなのだ。
天変地異を含む激変に見舞われたのは日本だけではない。今から約1600年ほど前の「4世紀の時代」は東西文明の転換点でもあったのだ。
日本列島が急激に移動して1つになったということは,プレートが移動を開始したことで,全地球規模で地殻変動が起こったことを意味する。
これはユーラシア大陸の各地でも巨大地震が続き気候が急変した。この天変地異が急速な寒冷化も引き起こし,作物が収穫できずに飢えた民族が増えていった。特に元々は寒い地域だった北欧や東欧地域は大打撃を受けた。
そして飢えたゲルマン民族の怒りが頂点に達して武装難民と化し,繁栄を謳歌していたローマ帝国領内へ侵攻し略奪と破壊を繰り広げたことで,ローマ帝国は急速に縮小し弱体化していったのである。
その後,西ローマ帝国が滅亡し,多くのローマ人の難民も発生したことだろう。こうしたヨーロッパで起きた民族大移動が,東洋地域にも波及してくることになる。地続きの大陸において民族移動は,直ぐに戦争に直結する。
先住民と征服民との攻防戦が各地で発生していった。当時は,中国では「三国志」の時代が終りを迎え始め,つかの間の平和が訪れ始めようとしていた矢先,世界的天変地異が発生。
北と西からはヨーロッパや中東の難民化した異民族が玉突き状態で流入し中国地域は大混乱に陥った。
中央アジアでも異民族が流入し祖国を追われた人々が増大していった上,東北アジアでは夫余系騎馬民族が活発化して「五胡十六国の大乱」が勃発したのである。
既に朝鮮半島まで流入していた騎馬民族の一部は,そのままトコロテンが押し出されるように半島南部にまで押し寄せてきた。こうして彼らは日本列島への侵攻を計画し始める。
そこへ,圧倒的な求心力とカリスマを誇った邪馬台国の卑弥呼が死んだ後,一族だった台与が立つが情勢は不安定を極め,狗奴国との覇権争いから倭国の動乱が発生した。
これを勝機と考えたイスラエルの流れを汲む中央アジア出身の夫余系騎馬民族は,朝鮮半島南部から九州北部へと上陸し,そこを一時的に足がかりの拠点として畿内へと侵攻していった。
当時の倭国は鉄器も無く,馬や牛もいなかったといわれている。鉄の武器を持った兵士が馬に乗った騎馬民族の圧倒的な軍事力と機動力の前に倭人たちは敗北し,短期間で邪馬台国を征服。征服者側は倭国の一般大衆からの反感と抵抗を避けるために穏便策をとった。
騎馬民族の王家が邪馬台国の王族に婿入りする形で王権を継承し完全に政権を掌握。ついに大和朝廷を開くこととなった。1948年,東大の江上波夫教授は,邪馬台国が大陸系騎馬民族によって征服されたという学説を発表して学会に衝撃を与えた。
江上教授によれば,『記紀』で語られている初代の神武天皇の東征は,大陸時代を含めた騎馬民族の征服劇を伝えた伝記であり,歴史的には第10代崇神天皇こそ,大和朝廷を開いた最初の天皇であるという。
そして,ヤマトタケルの蝦夷征伐の神話は,大和朝廷に断固として従わない東日本地域の縄文・アイヌ系の倭人を攻撃し屈服させるための軍隊を派遣したときのものだろう。この度重なる蝦夷征伐によって,東日本の縄文文化の担い手だった縄文・アイヌ系の人々が北海道に逃げて独自の文化を築いていったと思われます。
1948年の当時,江上教授の「騎馬民族制服説」は多くの批判を受けたが,朝鮮半島の考古学的調査が進んだ今日,ほぼ正しかったことが証明されたといっても過言ではないだろう。
4世紀頃,西日本列島の人口が急激に増加したのは,まさに朝鮮半島から大量の騎馬民族が渡来してきたからにほかならない。
その結果,短期間で邪馬台国が征服されたことで誕生した大和朝廷に反逆し続ける東日本地域を支配化に置く為に軍隊を派遣して殺戮したことで,東日本地域の人口が激減したということなのだろう。したがって,現在の皇室は夫余系騎馬民族の末裔の可能性が高い。
天皇は即位するときには必ず「大嘗祭」を行います。大嘗祭を行うことによって,天皇の祖神である天照大神の御魂と一体となって現人神になると考えられてきた。この大嘗祭を行うとき,必ず2つの社殿が建てられる。
その名を「主基殿」と「悠紀殿」という。当日,天皇は両方の社殿で全く同じ儀式を行うとされる。何故,わざわざ全く同じ儀式を2つの社殿で行うのか。その理由は皇室の秘儀とされている。
しかし,天皇が日本列島を征服した騎馬民族の王家の系統であると考えればわかることなのだ。
2つの社殿は2つの日本を意味している。東日本列島と西日本列島である。
かつて離れていた地域,縄文文化圏であった狗奴国と弥生文化圏であった邪馬台国を象徴しているのだ。
天皇はこの2つの社殿で大嘗祭を行うことで,本当の意味で東西の日本に君臨することになったのだろう。この天皇が「大嘗祭」で神と崇める天照大神が,ヘブライの神と大きな関係があるように思う。
2つの日本を象徴する秘密の儀式は,天皇家の最高の宮所である「伊勢神宮」で行われている「式年遷宮」は,内宮社殿の土地を2つ用意して20年ごとに社殿を建て直し,神器もその度に移動させるという庶民にとっては意味不明の謎だらけの儀式なのだが,実は天皇の権威が日本の中で2つの国を統治することを意味しているのだ。
このように,東日本の縄文文化と西日本の弥生文化は共存していた可能性が大きい。現在の学会で通説とされている「縄文時代から進化して弥生時代になった」という定説は脆くも崩れ去り虚構になることだろう。
もし,世界的な気候変動や天変地異が発生していなかったら,騎馬民族も渡ってこなかったかもしれない。はたして現代のような皇室は存在したのか。日本語も違ったものになっていた可能性もある。また,現在の日本は一体どのような社会構造になっていたのか興味が湧いてくる。
文明800年周期説によれば,西暦2000年を境にして現在は再び東西文明の交代期に入っているという。約1600年前は西洋が衰退し東洋が勃興しました。約800年前は東洋が衰退し西洋が勃興しました。今回は,また西洋が衰退し東洋が勃興する時期が巡ってきました。
今回,日本がアジア寄りの民主党政権になったことで,東アジア共同体構想が持ち上がってきたことも,そういったアジア地域に起きている一連の現象だと感じている。
アジアの諸国で植民地支配からの独立が達成されたり民主化運動が起こったりするのは,文明が勃興するための下準備として起きた「中世期からの脱却」でもあるのです。しかし,安心ばかりしていられません。かつて起きた天変地異は,再び起こる可能性もあるからなのです。
また地殻プレートが動き出すことが無いように祈るしかありません。現在も地球の文明波動は確実に西へと進んでいる。日本の奇跡的な高度経済成長や中国の経済成長の急伸は,この文明交代期特有の現象なのだろう。
経済でも貨幣価値の変動がこれを端的に表している。アメリカのドルの価値が急落し円高が加速しているということは,日本がアメリカの次に覇権国になる資質があるということの表れなのですが,欧米経済や輸出関連企業に気を遣って円高介入したりしている現状。
政治家も含めて多くの日本人は,一時的にではあるが日本が次の文化的覇権国になるという意識がほとんどないのが少し残念です。
何としてでも覇権を手放したくないアメリカにとっては,日本がアジア経済圏に入ることを阻止したいがために足を引っ張り続けるだろう。親アジア派の政治家を失脚させるように仕向けることが予想されます。
一方で「地球温暖化」の問題も温室効果ガスだけではなく,太陽面プラズマ活動の変化など宇宙規模で行われるイベントのような気がします。地球温暖化も東西文明交代期特有に起きる寒冷化への試金石であり,地球のバイオリズムの1つなのではないかと思う。
文明は西へと受け継がれていくことで文明情報を東西で互いに保存し合うのだ。
そのために地球波動が影響しているのではないかと考えています。

徒然ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/58970148.html











posted by datasea at 00:00| Comment(0) | ~ 自然現象 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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