2020年02月24日

Defoe「ペスト」〜17世紀ロンドンに流行した疫病の記録

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Defoe「ペスト」〜17世紀ロンドンに流行した疫病の記録
それは確か1664年9月初旬のことであったと思う。近所の人たちと話していた時に,私はふとペストがオランダに流行りだしたという噂を耳にした。「また流行りだした」というのはその前の年の1663年にオランダはこのペストのためにひどい目に遭っていたからである。
特にアムステルダムとロッテルダムはその中心地であった。なんでもその時の話の様子では,あるものはその疫病はイタリアから入ってきたと言い,またある者はレバント地方から紀行したトルコの商船 で運ばれた貨物にくっついて入ってきたのだとも言った。いやあれはクレタ島からであるというものもいたし,サイプラスからだと言う者もいた。
しかしどこから疫病がやってきたかは問題ではなかった。問題は再び疫病がオランダに流行りだしたということであった。これには誰も異存はなかった。当時まだ新聞などという報道を伝える印刷物はなかったし,その後長生きしたおかげで私も実際に見てきたような嘘八百を並べ立てては風説や報道をさらに煽り立て様と言ったメディアはなかったのである。
■1664年11月
政府当局は真相については正しい情報を持っていたらしく,国内侵入を防ぐ手段を講じようとしてしばしば会議を開いていたようであった。しかし実際は秘密にされていた。そういうわけでその噂も自然に立ち消えになっていき,我々も元々大して我々に関係したことでもなかったのだという風にいつのまにか忘れかけていた。またあれは本当ではなかったらしいとホッとしたような気にもなっていた。
しかし同じ年1664年11月下旬だったか,それとも12月上旬だったか,突然二人の男がロングエイカーでドルアリ通りの上手の家で疫病のために死んだのである。二人が泊まっていた家の者はできるだけこのことを隠そうと努めたらしい。しかしいつのまにか近所の話題になって,当局者の知るところになった。このことは直ちに教区役員に正式に報告され,教区役員はまた教区役員本部に通報した。死亡週報にはただ簡単にこともなげに
感染 2
感染教区 1
という記事が掲載された。これを見た市民の不安は大変なものであった。ロンドンは上を下への大騒ぎになった。
■1664年12月
その折も折同じ1664年12月の最後の週に同じ家で同じ病気で死んだ者がもう1名でたものだから,その不安には一層大きくなった。しかしまたそれから6週間ばかり平穏無事の日が続いた。その間死者でベストに犯された痕跡を示していたものはなかった。「悪疫は退散した」などと言いあったりした。
■1665年2月
しかしそれも束の間のことで,翌年1665年2月12日頃だと記憶するが,死亡者が1名が同じ教区の別の家からでた。区域も同じなら病気の経過をまた同じであった。
こうなると全市民の目は自然その界隈に注がれるようになった。セントジャイルズ教区の死者数は普段よりもグッと跳ね上がっているのが死亡週報にはっきり表れていた。したがってその界隈の住民の間に疫病患者がいるらしいということが恐れられた。またできるだけ世間の目から隠そうとも勤めていたが,それにもかかわらずおそらく大多数の人が疫病で死んだと思われた。この不安は深刻に市民の頭に染み込んいったようであった。
死亡者数の増加は次の通りであった。
セントジャイルズ インザフィールズ教区とホウボン区のセント・アンドルー教区の一週間の普通の死体埋葬数は多少の増減はあるがだいたいにおいて12〜19というところであった。
ところがセントジャイルズ教区に初めてペストが発生してからというもの,普通の病気による死者数が著しく増加してるのが認められた。例えば
12月27日〜01月03日 34
01月03日〜01月10日 30
01月31日〜02月07日 44
02月07日〜02月14日 24
すべての教区の死亡者数は普通240〜300の間であった。300という数字でも相当に高い死亡者数であると考えられていた。ところがベスト発生以後死者数はみるみるうちにうなぎ上りに上がっていった。すなわち
12月20日〜12月27日 291
12月27日〜01月03日 349
01月03日〜01月10日 394
01月10日〜01月17日 415
01月17日〜01月24日 474
この数字の増加は前回のペストの流行の1656年以降わずか一週間としては実に未曽有のものであってその点まさに恐るべきものであった。
しかしながらこれ以降は何事もなく済んでしまった。天候は寒くなって,前年12月に始まった寒気はほとんど2月の終わりまで衰えずに寒さは極めた。その上まるで肌を刺すような風が吹いた。
死亡者数はずっと減ってロンドンは再び生気を取り戻した。誰も彼も危険はもうさったも同じだと思い始めた。ただそれでもなおセントジャイルズ教区の死者数だけは相変わらず相当なものであった。
■1665年4月
セントジャイルズ教区の死者数は特に4月上旬からはその数は毎週常に25を下らなかったが毎月18〜25日に至る1週間ではこの区域で埋葬したした死体の数だけで30に達した。そのうち
疫病によるもの 2
発疹チフスによるもの 8
ということになっていた。しかし発疹チフスと言っても本当は疫病だと考えられていた。同じような理由で全死亡者数の中でこのチフスのために死亡した者の占める数もずいぶん増えてきた。前の週に8であったものが今週では12といった具合であった。これには我々も再び驚いた。深刻な憂鬱の色が市民の間に漂い始めた。特に気候もだんだんと暖かくなってゆこうとしていたし,夏もおっつけやって来ようという気配であったので一層深刻な物があった。
その翌週にはまた希望の色がみえ始めた。死亡率が下がってロンドン全市を通じて死亡者数はわずかに388人で,疫病によるものは一人もなく,チフスもわずか4人であった。
■1665年5月
しかし次の週にはまたぶり返してきた。疫病は他の2〜3の教区,すなわちボウモン教区,セントアンドリュー教区,セントクレメントレインズ教区にも蔓延していった。しかもその上市民を慄然とさせたことはとうとういわゆるシティ(城中)のセントメアリーチャーチ区域に1名の死亡者を出したことであった。
つまりその場所は正確に言えば 食料品市場の近くのベアバインダー通りであった。この週の死者数のうち疫病によるものは9人,発疹チフス6人であった。しかしさらに調べてみるとこの日ペストバインド通りで死亡した人はフランス人で,かつてはロングエーカーの感染ホテル近くに住んでいたこともあって病気にかかるの恐れて移ってきた人であることが分かった。ところが実にはその人はもうすでに病気に感染していたのを本人が気づかなかったのである。
これが5月の初めのことであった。まだ気候は温和でしのぎやすく程よい涼しさであった。従って市民は未だ幾ばくかの希望を持っていた。こんな風に望みを繋いでいたのは次のような事情もあった。それはロンドンがまだ健全と思われていたことだった。97の教区のうちで疫病に倒れたものはわずか54人に過ぎなかったからである。我々も病気の蔓延しているのはロンドンの中でも専ら問題になっている端の方の教区にすぎない。従ってそれ以上広まる心配はあるまい。そう高をくくり始めた。
5月の9〜16日までの7日間わずかに死亡者数は3人になった。しかもそのうち一人も市内・自由区にはいなかったのである。セントジャイルズ教区では患者が32もあったことは本当であるがそれでも疫病にかかって死んだのはわずか1名に過ぎなかった。こう死亡率が下がってくるとそろそろまた市民たちは安堵の笑みを浮かべるようになった。前週の死亡者はロンドン全体で347人。今週はそれが343人になっていた。
次の死亡通報は5月23〜30日までの期間。セントジャイルズ教区の死亡者数は実に53というまさに戦慄すべき数であった。このうち疫病によるものは9と公表されていた。しかし市長の要請に基づき治安判事たちが徹底的に調査したところ,その区域で実際に疫病で死んでいたものはこの他にも20人もいたということが判明した。しかしこのようなことはこの後に起こった事柄に比べたら全く取りに取るに足らない事柄であった。
■1665年6月
気候はもうすっかり暑くなった初夏6月第1週頃からはこの疫病は恐ろしい勢いで広がっていった。
6月第2週目を迎えるようになると,セントジャイルズ区域では死亡者数は120になった。このうち死亡通報の伝えるところによれば疫病によるものは68に過ぎなかった。しかしこの疫病のいつもの数字の数から考えてみてどう転んでも100人は疫病で死んだに違いないと誰も彼もが信じていた 。
■1665年7月
すでに7月の半ばになっていた。疫病は主としてロンドンの向こう側の地区でイレブン教区及び保護区域のセントアンドリュー教区やウエストミンスター教区よりの地域などで猛威を振るっていた。
私の住んでいる地域に向かって徐々に疫病地帯が移動していた。それは文字通りの東進であって,しかし決して我々の方に向かってまっしぐらに進んできているのではなかった。例えばシティ(城中)はまだまだ相当に平気であったし,川の向こうのサザン教区にもあまり進出してきてはいなかった。
この週の死者数は約1268人でうち疫病によるものは900人以上と考えられていた。一方シティ(城内)ではわずか28人の犠牲者に過ぎなかった。一方セントジャイルズ教区とセントマーティンズ・インザフィールズ教区の二つの教区だけでも実に421人の死者を出していた。しかしこの疫病が陰惨を極めたものは,何と言っても城外区(アウト パリス シティ)つまりかつての城の周辺にある区域だった。何しろ人口が多い上に貧乏人が多いのである。疫病は一層餌を求めて荒れ狂っていたのである。
とにかく病魔は次第に自分たちの方に近づいてくるのを我々は認めていた。すなわちクラーケンウェル教区,クリップゲート教区,ビショップスゲート教区などの区域を追加して迫って来ようとしていたのである。特にこの二つの区域はゴールドゲート教区,ホワイトチャペルし教区などの区域に接していたのであるが病気がいよいよ迫ってきた時にその凶暴さは非常な猛威をふるった。 最初に発生した西部の区域で次第に病気の勢いが衰えていった時でさえも依然として激烈を極めているというふうであった。
7月8日〜7月11日の間に セントマーティンズセント教区・ジャイルズ教区の二つの教区だけでほとんど400人の人がベッドに倒れた。にもかかわらずオールドゲート教区では4人,ホワイトサドル教区では3人,ステファニー教区では1人これだけしか流れなかったこれには我々も驚きを禁じえなかった。翌週7月11〜18日に至る間にロンドン市全体の死亡者数が1761人であったにも関わらず,テムズ川の向こうのシティ地区では疫病に倒れた者はわずか26人であったのである。
■1665年8月
しかしすぐに形成も一変してくる。ゲート教区を始めクラーケンウェル教区などにおいて猛勢をたくましくしつつあった。
例えば8月第2週までにクリップゲート教区だけで886人の死亡者数を出してクラーケンウェル教区も155人の死亡者数を出したが,このうちクリップゲート教区においては実に850人が疫病に関しているものと推定された。
クラーケンウェル教区でも死亡者数ホノルルところでは145人がすぐにあるとのことであった
08月22日〜08月29日 7496
08月29日〜09月07日 8252
09月07日〜09月12日 7690
09月12日〜09月19日 8297
09月19日〜09月26日 6470
8月のロンドンの人口は1月のそれの1/3もなかった。ロンドンの風景は今や全く一変してもはや昔日の面影はなかった。あらゆる大きな建物を始め
シも自由区もウエストミンスター地区もすべてが一変してしまったのである。ただあのシティと言われる特別な一角。あそこだけはまだ被害を受けてはいなかった。しかし一般の様子は前にも言ったようにすっかり面目を一変してしまっていた。どの人間の顔にも悲しみと憂鬱が漂っていた。まだ破壊的な打撃を受けていないところもあったが誰も彼も一様に不安に怯えた顔つきをしていた。私はこの在り様をそっくりそのまま伝えることができたらと思う。近親者の死を悼むために正式の喪服をつけたりする者は一人もいなかった。街にはそれらしい葬式の姿は見られなかった。しかし悲しみの声は街に溢れていた。。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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船乗生活者であふれる港
私は疫病がグリニッジまで広がっているかどうか男に尋ねた。すると「少なくとも約2週間前までは広がっていなかったが今頃はひょっとしたら広がっているかもしれない。しかしそれもレッドフォード橋よりの町の南の一部分にすぎないだろう」ということであった。また彼がそこで買い物に行くのは肉屋と八百屋だけで大概それらの店で頼まれた買い物を済ませるが,病気のことには自分でも随分と注意しているということなどを付け加えていた。さらに船の中に閉じこもっている連中が十分な生活必需品を貯蔵していないのはどういうわけか尋ねると,中には蓄えのある人もいる。しかしその反面いよいよの土壇場になってからやっと船の中に逃げ込んだ人もいて,その時には危なくてしかるべき商人の所に行って買い込みをするなんてことは思いもよらない事だったという答えだった。
今買い出しをしてやっている船は 3隻だけだそうで。 その船を指さして教えてくれたが,ビスケットとパンとビールの他にはほとんど食物らしい食物がないので,その他の生活物資は一切合切買ってやっているということであった。
「他にこういう風に他の船から離れている船があるのか」という私の質問に対して
「ありますとも。グリニッジのちょうど向かいの地点からライム・ハウスやレッド・リフの川岸近くまで川の真ん中に2席ずつ船内に余裕のある船が停泊しておりますよ。ある船なんか何家族も住んでいますよ。病気にはかかっていないってわけだね。いや,まだやまだでしょうな。きっと。ただね,2〜3隻乗っている人たちがちょっと油断したもんで,船乗人が陸に上がったりして,とうとう病気を持ち込んだってのがありましたがね」
それからプール沖合に船がずっと停泊しているのは大変な壮観だとも言った。
潮が彼のボートの所まで来た時,私はボートに乗り込んでグリニッジまで連れて行ってもらった。
彼が頼まれものの買物をしている間に私はグリニッジの町を見下ろす丘の上まで歩いて行ったり町の東まで行ってテムズ川を眺めたりした。夥しい船が2隻ずつ並んで停泊している有様は誠に異様な壮観であった。川岸の広いところではそれが2列3列になっているところもあった。
しかもそれがずっと上流・ロンドンの町近くラドクリフやレッドリーフなどといった町を挟むいわゆるプールと呼ばれるあたりまで続いて,下流はロングビーチの端に至る下流全体に渡っていた。少なくとも丘の上から見られる限りではそういう風に見えた。それらの船の数がどれだかほとんど見当もつかなかった。しかし少なくとも数百隻の帆船が泊まっていたと思う。
それにつけても実に頭の良い計画だと感心した。こうやっていれば海運業に関係している1万人あるいはそれ以上の人が完全に感染の心配から逃れて極めて安全にまた容易に生命を全うすることができるというものである。
久しぶりの遠出に,特に今述べた船頭との交渉にすっかり気をよくして私は家に帰った。
考えてみればこういう危険時に船といういわば小さな聖域を多数の人々がその生活の場にしているということは確かに喜ぶべきことであった。
疫病の猛威が激しくなるにつれて幾世帯もの人々を乗せた船がともづなを引き錨を上げて移動して行くのを私も目撃したが,何でも噂によれば何隻かの船は海まで下っていって各自便利なところを求め,北海岸のいろいろな港や投錨地まで逃げていったということであった。
しかしまた一面から言えば,陸地を避けて船の中の生活を営んでいる人々が必ずしも絶対に安全だとも言えなかった。実際多くの人が船の中で死亡していた。その遺骸はあるものは棺に入れられて,あるものは棺にも入れられないままでテムズ川の中に投げ込まれた。川の潮の満引とともにその遺骸が浮き沈みしながら流れていくのをがいくつも見ることができた。
しかしこういう船から疫病患者を出す場合,次のような二つの原因のどれかに基づいたと思うのである。すなわち船に来るのが遅すぎて今更飛んできたところでどうにもならないといったところの実質的患者が船に来る。しかしその時にはすでに自分では気が付かず病気に冒されていた。 といった場合がその一つである。つまりその場合には病気が船に行ってきたのではなくて,実は乗り込んできた人たちが病気を持ち込んだという理由である。
次に例の船頭が言っていたように,十分な生活必需品を蓄える余裕がなかったために,是が非でも必要な物資を買いに人を陸上に送らねばならないとか,あるいは陸地からボートがやってくるのを大目に見なければならないとかいった船の場合がその二つ目の可能性。従ってこの場合は病気が知らず知らずのうちに船の中に持ち込まれたということになる。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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無策の策
ロンドンのような人口過密地帯の大都会では感染したからといって即刻あらゆる家を虱潰しに調べることはできないし,感染した家を全部が全部閉鎖してしまうことができない。
だから病人でも好きなところに,つまり自分が何番地何番の病気の家の一員だという正体が見破られないところへどこへでも自由に行けたというわけだ。これは幾人かの医者も執拗に申告したことであるが,伝染病が猛威を極め野火のごとく広がっていて多数の人々があっという間に発病してたちまち死んでゆくというような非常時には,誰が病気で誰が健康であるかを必死になって調整したり,いちいち杓子定規に家を閉めたりしようとしても,第一それが不可能であるばかりではなくて無意味でもあることは争えないことであった。
一つの通り全体のうちで,ほとんどの家が感染していたり,ところによっては家族全員が病気に冒されているということも多かったのである。もっとまずいことはこれこれの家が病気にかかったということが分かった時には,もうその家の病人は死亡していて残りの家族は隔離を恐れ逃亡してしまっているということであった。家族の者が多少とも病気にかかっているとはっきりわかる頃には病気の方は散々荒れ狂った挙句にもうその家からおさらばしているというわけである。
こういう次第で病気の蔓延を防ぐことは到底当局の手に負えることでもなければ,また人間の考える方法なり対策なりの及ぶところではないとすれば家屋閉鎖というやり方は 目的を達成するには不十分だということは常識のある人には納得していただけるだろう。いかにも公益ということが言われていたが,家を閉ざされてしまった特定の家族の被る深刻な重荷に匹敵するだけの,あるいは釣り合うだけの公益がそこにあるとも思えなかったのである。そのような過酷な処置を指揮して実行する役目を当局から仰せ遣って実際に見聞した限りでは,この法則は目的に沿うとも言えないものであるということを私は思い知らされたのである。
例えば私は見回りつまり検察員(Examinar)としていくつかの家族の病状を詳しく調べることを要求されたのであるが,我々見回りが明らかに家族の一人が悪疫にかかったことが分かっている家に入った場合,そこの者が逃亡していないということはまずなかったのである。治安当局の上司はこんな場合「誠にけしからんことだ」とばかりに憤慨して我々検察員に点検上の不行届を追求してきた。少し調べてみたところで要するにこちらにわかる以前から病気に侵されていたことがわかるだけの話であった。
ところで私は2ヶ月という正式の任期の半分にも満たない期間この危険な仕事に従っただけであるが,それだけの期間でも玄関や近所で訪ねるくらいでは病人の家の真相を突き止めることはできないことを知るに十分であった。真相調査に一軒一軒家の中に入っていくことはさすがの当局者も我々市民相手に課そうとはしなかったし,また市民の中で誰一人としてそれを引き受けようとするものもなかった。そんなことをしたら我々がこちらから好んでペストに生身を捧げに行くようなものであって,我が身はもちろん家族の破滅は必至であった。そればかりではなくてこういう過酷な目にあわなければならなかったとなればまともな市民ならロンドンを見捨て退去していただろう。
一家の戸主は自分の家の者が誰かが病気になった場合,疫病の兆候が現れた場合,それを発見次第,2時間以内にその居住区域の検察員に 報告する義務がある旨法令によって定められていた。ところが実際にはどの家も色々な口実を設けてはごまかして,なかなかその法令を履行しようとはしなかった。結局病気の有無はともかく,色々手段を講じて逃げたいものを逃して行ってからでなければ報告をすることはまずなかった。
事情がこんなふうであったから,家屋閉鎖が悪疫流行を食い止める有効な手段だと見るわけにはいかないことは明らかであった。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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posted by datasea at 18:18| Comment(0) | ♪  詩・小説・著書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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