2019年10月22日

天皇即位礼の歴史〜鳥見の霊畤,古代正月

天皇即位礼の歴史〜鳥見の霊畤,古代正月
冬至の翌日,新しい太陽誕生の日
古代の天皇の即位の礼は、冬至の翌日、すなわち、古代の正月でした。
イエスが、ペテロ(岩屋戸)に申しました、一番鳥が鳴くまでに、三度私を知らないというだろう、という話は、冬至前までの三日間であり、冬至そのものは、一番鳥の鳴き声、宇宙開闢の産声です。
イエスが、死(冬至前の最も暗い太陽)の三日後復活したと申しますのは、真理の誕生(ククリ・トマス)であり、天皇の即位の礼からの大嘗祭の、一連の御大典の事です。
写真は、即位の礼の高御座ですが、一番鳥(冬至)が、日本人にとりまして、大事でありました事は、これまでの巨石や神社の、冬至の日入れの投稿の通りです。
いつも載せています、曾祖父が、阿蘇で、見知らぬ方から無償でいただきました、復活(蘇り)の火鳥には、日本人特有の鯨面の彫りがあります。
また、突如現れ、消えていきました文明でありますが、5000年前のアイルランドの、冬至の日を引き込むニューグレンジの巨石は、熊本の宇土一帯の巨石や古墳にも似ています。
即位の礼の高御座、ニューグレンジの写真は、お借りしています。

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神武天皇が日本ではじめて天皇に即位したとき、その就任式である大嘗祭が「鳥見の霊畤(とみのれいじ)」で行われたと伝えられる。霊畤とは「まつりのにわ」の意。現在、桜井市と宇陀市、2つの候補地がある。桜井の鳥見山(とみさん)は、麓の等彌神社(とみじんじゃ)の御神体山。ヤマト王権のあった飛鳥・奈良盆地から見て、神仙世界の吉野に続く道の「ゲート」を、三輪山と形成する。

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初代 神武天皇から第十六代 仁徳天皇まで、一世一代、すなわち親から子へと皇位が継承され、しかも多くの場合、末子相続であったため、天皇の在位期間が長く、しかも多くの皇子の中から最も優れた方を天皇自らがお選びになられていました。
神武天皇の在位期間は80年、
孝安天皇は102年、
最も短い綏靖天皇でも33年です。
しかし、応神天皇の御代に百済を経て伝わった儒教の教えにより、「長幼の序」という観念が皇位継承にも入ってきました。応神天皇に命じられていたにもかかわらず、ウジノワキイラツコが最後まで天皇に即位なされず、兄皇子に譲ろうとなされたのがこれです。
兄弟で上になるほど、即位する年齢が高くなりますので、必然的に在位期間は短くなります。そして、葛城氏に始まる外戚氏族の登場で、兄弟に皇位を継承させる、すなわち一世で数代にわたる天皇が即位される状態を新たに発生させたのです。こうして第十七代 履中天皇からは、在位期間が極端に短くなっていきます。
履中天皇の在位期間は6年、反正天皇は5年、允恭天皇で42年、安康天皇が3年、雄略天皇が23年です。

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★活動紹介★
「倉吉は天皇家ゆかりの地」 根鈴輝雄さん
令和天皇の御即位を記念して倉吉博物館は「光格天皇の事績と、その生母大江磐代君展」(10月22日〜11月4日)を開きますが、それを前に10月14日、大江磐代君ゆかりの地めぐりがあり、根鈴輝雄さん(倉吉博物館長)の案内で約50人が打吹山のふもとの大江神社などを訪ねました。
大江磐代君(1744〜1812年)は天皇の母となった倉吉の女性です。令和天皇の7代前、江戸時代末期の第119代光格天皇の生母です。
伝記によると、磐代君(幼名つる)は倉吉の田町(現在の湊町)生まれ。父は鳥取藩の侍・岩室常右衛門、母はりん。つる9歳の時、父親に連れられて京都に上り、礼儀作法などを学びます。縁あって宮中の女官に仕え、その働きぶりが認められて閑院宮家に入り、側室となって5人の王子をもうけました。その第1子が後の光格天皇です。光格天皇は「新嘗祭」を再興したほか、朝廷の権威回復に努め、その志は孫の孝明天皇やひ孫の明治天皇に受け継がれ、明治維新につながっていったといいます。
身分制度が厳しかった昔のことです。磐代君が光格天皇の生母だと系図に載ったのは、磐代君没後65年、明治10年のことでした。母親のりんに至っては、家柄・身分などは不明のままです。田町で焼き餅を売って生計を立てていたとか、鉄問屋の娘だったともいわれています。一説には、その鉄問屋は松江城主・堀尾吉晴の末裔で、琴浦町の大庄屋・河本家や倉吉淀屋(大阪淀屋)などと親しい関係があったとも伝わっています。
さて、磐代君ゆかりの地めぐりは、大正天皇が皇太子時代に宿泊された飛龍閣―磐代君をまつる大江神社―賀茂神社―磐代君の生誕地・湊町公園−母りんの墓所・大岳院を回りました。根鈴さんによると、打吹公園は東京・日比谷公園に次いで、全国2番目にできた風格のある都市公園だったそうです。かつての倉吉は財力があり、山陰を代表する産業都市でした。ゆかりの地めぐりのこの日は、ちょうど大江神社の月例祭(大正2年4月14日創建)が執り行われ、吉田武章宮司が神事で出迎えました。「磐代君は倉吉の誇りです。倉吉は天皇家とゆかりがあります。胸を張っていきましょう」と話していました。

いきいきシニアバンク
http://tottori-ikiiki.jp/

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古代日本は外国に侵略されていた?!
初代天皇である神武天皇が日本国を建国したのが前660年2月11日(皇紀元年)であり、神武天皇の御名は、カムヤマトイワレビコノミコトでヘブライ語で「神の民であるユダヤ人が集まり建国した最初の栄光ある主」と言う意味。
なぜ日本にユダヤの王がいるのだろうか?
前722年に北イスラエル王国が滅亡し南ユダ王国にいた預言者イザヤは、国家滅亡を悟り神のお告げにより南ユダ王国のヒゼキヤ王の子をダビデ王の王系を継ぐ後継者として選び、契約の棺と神宝、祭司を司るレビ族らを引き連れ、新しいエルサレムを求め、日本に向かったのだ。その後南ユダ王国は滅亡する。(イザヤ記)
ウガヤフキアエズ朝71代の時、白人国の国王ユグトブブルが大船に乗って紀伊のミキ港に碇泊し、宇陀を支配する長髄彦を口説き落とし、天皇に交戦を挑ませた。
この戦いは32年にも及び、皇太子の五瀬王命が流れ矢に当たって殉死し、二皇子と三皇子は白人国の千人の軍兵を乗せた五十隻の大船と海戦を戦い全滅した。ウガヤ朝は存亡の危機にあった。
四皇子ヒダカサヌが皇太子になり陸戦で熊野口から入り、劣勢をしいられたが、熊野で八咫烏を皇軍の指導者とした。毒ガスなどを受け全滅しかけたが、金鵄が皇太子の弓に止まり、雷光の如く光を放ち敵軍は戦意を失い逃げ出した。ここから戦況が変わり勝利することとなる。そしてヒダカサヌが橿原にて即位し、神武天皇になった。(ウエツフミ、富士古文書)
ここで、第73代サヌを神武に付け替えが行なわれた。
根拠@ サヌ即位時実際には50歳に達していなかったが、神武の歳に合すため無理やり3歳足して51歳即位としている。
根拠A 大和遷都後、サヌからカムヤマト イワレヒコ ホホデミと御改名されたとある。つまり、別人だから。
根拠B 神武が入れ替わったためウガヤ朝が終わり、神武から初代天皇で皇紀元年と言う。記・紀でウガヤ朝が消された理由。
どこで神武が入れ替わったのだろうか?
八咫烏は、レビ族の末裔で漢波羅(カバラ)秘密組織で下鴨神社が本拠地。レビ族である八咫烏が皇軍の指導者となり、ダビデ王の王系を継ぐ後継者であるイワレビコが金鵄としてヒダカサヌと入れ替わったのだ。つまり、サヌは毒ガスで死んでいて、金鵄(イワレビコ)がその後勝利へと導き、大和の橿原の宮において、前660年2月1日即位した。

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天孫降臨の謎を解く! そのD
ウガヤフキアエズ王朝との合体
天孫ニニギの子、ホホデミが豊玉姫と結婚して生まれたのがウガヤフキアエズノミコト。ここで天皇家は幻のウガヤ王朝とつながることになる。
ウガヤフキアエズの母が豊玉姫ということは、この女性はウガヤ王家の血統を引く人だったに違いない。が、記紀の皇室系図には「海神の子」とあるだけで、その出自についてはほとんどなにも触れられていない。
・・・おそらく、「天皇家より古い家柄などあってはならない」とする記紀の編集方針により、意図的に情報が入れられなかったのであろう。ご丁寧なことに、記紀はこのウガヤフキアエズの行跡もきれいに消してある。ただ、その名前と、産屋の屋根が葺き終わる前に生まれた、というエピソードのみを残して、記紀の物語は次の神武天皇に入る。
 豊玉姫は謎の多い姫様だが、海人族の出生でもあり、ウガヤ王朝の血も引いていたのであろう。この時期、ウガヤ王朝はすでに70世代もの王を輩出する倭国最大の名家であった。臼杵という良港を擁し、綿花をはじめ様々な産品を輸出していたから、古くから海人族たちも集まり、交易の安定のために海人族とウガヤ族の間の政略結婚も頻繁に行われたはずだ。・・・数百年経つとウガヤ族=海人族のようになり、ウガヤ国一帯はのちに「海部郡」と呼ばれるほど、海人族の一大拠点となっていた。だから豊玉姫がウガヤ王朝の血を引いているのは自然なことである。・・・そもそも、その名前からして「豊の国に生まれた玉のようにきれいなお姫様」と読み下せるではないか・・。
先代ウガヤ国王は、ニニギがやってきたときからずっと、自分の娘を嫁がせたかったに違いない。だが、ニニギは熊襲のコノハナノサクヤヒメと恋に落ちて結婚してしまった・・。
「なんで熊襲なんかと!どうしてわしの娘をもらわんのかい!」と、ウガヤ王は怒ったに違いない。ニニギはそれを聞いて、「すいません。では、私とサクヤの息子には、必ずウガヤ国の姫をもらいましょう。」と約束したのではないか?・・・。
で、仲直りしたニニギはウガヤ国のすぐ近く、宮崎県高千穂に宮殿を構える。が、高千穂はいかんせん山の中で、暮らしてゆくにはなにかと不便だったので、息子のホホデミの頃にはウガヤ国の方にいることが多くなっていたかもしれない。そして、豊玉姫とホホデミの結婚を機に、本格的にウガヤ国に移った・・。
・・・ちなみに、豊玉姫がウガヤを出産した土地としてウエツフミに記されている「黒の浜」とは、現在の大分県臼杵市佐志生の沖にある「黒島」のことではないかと私は思っている。この小島は陸地から手漕ぎの船でも10分程度の距離にあり、出産を覗かれたくない妊婦が安心してお産をするには最適の場所である。・・・(ホホデミが豊玉姫の出産を覗いたら、豊玉姫は竜だったとかワニだったとか記紀に書いてあるから、そのような身体的特徴があったのかもしれない。だったら、絶対覗かれたくなかったに決まっている)。
そして後年、成長したウガヤフキアエズと豊玉姫の妹・玉依姫が結婚し、神武天皇が誕生する。この神武天皇は生まれながらにして、伽耶国、熊襲族、ウガヤ族、海人族の血を引くという、当時の倭国連合の中でも際立って「顔の利く」存在であった。神武が動けば、これらの国々も動く。これらの国々と親密な関係であった伊都国や吉備国も動くであろう・・・。倭国連合の重鎮たちが集まってナガスネヒコを討伐するための総大将として神武を選んだのは、この人のスーパー混血児としての出生の尊さによるところが大きいのである。
・・・ところで、ウガヤ王朝は74代続いたといわれる。天皇家は現在125代。初代ウガヤ王から数えると実に199代続いていることになる。・・・そして、来年即位される皇太子殿下は、ウガヤ王朝から数えると実に第二百代めの天皇陛下ということになる。なんというめでたい話ではないか!・・・。
(なお、この文章は、記紀の解釈を中心に歴史の真相を明らかにしようと試みながらも、大部分は私の想像で書いております。)

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posted by datasea at 14:32| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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