2019年05月05日

八瀬童子と天皇

八瀬童子と天皇
672年の壬申の乱(じんしんのらん)の際、背中に矢を受けた大海人(おおあまのおうじ。後の天武天皇)がその地に窯風呂(かまぶろ)を作り傷を癒したことから
「矢背」または
「癒背」
と呼ばれ、転じて
「八瀬(やせ)」
となったという。
この伝承にちなんで後に多くの窯風呂が作られているし中世以降は主に公家の湯治場として知られるようになったので、まんざらウソでないような気がするけれど、
歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されているようだ。
八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるかもしれない。
しかし、天武天皇にまつわる伝承が歴史的事実でないにしても、平安遷都以降は公家といろいろ繋がりが深かったのは事実だろう。
八瀬(やせ)は昔から御所(ごしょ)とのゆかりが深く、独特のしきたりや風習が根付いている雅(みやびやか)な土地柄である。かっては北の大原とともに 薪炭(しんたん)の生産が主な産業で、大原の大原女(おはらめ)と同じように、その炭や薪(たきぎ)を頭に乗せて京の町へ行商にいったのが八瀬の小原女(おはらめ)だ。
その様子が八瀬や大原の「黒木売、柴うり」として小唄にも描かれ、私の愛唱曲になっている。
わしが在所は 
京の田舎の片辺(かたほと)り
八瀬や大原に 牛曵(ひ)いて
柴打盤(しばうちばん)  
床机(しょうぎ)頭へちょいと載(の)せ
梯子(はしご) 買わんせんかいな
黒木(くろぎ) 買わしゃんせ エエエエ

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http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ten05.pdf#search='%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F+%E5%85%AB%E7%80%AC'
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私は、八瀬童子というのは、日本古来の伝統・文化を色濃く伝承していた部族だと思う。
その八瀬童子が天皇と関わりを持つのは、少なくとも後醍醐天皇のとき以降と考えてよい。
ひょっとすると、歴史学会では否定だれているけれど、私は、天武天皇とも何らかの関係があったのではないかと思っている。
山の民には山の民たちのネットワークがあったと考えているので、天武天皇が大津から吉野に逃げ込むとき、彼らの素晴らしい助力がないと到底成功しなかったと思うからある。
これと同様に、後醍醐天皇も彼らに助けられた。
このことは歴史学会で否定されていないし、私は間違いのない歴史的事実であると考えている。
正中の変のあと宮中に監禁されていた後醍醐天皇を助け比叡山に逃したのは八瀬童子である。
このことから、八瀬童子は宮中において特別重要な任務を負うのである。
つまり、八瀬童子は、この功績によりこのときから、地租課役の永代免除の輪旨を受けとともに、ときには輿丁(よてい)として朝廷に出仕して、天皇や上皇の御幸或は葬送の際に輿(こし)を担ぐという誠に名誉ある仕事に従事したのである。
大正元年、明治天皇の葬送にあたり、喪宮(もがりみや)から葬礼場まで棺を陸海空いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を
葱華輦(そうかれん)の輿丁(よてい)
とする慣習が復活した。
葱華輦(そうかれん)は天皇の棺を載せた輿のことであって、天皇が用いる屋上にネギ坊主(葱華)形の吉祥飾りを着けた特別の輿であることからその名がある。
明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。
この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
平成元年、昭和天皇の葬送では棺は自動車(轜車)によって運ばれることとなり、葱華輦(そうかれん)は式場内の移送にのみ用いられることとなった。
八瀬童子会は旧例の通り八瀬童子に輿丁(よてい)を任せるよう宮内庁に要請したが警備上の理由から却下され、輿丁には50名の皇宮護衛官が古式の装束を着てあたった。
八瀬童子会からは6名の代表者がオブザーバーとして付従した。
八瀬童子の要請が却下されたのは誠に残念なことである。
天皇は日本国民の象徴であり、日本の伝統・文化を守らなければならない。
八瀬童子は、日本古来の伝統・文化を色濃く伝承してきた部族の子孫であり、しかも少なくとも後醍醐天皇のとき以降天皇と密接な関係にあった人たちである。
天皇は国民といろいろなインターフェースを持つべきであり、八瀬童子のような古代からの伝統・文化を継承している人たちとのインターフェースは大事にされなければならない。
宮内庁の浅学ゆえにこのことが軽視されるのは許しがたいことである。

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小原女(おはらめ)の衣装は、地味だけれどおしゃれな着物を着て御所染めの帯をしめます。
その上にはこれまた感じのいい前掛けを絞める。頭には、古今の名歌や優雅な
図案を刺繍して四隅に絹糸の房を付けた「縫いてぬぐい」をかぶる。小原女は手甲(てっこう)や細帯、前掛けの紐などの小物に、さりげないおしゃれをしたといわれている。
これも京都御所とのつながりを偲ばせる優雅さを表しているのだろう。
さて、八瀬童子は、延暦寺の雑役に従事した童子村で最澄が使役した鬼の子孫と言われているが、平安時代から延暦寺でいろいろな仕事をしていた「山の民」の子孫のことである。
その仕事の中には天台座主の輿を担ぐ役割もあった。「山の民」というのは、多分旧石器時代、縄文時代に繋がるであろう山の人のことであり、京の都では、都人(みやこびと)と違うのはもちろんのこと、郊外の農民とも違う特別な技能を持った人々という風に認識されていた。
ひょっとしたら言葉なんかも違っていたかもしれないし、風習もいろいろと違っていたのであろう。山で生きるひとつの部族と考えて良いと思う。
日本最古の石器は天竜川流域の飯田から出土している。5万年前の石器である。
インドネシアの近くのスンダーランドから黒潮にのって渥美半島に辿り着いた最初の日本人が少しずつ数を増やし、地方に拡散していったが、そのひとつが飯田であったのではないかと、私は想像をたくましくしている。
その後九州方面と北海道方面から旧石器人が全国に拡散していくが、それらの生活の場は山である。
時代は縄文時代へと移っていくが、それら縄文時代の文化はいうまでもなく「山の文化」である。
「山の文化」は現在まで継承されてきており、毛皮や熊の胃、薬草や木の実、炭や鉈(なた)ないしは鎌(かま)など現在おなじみのものも、その基(もと)は縄文時代まで遡る。
ここでちょっと横道にそれるが、縄文文化について語っておきたい。
縄文文化が現在の日本の文化のベースをなしているので、皆さんにそれを知ってもらいたいと思うからだ。
私は、今ここで、八瀬童子を縄文文化の継承者の象徴として取り上げているが、縄文文化の何たるかが判らないと八瀬童子を尊敬の眼(まなこ)で見ることなど到底できない。
縄文文化という世界最高の文化がヨーロッパや西アジアに先駆けて4000年ほどはやくこの日本に誕生した」ということをアッピールしだしたのは,小林達雄である。
小林達雄には、「縄文土器の研究」(2002年4月,学生社)ならびに「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)というすばらしい著書がある。
彼は,「縄文土器の研究」(2002年4月,学生社)で
「少なくとも日本列島の縄文土器は,世界の先史時代における土器づくりレースのなかで、そのスタートがもっとも早かったグループの一つであることはほとんど間違いのないことであろう。」
としか言ってないが,「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房) では次のように言っている。すなわち、
『 土器の製作開始は,重大な技術的革新性を意味するのではあるが、世界のあちこちで独立して発明された訳ではない。
その多くは発明地からの伝播をうけて普及したものである。
しかし,発明地は一カ所ではなく,少なくとも三カ所はあったと考えられる。
その一は,西アジアであり、土器出現の過程が詳細に捉えられている。
9000年前頃と大方の研究者は結論づけており,その年代には今後とも大きな変動はないであろう。
その二は、アメリカ大陸であり,アマゾン河流域に 古い土器の存在が確認されている。
しかし,遡ってもせいぜい7500年程度である。よりふるい時の新発見があれば、それがそのまま新大陸において独自に土器の発見された年代更新ということになるが、いまのところ一万年の大台には決して届かないものと予想される。
その三が日本列島を含む東アジアであり,一万年をはるかに超える古さに遡り,西アジアにおける土器製作の開始年代を少なくとも4000年以上も引き離して断然古い。』
・・・と。
縄文時代に,世界最高の文化がわが国で花開いていたということである。
これは私たちの世界に誇るべきことではないか。
私は、日本の中小企業の技術は世界に冠たるものを持っていると考えているが、その源(みなもと)は縄文時代まで遡る。
否、黒曜石
の加工技術、湧別技法を考えると旧石器時代にまで遡(さかのぼ)る。
 つぎに、縄文製鉄について話をしておこう。古代東北には餅鉄という純度の高い磁性に富んだ磁鉄鉱石を使用した製鉄法があったとされ、明神平でも3600年前頃のカキ殻の付着した鉄滓が出土する。
タタラ製鉄以前の縄文製鉄があったと考えられているのだ。
縄文人は、風の強いところを選んで盆状の野焼炉を造り、餅鉄とカキ殻を入れて火をかけ、還元鉄を取り出していたらしい。
これでヤジリや釣り針を作って いたのである。
ほとんど不純物を含んでいない純粋な素晴らしいものであったと言われている。
正倉院にある「舞草」銘の無装刀は、日本刀のルーツとされているが、岩手県一 ノ瀬の舞川近くの「餅鉄」が発祥の地とされているのである。
次に、諏訪の縄文製鉄について述べておこう。
諏訪地方には御射山祭(みさやままつり)という祭りがある。
御射山祭は二百十日に先立って山上で忌籠もりをし、贄(にえ)として動物を捧げることで祟りやすい山の神を鎮めて台風の無事通過を祈願するのが本来の目的だったという。
諏訪の神はもともと風よけの神として信仰されていた。諏訪大
社には薙鎌と呼ばれる風封じの神器がある。
これは五行説の
「金克木(きんこくもく)」
に基づいた思想で あるといわれている。
火克金(火は金を克する)、
金克木(金は木を克する)、
木克土(木は土を克する)、
土克水(土は水を克する)、
水克火(水は火を克する)
というが、克(こく)するという意味は、制御するという意味である。
つまり金気である鉄鎌を、木気である木に打ち込むということは、間接的に木気である風を封じこめようという呪法なのだ。
南信濃村でも、九月一日には各家で草刈り鎌を竿の竹の棒に縛り付け、軒先につるす風習があったという。
法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌は諏訪大社で製鉄された鎌が起源であり、鎌が風を切るという風除けのまじないである。
法隆寺の鎌はもちろん鉄で作られており、諏訪大社の鎌は縄文製鉄で作られた。
製鉄の材料は高師小僧というが、それは上流の山々から流れ込んでくる酸化鉄が諏訪湖の葦の根元にくっつき、大きく成長したものである。
水中に入り葦の根っこを刈り取って葦を抜くと穴の空いた竹輪みたいなものがとれる。
それが高師小僧である。
その遺物は豊橋市の高師原で発掘されたので高師小僧と呼ばれている。
さて、縄文土器と縄文製鉄で大事なのは、いうまでもなく鉄の材料となる鉱物とそれを還元する「炭」である。
時代が下ってタラ製鉄の時代になっても同様である。
柳田国男は次のような趣旨のことを言っている(「昔話と日本人の心」河合隼雄、1982年2月、岩波書店)。すなわち、
『 炭焼きはなるほど今日の目から、卑賤な職業と見えるかもしれないが、昔はその目的が全然別であった。
炭は他タラ製鉄にも使われるが、その技芸は普通の百姓の到底及ばぬところであった。まさに神業である。』
・・・と。炭焼きは「山の民」のみができる技術であって、これは縄文時代の技術が継承されたものである。
この縄文時代からの技術が連綿と現在までつづいてきて、最近では、私が高機能炭と呼ぶ誠に不思議な炭を生み出している。
高機能炭とは私が勝手にそう呼んでいるのだが、その不思議な炭については、「炭は地球を救う」宮下正次、2002年3月、リベルタ出版)と「炭がいのちも救う」(2005年5月、リベルタ出版)を是非読んでいただきたい。
私がここで言いたいことは、「山の民」の技術が現在にもなお生きているということだ。
さらに縄文文化との関連で申し上げたいことがもうひとつある。現在、北海道に限らず内地でも熊の被害が絶えないが、人と野生動物の共生がまったく忘れられてしまっている。
21世紀の日本は共生社会を作らなければならないが、野生動物との共生を象徴するものとしてどうしても熊との共生を図らなければならないのである。
それには縄文人の知恵に学ぶことだ。
縄文人の知恵に学ぶため、北海道の羆(ひぐま)について、私の長男・岩井基樹が人生をかけて研究しているので、熊のことは岩井基樹に聞いてほしい。
「熊のことは熊に訊け」(岩井基樹、1910年10月、つり人社)を是非見てほしい。

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八瀬童子(やせどうじ)
2008/9/21(日) 午前 1:37
2008年9月21日(日)
八瀬童子(Wikipedia):
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%80%AC%E7%AB%A5%E5%AD%90
八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は京洛北八瀬郷(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、室町時代から天皇の輿丁として奉仕した人々のこと。
延暦寺の雑役に従事した童子村で伝教大師最澄が使役した鬼の子孫とされる。
寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。
現在、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められている。
また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせている。
葱華輦の輿丁:
猪瀬直樹の『天皇の影法師』で紹介されて以来、歴代天皇の棺を担ぐ者として有名になったが、実際には後醍醐天皇以降の全ての天皇の棺を担いだわけではなく、特に近世においては長く断絶した期間もあった。
大正元年(1912年)、明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習が復活した。
明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。
この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
平成元年(1989年)、昭和天皇の葬送では棺は車輌によって運ばれることとなり、葱華輦は式場内の移送にのみ用いられることとなった。
八瀬童子会は旧例の通り八瀬童子に輿丁を任せるよう宮内庁に要請したが警備上の理由から拒否され、輿丁には皇宮護衛官が古式の装束を着てあたった。
八瀬童子会からは数名の代表者が車両から葱華輦に棺を乗せかえる際などにオブザーバーとして関与するに止まった。

ドラゴン忘備録 パワースポット、世界の謎と不思議
https://blogs.yahoo.co.jp/reddishtiger2000/44419137.html?__ysp=5YWr5ZKr54OPIOWFq%2BeArA%3D%3D









八瀬天満宮
菅原道真公を祀った八瀬の産土神(うぶすながみ:その土地を守護してくれる神さま)で、道真公の仏教の師であった比叡山法性坊の阿闍梨、尊意が、道真公没後に勧請したものといわれます。
北野天満宮よりも歴史が古いという伝承もあり、道真公が尊意に教えを請う為、比叡山に登った際に腰を下ろしたと伝わる「菅公腰掛石」があります。
また、後醍醐天皇が足利軍勢から逃れた八瀬坂跡を示す石碑や、弁慶が比叡山から持って降りてきたとされる「弁慶の背比べ石」などがあります。
境内には9つの摂社が祀られ、その内の秋元神社で行われる「燈篭祭」では、京都市登録無形文化財に指定されている
八瀬赦免地踊(しゃめんじおどり)灯籠踊(とうろうおどり)
が行われます。
比叡山の観光に、京都、出町柳から比叡山山頂、京都八瀬をつなぐ叡山ケーブル・ロープウェイ

叡山ケーブル・ロープウェイ
https://eizan.keifuku.co.jp/guide/detail.php?id=12



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posted by datasea at 10:00| Comment(0) | ◉ 日本神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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