2019年03月25日

任天堂ヒストリー: 六波羅探題と任天堂


本稿はサイト「Farthest Guru」のコピーです。
Geocities終了のため,魚拓の意味で転載します。
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■六波羅と東福寺,任天堂
六波羅探題をご存じでしょうか。
この六波羅と任天堂のちょっとした因縁(ゆかり)をお話します。
“六波羅”とは,もと“六原”と呼ばれた地名です。
平安京の東,鴨川の五条橋を渡った,辺り一帯に広がる土地を指します。
六道絵図 平安時代,京で人が亡くなると,遺体を葬る必要がありました。
その墓地に選ばれたのが,東の果てに広がる鳥辺野です。
人が亡くなると,遺骸は平安京を抜け,鴨川・五条橋を渡り, 六原を越えて珍皇寺の前を通り,鳥辺野へと運ばれます。
珍皇寺前の辻は,「六道の辻」と呼ばれ, "此の世"と"あの世"との境界−彼岸への入り口−と意識されていました。
「六道」,当時は人間が死ぬと,己の罪業に従い六つの道
−地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上−,
いずれかへ生まれ変わると信じてられていたのです。
このころの六波羅は,あの世(六道)へと続く寂寥の河原でした。
平安時代も終わりに近づくと,武士達が活気づき始めます。
まず平忠盛が,ここ六波羅に居を構えます。
やがて この地域には,平家一門の邸宅が広く分布し始め, 院政期にもなると数千の平家一族・親族の家々が建ち並びます。
六波羅は平家の拠点地域となるのです。
清盛の時代栄華を極めた平家ですが,源氏との戦いに破れると,無惨にも都落ち, 六波羅一帯は空き家と化します。
鎌倉に幕府を開いた源氏は,この空白地に, 京都朝廷に拮抗し権勢を保つための政庁・京都守護を設けます。
が,1221年,承久の乱(上皇の幕府打倒クーデター)が勃発。
これを機に従来に代わって“六波羅探題”が置かれるのです。
“六波羅探題”とは,幕府(武家政権)による朝廷監視機関であり,西国への政務機関だと 言われています。
とはいえ,この探題,今でも謎に包まれているとか。
と言うのも鎌倉幕府の滅亡と共に探題自体が消滅してしまったから。今は跡形もありません。
かろうじて名ごりを残すのが,東山・東福寺に移築されたと伝えられる大門です。
六波羅から鴨川に沿って南へ下ると,三十三間堂が,それを横目に九条通りを越えたころ,大本山東福寺に辿り着きます。
“東福寺”は,摂政・九条道家によって創建された禅宗寺院です。
藤原一門の貴公子・道家は早くから仏への帰依を志し, 奈良の東大寺・興福寺に次ぐ大伽藍建立を誓います。
そして1255年,禅僧・聖一国師を開山に,京都最大の伽藍・東福寺が創建されます。
東福寺・六波羅門 東福寺は室町時代,禅宗の発展により隆盛を極めました。
が,戦国の世に入ると応仁の乱などで荒廃,存亡の危機に。
それも安土・桃山,江戸時代と徐々に復興を遂げ,近世を迎えます。
19世紀末,明治維新。
廃仏毀釈・合廃寺の制令が宗教界を襲い, 寺領は国に返納され,東福寺も苦難混迷の時代に。
そして1902年,ロシア戦争が勃発。
東福寺は日本軍兵士の掩留地となり, さらに翌年,ロシア兵捕虜の収容所として寺院全山が使われることとなりました。
■東福寺誌から 〜日露戦争時〜
明治37年
2月20日,日露宣戦布告さる,東福寺等にて17日間戦勝祈祷を修す。
3月9日,歩兵大隊編成の為め,此より36ヶ月間,1400の兵士,東福寺全山に掩留す。
3月,東福寺より出征軍へ護身符を頒ち,京都全市の戦士遺族へ葩料を贈り弔ふ。
明治38年
正月3日より翌月19日迄,國民軍編成の為め800の兵士,東福全山に掩留す。
3月23日より同12月28日迄露国俘虜兵1504人の収容所として東福全山を徴發せらる。
(*徴發・・・軍が強制的に人民の所有物を取り立てること)
引用元・・・東福寺誌(発行所・思文閣出版 著作権者・大本山東福禅寺),1212〜1213p
■任天堂骨牌の創立
1889年,任天堂骨牌の創立。
東福寺の北西,鴨川の七条大橋を渡ると,中世に建立された宮廷侍医の居宅があります。
そこを明治に生きた工芸家・山内房治郎が買い取り,花札屋を創業するのです。
房治郎は優れた腕を持ち,同時にハイカラな気風に富む職人でした。
創業当初,花札を主にカルタ類の製造・販売を行っていた彼ですが,やがて新製品を希求し始めます。
そんな折りの1902年,日露戦争が勃発し, 東福寺が日本兵の掩留地となり,翌年ロシア兵捕虜の収容所となると, 彼はロシア人らの慰安用としてトランプの製造を行うことになります。
そして4年後,房治郎は一般に向け本格的なトランプの製造・販売を開始します。
これは国産初のトランプであり,この時任天堂はトランプの市場を開拓,独占の旨味を知るのです。
次いで花札でも全国制覇。
ここら辺に現在の任天堂の原点が見え隠れします。
常に新しく異端なものを希求する。
時代の半歩先を行き,独走し,市場を独占する。
これが娯楽の世界を生き抜く秘訣であり, その後の任天堂の企業体質となっていったのではないでしょうか。
独創を優れた匠技で支え,周到な計画を大胆な博打精神で行う。そして独占する。
それが“任天道”なのかもしれません。
任天堂の原点を創ったトランプは,東福寺を辿り,遙か過去の六波羅へ。
そこには,彼岸の河原にて天道へと彷徨う"御霊"があります。
六原から天道へとつづく道のりは,一千年を経て,任天堂にも受け継がれるのです。

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■京都の一隅,花札屋
任天堂の歴史は,日本の古都は京都より始まる。室町時代, 聖護院御殿(天皇の夏の御所)前にあった居宅を,明治に生きた一人の職人が買い取り,店を開く。
【 明治の古都,花札工芸家 】
任天堂の創業は1889年(明治22年)9月23日。
名高い工芸家であった山内房治郎氏(現在の山内溥社長の曾祖父)が,
「京都市文京区正面通り大橋西入る」−京都の北東部,平安神宮近く−
の地において 「任天堂骨牌」を創立,花札の製造・販売を開始したのがその歴史の始まりである。
温厚な彼は森羅万象の魂を畏敬し,自然と懸命に闘い,「花札」という形へ昇華させた。
古くからの伝統技法に従い,ミツマタの樹皮を叩いてほぐし,粘土を少し混ぜ,それを漉いて乾燥させる。
そして出来た紙を成型し,何枚か重ねて厚く硬い板紙を作る。
自ら製作した木製の印刷器を押し当て,花札の輪郭を打ち出す。
そこへ合羽版を当て,開いた穴に花弁や果実で作った絵具を塗り付ける。
図柄が絵具で埋まっていくと,色彩豊かな絵−日本の季節感,自然感の組み合わせ−がとても美しく浮き上がる。
房治郎はその花札の裏に「大統領」の印を押して自分の花札の象徴とした。
彼の花札は京都と大阪で販売され,それらの地域では最も高い人気を誇った。
そして,花札がいつしか賭博場で使われるようになると,それに合わせて事業も大きくなる。
「大統領印」
の花札がもつ色艶・打ち音は極道の気高い美意識に適ったし,プロの博打打ちは, 勝負の度に新しいのを下ろしたから,任天堂骨牌の花札収益はどんどん伸びていった。
しかし房治郎はここで満足せず,更なる事業展開を行う。
1907年(明治40年),日本で初めて(2年前に外国から輸入されていた)トランプの製造に踏み切る。
と同時に,販売市場の拡大化を模索する。
そこで目をつけたのが,当時全国的な流通網を持っていた国営企業「日本専売公社」(タバコ産業)だった。
タバコの箱と花札・カードのケースがほぼ同じ大きさだった事,
花札は主に賭博場で使われており,そこでは同様にタバコもよく吸われていた事,
なにかと都合がいい。
日本専売公社と交渉を成功させ,結果,任天堂骨牌の花札はタバコ流通に乗って全国で販売されることとなる。
そしていつしか「大統領印の花札」は全国的なブランドへ成長し, 花札を(賭場だけでなく)大衆の間にも広く浸透させていくことにもなった。
任天堂骨牌は初代房治郎が隠居する頃には日本最大のカード会社へと成長していた。
「任天堂」社名の由来
房次郎がつけた「任天堂」という社名,今となってはその由来は分からない。
「一生懸命やるが,最後にはその成否を天に委ねなければならない」という意味だろうか。
中国の故事成語「人事を尽くして天命を待つ」から取られたという説もある。
現在の任天堂の社史には
「人生一寸先が闇,運は天に任せて,与えられた仕事に全力で取り組む」と記されている。
■合名会社「山内任天堂」設立
【 二代目積良 】
房治郎には跡継ぎとなる息子がいなかった。
そのため娘の婿養子として, −勤勉実直な青年−金田積良(改め山内積良)を迎え,跡取りとした。
1929年(昭和4年),山内積良が任天堂骨牌の二代目社長に就任する。
彼は,家業の他に不動産業にも熱心で,京都は東山地区の土地を入手していく。
1933年(昭和8年),
合名会社「山内任天堂」
を設立。
本店を鉄筋コンクリート構えの建物へ移した。
1947年(昭和22年)に
株式会社「丸福」−卸専門の子会社−
を設立。
かるたやトランプの製造販売を始める。
同時に彼は,社内体制の近代化・合理化を行い,生産能率を上げ経営効率を高めた。
社員達は厳格な上下階層の中で,激しい業績争いにしのぎを削った。
【 念願の男の子誕生 】
積良と妻との間に生まれた子供も先代同様,娘ばかりだったため, 三代目の跡取りとして,長女の婿養子に−工芸家の家に生まれた−稲葉鹿之丞を迎え入れた。
1927年,鹿の丞と妻との間に男の子が生まれる。
任天堂創業以来(山内家三代にして)初めての息子には, 博(ひろし)と名付けられた。
博が5歳の時,3代目として跡を継ぐはずだった父,鹿の丞が突如出奔(蒸発)してしまう。
博は母親からも離され,祖父母の元で育てられる。
博はおばあちゃん子で,なんでも好きなようにさせてもらった。
慣習に倣って厳しい教育も受けたが,跡継ぎとして甘やかされ,自由に伸び伸びと育てられた。
彼は生意気でひねくれてもいたが,新しい物好きで,好奇心旺盛な子に育っていった。
1940年,博が中学校生の頃戦争が始まる。
彼は学徒動員によって軍需工場で働いた。
1945年,敗戦とともに, 博は
「なんとなく遊びに行きたかったから」
との理由で京都を離れ,東京は早稲田大学へ。
祖父が孫のために購入した渋谷の松濤(高級住宅街)の豪邸に移り住む。
学生生活は,勉強はそこそこに毎日のように遊びに出かけた。
ビリヤードに熱中し,月に数回はレストランでステーキを食べワインや酒を飲んだ。
京都の金持ち社長の息子として花柳界でも有名な彼は,贅沢で羽振りのいい自由奔放な学生生活を送っていた。
しかしまもなく転機が訪れる。祖父積良が病に倒れ危篤,死の床に伏す。
彼は急遽京都に戻り,三代目社長として家業を継ぐことになる。
彼がまだ若干21歳の時のことだった。

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■カラーTVゲーム機の開発
任天堂のフィロソフィー
ミスタービデオゲーム
1970年代の任天堂は,何時潰れてもおかしくない状態だった。
巨大な負債を抱えて四苦八苦していた。
そんなおり,暗いトンネルの向こうに広明が見え始める。
【 カラーTVゲーム機の開発 】
1970年代中頃,三菱電機からカラーTVゲーム機開発の要請がくる。
実は三菱電機は他社と開発を進めていたのだが,そこが倒産。
宙に浮いたプランの引継要請だった。
山内社長は「カラーならいけそうやな」と感じ,即座にこの話に乗る。
1975年(昭和50年),三菱電機と提携しテレビゲームの開発を開始。
山内社長は「値段さえリーズナブルなら絶対いける」と, 初めに販売価格ありきでそこから原価を割り出させた。
他社の先行機が2万円以上だったため, 「1万円を切りなさい」と指示。
担当者(上村)が三菱と折衝に折衝を重ね,最終的にある方法で解決する。
1977年(昭和52年),ポンなど簡単なビデオゲームを楽しめるソフトを内蔵した
「カラーTVゲーム6」
「カラーTVゲーム15」
を発売。
実はこの2つ,中身は全く同じだった。
「6」にも「15」にも15種類のソフトが内蔵されており,
「6」の方は全15個のゲーム切り替えスイッチの内9個を潰しただけ。
それを9800円で売り(これだけだと赤字), 「15」はそのまま15000円で発売する,
「6」を目玉,「15」を本命として売り出す(山内が決断した)博打的戦略である。
結果そのもくろみは成功。売れた100万台の内「6」より 「15」の方が圧倒的に多かった。
この時期,これらに加え,他にもソフト内蔵型家庭用ゲーム機を発売している。
ソフト内蔵型家庭用TVゲーム機
テレビゲーム15 (C)Nintendo
15の内訳は, テニス・ホッケー・バレー,ピンポンの他に射撃。
ブロック崩し (C)Nintendo
基本版と様々なアレンジを施したもの, 全6種のブロック崩し。
レーシング112 (C)Nintendo
ハンドルとギア付きのレースゲーム機。
設定変更,2人同時Pも。
任天堂は発売に当たって,元の単純なゲームに独自のアレンジ
−バラエティに富む遊び方,タイムアタックや多彩な対戦形式−
を施した。 そしてまた人気を得た。
こうして任天堂は家庭用TVゲーム機の世界に参入を遂げることとなる。

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■山内社長,改名す
1977年,山内が50歳を迎えた頃,彼は名前を「博」から「溥」へ改名している。
理由は定かではない。が,ある話によると,彼がある時用事で電話帳をめくっていたところ,
「山内博」という自分と同姓同名の人があまりに多いのに気付いて,だという。
これも彼の直感が成せたのか,任天堂はこの時期から徐々に好転し始める。
山内社長が改名した理由
山内社長は1977年(満50歳を迎えた時),名を“博”から“溥”へ改めています。
彼はその理由を
「電話帳をめくっていたら,あまりに同姓同名が多いんで, しゃくに障って他人と違った字を探したんや」
と語っていますが,これは全く京都的な弁舌でしょう。
京都人の性格として,なかなか本心(内側)を見せない,というものがあります。
町家の構造(ウナギの寝床)からも伺い知れますが, どれも間口が狭く奥行きが深い。
表は簡素,千本格子で中は伺い知れず, 大事なものは奥深くに仕舞い込む・・・。
うなぎの寝床。上は外見,下は内部構造。
こうした京都人の特質(自衛の智恵)を山内氏も受け継いでいると思われます。
例えば彼は,
「わたしはファミコンなど触ったこともない」
としばしば言う。
でもそんな筈はない。彼の発言の裏にはTVゲームへの深い造詣が読みとれるから。
「何にも知りまへん」
という京都人が,実はよっぽど博識であったりするのと同様,
言葉のなかに,"嘘"というより,"建前"と"本音"が巧みに織り込まれているんです。
では,山内氏が改名した本当の理由とは何でしょうか。
「電話帳をパラパラめくっていたら・・・」,これは見事な"建前"ですね。
実のところはもっと別の,本ではあるけど,もう少し高尚なもの・・・例えば彼の趣味・・・
たぶん私は(これは賭けですが), 彼が改名したきっかけは,囲碁の世界の奧深く分け入った所にあると思います。
そしてその場所で,碁にまつわる誰かの言葉を聞いた。
もとより「囲碁」は,古代中国(東周),春秋時代に生まれた盤上遊戯です。
当時を代表する思想家は孔子でしょう。
山内は師の著作を読み,改名を決めたのかもしれません。
何故なら,孔子は事在るごとに「博」を戒めているからです。
「博」とは,時によって博戯一般(双六・碁など)を指したり, そのまま博打(賭博全般)の事だったりしますが。
師は著書『論語』の中で,博戯や博打に耽り,周囲を顧みない者を強く叱咤します。
その言葉が,「君子不レ博」 −博戯・賭博は君子のすべき事ではない−です。
「君子不レ博」,“博”では優れた君子にはなれない。
また一方で私は,孔子が編纂した歌集を紐解いてみました。
そして中国最古の歌集『詩経−小雅・北山篇−』にこんな詩を見つけました。
「溥天の下,王土に非ざるなく,率土の浜,王臣に非ざるなし」
(あまねく天の下は,王の領地でないところはなく, 地の果てまで王の臣下でないものはいない)
・・・春秋時代に栄華を誇った周王朝の強大な王権を謡ったもの。
「溥天の下,王土に非ざるなく・・・・」,
この詩は碁の世界に通じます。碁の打ち手は神となり,盤上大地を支配する。
「溥天の下・・・・」
そう“溥”。天上から己の築き上げた帝国を眺める王。
山内社長はこれを見たとき,名を“博”から“溥”へ改める決意したのかもしれません。
それは同時に自ら手掛ける娯楽業界に一大帝国を築き上げる決心に他ならない。
そういえば僅か2歳で即位した清朝最後の皇帝の名もまた,“溥儀”でした。
そもそも山内氏は,僅か22歳で就任したボンボン社長です。
相当な苦労があったでしょう。曾祖父の血を濃く引き才覚に優れた彼は, トランプで一山当てるものの,その後経営は難航,任天堂は幾度も倒産の危機に陥ります。
次代を予知するも多角化経営は失敗し,娯楽玩具の大ヒットも急速にブームは廃れる。
あらゆる英知を結集した「レーザークレイ」はオイルショックで借金の山に変わる。
人事を尽くしても運命に翻弄される。
こうした会社経営を通じて,彼は強く感じていきます。
娯楽業界そのものが「うたかた」(虚業)であり,「天国か地獄,間のない世界」・・・
「丁か半か」。陰陽二元の考えは,賭博の世界に通じます。
京都の基盤の上に芽吹いた任天堂は,「花札」から娯楽業界に身を投じ, 山内家は三代にして初めて生まれた男子に,
"博"
と名付けた。その瞬間から彼は, "博奕打ち"としての宿命を背負い,因果の中を輪廻し,楽土と地獄を行き交った。
もがき,苦しみ,やがて「任天」,これしかないと悟った時,彼は50歳を迎えていました。
そして改名とともに任天堂の未来をイメージし,精緻かつ大胆にプランニングした―――
「五十而知天命」・・・五十にして天命を知る,孔子の有名な言葉です.
人間五十年・・・
蛇足になりますが,"五十","天の下"と聞いて思い浮かべるのが織田信長です。
彼が横死した本能寺は,任天堂の北へ約3キロ,鴨川沿いを行った所に在ります。
"天下布武"の覇業を成し遂げんとした信長は1568年京に入り,東福寺を最初の陣所とし, やがて妙覚寺,清水寺などを転用しつつ,
1582年6月2日本能寺に止宿します。
そしてその夜,家臣・明智光秀の来襲にあい,自刃し果てるのです。
「人間五十年,下天の内を比ぶれば,夢幻の如くなり」。
天にこだわり,常に天から現世を捉えた織田信長,天下布武の覇業はここに挫折,壮年49歳でした。
山内社長が改名の時期を満50歳とした理由は,ここにも見えるような気がします。
もちろんこれは,私の手前勝手な想像に過ぎません。
しかしながら,それにしても不思議ではないでしょうか?
全く,この改名を転機に任天堂は,天地の輪廻から脱して軌道を乗り,
「ゲーム&ウォッチ」,そして
「ファミリーコンピューター」
へと見事に脱皮,大躍進を遂げるのです。
単純に見れば,その成功の背景には,山内社長の博識や直観力,囲碁で培った支配への兵法,
そして博奕的な大胆さ,そして何より「運」の強さが挙げられるでしょう。
しかし私は,その裏に山内の孤高の決心を見る。
“博”から“溥”へ。
それが,今日の任天堂の繁栄をつくったとしたらどうでしょう。
「電話帳をめくっていたら・・・」,この言葉に不思議な趣が伴いませんか。

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■業務用ビデオゲームに進出
【 業務用ビデオゲームに進出 】
1978年(昭和53年),タイトーの業務用ビデオゲーム「スペースインベーダー」が発売,
翌年,日本中がまるで熱病に侵されたようなインベーダーブームに。
老若男女,子供からサラリーマンまで皆がこのゲームに熱中し,ブームは日本列島を席巻した。
(日本のゲーム業界はこれを起爆剤として,がぜん活気づいていく)
山内はこの「スペースインベーダー」を見て
「私が求めていたのはこれだ,と思った」。
山内が求めていた「エレクトロニクス技術を応用した娯楽」。それがここにあったのだ。
任天堂は家庭用に力を注いでいたためブームに乗り遅れたが, それでも
「スペースフィーバー」
なる亜流版をリリースし大きな収入を得,業績をひとまず回復する。
その「スペースフィーバー」を初陣として,任天堂は業務用ビデオゲームの分野に進出,
「ヘリファイア」「シェリフ」「スカイスキッパー」,そして「レーダースコープ」・・・
任天堂の開発陣は次々とビデオゲームを作りだしていく。
宮本茂,任天堂に就職
1977年,宮本茂が任天堂に入社した。
彼は任天堂を選んだ理由をこう語っている。
「当時の任天堂ていうのは,花札やトランプはもちろん,アーケードのゲームを作っていたり,
そうかと思うと家庭用のディズニーのボードゲームを作っていたりした。
それ以外に ひとつヘンなジャンルがあり,そこは家庭用の 光線銃で遊ぶゲームや,家庭用のコピー機,ベビーカー,文具など,いろんなヘンなものを作っていたんですよ。 で,僕は勝手に,トランプで儲かってるから,その余力でヘンなもの作ってる会社なんだと思った。 ここなら,ヘンなものを企画したときに商品にしてくれそうな会社じゃないかなあと思って 選んだんです。」
宮本の父の友人が山内溥氏の旧友だったことから,山内と直接面接を行うチャンスを得る。 彼は画帳と大きな袋を持参して,「幼児用ハンガー」や 「遊園地用の奇抜な時計」 「子供が3人同時に乗れるブランコ付きのシーソー」(イラスト)を取り出して説明をした。それを見た 山内は,(絵描きはさし当たって必要なかったが)彼の持つ豊かな独創性に魅力を感じ採用する。
そして入社した宮本。「ところが,入社してみたらトランプは思ったほど儲かってなく, そのヘンなものの赤字がかさんでかなり危険な状態だった(笑)」という状況。
当時の彼に任せられた主な仕事は, ちらし等印刷物のデザイン,カルタの版下貼り, ゲーム機の筐体のデザイン(上述の「ブロック崩し」は宮本が手掛けた)等だった。
【 NOA創立 】
1980年(昭和55年),ニューヨークはマンハッタンに現地法人
「NOA」−Nintendo Of America−
を創立。 代表取締役社長には,山内の娘婿である荒川實が就いた。
それまでの任天堂は自社のゲームを現地の他会社にライセンス供与する形で売っていたから 利益が少なかった。
これからはNOAが輸入して販売していけばいい。
とはいえ,NOAは設立してからしばらく業績が低迷していたから, 荒川社長は,サンプルテストで好評だった
業務用ゲーム機「レーダースコープ」
を大量に売って 事業拡大を促す計画を目論む。
そして資金のほとんどをつぎ込み,「レーダースコープ」3千台を注文。
しかしその「レーダースコープ」,4ヶ月の船便輸送の間に完全に飽きられてしまっており, 全然捌けずに2千台も売れ残ってしまう。
在庫処理に困った荒川社長は,ゲーム機本体はそのままで,ロム基盤だけを替えて売ろうと考える。
そこで本社に,「新しいゲームを開発してその基盤だけ送って欲しい」と要望。
と同時に日本から一番近く輸送が近い地域,西海岸はシアトルへNOAの居を移した。
【 ミスター・ビデオゲーム 】
NOAから新たなロム開発の要請を受けた本社任天堂。
しかし開発陣は皆他の仕事に追われており 技術者にもプログラマーにもそんな余裕はなかった。
横井の「デザイナーに作らせたらどうか」という提案により, (金沢工業大学から)入社4年目のデザイナー,宮本茂が仕様書を任されることになる。
最初の構想はゲーム&ウォッチ(次章で解説)のポパイゲーム。
横井が「工事現場,下にポパイ,上にブルート」と原型を,
「樽が上から転がってきて避ける」
と宮本がアイディア, 更に
「樽を飛び越せるようにしろ」
と横井がアレンジ, 転がる樽をボタンでジャンプし飛び越すルールに。
更にゲームにストーリー性(ラブロマンス?)を加味した
−主人公はお姫様を助けるために困難を越えていく−
,そして ストーリーとルールが一目で分かるようなデモシーンも作った。
後に「ポパイ」の版権がお流れになると, 宮本が−限られたドット絵で特徴を出すため
「作業服に帽子,団子っ鼻にヒゲのキャラクター」
を創る。
開発者達に「おっさん」と呼ばれたこのキャラクター, 宮本の書いた企画書のイラストには
「Mr.Videogame」
と命名された。
(後にNOAの社員によって「マリオ」と名付けられる)
【 ドンキーコング 】
半年後,完成したゲームのタイトルは,
「ホンキーコング」「クレイジーコング」 「ドンキーコング」(まぬけなゴリラ)
の中から,任天堂の社員が選び, その題名で基盤に焼き付けた。
そしてアメリカは西海岸へと船便で送られる。
1981年,アメリカで「ドンキーコング」発売。
プレイヤーは,大工のマリオを動かし,恋人を「まぬけなゴリラ」から救出する。
プレイヤーは様々な妨害を越えて,美女の元へ急ぐ。
ラブストーリー性,ルールが一目で分かる事,そして面白い事。
殺伐とした戦争ものが多い中でこのゲームは異彩を放った。
このゲームは徐々に人気を博し,やがて大ヒットを記録する。
2000台の「ドンキーコング」は見る見る内に完売となった。
荒川はこれはいけると 更に数千台を追加注文。
それも完売,また追加・・・
最終的に6万台を売ることになった。
NOAは創立2年目にして
1億2000万ドル(約400億円)
の売り上げを記録,破産同然の身から一転,完全に軌道に乗る。
「ドンキーコング」の権利をタイトーに?
ドンキーコングを見た日本企業の
「タイトー」(スペースインベーダーを作った会社)
は 「ドンキーコングの権利を全て買いたい」と多額の金額を提示してNOAに申し入れをしている。
(まだこのゲームがさほど売れていない時期のこと)
荒川は熟考の末,結局タイトーに権利を売らない方針を伝えた。
結果的にドンキーコングはバカ売れし, 今の利益でなく将来の利益を取ったこの判断が正しかったことを証明した。

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■家庭用ゲーム機の開発
任天堂のフィロソフィー
ファミリーコンピュータ
「ゲーム&ウォッチ」の世界的な大ヒットで資産を蓄えた任天堂。
やがてその力をアーケードゲームへ移行、
「ドンキーコング」シリーズ、
「マリオブラザーズ」
「アイスクライマー」
「レッキングクルー」
「バルーンファイト」
等ヒット商品を生んでいく。
こうして任天堂はゲームのソフト・ハード両輪の力を養い、ノウハウを積み重ね、 そして新たな「マルチソフト型家庭用ゲーム機」の開発を始める。
【 アタリVCSの成功から 】
1977年にアメリカでアタリが発売した家庭用ゲーム機「アタリVCS」は 1980年代に入ると爆発的な大ブームを呼び、
82年までにアメリカで1500万台の普及を記録した。
それは「カセット式」を採用した家庭用ゲーム機で、カセットを変えれば また新しいソフトが遊べるような仕組みになっている。
任天堂の手掛けてきた「ソフト内蔵方式」ではない。
中途半端な機能性(弱い映像・音声表現)もあり
『こんなもん、日本では通用せえへん。』
と低い評価をしていた 山内社長も、この大ブームを見て考えを変えることになる。
1980年頃から日本・アメリカの玩具・家電メーカー各社が家庭用ゲーム機を相次いで発売 し、
家庭用テレビゲーム市場は、戦国時代(乱立状態)を迎えていた。
当時の日本ではパソコンが一般の人々に渡り始めた頃で、どの企業も テレビゲーム機のコンセプトにパソコンとの関わりを考慮に入れた。
キーボードを付けたり、プログラムが組めたり、ゲームだけでなく 汎用性も持たせたから、それら「ホビー用パソコン」の 価格帯は4〜5万円が主流だった。
【 家庭用ゲーム機の開発 】
『少なくとも他社が一年は追随できないものを作れ。』
これが新たな「家庭用ゲーム機」開発に当たって、山内社長の与えた至上命令である。
これを実現するには、(競合各社と比較し)技術・価格両面で画期的でなければならない。
しかも山内が設定した目標価格は、9800円。それでいて機能でも他社を凌駕せよ、と。
新しい家庭用ゲーム機
−開発コードは「ヤングコンピューター」−
の ハードウェア開発は、開発二部部長、上村雅之が担当する。
・・・徹底的なコストダウンと優れた機能性・・・。
上村はまず、他社のゲーム機を研究した。
どれも様々な長所があったがゲームに直接関係ない部分が多い。
彼は宮本茂らデザイナーを始め業務用ゲームの開発チームと協力し、 ゲームに必要なエッセンスを見極め、 それに必要な機能に特化させる事にした。
中央演算装置(CPU)は価格の面から8ビットに決定。
当時アップルコンピューターに使われていたCPUー6502を選択。
画像処理用のチップ(PPU)には専用ICを開発。
色数・スプライト数・ 処理スピードの実験を繰り返しては修正し、最大数を決めていった。
「スタジアム」
この家庭用ゲーム機の開発者達はこれを「スタジアム」と呼んでいたという。
「スタジアム」・・・家庭でいろんな人たちがいろんなゲームで遊べる競技場・・・。
言い換えれば、「家庭用ゲームセンター」、ゲームセンターのゲームが遊べるゲーム機。
そんなコンセプトに乗っ取り、ソフトウェアを軸にしたハードウェア開発が行われた。
1982年(昭和57年)、TV画面を256×240に分割、
一つ一つのドットに54色の制御ができる 当時の業務用ゲーム機並のゲームを再現できるカスタムチップを開発。
チップ開発提携先の「リコー」と価格交渉。「納入価格2000円以内」には難色を示すが、
山内社長の『2年間で300万個の購入を保証してやりなさい』との言葉にリコーは要求をのみ、 15000円を切る本体価格が実現した。
筐体とコントローラーは、横井率いる開発一部が担当。
筐体には原価の安い赤と白のプラスチックを使ったデザイン、
方向指示パッドには、丈夫でコストの安い「十字キー」が採用され、 ボタンを2つ置き、 2つのコントローラーの内一方にはマイクロフォンを付けた。
83年に入ると、ゲーム機の価格帯は2万円前後が主流を占めるようになる。
しかし、トミーやセガはパソコンの概念から抜け出すことができなかった。
バンダイは万全を期して「アルカディア(高速船)」を発売する。
1983年(昭和58年)5月、発売に先立ち、山内社長の初心会(問屋業者会)演説。
「この『ファミリーコンピュータ』と名付けた新しいゲーム機器の値段は、 一万四千八百円とします。
実を言えば、この値段ではうちは大して儲かりまへん。
問屋はんにも十分といえるような儲けは確保できまへん。
ご不満はあるかと思います。
けれどソフトの面白さで必ず台数が売れます。」
ファミコン発売に於けるポイント
ファミリーコンピュータ発売に於ける戦略。(アタリVCSに見習った部分も)
(1)低価格設定・・・ハードは親が子供に買い与えられる程度の値段を目標に極力抑えた。
(2)優れた性能・・・パソコン的な虚飾を一切排し、ゲームをする機能だけに特化させた。
(3)ソフト重視・・・ゲームソフトを最も重視し、多彩で充実したラインナップを敷いた。
(*ハードで儲けるのではなく、ハードを普及させソフトで利益を上げる発想・戦略)
この時既に山内の頭の中には
「ユーザーはソフトがやりたくてしかたなくハードを買うんです」ことと
「ユーザーは常に新しいソフトを欲しているんです」という考えがあったと思われる。

Farthest Guru
http://www.geocities.co.jp/Playtown/4007/phy07.html
http://www.geocities.co.jp/Playtown/4007/note_02.html






■「ファミリーコンピュータ」発売。
【 ファミリーコンピュータ 】
1983年(昭和58年)7月15日、「ファミリーコンピュータ」発売。
同時発売ソフトは、
「ドンキーコング」
「ドンキーコングJR」
「ポパイ」。
一月後には
「五目ならべ」
「麻雀」、
「マリオブラザーズ」
が続き、 11月に「ポパイの英語遊び」、12月に「ベースボール」「ドンキーコングJRの算数遊び」。
1984年(昭和59年)初頭から
「テニス」
「ピンボール」、
光線銃シリーズ「ワイルドガンマン」
「ダックハント」
「ホーガンズアレイ」、
そして 初夏には「ゴルフ」等が続く。
バラエティに富む充実したソフトラインナップ−業務用の移植・対戦型・思考型ゲーム−で牽引し、
発売から半年で47万台、翌年には165万台を売り、独走態勢に入った。

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1980年当時の任天堂営業所正面






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ミスター・ビデオゲーム




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[ソフト] ファミコン・ゲーム,1983
◆ドンキーコング
任天堂
1983.7.15発売
4500円
カートリッジ
ドンキーコング
・発売当時は3800円だった。アーケード版にあった,ステージ2が無いのが残念。(ふくろ〜)
・こうゆう横ジャンプアクションはこれが世界初だよね。(吉ダム)
◆ドンキーコングJR.
任天堂
1983.7.15発売
4500円
カートリッジ
ドンキーコングJr
・いわゆるドンキーコング2にあたるが,これって1と2同時発売ってことだよな。(ふくろ〜)
・3面の電気ピコピコ面なんかイカす。(吉ダム)
◆ポパイ
任天堂
1983.7.15発売
4500円
カートリッジ
ポパイ
・なぜホウレンソウを持参しない,ポパイ。(ふくろ〜)
・はやくもキャラゲー登場。海外むけか?(吉ダム)
◆五目ならべ
任天堂
1983.8.27発売
4500円
カートリッジ
五目ならべ
・最初の「型」が意味わかんなくて悩んだ。(ふくろ〜)
・私,五目ならべ苦手委員会代表であります。(吉ダム)
◆麻雀
任天堂
1983.8.27発売
4500円
カートリッジ
麻雀
・当時小学4年のため,さすがにまだ麻雀は買わなかったな。(ふくろ〜)
・小学生時,もってるやつがいたが,誰も理解できず。(吉ダム)
◆マリオブラザーズ
任天堂
1983.9.9発売
4500円
カートリッジ
マリオブロス
・ステージクリアより,2人プレイのいわゆる「殺し合い」がメインだったなー。(ふくろ〜)
・色んな技が発明された。ボタンが少なくて奥深い。見習いたし。(吉ダム)
◆ポパイの英語遊び
任天堂
1983.11.22発売
4500円
カートリッジ
ポパイ英語
・アルファベットを指すときのポーズが,「サタデーナイトフィーバー」と呼ばれていた。(ふくろ〜)
・対戦負けるとみょうにくやしい。いい知れぬ敗北感。(吉ダム)
◆ベースボール
任天堂
1983.12.7発売
4500円
カートリッジ
ベースボール
・恥ずかしながら,このゲームで「犠牲フライ」「タッチアップ」の意味を初めて知りました。(ふくろ〜)
・偶然にすっごいでかいキャッチャーフライ打ったら画面ボールで真っ白。(吉ダム)
◆ドンキーコングJR.の算数遊び
任天堂
1983.12.12発売
4500円
カートリッジ
ドンキーJrの算数
・2PカラーのピンクJrには設定があんのかなあ。(ふくろ〜)
・シャープのC1についてたレア版があるらしい。内容違うのだろうか。(吉ダム)

FamilyComputer Database
http://www.geocities.jp/f_tamakoku/famicon/database/databaseframe.htm





posted by datasea at 05:05| Comment(0) | $ 経済アナリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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