2019年02月23日

遠野物語

明治42年8月、彼は遠野を訪れた。
花巻より40キロほどの路上には町場が三箇所ほどあれど、その他はただ青い山と原野ばかりであった。
民家の煙も少なく、北海道の石狩の平野よりも少ないのではと思えるほど。
国男は、駅亭の主人から馬を借り、一人で遠野を巡ることに。
そして柳田国男の遠野の旅ははじまりました。
遠野物語の中にはおもしろおかしいような物語も含まれてはいるようですが、
当サイトの性格上”怪談”としての遠野物語をお送りしたいと思います。
暑い夏の夜をどうぞ涼しくお過ごしください。

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☆「土淵村の山口のトヨという女が気が狂って死んだが、埋葬された翌日、何ものかにその棺から屍を奪い去られた。」
「後日、篠竹を刈るため、この沢(六角牛山の 阿留沢オトメガサワ)近くに野宿した村人が、白衣に笠をかぶって歩いているトヨに出会ったが、トヨはわたしを見たということは誰にも話さないで、と言って姿を消した、と言う。」
☆「山人」が、埋葬した棺から死体を奪い、その死体が息を吹き返し、生き返ったトヨは自分を奪った「山人」の妻にされている。
何年か後に、岩の上で、長く伸びきった黒髪を梳いていた この女が猟師におもしろ半分に撃たれ死んだ。
これが「曾祖母」が「この世に執着を残し」心配していた「娘」の最後であったのだ。

はね駒草紙
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第五章 『遠野物語』番外編
「炭取りの廻る話」の巻
三島由紀夫『遠野物語』を語る『小説とは何か』から
<民話の舞台>
カッパ淵カッパ淵とカッパ犬カッパこま犬 
☆天才的作家三島由紀夫はまた、優れた文学鑑賞家でもあった。
『小説とは何か』は文字芸術としての小説が創り出す超現実の世界の魅力を伝えてあますところがない。
『遠野物語二十二』を紹介して彼自身の創作の秘密をも暗示してしまう。
私は最近、自分の楽しみのためだけの読書として、柳田国男氏の名著『遠野物語』を再読した。
これ は明治四十三年に初版の出た本で、陸中(現在の岩手県をさす旧国名)上閉伊郡の山中の一集落遠野郷 (現在の遠野市)の民俗採訪の成果であるが、全文自由な文語体で書かれ、わけても序文は名文中の名 文であるが、いま私の挙げたいのは、第二十二節の次のような小話である。
佐々木氏(本書の語り手喜善氏)の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集まり来てそ の夜は一同座敷にて寝たり。
死者の娘にて離縁せられたる婦人もまたその中にありき。
喪の間は火の気 を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裏の両側に座り、母人は傍 らに炭籠を置き、折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口より足音して来るものあるを見れば、亡くなり し老女なり。平生腰かがみて着物の裾の引きずるを、三角に取り上げて前に縫い付けてありしが、まざ まざとその通りにて、縞目にも見覚えあり。あなやと思う間も無く、二人の女の座れる囲炉裏の脇を 通り行くとて、裾にて炭取(炭籠に同じ)にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり。母人 は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親類の人々のうち臥したる座敷の方へ近寄り行くと思 うほどに、かの女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に眠り を覚まし、ただうち驚くばかりなりしと言えり。
この中で私が、「あ、ここに小説があった」と三嘆これ久しうしたのは、
「裾にて炭取にさわりしに 、丸き炭取なればくるくると回りたり」
という件である。ここがこの短い怪異譚の焦点であり、日常性 と怪異との疑いようのない接点である。
この一行のおかげで、わずか一ページの物語が、百枚二百枚の 似非小説よりも、はるかに見事な小説になっており、
人の心に永久に忘れがたい印象を残すのである。
こんな効果は分析し説明しても詮ないことであるが、一応現代的習慣に従って分析を試みることにしよ う。
通夜の晩あらわれた幽霊は、あくまでも日常性を身につけており、ふだん腰がかがんで、引きずる裾 を三角に縫い付けてあったまま、
縞目も見覚えのある着物で出現するので、その同一性が直ちに確認せ られる。
ここまではよくある幽霊談である。人々は死の事実を知っているから、その時すでに、あり得 べからざることが起こったということは認識されている。すなわち棺内に動かぬ死体があるという事実 と、裏口から同一人が入って来たという事実とは、完全に矛盾するからである。二種の相容れぬ現実が 併存するわけはないから、一方が現実であれば、他方は超現実あるいは非現実でなければならない。そ の時人々は、目前に見ているものが幽霊だという認識に戦慄しながら、同時に超現実が現実を犯すわけ はないという別の認識を保持している。これはわれわれの夢の体験と似ており、一つの超現実を受容す る時に、逆に自己防衛の機能が働いて、こちら側の現実を確保しておきたいという欲求が高まるのであ る。目の前を行くのはたしかに曾祖母の亡霊であった。認めたくないことだが、現れた以上はもう仕方 がない。せめてはそれが幻であってくれればいい。幻覚は必ずしも認識にとっての侮辱ではないからだ 。われわれは酒を飲むことによって、好んでそれをおびき寄せさえするからだ。しかし「裾にて炭取に さわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり」と来ると、もういけない。この瞬間に、われわ れの現実そのものが完全に震撼されたのである。
すなわち物語は、この時第二段階に入る。
亡霊の出現の段階では、現実と超現実とは併存している。
しかし炭取の回転によって、超現実が現実を犯し、幻覚と考える可能性は根絶され、ここに認識世界は 逆転して、幽霊の方が「現実」になってしまったからである。
幽霊がわれわれの現実世界の物理法則に 従い、単なる無機物にすぎぬ炭取に物理的力を及ぼしてしまったからには、すべてが主観から生じたと いう気休めはもはや許されない。かくて幽霊の実在は証明されたのである。
その原因はあくまでも炭取の回転にある。
炭取が「くるくる」と回らなければ、こんなことにはなら なかったのだ。
炭取はいわば現実の転位の蝶番(つなぎ目の金具)のようなもので、この蝶番がなけれ ば、われわれはせいぜい
「現実と超現実の併存状態」
までしか到達することができない。
それから先へ もう一歩進むには、(この一歩こそ本質的なものであるが)、どうしても炭取が回らなければならない のである。
しかもこの効果が一にかかって「言葉」にあるとは、驚くべきことである。
舞台の小道具の 炭取では、たといその仕掛けがいかに巧妙に仕組まれようとも、この小話における炭取のような確固た る日常性を持つことができない。短い叙述のうちにも浸透している日常性が、このつまらない什器の回 転を真に意味あらしめ、しかも『遠野物語』においては、「言葉」以外のいかなる資料も使われていな いのだ。
私が「小説」と呼ぶのはこのようなものである。
小説が元来「まことらしさ」の要請に発したジャン ルである以上、そこにはこのような、現実を震撼させることによって幽霊を現実化するところの根源的 な力が備わっていなければならない。しかもその力は、長たらしい叙述から生まれるものでなくて、こ んな一行に圧縮されていれば十分なのである。しかし凡百の小説では、小説と名がついているばかりで 、何百枚読み進んでも決して炭取の回らない作品がいかに多いことであろう。炭取が回らない限り、そ れを小説と呼ぶことは実はできない。小説の厳密な定義は、実にこの炭取が回るか回らぬかにあると言 っても過言ではない。そして、柳田国男氏が採録したこの小話は、まさに小説なのである。
(三島由紀夫『小説とは何か』より)
(本文は関西大学社会学部入試問題から採録した)
手をつなぐ二人の文学青年
☆三島は「自分の楽しみのためだけの読書として」という。
仕事として小説を書くうえで、読まねばならない書物が山積していて、 それはそれで発見の喜びもあるわけだが、
どこかで、本来の読書の喜びから、かけ離れていくむなしさを感じる。
そうしたとき、純粋に、 「自分の楽しみのための読書」を求める、その気持ちが痛いほど分かる。
毎日の授業のために、「工場の哲学」や「脳の話」「紫式部日記」など、 切り読み(?)していると
、「自分のための読書」
に飢えてくる。
この出だしの一言で、いままで疎遠だった三島との距離が縮まった。
☆『遠野物語』を紹介する三島の文章。見事である。
あるものを100字以内で紹介しろと課題が出されたとき、 そのものに関して何を言い、何を言わないかの取捨選択に執筆者の価値判断とものを見る能力の全てが出る。柳田国男の独特の文体をたった一言で、 「全文自由な文語体」と定義した。”その通りである”と納得させられてしまう。「口語自由詩」があり「文語定型詩」があるが、柳田の文体は「自由な文語体」なのだ。 その「自由な」の部分で、柳田が佐々木の語った遠野の昔話を、一つの独立した世界に 創り上げ定着したのであった。それを三島が喝破した。文学青年柳田と三島がにっこり微笑みあっている。
遠野昔話村に立つ柳田像と柳翁宿柳田像と柳翁宿 
幽霊はここにいるー現実と非現実との共存する世界ー
☆佐々木氏の曾祖母が死んだその通夜の晩に、現れた幽霊。
その幽霊は隣の座敷で、白布をかぶせられている曾祖母その人。
腰が曲がり、 前に引きずる着物の裾を三角に折りあげ縫いつけている。
「個」的印をはっきりと附けている。このリアリズム。
「幽霊」というものが見失われた現代の都会人にとっては、「幽霊みたい」という形容は、ぼんやりと輪郭がはっきりしないという意味であるが、 「幽霊」の実在する世界では、「幽霊」は具体的・個的なのである。
☆その「幽霊」の通過をじっと見つめる佐々木氏の「母」と「祖母」。「幽霊」に声はかけない。
それは別世界の存在であるから。 しかし、「幽霊」は引きづりながら歩くその着物の裾で、「炭取」に触れた。
くるくるまわる「炭取」。三島は言う。
「単なる無機物にすぎぬ炭取に 物理的力を及ぼしてしまったからには、すべてが主観から生じたと いう気休めはもはや許されない。かくて幽霊の実在は証明されたのである。」と。
☆「裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり。」この一行の言葉が書かれることによって、第二十二話はその冒頭から、我々の住む日常世界を超えて 非日常の世界へ転換していく。
「不思議の国のアリス」の「洞穴」や「鏡」、「ナルニア物語」の「洋服ダンス」など、 超現実世界へいく入り口は、数々あるが、それらはいずれも、「現実世界」と隔絶した「超現実世界」への通路であり、 それらはその通過者として「選ばれた」特別の「子供」以外は入り込むことは出来ないし、 その子もこちらの世界へ戻るときはその世界を振り払ってこなければいけない。
☆しかし、この「第二十二話」は、「母」と「祖母」共々、読者である「我々」も「幽霊」の支配する世界にワープしたのである。 まるで「メビウスの輪」のように、「現実」と思っていた世界はそのまま「超現実」の世界に繋がり 、「超現実」の世界は地続きで、この世界なのである。
江戸時代の南部曲り家を千葉家の曲り家今に伝える千葉家 
死者の娘の末路は
☆隣の座敷に寝ていた「娘」だけが叫ぶ。「おばあさんが来た!」 彼女は婚家から離縁されてきていた娘である。佐々木氏の大叔母、「曾祖母」の娘の一人。 佐々木氏の家は「曾祖母」「祖母」「母」と三代の女が血でつながる家だったのか。 そうではなくて、「曾祖母」にとっては「祖母」は「嫁」、「祖母」にとって「母」は「嫁」であったろう。
そうであれば、なくなった「曾祖母」の「娘」はこの離縁されて戻った「娘」一人であったろう。
「曾祖母」の「幽霊」は「祖母」にも「母」にも目をくれず、まっすぐ「娘」の寝ている座敷に入っていった。
それに気付いて声を立てたのも「娘」。
☆この「娘」はなぜ離縁されたか。
さきに三島の文として引用してあった『遠野物語』の本文は実は一部省略があった。
大学入試問題になったとき出題者がカットしたものである。
今『遠野物語』の本文で補うと、この「娘」は「死者の娘にて乱心の為離縁せられたる婦人」であったのだ。
☆遠野常民大学編集による『注釈遠野物語』(筑摩書房1997年刊)によると、この「婦人」は
「佐々木喜善の祖父万蔵の妹、トヨ。弘化(1844〜48)ころのうまれ。
栃内村の古屋敷長兵衛に嫁ぐが、狂気のためということで離縁されて実家に帰っていたという。」
とある。
☆この話につづく「第二十三話」に、
「この同じ人の二七の対夜(たいや)に、知音(ちいん)の者集まりて、夜更くるまで念仏を唱へ 立ち帰らんとする時、
門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。其うしろ付き正しく亡くなりし人の通りなりき。
此は数多の人見たる故に誰も疑はず。如何なる執着のありしにや、終に知る人はなかりし也。」
とある。
☆この「老女」が死後十四日たっても、あの世への道をたどれず、この世に執着を残していたのは、
「乱心のため離縁された娘」以外のなにがあろう。
自分が死んだ後はこの「狂気の婦人」をかばう人がもう居ないと思うと、この世を去りがたい執着がこの「老女」を二度もこの世に連れ戻してしまったのである。
「門口の石に腰掛け」むこうむきに座っている。
「門口」から中へ入らず、顔をこちらに向けないのはあの世へ旅立った者がこの世の人に遠慮しているのであろう。
☆「娘」はなぜ、婚家で「乱心」したか。佐々木氏の家の三代も続く嫁の存在が、かつて婚家での嫁であった「娘」の位置を暗示している。
大家族制、家父長制のもとでの「女」たちが「嫁」としてじっと忍従している中で、耐えきれずに発狂した「女」がいったいどれほどの数いたであろうか。
発狂した女が帰る家は「実家」。そこはもう自分の家ではない。
母親が生きている間はそこは「離縁された婦人」にとって実家であろう。
しかし、そのかげで、 その家の「嫁」は、「出戻った娘」にまで仕えなければならない「嫁」の位置に、ますます自分を当てはめていかなければならない。「出戻った娘」と「その家の嫁」と。苦しむ女が幾重にも存在する。
☆さて、『遠野物語』は「佐々木」姓の人物が大勢登場している。
その一つ「第二話」は「山々の奥には山人住めり。」
と書き出す「山人譚」の最初のものであるが
猟師佐々木嘉兵衛が山奥で遙かな岩の上にいる黒髪を梳(す)く美しい女を銃で撃ち殺した話である。
その黒髪を懐に入れて帰ろうとすると、急に眠気を催し居眠りするところに、 背丈の高い男が来て黒髪を取り返して去ったという。
この背丈の高い男が、柳田の呼ぶところの「山人」であろう。
☆この猟師に撃たれた女こそ誰あろう。
上記『注釈遠野物語』によれば「第二十二話」の「出戻った娘」その人だという説を紹介している。
その意見を出すのは菊池照雄『山深き遠野の里の物語せよ』(梟社1989年刊)
☆「土淵村の山口のトヨという女が気が狂って死んだが、埋葬された翌日、何ものかにその棺から屍を奪い去られた。」
「後日、篠竹を刈るため、この沢(六角牛山の 阿留沢オトメガサワ)近くに野宿した村人が、白衣に笠をかぶって歩いているトヨに出会ったが、トヨはわたしを見たということは誰にも話さないで、と言って姿を消した、と言う。」
☆「山人」が、埋葬した棺から死体を奪い、その死体が息を吹き返し、生き返ったトヨは自分を奪った「山人」の妻にされている。何年か後に、岩の上で、長く伸びきった黒髪を梳いていた この女が猟師におもしろ半分に撃たれ死んだ。
これが「曾祖母」が「この世に執着を残し」心配していた「娘」の最後であったのだ。
☆話題は「山人」に移ってしまった。
『遠野物語』を読んでいて、一番興味を引かれるのは、「山人」が登場するところである。
「顔が赤く」
「目の色が薄い」
「背の高い」
という属性を持つ「山人」とはなにか。
柳田は稲を携えて北上してきた「大和人」以前に、此の地に住んでいた先住異民族の存在を考えていたようである。
「白人種」のイメージか。
近年、東北各地で盛んに発掘調査が進んでいく「縄文人」との関係はどうなるか、アイヌ人との関わりはどうか、興味深い点である。

はね駒草紙
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posted by datasea at 19:38| Comment(0) | + 墓地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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