2019年06月27日

sayufm_musiclabo解析: 出エジプト

sayufm_musiclabo解析: 出エジプト
出エジプトからのイスラエルの旅路は、<民数記>での後半終りがけ第33章で、その旅の宿駅名を順に記す事で一つに纏められたふうに記されている。
しかしこれは、1−2節での説明書きのごとく、モーセがその宿駅(地名?)を書きとめた<古い文書もの>の宿順を参照してそのまま記入したものとみられる。
それゆえ、その大半の宿駅名(地名?)は、古くて今では特定判明することが出来ないし、また、モーセが覚えのため、何ら地名のないところでの宿営地をして、その地理的特徴に当てた宿名を名付けたとの推定もされれうる。
特にシナイ山を後にした、その旅路の初期の2年目、3年目のうちに<雲の柱の確かな先導>により宿営地が定められた折りに名付けたりして、
そして、その後、それから38年の期間、それはほとんど記事記録のない長い空白の時で、その後半終りにモーセ、アロンらに大々的に叛訴する大きな背反事件の起こりとその裁きの顛末処置(民数記16−17章)の詳述がなされた以外、他に目ぼしい記録もなかったが、その貴重な宿駅名録を基に準拠、照らしたかたちで、その長い年数を久しく行き巡る宿営生活が続けられていったという具合であった。
ともかく、ここでの<旅路順遍歴図>の説明としては、その第33章の前、後半の記事を参考に
民数記、出エジプト記、申命記
での他の言及記事、及び関連記事を検証し、それらの記事関係からの矛盾的な点、不明瞭な処を正しく解読し想定したところの<新旅程遍歴図>のものとして、ここにまづ呈示しておきたい。
先ずその旅程順は、出エジプトからシナイ山の荒野までと、シナイ山を離れた後での旅路に分けて見ておこう。
そのあと40年目のその最終旅程をその記事関連から明示しておこう。

Unknown Future
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● 【出エジプト(ラメセス)からシナイの荒野(シナイ山)までの宿順旅程】
*(注)エジプトを出立したその月を年の初めの第一月、いわゆる正月として定めたうえでの旅立ちとなり、その15日早朝からあわただしく動き、ゴセンの地を離れ発った。
この定めの新年月日に依り、宿営の<経過日のり>が記述に順序良く留められている。
その主要な日のり大略は、先ず<エジプトの地を出て、ふた月目の15日にシンの荒野に来た>との記述があり、丁度、まる30日直後の日程を示す。(出エ第16章1節)
そして同じく、エジプト出後の三月目のその日(第一日)にレピデムからシナイ山の荒野に入り、宿営をそこに移したとの記事(出エ19章1−2節)がある。
まる45日を経過した日のりだった事が知られうる。
(シンの荒野からシナイの荒野には丸々15日を要している。)
・《宿駅その1》出立地、ゴセン地域のラメセスを発ち、スコテに宿営:(民数記33章3節)
その宿営の翌朝、午前中の内にそこを発ったかどうか、もう一夜そのまま留まり、旅の準備の不十分さを補ったり、旅の体勢を少しでもより良くする手立て、処遇を計ったりして、日を費やしたかも知れない。
・《宿駅その2》スコテからエタムに宿営:(民数記33章6節)
スコテから大海(地中海)寄りのペリシテびとの国の道が近くて便利であったが、そこへの道に向かわずエタムへ、そこから荒野への道が選択されたかに見えたが、そうではなかった。
イスラエルの民の男子は、国々の兵士のように訓練武装した集団ではなく、皆それぞれが自分なりに防備武装しただけの大群集の分団に過ぎず、戦いには全く不慣れで、戦いを知らない者が大多数であったから、、、。(出エ第13章17節以降、)
(エタムは荒野の端の地で、シュルの荒野の道の入り口。エタムの先、荒野の手前にはエジプトの主要な要塞、防壁が設けられていたようだ。)
・《宿駅その3》エタムから引き返して、ピハヒロテの地へ、その海寄りの傍らに宿営:(同33章7節)
エタムからの出立は、そこから進む方角を変えて、ピハヒロテの地へ引き返すという事態のものとなった。(民数記33章7節)
エタムからの荒野の道は、<シュルの荒野>を縦走してカナン方面へと通じた主なる裏道であったが、このルートも<主なる神の目論み>により、進み行くことはなかった。
*ピハヒロテの地を特定することは、古来、バビロン捕囚後の旧約聖書時代以降、現代に至るまでも、困難な事柄となっている。
だがこの地の海の近くに宿営するや、そこへエジプトの王パロ(ファラオ)率いる全主要な軍団の大軍勢が押し寄せ、追い詰められて行き場の無い事態に直面する状況を
伝える記述が見られ、そして、その面前の海(後の世に“紅海”とギリシャ語70人訳が翻訳されており、それでラテン語、英語などのヨーロッパ諸語はそれに準じているが、)を、神の大いなる奇跡の御業に拠り海面が分かたれることで、水の無い海底を渡リ行くといった状況が、追って渡り入ったパロの大軍勢の顛末が、そこでの大きなやま場の事蹟となって記されている。(出エ第14章〜15章で)
この<紅海の奇跡渡行>の場所に関わる記事、ピハヒロテの地とその海近辺への言及記述は14章2節で “ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、”とあり、<その前とは>即ち<海のかたわら>であり、そこに宿営したという状況を伝えるものだ。
邦訳では、<バアルツェボン>という地名らしき名が連記され、そのピハヒロテの地を位置付ける風に付されているが、その訳文には不明瞭さが残る。民数記33章での宿駅記載では、<バアル・ツェボンの向かい側、前方向>にピハヒロテの地があるといった感じの表記である。
(これは、記載巡歴地図の如くと見なせられる。ただし図示はイメージ配置です。
当時は、現在以上に、ナイルデルタから離れた南東方面の丘陵荒野から標高400、500m以上の岩山、そのピークは今も800m代だが、その山並みがスエズ湾の方向に弧を描くように伸びて、湾ののど元下手の海岸側に達していた。
したがって、ピハヒロテは、それほど広い低地を占めた地域にある居住場所ではなかったようだ。
バアルツェボンは、その向かいの西の方向、山手側の丘陵地にか、或いは山並みをなす岩山の谷あいの高台に設けられた神々の聖所拝殿、礼拝所だったとも見られる。
ある資料によれば、バアルツェボンは、フェニキアの海の交易船乗りたちの守護神との事で、それに比定できるかのようだが、ずっと後の習合によるものかも知れない。)
つまり、原典へブル語の文節で“ミグドルと海との間”の地域は、上記括弧書きのように、それ程広くはなく、海に向かってはだんだん狭くなってくる、その間に位置するピハヒロテに併行した、
西方、前向こうの方角に、バアルツェボンがあるという表現であり、そしてその文章の文頭では、ヘブル原典は、まず初めに“ピハヒロテの前に宿営せよ”と言命している訳で、それに加えてさらに注意深い明白指定
<その手前、その前方、あるいは、それに向かって>
という意味のイコール指定が、<海の傍らに〜>の言葉に付随したものとなっている。
さらにここで注目、題とすべきは“ミグドル”という言葉である。  
この言葉のルーツは、アブラハムが70才代後半以降にエジプトに寄留した頃から、その地で一般
的に使用されていた用語とみられる。海との係わり、特にエジプトのスエズ湾の海でも、その湾の最北奥の海域での、ある地理的状況の土地に密接に関係した意味ある言葉のようである。
つまり、そのエジプト古語(或いはヘブル古語かの)の原意は<湿地帯の土地>を意味、表わすものであったと推せられるものだ。
その湿地した地域の中央部にはアシの生い茂る、深みのある泥土、泥沼〔デイショウ〕が広がっているという地勢状況といったところであった。
その一般的な言葉が、時代が下って、かの預言者エレミヤの時代にはメンフィス、タパネス、パテロス、ヘリオポリスといった地名と並んで、エジプトの名ただたる地名の一つともなっている。
(エレミヤ書44章1節、46章14節)それまでにもそういった湿地帯に隣接した地域に築かれた要塞、或いは人の住む地が、要塞名、町名に転用されてきたケースがあったが、、。
<モーセの出エジプト時の時代>及び、それ以降も未だ地名などに転用されよう形跡は、まったく無く、原意のままのエジプト用語で、外来のヘブル語ともなっていった。
“ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前に”という記事での土地地域には、その東のシナイ側、シュルの荒野方面に対面して、その頃、推察するに、国境を兼ねたエジプトの防壁、防塁が、未だ
そこまで伸び築かれてはいなかった。
それゆえ、それの防備代用として、ピハヒロテの近く、ミグドルの前方に隣接した見通しの利く野地に、レンガや石、木で構築された<見張り台=watch tower>が設けられていた。
(これはエジプト軍の正規ものではなく、民営用のものであった)
その見張りの塔台をモーセらは、<ミグドル>という言葉を模して“ミグダール”と名付けて覚えの宿駅標の用語とし、また、その後の40年の宿営時代には、“塔”を意味するヘブル用語として
定着、用いられる。(それでまた、ミグドル自体も後に塔を表わすようになる。文字語の発展と共に、その子音字スペル は同じだが、発声母音がo オ から a ア の発音系に変わるだけだ。)
言葉上にあっては、<海との対比関係につりあうミグドル>、そして、村か町ふうの居住地らしき地名の<ピハヒロテ>に対比しての、神々の拝殿聖所なる<バアルツェボン>という対組二様の両者対関係の言葉であり、まさに言葉パズルを解くような感じである。
以上が<ミグドル>という言葉についての考察であるが、これに海が係わっている訳だが、この海をいわゆる、ずっと後の旧約聖書の翻訳時代に、ギリシャ語訳のほか、それに続いてヨーロッパ諸語が、その当該の海を<ヤム=海>という語だけで表わした場合と、同義の異名ともなる<アシの海>という表現のヘブル語“ヤム・スーフ=ים-סוף”を<紅海>と訳すに至っている。
ギリシャ語70人訳セプチュア・ギンタが、何ゆえに<紅海>と訳さざるを得なかったか。
ユダヤのラビら、70人余りがアレクサンドリヤにやって来て、その翻訳事業を聖なる仕事として請け負い始めた頃(それはBC3世紀後半〜中葉頃以降、プトレマイオス2世代)その頃の地理知識の常識では、スエズ湾を含めたその海は、<紅海>の名で広く世界に知られること、すでに過去、数百年来に亘っていたという実際的現状があった。したがって、当時のこの常識趨勢の、ギリシャ語ゆえの事情を無視し難いものと受けとめ、むしろ、あえて活用すべきが妥当との判断にて、学者らの意見が一致、
<アシの海を>を、
<ερυθρα θαλασσα=紅海>
と訳したわけであった。これは決して、誤訳の類と見なすべきものではない。
現代のスエズ湾及び、グレート・ビター(大苦湖)湖にはモーセ時代の自然地理地勢の面影は無いに等しいと言える。
地中海に通ずるスエズ運河の起点となり、カイロからは最主要な自動車幹線道路が設けられて、湾岸地域は産業資源の基地化や、都市化された発展状況を呈している。
ギリシャ語の
<ερυθρα θαλασσα=赤い海、紅海>
という名称言葉が定着するようになったのは、ペルシャ、ギリシャの時代に及んでからであったが、太古からの何らかの自然地勢条件及び、気象条件などで、スエズ湾の北端域や、大苦湖、ティムサ湖の周辺にはアシの生い茂る地理年代が、モーセの時代頃までだけでなく、ソロモン時代以降の後々までも少なからず、ずっと継続していたようだ。
現代のシナイ半島東側のアカバ湾では、今日でもアシの茂るところが見い出されるとのことである。
(スエズ湾の最北岸は、近現代の運河が造設される頃と、出エジプト時代の状況を比べるならば、数十キロもその北岸位置が北に寄って、違っていたであろう。
紀元前5千年期なる頃まではスエズ側と地中海側とが自然のままの水運でつながりをなし、スエズ側からの流れが、堆積される土石物を押し流す自然の営みがあったと見られる。
4千年期から3千年紀後半の頃には、北アフリカのナイル・デルタとなる東地域と、シナイ半島側とに一つ、二つの地峡、陸続きが出来てきたと見られる。
とにかくナイル川も5千年期後半頃から急速に大河への発展をなし、下中流域から上流域の動きやすい表層土石類を莫大な水流運搬力で以て、下流へ下流へと押し流していったと見られる。)
モーセらイスラエルの民が渡った場所は、アシの茂みから離れた、いわゆる茂みの終わった端の岩場となる境界の海岸からであった。
そこは、宿営地から南に少し下った所にあったと見なして良い。
かってモーセ時代のスエズ湾最北端地域は、塩分濃度もきわめて低く、半淡水化していたと見られ得る。
大苦湖も大いなる淡水湖であって、その頃は、スエズ湾のほうにその水が浸潤する傾向を見せていたと推定されうる。
それが逆転したのが、おそらく、モーセが率いた出エジプト時での、その<奇跡の海渡り>による出来事以降の事象だと推断される。
また、その泥沼〔デイショウ〕、および湿地帯の土地地域=ミグドルも、近くの丘陵砂状荒野や、岩肌の山地から、その風化により運び寄せられる堆積物事象でもって、長い間のうちにしだいに乾いた荒れ野土壌(中世、近代に至って見られる)ふうに変わっていったようである。
・《宿駅その4》ピハヒロテの海の中、露見した海底を渡渉後、三日路にてメラに宿営:(同33章8節)興奮冷めやらずの<海なか渡渉の奇跡>で心が高鳴るふうであったが、まだまだ旅慣れするほどには日も浅く、その流浪旅は色々な面で十分な余裕がないまま、海沿いの、道なき道、道も途切れ、ほとんど人の通った跡も無い、
<エタムの荒野>
と名付けたその荒野に導かれ行く。その日、昼頃から順次、出立の整えをして、海から上がったその地を後にしたと見られる。
(出エ15章22−25節。エタムの荒野はシュルの荒野域内の一部だが、民数記33章の宿駅では、名付けの覚えとして<エタムの荒野>と表記している。)
<三日路にてメラ(マラ)に>、大群衆団の長だの列、三日路ほど進む間、その三夜を荒野で休寝したようである。
水を求めて三日の間、荒野を進んだが得られず、その三日目の夕、ようやく水のある処に辿り着いた。
が、しかし、そこの水は苦くて飲めなかったと、、、(それでメラと名付けられている。)
飲めばお腹を痛める、病をなすと、、、それで主なる神は、モーセにその水を<中和して甘くする木>を示され、泉に投げ入れ飲めるようにされた。
(これは、その木自体の質に中和力、甘味力が備わっていたかどうかは判明しないが、もし、何でもない普通の木ならば、神がその木を介して、質的な奇跡をなされたということになる。
だが、実際には<なつめやしの木>であったかも知れない。
この名を記すと、書文に重みがなくなる。
次ぎのエリムというオアシスに同名の木があると見れば、、、。いずれにせよ、神様の知恵、みわざの奇跡と見るべきであろう。
あいにくにも、その処置後、そこの水を飲んでも誰一人、病人になるような事はなかった。そこで
<民のため>に、この折に初めて、その最初の<定めや、おきて>を立て与えられた。それは聖別
された神の民となる為の前準備、心備えの事前訓練ともなるものであった。)
*シュルの荒野にはシナイ半島をミデアン、アラビヤ方面に向かう隊商路が、その中央部分を横切るふうにあったが、その大集団のイスラエルの民らは、以上のように、その道に進む事はなかった。
(先ずは、大変な大群衆ゆえ、各方面地域の居住諸族民を騒がせ、刺激しない為に、、、。)
・《宿駅その5》
メラを出立して、エリムに宿営:(民数記33章9節)
先のメラでは、そこに到着した日の翌日にも留まり、その夜も宿泊し、その翌朝エリムの方に旅立ったようである。
エリムは、まさに小規模ながら荒野のオアシスのような所で、そこで十分な休息と、さらに続く旅への、より十分なる備え、色々な繕いの整えをなしたようである。
(ここでの宿営滞在は1週間〜10日以内ほどのものと推定されうる。)
その場所には<水の泉が12と、ナツメヤシの木が70本>
があった〔15章27節〕と記されているが、その泉に関しては、自然の湧き水の場所を見つけ、また他にもあろうかと探し出し、人々が十分に飲めるよう、利用しやすいよう緊急に整備、或いは拡張してのものであったろう。
ともかく、なんとか<12の泉>を確保する事ができたというものであったに違いない。
これは大群団の民が一応12部族余の分団に分けられていたからであろう。
*当時そのオアシス(エリム)に依拠して、土着の人が住み、集落をなしていたか、どうかは定かでない。
この泉のオアシスも生気あふれるものではなく、干からびかけ、やがては自然事象のままに埋まったり、地勢の変化で涸れたりして消え去るものとなったであろう。
・《宿駅その6》エリムを離れて、紅海のほとりに宿営:(民数記33章10節)
このエリムの後の紅海、そのほとりでの宿営は、出エジプト記では省かれ、言及記事は見られない。
15章27節のエリム記事のあとに記される筈の順であるが、そのまま第16章の章区内容の文となり、エリムを出たあとの記述を別の表示内容に関連付けている。
*先のエリムのオアシスで、充分一息つき、元気づいての旅立ちとなったが、紅海のほとりに出て、さらなる英気を養うものとなった。
そこでは海の幸を手に入れ、肉なべを囲む事も出来たとも、、
ここでは、再び旅の再出発、元気旅になるようにとの思惑で、豊かさのある海辺に導かれたものと見られる。
旅にも慣れ、旅生活の知恵も付いてはきたが、次なる道程がさらにきびしく、困難なものとして、控えていたからである。
(モーセは、この海のほとりでの生活模様事、何一つ記してはいないが、ちょっぴり悪い結果面がそこから映じたふうに記述していると見られなくもない事態が後に見られる。
つまりその後の旅の<シンの荒野>で、たちどころに、エジプトでの肉なべの事を思い出させる一因の働きが、この海のほとりでの一抹の宿営生活に潜んでいたからであった。)
ともかく、民らにとっては、紅海のほとりでの宿営は、過酷な荒野での旅路からの一時の解放となり、少なからずの満足と慰めを得て、引率指導者モーセへの訴え、不満を言うような事も暇も無く、その生活時間を費やしたようだ。
それ故、ことさら此処での宿営記事は、何一つ記すべき必要がなかった。
むしろ記すべきでない事が、その判断としてベストな真意ともなっていたと見られる。
・《宿駅その7》紅海のほとりを出立し、シンの荒野に宿営:(同33章11節) 
この紅海のほとり(現スエズ湾のはるか南方)での記事は、出エジプト記には、何一つ記録に残されていない。
モーセが一言も、何一つ書き記さなかったことには、彼なりの聖なる思惑基準があったからであろう。
前記のメラの記事とエリム記事は、それなりの彼の記憶に留まるところのものとなったとも解釈されうるが、当該の出エジプト記第15章22節以降、16章初め(1節)までの間、エリムの次ぎに来るはずの、この<紅海のほとり宿営>は、その土地の名さえなく、記されず、出エジプト記事には見られないものとなる。
(表示記事は、エリムを出発し、そこから<シンの荒野にきた>記すことで、その日までの全道程日数を明確に示す。
その表記が重要だったと見られ、そしてその荒野の位置を示す事を強く意図した文言としている。
もちろん、エジプトを出立しての<二ヶ月目の15日>ということであるが、。
<紅海のほとり>が、エリムとシンの荒野の間の中継点にありながら、外されてはいるが、その日
数の丁度、まる30日間のうちに含まれたことは、間違いなき宿駅順として確かな事実だ。)
*その紅海のほとり宿営での、推定人数140万から、上限170万とされる民らの生活事情、生存状況は何一つ伝えられていない。
が、そこでは恐らく前代未聞の事が起ったと思われる。
エジプトにいた頃、先祖代々ナイル川では行なった事のなかった漁獲の労をなす機会を得たと推定される。
その漁獲とは、海牛とも言われる<ジュゴン>であり、その漁は、かなり大量な数のものであったと見られる。
(ジュゴンの肉は、牛の上質肉より美味しいと言われている。)
(出エジプト出立時の民の数、ラメセス、スコテへの段階で、
<女、子供を除いて徒歩の男子は、約60万人であった>
と、そのおおよそを見て記している。〔出エジプ:12章37節〕、
民数記ではその1年1ヶ月後だが12部族系からの各氏族の下に数えられた20才以上の男子は、その調べの総計として、
60万3千5百50人と挙げている。〔民数記:1章46&2章32節〕
この数はほぼ正確であろうが、しかし、各氏族のそれぞれの父祖の家ごとに挙げた人数であるから、下僕らもその数に入れていたと見られる。
女、子供の数は記されていないが、丁度同じ時、レビ部族を除く、12部族での初子ウイゴの数が上げられている。
これは、生まれて一ヶ月以上からの初子を数えるもので、20才代までの初子〔としての長男〕を含めたものとなるが、その数は、レビ系族を除く全部族で、
2万2千2百73人
であった。〔民数記:3章43節〕
そういった数値から予測すると、女、子供は、それぞれ凡そ30−40万で、x2倍ほどと見られよう。
すると、総計では約60万にこの80万を足して、
140万、
これが妥当な下限の数となる。
因みにレビ族の男子の数が、他の12部族と比べてすこぶる少ない。
生まれて一ヶ月以上の男子の全総数は2万2千人であったと記している。〔民数:3章39節〕
すると20才以上の男子は、その半分を割っていたかも知れない。
12部族のうち最小数は、
ヨセフ系のマナセの諸氏族3万2千2百人、
最多数はユダ系族の諸氏族7万4千6百人、
その数値の間に、
6万代が1部族、
5万代が4部族、
4万代が4部族、
3万代が1部族〔ベニヤミン系・ヤコブの末っ子〕、
という男子20才以上の各々の数であり、レビ族系との大差が明らかに見られる。〔民数:1章20−43&2章、3章39節〕)
モーセの書き記す書は、民らの生活記録を中心テーマにしているわけではなく、神と神の言われる言葉、及び、それに係わる関係状況を記すことが中心主旨としているから、モーセの内にある心意では、神の言葉に直に関わらない、結びつかない生活事情、状況などは、質的に止揚変換されない余分なもの、むしろ妨げとなる事柄類として対処されるというものであった。
だが、モーセは、後にシナイ山での神の言葉啓示の折り、民らのうちに数多く所有されるようになっていた<ジュゴのなめし皮>に関する生活状況で、聖なる還元止揚のものとして、幕屋の天幕及び、聖器具運搬時等でのおおいの保護カバーとして活用される旨の啓示内容を示すに至る。
〔出エジ:25章5、26章14、35章23節、36章19節等、民数:4章6、8、10−12、14節〕
(幕屋聖所に関わる造営資材に関して、その入手ルートなど、エジプトからの持参の物だけでは足りなかったと言えよう。
かの紅海渡渉後、海岸端に打ち寄せたエジプト軍の残骸からも少なからず利用可能な物、戦車の輪や武器武具等々を含め、色々な回収物を得た事であろうが、、、、
<ジュゴンの皮>については、当時の交易市場品としては扱われていなかったと見るべきで、その入手は不可能、それ故、民ら自らのオリジナルなものだったという他ない。
(羊のモジャモジャ毛を紡ぐ技術がすでにあったかどうか、青糸、紫糸、緋糸は、羊毛のものだったかどうか、その当時、自明だったから記事には記されなかったかとも。ヤギの長く垂れ下がった毛を紡ぐ技術があり、その毛糸で機織し、幕屋をおおう天幕のための幕を仕立てた。
〔出エジ:26章7−9節〕)
また、<羊、ヤギ、牛などのなめし皮>の製作技術、染め技術(あかね染め)など、エジプトにいた頃からお手の物であったであろうゆえ、自前で造ることができたと見られる。
かなり多量に必要となった金や銀、及び青銅の金属物に関しては、たまたま立ち寄る交易商人などのルートからも賄えたと見られるが、青銅造りでの銅資源に関しては、当時シナイ半島のシンの荒野近辺地域にあった、エジプト王家所有の銅山所からの入手、或いは、一時的に占拠利用しての確保かも、、。これも民らの自前活動のもの、記録に書き記す必要なき事であった。)
*シンの荒野の宿営では、主なる神との係わり上における、特記すべき事象事蹟の記事が記されている。
これは、その出エジプト記第16章全体を直接読んで頂いたほうが最善であろう。これも後世後々までも有名になるところの記事の一つと言える。
ここでは、主なる神のご主権と、民への御思いが、民らの日常生活、その基本の食と労役面から、神のみわざ奇跡の下に実践的に教育されるごとくである。
先の宿駅メラで、民全体が一つにまとまり、生活の規律パターンとして、共同体的な社会秩序をなすため、主の定めとおきてが立てられている。7日目に民が休むようにと、その安息日を公けに定め与えられたものとなる。
それを守るべく直接的訓練のごとく、神が大いなる御業をもって朝夕の食の供給にたずさわり、その神自らの気遣い労の下にて、なされ試されるものとなる。
(何ゆえ荒野、シナイ山その聖域への民の旅であったろうか、、、。
ただ単に、<民の聖別>の為だとの一言で尽きるものではない。その真理をひも解くに深いものがある。
ともかく、出エジプトを果たしたその民らにとって、これから先に近づかんとするシナイ山、
当時、その地域を特別な聖域として前々から既に定め対処せられ、お待ちなされていたようなものであったが、、
ともかく、その場所を目前に控えての、民らに対する事前予備的カルティベイトであったと見て良いものだ。)
さて、次ぎに下の二つの宿営地・その名、ドフカとアルシについては、出エジプト記ほか、それらに関わる記事は、どこにも記されていない。(民数記に宿営名が挙げられているのみである。)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
・《宿駅その8》シンの荒野を出て、ドフカに宿営:(民数記33章12節)
出エジプト記の第17章1節で、“シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、云々”との表現言葉があり、この<旅路を重ねて、>の旅程のうちにドフカと次ぎのアルシが含まれ、その語句のうちに含まれ、準ずるものとなる。
*シンの荒野からレピデムを経て、シナイの荒野に着くまでの所要日数が15日間であるから、ドフカ、および、アルシは、その旅路で、一晩か、二晩、夜休むだけの宿営だったと見られる。
シンの荒野では10日近く宿営したであろうと想定される事から、、、、。
・《宿駅その9》ドフカを出て、アルシに宿営:(同33章13節)  
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
・《宿駅その10》アルシを出て、レピデムに宿営:(同33章14節)
・《宿駅その11》レピデムを出立して、シナイの荒野に宿営:(同33章15節)
ここで、エジプトの地ラメセスから目指したシナイ山、その荒野、麓地域までの一時的な目的地・道程までの旅が終了するものとなった。

Unknown Future
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(Google Earth からのコピー転載)
[写真画像の説明]:
写真中央の峰々を中心に、斜め写りになっているが、三つのブロックに大きく分かたれた山岳地形になっている。
中央ブロック山系の前面、斜め上の角あたりが大きな十字路のように広いスペース沿いになっている。
現在は、観光エリアになっており、シナイ山や、聖カタリナ修道院などの観光案内センターの建物、宿泊施設等のホテルなどがあり、リゾートタウン化の様相をなしています。
中央の山系ブロック斜め上、角の十字路から、その中央と上隣ブロック山系との、谷あいの道を斜め下方に下ると、AD4世紀の創始、のちに創設された<聖カタリナ修道院>の建物が小さく写し出されています。
*中央ブロック山系の山並みの下部、後方に<エベル・ムーサー>の峰・山頂名が示されていますが、はたしてその山頂に現在設けられている記念聖堂が位置している場所なのかは判りかねますが、
エベルは、アラビア語のヤベルまたはジェベルからの発音転化のもので、<山>を意味しており、ムーサは、モーセを指しますから、<モーセの山>ということになります。
*しかし、この画像に示された<エベル・ムーサー>位置まで、実際に出エジプト時のモーセが登りわけ入っている訳ではありません。
つまり、3ブロックに分かたれた山々全体が、出エジプト当時に言われたシナイ山感覚の全域観なのです。
したがって、三つの山系ブロックの前、先に述べた十字路の地域を中心に、左右、斜め上手に延びた全地域が、イスラエルの民の宿営地となった<シナイの荒野>ということです。
当時のモーセは、中央のブロック山系、上部角の十字路あたりから、たぶんそのブロック系の上部奥あたりの峰々の一つ(画面下方のエベル・ムーサーまでも行っていない)に留まったと思われます。
このあたりの峰々から下山すると、その途中から民の宿営地全体が見渡せます。又人々の動きも目に入るようになってきます。さらに山頂に近い中腹辺りに、当時には適当な広さの自然のテラスがあったようで、そこからずっと奥の高い峰々(エベル・ムーサーの方角)が望み仰がれるものともなります。
●【シナイ山麓、シナイの荒野での長期宿営】
●【シナイの荒野からの新たな出立、約束の地カナンへの巡り行く旅路の過程】

Unknown Future
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