2019年02月10日

黙示録, sayufm解析





黙示録, sayufm解析
黙示録、それは単なる文学的所産なのか?
黙示録にはグローバルに世界、あるいは人類史を捉えるところの独特な世界観(歴史観)がその文面内容の底流にあることが抽出的に読み取られうる。
過去、現在、未来、永遠
とグローバルに 表示できる世界観を一個人の人間(ヨハネ)が、はたして持ちうるであろうか。
それはまた、古代ユダヤ民族における旧約聖書のヘブライ思想から、まさにそれに根ざして発展、結実された世界観に過ぎないものと言い切ることができるであろうか。神(世界の創造者)と世界、人類(被造物) との関係的構図という現実から、神の目(神の立場にある視点)理解(その把握と予見)から表現されえた預言の言葉だとも云えないであろうか。  
そこには象徴と比喩表現を用いて世界史的な状況を“<天景の時代>、<海景の時代>、<地景の時代>、そして前三者を踏まえた<全体総景的な時代>”といった具合に仕分けられえたものとして、ある種の具象的“ 場 ”様式の適応展開を見るものであり、キリストの千年王国の後、  永遠の神の国が顕示預言されているかの如くである。  
これらの所見を解き明かす前に、同じ<黙示文学的啓示の書>と目されている、旧約聖書の預言書である<ダニエル書>における預言の言葉を参考に見てみよう。
それによって大いなる見識が  得られるはずだ。(但しこのダニエル書は、その歴史的時代背景を前提、立脚しつつも、その預  言内容は、種々の<ドラマ的エピソード事蹟>が記述された、その流れの過程にある事に注意す  べきだ。)   
まずダニエル書の構成内容を預言の流れから捉えてみよう。確かにダニエル書本来の預言の記述を成立せしめているのは、その背景的な礎定として物語的な出来事(事件)を巧みに織り込んでいるからである。そういった観点を踏まえつつ、あえて預言内容の方向性、あるいは集中性を個々の預言の相互関連的な流れの中で浮き彫りに出来るのではなかろうか。  
来るべき未来事象の預言として、その同一方向性の過程での各々の遠近的な呈示様式にあって、それぞれ時代的に関連して重複、あるいは接点的に関係したものを取り上げると、以下の章区  分のものとなる。   
・ネブカデネザル王の夢:第2章31〜45節(バビロン王ネブカデネザル治世第二年、ダニエルによる夢の解き証し、2章1節〜のその経緯)
*ネブカデネザル治世元年は、BC605年である(その治世:605−562年、約44年の在位期間)
*ダニエルらがバビロンに連れ移されたのはBC607年で、二十歳前後の若者の頃であった。
*ダニエルの夢の解き明かし対して、ネブカデネザル王はダニエルの信奉する神を讃えながらも、その夢の真意に対抗的意識でもって、リアクションの政策行動に走る。
史実的エピソードは全体が金づくめの 金の像を建立、それでもって史的ドラマの記述展開は、第3章へと関連的に続いてゆく。   
・ダニエルの夢&脳中の幻:第7章1〜28節(バビロン王ベルシャザルの元年のもの)
*この時は、まだダニエルはバビロン州に留まっていた。
*ベルシャザルの治世元年は、BC562年である。   
・ダニエルの霊感幻示:第8章1〜27節(バビロンの王ベルシャザルの第3年のもの)*その第3年に王は暗殺されたが、バビロンでは政情不安が生じており、それを避けてダニエルらはエラム州の首都スサに移った。    
その時に見た預言のもので、その時の王権を簒奪した者の元号を採示するに、何一つ有益な啓示叙述の道理を見い出しえなかったとは見られる。
*ベルシャザルの第3年は、BC560年 ⇒ その5年後当たりにメデアびとダリヨス王(=アハシュエロス)の時世が来る。
この王は、エステル記のスサ王と同一人物である。 (新改訳の聖書ではない聖書文言に依る。)    
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   
・ダニエルへの<70週>に関わる御つげ:第9章24〜27節(御使いガブリエルによる)
*エルサレムと宮の復興には<7週と62週>が定められているが、この週数字の間の区分けには、妨害による<工事の中断期間>が生じる事が予見、嘉されての、週区分をあえて意図したものである。
70週x7=490年
となるが、、
(<7週=49年>+<中断期間>+<62週=434年>+<1週=7年/2>)
*これを単純にまとめて単に70週のみと見なすと、その歴史的年代設定に間違いが生じ、それに関わる文面に矛盾した無理なあてがい解釈となる。
*この70週の御つげは、メディアびとアハシュエロスの子ダリヨス2世(父王との共同統治)元年、バビロンでその治世第1年の時であった。
これは、BC555(6)年にあたる。*ダニエルは、エラム・スサから、かって長い間住み慣れたバビロンに戻っていたとも思われる。   
・ダニエルへの<天の人の子>からの言葉預言:第11章2節〜12章13の終節まで(第10章のペルシャ王キュロスの第3年1月24日の幻視、神の側からの目的指標の表明を暗示した経緯内容から続いている展開だが)
*キュロスの元年は、BC538年である。
このクロス王から数えて第4番目のクセルクセス王(ペルシャびとのダリヨス大王)の事も預言として記されている。(11章2節)クセルクセス在位:BC486〜465年
*ダニエルはすでに90才前後の高齢になっていたので、ユダヤ・エルサレムに帰還することはしなかった。
だが、530年代BC末までにまとめ上げて自著(ダニエル書)を同族後継の者に託した。  
以上に挙げた5つの関連預言を踏まえて、 先ずはじめに個々の預言の全てを2つの流れに分類し、外観的に把握しておこう。
ちなみにこの分類方法は、古代イスラエル(ユダヤ)民族に関わる旧約聖書から自ずと派生してくる見方に拠るものである。
一つ目の流れは一般史的(世界史的)な範疇に入れられるべき預言で、この部類にはマクロ的(全体的)なものとミクロ的(部分的展開事象的)なものとがある。  
それらは以下の如くである。  
<マクロ的なもの> その1  
=============   
★ネブカデネザル王の見た夢とその解き明かしの預言:【ダニエル書第2章1〜45】 これは彼の治世のはじめの第2年、今や世界に輝くバビロンの王を介して起こされた預言であり、彼の世からローマ時代以降にまで及ぶその世界史的な未来の範囲を全体的に捉えたものである。(王はその夢を見て、そうとう思い悩み、ノイローゼ気味となって、夜も眠れなかったと、、、、
しかし彼は、バビロン全州の諸々知者たち前で、その慎重さを失うほど馬鹿な王ではなかった。 
彼の見た夢の内容、どんな夢だったかという事とそれの解き明かし(夢が意味するメッセージ)の両方を求めたからである。
その時捕囚のユダヤの民の一人で、つい最近、王宮で王の前に仕えるようになったダニエル以外は誰一人として王の要求に応えうる者はいなかった。)
※光り輝いて恐ろしい外観をした巨大な像とその結末:← ← ← ←王の見た夢

1.その頭部は.....純金
・・・・・・彼ネブカデネザル王の時代、大バビロン帝国の世を現わす。
2. 胸と両腕は.....銀 
・・・・・・彼バビロンの世の後に起こる国を意味し、それはペルシャ帝国時代をさす。
3. 腹とももは.....青銅
・・・・・・第3番目に世界を治めるものとして起こるもので、ギリシャの国、つまりヘレニズム時代をもたらす国をさす。
4.すねと足..........・・・・・・これらの部分をなす材質は少々複雑なもので、種族民族多様化、文化的気質の多様性、また生活文化の格差、強弱を包摂した形での成り立ちを現わすものとなっている。 
すねは.......鉄足とその指......ともに一部は鉄で、一部は粘土から成っている。.........
これは第4番目に世界を治める国をさすもので、ローマ帝国時代とその時代の結末以降までをさす。
これら1〜4から成る巨像は、ネブカデネザル王にとっては、極めて集約的(時代短縮的) なものとして、その解き明かしが受けとめられている。
(だから彼は、頭から足の指先まで ”金”づくめの、どデカイ金の像を建立して、自らの王国の繁栄を願い且つ維持せんとしたわけだ。
(<<第3章1節以降の記述参照>>)
この奇怪な恐ろしい巨像に対して、別個のある一つの物が夢に登場する: 5. 一つの石
...上の像のような世の権勢的なしがらみの関わりからは起こってはこないもので、単独的なものをさす。......
..............人の手によらずに切り出された石....この石は、石であるからこそ、極めて自然的で、その大地に属するものであることを示唆している。
すなわち、これによって起こる国もまた、地上に属するもので(霊的な意味合いにおいて)、ある質を異にした人の主権(巨像の権力とは質を事にしたもの)から成り立つ国を示している。そのようであるにもかかわらず、   その起源は.........人の手で切り出された石ではなく........神の手、すなわち神の特別な導きに起源して、やがて起こってくる大きな国であり、その様相は全地に満ちる大きな山のようなものと表現され、いつまでも滅びることなく、永遠の時に至るまで続くと預言されている。
この石でもって象徴された国の特質をまとめて列記してみよう。
@ 勢力的な活動面からは、
”鉄と粘土から成る足”
を打ち砕いたという事、それでかっての金、銀、青銅から培われてきたその一切(政治的仕組み、社会的な風習、文化的なもの、その他諸々)のものまでもが 
”もみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなく”
一掃されるという結果をもたらしているという点大いに注目すべき特質を現わしているといえよう。
、、、、、、、
<<第2章34〜35節>>
A 本来的(に保証された)な特質面:神によって起こされた国であり、その主権は剥脱されず、いつまでも滅びることがなく、ついには永遠に至るという点。、、 <<第2章44節>>  
B 発展的な特質面からは、精神的なものと物質的なものとがひとつに調和融合した ような大きな文化を形成して、その当時の世界の”全地”と言われ得る地理的領域に満ちるようになるという点。
、、、、、、、
<<第2章35節>>
**ダニエルはここで“その像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちる ”
<<35節>>
という象徴的文言に関しては、何一つその解き明かしを記していないが、この
<大きな山となって>
の ”山 ”とはまさしく文明文化の発展、その繁栄を象徴していると云えよう。
ネブカデネザル王の見た別の夢が第4章でも記されているが、その”どでかい木”も、彼とその王国の繁栄を象徴したもので、同類的表現のものだと読み取れる。
がしかし“山となる” というような表現での繁栄の仕方は、やはり“ 木 ”でもって象徴されたそれとは、種々にその異なりを示す意味合いを意図するものであろう。
さて、問題はこの”石 ”でもって表された< 国 >とはどんな国を指すものなのかという点が大きな課題となってくる。
これに関しては、今日にいたるまで、キリスト教界ではカトリック、プロテスタントを問わず、疑う余地のない自明の定説がある。それは聖書全体からの他の個所 と照らし合わせることによって、さらに一層確信されうるという。
(古代ローマ帝国の終焉期以降、併存的にその初展をなし、アウグスチヌスの著書『神の国』でもって指標された方向付け等、キリスト教思想(神学)により、新たなるヨーロッパ・キリスト教文化圏での国、精神的には、ローマ教皇が核(キリストの代理権)となり、諸国がそれに習合した体制をとって起生発展してきた世界を指す。
<King of kings>という考えのon Word も彼アウグスチヌスの時代以降の思想的世界観から成立したと思われる。注:AD354−430年没)
=その定説とは、やがて来るべきメシア、すなわちローマ帝国時代のイエスキリストこそが、 人の手によらずに切り出された“石”だと主張するものである。
=これは確かにダニエル書の<<44節>>での
“それらの(又はその)王たちの世(時代)に” という文節が指し示す古代ローマ帝国時代以降の時と、全く一致しており、さらに決定的 な点では、主イエスご自身が語っておられる言葉が、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカの 3つの福音書に記されており、そこでは御自身を、ある ”石 ”に譬えてお示しなさっ ている。
<<マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17、そして使徒行伝4:11、 エペソ人への手紙2:20、さらにはペテロ第1の手紙2:6−7に引用されている。>>
“家造りらの捨てた石が、隅のかしら石となった。これは主のなされた事で、わたしたちの目には不思議に見える 
”主イエスは、この言葉を旧約聖書(詩篇118:22−23)から引用して語っておられる。 また、べつの旧約の聖句では、イザヤ書28章16節で: 
”見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅く据えた尊い隅の石である。
信ずる者はあわてることはない、、、、”(この句のシオンとは、エルサレムにある神殿の丘周辺をさすイスラエル民族独自の象徴的な地名である。)
さらに主イエスは、ご自身を 
”躓きの石 ”
に譬えておられるが、とにかくこの<石> に逆らう者、敵対する者、無用、無価値なものとして捨てる者は、人であれ、国であれ、すべていつかは、必ず滅び去ると見られている。
以上のごとく、この伝統ある説は絶対的なものとして、キリスト教界において支持され続けてきている。
だがこの説は、本当に真実なる真理であり、事実たりえるのか、ネブカデネザル王の見た”夢の石 ”と 主イエスご自身に譬えられた“ 石 ”とは、その両者を完全に同一視することにおいて、本当に間違いを犯してはいないのか、大いなる誤謬に陥っているのではな    いか、どうか、    ここでもう一度、あらためて検証し直してみるべきではないか。、、、、 先ず第1に検証すべきは、主イエスを王に戴く”神の国 ”は、ダニエルが解き明かした、    かの“ 石 ”による国に、本当にそっくりそのまま該当するものなのかという点である。    [主イエスの”神の国 ”に関わる特徴]イ.) 主イエスが譬えでもって教示し、力(奇跡を起こす神の霊)でもってその一面をあらわされた神の国.....知性的、感覚的(視覚的)な提示となり、外的、身体的(命)な面に力点がある。ロ.) そして、ご自身の存在そのもの(十字架の死と甦り)による”救いの福音 ”でもって 始められることになった神の国......内的精神的に働くもので、精神的な命(魂)を甦らせ、外的、身体的なものすべてを、この自己のうちから包摂、理解するものとなるから、いわば人の内的な精神の根底を起生点として、外的なものが取り込まれるという精神面にその力点が置かれている。**上述した事をまとめて簡単に云うと、外面的なもののすべてがどんなに理想の状態に整っていても、人は精神的な存在だから<内面的な>ものが、未完、不良あるいは不完全で理想の域になければ、結局どちらもダメになるよと云う結果となり、さらにこれを有神論的に云えば、唯一、真の神様が外的にこの上なき理想のパラダイスをお創りなさり、備えておられても、人がその知、情、意の働きをなす魂のあらゆる面で、神と、その共有一致したる真理において、”成仏 ”(仏教用語を借用)していなければ、神の国に相応しくないということとなる。それ故、神の国は、人(人類)と共に常にその完成を目ざして発展途上にある。もし、キリスト教国家という国があって、神の愛と真理によって諸制度、組織、機関を動かし、愛と真理に基づいて政治を行うならば、それは理想的な国と云えよう。
しかし、 現今に至る過去の歴史すべてを概望探査しても、このような国が存在していたと言えるようなことは一度たりともない。
信仰と愛と真理による共同体とも云えるキリスト教社会、及び教会の過去の歴史においても、いつもその理想国家への発展途上にあるということでもって位置付けられている。 以上のことからその結論として、神がご自身のひとり子イエスキリストによって意図し 啓示し、始められた“ 神の国 ”は、この世の国々と同類の地上ベースに属するものと は、未だまったく云いがたいものであるからして、ダニエルの解き明かした”石 ”の 国には該当しえないし、またそれへの預言をなしたものではないと云わざるを得ない。    つぎに第2の検証としては、キリストイエスの時代に至る古代世界を、どう捉えるかという点    に関わる立場を考慮してなされるべきであろう。    [古代世界という地理的版図の終点とその範囲への限定性] イ.) 人類最古の文明は、ナイル河のエジプトとチグリス、ユフラテス両河に栄えたメソポタミアで、これらを総括してオリエント文明として世界史に位置づけられている。  この古代文明に関わる地理的版図は、アレキサンドロス大王の東征以来(BC336)ギリシャによるヘレニズム文明圏を形成するという注目すべき転換期を迎えるに至った。このヘレナイズされた旧来のオリエント文明圏は、あらたに登場するローマによる世界帝国とその領域内で発展し、次第にそのローマ古代文明を造り替えていくキリスト教による新来のヨーロッパ文明圏と対峙するような世界史の構図を現実化してゆくものとなる。このように新旧二つの文明の地理的版図において、古代ローマ帝国を撃ちそぎ、その東ローマ帝国を最終的に滅亡させ、さらに旧来のオリエント文明圏自体を刷新することが出来たと云える、かの”石 ”による国とは、はたしてキリスト教の国だと断定できるであろうか。それは目に見えて不適合な読みであり、まったく否と、云わざるを得ない。 **さらに別の視点から結論づけると、人手によらずに切り出されたかの“石”は、旧約聖書におけるその純聖書的、啓示的解釈から捉えると、それは“モーセによる十戒の石”の延長線上にあるものとして、それへの類比が象徴的に可能となるからである。
ロ.) 文明発祥の地、古オリエント世界の数千年ともいえる文明的繁栄の主導権は、まさにギリシャ・ヘレニズムの文化時代と共にローマ・ヨーロッパ文明へと移らんとした。
この旧オリエント文明圏の地は、旧約正典(旧約聖書)を出生せしめたという由緒ある歴史の足跡を残した地でもある。
”四海を鎮護する者”
を意味する言葉を自らの名するネブカデネザルは、まさしくこのオリエント文明圏にその名を轟かしたバビロンの大王であった。
彼は、ユダヤ人が信奉する唯一、真の神のレヴェレーショナルアットモスフィアー (Revelational Atmosphere)の領域からは、はみ出た例外的な人で、多神教を奉じる異邦人である。
この異邦の王を介して神による
“ 夢の啓示 ”
が与えられたということには、それなりの事情(起り始めたエルサレムの荒廃と民の離散捕囚の現状運命)があり、そのユダヤの歴史的転換期に合わせて、神から啓示されるべきその内容が、いまや妥当なものとして絞り込まれてきた。 つまり、世界史的な預言と、来るべきメシアの預言、そして捕囚後の民(ユダヤ人)と復興エルサレムに関わるその終末的預言、これらの三大内容が実現されるべきターゲ ットとして、【人類の時】を支配する神の、その“時の範疇”に置かれることとなる。
それ故、ネブカデネザル王を介してのその“ 夢 ”による預言は、その世界史的なレベルにあって、彼自らが、その展開的な頂点に立つ人物その人であるからして、彼においてなされ、そしてユダヤ人のダニエルが、それを解き明かすという最も妥当な仕方を執った訳である。
したがってその<夢>預言が、異邦の諸王に関わる世界史的次元を主眼点とする限り、いかなる形といえども“ メシア預言 ”は、その中には含み得ないものとなる。 
つまり、多神教を奉ずる異邦の王を介しては、いかなる方式であろうとも、
“ 聖なるメシア ”預言
がなされるということは決してあり得ないことで、これは旧約の民イスラエルに限定された、神の啓示活動における神自らの鉄則である。
ゆえにかの“ 石 ”は、メシアなるキリスト・イエスを指すものではありえない。
そして、その石は、旧約聖書時代以後の、キリストイエスの時代以降に出現する人物として時間的にも特定限定された象徴預言なのである。  
<マクロ的なもの> その2  
============
★ダニエル自身が見た夢の預言:聖書テキスト【第7章1節〜28節参照】前述したネブカデネザル大王の夢の預言は、BC604年(彼の治世第2年)のことであったが、それから下ることおよそ42年後、ベルシャザル王の元年にダニエル自身が夢の預言を得たとある。
ベルシャザルという王の名は、バビロンに住むユダヤ人が好んで呼称した名であり、ダニエル自身が最初に名づけ、用いた名であった。
バビロン名ではエピルメロダクがその王に相当する。(列王紀下25章27&エレミヤ書52−31参照)この王はその治世の第3年に暗殺されているが、その時のいきさつについては、前後反目した記述としてダニエル書の第5章の全体にわたって記されている。
その約2年前にダニエルは夢による預言を得たわけである。
この預言の内容は、ヨハネ黙示録に記されている内容と重なり関連しているか、あるいは連続的にそれへとつながっているかに見られうるようであるが、黙示録よりはかなり平易で、その意味内容は、すんなりと理解できよう。
けだし、途方もなく超マクロ的に広汎な概略内容の為、人類史全体からの個々の歴史的な特定は容易ではないと云えよう。
言葉を換えていえば、全く信じがたいことであるが、それはとてつもない【神の超マクロ的な展望視】であり、神の子キリスト在世以後、現在に至る世界史全体において、中世から近世、近代に至る時点を念頭目捉したるかたちで、その展望を集約的に象徴化した預言として、ダニエルに与え、啓示したものといえる。
したがって、ヨハネ黙示録のヨハネ時点との相対関係にあっては、あくまでもダニエルが在世したその旧約時代に立った処からどこまでも展開一望されたるもの、という特質性を有した預言内容だとみるべきものである。
(あくまでもダニエルによる<旧約次元ベース>のものであるを意味し、そのように捉え預言しているものなんだと、、、
これに対して<ヨハネ黙示録>のあるべき立場は、、、
使徒ヨハネのAD1世紀末次元でのそれとして、
<キリストの予見眼識、及びその視点を源>    
とした別の見方、別の様式で、その全時代からの時の諸特徴が啓明化されるものとなるという具合に、新たな<新約次元ベース>でのもの、といった認知感覚を生じさせうるものとなる。)  
この第7章の預言内容の解釈について、キリスト教徒の教会などではきわめて正統的、且つ事実だと信じられ、支持されてきた定説がある。 
その意味解釈をかい摘んで要約すると、以    下の如くである。
彼は4つの大きな獣が海から上がってくる夢の異象をみたが、従来からの定説では、時代的な流れとして、
<ししのような第一の獣は、ダニエル当世にある “ 新バビロニア ”>、
<第二の獣、熊のような存在は、“ ペルシャ・メディア ”>、
<第三のひょうのような獣は、“ ギリシャ ”> <第四の、他の獣にさえ例えられないほど恐ろしい獣は、“ ローマ ”>
の帝国としている。
この解釈が、世々代々支持されてきた、まさに確定的な正統説である。
だが、この従来説は、はたして疑問の余地がないものだろうか、、、
本当に正しいもの、真に的を射たものだろうか。確かに時代的な流れの区切りとして、そのように捉え、解釈することが可能である。
しかし、もっと世界史的に視野をひろげて、世界史全体を見つめ直し、その四つ獣の真意を再考すべきであろうとも。
ここでその再考された真に新しき秘蔵の解釈を解き    
明して見よう。   
@:ネブカデネザル王の夢預言の項で、前述した[古代世界という地理的版図の終点と、、云々] で、
旧来のオリエント文明圏、
ローマ到来後に来る新来のヨーロッパ文明圏
等々について述べ たように、”第一のししのような獣は、
”その旧来のオリエント文明圏にあたる帝国であり、 それは
バビロニア+メディア
から
ペルシャ+メディア
への移行隆盛を示すものである。
4節の記事本文を見ると、
”わしの翼をもっていた、”がしかし ”その翼は抜き取られ、人のように、、、立たせられ、人の心が与えられた。”
と記している。この言葉の意味する状況は、一体どういうことを指しているのだろうか。 
しし、つまりライオンという獣は、地理的分布としては熱帯から亜熱帯のブッシュや草原(岩場)に生息する動物である。
エジプトからメソポタミアの領域は、まさにその範囲である。
<翼をもっていたしし>
とは、何を意味するのか、しかも<わし>の翼とは、どんな場合を云うのか、、、
翼は天空を天かけるものであり、わしは、その当時をして最強の強さを象徴した意味を表している。
この古代バビロニヤからの”飛翔の力の翼 ”は、単なる軍事的な力を表わすものではない。 
これは、古代の神殿宗教的な力を象徴した天的(神権的)な体制を併せ持った力を意味するものである。    
<その翼が抜きとられ、人のように立ち、人の心が与えられた、、、>
これは、ペルシャの時代へといたり、その終焉の段階までの過程で、その初期から半ばにかけては、ユダヤ人の学問、その聖典(旧約聖書)的思潮などによって教化され、ゾロアスター教なども興隆してくるわけであるが、その後、ギリシャからのヘレニズム文化の勢いによって、また、アレキサンドロス大王のペルシャ制覇によって教化され、
”人のように立たせられ、かつ人の心が与えられた”    
という歴史の時代状況となったことを言い表している。
A:それでは”熊のよう”だという第二の獣は、どのような国、情勢を言い表したものであろうか、、、
<熊>
は寒冷地などの森林、河川に生息する生き物であり、あまり暑い亜熱帯や熱帯地方には適さない動物であり、そのような所では、まったくその活発な活動が鈍り、ややもするとその体を半ば横たえてしまう。
5節の記事本文では、そのような熊の状況を前提にして象徴表示している。
”これに向かって『起き上がって、多くの肉を食らえ』という声があった”
と記されているが、この意味するところは、
<さらなる征服をなせ>
とうながし、進めている様を表わしている。 
<三本の肋骨をくわえた>半ば横たえた熊の状況の意味するところは、ギリシャ、マケドニヤの森林地帯から制覇の出現をなしたアレキサンドロス大王の趨勢は、今や<三本の肋骨>、すなわち、それは、当時の史観的(旧約聖書的)な意味合いで、まったく“セム、ハム、ヤペテ”の子孫系列からの全種族を言い表わした言葉であり、これをまさに口にくわえたままの状態情勢のままになっていることを意味している。
彼、アレキサンドロスは、<起き上がって>さらなる遠征、インダス河畔流域までもその勢力    をのばすが、その遠征からの帰還直後、首都バビロンで病死するに至る。(BC323) 
その後の後継者たち(サトラップ=総督たち)においても、新たな地域への<さらなる遠征>もなく、
『起き上がって、多くの肉を食らえ』
というその<声>だけがあるのみで、時代は過ぎ去ってゆく。
その時代の流れ行く時の経過の先には、ローマの台頭があり、ローマ帝国形成の趨勢が横たわっている。   
B: それでは第三のヒョウのような獣とはいったい何ものなのか、、、、
この獣も旧来のオリエント文明圏に主要位置を占めているわけであるが、世々代々にかけて支持された<従来定説> では、これをアレキサンドロス大王が制覇建設したギリシャ帝国としている。
連続的に
第一のものを ”バビロニヤ ”
第二を ”メドーペルシャ ”
とし、それらに後継する歴史は、もはや ”ギリシャ ”しかあり得ないからである。
この場合、6節の記事本文
<この獣には四つの頭があり、主権があたえられた。>
の文面に完全に捉われる向きになっている。
大王の死後、確かにその初め帝国は、4分された向きがある。
エジプト・アレキサンドリアのプトレマオス朝、
シリア・バビロン方面のセリュコス朝(セル   キア)、
アカヤ・マケドニア本国、
小アジアの王朝
をその四つだと断定する。
しかし、それらは、きわめて不安定で互いに争い、ほとんど3王朝に帰する時期の方が多かっ    たことを史実は現に物語っている。
これに関してダニエル書の別の章、第8章での別記事(8節)では、大王の死の直後、その数年の分轄継承時期を捉えて預言表示しているわけだが、、このように定説では、
<四つという数>
にひどくこだわり、次章(8)の文言(8節と22節)との数字の一致をなしていることによって、その定説が間違いないと思い込んだところに、何かもっと大きな視野による的確性を満たし得たものを見落とし、その誤謬に落ち入ったのではないかとの断言ができるのです。ここで、少し次章の8章に関して説明しなければならないが、その章の記事本体の性格は、    まったくの近未来の史的状況を物語るもので、マクロ的眺望ではなく、むしろミクロマイナー    的な傾向の預言である。    したがって比較同一視は妥当性を欠いたものとなり、解釈的には前7章での超マクロメジャー    的預言の構成の一部分要素としては組み込めないから、別個扱いにてのマイナー的な詳細とし    て、その近未来的史状預言を新たにダニエル自身が受けていると思われる。    彼はその7章で、超マクロ的メジャー預言を幻受したわけだが、それに関しその内容からして    非常に悩み、理解に苦しむばかりで、その不可解さと、謎解きがたき思いに満たされるばかり    の心境で、この預言内容に心に留め、(28節)先に見た幻視預言からはすでに2年半あまり    が過ぎていったと見られる。    第7章の記事は、バビロンの王ベルシャザルの治世第一年で、ダニエルがバビロンでの自分の    館にいた時の事であった。    ところが第8章は、その王の治世第3年に当たるとして、エラム州の首都スサにいた時、しか    も川の名もはっきりと明記している。この川は、大河チグリスの幾多もある支流のひとつで、    彼ダニエルが現地に滞在せずしては、その川の名(ウライ川)を知るよしもないものである。    彼は、先に視たかの預言の事で悩みぬいたすえ、スーシア(ペルシャ)の首都スサに出かけた    か、それとも、ベルシャザル王の暗殺後の事で、後にバビロン王国を領有したスサの王ダリヨ    ス(第5章31節)    
(この王は、エステル記でのアハシュエロス王と同一人物)方から、その身の安全指示により、 そちらバビロンからエラム州に招聘されたかの、いずれかに違いない。
いずれにせよ、彼はその川のほとりで、近未来的な幻の啓示を見たのである。この預言記事は、超マクロの7章での第一の”しし ”
バビロニア+メディア
に対して、そのポスト後の
メディア+ペルシャ
として、”雄羊 ”をあてがっており、猛獣ライオンに比べたら、家畜に等しい羊の類であり、
<人のように立ち、人の心が与えられる>
と、7章4節で言われた内容に俄然継承的に隣接するようなものである。
そして、ギリシャ=アレキサンドロス王にたいしては、なお荒々しい野性の”雄やぎ ”で表わしている。
この王の初期は、まさに大地を駆け回るほどに勇猛果敢であるが、彼の末期は幾分寒いところの育ちであった故に、まさに“ 横たえる熊 ”のようであったといえよう。
また、旧来のオリエント=メディア・ペルシャに依拠した8章の預言に対しては、
“雄羊”対“雄やぎ”
を用い、来るべきローマの新来のヨーロッパ文明圏に関わる7章、この章は、全くもって、その内容の重点を、ローマとその後に置いているからして、それに相当したバランスを考慮して、あえてギリシャ=アレキサンドロスをば ”熊 ”のような獣として表示していると云える。
このように7章と8章を関連づけて捉えると、7章での第3の獣 ”ヒョウ ”は、頭が四つあろうとも、それはギリシャ帝国ではない。
そもそも古代ギリシャ帝国なるものは、成立しな    かったに等しい史実を歴史に刻んでいるからだ。“ 古代ギリシャ帝国 ”なる名称は、キリスト教徒の学者らが、便宜上に用いた、いわゆる“ 単なる造語 ”に過ぎないと思われる。
このように定説は、きわめて単純に第8章のミクロ近未来の
ギリシャ=4つの国
の預言を第7章での第3の獣“ ヒョウ ”に結び付けて解釈するを正解と見なしている。
しかしながら第7章での本筋の重点、内容の重みは、第4の獣に置かれている。つまり、超マクロ的なこの7章の預言は、第1の獣から第2の獣へと続き、さらに第3ではなく、第4の獣へと続く歴史    を超マクロ的に展望したような意図が秘められており、その結果、来るべき新来のヨーロッパ    文明圏との間の大変な長き歴史的空隙を、旧来のオリエント文明圏をして、それをバランス良    く充てん穴埋めするために、第3の獣をローマ以後の新来の文明圏に対峙させたものとして、    その預言設定を行っている。
ちなみに古代世界史での旧来のオリエント文明圏の終息時期は、ギリシャのヘレナイズによるそれであるが、その地理史的版図上での国々、諸族の興亡は、とみに激しく複雑で捉えがたい。    アレキサンドロス大王後の四つに分かれた国々とは、本国マケドニア、エジプト、シリア(小    アジア、ユフラテ河西岸地域を含む)、そしてパルティア王国(メディア、ペルシャ地域)と    なって行くを示すことになろう。
したがって、新来のヨーロッパ文明圏に対峙する形で、世界史の史実に登場する第3の獣とは、旧来のオリエントの地理的版図にあっては、パルティア(BC247〜AD226、この国は、ローマと対立する=トラヤヌス帝の遠征AD113〜 117)、ササン朝ペルシャ(AD226〜651)と続いた後、出てくるもので、延々と十数世紀にわたってその王朝の変遷史を書き留めるものとなり、イスラム文化という固有な文明を形成発展させた、主要な4王朝のこととなろう。
その最初は、サラセン・ウマイヤ王朝、次はアッツバース朝、三番目はセルジューク王朝(ト    ルコ系)、最後はオスマントルコ王朝であり、この4王朝が、第7章6節での第3の獣 ”    ひょう ”に指摘される4つの頭なのである。もちろんそのような長き時代の流れの間には北    アフリカおよびエジプト、又イラン高原やホラーサン(現アフガン地方)等に地方的な小イス    ラム王朝が興っていたのは確かであるが、それらは<頭>とは云えないようなローカル規模の    もので、何はさておき、ユダヤ人の聖都エルサレムや新来のローマ=ヨーロッパ文明圏に対し    て、多大な影響力、抗争衝突の種を撒き散らすような関わり方もほとんどなく、ひとえにイス    ラム文明の維持発展の体毛色の意味あいを維持していたといったところとなろう。 元来、ヒョウという動物の最大の特徴は、その体色が美しい斑紋であることにあろう。その    体毛が毎年抜け替わるらしく、その度に斑紋にはつやがあってきれいに保たれるという。イス    ラム文化の王朝も、そのように交代する度に一新され続けたことであろうか。、、、、また、    本文6節には<背には鳥の翼が四つあった。>とも記しているが、これは何を意味するのか。    第1の獣での ”しし ”では、同じ鳥でも鳥の王者ともいえる<わしの翼>であった。    この場合は、古代オリエント世界での成熟最高の力を表わすシンボルとしての<わしの翼>を意味するものであった。
しかし、第3のこの”ヒョウ ”の時点では、同じ地理的領域ではあるが、もはや王者としての<わし>のそれではなく、かと云えば、ほかの特命の名をもって当てることも不適切のようで、したがって単に<鳥の翼>としている。
だが、その<翼が四つ> とは異なことである。
わしに匹敵するような強い鳥のいないこと、そのことへの補足強調とも云えようが、しかし、その<四つ>という数の意味する本来的な趣旨は、強力な宗教と文化とという二重両翼の翼(その建営的なノウハウ)をもってその軍事力を展開していく、その4つの頭の諸王朝の情勢を言い表すものであったと見られる。
このように第3の獣“ ひょう ”を正しく理解受容できると、近未来的なミクロ預言として与えられた第8章の内容は、第2の獣(熊)と、第4の獣(えたいの知れない生き物)との架け橋となるべき役割を秘めたものだという事をあらためて感じさせられるのではないか。
第7章のすぐあとに第8章の近未来的ミクロの概要が付随してきたその存拠理由が、かの第四の知られざる獣の預言への<架け橋的な役目>を果たしているという処にあるのではないか。    しかして、その8章の内容と云えば、ギリシャのアレキサンドロス大王以後、四つの王朝時代    の初期へと至る過程の背後から、著しい台頭をなしてきたポリス(都市国家)、ローマの帝政    最初期への隆盛時代、ポンペイウスのエルサレム占領から、かのカイザルなき後を引き継いだ    アウグスト帝(オクタヴィアヌス)、そのあとの皇帝らからネロ帝(8章23〜25節)まで    を概略一見の預言表示をなしていると、表面的に結論づけることが可能となろう。    この8章の幻について、ダニエル本人は、<これもまた、悟ることができなかった>が、悩む    という心境よりも、むしろ驚いた、その内容に仰天したと告示している(8:27節)
彼はこの時期、ベルシャザル王の第3年に当たる頃だが、“自分らの民が解放され、ユダヤに帰還することになり、町や神殿が復興され、<常供の燔祭>も行われるようになる。”との、    そんな事態が訪れようとは夢想だに思ってもみなかった。
また、そのような知らせ、あるいは確実な預言や、み告げなりを得てはいなかった。
だからこそ、ひどく驚いた気持ちにもなったというのだ。
このこと(民が帰還出来る事)に関しては、それに関わる文書情報を広く探索、調べるべく、後になってようやく知るものとなる。
これにはエレミヤの預言による言葉文書の入手があり、 第9章1節〜2節で、以下のように表明するかたちで記されている。
”メデアびとアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤびとの王となったその元年、即ち、 その治世の第一年に、われダニエルは、主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉 により、エルサレムの荒廃の終わるまでに経ねばならぬ年の数は、七十年であることを、 文書によって悟った。”   C:次にこの第7章での最重心的なテーマとなる第四の獣に関わる詳述に着目してみよう。これ    は、先の3つの獣ように該当適用すべき現存の生き物が見当たらない様相を呈しているようで    ある。それだけ内容ファクトの版図ベースが超巨視化状況に置かれているということを意味し    ているものであろう。また、従来までの文化圏の主舞台が、エジプトからメソポタミアなど、    オリエント世界を版図としていたが、<第四の獣>で表示された世界の主舞台は、いまだ未知    なる、新たに起こらんとする文明圏をその地理的版図となしつつ、その新旧相互の関わりのな    かで、さらに地球全体規模へと文明の接触交流が広がってゆく、そんな方向性を暗示するもの    となる。ダニエルにこの幻黙示を与え視させた方、その方(主なる神)の目は、まさに2千年    3千年の先までも、人類史の全体を見通し、その過程の予見眺望ができている。また、その進    展過程での<摂理的な方向付けの御業>をなさる。あたかも<原内容のプラン>があって、そ    れに準じた現展開過程史への<予見と摂理>の確認介在作業があるかのようだ。    本題をダニエル書のテキスト第7章7節以降にスポットを当ててみよう。内容の構成は、ダニ    エルの幻視したそのものについての表示:十の角をもった獣の動的な様子、容貌と将来的な角に関する変遷様相、そして、表現できない不可視的な事柄事象に対する<象徴的な幻示>での    いわゆる何か<神の審判>を思わせるような状景と、<人の子・メシア>の来臨とその存在の    様想を表すもの、ここまでが7節以降14節までの前半部分となる。    後半はその真意の解説表示部分:    15節以降28節までが、解き明かしを受けるダニエルの様子と、内容の<解き明かし真意>    の開示、そして終節のダニエル自身の心的反応描写でもってその第7章の区切りとしている。    この部分の<審判>とか<人の子・メシア>に関わる表示ファクトは、後のユダヤ時代史での    ユダヤ教徒や心あるパレスチナの住民にとっての<メシア待望><終末論的な救い=ユダヤ王    国の復興>思潮の源泉となったことは歴史の知るところである。さて、この第四の獣の前半、後半の全体を踏まえて、主要な部分の詳細語句となるものを一    つひとつ取り上げてみよう。
先ずは十の角等以外の部分のものから見ると、頭の数についての言及規定は一切なされていないが、明らかに
<一つの頭としての進展的存在ベース>
を示しているものと見られる。
その特徴は、先の三つの獣などと比べて、比較にならぬほど<恐ろしい    
・ものすごい・非常に強い>との一点張りである。この<格差>は一体何を意味するものだろう。
端的に言えば、これらの表現は、その獣の全面総合的な<闘争力>を示しているようだ。    
しかも格段の差が見られる如くに、、当時の古代王権国家をその例にとれば、これは、その国    の国力の要のひとつともなる軍事力をそんなふうに表現できると云えようか。
この場合、古代人の目線(視点)に立って見れば、古代ペルシャ帝国が都市国家群のギリシャと戦争をした場合 (BC480年代)やアレキサンドロス大王が長い道程をかけバビロンまでの勝戦をやり抜いた時代(BC330年頃)など、その兵力武具の基本的な装備物といえば、槍、弓、剣類に盾    などの防具類、そして騎兵に欠かせない馬等であったわけで、あとは1日、あるいは長時間勝    負での会戦時の体力と精神力での戦闘能力、さらに戦いの兵法・戦術とかの作戦知力や将軍ら    の勇猛な指揮統率力の良し悪しで勝敗が決まる。そんな程度のもので、
<怖い、恐ろしい、ものすごい、非常に強い>
といった様相の感じは現れてこないわけだ。したがって、そういった軍事力の面での格差がかなり明瞭になった時代、その起点的ベースとなって発展して行ったの    が、古代ローマ帝国であり、これが<第四の獣>としての【出現母体】ベースということなの    だ。ちなみにかのローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを包囲して攻め入る際、(これは、    ユリウス・シーザーがガリヤへの征討を試みる10年ほど前の事:BC65年頃だが。)機械    的な応用力を生かした<石投げの装置>が頑丈な城壁などを破壊してしまうほどの威力を発揮    した状況、また見えない所では、戦争のための土木技術や大型機械のようなものを造る能力、    また優れた戦闘力となりうる大型の<軍船>を建造する能力や、優れた武器、武具をより多く    造る<兵器工廠>を営むようになった組織的な技術経営力など、、ローマの軍事力は、他をは    るかに凌いで<恐ろしい、すごい、強い>というパターンの始まりだったと云えよう。    さて、<大きな鉄の歯があり、云々、、>(7節)の表現を前提とする、<第四の獣としての    【出現母体】>を<古代ローマ帝国>となしているわけだが、これもまた、背景的に云えば、    主流青銅器文明との微弱併行期の長き過程を経て、その後ようやく顕著になってきた<鉄器文    明>を大いにローマが発展せしめ、いち早くその工、産業的な国力の基盤にまで成長させた様    子、またその国力の勢いが、当時の全ての他民族に向かって伸張していった、その<帝国拡張    の強大さ=鉄の歯>、製鉄技術でもって帝国を存続させうるという姿を捉え見たものである。    ローマ帝国の都、ローマのかっての前身は、ギリシャの都市国家の市を真似た<植民市>であ    ったが、これは、前7世紀以降エトルリア人の支配下にあった先住諸種族(古ラテン人)が先    進文化のギリシャ人を招来して築いていった都市であった。そのかなり平穏な<共和制社会の    形成期:前5世紀〜4世紀>の頃に北イタリアのエトルリア・ケルト人の南下侵入、ローマ市    占領に遭遇し、その力を見せ付けられる。(BC387年頃)このような外来部族の侵入の経    験が契機となり、そのローマ市は新たなる発展をなしていったとみられる。    ケルト人といえば、中部ヨーロッパライン川上流とドナウ川の最上流域(イタリヤからアルプ    ス山脈越えした地域方面)間の広範囲を中心として、イタリア半島を南下したばかりでなく、    西部ヨーロッパ(ガリア、イベリア)、北部ヨーロッパ(ゲルマン族の故地方面)およびイン    グランド島にまで、またその一派は、小アジアでの古名ガラテア(ガラタイの地)にまで広が    った、かのゲルマン民族以前にヨーロッパの古文明を担った人種であり、その鉄器文化は、初    期ではハルシュタット、後期ではラ・テーヌ文化で、その名が知られている。したがって、古    ローマ市はそのすぐれた鉄器文化に大いに影響され、その初歩、基礎的な製鉄技術を身に付け    るものとなっていたと思われる。処でこのことは当然、異な事のように思われよう。なぜなら    ば鉄文化は先進のギリシャ諸都市(東方エーゲ海イオニア伝来)から伝えられて良いというも    のだが、農耕器具や生活用具としての鉄製品は、少なからずその貴重な商品としてギリシャか    らもたらされたであろうが、鋭利な品や製鉄全般にわたる製造技術等は、ギリシャはこれを外    交上、囲っていたであろう。東方オリエントには強大なペルシャ帝国の伸張があり、つねに相    対していたから、これ以上、北や西方からの外敵を作るような発展的施策を執るというような    愚をしなかったからであろう。   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−ところで、ちょっと余談になるが、現代の製鉄、製鋼技術は、大変な超大規模工場プラント    方式で、その諸設備の制御などがエレクトロニクス化されている。このように機械化されてき    たその発展過程には、18世紀中葉前後からのイギリスを始めとした産業革命時代への流れの    中で、近代化への工場生産体制の大いなる体系的基盤の構築がなされきたことがうかがえる。    用いられる動力源も工力的機械仕掛けから新しい蒸気機関へ、そしてやがては蒸気機関などか    らさらに電力系のものへと置き換えられてきたという過程が見られる。産業革命もいよいよそ    の盛況の最中、早くもその19世紀初頭には<蒸気船>が出現、しかも鉄材がかなり使用され、    大量の鉄生産が必要となった。このさき鉄材の需要は、益々伸びるばかりとなっていった。    さらに<鉄時代>を象徴するかのように1825年代になると<蒸気機関車>の鉄道の発展が    イギリスから始まった。やがて軍船もその船体は、大々的に鉄製となり、大型の蒸気機関エン    ジン推進力のものとなり、幾門もの砲台を備えた大型の<戦艦>ともなった。このようにいま    や現代においてもアイアン・エイジ=<鉄の時代>であることには変わりはなく、もっか存続    中といったところだ。種々の特殊鋼を含め、多様な鉄材なくしては、そのあらゆる面での現代    文明は存立し得ないということになろうか。    その意味でも製鉄工房・工廠が顕著になりだした古代ローマ時代から現代までの製鉄技術の流    れは、<鉄文明時代>の到来を物語るものだと云えよう。しかも現代に至っては、大量の<鉄    鉱石>や、<石炭(コークス)>などの資源採取の必要べからざる状況を想定することができ    る。このような状況への意味合いにおいて<鉄の歯>いう表現をあえてそれに転用解釈すると    すれば、まさに地球を喰い尽くす<鉄文化の歯>だとも言えるようなものともなろうか。    人類史からその製鉄技術を振り返れば、古代ローマ時代までに至るその発展には約1500年    前後まで遡る長い歴史が横たわっている。この頃の技術は<錬鉄>を木炭火炎で何度も熱し、    鍛造して、その表面組織を硬くする鋼の冶金技術、<浸炭法>まで進歩してきたということだ    が、それ以前の起源初歩の時代はと言えば、そのまた1000年(BC2500年頃)までも    遡り、その時代ではただ単に<鉄鉱石>を地面掘りの炉の中や、窯炉風の炉の中で、燃料と一    緒に焼くことで、<海綿状鉱鉄粒塊>を取り出し、それを打ちたたいて鉱くずの不純物を取り    除き、ごく少量の<錬鉄>を得ていた状況であった。そんな素朴な処置、鍛造処理であったこ    とが、考古学上、発掘出土された数少ない古代遺物から推測されている。    古代ローマ最初期時代に至って<溶鉄>を型に流し込む<鋳型>工法で<鋳鉄>にするという    技術が果たしてなされていたか、ごく小さな物で始まっていたか、定かでないが、<青銅器>    の生産においては、遥かな古代(BC2000年頃までには始まっている)から<鋳型>によ    る生産技術が主流となっていたから、その応用として幾度となく試験的に試みられ、僅少な試    作品程度のものに留まっていたのではないかと思われる。    とにかく帝政ローマ時代には<鉄鉱石>からの<錬鉄>製法→<浸炭法>処理→<焼き入れ>    →<焼きなまし>鍛造処理法としての<銑鉄、鋼鉄>の一貫製造法が、その基礎的生産体系の    一連の流れ・工程として確立されていたと見られる。分業の鍛冶工房と、別個に溶鉱炉が陶土    の物を焼く窯炉のような形式、或いはかなりの耐火性を考慮して炉内外の構造の造りが工夫さ    れたものとして、その溶鉱作業が営まれていたと思われる。    すぐれた溶鉱炉、特に地上常設の高炉の出現などに関しては、14世紀以降、ルネサンスから    近代に至ってのことで、さらに高熱と不純物処理、微炭素化に最適な燃料として、コークスが    最良だとして利用される<コークス高炉>が登場するのは実の18世紀後半以降の事だ。    このように<鉄製成の工法文化>は、人類における途方もなく長い断続・連続の繰り返し的発    展史として今に横たわっている。    さらに今一つ、<大きな炉>に関することで見逃せない<古代の資料記事>がある。それは、    何といま問題としている、この<ダニエル書>第3章の記述の内にあるもので、<ネブカデネ    ザル王に関わる叙事物語(全体が3幕的に区切られている)>の流れの中(第2幕目)に見出    されるから、案に面白いことだ。このバビロン王の設けた炉がどんな様式の炉であったのか、    何の用に利用されたものか定かでないが、高さが20メートル(60キュビト)以上もある、    <金の像>(1節)を造るためにも利用され、大量の<金鉱石・金塊>を溶かすのに用いたと    も云えるかもしれない。    とにかく耐火煉瓦によって作られたものだと推定されようか、、金以外の金属類、銅や青銅な    どの溶解や精錬に、あるいは自然資源の<銅鉱石>や<錫鉱石>を溶融して銅や青銅を産出す    るために用いたものだったかも知れない。    鉄の産出に関しては、その製造技術が、銅や青銅を生産するような容易さのレベルのものでは    なかったから、そのような常設の炉は、その頃(BC600年前後)では、未だ利用されうる    段階には達していなかったというわけだ。    (しかし鉄鉱石を950度℃前後で燃やして<海綿鉱塊>にして炉から取り出し、鍛造・錬鉄    処理を行うこと等が考えられるが、これだけでは実用物となる品を多く造り出す事はできない。)   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− さて、問題のテキスト本論に戻って、7節の<鉄の歯>の表現に加えて、19節では、その両    手、両足のつめが<青銅>だと表示しているから、一層その怖さが倍加する様相だ。絵で以っ    てこの獣を具象画できるとすれば、まさに奇怪、怪奇の極まりないものとなろう。    <青銅のつめ>も<鉄の歯>との相乗効果で、尋常でない<強さ>、尋常でない<恐ろしさ>    のイメージをその獣に付していると言える。その<脅威の極み>を表す<青銅のつめ>の意味    する、さらなる真意は、その両手両足を思いのまま振り回すこと、自由にその腕力=武力を行    使できるということであろう。過去従来からの<青銅器文明>は、いまやそのピークを過ぎ、    やがてはすたれ行く中、その文明のあらゆる所産が今や最大限に活かされ、<大いなる国力>    としてフルに使いこなされているという意味合いも込められているのだ。    このような様相の<第四の獣>、その<母体>としての<ローマ帝国>の覇権遂行にあって、    それを被る側の諸族諸民族の<尋常でないその大いなる脅威>とは、ローマが有する<ある種    の大型機工兵器団、重装備歩兵団、すぐれた騎兵団>、そして地中海を掌握する<優れた軍船    団>であったということは言うまでもない。    ローマの軍制は世紀前後から2世紀(AD)中が最もしっかりと整っていた時期と思われる。    24軍団(24レギオン:1レギオン当たり1万から1万2千の軍勢か?)の正規軍と、さら    にいつでも予備兵から成るもの、その組織化された兵制は、他の諸部族諸民族のような農奴、    農民や、市民、傭兵らの寄せ集めから成る大集群団の軍勢とは、まさに比べものにならないほ    ど質的レベルですぐれたもの、強いものであったという他ない。(だがその強固さは2世紀中    のいわゆる<5賢帝時代>までのことで、そのハドリアヌス帝の時には、各属州諸市のローマ    市民らからの徴募による、<属州軍団制度>を制定することで、ローマ24軍団の正規レギオ    ンを維持するものとなり、以後その制度が慣行されてゆき、強い属州軍団から皇帝が擁立され    るという勢力的機会が訪れるものとなる。)    いよいよ次は核心の文節、この第四の獣の<頭にある10の角とあと出の1つの角>の真相に    その解き明かしのスポットを当てて見よう。だが、実の処この試みは容易なことではない。い    うなれば不可能に近いほど、難題となるようなものだ。はじめに言説した如く、超遠大なマク    ロ預言の幻示ということ、<神の超遠大な展望を超凝縮して、一つのまとまった表象>として    表現され、神の立場、深慮を考慮するという事になれば、その意図的な相は実に捉えがたいも    のとなるからである。    よって先ず、より正しい立場に立って理解すべく、その視点的前提として念頭にしなければな    らないとした<概呈・コンセプション>を、しかと有さなければならない。これは、獣及びそ    の頭と角(10と1つ)の関係の法理のようなもので: 以下のような<コンセプ概呈>を持    て、ということだ。(人知を超えた、超遠大な展望であるというコンセプトと共に) ◇獣の体と頭・・・・・・→体はその大きな帝国(ローマの最大限の版図としてのもの)頭はどこまでもその帝国の王(皇帝)であり、その皇帝には歴史の流れの中で、色々な性格タイプの王として変遷して行くこと。(10の角などはその後の事。) ◇10の角と 1つの角・・・・・・・→角は<王>を表し(文言テキストどうり)、かつ<王>が、王である以上、その<国>を表すということ。(その民、国無くしては、王とは云えないから。)そして、、この10と1つの角の王は、広大なローマ帝国の領土版図の内外縁から出現してくる<王であり、国である>ということ。(一つだけ例外圏に見られるものもあるかも、、。)   *10の角は、その10の定数を表わすが、また同時に全体を表わす数の全体数の象標(象徴)をも意図するものである。 ◇予型と本型・・・・・・→あと出の<一つの角>には、予型をもって本型(本物)を示すような一見、二重的な可能性を秘めているかのように、かなり巧妙、不可知的にその事が知られ得ないようにベール被閉されているとも。(しかも予型も本型もこの<一つの角>でもって共用アプライされた預言であり、その成就とするものである。)[注]:ここでの獣預言の展開はあくまでも旧約次元(選民イスラレル史的)ベースから 延長進展した側面を一望、展望した象徴預言であり、視点的にそのベース枠から はずれることはない。 AD70年前後にユダヤの旧約の民は、離散の憂き身にさらされた。離散境遇に ついては、かって、失われた10部族民やバビロン捕囚などで、その民族的な経 験をなしているが、このユダヤ人の離散によるその後の長い彼らの生存活動は、 まさにその旧約次元ベースにて予見、予知されていた事象の事柄であり、その預 言内容、その動向での要の一つとして、将来的に大いにその役目、働きをすると いった向きのものとなる。 つまり、後に大いに発展したキリスト教世界、その教会や国社会、俗世的な国々 においても、国を有しない彼らの優れた生存活動の主要な係わりは浸透してゆく ものとなり、その旧約ベース的な預言に直接間接、大いに寄与するものとなる。 (日本の戦国時代でさえ、イエズス会の活動で、ルイス・フロイスやルイス・デ・ アルメイダといった2人の有能な会士は、キリスト教徒会士である事の以前に、 自分らがユダヤ系の者であるを意識して活動をしたという、その例証を見る。) ◇人民主権による民主 主義社会の成立・・・・→最終的には10の角及び、あと出の一つの角の主権は奪われ、その権力主権は、永遠に絶やされるものとなる。 <国と主権と全ての国々の権威>とが、いと高き存在者の聖徒である民に委ね与えられる事が成就するからである。(ここでの預言ももちろん旧約次元ベースからの一望概容の顕われとなっている。)*ここでの文言(7章27節)では、イギリスからの清教徒たちが   新大陸に向け(1620年9月)メイフラワー号で海を渡り、困難   極まりない入植生活確立の歩みを辿り、その後、アメリカ合衆   国独立建国の時(1776年7月)へと、、そういった時代以降の   <民主主義を出発点>とした、新生アメリカの国の姿を最も良   く指し示し、その典型としているかの如くである。   (先住民インディアンとの折り合いが険悪となり、血で血を洗   う紛争、報復が繰り返され、収拾できないまでになった一時代   を辿り抜けてはいるが、、、)    以上の<コンセプション=着眼>は、ある種の先入観だと評されること、明々白々だが、この    ダニエルの夢・幻示がこういったコンセプトを得ずしては、正しく理解できないという仕組み    を元々、本来的にそれ自体が秘め前提としているしろ物だから、あえて先に表明するわけだ。    彼、ダニエルは、若い時から王宮に入り、必要に応じて王の前にはべる者として務め、いわゆ    る宮廷人としてその国に係わる高官の任にあり、<公の国びと>だったわけだが、その反面、    王との人となりにあっては、かなりプライベートでラフな関係にあり、普段は王から打っ遣ら    れても良い、気遣い無用な存在でもあった。そんな王宮国びとのダニエルではあったが、自分    を含め、捕囚となりし<ユダの民>の行く末、そして<祖国の都エルサレム>の事を思い気遣    う日々が無かったなって事はあり得ないことだった。いやむしろ切実なる思いをもって、日々    神に祈り求めた何よりの事柄であったろうか、その将来について、。    バビロンに移され、はや3年目にしてネブカデネザル王の夢の啓示に係わり、それらの事を自    らをして語り記す事となったからには、そういった気持ち、意識の流れとして、自民族ユダの    行く末の事、都エルサレムの将来について、神からの何らかの夢・幻の啓示がきっとあるであ    ろうとの、ある種の願望のような期待感が最初期の内には無意識のうちに培われていたのでは    ないかとの推察もあわせて、、、    しかも王宮仕えの国びとカラーのステイタスが、今やダニエル自身のアイデンティティーとも    なったわけで、そんな身分階層にあったからこそ、<神の視えざる霊の働き>により捉えられ    た<彼の脳>における夢・幻示は、そのかくたる如きもの、すなわち、第7章における内容の    ものとなったであろうか。    ところが実の処、彼にとってそれは、自ら予想だにしなかった、思いもよらない内容の幻示を    受けたという向きのものだったのだ。最初にかようなものがドカーンと来てしまい、当惑、思    いあえぐのは当然だ。しかも、それには自分の民の事、祖国エルサレムについて、何かを告げ    知らせる言葉の一つも、その象表すらもない。    彼にとって、ただ理解に苦しむ、恐れ悩む、こころ憂うばかりのものだった。それに彼自身、    自分は何んで<自民族ユダやエルサレム>の事だけに捉われた、小さな<殻の中>でもがいて    いたんだろうかと、気づかされた向きもあったかと思われる。    とにかく彼にとって、超絶したる内容のものがその最初に来たのだった。その内容は余りにも    スケールが大きすぎる、いわば全世界的な状況におけるもののような、また天的な表象の幻も    含めて、非常にグローバルな一面を醸し出している内容のもののようだった。    こんなわけで、ダニエルにとって、まったく意外なものだったその第7章は、やがて世界に起    る<現世王たちの行く末>やその国々、そして<国とか主権とか>に関わるところ、帰すると    ころは如何に、といった事柄(いと高き者、聖徒)、そして<人の子のような者>と<日の老い    たる方>との係わりにおけるシンボリックな表象、それらすべてが極めて<政治色>の強い思    想の何かを感じさせてくれる、そんな<未来を見すえた預言>内容のものだったと云えよう。    第四の獣なる<古代ローマ帝国>の発展・変容の過程は、全体的に見れば、捉えがたいほど多    様で複雑さに富んだものであり、それ故ここではごく概略的に時代の流れのキーポイントを見    据え、その特質などやターニング時勢となる契機的特徴を考慮しつつ、その謎への解明にスポ    ットを当ててみたい。    《初期古代ローマ帝政期:その隆盛と繁栄、そしてその古典古代の終末》    この時代は、ユリウス・シーザーによって基礎付けられ、アウグスト帝で磐石なものとなり、    その隆盛はまさに上昇気流の盛んなりし時期といえる。その勢いの権勢は、<5賢帝>のマル    クス・アウレリウス帝の代までつづく。アウグストや6代皇帝となったウェスパシアヌスは、    大ゲルマニア(現ドイツのエルベ川沿いまで)やブリタニカ(イングランド)の属州化の経営    に赴踏尽力している。(BC20年頃〜AD40年代〜まで)    5代ネロ帝の後継者となったのがウェスパシアヌスで、彼は、他の僭称皇帝で名乗りあげた3    人の将軍らの帝位争奪の内紛と、そのイタリア・ローマの様子を一時の間、見守るような立場    にあった。    この内紛・内乱はネロ帝の死(68年6/9日)後、およそ1年余の間続き、翌年12月20、    22日に相次いでローマ入城したウェスパシアヌスを支持する2手の軍団によって市は征せら    れ、平穏を回復することができた。その間、イスパニアの総督将軍のガルバが帝位権をとって    いたが、69年1月15日ローマの公共広場で暗殺された。    次には彼に対抗反目していたオットーが帝位権を執ったが、ゲルマニアからその大勢軍団を引    き連れてきた総督ウィテルリウスとの、北イタリアのクレモナ方面での一戦で敗退し、その年    4月17日に自害の憂き身にて没する。    ローマはゲルマニア軍団とその同盟支援の大軍で溢れ、混乱の内にその年の12月を迎えた。    その月の19日に再び内争、ローマの神殿カペトゥリオンを占拠した反対派勢力との衝突、神    殿の丘は騒然とした戦火にさらされ、ゲルマニア兵に制圧されるが、翌20日には、ローマに    進軍してきたウェスパシアヌス支持の属州パンノニア(現セルビア、ブルガリア)とミュシア    (現オーストリアハンガリー地域)の合流軍団(第7軍団と第3軍団)によって、ウィテルリ    ウスの軍団は一掃鎮圧されることとなる。    すでにその年の7月以来、皇帝に擁立され、大いにその栄誉と威信を高めていたウェスパシア    ヌスは、配下の軍団(第5、10、15軍団)だけでなく、続々と諸州の軍団が支持と忠誠を    表明するものとなり、この時点でウェスパシアヌスの帝位は決まったも同然であった。    ところで、ネロ帝の死と、68年〜69年の帝都ローマでの内乱が起らなければ、その年の内    にユダヤ・エルサレムは、このウェスパシアヌスを総指揮官としたローマの軍団によって壊滅    されるに至るはずだった。が、その内乱の間だけ一時延ばされることとなる。    エルサレム以外のパレスチナ(ガリラヤ、サマリア、イドマヤ、ペレアなど)のすべての町々、    村々のユダヤ人らは全て制圧され、68年にはエルサレムは、四方八方にローマ駐留軍、監視    兵が配備されて、まさに孤立状態の憂き身にさらされた。    東海岸の大きな港湾都市カイザリアの本営では、いよいよエルサレム総攻撃包囲作戦に出る準    備が整いつつあった。そんな矢先寸前にネロ帝の急変の知らせを受けたのだった。そんなロー    マの急変により、その作戦は延期され、その変更を余儀なくされた。    エルサレムのその時は70年の年に、今の暦で云えば、その8月末には遂に神殿聖所に火の手    があがり、さらに各所に火が放たれ、その一ヵ月後9月26日に陥落征圧されるものとなる。    この時、指揮を執ったのがウェスパシアヌスに同行し、ユダヤ制圧のため、終始その第15軍    団を指揮していた、彼の息子ティトスであった。    彼は、神殿の焼け落ちるのを望んではいなかった、むしろ彼には、この大神殿をローマ風にリ    フォームし、大ローマの栄光となさんとする思惑を抱き始めていたのだったが。、、、、 この頃の最大の悲劇は、ユダヤ人の反乱に対するローマ軍による惨憺たる撲滅征討とエルサレ    ムの滅亡であったが、その惨劇の起因するところは、ローマのユダヤ民族に対する支配のあり    方にあった。彼らユダヤ人はその宗教的選民意識をもって、どんなに被支配の立場にあっても    民族的主権意識を内に秘めた、他に類無き頑強な人種であったので、ローマの属州化政策は、    思いどうりにはいかなかった。そのあげく、ネロ帝の時代になって、その総督ら、特に60年    代の二人の総督アルピヌス(62−64年)とフロールス(64−66年)が悪辣非道の私欲    をもってユダヤを治めたので、その叛旗の思いはピークに達し、又ユダヤ側の質の悪い過激な    血気集団の先導も手伝って、その反乱へと走るものとなった。    この二人の総督らの悪道によりユダヤパレスチナ全土は、無法のやから、盗賊どもの暗躍する    ところともなり、犯罪が多発、あたかも無法地帯化したような風を呈するものとなった。反乱    分子や暴徒が各地で出没し、気勢を上げた。遂にシリヤの知事で上官だったケスティウスが、    ローマの正規軍団第12軍を率いて、ユダヤに乗り出し、一時エルサレムを包囲するが、士気    の上がらぬ自軍の雰囲気を見てとったのか、何故か分からぬまま、生半可な攻撃とその包囲を    解いて退却してしまう。その帰途に乗じてユダヤの反乱部隊に隙を衝かれ、打ち破られ敗走す    るという惨敗をする結果となった。これは66年11月ネロの治世の第12年の事であった。    ユダヤ全土に反乱分子の叛旗が揚がるのを予期したネロ帝は、最善の処慮をもって、数々の戦    歴軍功では今やこの人物を置いて他にないといえる、ウェスパシアヌスをかつぎ挙げ、ユダヤ    征討に使わすものとなるというのが、諸々のローマ史の伝える一般的な見方なのである。    しかし、実際の真相は、闇に隠されたものだったかも知れない。いやむしろ、それは当代の史    家らでさえ知りえない、書き記すに至り得なかったものがあったかも知れない。このネットページの著者はまた、本論からわきにそれてしまうが、このあたりのところを一説、    述べないではいられないようだ。 かの《夜の幻のうちに、わたしは見た》というが如くに、    なんてと、いうわけではないが、、。”ネロよ、お前の母は、お前の祖父にあたる父(ゲルマニクス)を、その幼少のときに 亡くし、一族姻戚の中でどんなに辛い思い、低落失意のうちにあったことだろうか。 その折、祖母からも、時の帝によって母は、その下を引き離されたからだ。お前の母 の父、祖父は、本当ならば、当初の取り決めにより、帝位を継ぐものとされていた。 母にそのような過去がなければ、ネロよ、今頃お前は帝位にはなかったであろうに、 それでも母の兄カリグラ(この名は愛称)が曲がりなりにも祖父(ゲルマニクス)の 代わりに継いだのだが、まがい物の捨てるように消されてしまった。丁度、お前が、 生まれる時の頃だったから、お前の母の失念の思いが再び燃え上がるごとくに、より 一層心に刻み留められたことであろう、、、、そして、母の思いはどんどん過去へと 引きずり込まれてゆき、燃え上がる女の執念となって、彼女の叔父、クラウディウス に向けられたのだ。ここからもう一度始めようとの思いをこめて、、、自分の思いと   夢を、ネロよ、お前に託し、お前を立てて叶えようとしたのだ。 お前は幼少より本当に良く学んだものだった。他の学び仲間よりも、、、、ギリシャ の色々な事から、また自国の知識、言語も、、15、16才頃には、はやすっかりギ リシャの演劇物語、悲劇などの虜になってしまっていた、そうだ、そんなお前であっ たからこそ、母の叔父殺しの惨劇も許せたとも、、同情の念さえ覚えて、、、それ故 また、母の思いと一つとなって、お前も続けて、<ギリシャ悲劇>の復讐劇をやって しまったのだ、義兄弟・いとこのブリタニクスを、、、、、、また、お前は、セネカ の下、そのご教導により帝王学を学びて、すっかり権力とこの帝国の偉容な富の力の 虜になってしまったのだが、ここに来て、なお母の癒されない異様な失念から来る、 おぞましい力の影を感じて、、、お前は、遂に母さえも殺ってしまったのだ。さらに は讒言がざん言をよび、それに乗せられ嫌疑し、あらぬ罪を着せて妻オクタウィアま でも、、、いっ時の乱心か、それとも久遠の狂気か、自らの権力に支障あるもの、害 あるもの全てを取り除き滅せんとするその心は、、、さらなる野望とその陰謀への狂 気の悦楽となって羽ばたくというものか、、『全世界に知れ渡っている、あのユダヤ の大神殿を潰さなければ、ローマの本当の偉大さは、これ以上進まないのだ、あの神 殿があるから、われわれローマの神殿は、栄えないのだ、、大いなる大ローマの繁栄 の為に、あのユダヤを!』、、、、 お前の側近、あの解放奴隷の下僕の高官らに言われた言葉が耳にひびく、、、、遂に 新たなる帝国の一大国策のゲームを始動させることとなる。その密謀を秘めて、、、 もはや、お前の師、助言者なるセネカのあずかり知らぬところの事、そして今や最も 頼もしくも、信頼できるウェスパシアヌス大将軍を切り札として留めおき、その詰め の最終を見事に演出し、後始末するのだとの目論見を秘めて、、ただ者ではないお前 の現実、、、、、 こうしてただならぬお前の狂気の策謀は始まったのだ。ユダヤへの総督は、代わる代 わるにあの<アルビヌス>と<フローロス>を遣わし、シリアへは知事として、<ケ スティウス>送り出して、、、そして、ローマの大火もその新しい大ローマの為に! ただ者ではなくなったお前の、その大それた仕業、その結末は如何に、、、それは、 このわたしが、この<日老いたる者>が決めるものとなったのだ。 天下の将軍ウェスパシアヌスを伴ってのアカヤ(ギリシャ)への巡幸も、その周辺、 東方地域、特にユダヤの状況、様子をいち早くつかむためのものであったろうに、、 ネロよ、お前の狂気と野望についてのわたしの秘言はこれで閉じようか。、、ことの 発端は、アウグストがティベリウスにタネ蒔いた非業の策が、、娘ユリア(Julia) 再婚のため、また血筋の後継者を得んとする執着心のために、無理やりティベリウス の最愛の妻を彼から引き離したことが、、、ネロよ、お前の祖父ゲルマニクスの身に ティベリウスの妬みとなって、降りかかったのだ。、、、、””    さてこの時期の時代の動向で注目すべきことは、皇帝帝位権が軍団の熱声推挙により、その擁    立実現が可能となるという体勢を公にしたことである。元々そのような皇帝権のパターンは、    ローマ帝政のさきがけとなった初元ユリウス・シーザーの権力執建に見られようが、これによ    り四氏族(オクタビアヌス、アグリッパ、アントニウス、ティベリウス・クラウディウス・ネ    ロの四家)系による帝室一族の皇帝権の世襲制というものは実親から実子という直系の形では    現実化しなかったし、また慣例的法制化もされることはなかった。今だ他の有力元老院貴族に    よる<共和制>の制度が遵守されていたからである。この四氏族系による姻戚血族間での<養    子世襲>の維持は対元老院など外に対しても、帝室内のうちわにおいても、帝位をめぐるその    継争護持の様には、し烈な厳しさ、修羅の場があったのは確かだ。    ネロ帝後のウェスパシアヌスの帝位継承は、その後のローマ帝国の発展に大いなる幸運の平和    と繁栄をもたらすものとなるわけだが、皇帝権継承に関わる元老院議員の主体的意思決定は、    ほぼ完全に喪失されるものとなる。ウェスパシアヌス自身はたまたまその時、最有力な、まさ    に元首的な元老院議員であったゆえ、元老院からの支持もその議事にかけられる事もなく、歓    迎黙認の内に表されるものとなった。このようなウェスパシアヌスの時以来、帝都ローマの議    場を離れて、<皇帝権>は、諸州有力軍隊からの推挙擁立を以って、そして、その帝位の<世    襲化>もきわめて一般的な慣例の諸事と見なされるものとなる。皇帝権存続のセキュリティー    は、何はともあれ、その善政の執行と、帝国のより良き繁栄に根ざしたものであったわけだか    ら、それが満たされれば、国乱れずして<皇帝権の世襲>は、すべての社会層から支持、了承    を得られたものとなった。元老院の政治的な力も、世代々々の流れにおいて、その議員層の出    身構成が異なり変化してゆくゆえ、その過程での皇帝権との間には、協調同和、反目対決、あ    るいは主導服属とかの力のバランスがあり、そういった状況で、時代を生き抜き対処するもの    であった。ローマの平和と繁栄を最大限に謳歌した<5賢帝>の時代をその例に挙げれば、賢    帝最後の皇帝マークス・アウレリウス(161−180)は、かなり哲学的素養の人であった    が、それゆえにその明晰さによって、ローマの内情と諸州の発展繁栄の時代的流れをよく読み    とり、帝都ローマに在住すること久しくすることなく、自ら属州での任務遂行に当たるのが常    であった。つまり再び元老院の議員勢力が衰退傾向にあり、皇帝権が諸属州から擁立されるよ    うな時代に向かっていたからである。この事はまた、ローマ中央の政治的求心力が、諸州の経    済的自立に根ざした主都的自治権の強化発揚により、無力化されかねない可能性をより一層懸    念させるものであった。とりわけこの場合、諸属州の総督が中央元老院系に属する人的組織で    ある限りは、中央からの体制力は、その広大な帝国をまとめうるものとして保持されるものと    なっていた。そんな危機的状況と隣り合わせの彼、アウレリウスには、自分のドラ息子・コモ    ドスへの皇帝権世襲の大事を全面的安堵の思いでもってなし得るとは思えない処があった。そ    の後継問題では憂慮すべきところ多く、悩みを抱えるものとなった。そんな心中状態の最中、    彼は属州パンノニア(現ウィーン東方辺、ドナウ河畔)の陣中で病没するものとなる。    結局、彼の息子コモドスが帝位を継ぐものとなる(180−192)が、国庫は乱用浪費、善    政はなおざりにされ、その後は、再び諸属州軍団による<皇帝帝位>の擁立や併立、あるいは    争奪の混乱期にいたる時代を迎えることとなる。    やがて古典古代のローマ帝政期は、ほんの2世紀足らずの時を経る変遷過程で、ゲルマン諸民    族の進出、同化、対抗的な動勢発展を見るうちに終末的な時代への変遷を向かえる。    新たな皇帝の登場、コンスタンチヌス大帝がその時代の流れを変えてゆく契機となる。やがて    ゲルマン諸民族を含め、旧来の諸衆族からのキリスト教的ヨーロッパの初期形成期が中世の時    代を形づくってゆく。超展望的マクロな<10の角と、あと出の一つの角の予言時代>が、こ    の世界史的状況の先に見据えられたものと見られる。  以上にて、詮方ないが第7章での<マクロ的なもの>、その2は、長くなるのでここまでに留めお  き、   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  次は、最後にミクロ的で、しかも長展望性を有した、ダニエル預言終盤にいたる<第11章2節〜  12章13の終節>における幻視預言の叙述から、その部分的符合個所の幾つかを垣間見る如くに  検証しておきたい。ところが、その照合符合の確かさを得心できるほどに進めることは容易な事で  はない。ここでの記述預言は、ダニエル自身が、ペルシャの王キュロスの第3年(536BC)時点にお  いて、ほぼキリスト・イエスの時代、AD70年エルサレムの滅亡にまで及ぶ、長期な範囲を対象  的に見据えたものだからである。  したがって、その言示内容は、凝縮ポイント的に特定時期を把捉アップしたものとして、その当該  性は、実際の歴史にあって容易ならざる複雑重複性を漂わせるごとくである。それに加えて、文章  を普通の理解の仕方、つまり、主語などに係わる文の前後関係を考慮して読み解くといったかたち  ではまったく理解不能とした文言個所があったりもする。これは文から文へと進むなかで、まった  く気づきえない普通ふう形式であるのに、そこでの文が、実に個々独個な事柄を言示するものであ  るとして、その凝縮ポイントを、まさに個々並列文言となっているというものである。  (それは言葉の預言が成就する時までは、如何なる人によっても容易に解き知られてはならないか  らである。つまり、ダニエル書の12章4節の結びの言葉にある如く、“秘して、封じておくよう  に”と、ダニエル自身に命じておられる事と同義であり、かの亜麻布を着て<人の形をした者>、  その方自身が、<わたし>と表現して語られる言葉、ここでは10章の20節から長々と語ってい  る言葉となるが、それらに向けて、深慮、入念なる予測ゆえに、非常に思慮深く対応されていると  いうものとなっているからである。)   ★ミクロ的で、長展望を前提としている重点的スポットなもの: 聖書テキスト【第11章1節以降45節参照】   @、キュロス王の後にペルシャには3人の王が立つ。カンビュセス、ダリヨス、クセルクセスであり、その四番目クセルクセスが、ギリシャへの大規模な遠征をなす。(480年BC)そして、その後のペルシャの時代の150年ほどの時は過ぎ去り・・・・預言省略ギリシャの領域から新たに“ひとりの勇ましい王が起る”、これはスパルタ以外のギリシャのすべての都市国家に覇権を制していたマケドニア王国の王、アレクサンドロス3世であり、ペルシャを征服して、その大いなる権力をもって今や世を治めるものとなる。(ダニエル書の他の章、8章の<二本の角の雄羊に向かって行く、猛々しい一本の大きな角の雄やぎ>の記述内容も参照にて)だが、その彼が権勢はなばなしく強くなった時、彼の国体勢は破れ断たれるものとなる。これは大王アレクサンドロスが323年BC、バビロンで死去する事を予見したもので、思いがけない突然の彼の死で、<後継者問題が大変な事態となり、まさに即、致命的な“彼の国の破れ”となって、それを顕わにした>という訳である。   彼の死が、熱病によるものか、それとも彼の政策処遇に危機感や不満を抱いて、毒をもって の暗殺をなしたものであったのか、まったく特定することが出来ないが、とにかく彼は、自分の築いた国と共に破たれたわけである。そして、その国全域が“天の四方に分かたれ、、、彼の血筋、子孫には属することなく、他の者たちに分裂、帰するところのものとなる。”との預言がなされている。ここまでが、第11章の<2節から4節までの文言>となるが、323年BCの大王死後の後継者(ディアドコイ)争い(数々の戦争と抗争的政略)は、終わる事無く断続的に繰り返されて、世代交代の時代まで続いたと見て取れる。306年にアンティゴノス(382-301年)が、その子デメトオス(337-283年)と共に王位を宣言(小アジアを拠点にして)したので、それに対抗して翌年には、プトレマイオス(エジプト)、セレウコス(メソポタミヤ)、カッサンドロス(マケドニア)が王国王位宣言をなした。これにより一時的(305-301年)ではあるが、大王制覇の遺領地が4つの国に分かたれると、ダニエル書の8章21〜22節で云う文言が、それに相当するとしてその成就に至るを見る事になる。これは大王の遺領地が何時ともなく3つ、或いは4つのいづれかに分かたれて継承されゆく時代の在ることを考慮してのものである。BC280年代の終わり頃には、大王アレクサンドロス側近のディアドコイ(後継者)達は皆いなくなるものとなる。(セレウコス、プトレマイオス、リュシマコスらは281年、デメトリオス283年、カッサンドロス297年没) 4つの著しく目立つ角(8章8節)は、セレウコス、プトレマイオス、アンティゴノス(デメトリオス)、アンティパトロス(カッサンドロス)を指標したもので、マケドニア兼ギリシャ領域圏は、子の代のカッサンドロス、デメトリオス、それにリュシマコスやエペイロス王が係わって、まだ小さな都市国家でしかないローマがその領域圏に加わり、その行く末が特定されるものとなる。8章での預言は、560年頃(ベルシャザル治世第3年)とあり、この11章ではキュロス王の第3年、536年BC頃だから、20数年過ぎた隔たりがあって、ペルシャ後のギリシャに根ざしたその行く末に関わる11章での内容はより具体的に、歴史度のある記述様相を呈している。この11章では、8章で特徴的に表示された<4つの角、および4つの国>にこだわるような、同様な表示はなされていないが、その内容を踏まえて、大いに先々への予見表示がなされ得る様な意図が込められており、留意すべき点となろう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
*大王アレクサンドロス3世の死後の歴史、いわゆる現在、一般史として知られている限りでは、大王の血縁関係は、
316年に異母兄ピリッポス3世とその妃が、また同母妹クレオパトラがその頃以降、プトレマイオスとアンティゴノスとの政争の犠牲となり、消されている。
大王直系では、310年に正妃ロクサネとその子アレクサンドロス4世が、
翌9年には庶子のヘラクレスが、いずれもカッサンドロスの関与、手引きで消されている。
最終唯一残った大王の血縁は、異母妹のテサロニカで、カッサンドロスがマケドニア王位継承権を正当化するため彼女をとどめ、これと結び、305年王位を宣して王国を継ぐ。
生まれた3人の息子(ピリッポス4世、アンティパトロス2世、アレクサンドロス5世)の代(297−294年)に、後者2人が王位を独占する争いで、デメトリオスとリュシマコスの介入を招き、その結果は、双方とも消される。その間に母のテサロニカも、295年に息子のアンティパトロス2世に消され、大王アレクサンドロスの血縁、直系子孫は完全に絶たれたものとなった。ギリシャ側マケドニア王国は、その折りに一時デメトリオスが治めるが、さらにこの領域での継承抗争は270年代まで続き、ようやく、276年にデメトリオスの子・アンティゴノス2世が祖父アンティゴノスの名で示す<アンティゴノス朝>王国への時代をむかえる。その頃はまたプトレマイオス王朝、セレウコス王朝の最も盛んなる状勢時であり、三つどもえの3王国がが継争、割拠する。 *大王アレクサンドロスが当該標榜せんとした国は、いよいよこれからという処であったと思われる。果たして何らかの理想的な国づくり構想を思い描いていたであろうか、問われるところでもある。10年余でペルシャの体制を一掃し、自らの意としてその最初の大成、ペルシャからすべての人民の解放をなしえたと、少なからず、或いは大いに自負するものだったろうか。ペルシャの属州トップを次々と自分の臣下にすげ替えて、事をなしていったと見られるわけだが、その大成のなるや、12年でアレクサンドロスは世を去る破目となった。彼が意図した最後のしるしとさえなったのは、スサでの兵士らを含めた大規模な集団結婚式であったと、歴史的伝記類から知りうるわけで、自分の立場を堅め表すると共に、東西融合政策の手始めともなり、且つ、新たな国としての門出のシンボルでもあったようだ。この東西融和を込めた如き集団結婚式は、その結実結果としてみれば、ダニエル書の第7章5節での言示、<三本の肋骨を口にくわえた熊>を象徴した事象結果に通じたものとなる。この場合、<口にくわえた状態のまま>に言示の意味がある。つまり、“噛み砕いて飲み込んだ”腹、胃袋に入った=消化されたといった表現が付け加わっていれば、<東西融和>のうまくなされて、先々の状況が良好となろうとの見方がとれるものとなる。だが、現実は様々な点で、アレクサンドロスが死ぬ直前までにさえ、<破れ>をもたらすものとなった。アレクサンドロスが、もしアリストテレスを師として、その学園生活をなしていなかったら、そのような大業をなした彼とはなり得なかったであろう。その学業期間は、342〜340年BCのほんの3年足らずであったが、14才前後からの多感な精神的成長期にあるものであったから、王宮でのある特異な環境下で育ってきた彼の立場も作用してか、その精神素養の影響の強さは、彼の人生を左右、決定付けるほどのものであったと言える。彼の父フィリップス2世王は、王都ペラから離れたミエザの学園に、かのアリストテレスを招来して、息子の教育にあたらせた。父王フィリップスは、かねてより母親オリンピアスの教育、影響下から息子アレクを早く引き離したいと願っていたとみられる。その頃、王と有 力貴族、王族らとの関係がしっくりいかないのは、オリンピアスにその原因があるのに気づいていたようで、息子アレクを世継ぎ、王位につけることさえ、皆ひどく嫌うようになっていた。父王でさえ王族、貴族らの軋轢を感じる事があるほどで、息子アレクは、母親の背中を見て、母親がひどく軋轢を受けているのをしばしば感じるものとなったが、それは自分が居るからだと子供ながらに思うようになった。また自分への風当たりも良くないものとなってきていた。彼の宮廷での生活の重苦しさからの解放は、母の下から離れ、かのミエザの学園生活が始まってからであった。ここでの学友仲間との交わり、学びと訓練を共にする事の喜び、味わいは、深く心に刻み込まれ、自分のこれからの未来と、世界が開かれ行くのを感じ入るものとなった。また自分を取り巻く学友との友愛の情をひどく感じるものとなった。   こうして、精神素養豊かに第一級の若者にふさわしく、勇猛心、冒険心、探究心に溢れ、友情の心、厚き王子となっていった。だが、現実は様々な障害、試練の連続であり、それらを乗り越え、マケドニア王国から仲間と共に、自分の理想をめざして、雄飛する自分を思い描いて憚らないものとなっていった。彼にとっては今や、神々から授かった大志ゆえのそれとして邁進してゆくほか無かったと思われる。(大王アレクサンドロスに関する古代の幾多の歴史的伝記類から、その人物形姿キャラを辿り見る限り、BC336&334からの遠征、その12年間、323年時点へのプロセスで、東方ペルシャ的王権の大王へと変貌を余儀なくされてゆく、そんな感じの着色、粉飾がなされているかも知れない。   [注]:アレクサンドロス3世については、その名声と共に不滅の歴史事蹟となったわけだが、実 際の処、その史実的実像となるパースンキャラを、第一次史料となるものだけのベースか ら捉え知ることが出来るというものではない。同時代の古代史家とか、大王侍従の史官や 書記官によって、情報となる史料が幾ばくかは残存していたであろう。BC3世紀末頃以 降には一時なりとも、アレキサンドリアや、小アジアのペルガモの図書館などに<大王伝 書>の類として所蔵されていただろうとの推定もなされえよう。 ただ紀元前後のローマ時代にはアレクサンドロス大王に関する文書が非常に豊富になって その関心度の高さが窺がえるものとなる。ローマが世界第一等のものとなり、今やローマ が世界となりつつあるという自負心があって、大王アレクサンドロスの事蹟を自分たちロ ーマ人のアイデンティティーのうちに取り込み融和させて、より一層自分たちの存在を高 め、ローマ文明、その大いなるを讃えんとするかのようである。 その代表例として、二人の対照的な歴史家、伝記作家を以下に挙げておこう。 ・ディオドロス・シケリオテス:(BC80年代頃生〜BC20年頃没=正確な生没不詳)作品:『歴史叢書』・・3部40巻からなる当時の世界史、第一部:神話時代及びオリエント古史からトロイ陥落まで。第二部:アレクサンドロス大王の死まで。第三部:ローマ・カイサルによるガリア征服まで。   *アレクサンドロスに関しては、アレキサンドリア図書館史料、クレイタルコスの「アレクサンドロス伝」(BC3世紀中頃著出)、ペルガモン図書館などから大王死後のディアドコイ戦争時代を扱ったヒエロニモスの「後継史」等からその内容の引用、または参考引見されたと見られる。(ヒエロニモスは、最初に大王の側近書記官、兼のち部将のエウメネスに仕え、その後、アンティゴノス、デメトリオス、アンティゴノス2世と仕えた文官(書記)で、大王の後継者の同時代史を著わした。原著、写本などは、失われて残存しない。)   *ディオドロスはシチリア出身で、前67〜50年頃にかけエジプトに滞在、その他ギリシャ、地中海世界各地、イオニア方面を旅している。ローマでの滞在も度々、何らの確証もないが、最後はローマで没しただろうと推定される。彼の大王伝記事には、アッリアノスやプルタルコスなどの伝書とは異なる、その著述部分が幾多あることが知られている。 ・クイントス・クルティウス・ルフス:(AD1世紀の人物、アウグスト帝末頃の出生、生没不詳)作品:『Histories of Alexander the Great=アレクサンドロス大王伝 』10巻から成るが、1、2巻目は消失、*内容は物語風の伝記で、歴史史料価値には欠けているが、大衆向けの読み物といった感じで、それなりの良さがあると見られる。だが、この作品からの他への引用関連は見られず、孤立的な古書となる。   *この人物は、生涯素性などほとんど不明で、知られうる残存古記録は皆無に等しい。推察され得たある一説では、かってティベリウス帝の後見人だったとする見方があり、クラウディウス帝のAD43年時に、何らかの欠職補充として10月から12月までの執政官として、皇帝に選出され、仕えたとして、ローマ・コンスルの年代記録リストにあったとされる。(かって共和政期の最高位権力を有したようなコンスルではなかったが。)この説は、半世紀近くあと、ほぼ同時代人と云える歴史家であり、元老院議員でもあったタキトゥスが調索、解しえた見識から出たものらしく、証拠立てとなる史料は何も残っていない。 ■大王アレクサンドロスに関わる、ほかの歴史家については、ここをクリック  A、上記のごとく、4節までは、きわめて簡略冒頭的に、的確に捉え示したあと、主内容的な流れの預言に移行展開するものとなる。ここで注意すべきは、ダニエル自身は、キュロス大王の第3年目にあって、しかもペルシャの中心地(バビロン<チグリス河>スサ)に居ながら<預言内容そのものの視点>は、バビロン捕囚帰還後のユダヤの民がエルサレムを再建するという成り行きでの、エルサレムに視点が置かれ、そこからの目線に基づくものとなっているということである。それにより<南の王勢と北の王勢>という大枠レーアウトが定まり、以後の預言内容が順次ポイントアップ的にみたされるものとなる。<5節の文言>は、”南の王が強くなる、、”で始まる。四方に領版域が分割されてゆく段階で、、、305年BC以降、エジプト・アレクサンドリアに拠るプトレマイオス(一世)はその勢力範囲を拡大してゆく。その過程で遡る事、316-15年の事とだが、バビロニアの太守に初めて任職(これは帝国再編成会議、遺将、遺臣らにより321年BCに北シリアのトリパラディソスで、取り決められた分割協定による)されていたセレウコスが、当時の最高総司令官職にあったアンティゴノスの後継者野心による勢力拡大の為、バビロニア太守を追われ、エジプトのプトレマイオスの処に落ちのび留まる事となる。そのおりに、9才ほど年上のプトレマイオスの下に客食将軍として仕えるものとなり、2、3年の間、軍事、政治に関わる事だけでなく、色々な面で、先輩プトレマイオスの手腕の良し悪しを学び吸収して、さらに実力アップへの素養を付けるものとなる。その頃、すでに320年にプトレマイオスがシリア太守(ラオメドン)を追い出し、領土拡大を兼ねた挙に出ており、それ以降急速にアンティゴノスとの対決姿勢が現実化していった。それ故すでに、エジプト(南)から、北シリア・小アジア方面(北)での初期預言形勢版図がその歴史的現出をなすに至った状況であった。アンティゴノスもプトレマイオスの進出後、すぐに南シリア、パレスチナ方面への進出を計り、プトレマイオスの将軍ニカトール勢を追い払うなどして、316年頃には、シリア方面に息子のデメトリオスを太守職に据える如くに担当派遣するものとなっていた。312年になり、エジプト・プトレマイオスの反撃のチャンスが到来した。その頃アンティゴノス自らが北シリアから海路伝いにギリシャへの勢力拡張遠征に出ており、シリアの全域は、子のデメトリオス勢だけの守りとなった。この機会を逃さずエジプトはシリアへの進出を試みるわけである。そのプトレマイオスの反撃に客将セレウコスも加わり、大いに一役買うに至る。迎え撃つデメトリオスは、<ガザでの戦い>で敗走する。知らせを受けていた父アンティゴノスは、急遽シリアに戻るが、その隙の間にセレウコスは、プトレマイオスの支援によりバビロニアへの帰還(311年)を果たす。その後、アンティゴノス側の大勢力による再三の征討戦にも、巧みな夜襲、奇襲により討ち堪えて、自領バビロニアを守り抜き、かって元の太守職に返り咲く以上に大いなる存在となってゆく。やがて306-5年〜301年にかけて、4王国分立時代に至るが、小アジアを拠点とするアンティゴノスとその勢力は、301年に、反アンティゴノス派の同盟勢力により、フリュギアのイプソスの会戦で、セレウコス、リュシマコス連合軍に敗滅する。これによりセレウコスは、中北部シリアから小アジア中南部に領有を拡大する。小アジア中北部から海峡を渡ってのトラキア地方は、リュシュマコスの王国となり、なおしばし、4分王国時代が続く。かって、エジプト・プトレマイオスの配下に客将として仕えたセレウコスは、大きな存在となり、翌300年BCには北部シリアのオロンテス河畔に新都の建設に着手、これが父祖アンティオコスの名を冠した<アンティオキア>として、後世まで残る。5節での<強くなる、その将軍のひとり>とは、まさにセレウコス以外に見当たらない。  
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
以上にて、ダニエル書11章5節の言文は、南の王、プトレマイオス、その将軍の一人が、セレウコスとして、照合特定されるものとなる。このような込み入った史実的事情におけるものから、そうしたかたちでの預言的中を成らしめているという事は、神から賜った預言の驚異的な権威性をいかんなく高めるものと言える。B、続いて、6節以下だが、いよいよ<南の王と北の王>を軸にその勢力事情の展開となる。だがこの6節として仕切られた部分はかなり長い文脈から成り、その関連内容が一つにまとめられているのが判る。(元々古原典には節の符割りはなく、後世に節別けされたが、)ここで言示されたひと纏りの関連内容が内包示唆している歴史事蹟は、一般史的に取り扱う立場からすれば、その詳細な記述が可能とすればかなりの分量のものとなろう。キーワード的に要点を順にたどると、<縁組和親=南王の娘が北へ>⇒<女は政威力、立場を保ちえず>⇒<その王も子も失墜>⇒<結果は、侍従者も含め、死にわたされる>=他の英訳、邦訳では<女を招いた支持者も、女に子をもうけた者(王)も、女をその所有利権と共に強く支えた者も、など>がある。さて、この文言内容に関する照合比定ということになるが、この6節は、“年を経て後、”或いは他の訳文では“何年かの後、”とかの言葉で始まり、以下続き文が来るものとなる。“、、〜縁組をなし、、〜和親を計ります。”この言葉の裏には、南と北との戦いの終結の直接的な和議が現場宿営からか、或いは宮廷特使の派遣によりなされた事情が隠れている。しかもここでの文言段落の予言主役は、<嫁いた女>であり、そこにスポットが当てられているということ自体に、預言特有の高度な秀一性が潜んでいると見られ得る。これは、南の王と北の王の関係がほんのしばらくの間、一応の併存、共立関係が続いた後、両者の間に勢力伸張の衝突、紛争が起きてきた状況経緯の事後を前提とした予見表示であると言える。その歴史的背景は、少々溯って概略的に説明すると、以下のようである。、、南のプトレマイオス朝の創始者・プトレマイオス1世と北のセレウコス朝の創始者・セレウコス1世との代には、その両者の間に、さしたる紛争は生じていなかった。セレウコスにはバビロニア州復位に関わる大変な恩義があった。また、二人の間に密約(後継者として共に最後まで残り、ゆえに、お互いは争わない)を誓ったとも、、、それがあったからこそ、セレウコスは、後事を気にする事なく、むしろ守られて東方バクトリア、ソグディアナ、インド方面への大王以来の再度の遠征を成し得たといえる。それにはお互いの通商経路、つまりインド方面からアレキサンドリアまでの通商利権に関わる協益意向も含まれていたかも知れない。)彼らは、BC281年の同じ年、又はプトレミーの方が数年先、285−82年頃に亡くる。その没し方は異なるが、、(没年は、古史料類とその史学研究により異なるようだ。)彼ら両者の子の代になって、その当初から、すでに険悪な空気が漂い始めた。つまりセレウコスがトラキアとの海峡近くの小アジアで、プトレマイオス・ケラウノスにより暗殺されたことが、両王朝の間に暗雲をもたらした。セレウコスの長子アンティオコス1世は、父を殺し、マケド・トラキア王に登位したケラウノス、そしてリュシマコスの王妃で、未亡人になったアルシノエ(2世)と結んだ事の振舞いに、2人ともエジプト・プトレミー家出であったから、何はともあれ不信に思い、一時、怒りと疑心暗鬼がその頂点にまで達した。そんな訳あり状況の中、その後それらの事が遂に第一次シリア戦争(274-271BC)への導火線ともなった。(プトレマイオス・ケラウノスは、エジプトのプトレマイオス1世の長子であったが、父王との意見対立で追放、その王位の継承から外された流浪の身で、トラキアのリュシマコス王の下に身を寄せていた。リュシマコスの後継者問題に絡み、ケウラノスの援助手引きにセレウコスが応えてリュシマコスと戦う事に、それでリュシマコスは敗死する。その後、同行していた当のプトレマイオス・ケウラノスの手に掛かり、セレウコスが暗殺される。)第一次となる戦争は、北の王・セレウコス朝アンティオコス1世が、南シリア(コイレーシリア)に向けて侵攻してゆくことで始まり、エジプト・プトレマイオス2世(南の王)が受けて立った。これの詳しい事は、古史料記録を残さなかったか、残らなかったかで詳細は知られないが、274年に始まり、1、2度かの会戦がなされたかどうか判明しないが、271年に終息した。北の王・アンティオコス1世がアナトリア(小アジア)や北部シリアの諸都市、領地を失うほどの敗北を帰した。(おそらくプトレマイオスの艦隊からの挟撃を警戒してか、思い通りに軍行進撃が出来なかったと見られる。また、キュレネ王メガス(現リビア地方)との協約的な目算が途中で外れてしまった。エジプト・プトレミー王朝からの独立のためのそれ。)<6節>の“年を経て後”は、何年かが経っての状況となるが、これは、上記の第一次戦争の時代、及びその後の経過を含めての表示で、つぎの第二次となる北と南との戦争の直後、その<終結和約に係わった時点>から生起する事象を特定、ポイントアップした予見である。第二次となる戦争の概略:BC260年に始まり〜253年の期間における戦いとするもの。 ・北の王はアンティオコス2世テオス(287-246、在位:261-246年) ・南の王はプトレマイオス2世フィラデルフォス  英語でプトレミーとも記される。(308-246、在位:285-246年)*285共同統治、281年単即位とも   *南のプトレマイオスはすでに先の第一次戦で、北に勝っており、この  戦いでは、48才を過ぎた熟年ベテランの年令の頃となる。  −−−−−−−−−−−−− *北のアンティオコス2世は、即位後すぐの構えであり、先の父王1世の  敗軍の将としての姿、有様を10年ほど前とかに、少年期過ぎに  見て過ごしている。27才頃の事。状況の経緯は、時代の変転いちじるしい中、アンティゴノス2世ゴナタスが、マケドニア王国の所領に成功する。(リュシマコス⇒プトレ・ケラウノスら⇒ソステネスら⇒本人[276-274]⇒エピロス王ピュロス[273-272]年、後に再び、復在位:272-239年)そのころ、彼のギリシャ全域、及びエーゲ海への支配権伸張に対して、アテナイ、スパルタそれぞれに与する諸市とエジプト・プトレミー王国とが同盟共闘するかたちで、対アンティゴノスの進出拡大を阻む軍事対抗をとるものとなる。262年頃からギリシャ本土で戦いが始まる。その直後、それに合せたように、北の王アンティオコス2世テオスは、マケドニアの王となったアンティゴノス2世ゴナタスとの同盟関係を得る事で、南の王プトレマイオスに対し、シリアへの支配権確保を見据えて、進攻に乗り出すものとなる。その手始めとして、小アジアのエジプトが、先に奪った所領地を奪回すべく軍勢を差向けていった。この両者の戦いの戦況模様を伝えるような古記録は残されていない。ギリシャ本土、エーゲ海側でのアンティゴノス2世ゴナタスの優勢を伝えた記事が古史料に散見されているようである。それによると、、262年以降の状況進展で、アンティゴノスが一応、先にスパルタ、アテナイに勝利し、その後、258年にエジプト・プトレミー2世の海将パトロクルス率いる艦隊をコス島湾近辺で打ち破る。エジプト側にとっては、アンティオコスとの対戦も継続中であり、不利とみたプトレミー2世は、255年アンティゴノスとの和議を結ぶ。それからしばらくして、アンティオコス2世とのいくさが好転しないまま、小アジアの所領地、パンフリア、イオニア、キリキアなどの、また幾つかの諸都市(エペソス、サルゴス、ミレトス等々)を奪い返されたまま、253年、敗北模様での状況のまま、和議にこぎつける結果となった。(和約取り決めの主導は、負けたアンティオコス2世の方であったと見られ、とにかく、アレクサンドロス大王からの時代、娘らの取り扱いが結婚に係わるかたちで、一種の慣習として継承されている。集団結婚というの論外だが、)その和約の取り決め内容により、プトレマイオス2世(南の王)は、娘ベレニケを北の王アンティオコス2世に嫁がせるかたちで差し出す。252年の頃である。この縁組和親は、初めの数年は、良好に推移したようで、新王妃ベレニケとアンティオコスとの仲も良かったとみられる。ところが、離縁された前妻のラオディケ(かってより女王の如きであったが、)は、エペソスに移り住んでいたが、そのまま引き下がるものではなかった。好機が来たならば、元女王への復帰をと、その下準備、勢力付けの策を講じる事に心ひるむことがなかった。旧王族派は、ラオディケの下に結束を一層強め、親エジプト派を凌ぐ勢力をたくわえつつあり、まさに水面下では朝廷の勢力は二分されているかの如き状況となっていった。アンティオコス2世がそれに薄々気づき始めた頃、折り悪く時の定めか、エジプトからの内命特使により、南の王プトレマイオス2世逝去の訃報を受けた。246年になって間もない月の頃であったが、ラオディケにとっては、好機到来と強く自覚したに違いない。(彼女には元々、勢威があり、その名も曾祖母や祖叔母から受け継ぐ血統で、父は、王アンティオコス1世との同母兄弟の次男(アカエウス)であり、娘が離婚状態とはいえ、王家にあっては最有力に結びついた王族の一員であった。そして、その第二次となった戦争でも、兄アンティオコス王を助けてその時期を掻いくぐり、娘の不本意な離婚が結果したが、裏方での手堅い支援者となったであろうとの見方もできる。だが、父アカエウス[Achaeus]の去就などは、古記録史料には見い出されず、実のところ定かではない。アナトリア=小アジアで、ガラティア種族と戦い、ギリシャ諸市を守った事で、支持が厚く、後々の記念祭事に捧げの礼がなされたとの記録がある。孫に同名の王族がおり、アナトリア領地の総督太守となっている。)  南の王プトレマイオス2世は、246年の初めの月、1月28日の逝去だと、一般史では知られている。その数ヶ月後、7月には、何故かアンティオコス2世テオスが、急死するという予期せぬ事態が生じた。前妻ラオディケと寄りを戻したかのように、彼女のいるエペソスへ出向き、その宮館に滞在中に起きた事だという事から、如何なる方法であれ、ラオディケが、王を死に追いやった、至らしめたと、、、一般史的には推察されている。いまや、表面化、、アンティオケの王宮にいる王妃ベレニケとの女の戦い、ラオディケは、その勢威をもって自分の息子らを王位に即けると、強い決意をおもてに示したに違いない。それに対して現王アンティオコス2世テオスは、エジプト王義父に拠り過ぎて、今や自らの立場をもち堪えることができない状況に至ったと見られる。アンティオケの宮廷では、王死去の知らせで大変な状況となったが、ともかく、しめやかな葬儀が済まされ、(コレハ古史料記録ニナイ。)一息ついた王妃ベレニケは、8月に入って後、気を取り戻して、自分の幼子を王位に据えるべく、摂政となるとの宣言をした。だが、それを支持する者らの数も多数を占めることなく、エジプトの新王で、兄弟でもあるプトレマイオス3世に援助の手を差し伸べる。その危急の使者を密かに立てるやいなや、ベレニケとその子らは、反対勢力の手により暗殺されるものとなった。   C、次に7節となるが、ここでの“その頃、この女の根から、〜、、”の表現からして、前節6の、上記した歴史事象に直接結び付いている事象と見るほかない。つまり、南の王プトレマイオスの新たな動きに言及したもので、一般史的には、第3次の戦争を引き起こし、その遂行をなしたところの軍事模様を予見したものと言える。(この戦争はエジプト側から見て、通称、<ラオディケ戦争>として歴史に名を残す。エジプト王プトレマイオス3世は、拭い切れない疑惑と憤激の思いに駆られて、シリア王国を攻めに攻め込んだと歴史は書き記している。アンティオケの城塞占拠だけでなく、メソポタミヤの主都セレウキヤ、バビロンにまでも、、(アナトリアへも進攻する勢いだったが、厄介なことがエーゲ海キクラデスの島で起こり、それまでに進攻を止めたとされている。)8節の文言にある如く、できる限りの戦利品を収奪して運び去り、エジプトに帰ったと。その時代期間は、246年9月前後に始まり、241年に終息しているとの一般史的な見方における内容に照応していると見てよい。(第3次シリア戦争=ラオディケ戦争)9節で、“その後、〜、、、”と断り書きの表現があるが、北も南も、その頃以降、内紛や、政情不安、経済的沈下などで苦境に晒されるが、その後という時点として、<北の王>が、幾分か余裕ができ、優位となって、<南の王の国>の領域に攻め込む事があったというものである。ここでの特明的ポイントは、<そのころ>と<一つの芽が起って、、>が同じ時として結び ついており、しかも<この女の根から、>の表現が、<彼に代り、>での<彼>を<根>としており、<根=彼>は、Bで前記したプトレマイオス2世をさしており、その根は、同根としての<女の根>であり、したがって、女・ベレニケの兄でもある<プトレマイオス3世エウエルゲテス>を<一つの芽>として、スポット予見したものである。 D、つぎに<その子らは〜>から始まる10節から12節までの文言が新たな進展を示すものだが、前節のパラグラフの歴史事象との関連において、異なる点は、<時期や時の表示に係わる>直接表現を取り止めて、王位継承の<代から代に替わる継承者ら>を示す言葉、“その子らは、〜、、”の文言から進めて、その事象内容を予見開示していることである。このパラグラフでの北と南とによる軍事模様は、一般史的次元からの照合を見て取るならば、第4次の戦争(古代ヘレニズム時代のシリア戦争と明記されたもの)に同定されうる。これは、いわゆるセレウコス朝を衰微から立ち直らせ、再興、隆盛させたアンティオコス3世(在位223-187BC:241生)を主眼とした事蹟を主内容としている。だが“その子らは、”としているから、複数人であり、暗に3世王の子ら、セレウコス4世、特にアンティオコス4世(エピハネス)をもターゲットとして含み入れたかに思われる向きとなる。   ここで、その頃の時代の北の王・セレウコス朝と南の王・プトレマイオス朝、それぞれの王の在位継承順の王たちを列記しておこう。・北・セレウコス朝:アンティオコス3世メガス(223-187年BC)⇒子・セレウコス4世フィロパトル(187-175)⇒弟アンティオコス4世エピファネス(175-163)⇒子の幼少アンティオコス5世エウパトル(163-161)⇒セレウコス4世の子であるデメトリオス1世ソテル(161-150、生:185)⇒152年前者と並立したアレクサンデル1世バラス(150-146BC)⇒ その後は、デメトリオスとアレクサンデルの双方の子らの間での継承紛争を軸とした状況過程が続いた。・南・プトレマイオス朝:プトレマイオス4世フィロパトル(221-204年BC)⇒幼年の同5世エピファネス(204-181)⇒エピファネスの妻・摂政女王クレオパトラ1世(193-176)プトレマイオス6世フィロメトル(180-145)⇒6世の子で同7世ネオス・フィロパトル(145/144)⇒前王暗殺後 同8世エウエルゲテス(145-131)⇒夫に対するクレオパトラ2世の反乱、宮廷での紛争期(131-124)⇒プトレマイオス8世エウエルゲテスの復位(127-116) ⇒プトレマイオス9世ソテル2・ラテュロス(116-110、109-107、88-81)この王は、弟・同名10世アレクサンドロスとの間、母クレオパトラ3世の権力介入により、交互に王位の廃・復位を繰り返した。[注]:王朝・王家の娘たちについて、その嫁ぎ先は、父王らも強く望むほど奨めたごとく、かっての大王の下、その後継者らの血筋の王家か、或いは関連の王国かが、その共通の対象フィールドであった。後継者らは、暗黙のうちに大王下後継血筋の王家であるべくの徳価にこだわって、互いに戦争をし合っても、その王家の起点べースを忘れることなく、それを維持せんとした。ところが、時代が下るにつれ、むずかしい状況事態になってゆく。その先がけとも、兆候ともなったのが、その初期エジプト・プトレミー朝の娘らからはや起ってくる。プトレマイオス1世と2番目の妻ベレニケ1世との娘アルシノエ、彼女はマケドニア・トラキア王リュシマコスに嫁ぐが、子への王家相続問題、王国継承問題やらの紛争で、命からがらエジプトに逃れ、舞い戻ってしまう。戻るはいいが、彼女は、同母弟であり、いまや王となったプトレマイオス2世の王妃アルシノエ1世(トラキア・リュシマ王の娘であったが故か)をひどい困難な目にあった腹いせをも込めてか、追い落して王妃の座を奪ってしまう。同母(異母)婚の最初の例であり、女王アルシノエ2世の共同統治の始まりであった。(婚儀は公けの形式儀礼であったが、、)   もう一つの例は、生みの親でなく、幼児途中からアルシノエ2世を母として育てられたプトレマイオス2世の娘ベレニケ・フェルノホラスである。
この娘は、先に上記した予言での注目渦中の女で、セレウコス王家・アンティオコス2世王に嫁いだ娘である。彼女はひどい災難どころか、生きのびる事ができず、殺されてしまう。
こういった事件事例がもとで、王朝王家の娘らは、つまずき以上に、大きな歴史的トラウマを抱えてしまう。他王家に嫁いでもどうなるものかと、先の分からない現実に、、もはや、嫁ぎ出てゆくのをためらうものとさえなり、将来の生き方を早くから目視する。、、、、このような訳で、かっての大王後継者系王家対象フィールドの共通規定枠は消沈してゆくものとなる。エジプト・プトレマイオス王家では、公然、慣習化したかのように、兄弟姉妹婚による王家の維持が計られ、守られるものとなる。この傾向は、シリア・セレウコス王家にも飛び火して行なわれたケースを見る。その最初の同母出結婚は、ラオディケ4世の一度目は長子と、2度目(セレウコス4世との)3度目は4世エピファネス。196年と192−190年と175年頃。彼らは、アンティオコス3世メガスとラオディケ3世の子らであった。特にエジプト、シリア両王家の間には深刻なわだかまりが出来て、互いに嫁がせるような状況を心情的にも完全に喪失してしまっていた。この状況は、193年、アンティオコス3世メガスが、無理やりにでも娘・クレオパトラ1世をエジプト王家に嫁がせる事で切れたかに見えたが、、これは、対ローマへの両家の同盟体勢が取れうるならの願いの策が込められたものであった。だが外的環境は、ローマのアジア、東方への進出により、一層深刻な問題となる。  彼らの時勢、時節は、13節、及び15節以降、19節まで該当すると見なせるが、順次追っての後述となるが、これらの文節範囲は、従来的見かた解釈を考慮しつつ、再度の検証、照合をすべきところであり、秘潜儀的、妙理暗明的な処、秘められたる何がしかの内象をあらわし示す事になるであろう。    *この10節以降のパラグラフからは、厳密にして正確なる検証の試みが必要、求められる事になるが、実際の一般史が示すところは複雑、広範囲的な記述内容であるので、その照応立証には困難極まりない難しさが伴う。10節での<その城にまで攻め寄せる〜、、>とは、北のアンティオコス3世がBC219年に数多の大軍を率いてエジプト・アレキサンドリアの玄関口、ペルシュウムの要塞ペルシオンまで攻め込んできた事を示している(第4次シリア戦争BC219年〜217年までの始まり)この進攻には、222-221年でのアンティオコス3世のメディア、ペルシスなど、その総督らによる反乱を鎮圧する時期に合せて、南のエジプト・プトレマイオス4世の軍勢が、シリア北部、港湾都市セレウキア・ピリエのなどへの進攻がなされた背景があった。この時、南のプトレマイオスも大軍をもって対応しますが、北のアンティオコスは、何らかの理由で不利と見て、ペルシオン城砦の攻略をあきらめ撤退を余儀なくされます。しかし、その途中、ガザの近辺、パレスチナで両者は対峙し、激戦ともなり、<11節>で記されているように、南の王は大軍を起こすけれども、その軍勢の多くを失います。つまり、この折は双方共にあいこで、多くの軍勢を失い、218年には一時撤収します。   翌217年6月、アンティコス3世は、再び南シリアに侵攻、ここでガザ近郊のラフィアでの戦いとなり、これはヘレニズム時代有数の大会戦として知られていますが、<12節>では、南のプトレミー4世が、北のアンティオコス軍を打ち砕きます。この大会戦には勝利しますが、“勝つことはありません。”との表現で、状況を伝えていますが、、確かにこれで和議を結び、終結の線引きをしたわけではないからです。そして、つぎの13節の文言に繋がってゆく状況を示しているからです。    E、<13節の文言>および<15節から19節の文言まで>   この13節文言は、再び北のアンティオコス3世が、その機に乗じて南シリア(コエレ・シリア)に進攻して来ることを示します。(第5次シリア戦争BC202−195年に比定)これにはプトレマイオス4世の204年の死、幼少のプトレミー5世の継位に絡む宮廷内紛という状況を見てのものでその好機を捉えての進出であったと見られる。南のエジプトも内紛のさなか、有力な傭将の将軍スコパスに大軍を率いさせて進出します。この時、199年にスコパスは一足さきにパレスチナの各地を占拠、奪回したかに見えたが、198年での<パニアスの戦い>で敗北、一挙に逆転されて、これが事の成り行きを決める最終的な決戦結果となり、アンティオコス3世の完全勝利を導き出します。(パニアスは、ヨルダン川の源流点、ヘルモン山系の南西麓の、のちに改名されたピリポ・カイザリア付近に当たります。)このイクサ模様は、15節以降の内容との照応となりますが、この北の王は、アンティオコス3世であり、その勢威そのものです。彼はその勢いで、アレクサンドリア本国を占取し、自国に併合せんとの思いに駆られますが、<17節>では、それを取りやめ、和睦して自分の娘を与えて、先々の事を計らんとします。これは、193年BC頃にクレオパトラ1世(当時12才ほど)が、南の王プトレマイオス5世エピファネス(17才ほど)に嫁ぐことに照応しています。
<18節>の“その後、”では、北の王アンティオコスは、アナトリア(小アジア)の海沿いの国々(ヘブル原典、70人訳ギリシャ語では、島々ともなっているが、これらを含めて、)を征取して、マケドニア、ギリシャ方面にも進出して行きます。ところが、彼のこの進攻に対して、ローマからの大将(将軍)のひとり、二人が率いる軍勢により、彼アンティオコスがその進攻により与えた恥辱を、今度は自分の上に返されるものとなります。(原典、70人訳では、敗北という“彼自身の恥辱の<他に>”と訳すことができ、その恥辱を彼の上に返した。ともなります。これは、191年BCのテルモピュライの戦い、190年のマグネシアの戦いでの彼の敗北でその和約、アパメイアの和約も非常に手厳しい内容で、他国との同盟禁止、捕虜獲得の禁止、軍船数の最小な制限、戦象の放棄と禁止、膨大な賠償金を課せられるという、大変な恥辱を返されるものとなる。(アナトリアの領有地すべてを失う、タウロス山系以西、以北での領地を失ったあげくでの状況下で、、)<19節>では、これらの履行、賠償金の支払い財源に困窮し、アンティオコス3世は、遂につまづき倒れるものとなる。(187年、自国領地内の要塞を含め、金品となるものはないかと隈なく顔を向けるなか、スサの神殿で金品となるものに手をつけ、収奪せんとしたが、地元民の猛反対に遭い、暗殺されてしまう。)    *ここで、注意すべきところは、上記した文節文の間にある、<14節>の文言の照合である。“そのころ多くの者が起こって、〜、、、”“南の王に敵する”のは、北の王(セレウコス王朝)だけではなかったようです。ヨルダン川以東のモアブ、アンモン、ナバテア、南のエドム、アフリカでは、北のリビア、南のエチオピアなどから、、、この<14節の文言>が的確に表示している特徴は、二つの点に絞れます。一つは、<南の王>に対しての敵意を示している事。二つ目は、ダニエルの自民族、ユダヤの民からも、敵意反抗を発揚顕示して、かねてより印象付けられ、その思い描いた<幻を実現>しようとしたが、<失敗する>というもの。この二点から注意すべきは、どうやらこの予言は、アンティオコス3世の治世時代の事柄で、その子の代、アンティオコス4世エピファネスがエルサレムを暴虐的に占領した時勢さ中での事柄ではないということです。(ユダヤの民・マッカバイオス一家から始まる民族的な自主独立への戦争、最終的にはアサモナイオス・マカベアのユダヤ王国ハスモン朝の確立と、それに合した直後のシリア・セレウコス朝の支配から独立した前141年に至る事情のものに該当せず。)その文言(14節)の歴史的背景には、プトレマイオス1世当時からのシリア占有(320年)、失退、奪回(312年以降)の繰り返しの時代があり、プトレマイオス2世フィラデルフォスの治世時代には、ユダヤとの関係は友好関係になって来ていた。(ヨセフスの古代史によれば、エジプトでのユダヤ人奴隷約12万人の解放と、王国図書館及び、学書研究センターのための蔵書収集行政の一環として、ユダヤ人の保有する<モーセ5書>の翻訳が許される時代、時に至ったと見え、ギリシャ語への翻訳事業が着手される(旧約聖書70人訳の初段階の試みBC258年)等々で、良好な関係を見せているかのごとくであった。だが、このような経過の一面があるなか、北のアンティオコス朝と南のプトレマイオス朝との双方には、すでに第2次となる戦争抗争の継続(260-253年)状況を辿るさ中にあった。そして、先に上記したように第3次(246-241年)、及びアンティオコス3世メガスの王国低落からの大躍進への第4次の戦争(219−217年)、第5次(202-195年)の戦争へと繰り返されてきた事を見たが、その第3次の戦争後の状況下で、ユダヤ・エルサレム内外では、エジプト支配下からの離脱を望み、自主独立の気運が目覚めてきていた。このような気運のさ中、プトレマイオス4世フィロパトルが、217年6月頃のラフィアの一大会戦で、セレウコス朝アンティオコス3世を降したわけであったが、その直後、彼は、エルサレムに入都し、かの神殿で戦勝への拝儀礼をするつもりで、供犠、及び至聖所への入拝をなさんとするも、(律法によるユダヤ側のしきたりにより、)不名誉な反対妨害を被るものとなる。(第4次戦の終息直後)他国の宗教儀礼の掟など何一つ知らなかったプトレマイオスであったが、王としての体面をひどく傷つけられたとして、怒りをあらわにし、サレクサンドリアに帰った暁には、そこに在住のユダヤ人をすべて追放、さもなくば処刑殺害するとの目論み意向を申し渡して、エルサレムを去るという思わぬトラブルの一件があり、この事件により、ユダヤ・エルサレムのエジプトからの離脱を大いに叫び、事を起こさんとする猛者連中が発揚したわけであった。だが、民衆はこのさわぎに際し、2分されることなく、親エジプト派(大祭司門下衆、及び代表議員衆)の内外対応処置により、彼らの試みは失敗するものとなった。<14節の文言だ。>だが、彼ら一派は、アンティオコス3世メガスとの結び付きを強くし、これが彼のエルサレム来都への意識付けを濃くし、その水先アピールとなった。その頃までの戦場となる所域は、地中海の海岸寄りの平地方面がおもであり、ヨルダン川方面に至る丘陵地や、内陸の山々の織り成す平地地域などは、さほど戦火にさらされることはなかった。<16節>で、この<麗しい地に>彼は初めて立ちます。そして、<その地は荒らされます。>と表示されています。先に上記した199年から198年中の、南の王が送り出した傭将軍・スコパスと、来攻してきた北の王アンティオコス3世メガスとの内陸地での、ユダヤ、パレスチナを含めたコエレー・シリア(広範囲シリア)の争奪戦となったものです。アンティオコスは、ナバテア王国と手を組み、その主力をヨルダン川の東側から回り込ませて上ガリラヤの麗しき地への進攻を自らが軍勢を率いて行なってきたと見られます。    *ここで、アンティオコス3世メガスの子・アンティオコス4世エピファネスについては、いまだ何も記していませんので、言及すべきかと思われる。   4世エピファネスは、父・3世メガスの末っ子(三男)として生まれた。不幸にして父のローマに対する敗北(上記したが191、190年の両戦役にて)し、その戦後処理の<アパメイアの和約>の締結条項により、189年からローマへの人質となった。彼は、定かでないが、215年頃の生まれであったから、その時は、丁度、青年期盛りの25、6才だったと見られる。しかし、父・アンティオコス3世が187年に亡くなり、兄(次男)のセレウコス4世が王位を継いだ関係で、その息子・デメトリオス1世ソテルが彼と交換に人質となり、エピファネスは、3年余ほどで解放された。   しかし、その後、しばらくは自由人として、ローマに留まり、あるいはローマに拠点をおいてローマの状況ばかりでなく、ギリシャの諸都市の文化、伝統の空気を思う存分に吸い込んだと見られる。特にローマの実力、共和政の体勢、元老院での政治あり方、その権力など、かなり自分なりの把握して熟知したものと見られる。彼のこの情報知識との兼ね合いの性向は、対ローマへの基底的位置付けとなって、やがてのち強く表面化するものとなる。(アナトリア、エジプトを含め、わが東方のギリシャ文化領域を再統一して、ローマに対しなければならないという思いつき考想が心のうちに根ざして)彼の政治的ポリシーなど、その立場は、それゆえ、彼の父・アンティオコス3世とは、対照的なものとさえなったと云える。父のアンティオコスは、スサの近隣生まれで、スサ、バビロンでの育ちである。そこではヘレニズム化の趨勢が見られるとはいえ、いまだペルシャの文化、伝統色が息づいているところであったが、そのヘレナイズ以前に、この方面での知識の源泉的なカルティベイトは、ヘブライ的なものを兼ね備えていた。(アレクサンドリア学派ができる前に、バビロン学派があったほどに。)父・3世アンティオコスは、バビロン、及びメソポタミアに在住していたユダヤ人家族2000世帯ほどを小アジアのリュディア、フリュギアに難なく移住させるほどの実力者、彼のユダヤ人への信頼また、かの地域に住むユダヤ人の彼への支持、信頼度は意外なほどあったと見られる。彼は、ユダヤ・エルサレムに対しては、そのユダヤ人らにはそれ相応に慎重に対処したと見られる。(ヨセフスの「ユダヤ古代史Ⅻ」でも記している。)彼は、まさにかってのペルシャ大王キュロス路線を継承するようなものとなっていた。したがって、ユダヤ人、及びその宗教的伝統に対しても、一応の理解を示していた。当時の公用語は、ギリシャ語が主であったが、庶民レベルでは、アラム語が広く常用されており、宮中の書記官、史官クラスの者らのうちには、バイリンガルなユダヤ系の者が幾人かは仕えていたと見られる。   (ダニエル書が、第2章4節から7章の終わり28節まで、アラム語で記され、他はすべてヘブル語で記されているという<言葉の使用構成>となっている。これは非常に注目に値する事であり、秘すべきところ、開放黙認よろしきところ等々で、その当時での対応、反応など、興味深々といったところである。いつ頃、ダニエル書、その封印の巻物の巻が解かれるものとなったであろうか。モーセ5書がアレキサンドリアでギリシャ語に翻訳<70人訳>された、その初期段階のBC250年代頃には、すっかり開封されていたというものであったろうか、、、、。)その父に対して、子のエピファネス4世は、175年、王位を確保したが、ローマの重いくびき(賠償金支払い・アパメイヤの和約)に苦しめられて、王国の支配運営は、ほとほと思わしくなかった。父の偉業とその健全なる王国を継承できなかったエピファネス4世は、エルサレムへの破滅的荒廃をなすような所業を自ら行なうような結果を自分に継ぐものとなった。これは、ダニエル書の第8章9節以下、14節での内容における、彼の所業の見かけ上の外観の様子を描いているものでり、エピファネス4世の予言である。これは、父3世アンティオコスの代わりに、その悪い暴虐な所業予言を全部、自らをして自分に科したというかたちで、その予言史事情が成就しているというものである。そのダニエル8章の予言記事も、後半15節以下、その明説予言で、何か二重的な予言性を示している。それ故、そこでは、キーワードとなる<言葉>を取り出す事ができる。(大王アレクサンドロスとその後の4つの国への変遷事蹟で、8章と11章以降には史的同事性の深い係わりがある事から、、、) ■ダニエル書・第8章テキストの部分参照:ここをクリックにて。・18節<深い眠りに> ⇒これは、11章が10章から連続して続く文章記事として、その   10章9節の<深い眠りに>の言葉との、いわゆる“共通項”を   なしている。なんでもない表示文のように思われるが、実は非常   に注目すべき事象的形相、及びその深層的な啓示想式が秘められ   ている。(これを論示するだけで、大変な文章量になるので、割   愛するが、簡単に、)非常に重要な<共通項>である。  *ダニエルが実際にこの<深い眠りに>陥ったという状態で、啓示内容の展開が始まる。
これは、“深い眠り”という起点的様態形式を暗に表現する事で、本書でのダニエルの他の啓示受容の様式とは異なることを示している。  
 (<深い眠り>そのものの事象的表現に類似したものは、聖書中、アダムの創2:21、アブラハムの15:12節ほか数点見られる)  
*現代科学的な<夢心理学>の分析上では、眠りの科学分析の認識としては、深い眠り状態では、夢を見る事のない熟睡状態と同一視できるということになるが、、ダニエルの場合はこれとどう違うものかの論点があり、立場、意見の違いも出てくる。  *ダニエルは、心の計り知れない深層心理を知的に自覚、意識して   <深い眠り>状態をそれに当てて示そうとした。   神からの啓示内容をまさに深層ぶかいものとなし、そのような次   元からでないと、その啓示そのものの本意が成立しない、啓示内   容の真意が欠け、充足する事無く表現できず、伝えられないと。ダニエルの他の啓示内容とは異なり、この二箇所の内容は、その   <共通項>でもって、重厚なるものとしている。   ダニエルは、ほんの一時<深い眠り>の状態に陥った。が、彼の   脳中での眠りの(心理)状態には、普通の人と比べ、深さと広さ   とかで、量的に富んでいたとも、、、それで、実際に   <深い眠り>の時点において、神により掌握された状態から、神   の啓示手行によりその占有、浮上的な彼の意層に啓示内容が印映   移植されるものとなったということが起りえたと、、、。   或いはまた、その啓示授受の心理的程度の状態差があるとして、   それがどのようであれ、意識的にその啓示内容を文書化するにあ   たり、<深い眠り>という状態形式を内容表現のための重要な欠   くことの出来ない手段として、その表現中に取り入れたという見   方も可能となる。この場合では、彼の意識的文書著述の能力は、   まさに天才を越えた天才とも言えようか。、、  *ここでの<共通項>の“深い眠り”の啓示内容の真相にあって、   二重複相的に予見された対象事象があり、一方が表立った形で、   他方を被い秘めたものとして表示されているという啓示的仕組み   が見られる。(啓示幻の授受言示のエリアは、<深い眠り>の領   域外であり、それへの説き明かしのアプローチで、<深い眠り>   を入り口に、その規定内へと展開。そこからまた規定外の幻内容   を見直すと、そこに新たな事相が表化し得るという可能性の余地   が見い出される。)・17節<終わりの時> ⇒この言葉には、二つの使い分けがあり、それを示す事柄、意味す   るところが異なっている。   @、19節の“憤りの<終りの時>”:この表現は、23節の“彼らの国の<終りの時>”と、同次元的であり、この二つは、同じ時、同じ時期を示すものである。しかも、<定められた終りの時>にかかわるものという、次の時代への継続的性向関係を示しているものとなる。  
A、同じ19節の“定められた<終りの時>”:この表現は、17節の“この幻は<終わりの時>にかかわるものです。
”の<終わりの時>と、同次元的で、その<時>を限定特定して用いた言葉となっている。そして、この<終わりの時>は、ユダヤ・イスラエルの旧約民族としての<終わりの時>を暗示するものである。(エルサレムの滅亡)これはまた、ダニエル書内のテキスト上では、@での二つから続くかたちで、対照できるもので、この<終わりの時>は、11章27節の“定まった時”の来るまで、或いは同29節の“定まった時なって”の、その時に至る事により、現前してくる“終わり”という表現のニュアンスの時と同義である。“定められた<終りの時>”という時の範疇の内にあって<定まった時になって、>を経由併展直後して、⇒その<終わりの時>へ、である。そして、また、11章40節の<終わりの時になって、>のそれそのものと同じであり、それを予め指し示すものである。   *史実的事蹟ではその8章9節〜14節内の事柄は<アンティオコス4世エピファネス>の悪業を予見したものとして、あえて表示されているかの如くであるが、これを事象的兆例とし、また、<終わりの時>の事として、“悟りなさい”というものです。つまり、<終わりの時>にも同じようなことが起るが、それは、なし崩し的で、断続的で、幻などで一つに表示説明できないほど、複雑、多混様な事象ものとなるからである。(ローマのポンペイウスのエルサレム占領BC63年からウェスパシアヌス、ティトスの占領AD70年それ以後にまでかかわるからである。、、)・23節<ひとりの王> ⇒ヘブル語{メレク}、ギリシャ語{バシレウス}で、共に英語のような冠詞(a)は   付されていない。(両語には(a)に比すべき不定冠詞はなく、   (the)に比定する冠詞だけがあり、それぞれ常用されている。)   文法的訳上により、{a king}となる訳だ。邦訳では、英訳に   準じて、{一人の}となるが、日本語の修飾性が高いから、さらに   その修飾の規定が強く印象付けられてくるわけだ。   @ここでの王、メレク、バシレウスは<ひとりの>という観念規定に捉われてはならないということだが、しかし、同時的に一度に何人もの王が起こり成立することはないから、その継承上での代々の王を含めた意味で、ひとつに纏めたところの代表者的表現の<王>と見なすべきとの点も考慮しなければならない。   Aこの王の起る時期(時代)は、本文テキストでははっきりと明示されている。
前節(23節)の<4つの国が起った>事を受けて、その後の、
“彼らの国の終わりの<時に>なり、”
と表示され、しかも彼ら共々その国々の罪業が、もう許しがたくその限界を超えて満ちてきた状態の時に、という形相的に示された条件も付随しているその時期に、という事になる。   前項で記した<終わりの時>に関して、<彼らの国の終わりの時>という表現もあると、すでに指摘したわけだが、これのギリシャ語訳:“エプ エスカトーン テース バシレイアース アウトーン”はその<4つの王国の終わりの時に、>を示すもので、8章9節以下の文言との関係においては、それらと結びつけられる時代時期的次元のものではないということである。つまりアンティオコス3世メガス、及びその子のアンティオコス4世エピファネスを示す事象として解釈するならば、その彼らの事蹟は、彼らの王国の後半の時期に入っていまだ間もないもので、<終りの時>には該当しないということになる。(彼らセレウコス朝はBC310年頃から64年までと見られ、彼らの在世時期は、BC200年前後から160年代までの時であり、250年の全存続期間の、それは、110年〜150年過ぎた中後半への過渡期に当たる時となる。確かにこの後半への彼らの時期は、もはや衰退してゆくばかりの始まりの時で、再び隆盛することなく、残り100年ほど世代を重ねて、その終りの時に至るというものである。)  B23節の<王>の起こりの言及から25節までは、その王の特徴とか、所業の様相を象徴表示したものとなっている。これらについては、つぎの項目で記すが、<日本聖書協会訳>での本文テキストから、  “その顔は猛悪で”と邦訳された観点について分析しておこう。   原典ヘブル語では“メレク”(王)に続いて“アズ⁻パーニーム”とある。ギリシャ語訳は、“バシレウス”のあと“アナイデース プロソーポィ,”   ・アズ{-עז }= アナイデース{αναιδης} ⇒ 邦訳:猛悪で、   ・パーニーム{פנים }= プロソーポィ,{προσωπω,} ⇒   邦訳:その顔はこれら言葉は、王に直接かかる説明的修飾語である。邦訳では、この部分を一つの文節でもって意訳して、日本語の文章形式での表現を巧みなものとしている。しかし、“顔は猛悪で”という訳文は、一見、ひどく印象付けられるが、ただ単に顔面、つらがまえが猛悪??という事であるに過ぎないとすれば、また何か一見、子供じみた感じのもの、、ともなり兼ねない。   英訳ではどうか、見てみると、  ・a king of bold countenance,(Ame'canRevised-Sd版)  ・a king of fierce countenance,(KingJames版)  ・a king bold in counterance,(70人訳ギリシャ語対訳版)などがある。   countenance は、“顔つき、表情”などで、容貌、外貌、外見、風貌などに通じる。顔の表情でその人物の性格の一面が少なからず感じられるという考えがあるが、、、   bold は、一般に“大胆な”“無遠慮な”と辞書に出ているが、 それだけでの邦訳適用では、今一しっくりしない。 この語にはもっと幅のある意味深長な多様的、概念 的ニュアンスがあるようだ。(太っ腹な、臆する事のない気心、豪胆な、等々)   fierce は、“荒々しい、猛烈な、険悪な”などがあるが、。  この語の意味にかの日本語の“猛悪な”が介在  しているようである。結論として、英語のboldとfierceの両方をあわせたような存在性と捉えるのが妥当と見られる。だが、それだけではない、続いて記事原典テキストは、接辞接続字でもって、特記すべき特徴を付け加えているから、、ゆえにつぎの項目の分析へ、、、・23節<なぞを解き> ⇒ヘブル語{ゥメービーン ヒィードォーッ} <:ומבין חידות >   ギリシャ語{カイ スニオーン プロブレーマタ.}   <και συνιων προβηματα.>・25節<君の君たる者>⇒  (注:翻訳のギリシャ語旧約聖書は、古代ローマ時代、AD2世紀140年代頃までに3種類のものが世に出ている。これらより古いものは、良く知られている<70人訳セプティアギンタ>で、BC256年頃アレクサンドリアで、まず“モーセ5書”が、72日間かけて、72人のエルサレムからのユダヤ人翻訳者らによって完結している。その後、ほかの預言書、史書、詩文書、他などが、逐次翻訳追加されて、BC200年〜150年前後までに完成したと見られている。ほかの3種類もユダヤ人によるものだが、以下の人々による。・アキラ<Aquila>キリスト教の発展に70人訳書が大いに貢献し、そのお株を奪われたことで、ユダヤ教に転向したアキラが、ユダヤ教及びユダヤ人のために翻訳、しかしヘブル語底本からの遂字訳を意図したものとなっている。(abt.AD126年)・テオドティオン<Theodotion>彼は、セミ・キリスト教とも別称されるエビオン派からの転向者で、70人訳を全面的なベースとしており、まさにそれの改訳をなしたものである。もちろんヘブル本だけでなくアキラ訳を参照使用したが。
・シンマコス<Symmachus>
彼もエビオン派に属する人で、上記アキラ訳の粗野的な 逐語訳を嫌って、優美さのこもった意味訳の翻訳をしている。
このダニエル書の言及分析では、70人訳ギリシャ語のものを用いているが、その訳巻がヘレニズム時代の200年〜 遅くとも 150年頃までに、或いは封印の遵守の定めを守り、それ以後、100年頃までに一般的な公開としてその翻訳が完了したという、見方
により、あえて、その時代との同時代性における訳者の時代感覚の妙映痕跡を探る意味も込めて使用するものとしている。)密接に関連した8章の後半部分に係わる上記解述で、ひどく本論に戻るのが遅れましたが、ここで再び、第11章の続き部分に移ります。

Unknown Future
http://www.geocities.jp/sayufm_musiclabo_s/micoHP/indexb.html













posted by datasea at 00:00| Comment(0) | ◉ 黙示録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: