2018年12月10日

遺跡情報,高野山/景教碑

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高野山/景教碑

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高野山景教碑の側面に刻まれたシリア語と漢文





景教碑の謎  
高野山/一の橋から 奥の院参道に入ってすぐに2手に分かれている道を右の方にまっすぐ進むと青い
「弘法大師夢のお告歌碑」
が見えてきます。
この歌碑を左に進むと見えてくる漢文の碑が 
景教碑
と呼ばれる石碑です。
現在中国、西安市の博物館に保存されている
「大秦景教流行中国碑」 
のレプリカ(複製品)です。
オリジナルは西暦781年、唐の都・長安の大秦寺に建立され、1623年西安で土中より発掘されました。
碑には何が書かれているのか?
中国に伝わったキリスト教の 一派 景教の歴史が刻まれています。
約1900字の漢字と一部シリア語で、
旧約聖書にある天地創造、
アダムとイブ、
キリスト誕生
など
景教の教義と唐のへの伝来、
太宗の時代から147年間におよぶ景教の中国での発展の歴史、
60余人の宣教師名
などが書いてあります。

もっと高野山
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2215/motto/keikyo/keikyo/keikyou-hi.htm
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2215/motto/keikyo/keikyo/keikyou-hi.htm
http://www.geocities.co.jp/kmaz2215/motto/keikyo/keikyou-2.htm
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2215/mottto.htm
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大秦景教流行中国碑全訳 
高野山景教碑の側面に刻まれたシリア語と漢文

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景教とは
一般的には 西暦431年の宗教会議において異端の烙印を押された
キリスト教、ネストリウスの一派
がローマを追われた後、シリア、ペルシャを経て、シルクロードの各地にその教えを広め、
635年中国まで伝わった時に景教と呼ばれたと考えられています。
中国景教はその後、皇帝による保護と圧迫を繰り返し、玄宗皇帝の時代には再度盛んになり、唐末に衰退、モンゴルの興隆と共に発展。
そして元とともに衰退しました。
高野山の景教碑
高野山に景教碑のレプリカを建てたのはE.A.ゴルドン夫人という女性です。
1851年イングランドに生れ、日本の文化を愛し、様々な日本を援助する活動を行いました。 
また日本に長期間滞在し、仏教の研究をしました。 
仏教もキリスト教も元は一つであるという「仏基一元」の考えが夫人の研究テーマでした。
「大秦景教流行中国碑」の複製を高野山に建てたのも、その研究の一環で、夫人は唐で学んだ弘法大師が景教にも関係を持っていたと信じていたようです。
京都で亡くなった夫人の葬儀は京都東寺で仏式によって行なわれ、その墓は高野山、景教碑の隣に建てられました。
弘法大師と景教の関係についてインターネットをさ迷い歩き調べてみたのですが、はっきりした事実や証拠は見つかりませんでした。
しかし 背景から推測すると
大師が留学していた当時の唐の都、長安では西方から伝わった
マニ教 
ユダヤ教 
ゾロアスター教
などさなざまな宗教が伝わっていました。 
大師の滞在した寺は大泰寺にも近く、好奇心旺盛かつ求道の人、空海の事だから当然、景教を始め他宗教も研究したはずだ。 
とも想像できます。 
また 景教碑の文を起草した 
ペルシャ僧、景浄
という人物は,大師が唐でサンスクリットを学んだインド僧 
般若三蔵
が胡語で書かれた仏典の漢訳を行った時協力したことがあり,三蔵から景教について聞いていたとしても不思議ではありません。
(ただし 景浄と三蔵は翻訳をめぐって意見が合わず仲が悪かったそうですが)
大文字五山の送り火 
は景教徒の習慣を弘法大師が伝えたと主張するサイトがありました。
調べてみると確かに大文字の起源の一つに弘法大師説がありましたが景教との関係は不明です。  
京都新発見 大文字五山の送り火のナゾ 
景教碑について調べていると次々に新しい謎が生まれてきます
高野山の話題とは離れますので景教に興味のある方だけご覧下さい
続 景教碑の謎

もっと高野山
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続 景教碑の謎   
景教碑は不思議な謎の世界に我々を誘い込んでゆく。 
まるで異次元への扉のようです 
インターネットでは  様々なサイトで 興味深い話題 が提供されています。
いくつかのサイトで提供される 話題には いわゆる トンデモ説、あるいはファンタジーと思われるものも多く注意が必要です。 
しかしこれらは本当の真実を探す一つのヒントなのかもしれません。
景教を巡る謎の世界あまりにも広く 深く 遠く 素人である管理人には何が真実なのか判定するだけの知識はありません。
ここでは、出来るだけ話題を整理して紹介すること。 
(殆ど景教リンク集になっています)
そして自分なりの 感想や空想 (妄想?) を提供できればと思っています。
景教博士と呼ばれた佐伯好朗博士が1908年に発表した
[太秦を論ず」
において 世間を驚かせる説を唱えました。  
「秦氏 ユダヤ人景教徒説」
です。
秦氏一族は 4〜5世紀ごろ朝鮮半島からやってきた渡来人 
5世紀半ばごろには京都に定住するようになり、平安京遷都に尽力しました。 
一説には平安京は秦氏の資金と技術によって造営されたとも言われています。
彼らは養蚕を伝え、高度な金属鋳造や土木技術を持っており 巨大墳墓の造営や治水に力を発揮したと言われています。
しかし 歴史の表舞台にはほとんど登場せず謎の一族となっています。
佐伯博士は 京都にある秦氏の寺、太秦(うずまさ)寺をめぐる ユダヤとの関連を思わせる数々の事実から 
「秦氏 ユダヤ人景教徒説」
を唱えました。  
さて古代の日本にユダヤ人が来ていたとするとどういう人たちなのか?
ということから登場するのが 旧約聖書にある 消えたイスラエルの十部族です
ユダヤ人の王国はダビデの息子ソロモンの時頂点を極めましたが、その後分裂し
サマリアを首都した「北イスラエル王国」
とエルサレムを首都にする「南ユダ王国」
を建国します。
北王国は、前722年アッシリア帝国により、滅亡し十部族はアッシリアに連行され捕囚されます。
南王国も前587年新バビロニア帝国によって滅亡し、バビロン捕囚となります。前538年ペルシャ帝国により新バビロニアは滅亡、
バビロンにいた南王国の二部族は解放され、こぞって帰還しました。 
しかし既にアッシリア帝国は滅亡していたにもかかわらず北王国の十部族は帰還せず、歴史の表舞台から消えたのでした 。 
さて この十部族のゆくえについて世界中でさまざまな探求がなされましたが、十部族の一部がシル
クロードを経由し日本に到達し日本人の先祖の一つとなったという説が  
「日ユ同祖論」
です。
しかし このようにキリスト生誕の500年も前に姿を消した十部族が4〜5世紀になって登場するという説にはかなり無理があると思います。
フィクション仕立てのストーリーで読みやすく、比較的客観的に秦氏や十部族の謎を整理しているサイトです。
秦氏のルーツについては 色々な説があります。
中央アジアの弓月国から来たとか 、
朝鮮半島の百済または新羅,
泰の始皇帝の子孫 
であるとか様々です。 
弓月(クンユエ)という国は
現在のカザフスタン南部、
アルマトイを含むバルハシ湖より南,
キルギスのあたり,
あるいはホータン
と言われています。
いずれにせよ 最終的には弓月君に率いられた120県(あがた)の泰氏が朝鮮半島から日本に渡って来た訳ですが、その背景には半島の複雑な勢力関係が有るようです
宗教に関して、
八幡神社 
稲荷神社 
など 多くの神社信仰は秦氏が持ち込んだものと言われています。
その上 多くの仏教寺の創建にも関わり、景教徒説も有るとなると,秦氏はさながら宗教の総合商社の観があります。
さて景教とはいったい何だったのか? 
一般的には 景教といえは 一般には ローマ教会から異端とされたネストリウス派がシルクロードを経由して中国まで伝道の足跡を残したと言われます。
しかし景教がネストリウス派という1つのグループの教義が中国まで伝えられたとするには多くの疑問があるようです。
シルクロードの遺跡から発見された漢訳の景教経典でも景教碑の碑文にも見られるのはかなり,本来のキリスト教とはかなり違った教義だと言われています。
景教碑には漢字と共にシリア文字が刻まれています。
シリア語とはアラム語の一方言でした
アラム語とは 古代の西アジアの広大な地域で共通語として使用された言葉です。
イエスもこの言葉を話していましたし、ガンダーラ地域、現在のパキスタンやインドにもアラム語の石碑が残っています。
また シリアとは 広くは現在のシリアだけではなくレバノン、ヨルダン イスラエルを含む地域です。 
それに加え,イラクイランを含むペルシャ帝国の版図でもアラム語は広く使われました。
シリア教会はイエスの死後まもなく、12使徒の時代に設立されその歴史はローマ教会より古く長い歴史の荒波を生き抜いて現在もシリア正教会として存在しています。
そして今も典礼にアラム語を使っているのです。
エフェソスの宗教会議で異端とされたネストリウス派は シリアに逃れシリア教会と合流しました。
その後シリア教会もローマから追われ分裂や拡散の複雑な歴史をたどります。
分裂した一方の西シリア教会の拠点はアンティオキアから近東の各地を転々とし、現在のシリア正教として存続しています。
ネストリウス派の合流した東シリア教会はペルシャ領内に逃れ、ここを拠点に東への布教を継続して行っていたようです。
『大秦景教流行中国碑』
によれば,景教の宣教師 阿羅本は635年中国に到着、宰相房玄齢らに迎えられて長安に入った、とあります。  
初めて訪れた異国の宣教師が国賓並みに迎えられる事は普通考えられない事です。
景教を支持する人々がすでに多数中国に存在し、中国側の支配層に、よほど周到な根回しをしていたと推測されます。 
このような事が出来るのはだれかを考えると、胡人と呼ばれていたソグド商人達が思い浮かびます。 
景教とは 中国領内に定住したソグド人のコロニーを基盤とする東シリア教会の分派であった。  
というのが管理人の想像です。
しかし 755年のソグド人安録山の反乱(安史の乱)を契機に唐からソグド人が排斥された後も 唐で盛んに活動を続けている事から考えるとこれは的外れかも知れません。
いずれにせよ 異端となってまで自分達の考えをに守ろうとしたネストリウス派の行動から考えると教義を変質させてまで中国領内で生き残りを模索した景教とが 同一であるとは思えません。
景教碑が建立された後 中国においては景教は衰退しましたが、その後モンゴル帝国において再び盛んになった事が知られています。

もっと高野山
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景教碑のかたわらに建てられたゴルドン夫人の墓 

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「イエゴードン夫人の墓」と読める 







■思想,ミトラ教,
アラム語:シリア語とはアラム語の一方言でした
[景教(ミトラ教)] AD635年,中国まで伝わった時に景教と呼ばれた
[景教(ミトラ教)] AD8C,景教,中国景教として定着
[景教(ミトラ教)] AD9C,シリア教会分裂>>西シリア教会は近東各地転々>>逃れたペルシャ領内を拠点に東への布教>>現在のシリア正教として存続
シリア教会:イエスの死後まもなく設立>>長い歴史の荒波を生き抜く>>現在もシリア正教会として存在
[秦氏] 4〜5世紀ごろ秦氏一族が朝鮮半島からやってきた
アラム語:アラム語とは古代西アジアの広大な地域で共通語として使用された言葉
アラム語:イエスもアラム語を話していた SilkRoad2215
シリア教会:イエスの死後まもなく,12使徒の時代にシリア教会設立
AD325,ニカイア公会議(宗教会議),正教論議の決着,信条の制定
AD325,ニカイア公会議(宗教会議),第1回公会議でアタナシウスのニカイア信条が正統教義と認定された
AD325,ニカイア信条,キリスト教会はローマ皇帝の命令に従う道を選択し,神と主イエスの教えを改ざんすることを決定したのである tatsujinn
[秦氏] 4〜5世紀ごろ秦氏一族が朝鮮半島からやってきた
[景教(ミトラ教)] AD3C,景教(ミトラ教):ローマ帝国下,イスラエルの月暦>>>太陽暦(エジプト太陽神崇拝,ミトラ崇拝,バベルの塔を建てたニコデモを起源)
[景教(ミトラ教)] AD325,ニカイア信条,キリスト教会は神と主イエスの教えに従わずローマ皇帝の命令に従う道を選択した
[景教(ミトラ教)] キリスト教/ネストリウス一派は異端となってまで自分達の考えをに守ろうとした
[景教(ミトラ教)] キリスト教/ネストリウス一派は宗教会議で異端の烙印>>ローマ追放>>アジア各地で宣教
[景教(ミトラ教)] AD431, キリスト教/ネストリウス一派は宗教会議で異端の烙印>>ローマ追放>>シリアに逃れシリア教会と合流>>
[景教(ミトラ教)] AD431年のエフェソスの宗教会議で異端とされたネストリウス派はローマ追放
[景教(ミトラ教)] AD6C,ネストリウス一派はシリアに逃れシリア教会と合流>>シリア教会もローマから追われ分裂
[景教(ミトラ教)] AD4〜5C,景教(ネストリウス派)に改宗したユダヤ人のグループ秦氏一族が2万人も大挙して日本にやってきた
[景教(ミトラ教)] AD4〜6世紀にかけて中央アジアの弓月国からきた原始キリスト教徒の秦氏による古代イスラエル,キリスト教文明
[景教(ミトラ教)] AD6C,シリア教会分裂>>分裂した一方の西シリア教会は近東各地を転々>>逃れたペルシャ領内を拠点に東への布教
[景教(ミトラ教)] AD635年,景教の宣教師阿羅本は635年中国到着,宰相房玄齢らに迎えられて長安に入った 大秦景教流行中国碑
[景教(ミトラ教)] 中国領内に定住したソグド人のコロニーを基盤とする東シリア教会の分派 SilkRoad2215   
[景教(ミトラ教)] AD635年,景教宣教師阿羅本長安入り:景教支持者がすでに多数中国に存在し根回しをしていた SilkRoad2215
[景教(ミトラ教)] AD635年,景教宣教師阿羅本長安入り:胡人/ソグド商人達が根回し?? SilkRoad2215 
[景教(ミトラ教)] AD635年,景教宣教師阿羅本長安入り:初めて訪れた異国の宣教師が国賓並に迎えられる事は普通ない SilkRoad2215
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[景教(ミトラ教)] AD9C,玄宗皇帝の時代には再度盛ん
[景教(ミトラ教)] AD9C,ソグド人安録山の反乱(安史の乱)後も景教は唐で盛んに活動
[景教(ミトラ教)] AD9C,教義を変質させてまで中国領内で生き残りを模索した景教
[景教(ミトラ教)] AD9C,空海が留学していた当時の唐の都,長安では西方から伝わったマニ教,ユダヤ教,ゾロアスター教などさなざまな宗教が伝わっていた。 
[景教(ミトラ教)] AD9C,空海の滞在した寺は大泰寺にも近く,好奇心旺盛の人だから当然景教を始め他宗教も研究したはず
[景教(ミトラ教)] AD9C,唐末に衰退,モンゴルの興隆と共に発展。
[景教(ミトラ教)] AD11C,その後モンゴル帝国において再び盛んになった
[景教(ミトラ教)] AD11C,中国においては景教は衰退
[景教(ミトラ教)] AD13C,元とともに衰退
[中国景教(ミトラ教)] 江戸時代終期,E.A.ゴルドン夫人,仏教もキリスト教も元は一つであるという「仏基一元」の考え
[中国景教(ミトラ教)] 江戸時代終期,E.A.ゴルドン夫人,様々な日本を援助する活動
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シリア教会:その歴史はローマ教会より古い
シリア教会:今も典礼にアラム語を使う,イエスもアラム語を話していた SilkRoad2215
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AD325,ニカイア公会議(宗教会議),第1回公会議でアタナシウスのニカイア信条が正統教義と認定された
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posted by datasea at 00:00| Comment(0) | # 遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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