2017年03月12日

死海文書

バスで死海を観光すると、聖地エルサレムへ向かう道道筋で必ず観光ガイドが岩山を指差し、「あそこで死海文書は発見されたのです」と極めてドラマチックな文書発見の物語を語ってくれる。
1947年というからまだイスラエルが建国する前のこと。地元に住む bedwin の少年が山羊を伴って、死海の縁のコムタン地区にそそり立つ岩山を回っていた。すると1頭のヤギが洞窟の中に迷い込んでしまったので少年はヤギを探しに行くために、試しに穴の中に石を投げ込んだところが、中からがちゃんと物が割れる音がした。中に何があるのかと、穴のなかに潜り込んだところ、細長くて古い壺がたくさん隠してあった。壺を改めて見たら、朽ちかかった巻物が収められている。全部で7本見つけられたと言う。
初めは何の巻物だかよくわからずにベツレヘムの古物商に売られた。巻物の一部は古物商からヘブライ大学考古学教授にわたり、ここで初めてユダヤ古代文化の遺物であると確認された。
この時たまたま死海からエルサレム一帯を占拠したイスラエルと、長くそこに住んでいたアラブの人々との間に戦争が始まっていた。
文書の一部はアラブ側に渡ったのだが、イスラエルとしてはユダヤ民族の宝となる死海文書を是非とも取返さなければならない。
イスラエルか苦心の末に古文書を回収したのは1954年のことである。
一方で多くの考古学者が10年にわたり岩山の注意を調査した結果、11の洞窟からさらに多数の断片を見つけ出すことに成功した。他に盗掘された分もあるだろうから、羊皮紙やパピルスで作られた巻物の総数は膨大な数にのぼるだろう。
しかも炭素14測定法を用いて年代を判定したら、付近の住所跡と巻物はともに紀元前3世紀から前一世紀の間と結果が出た。何とイエスキリストが誕生する前の時代に製作された可能性の多い古文書だったのだ。
続いて行われた調査課題は、死海文書にどんなことが記されているのかという課題だった。調べてみるともっとショッキングな事実が分かった。ヘブライ語やアラム語で作られた本文は何と聖書だったのだ。
外典や偽典を含む旧約聖書の原文がゾロゾロ出てきたのだから世界中が腰を抜かした。
バイブルとはもともと「書物」を指した言葉だから、西洋の書物の原点が見つかったと言ってもいいほどの大発見であった。
巻物の内容は聖書ばかりではなかった。その範囲は広く、文書を保存した人たちか組織する宗教の文書らしきものも含まれていた。その宗教は何なのか、ユダヤ教の中でも神秘的で禁欲的な慣習を守った修行思想集団ではないかと考えられ、一般には土地の名をとって「クムラン教団」と呼ばれることになった。
この教団は死海エリアの洞窟や幕屋で暮らし、厳格な戒律を守りながら宗教生活を送っていたらしい。厳しい気候にすみ、無数の文書を穴を隠していたとなると、当時は異端派とみなされていた可能性がある。そして紀元前31年前後、ローマの侵入に加えて、クムラン地域が大地震に襲われたため、住居跡は無人の廃墟となってしまったらしい。
ただ乾燥した気候のおかげで、文書が2000年間、原型を保ち続けた。
古代イスラエルの文化を直接伝える古文書は、こうして奇跡的に保存されたのだった。
どうだろう、死海文書に興味が湧いただろうか?
次にテキストのいくつかを選んでみよう。聖書の類は有名すぎるから、クムランのルールを示した文書から見てみよう。
文書によると、クムラン教団は人類を「正義なるもの」と「悪なるもの」の二つに分け、人の性質や運命は生まれる前から決定していると信じた。正義なるものは神を愛し、悪なるものは神を憎む。人は悪者の住む俗世では神からの啓示を周りに口にしないようにして、真実を知り神秘を体験する修行も、兄弟や仲間という時にだけ行わなければならない。
また「戦争の法」と呼ばれる文書には、メシアが裁きを受けて殺されるという、イエスキリストの出現を予言するような文書がある。この世は光と闇との戦いの場であって、光の側がついに勝利をおさめるまで戦争は続くと書いた文書もある。この勝利を決定づけるのがメシアだから、
いつメシアが到来するかは、クムラン教団の一番大きな関心音だったはずだ。
こうしてクムラン教徒の考え方を知ると、なんだかメシアなる存在が後年にこの地域に現れたイエスキリストを示しているのではないかと思われてくる。メシアが一回殺された後に勝利するという話もイエスの再生を思わせる。
そうであるとするなら、イエスの生涯にまつわる物語は生まれる前からすでに教団内で文書として書き上げられていたことにもなる。クムラン教団とはどんな集団であったのだろうか?
そこで学者たちが声を上げた。この教団は古代ローマの歴史家ヨセフスが「古代ユダヤ誌」で紹介したユダヤ教の教団 「エッセネ派」にそっくりだと。エッセネ派は魂の不滅を信じる厳格な一派で、結婚を否定し、動物を犠牲にすることも拒否した。これだと供犠をすすめたモーセも否定しなければならないから、当時ユダヤ教の主流を占めていたサドカイ人やパリサイ人いりから異端視されてもおかしくない。しかもイエスキリストはエッセネ派に属していたとする俗説も以前から流布しているのだ。ならば、死海文書はひょっとすると貴重な初期キリスト教の文書も含んでいるのかもしれない!
一方で、このような教科書的なシナリオに対して別の学説も公言されるようになっている。クムランの洞窟は修行の場ではなく、領主の砦で、死海文書がイスラエル王国のソロモン神殿から略奪してきた物ではないのかというのだ。一時的に住む場所であったとするならば、人間が長い間住むわけではないので、住居と言っても洞窟や幕屋で用が足りる。おまけに住んでいたのがユダヤ人てはなくローマ軍であったとするならば、この洞窟を強制収容所として使っていたことも考えられるわけだ。
死海文書がソロモン宮殿から奪われた宝物の一部だったとすると、中世以来、十字軍やらテンプル騎士団やらが武力を持ってエルサレムに乗り込んだ事情に新しい光を当てる可能性が出てくる。
十字軍とテンプル騎士団はどちらもエルサレムを異教徒から奪い返しヨーロッパの教徒が安全に聖地巡礼できるようにした「聖なる武士」の集団だった。中でもテンプル騎士団はエルサレムのソロモン神殿に入り込み、しきりにイエスキリストの宝物を探したと伝えられている。
何を探したのかわからないが、彼らはそれを見つけ、宝物としてフランスに持ち帰ったと言われる。それは莫大な財産だったともされる。
多くの研究者もその宝物こそソロモン神殿に隠されていた宝物だったと主張するのだ。宝物の正体については今のところ3つ説がある。。。
−荒俣宏世界ミステリー遺産,祥伝社黄金文庫 2011年刊            
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posted by datasea at 03:47| Comment(0) | ◉ 黙示録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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