2021年01月13日

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Reuters: 米ツイッター株が12%急落,トランプ氏利用停止で規制観測強まる


Reuters: 米ツイッター株が12%急落,トランプ氏利用停止で規制観測強まる
Reuters  
 2021年01月12日 08:09
[11日 ロイター]
11日の米国株式市場で短文投稿サイトのツイッターが一時12%急落し、時価総額が50億ドル近く吹き飛んだ。株価はその後も6%安で推移。同社がトランプ大統領の個人アカウントを永久停止したことを受け、今後ソーシャルメディアに対する規制が強まるのではないかという懸念が広がった。
ツイッターはトランプ氏のアカウント停止について「暴力をさらに扇動するリスクがあった」と説明。ただ、一部の共和党支持者らは、今回の措置がトランプ氏の表現の自由を制限するものと批判しているほか、ドイツ政府も表現の自由には根本的な重要性を伴うことから、ツイッターの対応は問題だと指摘している。
ツイッター上でトランプ氏のフォロワーは8800万人超に上っていた。TSロンバードの戦略部長、アンドレア・チチョーネ氏は「トランプ氏が非常に大勢の忠実なフォロワーを抱えていたことを考えると、トランプ氏の投稿が永久に制限されれば目玉の多くが失われることになる」と指摘した。
ソーシャルメディア各社は、大統領支持者による6日の議事堂乱入事件を受けてトランプ氏のアカウントを規制。フェイスブックは、少なくとも政権移行が終了するまでは凍結する方針を示している。フェイスブック株はこの日2.8%安。
*システムの都合で写真を削除し再送します。 OLJPTOPNEWS Reuters Japan Online Report Top News 20210111T170047+0000

Investing.com
https://m.jp.investing.com/news/stock-market-news/article-391445?ampMode=1








1/13-その2 オールドテックが沈み、ニューテックが上昇!
2021/01/13 11:36
短い記事ですが。。。
ツイッターは昨日から因果応報の仕打ちを受けています。
今後、ツイッターやフェースブックのような横暴なことをすれば、彼らは世界中のユーザーから見捨てられ、株価も暴落し、倒産することになります。そうでなくても、中共が崩壊すれば資金が入ってきませんから、倒産は間違いないでしょうけど。。。幸い、ニューテックが人気急上昇です。
これからは、オールドテックが廃れ、言論の自由を守るニューテックが主流になりますね。ただし、オールドテックの反逆者のCEOが逮捕され、良識あるCEOに入れ替われば、オールドテックも息を吹き返すのでしょうけど。。。もう手遅れかもしれません。
National File - America's New Choice for Real News
1月12日付け
現在、ニューテック(新興のテクノロジー企業)のサイトが人気急上昇です。米国ではこれらのニューテックの多くがトップ500に入り込んでいます。パーラー(アマゾンのウェブサービスから強制的に遮断されましたが)はトップ200まで上昇しました。
ビッグテックのソーシャルメディア・ジャイアンツ(特にツイッター)はトランプを政治的に抹殺するため自分たちのサイトから彼を追放しました。
保守層の人々やトランプ支持者らがそのことを知り、少なくとも100万人のユーザーがビッグテックを去り、ニューテックのSNSサイト(Bitchute、Rumble、Gab、パーラーなど)を使うようになりました。
アマゾンのアレクサが米国のニューテックのランキングを発表しましたが、パーラーは上位176に到達。Rumbleは上位392。他のニューテックは平均で500位前後。
同じくNational Fileから:
ウガンダ政府は、フェースブックとツイッターに対し、倫理に反する手段で国民を検閲しウガンダの総選挙に介入したとして、フェースブックとツイッターをブロックし、左翼のビッグテックの独占事業を笑いものにしました。
月曜日に、ウガンダ政府は、特にツイッターについて言論の自由を弾圧し基本的人権を侵害していると発表したことでツイッターは大きな恥をかいています。
フェースブックとツイッターは、ここ数週間、トランプ大統領や彼の支持者ら(数百万人)を追放するなどインターネットでの検閲、弾圧を強化する一方で、左翼の扇動者らの過激な人種差別発言や暴力的なコンテンツは放任してきました。
ウガンダでも、フェースブックやツイッターによる同様の検閲や選挙介入が行われたことを受け、ウガンダ政府は国内のインターネット・サービス・プロバイダーからフェースブックとツイッターをブロックしました。

日本や世界や宇宙の動向
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52060868.html








[社会][SNS] FB,Twitter,トランプ垢永久停止へ
ツイッター「出禁」トランプ氏と信奉者の流浪 代替SNS「Parler」「Gab」もすでに...
2021/01/10 08:11
2021年1月9日 15時31分 
J-CASTニュース
ドナルド・トランプ米大統領のツイッターアカウントが、2021年1月8日(現地時間)、永久に停止された。すでにFacebookなども同様の措置を取る中、トランプ氏やその支持者の「移住先」が海外メディアでは注目を集めている。
ただ、プラットフォーマー側はこれらの代替SNSにもストアでの配信を停止するなど、厳しい対応だ。
■一時停止から復活したものの......
トランプ氏のツイッターは、6日の連邦議会乱入事件を受けて一時停止、その後ひとまず復活し、「私に投票してくれた7500万人の偉大なアメリカの愛国者」への呼びかけや、20日の新大統領就任式に出席しない考えなどを示していた。
しかしツイッター社は、こうしたトランプ氏の発言をなお問題視し、8日にアカウントの永久停止を発表した。現在、トランプ氏のアカウントは、過去の投稿も含め一切閲覧できない。トランプ氏は他のアカウントから発言を試みたが、いずれも削除された。
すでにFacebookは7日、トランプ氏のアカウントを停止している。SNSを活用して世界に話題を振りまいてきたトランプ氏だが、主要SNSからまとめて「出禁」を食らうこととなった。
こうしたプラットフォーマー側の厳しい姿勢に対し、すでにトランプ氏の熱烈な支持者の間では、他のSNSへの「移住」を試みる動きが相次いでいる。その筆頭として挙げられるのが「Parler」だ。
■Parlerとは?「言論の自由」標榜し人気も...
Parlerは2018年に開設。トップページなどで「言論の自由」という理念を大きく掲げている。こうしたことから、ツイッターなどの方針に反発するユーザーが流れ込み、トランプ氏支持者の集まるSNSとして注目されることとなった(CNNは「右翼のソーシャルメディア」と評している)。
米Newsweekによれば、正体不明ながらもトランプ氏を名乗るアカウントがParlerに7日さっそく出現(現在閲覧不能)し、保守派の言論人からもParler移住を呼び掛ける声が相次いでいるという。
また「Gab」も注目を集めた。やはりツイッターに近いスタイルのSNSであるGabは、Parlerより以前から、過激な右派ユーザーのたまり場として名前が知られている。Gab運営は6日、さっそくトランプ氏の「公式アカウント」を設置したことを表明した。現時点では、このアカウントにはトランプ氏のツイッターでの投稿がそのまま掲載されているだけだが、すでに50万を超すフォロワーがついている。
■主要ストアがそろってアプリ配布を停止
しかし、プラットフォーマー側は、これらの代替SNSにも厳しい姿勢を取る。複数の米メディアの報道によれば8日、2大ストアであるGoogle PlayとApp Storeは、暴力的な投稿などの取り締まりを運営側に求め、ともにParlerのアプリ版の配布をストップした。Gabに至っては、今回の一件より前からすでに両ストアから追われている。
また米紙「ボストン・グローブ」(ウェブ版)によれば、仮に「移住」したとしても、Parlerの登録ユーザー数は800万人強、Gabは110万人程度だ。ただ、その投稿を支持者がツイッターなどで拡散するだろうことから、それがただちに、トランプ氏の影響力低下につながるとは言えないという。

ライブドアニュース
https://news.livedoor.com/article/detail/19509185/



 



米ツイッター、株価21%急落 失望売り広がる
企業業績・財務
2018年7月28日 6:10
【シリコンバレー=白石武志】27日の米株式市場で、ツイッター株が前日終値比21%急落した。同日発表した2018年4〜6月期決算は、最終損益が1億ドル(約110億円)の黒字(前年同期は1億1600万ドルの赤字)だった。売上高は前年同期比24%増の7億1100万ドルと市場予想を上回ったが、不正アカウントの閉鎖に伴って月間利用者数が減少したことで失望売りが広がった。
ツイッターではサービスの健全性を高めて広告媒体としての価値を高めるため、テロ行為を称賛するなど利用規約に違反したアカウントを閉鎖する取り組みを強化している。プライバシー保護対策などを含めたアカウントの閉鎖数は18年4〜6月期に300万超に上り、月間利用者数は3億3500万人と18年1〜3月期に比べ約100万人減少した。
27日に電話会見したジャック・ドーシー最高経営責任者(CEO)は「今後もサービスの健全性を最優先する」と述べ、システム投資と人員増を続ける方針を示した。不正を自動検出する技術の改良などに伴ってアカウントの閉鎖数は増加しているといい、18年7〜9月期も月間利用者数が減少する可能性があるという。

日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33539090Y8A720C1000000


 
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F: TVゲーム論概論〜プラグマティックゲーム研究

F: TVゲーム論概論〜プラグマティックゲーム研究
Fさん
■序
TVゲームをテキストとして解釈するということをはじめる前に、解釈をするために、TVゲームを次の要素に分けて考える事が大切です。
それは、
文法
素材
解釈
この三つに分けて考えることです。
1の文法は、いわゆるゲームシステムのことだと思って差し支えないでしょう。
2の素材は、そのゲームが採用している舞台設定やキャラクターです。
3の解釈は、そのゲームが伝えようとしている内容です。
確かに、この三つは、必ずしもきれいに分けられる話ではありません。素材や解釈が、文法に大きく依存したり、その逆に、文法が大きく素材に依存したりします。
しかしながら、明らかにさまざまなゲームの文法が存在してますし、さまざまな素材が存在しています。例えば、ドラゴンクエストなどであれば明らかに、移動シーンと戦闘シーンで構成されている文法があり、ファンタジーの世界観という素材がその中に組み込まれています。ゲームというテキスト自体はこのように構成されています。
ゲームの歴史をひも解くためには、このテキストとしてのゲームを分析する必要があります。さらには、そういった分析は、そのゲームを解釈するためにも当然必要なことです。
■ゲームの文法
細かいことをぬきにすれば、ゲームの書き方は、だいたい決まっています。
それは、あくまで、プログラムの構造や、ハードの構造とは関係のない話で、僕らが、モニターを通してその画面を見たときにわかるものです。極端な例を言うと、ドラゴンクエストとゼビウスは明らかに、書かれかたが違います。
この違いが、いわゆる文法の違いです。
もっと極論をするなら、文法とはゲームのジャンルといっても、そんなに困らないでしょう。(細かいことをいえば、一致しないこともままあるが、ここでは、話を簡単にするためにそうします)
たとえば、シューティングゲームは動いているものを一目見れば、すぐにシューティングゲームとわかりますし、RPGもそうですね。(あくまでも、大体の話である。違うものもままある)
たとえば、小説も少し読めば、推理ものか歴史ものかぐらいの区別はつくように、 文法というのは、それをどのように読めば内容が伝わるのかということを示しているものです。
これを、ゲームにするなら、RPGをシューティングゲームのように遊んでも何も分からないし、その逆もそうです。このように、文法を把握するということは、実は、ゲームを楽しむにせよ、解釈するにせよ、まず第一に必要なことです。
ゲームの文法の変遷
ゲームの文法の歴史というのは、極端なことをいうと、ゲームのジャンルの分化の歴史ともいえる。ここでは簡単にその概略を述べていきたい。
1. 大雑把な歴史区分
まず大雑把な区分をしよう。ただし、完全にこの区分に乗ってゲームのジャンルが生まれているわけでもないので、あくまでも、物の見方の目安だと考えて頂きたい。だいたい、流れとしては
創世期、多様期、成熟期、現代
の、4つくらいに分けられる。まずはあえて年代は割り振らず(*1)、簡単にそれぞれの時期の文法の種類や特性を、概観してみよう。
1−1 創世期
この頃のゲームの文法の特徴は、2極に分けることができる。
一つは、非常に単純な文法。もう一つは、コンピュータを操作出来ることを前提とした文法。
前者の代表格は、インベーダー、テニス、ブロック崩しなどの、固定画面型の単純なアクションゲームである。後者は、いわゆるシミュレーションゲームであろう。ただこれに関しては、果たしてゲームと認知できるかどうか疑わしい面があるので(*2)ここでは触れない。
この頃のゲームの文法の特徴は、基本的には単純であり、おそらく、ゲームそれ自体以外から情報を与えない限り、解釈そのものが成立しない(*3)ような側面がかなり見られるということである。はたして、この頃のテニスゲームを見て、幾人がテニスを想像できたであろうか?
また、インベーダーゲームを見て、幾人が異星人との侵略戦争を思い描くことができたであろうか?
これは、決してゲームが面白いかどうかの問題ではない。
文法が、内容を伝える力があったかどうかの問題である。
そういう意味で、創世期のゲームは、単純な文法であるがゆえに多くの人に受け入れられたが、その一方で、解釈うんぬんの対象(ましてはニューメディアのソフトなど)にはならなかったのである。
1−2 多様期
この頃の文法の特徴は、統一的に挙げることは難しい。強いて言うなら試行錯誤の時期といっていいだろう。
ただ、この頃のゲームの文法の多様化には、ゲームの素材(*4)の多様化とも絡み合っているのでここで、それほど深く扱うことは出来ない。ただ、文法の多様化の流れは、二つに分けることが出来る。
一つは、創世期からの継承型であり、もう一つは、純粋に素材に引きずられた、突発型である。
1−2−a 継承型
継承型といっても実質上継承されたのは、インベーダーを中心としたシューティングゲームのみである。
主に知られるものは、ナムコを中心とした「ギャラクシャン」「ギャラガ」「ギャプラス」である。
沢山の敵と対峙している自軍を客観的に眺めている形式を持つものである。この時期に確立した文法といっても間違いはないでしょう。
1−2−b 突発型
この時期の特徴は継承よりもこちらに現れているといっても過言ではないだろう。
アクションゲーム、シューティングゲーム、RPG、etc. どのジャンルにも個性的なものが沢山生まれた。
それぞれのジャンルの具体的な話は後に譲るが、この時期の文法の特徴は、大半が「理解しがたい」ものばかりである。更に言うなら、説明書を熟読しても理解出来ないのである。
決して、すべてがそうしたものであるのではない。
この時期に名作といわれるものの大半が生まれたのも事実である。しかし、この頃の突発型の大半の文法はまったくといっていいくらい継承されていないのも事実である。その素材のためだけに作られた文法であるという側面が大きく、文法を真似たものをいくら作っても失敗するということが、たくさん起こったのも事実である。
しかし、この頃生まれたもので、継承されていったものがいくつかある。代表格がRPGであろう。
1−3成熟期
多様期が文法の種の多様化の時期なら、成熟期はある意味、種の淘汰の時期といえよう。ただ、生まれた文法が変化することなく、単に流行らない文法をもつゲームが消えたわけではない。
この時期、個々の文法の洗練、さらに文法のハイブリッド(複合)化が数多く展開された。
そして、この時期に社会的状況としてユーザーの一般化が起こった。そのため、多種多様の文法より、表現素材の多様化が数多く見られた。(*5)
それら流れから、生き残る文法の特徴として次のものが見られた。
数多くの素材に対応しやすい文法
ハイブリッドしたときに組合せの取り替えのききやすい文法(*6)
その中で、市場の大きなゲームの文法の一潮流を決定した流れは、非アクション文法の統合である。
ストーリー化した素材をアクション文法にそのまま組み込むのは、ほぼ不可能といってもよいでしょう。数多くの表現素材に適しているということで、非アクションに目がむきましたが、内容的な洗練という意味ではRPGもADVもシミュレーションもそれぞれに関しては紙と鉛筆でやる世界を便利にする程度の文法でしかありませんでした。
しかし、素材ごとにこれらのさまざまな複合や取込みが起こすことにより、最適と思われる表現がたくさん生まれました。(日本式RPGはその典型)現在も、このハイブリッドはゲーム文法の主流をなしています。
もうひとつは、アクションと非アクションのハイブリッドです。時間的系列としては前のハイブリッドよりふるいのですが、文法の完成という意味ではポリゴン等の表現の技術革新とあいまって、今だに試行錯誤といえるでしょう。
このハイブリッドには2パターンあり、アクションのなかに非アクションがもっている要素を取り込んだものと非アクションとアクションが単に組み合わさったものの2つです。
成熟期の大半はは前者が、現代に向けて後者が主流となっているようです。
この時期生き残った形式は多様期にでたものと比べると要素的には数えるほどです。
アクション:
縦スクロール型シューティング
横スクロール型
3D型
トップビュー迷路
サイドビューゲーム
落ちもの
非アクション:
コマンド選択ADV
3D型RPG
トップビュー型RPG
国取りゲーム
戦術級シミュレーション
ぐらいです。これ以外も結構でているのですが、すぐに消えてしまったという経緯があります。
1−4現代
成熟期の傾向をより一段と推し進めた傾向になりつつありますが、その一方では、アクション回帰も見られます。現代の傾向をいくつかに分けることができます。
RPGを中心とした非アクション
落ちもの
対戦格闘
ポリゴンハイブリッド型アクション
1〜3は成熟期の傾向とゲーム文化の一般化があいまって、だれにでも、すぐ理解できる簡単なゲーム文法(*7)になっています。さらには、一見してすぐわかるようにゲームの文法もそれぞれ確立しています。その一方で、4のポリゴンハイブリッド型アクションとしたゲーム分類は1〜3の傾向とは正反対に動いているようです。多くの場合基本文法はかつてのアクションゲームに原型が見いだせるが、視点等を変えることにより、それにともなうプレイヤー側の自由度への欲求にあわせ一段と複雑な操作のものがふえている。すなわち、見た目以上に複雑な文法をもっているのである。
しかし、これらの文法の多くは、多様期の突発型ゲームのように素材に引きずられる形で生まれているので、今後どのように変わっていくのかは興味深いところである。
(*1) これは、アーケードゲーム、パソコン、家庭用ゲーム機などで年代のずれがあるから。あくまでも、ここでは一般的傾向として文法の歴史を扱いたいので年代は割愛させて頂きます。
(*2) 大体、大学の研究室の中などだけで遊ばれていて、表に出ていない場合が大半。
そもそも、ゲームなのか研究の一部なのかはまったく区別が付かない。
(*3) ゲームのポップを見ても、そんな想像できる人、誰かいました?
それはおいておいて、この頃は、ゲームだけでは、情報が伝わらず、ポップやマニ ュアルを情報の補完の道具として用いている。
(*4) これについては、まだ書いている途中です。
(*5) 一般のユーザーにはなかなか複雑な文法は受け入れられなかった。
しかしながら、多くの人々のニーズにこたえる形で色々な素材が提供された。
(*6) つないだときにその2種類の文法の継目が気にならない、そういった文法の集まり。
(*7) 文法の理解は簡単でも、ゲーム自体は難しかったりする。
シューティングゲームの文法
この文法は先の歴史の所で書いたように、まさに、コンピューターゲームの始まりと共にあるといっても過言ではないでしょう。その後、外見的には非常に色々変化しましたが、基本要件は一切変わっていません。
シューティングゲームが満たすべき要件
(1) 自己がある。
(2) 自己の破壊を目的とする他者がある。
(3) その他者を破壊する遠隔的な手段を持つ。
(4) それらがリアルタイムに動く。
シューティングゲームと呼ばれるものが満たすべき最低限の要素がこれである。著名なインベーダーゲームを参考に少し解説をしよう。
まず明らかに自己はあるでしょう。いわゆる自機です。
自己の破壊を目的とする他者があるのも明らかでしょう。
それはインベーダーです。
そして、インベーダーを破壊するための遠隔的な手段ももっています。
それは自分が打つタマです。
それは明らかにリアルタイムに動いています。
新しいシューティングゲームも見てみましょう。
たとえば、パンツアードラグーンを見てみましょう。
主人公ではなく、とりあえず自分が操作する自己、すなわちドラゴンがあり。
自己を倒すことを目的とした多種多様な敵があり、
離れたところにいる多種多様な敵を倒す手段がある。
操作は複雑ですが、無常(*)にもリアルタイムでゲームは進行します。(途中でアニメが入ることはここでは無視します)
この条件だけを見ると、シューティングゲームはこの条件を持つことは確かだが、他のゲームでも(とくにシューティングといわれていないゲームでも)十分満たしているではないか、と思えるであろう。
まさにその通りである。このことが示唆をする重要なことがある。
それは、ゲームの形式を決定するのは、決して文法だけではないということである。とくに素材の在り方によってくることになる。
いいかえるなら、言い換えるなら文法としての規定と、ゲームのジャンルは必ずしも一致しないということでもある。
もしこのやり方を嫌い、条件のほうを増やす(もしくはかえる)のも、ひとつの手段ではあろう。しかしおそらくはそれをすることにより、いまシューティングゲームと呼ばれているものを排除してしまうことになるであろう。
(*)鈍い著者には、あのいっぱいキーを使うシューティングゲームはまさに無常なほど難しい。
シューティングの文法の付加的な要素
うえのものは、シューティングゲームの規定の最低限のものではあるが、それじたいも、付加的要素により、さらに分類される。ただしこの付加的要素は必ずしも、シューティング固有のものではないので、他の場面でもこの記号にしたがって指示をすることがある。
S1・同一の破壊の手段が単一画面上に複数だすことができる。
これは要は、連射が出来るか出来ないかということです。
S1を持たないゲームは、基本的に狙って射つことが楽しみになり、持つものは、逆に爽快感を楽しむゲームであるということです。
このS1の有無で大きく違うのが、ギャラクシャンとギャラガです。
S2・複数の自己を持つことが可能である。
古くは、ギャラガの自己の再奪取、スタージャッカーの4機行列などがある。
新しくは、R−TYPE型ではないオプション(ツインビーやグラディウス)を加えてもいいだろう。要はそういった自己と同じ働きをするものを操作できるものがでてくるゲームを指す。
複数の自己は明らかにゲーム性を変えるといってもいいだろう。
S3・複数の破壊手段を持ち、それぞれの手段でしか破壊できない他者が存在する。
S4・ゲームの背景が時系列とともに変化する。
S4−1縦方向に変化が現れて消えていく
S4−2横方向に
S4−3手前から奥に
このS3、S4(S4−1)を合わせたものの古典的代表が二つある。
ひとつはセガのスタージャッカーで、もう一つは、かの有名なゼビウスである。どちらもS3の要件を持っている。
他者を地上物、空中物と分け、完全にそれぞれの破壊方法が違っている。
どちらもいわゆる縦スクロールシューティングなので、明白にS4−1を満たしている。
シューティングゲーム界(アクションゲーム全般において)の一番の革新はこのS4であろう。
ストーリーを乗せるということが基本的には、出来ないと考えられていた、種別のゲームにたいして、強制的に流れるストーリー(もしくは世界観)を乗せることを可能にしている。
(付け加えるなら、TVや映画も強制的に流れるストーリーである)
このことがゲームに対する多様な解釈を与える楽しみとなっているのも事実であろう。
少し残りのS4にも触れよう。
S4−2の条件を持つゲームすなわち横スクロールのゲームは、コナミの十八番といってもいいだろう。古くはコブラやスクランブルから、(どちらも本当に古い)新しいところ(*)ではグラディウスシリーズなどは代表的であろう。
S4−3は古くから、シューティングゲームの理想である、映画スターウォーズの1シーンの再現として求められていた形態である。そのため数え切らないほどのものがあるが、ナムコのスターラスターと、セガのスペースハリアーを紹介しましょう。
前者は文法の複合についての所でも触れようと思ってますが、じつは、スターラスターは、シューティングシーンで自機が画面上に存在してないタイプのゲームです。S4−3の特徴として、明らかに自己を操作しているが、自己を視覚的に把握できないものがあります。その一方で、スペハリのように、自己が画面上に登場してしまっているものも数多くあります。
あと、僅かではあるが、(最近ふえつつあるが)、次のようなS4の変種がある。
S5・背景が自己の操作にしたがって変化する。
この特徴は単純に時系列にはのっとっていないということが一番の特徴である。はっきり言うと、プレイヤーの操作にしたがって画面がスクロールするものが全てこれに入ります。
(*)お年寄りである著者からみて新しいという意味。別に今はもう新しくはなさそう。
■ゲームの素材
ゲームの素材とはそのゲームで扱われている題材です。
文法と密接に関係しているところもありますが、必ずしもそうではありません。
これは小説などでも同じです。文法的には現代SFであっても、素材としては歴史ものという小説はよくありますね。
例えば、一応、シューティングゲームの素材は、当然、SFが多いですし、RPGの素材は、指輪物語をはじめとするファンタジーが題材として取られがちです。文法自体がその素材を表現するために、元々創られた場合が多いからともいえます。ですから、文法が素材に依存する部分の多いことも確かです。
しかしその一方で、同じ文法に違う素材を乗せて出来ているゲームがあるのも確かです。
ミスマッチな事もありますし、上手くいっていることもあります。ただこうした試みから言えることは、今現在では明らかに、素材と文法は独立した要素であるということです。
しかしながら、実際にどのような素材がゲームで扱われてきたかということは、文法と別には議論し難いことが実状です。そのために多くの評論が、混沌としたものになりがちです。
ゲーム素材の変遷
ゲームの素材の歴史は、ある意味で、文法の歴史とは違い、ゲームのトレンドの歴史として捕らえることも出来よう。それくらい素材というのは、流行り廃りや、少数ながら定着するものなど、文法の変遷とは違いかなり激しい変遷がある。と、同時にゲーム制作者の想像力(創造力ではない)の歴史ともいえる。いくつかの型を少し紹介しよう。
1宇宙戦争(SF)もの
これは題材として、ほぼ完璧に最古のものといえるのではないだろうか?
古くはインベーダーや、伝説のスペーストラベル(*1)などなど、新しくは、グラディウスその他、数えるときりがない。
しかし、不思議なほどにこの題材の文法は、多くの場合シューティングゲームである。(せいぜい、例外としてシミュレーションゲームがある。(キャラもんだけど銀河英雄伝説とか))これほど文法と密接に関わる素材も少ないだろう。
2スポーツもの
これも、宇宙戦争ものと負けず劣らず太古のものといえるであろう。伝説のポン、ある意味ではブロック崩しもそうだろう。さらには野球、アメフト、サッカー、バレーボール、etc.考えるときりが無い。いったい世界中のスポーツでゲームになってないものがあったら教えて頂きたいほどだ。(でも、クリケットはないでしょう。きっと)これは文法との関わりで行くと、本当にSFとは正反対なほど多様な文法を持つ。スポーツの種類の数だけのみならず、そのスポーツの側面の数だけ文法があるといってもいいだろう。固定的な文法を論ずることなどしたくないほどである。
たいていの場合は、一つの文法に対し複数の素材がありうるが、スポーツは明らかに、一つの素材に対して複数の文法を持つ奇妙な素材といっていいだろう。
3キャラクターゲームもの
このジャンルは、はっきり言って、表現のしようが無い。
文法のところで解説しましたが、多様期の突発型の頃に信じられないほど、はちゃめちゃな世界観のもと、不思議なキャラクターたちが生まれました。実体験したい人は、ナムコミュージアムで遊んで下さい。(CMではありません)
4TVキャラクターもの
これも素材としては比較的古い。古くは「行け行け川口くん」とか、色々なTVの世界の人気者が沢山使われている。一時はこの素材はクソゲーの温床とまで言われた代物である。この素材を採用する場合、最近は非アクションが主流になりつつある。
5ファンタジーもの
これは比較的新しい素材のようですが、案外古いもので、特にテキストアドベンチャーものでは数多く用いられていたものです。ただこの題材は、今のゲームシーンをリードしている題材であることは間違い無いでしょう。
6サイバーパンクもの
これは確実に新しいものです。というよりは、これを独立的な素材のジャンルとして扱うのが、どれほど正当なのかというのも疑問です。ただ言えるのは、このジャンルの特徴は、コンピュータの発達とともに、実生活でその素材が膨らんでできたものだからです。
しかしながら、その考えはある意味でSF(サイエンティフィックフィクション) のものですので、このジャンルは、実生活とSFの狭間にあるものです。このジャンルはそういう意味では、ゲームに限らず同じ位置づけの素材ではある。
7実生活もの
これも、以外かもしれませんが非常に新しいジャンルです。
それだけ我々の生活はコンピューターを用いて表現するのが難しいほど複雑な素材ともいえます。
最近は、これがおおはやりのようですね。(トキメモとか)
これらのジャンルは時系列で見ると、
文法の歴史軸との比較
創世期、多様期、成熟期、現代
1−−−−−−−−−−−−−−−
2−−−−−−−−−−−−−−−
3・・・・−−−・・・・・・・・
4・・−−−−−−−−−−−−−
5・−−・・・・−−−−−−−−
6・・・・・・・・・・・−−−−
7・・・・・・・・・・・・・−−
こんな感じになっているといえるでしょう。
この変遷の要因は、いくつか考えられますが、一番大きいのはある意味コンピューターの発達自体です。
そしてもう一つはユーザーの一般化でしょう。
ただ、製作者側が一般化していないので、今一つ素材の選定にユーザーが関与しているとは言い難い状況も確かです。
■内在と外在と外挿について〜素材と文法の関係についての問題
これまでの議論で、少し、文法と素材というゲームの要素が理解出来たとする。
とりあえず、おそらく次のことは確実であろう。
ゲームは何らかの文法を持つ。
この文法はある意味で意味の無い記号とその操作からなるともいえる。
その時その記号に意味を割り振る手段として、ゲームの素材を用いていることはおそらく疑問の余地が無いだろう。
その割り振られた意味が無ければ、我々にとってTVゲームはほとんど成立しない。
その時、何の何処までを素材と呼ぶべきかの問題がある。
これをすべてのゲームに対して一意に定めることは非常に難しい。
この問題を少し形式的に論じてみよう。
文法に対し素材(意味)を与える手段としてTVゲームに関しては具体的に二つの手段が考えられる。
一つは、ゲーム自身のグラフィックスや会話などを利用し、ゲーム自身に「内在」させる方法が一つである。
ところが意味のすべてを内在させることは難しいので、マニュアルやポップを用いて、意味を外のものから与える方法がある。
その様な意味付けの手段を「外挿」としよう。
最近のゲームの多くは、そのグラフィックスなどの表現力の向上から、「内在」のみで素材の提供を完了させることに成功している。少なくともその様にみえる。
その一方で、多くの古くからのゲームは素材の提供の手段として「外挿」を使ってきたのは確かである。
明らかに何らかの素材の外挿が無い限り、我々はそのゲームを理解することは不可能であろう。
しかし、外挿を許すと、議論すべき別の問題が生じる恐れがある。
それは解釈の一意性の問題である。
外挿する素材の意味付けの中に、解釈に相当するものを含めてしまうことにより、 「正しい」解釈というものを一つに固定できてしまうのではないか?というものである。ここではこれはひとまず議論しない。
ここで議論する問題は二つある。
一つは、内在のみで本当に素材の提供を完了させることが可能か?ということと、 もう一つは、「外在」する素材の要素は解釈と切り離す事が出来るか?という問題である。
まずはじめの問題を簡単に論じよう。これはおそらく否定的な結論になるだろう。
「内在のみで本当に素材の提供を完了させることが可能か?」
これの否定はたやすい。
我々が目にしているグラフィックスという記号は、どれだけ、多様にでき、手が込でいたとしても、我々が意味付けをしない限り、永久に、記号でしかない。
そうすると、その素材を提供した(すなわち記号に意味付けをした)というためには、我々自身という「外在」(ゲームから見て外と言う意味)によって初めて提供が完了される。そうすると、ゲームで遊ぶ我々自身の知識が素材を提供しているに過ぎないのである。
ただ、いくつかの反論も可能であろう。
それは、基本的にゲームの記号世界そのものを一つの実在と捕らえてしまう手段である。
純論理的にはおそらく可能であろう。
しかし、私個人としてはそのスタンスはとりたくはない。
TVゲームはあくまでも、作る人間と遊ぶ人間のメディアであり、形式である記号に実在的意味はないと考えたい。
わたしの議論のスタンスを取ると、先の議論から、素材は本質的には「外在」と言わざるをえない。
しかし、この外在は我々の解釈と何処で完全に切り離せるのかという問題がある。 これは、二つの解決法がある。一つは否定的解決法である。
解釈と素材は全く切り離せないとしてしまう方法である。
我々自身が持っている心の中の意味のネットワークという「外在」を用いて個々の記号に意味付けをするということは、我々の記号解釈のネットワークにもとづいて行われるはずである。
そのため、意味付けに対し解釈のネットワークを取り替える事は出来ないので、意味付けとは、この際は、素材の提供なので、完全に、解釈により素材が厳密に定義される。
しかし、この否定的解決法は、わたしが行ったゲームの要素区分が不適切であるということを意味する。
そのため、私個人としては肯定的解決法を求めたい。
ここで求めていることは、何らかの形で一定の素材と呼ばれる領域を提供したいということである。
直感的にはこちらの方が自然である。
なぜなら、同じゲームの中のキャラクターを同じように我々が議論しているからである。
しかし、これを論理的に進めることはかなり難しい。
あえて、否定的回答に対する反論から、解釈素材の区分が可能であることを示そう。
明らかに、複雑な記号であればあるほど、それに対して付与する意味は限定される。十分に限定された意味付けの範囲において、それぞれの記号が持つ意味を限定できる。この限定した範囲を意味付けとし、この範囲の他人との共通項を、記号に対して提供される素材とする。
そうすると、厳密ではない広がりのある素材が定義される。
そうすることにより、一つの記号と意味(文法と素材)から多様な解釈を生むことが可能となり、否定的解決法とは違う結論が出る。
この解決法の間には素材に対するスタンスの違いが残る。
素材自体がやや広がりを持つ多義的なものであるか、それとも、厳密に定義できる一義的なものであるかということである。
後者を取ると必然的に否定的解決法に進まざるを得ないだろう。
素材から文法への分解
前回の論文で文法と素材の間の意味付けの関係を論じた。
ここでは、素材は文法と基本的には切り離され、むしろ、素材と解釈への明瞭な線引きの困難さを論じた。
しかし、ながら我々のTVゲームに対する直感的感覚として、ゲームを考えるさい、まず、ゲームにすべき素材を定め、それを表現する文法を与える(もしくは選択する)のが正当ではないか?という感覚がある。
さらには、それらで作られた形式を用いて解釈を行うのではないか?と主張も出来るだろう。それはある意味で、全くもって正当なことである。
ここではそのプロセスを素材の形式化と呼ぶ。この形式化は、「素材の要素解体」と「要素と手続きの記号化」で構成されている。
当たり前のようであるが何かをゲームにしようとする時、まずはじめに、その対象となっているものの構成要素を取り出すであろう。例えば、サッカーであれば、グランドとボールと22人の選手と、それらの敵味方の区別と、ゴールと、得点と、さらには種々のルールなどなど、きりがないほど沢山出てくる。(最近では選手の能力なども入ってきているようだ)
まずこうした要素から、今ある表現に使うことの出来る技術(文法ではない、純然たる技術上のお話である)とてらして、使うことの可能な要素とか、その素材について欠くことの出来ない要素などを取り出す。ここまでが、素材の要素解体である。
次にそれらの要素を、意味と結びついた記号化を行う。たとえば、ボールに見ることの出来るグラフィックスでボールを記号化したり、人にみえる記号に記号化したり......。
さらにはそれらの操作の手続き(これが無ければただの鑑賞用ソフトになります) を加え、その記号群と手続きを形成する。これが要素と手続きの記号化である。
さてこの段階で考えると、この記号群に与えられる意味付けは明瞭である。
素材そのものであり、完全に一連の手続きのはじめになった素材以外の意味付けは 不可能といえる。
このような記号群を文法とするなら、先の論文とは全く反対に、文法から素材を切り離すことは不可能である。なぜなら、記号群を入れ替えることは明らかに文法を取り替えることだからである。
しかし、現実には何らかの形式(それこそを文法と呼ぶべきであろうが)を残して違う素材を用いることが可能である。
例えば、RPGやADVは何らかの文法を持っているが、それぞれ、色々な題材のストーリー(素材)を組み込むことが可能である。
そうすると、ここで議論している文法の意味は弱められる方が自然であろう。
おそらくは記号群が形成している諸関係を、TVゲームの文法とする方が適切だろう。なぜなら、記号それ自体は、現代においては、高度なグラフィックスにより、 かなり強く意味付けされているため、記号と素材を単純にきりはなすことは不可能といえるだろう。
しかし、その記号群の間の関係や操作手続きは、一つの記号群から生まれてはいるが、記号群とは無関係に成立させることが可能である。
■ADVの文法
アクションゲームに関する文法の基本要素の話はこの辺にして、次はいわゆるアドベンチャーゲームの文法について進めていきたいと思います。古典的な意味合いでのアドベンチャーゲームの形式は、次のようにかけます。
Ad1.状況の表示(表示法は問わない)
Ad2.選択と選択に伴う進行(決して自動的に進行しない)
Ad3.A1とA2を繰り返す。
これも要素としては非常に簡潔です。派生的な部分として、コマンド選択か否かといった話などが入ってくるのでしょうが、ここでは割愛いたします。
(そんな事をはじめたら恐らく永久に完結しませんので)
この(Ad1,Ad2,Ad3)で構成されるものが本当にアドベンチャーゲームかどうかを確認してみましょう。
ここで再び起こる問題が2つあります。一つは、我々が一般にはADVとは呼ばないものも、文法としてはADVになっているゲームがあるということです。実はこの代表的なものに、RPGがあります。(これについては後述)更に言えば、デジコミといわれるものや、間にデモを挿むアクションゲームなども、この文法を含んでしまうのです。
もう一つには、ADVと呼ばれているのにその基本構造に上の3要素を持たないものもあるということです。アクションアドベンチャーといわれるものがそれです。古くは、「ドラゴンスレイヤー1」から、新しくは「バイオハザード」まで、どれもリアルタイムな状況判断を要請しています。
結局のところ、ゲームのジャンルを規定しているのは、形式や文法だけではないと言うことです。
ここまでで、基本文法の話はいったん止めにします。興味のある方は、様々なゲームから、解釈や素材によらない形式や文法を抽出して見てください。
■文法の組み合わせかた
文法論(形式論)の最後になりますが、基本文法の組み合わせかたを少し考えてみましょう。
文法の組み合わせかたというのはたくさんあります。例えば、RPGおけるフィールド移動と戦闘の組み合わせ方を考えてみましょう。例えば、ドラゴンクエストは、 移動は移動、戦闘は戦闘というふうにモードが丸ごと変わってしまいます。その一方で、イースのようなARPGは、移動と戦闘は形式の中で一体になっています。
こうした組み合わさり方の違いを、演算子を用いて表します。
一つは、その要素が並列してゲームの中に存在している場合、その要素間を、

で繋ぎます。
また、その要素が同時に存在する場合、その要素間を

で繋ぎます。
ですからドラクエですと、
(Sn∩......) ∪ (Ad1∩.....)
~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~
移動に関する部分 戦闘に関する部分
という風にかけます。
最近のゲームの大半は、こういった基本要素と演算子で形式だけは書き表すことができます。
またこのように書き表すことによって、今まででは、感覚的に、ゲーム同士が「似ている」「似ていない」といった議論や、「あのゲームは○○と××を足して2で割ったようなゲーム」といった議論を、かなり正確に定量的に行うことができます。
ゲームの形式の歴史的な変遷なども、要素の付加、交換、演算の入れ替わりなどで追っていくことで、かなり客観的に見ることができそうです。(今までの手法だと単にメーカーごととか、題材毎などあまりにも分類者の都合で分けられる場合が多かった)
関心のある方は、この手法で、シューティングゲームの系譜書きや分類などを行ってみてはいかがでしょうか。
■文法の解体〜RPGの文法〜
この章の結論だけはじめに。
「RPGに文法はない」
実はRPGは、TVゲームの世界では、文法の解体に貢献したゲームジャンルではないかと思っています。
他の多くのゲームジャンルは文法の基本ジャンルを創出し、構成を固め、見るからにゲームジャンル=ゲーム文法といえるような形式を作り出してきました。 ですから古くからあるゲームのジャンルの文法はいまだに基本的な変化はありません。
(シューティングゲームがいい例でしょう)
RPGは文法的には、そういった古くからのゲームとは一線を画した変化を遂げています。
初期のRPGは、基本的にはADVの文法そのものです。ところが、RPGは成長するにつれ、今まできちんと固まっていた文法群(アクションゲームの文法の固まりとか)を、ばらして取り込んでいくことをはじめました。
例えばアクションゲームであればかならず、
T(リアルタイムの進行を表す)とすると、
Sn∩......∩T
とかけます。(アクションゲームでは基本的には「∪」はあり得ない)
RPGはそれを都合に合わせて、Sの一部とTを様々な演算子の結び方で取り込んでいきます。
たとえば、移動部分だけがアクションになったRPG(例えば、リンダキューブ)のようなものであるなら
(Sn∩......∩T)∪(Ad1∩.....)
のような文法が生まれます。また更には、進行のほとんどがリアルタイムで進むアクションRPGのような文法など、RPGはジャンルとして固定されているべき要素を、解体し自らに取り込んでいく、事を繰り返していきます。(いまのRPGに他のジャンルの文法の要素は常に見出される)
言い換えるなら、楽しむためには手段を選ばない一番柔軟なゲームジャンルなのかもしれません。
これで、一応文法の話はおしまいです。次からは素材の話に移ります。 他のジャンルの文法については、そのうち思い出した時にぼつぼつやっていきたいと思います。
(そのうち、なぜこの分析が必要かという話もしたいとは思います。
実はこの手法は、記号論理を用いた分析哲学の手法に拠っています。恐らく理解できる人、少ないんじゃないかなとは思うんで、あんまりいい文章ではないと思います)

沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/F/F.htm
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/F/F2.htm
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/moon.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/clove_r.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/game2.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html












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Goebbels: テクストゲーム史〜ゲームのポストモダニズム(1999)




Goebbels: テクストゲーム史〜ゲームのポストモダニズム(1999)
テクストゲーム史
モダン,あるいは「閉ざされ」から「開かれ」へ
Goebbels
goebbels@01street.com
http://www.01street.com
■序論
留学中のことである。友人がわざわざ送ってくれたいかがわしい(このいかがわしいの意味は推して知るべし(笑))CD-ROM群。
その中にガンパレード・マーチなるプレイステーション用ゲームが「是非ともやれ!」という命令文付きで混ざっていた。なんでも日本では随分話題になったゲームだとのことであった。
しかしこちとら留学中の身である。日本語のゲームなぞにうつつを抜かしている暇はない,FF8フランス語版をクリアする暇はあってもである。
今思えば,あれは友人の仕掛けた巧妙な陰謀だったのではないか?ゲームに溺れさせ留学を失敗させようと言う(笑)偶然だがそのトラップを回避できたことは幸運であった。
帰国後,プレイしてみて思ったことなのだが,このゲームは面白いという以上にゲーム史,敷いては文学史上それ以上の意義のあるものだったのではなかろうか。
今回はこのガンパレード・マーチ(以後ガンパレ)を軸に前エッセイで論じたテクストゲームの歴史と展望について二回にわたって論じていくことにしたい。
■文学におけるモダンとポストモダン
まあ,その前に,すこし文学なるものについて語ろう。
モダンだとかポストモダンだとかいう用語を聞いたことは一度ぐらいあるはずだ。
芸術やファッション,哲学などに使われる用語だがもちろん文学にも使われている。文学におけるモダンとは即ちアヴァンギャルド,前衛を指すものらしい。さらに解説するならば,文学におけるアヴァンギャルドとは一言で言うなれば「過去の破壊」である。で脱モダン,ポストモダンとは過去の破壊から脱し,「過去のアイロニカルな再考」であるといえる。 具体的にどのような文学作品がモダンだったり,ポストモダンだったりするのか例を挙げると(このような定義が危険であると承知の上で,便宜的理由によって)。ジョイスの『ユリシーズ』がモダンに当たり,エーコの『薔薇の名前』がポストモダンに当たるであろうか。
モダンの文学は過去を破壊しようとする。
慣習によって具体的・一義的になってしまった物語を,その慣習(過去)を破壊することによってより抽象的・多義的な物語を目指してゆく。破壊は最終的に言葉そのものに及び,言述の流れを破壊し,最終的に空白の項(何も書かれないページ,つまり書かれうる全ての可能性を示した項)にまで達するであろう。近年一躍アイドルとなった平野啓一郎の『日蝕』のクライマックスのくだりが全くの空白項である,というのが最も解りやすい例であろうか(余談だが,なぜこんな素人紛いの芸で喜んでいる程度で芥川賞なのか?佐藤亜紀の『鏡の影』で佐藤氏がこの絶対的多義性を白紙であると,アイロニカルに見事な手法で料理したのに対し,当たり前のことを直球で投げる如き『日蝕』は恥じらいを憶えないのか?ただこの一点を取っても,そりゃあ確かに,比べられたら拙いわね,シンチョウシャさん(笑)「ヘルメス撰集」の扱いに代表されるメタテクスト的要素を見れば,その用法がますます剽窃に見えて仕方がない。そのパクリ方も「セフィール・ラーズィエル」を殆ど同じシニフィエを含ませて「ヘルメス撰集」と置き換えるのは安易ではないか?だってヘルメスですぜ,お客さん(笑)カバラ主義に対しほぼ同じ意味で錬金術ってのもねえ)。
おっと()内の余談が長くなってしまった,悪い癖である。
もっとも空白項が究極の多義性を導き出す例に『日蝕』を使ったからと言って,『日蝕』がモダン的作品だと言っているのではない,念のため勘違いなされぬよう。
話をもどす。
私はここで,モダンに対しポストモダンを説明するのにウンベルト・エーコの言葉を引用したい。
彼は彼女に「死ぬほど好きだよ」と言えないのを知っている。
なぜならこの言葉がすでにリアーラによって書かれたことを彼女が知っていると(そして彼が知っていることを彼女が知っていると)わかっているからだ。しかしひとつの解決がある。彼は言うことができるだろう「リアーラなら言うように,死ぬほど好きだよ」と。この点で,偽りの無垢を回避し,無垢な仕方で語り得ぬことを言った上で,この男は女性に言いたかったことを言うだろう。彼女を愛しているのだと。もしその女性がゲームに参加するのなら,彼女も同様に愛の表明を受け取るだろう。二人の対話者のいずれも自らを無垢とは感じないだろう。二人とも過去の挑戦,排除し得ないすでに言われたことの挑戦に応じて,二人して意識的にかつ快くアイロニーのゲームに参加するだろう・・・。だが二人とも,今一度,愛を語るのに成功するだろう。 (篠原資明, 1999, 『エーコ−記号の時空』より)
つまり慣習(過去)によって定義されてしまったルールに則ってゲームを進めながらも実はその裏で,そのルール自体をアイロニカルに遊ぶ,これがポストモダン的態度だと言えよう。危険ではあるが一言で言ってしまうと,「モダンが過去の否定であるのに対し,ポストモダンは過去の利用」である。
最後に,その破壊されたり利用されたりする過去とはいったい何なのか?過去とはエーコが定義するところの「閉ざされた作品」であって,「受け手に対し基地の感情やできあいの反応しか要求しない,一義的な」ものを言う。私はこれを「新聞のような作品」と考えている。新聞はできる限り事実を伝えようと努力すべきメディアである,そこに書かれる記事に多義的要素が含まれるポエジーなどあっていいはずがない。
Aさんが交通事故によって亡くなった,と書かれていればそれは何のメタファーでもなく,ただAさんが交通事故で亡くなった,というメッセージだけを伝えるものである。
■文学としてのゲーム
さて,ここでやっとガンパレの話に,ゲームの話に戻る。
ゲームが文学の一ジャンルであるなどと主張するのは私を含めたごく一部だけであろうが,それは文学という概念の定義によるであろう。
私は文学とは「社会や文化の単位としての言語活動一般のこと」と定義したい。日本語のような自然言語もC言語のような人工言語も同時に扱う。しかるにゲームとは人工言語によってプログラムされた一つの文化である。言い換えれば文化的な人工言語活動である。とすれば,ゲームを文学の範疇に入れることは殊更突拍子もないことでもなかろう。しかしこの定義は従来の文学という概念の定義からは懸け離れていることは明白だ。だとすれば文学などという概念はもはや意味を成さない概念なのかもしれぬ。
ゲーム史を見てみるとこの文学的モダンやポストモダンが実によく当てはまるし,文学史を利用すれば今後のゲーム史を予見することもできよう。そしてゲームにおける文学史の節目として現れたのがガンパレではないのかと,私は思うのである。
現在のゲームはほぼ全て,文学で言うところの「過去(閉ざされた作品)」である。新聞的文学が読み方を一義的に限定されるのに対し,殆どのゲームが一義的に遊び方を限定されているからである。例えば『ドラゴンクエスト?V』,プレースタイルは一義的なまでに限定されている。もちろん,レベル上げ,短時間クリア,アイテム集め,など「やり込み」的な派生は楽しめるが,それは一つのシステムとしてスタイルの範囲内である。アリアハンの街を歩くお姉ちゃんと恋愛を楽しもうとしてもお姉ちゃんは「アリアハンへようこそ」しか言わない。つまり恋愛を楽しめるシステムは存在していない。「想像で楽しめるじゃないか!」とのご意見もあるだろうが,ならば新聞に「Aさんは交通事故で亡くなった」と書いてあったとしても,
「<A>という文字は突起物をイメージさせるな,お,次に<交>なんて文字があるぞ<交>とは何が交わるのだ?もしかして<A>という文字からイメージできる突起物か?ではその突起物とはなんだ?もしやアレか?男性のシンボルたるアレか?おお,次に<通>なんて文字もあるじゃないか,そういえば<通じる>ってのは姦通の<通>でもあるし,女郎に通うなんて表現もあるな,ということはこの文章は○○○○の最中に事故が起こって死んだということか?○○○○の最中の死亡事故と言ったら腹上死しかあるまい。
いや,男性のシンボルが<交じわり通じる><事故>で<亡くなった>のであるから不能のメタファーかもしれない」
と楽しむことが可能であろう,しかしこれは作品に用意された楽しみではない。でなければ世界はあらゆる差異を失い,あらゆるものは価値を失って,均一のモノとなってしまう。
ドラクエだけではない,『ファイナルファンタジー』にガンジーの如く非暴力主義を貫いて遊ぶというシステムは用意されていまい。
この原因は毎回プレイするたびに同じことが起こり(戦闘などはランダムだが)同じ遊び方しかできないことが原因であろう。分岐式アドベンチャーゲームなどは遊ぶたびに展開が違うではないかとおっしゃるかもしれないが,それは遊び方の数が明確に限定されていることから,多義的になったのではなく,一義的なものが沢山詰め込まれただけにすぎない。
モダンの文学作品,例えば小説というジャンルに属するテクストは過去の破壊によって一つのシステムを多義的に解釈できるシステムを持つ。
前述したようにモダンの思想を突き詰めてゆけば行き着くのは全頁白紙という,あらゆる解釈を可能にするテクストであろうが,それはテクストの墓場であろう。
しかも全項白紙というテクストが出現したその時点から白紙であることが意味を持つことになるだろう。
だとすればそれはもう白紙であることによって,その意味のアイロニカルな再考,ポストモダンの門を叩いていると言える。
ではゲームはどうか?テクストゲーム史におけるモダンの登場がいつかは全てのゲームを調べたわけではないので特定不能だが,日本においては『ルナティックドーン』(これに関しては,あれはファンダメンタルゲームであるべきものをユーザー環境の問題で本来は人間自身が担う部分をNPC(ノンプレイヤーキャラクター)に負わせて擬似的にテクストゲームにせざるを得なかった,というゲームと思われるからここでは言及しない。)や『リンダ・キューブ』や『俺の屍を越えてゆけ』がこれに当たるだろう。一見『ドラゴンクエスト?V』と同一のシステムを持つと見られる『天外魔境?U』もプログラミングの開発思想を見れば,多様なプレイスタイルを許容する「開かれた」構造が見て取れる。
しかしゲームシステムのみで「開かれた」テクストとなる,つまりモダン化するのはゲームの世界においては難しい。それはゲームが人工言語によってプログラミングされているからである。
ゲームシステムのレベルで真にモダン化するのは現在のプログラミング技術やハードウェアの性能では不可能であろう。完全にコード化されている人工言語によって造られたたゲームシステムが多義性を獲得することは今の技術ではできない,それを可能にしてくれるのは真の考える知能としてのA.I.であろうが,そんなものは現行技術ではどうにもならない範囲のことである。
しかし読み手にモダン的であると錯覚させることは可能である。
いや,ゲームがモダンであるのに,真のA.I.などは不要であろう。
重要なのは真のA.I.を使った場合と同等の効果を得ることである。ゲームのモダンとは「考えられる中で可能な限り,A.I.を装うことができるゲームシステムである」
ここで,AlfaSystemのHPにある「あたらしいげーむのはなし」なるエッセイの一部を引用したいところなのだが,著作権上の問題もあるだろうし,概要を説明するにとどめよう。
このエッセイの中では,いかにして現行技術内でA.I.を用いるかが語られているのだが,内容を要約すれば次のようなことを言っている。
「現行技術で単独で機能する真のA.I.を造ることは不可能である」
→「現在のA.I.定義への疑問」
→「A.I.再定義(知能とは他者との関係において初めて認知される)」
→「A.I.とは他者から知能であると認識される人工プログラムである以上,本当に知能を持っている必要はなく,知能があると他者(プレーヤー)に認知されればよい」
こう言われれば(文章が啓蒙的であるのも手伝って)さも凄いシステムであるかのように見受けられるが,実際はただ単にゲームに必要なA.I.とはプレーヤーにゲーム自体が一つの思念体であるかのように見せかけられればそれでよい,ということを説明しているに過ぎない。
これはAlfasystemなりのモダンへの挑戦状と受け止めるべきであろう。しかしこの思想は『天外魔境?U』に既に始まり『俺の屍を越えて行け』において一つの完成を見たモノの発展系であるにすぎない。ゲームはやはりシステムそのもので「開かれる」ことはできない,演じるにとどまる。「開かれる」為にはやはりシナリオや音楽,映像と一体になる必要がある。テクストゲームにおいては,シナリオや音楽,映像がいかようにも解釈できる「開かれた」存在であるということを演出する擬似モダンのシステムによってできているといえるだろう。
■モダン−「開かれた」ゲームへ
では今度は,「閉ざされた」,古典的テクストゲームから「開かれた」モダンのテクストゲームへと移り変わっていく過程を見ていこう。
『天外魔境?U』において初めて現れたシステム,それは幅広いプレイスタイルを許容することでテクストゲームを解釈する幅を広げる,つまり「開かれる」手法であった。
同系統と思われる『ドラゴンクエスト?V』は敵のステータスが予め決定されていて,ある一定以上のレベルにならないとその敵(ボス)を倒せない,というプレイスタイルを一義的なまでに拘束するシステムをとっていた。つまり「勝たせない」ことが敵キャラの役目であり,プレイスタイルの限定であった。
しかし『天外魔境?U』では,プレイスタイルに応じて,敵(ボスもザコキャラも)はできるだけ接戦を演じてぎりぎりのところでプレーヤーに「負けてあげる」ことを基本思想とした逆転の発想を持ったゲームシステムであった。どんなに低いレベルで戦おうが,どんなに高いレベルで戦おうが,敵は適度に強く,激戦を演じてくれ,最後には勝てる。ここにテクストゲームにおける「開かれ」の可能性が出てきているといえる。多くのプレイスタイルを許容するということはそれだけ解釈の可能性が広がるということだからだ。
そして同じ桝田省治の作品でも『リンダキューブ』を経て『俺の屍を越えて行け』になるとさらに顕著になってくる。
『俺の屍を越えて行け』に採用されたシステムは「物語生成システム」とでも呼ぶべきシステムで,『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』のような従来型のゲームが物語をゲーム側が提供していたのに対し,『俺の屍を越えて行け』は物語の大枠こそあるものの,ここの小さなエピソードや,物語を生み出すのはプレーヤーの脳みそそのものであった。つまりシナリオや音楽,映像と一体となったものをプレイヤーが解釈することによって無限に物語が生まれる,そしてそれを促進するシステムが採用されていたのである。『俺の屍を越えて行け』のプレイヤーはファーブラ(物語)を自ら作り出すことを求められた,ゲームのもう半分の作者となることを求められたのだ。『ドラゴンクエスト』など,物語が作者によって提供されどんなプレーヤーにも画一的な物語しかありえない「閉じられた」テクストゲームとは明らかに一線を画すものであった。
その証拠はネット上にある,膨大な数の二次創作小説である。『ドラゴンクエスト』は何百,何千万本も売れているにもかかわらず二次創作小説はあまり生まれていない。反対に『俺の屍を越えて行け』は三十万本前後,と『ドラゴンクエスト』に比べればはるかに少ない出荷数なのに二次創作小説が氾濫している。つまりそれだけ,プレイヤーに空想させる,解釈を即すシステムを持ったゲームだったのだ。
しかし,この『俺の屍を越えて行け』は桝田省治は意図的にか,一つ失敗を犯した。
テクストゲームにおけるモダンの完成形とも言えるこのゲームが要求する,つまり能動的にファーブラを形成しながらプレイできる能力を持ったプレイヤーはまだそう多くは無いのである。枡田省治を受け入れられないプレーヤーも多いのだ。この辺りがモダン的ゲームの限界であろう。能動的に解釈しようとするプレーヤーには受け入れられるが,受動的にしかプレイしようとしない無邪気なプレーヤーには受け入れられない。アニメの世界において一般にエヴァ現象,と呼ばれる『新世紀エヴァンゲリオン』が巻き起こした謎と解釈の氾濫を思い起こしていただきたい。そのとき多くのアニメファンはどういう態度を取ったかを。多くのアニメファンはTV版,映画版の25話・26話双方とも(特にTV版を),毛嫌いした。それはあまりに多様に解釈可能であったこのアニメのその「開かれ」に拒絶反応を起こしたのである。積極的に物語を解釈し,多用なる解釈を許容しようとはせずに,ただ物語りに画一的な結論と解釈が与えられることを多くのアニメファンは望んだ。つまり「閉じられた」テクストを望んだのが当時のアニメファンだったのである。「エヴァは24話まで面白いけど,25,26話は嫌いだな。わけわかんないもん」という人々だ。ネット上で「謎解き」と称するさまざまな解釈があふれたにもかかわらず,着地点がこのような結末であったのは哀しいことであった。
残念ながら現在の大半のゲームプレイヤーはほとんどこのような人たちと同一なのである。テクストゲームに積極的な解釈を加え,ファーブラを生成しようとはしないのだ。だから「開かれた」ゲームも一味,味付けしてあげねばならないのである。このあたりが桝田省治のゲームがとっつきにくいといわれてしまう所以であろう。桝田省治のゲームは「幸福なる少数者」の為のゲームといえる。
これがモダンのある種の限界だ。
■モダンとポストモダンの要求するプレーヤーの違い
テクストゲーム史1で述べた枡田省治の一連のゲーム,モダンの部類に属するゲームに対し,『高機動幻想ガンパレードマーチ(以下ガンパレ)』はまったく違うアプローチを行っている。
「過去のアイロニカルな再考」つまりポストモダンの手法を使っているのである。
モダン的テクストは常に過去を破壊し,新しいモノを求めるので過去にとらわれている読者(プレーヤー)には受け入れられないが,ポストモダンは「過去のアイロニカルな再考」であるのだから,理想的な読者(プレーヤー)は使われている引用や手法の再利用と戯れようとするだろうし,モダンを受け入れないような無邪気な読者(プレーヤー)も「過去のアイロニカルな再考」の「過去」の部分だけを,つまり表層的な部分だけを楽しむことができるし,引用をオリジナルだと勘違いして楽しむかもしれない。常にモダンを求めるような能動的な読者(プレーヤー)はその引用や手法の再利用のしかたの斬新さを楽しむであろう。つまりどのタイプのプレーヤーも,その質の違いに関係なく,違うレベルではあるが楽しむことが可能なのだ。これがモダン的ゲームとポストモダン的ゲームの最大の違いだ。
ではポストモダン的ゲームである『ガンパレ』がこのプレーヤーの質という問題にどう取り組んだかを分析してみよう。
■教育システム
まず一つ目は「教育」である。
『ガンパレ』は「謎解き」のシステムを利用し,プレーヤーを教育しようと試みたのである。「謎解き」のシステムとはミステリー小説の根幹をなすシステムのことである。推理ものなど,ミステリー小説を読むときに読者は知らず知らずのうちに隠された謎(「犯人はだれか?」など)を解こうと試みてしまう。もちろんそれは小説の読み方としては極めて一次的で幼稚な読書だといえよう。しかしそういうシステムそのものは流用できる。なぜならば謎解き,という極めて幼稚な読書ではあるが,それは読者のテクストへの介入を即するには最良の方法にはなるからである。
使用例を挙げよう。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』という小説であるが,これは一般にミステリー小説,推理ものと受け取られているようだ。しかし,そんなものでは絶対にない。これはアンチ・ミステリー小説である。読者は確かにエーコに乗せられ,ミステリー小説のシステムに乗せられて謎解きへとまい進してゆく,しかし最後に行き着くのは謎など初めから無かった,という事実である。読者は謎解きのシステムに乗せられてテクストに積極的に介入してゆき,結果的にはいつのまにかファーブラを形成する能力を身につけるに至っているのである。「閉ざされた」テクストしか許容できなかった読者が,いつのまにか「開かれた」テクストを解釈できるようになってしまうシステムをもった小説なのだ。
「閉じられた」テクストゲームしか許容できなかったプレイヤーをゲーム内で教育しているのである。
『ガンパレ』はこのシステムを明らかに利用している。「このゲームには謎があります」と説明書で宣言することでミステリー小説式の一次的な謎解きのシステムにプレイヤーが参加することを即し,製作会社(AlfaSystem)のHP内に謎解き用の掲示板を設置して「謎ハンター」とよばれるプレイヤーたちが謎解きの解釈を繰り広げるのに,作者側が出てきて,一定の方向性を与えてすらいる。本来ならば作者側が自ら出てきて,解釈に方向性を与えることなどは必要ではない(文学解釈の世界では作者の意見など一解釈としての権威しかない)のだが,『エヴァンゲリオン』の失敗(方向性がないばかりに解釈が大氾濫し,結局それに視聴者が耐えられなくなってしまった)を踏まえて,解釈する場所(掲示板・HP),解釈の方向性を限定することにより,「閉ざされた」テクストゲームしか許容しないプレイヤーを徐々に教育することに成功している。
私自身はプレイする時期が遅かったこともありいわゆる「謎解き」には参加していない。が,聞くところによると,1〜7までの論理トラップなるものが設定さてれていて,プレイヤーはひたすらその突破を目指すのだという。作者側は過剰解釈や解釈不足を正し,ヒントを与えて正解なるものに導いているらしい。これはおそらく,「開かれた」テクストを解釈するための第一段階のトレーニング,つまりテクストに積極的な解釈を加える力,つまり謎を解こうとする力のトレーニングであろう。よって作者側にすればこの謎解きに参加し,謎ときを行ってさえくれれば第一段階のトレーニングを受けさせることができるのであるから,トラップを解くかどうかは関係ない,一つの遊び以上の何ものでもないだろう。そしてその謎解き掲示板を少し覗いたところでは,作者側は「論理学」をかなりプッシュしている。初歩的な論理学は文章を書く際に,特に議論をする際に,空回りしないために必要不可欠な学問である。
論理的な文章を書いてくれれば掲示板も荒れないし管理しやすい,という目的もあるかとは思うが,初歩的な論理学というのは一次的な謎解きに必須である。勿論必ずしも専門的な論理学を学んでいる必要はない。というのも論理学では謎解きはできても「開かれた」テクストは解釈できないからである。
まずここまでがテクストを積極的に読み解こうとするプレイヤーを教育する段階である。そのための力を,論理学を学ばせ,1〜7までの論理トラップを解かせることで養成しているのだ。
さて,所謂「謎解き」に一切かかわることのなかった私ではあるが,第7トラップに限定すれば回答を出せる。少し卑怯であるが,まあ,ゲームごときに割いている時間もそれほどないので,第7トラップのみに参加させてもらうとしよう。
それにはまず「謎」の構造主義的コード解析から始めねばなるまい。
謎に最低限必要なものとして「解かれていない」という属性がある。なぜなら解かれた瞬間にそれは「謎」ではなくなるからである。そしてもう一つ「謎」であるからにはその「正解」がなければならない。推理小説における犯人がそれである。つまり推理小説に代表されるような謎解きのシステムというものは須らく「閉じられた」システムであり。謎を解く上での解釈は解答という形のたった一つのものでしかありえない。よって謎は論理学によって論理的に解かれる代物なのである。
その意味では謎とは正解が覆い隠されたものでもある。つまり「正解」という中心を必ず持っているものであるのだ。この場合謎のコード(注:このコードは閉じられたコードである)とは「謎」は「隠された解かれるべき正解」であるとするシステムそのものである。
第7トラップとはこの「閉じられた」「謎」のコードである。つまり「世界の謎を解けば,その先には隠された正解がある。そのために謎解きをする」ということだ。
これに対するトラップの突破は,「開かれた」テクスト解釈への道である。しかしこの「開かれた」はディコンストラクション的な無限の解釈の可能性ではない。第7トラップは「理由付けさえできれば解釈は無限にある」という解答を許容しないのである。そうでなければ第1〜6トラップを解かれる前に第7トラップが解かれていたはずである。解答はやはり第1〜6トラップというコンテクストを考慮に入れなければならないだろう。
無限の記号過程に埋没することもまたトラップであるのだ。このあたりはエヴァンゲリオンの失敗から学んだことだろう。
よって,単純に「開かれ」ればよいのではなく,「開かれ」た無限の解釈の可能性のなかから慎重に「可能な解釈」を選別しなくては成らないのだ。
正解を先に書いてしまうと
「世界の謎を解こうとする行為(思考や議論)は世界の謎解きが目的ではなく,無限の記号過程が氾濫する(無限の解釈が可能な)世界において,それに埋没することなくより良い世界を作り上げてゆくこと,そのための思考・議論であった」
ということである。さらにあげるならここで言う世界とは現実ではなく,存在可能な仮想世界であるということか。
要はデリダらポスト構造主義哲学を使っているのだろう。謎を脱構築しているのだ。
ゲームをプレイするのに特に必要のない現代思想など全く持ち出さずにしっかりとプレーヤーを育て上げる手際は実に見事であった。
■ポストモダンのゲーム構造
ガンパレがポストモダンであるという理由の二つ目は,プレイ方法の多重化にある。まず一週目(いわゆるファースト・マーチ)を分析しよう。
ガンパレはごちゃ混ぜゲームである。大戦略系の戦術級シュミレーション的要素,ときめきメモリアル系恋愛シュミレーション的要素,一つの物語を登場人物に成り代わって解いてゆくドラクエ系(Wiz系ではない)RPG的要素を根幹にし,バイオハザード系のGUIによって操作する。
多種のゲームシステムをごちゃ混ぜにすることによって多義性の獲得をねらったものであると受け止められるが,これはそれほど成功したとは言えないであろう。それぞれのシステムがそれほど密接に関係していないからである。例えば,学園モードのなかで仲の良い悪いが生じるわけだが,それが戦闘モードに入ったときにキャラの動きと関係があるわけではない(壬生屋と恋愛関係にあるからと言って壬生屋がこちらを守ってくれるわけではない),関係があるのはせいぜい恋人関係にある人物が死んだ時のイベント程度である。戦闘モードそのものに物語への積極的介入の要素はない。戦死者でも出ない限り,普段の戦闘に物語を求めることはこのシステムでは過剰解釈に当たるであろう。存在するのは単に撃破数と戦死者によるイベント発生ぐらいである。ごちゃ混ぜになってはいるが,その一つ一つのモードの独立性は高いのである。
確かに,『Sランククリア』『恋愛を楽しむ』『ソックスハント』『物語を楽しむ』とプレイの仕方は多様であるが,それは複数のシステムがごちゃ混ぜにされた分,増えた遊び方に過ぎない。真の多義性とは限りはあるもののいかようにもプレイ可能であることではないだろうか?しかし私が確認した限りではプレイ方法は以上の四つだ。派生として『スカウト絢爛舞踏賞』などがあるかもしれないが,それはドラクエ?Vを勇者だけでクリアするだとか,そういうやり込み芸の一つと同じ次元である。説明書に書かれているような『探偵ごっこ』や『風紀委員』のプレイスタイルで十分に楽しめるようなシステムは用意されていない。(滝川がカンニングペーパーを持っていることは「交換しようぜ」コマンドを使えば一発で解ってしまう。カンニングの証拠をつかんでも滝川はアイテムを持っている限りカンニングし続けるし,先生に言いつけることも出来ない。つまりゲーム性がない。また,「注意→仕事について」や「みんながんばろう」を連発すれば志気があがるのは自明であり,そこには何のゲーム性もない)もちろん可能ではあるが,それはドラクエ?Vで「ようこそアリアハンへ」とだけ言う,女の子に恋愛をするというプレースタイルと同じようなものだ。
一週目をプレイする限りにおいて,ガンパレは疑似モダンですらない,従来通りの過去(閉ざされた作品)のゲームであろう。プレーヤーは速見厚志という主人公と同一視され,感情移入していくプレイスタイル以外に小説のモダン的テクストのような ,作者の意図を想定し(モデル作者)ながら読む読み方や,テクストの構造そのものを探りながら読むという行為はない。つまりモダン的ゲームを許容できない(積極的に解釈しようとしない)無邪気なプレーヤーも一週目を十分に楽しむことが出来るだろう。しかし反対に,能動的に解釈をしようとするプレーヤーも,引用と戯れようとするプレーヤーにも物足りないであろう。
しかしそれは二週目のプレーにおいて一変する。この二週目以降があるからこそ,私はガンパレをポストモダン的だと主張するのである。
二週目が始まってしばらくすると,一週目ではただの「岩田」であった岩田がプレーヤーに語りかけてくる。プレーヤーキャラではなく,ゲームをプレイしている私やあなたに話しかけてくるのだ。
「…最近色々かぎまわっていますね,
異世界のプレイヤー…さん。
フフフ…。隠さなくてもいいですよ。
あなたと,私と,坂上は,あなたと同じ介入者ですから。
…もっとも,私は冬休みがてらに青が追う竜を追ってこの世界に介入してきた,ハッカーですがね。」
ここで,私たちプレーヤーが見る世界が一変する。今までは速見や芝村が幻獣と戦う世界がプレーヤーの見ている全てだったが,どうも,各キャラクターの後ろにはそのキャラクターを操っているいくつもの世界があるのではないか?(もちろん,二週目以降をプレイしている私たちプレーヤーが生きる現実世界も含めて)という疑念がふつふつと沸いてくる。
そうなると既に一週目をクリアしている私たちプレーヤーは自らの一週目のプレイに疑問を持ち始めるのである。
「オレたちが,理解したと思っていた世界は実はまったく違う世界なのではないか?思い違いをしていたのではないか?」
このような疑念をもったプレーヤーは一度プレイした一週目を,二週目をプレイすることを通して再読することになるのだ。二週目をプレイしながら,常に一週目と二週目を比べて,一週目で自分が感じ取ったことを修正していくのである。
一週目と二週目以降のプレイはお互いに影響しあい,微妙な意味を造り上げていくのである。
「二週目以降における一週目のアイロニカルな利用」これがまず一つ目のポストモダン的特徴だ。
■ヒーローのメタフィクション
ゲームの全体に流れる物語もポストモダン的だ。『ガンパレ』の物語とは「ヒーローについて語るヒーローもの」あるいは「過去のヒーローものの利用」だからである。メタフィクションなのだ。「Sランク」という最高レベルのクリアレベルを達成するにはプレーヤーキャラは「ヒーロー」にならなければならない。『ガンパレ』はその「ヒーロー」について物語中で常に語ることになる。プレーヤーはヒーローとは何かを理解し,ヒーロー的行動をしなければ「Sランク」を達成できないのだ,またそのヒーローを理解するために,過去のヒーローものについて考えてみなければならないのである。
このようなポストモダン的なゲームの構造はどのような効果をもたらしているのだろうか?それはプレーヤーに想像させるということだ。前述したように「謎」を追わせることによってプレーヤーの積極的な思考を即し,かつ「謎の答え」という単一の解答を求めるだけだったプレーヤーを,自らが想像するように改変する効果をポストモダン的ゲーム構造が支えているのである。
「ヒーローとは何か?」「なぜ戦うのか?」「幻獣とは?」「人間の未来は?」これらの疑問の解答は用意されてはいる。しかしその解答は唯一無二のものではなくて,あくまで一つの解釈例にすぎない。『ガンパレ』はそれらの謎の解答をプレーヤーが自分なりに想像することを即しているのだ。
■結論
ゲームは受動的な文学ジャンルであった。「コントローラーでプレイするのだから能動的なのでは?」と思う方もいらっしゃるだろうが,プレイするためのコントローラーまでもが用意されていると考えれば,ゲームはむしろ受動的なのだ。プレーヤーは一度覚えたルーチン・ワークでプレイしていればよいからである。
しかしゲームにもモダンの流れが流入し,プレーヤーはただ受動的にゲームの表面だけをプレイするだけではなくなった。一義的だったゲームは多用なプレイスタイル,解釈を可能にするモダン的ゲームに進化し,プレーヤーにより能動的にプレイ方法を選択させ,ゲームの解釈を即した。
そして『ガンパレ』の登場により,ゲームはポストモダンへと足を踏み入れたのである。
『ガンパレ』というゲームにおけるポストモダンの初の試みは大成功だったと言っていいだろう。
一義的な解釈しかできないプレーヤーは一週目をそれなりに楽しみ,能動的で多用な解釈をしようとするプレーヤー,あるいはそのようになろうとしているプレーヤーは二週目以降を十分に楽しむことができた。前者を後者へと進化させる「教育」のシステムまで内蔵している。
テクストゲームもようやく,ポストモダンの境地へと足を踏み入れたのだ。
■今後の展望
最後に最近のテクストゲームの動向を見てみよう。鬼才枡田省治は『暴れん坊プリンセス』によってポストモダンの境地に足を踏み入れたがこれはプログラミングの拙さとプロデューサーの無能が祟って失敗に終わった。次回作に期待したいが,枡田省治はモダン的ゲーム,つまり「幸福なる少数者」のためのゲームを創るのが上手いのであるからむりにポストモダン化することもないだろう。私個人としては枡田省治の「幸福なる少数者」のためのゲームが好きであるし,プレイしたい。そしてもし可能ならば,受動的にしかプレイしないプレーヤーを教育するシステムを組み込んでもらいたい。
問題はアルファシステムの芝村裕吏だ。ガンパレでポストモダン的手法を使い,また教育のシステムを組み込むことで大成功したが,これでプレーヤーを教育できたと勘違いし,枡田省治のようなモダン的ゲームを創ったら大失敗するだろう。プレーヤーは荘簡単には学ばないのだ。残念ながら芝村裕吏には枡田省治のような鬼才は無い,「幸福なる少数者」のためのゲームをつくっても枡田省治のレベルには追いつけないだろう。次回作であるコードネーム「ニュー」にもやはりまたポストモダン的手法と教育システムを採用することを願いたい。そしてこれはアルファシステムに言いたいことだが,頼むから優秀なプログラマー,そしてコーダーを雇っていただきたい。『ガンパレ』が敬遠されるとしたら,それはユーザビリティーが最悪だからだ。コナミあたりがつくっていれば,もっと軽快にプレーできたことであろう。
ファンダメンタルゲーム全盛の現在,鬼才二人,枡田省治と芝村裕吏に低迷するテクストゲームが今後どのような発展を見せるのかがかかっていると言っても過言ではない。
この二人ならば,きっと「解釈することを楽しむゲーム」=「テクストゲーム」の面白さを存分に引き出してくれるに違いない。
○参考文献
篠原資明, 1999, 『エーコ−記号の時空』
Umberto Eco, Opera Aperta, Milano, Bompiani, 〔篠原資明/和田和彦訳『開かれた作品』青土社, 1997年〕
Umberto Eco, Lector in Fabula, MIlano, Bompiani, 〔篠原資明訳『物語における読者』青土社, 1993年〕

沢月亭
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新説ゲーム史
Goebbels
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■ファンダメンタルゲームとテクストゲーム
コンピューターゲームが生まれて以来,様々なジャンルが様々な人々によって確立されてきたように見なされているが,今まで使用されてきた意味でのジャンルという概念はもはや機能しなくなっている。
『高機動幻想ガンパレードマーチ』をどのようなジャンルとして規定するのか,現在の意味でのジャンルの概念では説明できない。RPG,STG,SLG,ACG・・・・もはやそんなジャンル分けは不可能であろう。
実はこれは当たり前,というよりも小説の世界に置いてすでに先例がある話なのだ。
純文学,歴史,SF,ミステリー,恋愛・・・・・
現在もなお便宜的なジャンル分けが行われているが,それはもはや文学の世界での意味を失った商業レベルでのジャンル分けに過ぎない。
RPG,STG,SLG,ACGといったジャンル分けは商業レベルで使われるならまだしも,ゲームを論じる上で使用に耐える概念ではもはや無くなった。
では文学の世界に置いていまだ有効なジャンル分けとはのはどのようなものであるか。
可能なのは最大限にマクロ的な,韻文と散文ぐらいであろう。小説や詩,随筆・・・という分け方すらも機能はかなり薄まってきてしまった。
もはや意味を失ったと行っても良いだろう。コンピューターゲームの世界に置いて,このようなマクロ的なジャンル分けというモノはいままで行われてこなかったが,これからコンピューターゲームを論じようとするならば定義しておかなければならない問題であろう。
現在のところ,コンピューターゲームは次の二つのジャンルに分類できる。
一つ目は,コンピューターゲーム以前の,トランプやボードゲームといった旧スタイルのゲームに端を発するもの。二つ目は文学に端を発するモノである。
私は前者を「ファンダメンタルゲーム」,後者を「テクストゲーム」という用語を使って定義したい。
「ファンダメンタルゲーム」とは,複数の人間が参加することを前提にしたゲームであり,ゲームと人間のコミュニケーションではなく,人間と人間とのコミュニケーションにこそ重要性があるものである。ゲームのシステムは人間と人間とのコミュニケーションを演出し,促進させるために存在する。例としてはは『実況ウイニングイレブンシリーズ』や『実況パワフルプロ野球』のような対戦重視型の各種スポーツゲームが挙げられるだろう。そのようなスポーツゲームは確かにコンピューターvs人間での対戦も可能であるが,理想としては人間vs人間なのであり,コンピューターは対戦相手を見つけられない場合に仕方なく人間の相手をする存在でしかない。
「テクストゲーム」とは,一人の人間がプレイすることを前提としたゲームであり,ゲームをプレイするという一次的な遊び方において,ゲームと人間のコミュニケーションが中心を成す。システムは設定や物語と一体となってプレーヤーたる人間とコミュニケーションを楽しく成り立たせるために存在する。例としては(解りやすいように今までスポーツゲームという同一ジャンルで語られてきたモノを例に取ろう)『サッカーチームをつくろう』や『栄冠は君に』といった一つの統辞性を持った物語を楽しむ各種スポーツゲームが挙げられるだろう。そのようなスポーツゲームは,育てたチームを他人のチームと戦わせると言ったおまけ的要素もあるが,ゲームの中心を成すのは,ゲームとコミュニケーションしていく上で物語を楽しむことである。
今提示したジャンル分けが,有効な理由は,既存のジャンル分け(RPG,SLG・・・・)がその境界線を曖昧にし,その複合体ともいえるものまで存在することによって定義不能に陥ってしまっているのに対し,明確に分けることが可能であることだ。
「ファンダメンタルゲーム」はその面白さの源が人間×人間のコミュニケーションにある以上,一定以上の長さを持った統辞的物語を持つことが不可能になる。
「テクストゲーム」はその面白さの源が人間×コンピューターのコミュニケーションにあり,それはつまりシステムや各種記号が語る物語をプレーヤーが解釈することに他ならないから,その物語が一定以上の長さを持った時点でゲームをプレイする一次な遊び方としての人間×人間のコミュニケーションは不可能になる。
要するにこれは時間的問題である。人間同士のコミュニケーションは,当事者が全員人間である以上,当然時間と場所の制約を受ける。インターネット接続によってその条件はある程度緩和されるだろうが,『ドラゴンクエスト?V』のような,一つの物語をプレイする時間が20時間を超えるようなゲームにおいては,プレイするときに必ず同じ面子をそろえると言うことをモデルプレーヤーに要求できるものではない。となればある程度の長さを持った(例えば『ドラゴンクエスト』?V程度の長さを持った)物語は「ファンダメンタルゲーム」においては不可能である。
「テクストゲーム」はその反対で,一定以上の長さを持つ統辞的物語が存在する以上,一次的な遊びにおける人間同士のコミュニケーションは不可能となる。
このジャンルの定義は時間的問題を人間がクリアできるその日まで有効なジャンル分けであろう。時間的問題がクリアできないかがり,「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」の共存はメジャーゲーム市場においては不可能である。
もちろん,小学生やドロップアウターの中には毎日同じ面子が同じ時間に集まって(ネットを利用する場合,場所の概念からは自由になれる)プレイすることも可能であろうから,「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」の共存が完全に不可能とは言わないが,少なくともそのようなモデルプレーヤーを設定するゲームは数を売ることは出来ない。
マイナー層にマーケティングのターゲットを置いているのだから道理だ。
勿論,どちらかの内容だけでも十分楽しめるようなゲームを造り,「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」の共存をおまけ的要素として付加する場合も想定可能であるが,それでもはやり主要なモデルプレーヤーを描くときにはどちらかに偏重せざるを得まい。
■オンラインRPGの分析
オンラインRPGと一般に呼ばれているものがインターネットの普及と共に生まれ,現在も増え続けている。RPGというゲームのスタイルが「誰かを演じる(ロールプレイ)」ゲームである以上,複数の人間が参加し,人間同士がゲームを造ってゆくオンラインRPGはRPGの来るべき進化であったと安易に考える方々も多いかもしれない。
しかしそれは大きな誤りである。今まで,既に役割を果たし終えたRPGというジャンル分け概念によって,同一視されていた二つのジャンル(融合し得ないジャンル)のうちの片方の進化でしかないからである。
オンラインRPGは本来「ファンダメンタルゲーム」に分類されるべきゲームの進化型である。しかしインターネット普及以前には「ファンダメンタルゲーム」の要素を持った(人間×人間のコミュニケーション)旧分類で言うRPGは存在こそすれメジャーたりえなかった。それはやはり時間的,場所的制約を受けるからであった。
先ほどからRPG,RPGと既に機能しないとまで言い切った用語を使ってきたが,一度定義しておく必要があるだろう。
RPGとは『ウィザードリィ』『ウルティマ』などに端を発する,「ゲーム中の誰かに成り代わり,その役割を楽しむ」ゲームのことであると定義する。
旧分類でRPGと呼ばれるモノの先祖は『ウィザードリイ』や『ウルティマ』だろうが,この二つのゲームは「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」の可能性を同時に持っていた。加えてパーティープレイ(複数のキャラをプレーヤーが操るプレイ)が発明されてからはRPGにおけるプレーヤーは多数のキャラを担当することとなった。
ところで皆さん,胸に手を当てて思い返してみていただきたい。RPGが本当に面白かったのはどういう遊び方をしたときか?これは断言しても良いが,一定以上の長さを持った統辞的物語を仲間と無駄話し,一緒に謎解きしながら最初から最後までプレイしたときである。つまり夏休みやその他諸々の幸運によって条件が奇跡的に成立し,「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」が融合したときである。
余談だが,私は『ダンジョンマスター』や『ドラクエ?U・?V・?W』『ファイナルファンタジー?[』を友人とずっと一緒にプレイしてクリアした経験がある。やはり一つの冒険を仲間と協力して達成するというのは何にも代え難く面白い。一人でやったときにはあまりの退屈さに投げ出してしまった『ファイナルファンタジー?[』ですら面白く感じた。まあ,この時は『ファイナルファンタジー?[』がフランス語版であり,単語やセリフの日本語対照データベースを造りながら遊んだと言うこともあるだろうが。
話を戻す。パーティプレイであるならば一人が全キャラを担当するのではなく,一つのキャラに一人,担当する人間が付いて人間同士がコミュニケーションをとりながら一緒になってプレイするのが一番面白い。『ウィザードリィ』にはその可能性はあったが,インターネットというものが一般に普及していなかった当時,あれだけの長さを持ったゲームを常に同じ面子を集めてプレイしクリアするなど不可能であったし,操作インターフェースを三つも四つも期待できるような時代ではなかったから「人間×人間のコミュニケーション」は成立しなかった。だから仕方なく,一人のプレーヤーが全キャラの操作を担当していたのである。
その後RPGはユーザー環境的な問題から「ファンダメンタルゲーム」であることを捨て,「テクストゲーム」に偏重してゆく。それはインターネットが普及していない状況では(コンシューマー機では特に)「人間×人間のコミュニケーション」が不可能であるからだ。となれば「一定以上の長さを持つ統辞的物語」を持つ「テクストゲーム」へと制作の方向が向くのは当然のことである。『ドラゴンクエスト』シリーズなどはその典型であり,この典型が長らくRPGの世界を牛耳ってゆくことになるのだが,「テクストゲーム」たるRPGの進化についてはまた別の論文で論じることとしよう。
今論じるているのはオンラインRPGであった。
『ウィザードリィ』『ウルティマ』で「ファンダメンタルゲーム」「テクストゲーム」双方の可能性を示したのであるが,「ファンダメンタルゲーム」的要素を持つゲームの登場はユーザー環境の制約から長らく影を潜めることとなる。
勿論,対戦型格闘ゲームやスポーツゲームのような「人間×人間のコミュニケーション」(対戦)を遊び方の第一前提にしながらも,一人でも遊べるようにとゲーム側に人間の肩代わりをさせる機能を持たせる,という手法を拡張して,疑似A.IによりNPC(ノンプレーヤーキャラクター)に人間の振りをさせることで擬似的に「人間×人間のコミュニケーション」を成り立たせようと言う試みは存在した。日本で言えば『ルナティックドーン』シリーズがその部類に入るだろう。
しかし本当の意味で「人間×人間のコミュニケーション」を実現するのにはインターネットの普及を待たねばならなかった。『Diablo』『Ultima online』。どのゲームも「ファンダメンタルゲーム」である。勿論一人で遊ぶことも可能だが,それでは面白さの半分も出せまい。一番面白いのはインターネットに接続し,「人間×人間のコミュニケーション」を行って遊んだときであろう。これらのゲームの登場により,進化の停滞していた「テクストゲーム」的RPGに飽き飽きしていたユーザーは一斉に「ファンダメンタルゲーム」的RPG(オンラインRPG)に飛びつくこととなる。しかしこれをRPGの革新であるなどと考えるのは愚かであろう。そもそも「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」はその特徴と面白さを異にするものであるし,「ファンダメンタルゲーム」的RPG(オンラインRPG)が隆盛なのもインターネットにより物理的問題の一部を解消したことにより一斉に氾濫したという一時の流行のようなモノに過ぎないし,「ファンダメンタルゲーム」的RPG(オンラインRPG)は「テクストゲーム」的RPGより面白いということは「ファンダメンタルゲーム」の典型たる対戦型格闘ゲームが「テクストゲーム」的RPGより面白いと言うことと同じくらい無意味なことであるからだ。
「ファンダメンタルゲーム」的RPG(オンラインRPG)の登場は長らくユーザー環境によって制限されてきたゲームが問題の解消によって登場してきているに過ぎない。
そしてこのオンラインRPGは,やはり「ファンダメンタルゲーム」の制約を受けてしまう。時間的問題である。インターネットによって場所の問題は大部分解消され(残りの大部分の場所的問題はモバイル環境の整備で解消されるだろう)残るは時間的問題だけとなった。しかしこれは当分クリアできそうな問題ではない。これがクリアできない限り,「一定以上の長さを持つ統辞的物語」という特徴を持つ「テクストゲーム」の要素を征服できないが,クリアすることの展望すら現在の技術では描くことが出来ない。
■利用
RPGやSLGといった旧来のジャンル分けがゲームを語る上でもはや機能しないことは論証した。そこで私は「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」という新しいジャンル分けを提唱したわけであるが,その理由と定義は「RPG」というものを解説することで明らかにしたつもりだ。では,この「ファンダメンタルゲーム」「テクストゲーム」という概念を利用してどのようなことが可能になるのか?どんなことをゲーム業界に対して提言できるのか?まずゲームは今後どのようになり得るかを論じた後に,「ファンダメンタルゲーム」に焦点を絞って論じてゆきたい。「テクストゲーム」に関しては私の次の論文で論じることとしよう。
コンピューターゲームを,トランプやボードゲームの延長として捉え,あくまでゲームとして捉えるならば,コンピューターゲーム業界は大きな損失を被ることとなるだろう。私の次の論文で論じるように,「テクストゲーム」を解釈する楽しみを放棄することとなるからである。文学より端を発したこの「テクストゲーム」は,トランプや麻雀などといった旧来のゲームではなく,コンピューターゲームだからこそ達成できる文学とゲームの融合である。「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」,面白さの要素が異なるこの二つのジャンルをごっちゃにしていたままでは,現在停滞している「テクストゲーム」に未来はない。「ファンダメンタルゲーム」においても同様である。双方の面白さが時間という要素によって接近不可能ならば,それぞれのジャンルに置いてそのジャンルの可能性を最大限に引き出すようゲームの開発を進めるべきなのである。造ろうとするゲームがいったい何なのかを知らずして面白いゲームなど作れるはずもない。そういう利用法において,この「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」というジャンル分けは有効である。
そして最終的に目指すのは「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」の融合であろう。夏の夜に,泊まり込みで友達と共に冒険したあの奇跡を常に行えるゲームが今考えられるゲームの究極である。しかしそれには時間という問題の解決が必要であるが,その問題を解決する糸口すら,今は見つかっていない。
究極の話はひとまず置いておくとして,「ファンダメンタルゲーム」にはどのような可能性があるのか?引き続き「オンラインRPG」を利用して論じてゆきたい。
インターネットの普及によって始まったとも言える「オンラインRPG」の歴史はまだ浅い。
改良点が無数に存在し,それだけにゲーム市場における最も大きなフロンティアであることは誰にでも解る。
『Diablo』のヒットから着実に進化を遂げる「オンラインRPG」は『Phantasy Star online』によって一つの方向性を与えられたと言って良い。仮想世界の設定とその設定下での人間同士のコミュニケーションをいかに援助し演出できるかが,今後の「オンラインRPG」の主要な問題点となるだろう。チャット機能の強化の一環として自キャラを会話に会わせて自由自在に操れるようにすることや,より精密な世界観を設定することなど,仮想世界ではあるが現実世界の細部を持っているゲームがこれからどんどん出てくることだろう。ここまでは誰の想像にも難くない。
ではこの流れは何処へ行き着くのだろう?行き着くのは恐らく究極のバーチャル(仮想)空間ではないだろうか。現実と仮想の境界線が本当になくなるようなゲーム,脳波を読みとり自キャラを思い通りに動かせるばかりか360度3Dの視点を可能にするインターフェースを用い,あたかも一人の人間として(あるいは別の存在として)仮想世界を闊歩するゲーム,その仮想世界の中では仲間と冒険することもサッカーをすることもできる,そんなゲームだ。竜や怪獣など現実世界にはあり得ない生物とも遭遇できるかもしれない。ゲーム内でキャラ同士(勿論人間がプレイしている)の恋愛や結婚なんてものも成立するかもしれない。インターフェースが五感をフルサポートすれば恋愛に含まれる諸々の情事の再現も可能だ(この辺りには18禁がかけられるのだろうか(笑))
しかし限りなく現実に近づいたゲームに於いてプレーヤーに待っているのはもう一つの現実である。犯罪や挫折,ストレスもまた存在するだろう。すでにその兆候は出ている。『Ultima Online』をプレーした人の中には,一緒に冒険しようと誘っておいてダンジョンに入るやいなや身ぐるみはがされたり,ハッカーによって自宅に最強のモンスターを配置されてしまう被害に遭う人もいる。複数の人間が参加しているのだから犯罪が起こるのは当たり前と言えば当たり前のことだ。それより何より,最大の現実とは「主役になれない」ということだ。自分の人生の主役は自分だ,という反論があるだろう。勿論その通りなのだが,ここでの主役とはそのような意味合いではなく,一つの場面で重要な役割を担える人間と担えない人間がいる,ということだ。『ドラゴンクエスト』の中では誰もが勇者を演じられるが,「オンラインRPG」においてはそうではない。「人間×人間のコミュニケーション」を突き詰めて行った結果,待っているのは結局はタダの現実である。
それを押しとどめるためには,「人間×人間のコミュニケーション」を限定する必要がある。ある程度の部分,コンピューター側が演じてあげなければ仮想空間はたんなる現実の焼き増しとなってしまいゲーム性を失うだろう。
ある程度進化した「ファンダメンタルゲーム」は「人間×人間のコミュニケーションと」コンピューターが演じる部分の鬩ぎ合いとなるだろう。本当の意味でのA.Iが完成した暁にはその垣根すら曖昧になる。
「ファンダメンタルゲーム」においては現実との折り合いを何処でつけるかが,最大の難題と言える。
そうでなければ,もはやゲームである必要が無くなってしまうからである。
現実は現実だけで十分ではないか,なにもゲームまで現実にすることはない。
!参考文献
Unberto Eco, Lector in Fabula, MIlano, Bompiani. (篠原資明訳『物語における読者』)
Umberto Eco, Trattato di semiotica generale, Milano, Bompiani. (池上嘉彦訳『記号論』,岩波書店, 1980年)
Roland Barthes, La plaisir du texte, Paris, Seuil (沢崎浩平訳『テクストの快楽』,みずず書房,1978年)

沢月亭
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面白さの根拠,通過儀礼
−『ico』分析による実証−
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■「序論」 
※『ico』論のみが目的の人は読み飛ばし推奨
作品を造り込むタイプの作家にとって,「すごく共感できました!」という感想は,褒め言葉ではないく,むしろ貶し言葉の部類に入る。このタイプの作家たちが目的としているのは読者を感動させたり,悲しませたりといった単純な感情操作ではなく,感情操作ができるのは当たり前のこととして,その上でどのような物語を構築できるかということだからである。彼らにとって読者の感情を操ることなど朝飯前であり,単純に楽しい物語や哀しい物語を書くのは健全な男子にヌードグラビアを見るがごとき行為なのである。ただの生理現象なのだ。ただ読者の共感だけを求めるテクストなどエロ本も同然,誰にだって書ける。彼らはそう思っている。
では,彼らがそう考える理由,根拠は存在するのだろうか?「これを書けば読者を悲しませることができる」「これを書けば読者を感動させられる」というようなコード化された物語の定石など存在するのだろうか?それともただ彼らの経験から捻出された経験則があるだけなのか?もし,おもしろさの論理的根拠というようなものがあるとすれば…
「ありえない!!」確かにその通りだ。なぜなら,そのようなコードは時代や社会状況(コンテクスト)によって大きく左右されてしまうからである。そして人間に個体差がある以上,同一のコンテクストなど望むべくもないのは当たり前の話である。
しかし一つのテクストの中にこのコード化された物語の定石(ロシア・フォルマリストの言葉を借りれば物語素)が多数埋め込まれていれば,そのうちのいくつかは機能することが期待できるだろう。100%機能する必要など無いのだ。また機能しやすい物語素を厳密に選べば,さらにその可能性が高くなる。例えば小説,100ページのテクストの中にこの物語素が20個ほど埋め込まれているとしたら,半分の10個が機能すればそのテクストは無邪気な読者(ただ共感するだけの読者)にとっては面白い小説となるであろう。10ページに一回は面白い部分にぶつかり,場合によってはその面白さが100ページ続くことになるかもしれないからである。10ページだとしても読書スピードが1分1ページとして10分に一度は新たな楽しさが顕れる計算になる。読むのが速ければよりスピーディーに楽しめる。これほど効率のいいエンターテイメントが他にあるだろうか?(笑)
たしかに,構造主義者が使う物語素という概念は物語構造を語る上では既に機能しなくなっている。ロシアフォルマリストが物語素のサンプルとして提出した数百個の欧州の神話に類似しない,あるいは含まれない要素を持った物語もあるからであり。過去(フォルマリストの言う物語素)の破壊を目論むモダンや,アイロニカルでメタ的な楽しみを提供する過去の再利用ポストモダンなどは物語素で語ることは出来ないし,あらゆる物語はモダンとポストモダンの要素を少しは持っているからである。物語素で語れるのは,神話など古来から使われる物語の定石が,彼らのコードに乗っ取って進行する場合でしか使用できない。しかし,私が物語素に求める機能はそれだけで十分だ。物語素だけで物語を再構成できる必要などどこにもない。そんな絶対性など求めていない。物語素はコードに乗っ取った物語進行の場合にのみ機能する,それだけも十分有効な理論である。モダン(過去の破壊)やポストモダン(過去の再利用)を分析するのにはまた別の手法を用いればいいだけの話なのだ。
つまり物語素は第一レベルのモデル読者(共感するだけの読者)を想定した場合に有効なのであり,第二レベルのモデル読者(解釈する読者)や第三レベルの読者(ゲームする読者)を想定した場合はあまり機能しないのであるし,また機能させようとする必要など無いのである,そこにはまた別に手法があるのだから。(ちなみに第一レベル,第二レベルなどと分けてはいるが,私は第一レベルに比べて第二レベルの方が高度な読み方だと主張しているのではない,便宜的にただカテゴリー分けをしただけである。)
物語素は限界をとうに見透かされた概念ではあるが,「おもしろさの論理的根拠」を物語レベルで提出しようとした最初の試みであっただろう。
本論ではこの「おもしろさの論理的根拠」を提出しようとした試みの歴史を簡単におさらいすると共に,仮説として人が体験する通過儀礼もおもしろさの論理的根拠として使えないだろうかという試みに入る。
■「先行研究の整理と理論構築」  ※ここから『ico』論に密接に関係
「おもしろさの論理的根拠,探求の歴史」
この手の学問として最初に確立されたものとして修辞学を忘れてはならない。今でこそ廃れた学問ではあるがアリストテレスからヴィーコに至るまで連綿と築き上げてきた歴史は決して無視できるのものではないからである。最近は修辞学を広義で捉えたがる傾向があるようだがここでは修辞学を狭義で捉え,暗喩(メタファー)やメトニミー(換喩)といった文彩の技法に焦点を当てたい。ロシアフォルマリストが物語のなかに面白さの素を抽出しその機能と属性を研究したのに対し,修辞学では物語以前の問題,文章のレベルでのおもしろさの論理的根拠を提出したのである。
修辞学に続くのが先に挙げたロシアフォルマリストの研究であろう。彼らのテーゼに関してはもはや触れることもない。「物語素だけで物語を再構成できる」という考え方と,物語素のサンプルとして古来から伝わる数百個の欧州の神話を用いた。ということが整理できれば十分である。ウラジミール・プロップの『昔話の形態学』では「魔法物語」に分類される昔話を土台にした物語の文法が記号化され,物語素の機能と属性が詳しく解説されており,その進行の仕方まで綿密に分析されている。この一冊さえ押さえておけばここまでの流れは十分に把握できる。
彼らの論理保証の土台は何百年,何千年と語り継がれた神話という時の洗練を受けたものである。かみ砕いて言えば,何百年も語り継がれて消えないものはつまり,最高のベストセラー作品であり,とすればそれを構成する物語素,物語の文法はまちがいなく面白さの素であるはずだ,ということだ。この考え方の欠点については前に述べたとおりである。
次に何と行っても古来からの伝統的な方法である手法を忘れてはならないだろう,「剽窃(パクリ)」だ。ただの剽窃に理論など無かろう,過去にヒットしたテクストの面白さの核を直感的にくみ取って奪ってしまうのがいわゆる剽窃だ。剽窃の論理保証は既にヒットしたテクストを素にしているというところにある。一度みんなに受けたのだから,また次も受けるだろう,という考え方だ。しかしこの場合,剽窃だとバレた時点で(道徳的問題で?)効力が著しく薄れるという欠点がある。
その剽窃を理論化し,発展させたのがポストモダンである。こういう言い方は失礼であろうか?しかしひと言で言うのならこう言う以外あるまい。
過去の利用といえば聞こえはいいが,既に在るテクストの力に乗っかっているという意味では剽窃と変わるところがない。ポストモダンの論理保証は剽窃と同じように,既にヒットしたものを土台とする。また,ただの剽窃の場合は欠点であった道徳的問題は,「引用である」という道徳的理由付けがあるため,解消されている。そしてそれプラス,パロディー,キッチュなどポストモダンの最も特徴的な面白さが付与されている。読者との共犯関係を作り出せる,という点で物語素で分析できる範囲を超える面白さを演出できるということだ。
こうしてみてくると,面白さの論理保証とそれ+αという点でポストモダンは欠点がない。現時点で最強の手段だと言えるだろう。
ポストモダンにおいては,引用(剽窃)をオリジナルと勘違いして,物語に共感することを楽しむ,第一レベルの楽しみ方がまず基盤として用意され,引用を引用と見抜ける人には「その引用が巧妙であるかどうか?その意味はなにか?」を解釈するという第二レベルの楽しみ方が用意されている。これは,あらゆるテクストにメタ的な要素があり,あらゆるテクスト,記号に他のテクストや記号とのリンクがある以上,どのテクストにも当てはまることだろう。
「物語素」ではその第一レベルしか説明できないが,しかし第一レベルの面白さもやはり第二レベルの面白さを語ることと切り離しては考えられないだろう。なぜなら第二レベルの面白さは常に第一レベルの面白さに影響を与え続けるものだし,逆もまた然りだからである。第二レベルの面白さを第一レベルの面白さとひっくるめて総括的に論じることは現段階での私の力量不足と時間的リソースの問題でできない。よってここではひとまず「通過儀礼」による第一レベル,第二レベルの面白さの論理保証を論じるに留まろう。もちろん,いつか総論的な論文が書ければとは私も思っているが…
「通過儀礼」
「修辞学」「物語素+物語の文法」「剽窃」「ポストモダン(引用・キッチュ・パロディ)」の四つが,現段階においておもしろさの論理的根拠として整理できる。もちろんただ整理しただけでは面白くも何ともない論文であるから,この四つに加えて,もう一つの面白さの根拠について仮説を展開していきたい。
それは「体験」である。人間は誰しも体験に基づいた想い出を持っているものであり,他人から見ればちっぽけでありきたりな想い出にもその人独自の思い入れがある。ということは人々がしてきたその体験を物語の中で思い起こさせることができたら物語によって人々の「体験」の想い出を刺激し,呼び起こすことが出来れば,読者はテクストのストーリーに自分の体験をプラスしてファーブラを作り出すに違いない。テクストというのは怠惰なシステムであり,全てのことを記すわけにはいかないから常に読者に共同作業を求める,読者に足りない部分を想像せよ,物語れ!と要求する。仮に読者がその足りない部分を自分が大事にしている体験の想い出によって埋めるとすれば,その物語はその読者によって最高の一冊になるに違いない。
しかしどうやってその「体験」の想い出を呼び覚ますのか?「体験」など人それぞれで,種類も星の数ほどある。「体験」の想い出を呼び覚ますスイッチを設定したとしてもそのスイッチが有効に機能する人は一万人に一人かも知れない。これでは意味がないし,理論などではない。
ここで私がその「体験」の想い出を呼び覚ますスイッチとして提案したいのが「通過儀礼」である。「通過儀礼」と言う言葉が耳慣れない方のために簡単な説明を加えると,これは「成長していく過程で誰もが体験すること」であり,その体験なくしては子供から大人になれないような体験のことである。勿論,文化によって異なる場合もあるし,同じである場合もある。「元服」は過去の日本の文化では通過儀礼であるが,現代日本では通過儀礼ではない。しかし「誕生」や「死」は文化を問わず,誰もが必ず通る通過儀礼であるし,「結婚」,「出産」,「親の葬式」などもかなり高い確率で,どの文化でも起こりうることである。
話を戻そう。この「通過儀礼」は人に忘れえぬ強烈なインパクトを与えるものである。「死」というのは常に哲学のモチーフになってきたし,「結婚」も良し悪しはともかく,深い想い出となることは間違いない。そしてその想い出は極めて個人的なものであり,他人から見ればちっぽけでも,本人にとっては極めて重要なものである。
このように強烈なインパクトを与える通過儀礼は,通過してきた人に必ず大きな「体験」の想い出を与えていると予想できる。人はその通過儀礼のことを思い出すたびに,自分の中の想い出と再会することだろう。そしてその想い出は,良い想い出であっても,嫌な思い出であっても人の心を強烈に揺さぶるものなのではないだろうか?物語中で通過儀礼を描いてやれば,それがスイッチとなり,それにまつわる想い出が読者の心に蘇ってくるのではないか?
例えば「初恋」という通過儀礼は太古の昔から現在に至るまであらゆる物語に使われているが,我々読者は物語中で描かれる「初恋」という通過儀礼に触れることで,自分が体験した「初恋」と照らし合わせ,想い出が蘇ってくるのを楽しんだり,「ああ,あのときこうしていれば…」と後悔したりしているのではないか?通過儀礼は,人が最も大事にしている想い出へのスイッチなのだ。
わかりやすさを増すために図を記しておく。
「通過儀礼は修辞学によって汎用性を増す」
内 しかし,「体験」のスイッチを入れるために,通過儀礼を「初恋」なら「初恋」というそのままの枠組みでテクストに組み込まなければならないのだろうか?だとすると通過儀礼の用法はかなり限定されてしまう。しかしここには,暗喩(メタファー)や換喩(メトニミー)といった修辞学的技法が使えるのではないだろうか?
先ほども使用した「初恋」という通過儀礼を例に挙げて論証すれば,各個人が体験した想い出を引き出すスイッチとして「初恋」を用い,さらにその初恋をメタファーやメトニミーによって言い換えることが出来るのではないだろうか?例えば「同じクラス,隣の席の女の子をイヂメた(からかった)」という物語を書けば,明確に「初恋」という肯定を辿らなくともメトニミーとして「初恋」というイメージに結びつき,それが個々の想い出を喚起する。図式的には,以下のようになるだろう。
「隣の女の子をイヂメる」→通過儀礼「初恋」→個々の「体験」の想い出
               ↑
             メトニミー
この場合,「隣の女の子」は「幼なじみ」でもいいし「近所の綺麗なおねえさん」でも同様の機能を果たすだろう。
また仮にこの例でメタファーを使うとしたら,どうだろう?「初恋」を暗示するモノ,いろいろあるだろうが,カルピスのCMがまだ「初恋の味」をキャッチフレーズにしていた世代にならカルピスは初恋のメタファーとして作用するだろう。図式的には以下のようになる。
「カルピス」→「初恋」→個々の「体験」の想い出
             ↑
           メタファー
もっと汎用的なメタファーを例示するとすれば,「いちご味」などどうだろう?「甘酸っぱさ」をコノテーションとして持つ「いちご」は初恋のメタファーとして,いかにも'80年代アイドル歌手の歌詞などに使われていそうな雰囲気がある。
「いちご味」→「初恋」→個々の「体験」の想い出
             ↑
           メタファー
このように通過儀礼「初恋」をさまざまなメタファーやメトニミーによって暗示することが出来れば,「初恋」に付随する個々の体験を呼び覚ますスイッチの幅はより広がり,多様性を増す。つまり「初恋」のメタファーやメトニミーであればどんなものでも個々の想い出を喚起するスイッチたりえるのだ。解りやすく図で示すと次のようになる
これは通過儀礼というスイッチを使う,おもしろさの論理保証を消すことなく,修辞学の残した遺産を使って,その表現の多用さを獲得できる利点がある。
つまり物語レベルで面白さの論理保証を持つ筋立てをしつつも,ありきたり,紋切り型と読者に思わせないような文彩の巧妙さを文章レベルで手に入れることが出来るのである。
「仮説の暫定的結論」見出し
「体験」の想い出は人の数だけ存在するが,スイッチである通過儀礼に関して言えばそれほど多くはないし,少なくとも一つの文化圏において「誰もが皆」通過する体験を通過儀礼というのだから,かなり限定して想定することが可能である。ということはその通過儀礼を物語の中で再現すれば,読者の個人的な想い出を引き出すことが出来るのではないだろうか?
厳密なマーケティングを行えば,読者対象がどのような通過儀礼を体験しているかはかなり詳しく想定できるだろうし,「初恋」などある種普遍的な通過儀礼に関して言えば大して調べなくとも想定は楽である。
「初恋」という通過儀礼を使うとすると,その物語レベルでのパターンは限られ,新鮮味が斬新さが失われる危険があるが,メタファーやメトニミーといった修辞学的技法で文彩を加えることが可能であり,通過儀礼のスイッチとしての幅も大幅に広がるものである。
ということは通過儀礼はおもしろさの論理的根拠の一つであると言えるのではないだろうか?この仮説を実証すべく,『ico』というゲームを当てはめて分析してみたい。

沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/initiation.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html







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