2020年07月16日

さだまさし: 長江夢紀行〜思い出の武漢の街を歩く(1983)





























さだまさし: 長江夢紀行〜思い出の武漢の街を歩く(1983)
〜僕の中国の旅は武漢から始まったのです。
ここから始めるしか僕にとって中国の旅はありえなかったんだし,僕にこの旅を決意させた大きな要素のうちの一つがこの武漢という街であったのです。。
どうしてこの街に惹かれたのか?それを語ることが僕の精神史の一ページを開くことにもなるのでしょう。。僕はこの武漢の街を舞台にして歌を2曲作っています。「フレディもしくは三教街」と「
椎の実のママへ」という歌です。
この武漢という街は,僕にとって単に中国の大きな都会のうちの一つというだけの印象ではなくて,何かしらそれ以上の自分を掻き立てるもののある街なのです 。〜
■武漢の記憶
暗い色ばかりで塗りつぶされている町でありませんでした。母の漢口には何か青春のキラキラと輝く好奇心と躍動感がいつでもちりばめられていたのです。。三教街というのはその中でも一番きらめいていました。。
三教街というのは武漢の街の中の旧ロシア租界のことです。「租界」の説明をしなければいけません。「租界」とは法律によって認められた,はっきり言えば都会の中の植民地的区域とでも呼べる場所を指します。そしてその区域は治外法権が認められていたのです。よその国の中に自分の国が土地を作ってしまう。。これが当時の中国の中で随分行われて いたわけで。 中国の人に対してはとても申し訳ないことだと僕は思うのだけれど,とにかくそのようなことが法律的に認められて,この町に存在していた時代があったということは驚くべきことであります。やはり帝国主義の時代であったということなのでしょう。
武漢にはいくつかの租界がありました。先ほど書いてあるロシア租界・イギリス租界・フランス租界・ドイツ疎開・それに日本租界もあったのです。。その中のロシア租界。ここは帝政ロシア本国が革命によって倒されたために当然のことながら法律上ロシア紹介としての権利を失うことになりました。
しかしその街自体が消えた場合 ではなく,街として存在し続けていたし,やがてその街にはロシア人に代わってユダヤ人が多く住み着くようになりました。ユダヤ人租界,あるいは旧ロシア人租界。そんな呼び方をされた三教街のことを母は克明に記憶していて僕に語ってくれたんです。
例えば「ヘーゼルウッド」という洋菓子屋さん。「ボンコ」というレンガ焼きのパン屋さんなど。。そこにいた青い目のちょっと足の悪い「ヘイゼルウッド」のオーナーのおじいさん。それからやや小太りの人の良さそうなおばあちゃんの笑顔。。言葉は通じなかったんだろうけど青春時代の僕の母の目にはそういった人たちの生き様や生活風景がものすごく深く刻み込まれていたみたいなんです。そんな母からそんなことを聞かされて育っていた僕は,いつのまにか僕なりのイメージでそのまま街を自分の頭の中に勝手に作りあげあげていました。。見たこともない三教街を歌にまでしてしまったのです。あはははは。。〜
母はこの街で3年間タイピストとして暮らしました。現実に三教街でお茶飲んだり,その先のフランス租界で洋服を買いに行ったり。。それから毎日タイピストとして職場へ出かけたりして青春時代を過ごしたのです。そしてその1日1日は戦争の中の 日々でもあったんです。
「毎日3時になるとコンソリーデーテッドという爆撃機が飛んできて上手に日本租界だけに爆弾落として帰って行くのよ。。だから3時のおやつのことをコンソリデーテッドと呼んでいた」
そんなことを母は話してもいました。何とも楽しい思い出話のように。どうも信じられないんでしたが。。戦いというものは常に悲惨なものであると。戦争を知らない僕でさえそう思います。事実悲惨でない戦争なんてありえるはずがない。にもかかわらず母の思い出の中の矛盾。戦時下のきらめく思い出。これは一体どういうことなのだろう?僕はそれをずっと考え続けてきたんです。
それは半分は母のイメージのウソなのだろうな。。僕は今はそう判断しています。とても悲惨な戦争の中で若かった彼女はその戦争に自分の青春を塗りつぶされまいと抵抗して,せめてもの息抜きであった三教街の様々な,とても小さな楽しみの中に見出そうと努力していた。。それが今思い出の中で膨らんでいるのだと。。
■武漢へ
母の話の舞台は三教街ばかりではなく,ドイツ領事館(僕は「椎の実のママ」の中で大使館と書いたけれどもそれは間違いです)の池でボート遊びをしたり,江漢館という時計台の鐘の音で時を知った美少女たちの生活は当時の日本の内地の暮らしとはまるで違った異国情緒あふれるものだったらしい。そんなことを聞かされるたびにどうしても戦争と触れ合わない中国の都市,不思議な町・漢口。。そんなイメージが僕の中で勝手に広まっていったのです。。
僕が初めて武漢を訪れたのは昨年の秋のことでした。その時僕は母と妹を連れて行きました。母にとっては戦争が終わって天津から日本に引き上げて以来の初めての中国の土でした。僕はどうしても母にこの街を見せたかった。僕を強く引きつける一つのきっかけとなった母の青春を僕も母と一緒に探してみたいとも思っていたのです。
飛行機が武漢に近づくにつれて僕の胸は早鐘を打ち始め,まるでステージの幕が開く直前のような興奮状態に陥りました。武漢の町が飛行機の窓から見えた時,僕はまるで言葉を発することができんできませんでした。もうすぐ着くんだ。子供の頃から 見ていた頭の中で勝手に描いていた街がなぜか本当に存在したんだ。。頭の中では色んな言葉が飛び交いました。言いようのない興奮。。それは実際今でも何と言っていいのかわからない興奮でした。
降りてロビーに入ると中国側の撮影スタッフが我々の出迎えに来てくれていました。映画制作の調印のために日本に来てくれた中国のスタッフの顔を見えて,ここは中国のしかも武漢なんだという確信はもちろん持てたんだけれども,興奮冷めやらず何やろふわふわと雲の上でも歩くような心持ちで迎えの車に乗り込んだのでした 。
母の涙はその頃にはどうやら治ったのですが,今度は逆に激しくはしゃぎ始めてしまったのです。
「これ!ほら漢口の匂い!」
興奮して深呼吸などして,どうにも僕にも深呼吸しろと迫るのですが,僕にはどうにも漢口の匂いというのがピンとこないでとても困ってしまった 。
どうしても三教街へ行ってみたいと母は言いました。それを聞いていた撮影スタッフが「中国の案内人を探してみましょう」と言いましたが,僕はその申し出を断りました。そうじゃない。行きたい三教街は案内してもらう街ではないはずだ。。
江漢館の所から揚子江沿いに散歩道いわゆるバンドという堤防沿いの道は未だに母の記憶通りの形を残していました。そして僕らはそこからイギリス領事館を左折する形で街の中に入っていく。 実はその先に三教街はあったのです。その時母はそこが三教街であるということをまるで気がつきませんでした。つまりそれほどに三教街は変貌していたのです。
2時間ほども街の中をさまよい歩き続けたでしょうか。。中国人のスタッフが何人か僕らについてきてくれていたのですがとうとう業を煮やしてしまったらしく,こういう言ったのです。「三教街はもうさっきから何度も通って来ているんですよ」「そんなバカな?」母はびっくりして通訳の方に大声をあげてしまいました 。そう。。ここは三教街じゃない。〜
しかしこれは母の問題です。僕にとっては違います。僕にとって大事なことは,そこが紛れもなく三教街であるという事実と,40年間変わらない三教街の構造であったんです。それを確かめられれば僕はもう十分であったんです。
僕が自分の中で勝手に作り出してしまった教会。それが現実に存在していたということを知って僕は大いに驚きました。「ヘーゼルウッド」と「ボンコ」の位置関係。「ヘーゼルウッド」が三教街の入口付近の角地にあって昔はガラス張りで中にカフェテラスがあったということ。「ボンコ」はその斜め向かいの煉瓦造りの建物だったということ。 そして歌の中で僕がポプラと歌った木が実はプラタナスであったこと。そのことが分かるだけで僕は十分だったんです。〜
ー長江夢紀行,さだまさし,集英社文庫,1983

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アンソニー・トゥー: 対生物兵器先進国の対策〜今の日本は生物兵器に耐えられない

アンソニー・トゥー: 対生物兵器先進国の対策〜今の日本は生物兵器に耐えられない
今の日本は生物兵器に耐えられない…シェルター完備、全員に防毒マスクを配る国も 『毒 サリン、VX、生物兵器』より #1 - アンソニー・トゥー
文春オンライン
2020年07月14日 16:44
(配信日時 07月14日 06:00)
新型コロナウイルスがいまだに世界で猛威をふるい続けている。国によって、その対応策はさまざまで、ウイルスの封じ込めに成功しているように見える国もあれば、そうではない国もある。
【画像】スイスの生物兵器研究所内部の様子
世界各国は、従来からどのような体制で「毒」からの防衛に取り組んできたのか、毒性学の世界的権威アンソニー・トゥー氏による新著『毒 サリン、VX、生物兵器』(角川新書)から、事例とともに紹介する。
■悠長な日本人
さて、化学兵器や生物兵器というと、それらをいかにして戦争やテロに使うか、ということを思いがちである。たしかに、その点も重要であるが、表裏一体をなすものとして、これらの兵器をいかにして防御するか、という点も非常に大事である。
しかし、この点はほとんどの国であまり考慮されていないようだ。その好例が日本だろう。日本の周りには軍事衝突のリスクが散在しており、いつ何時、核・生物・化学兵器で日本が攻撃されてもおかしくない。私が日本に行ったとき、あるアメリカ陸軍の方と話す機会があった。彼は「日本の周りは敵が多く、いつでも日本に侵攻することができるような状態であるから、日本人はみな生きた心地がしないだろう」と話していた。それに対して、私は「日本人はみなのんびりして天下太平を享受しており、日本が危ないと思っている人は一人もいない」と返しておいた。
現実に、日本の周辺国は、日本を標的にしたミサイルをいつでも飛ばすことができるような体制になっている。そして、その弾頭には核兵器・生物兵器・化学兵器が充填されているのである。しかし、日本のみならず、どの国も一般市民がそれらの災害から身を守るための設備は見当たらない。私の生まれた台湾は日本以上に危険な状態にあるが、軍事的には対応策がある一方で、市民を守る設備は皆無である。
■スウェーデン
そのような中で、私が感心するのはスウェーデンだ。私が見たところ、NBC(核・生物・化学兵器の総称)に対して準備が一番されている国だと思う。スウェーデンの国防省主催の化学・生物兵器の防衛に関する学会は、世界で一番権威のある学会である。私はよくこの学会に出ており、また一度特別講演者として呼ばれたことがあった。その際特別に、ストックホルムの近郊にある、国防省管轄の対NBC防衛施設を見学させてもらった。
これは軍の施設であるが、一部市民も収容することができる。小山の中に造られており、その中でおよそ60日間生存できるような設備が整っている。要塞内には、大型の発電機があり、電気は自己発電が可能である。また、水をろ過するための設備や除染のためのシャワー室なども完備されている。そして、驚くべきことに、スウェーデンにはこのような施設が100か所以上ある。軍人だけではなく、一般市民も十分に避難可能な数だ。そのほかにも、町の中にある教会の地下が避難スペースになっていたりと、民間防衛が非常に整っている。兵器の危険性が高まるにつれ、各国でこのような設備も検討されるべきであろう。
■スイス
次に取り上げるのはスイスだ。スイスは永世中立国であり、しばしば平和な国の模範として取り上げられている。しかし一方で、その背景にあるのは非常に整備された軍備だ。そのため、周りの国がうかつに侵攻できないのである。
化学兵器や生物兵器に対する防衛体制も非常に素晴らしい。私はスイスで、生物兵器と化学兵器の両方を研究している施設を見学したことがある。ここではサリンをはじめ、いろいろな化学兵器を開発していた。なお、これはスイスが使用するためでなく、国連からの要請で製造している。どういうことかというと、化学兵器を用いた戦争やテロが起きた場合に、使われた兵器が何であるかを検出する時の基準として使うためである。イラン−イラク戦争でどういう毒ガスが使われたか判断したのもスイスであった。生物兵器の施設の方も大変立派だ。私が見学したときには施設のレベルはBSL−3と最高クラスではなかったが、いまではBSL−4の設備ができているようである。
このように、非常に防衛体制が整っているスイスは民間防衛も優秀だ。アルプスの山の中には数千の避難所があり、そこで長期間避難することができるようになっている。中には立派な医務室がついているものもあり、ここでは手術も可能である。
■イスラエル
このように、スウェーデン・スイスは設備が非常に整備されているが、よりミクロな部分で対策が徹底されているのはイスラエルだ。ここの国民は、全員に防毒マスクが配られている。第一次湾岸戦争の時、イラクはイスラエルに対して、スカッドミサイルで攻撃を仕掛けた。ミサイルが発射されたという警告のサイレンが鳴ると、イスラエルの人々はすぐに防毒マスクを装着して、避難所に向かった。もし、弾頭にサリンのような神経ガスが入っていた場合は、着弾した時点で防毒マスクを着けても意味がないのである。こういう小さな国でも化学・生物兵器の防御に対して非常に熱心なのである。イスラエルを見ると私はいつも備えの重要性を痛感する。私の母国である台湾は、近隣の環境を考えると、日本以上に危険な状態にあるが、残念ながらこのような準備はされていない。軍事的な対応策だけでは、国民の命を守ることはできないのだ。
■アメリカ
アメリカについても触れておこう。これは設備というよりは、民間企業の国防に対する意識についてであるが、私の経験談から話してみたい。
1983年のある日、私の元に一本の電話が来た。彼はワシントンDCの小さなコンサルタント会社の人物だったが、いきなり私が住んでいるところからほど近い、空港のところにあるシェラトンホテルで夕食を一緒にしないかと話してきた。いったい何を聞きに来るんだろうと思いながらその晩お会いすると、彼は私に「ボストンにあるEG&Gという防衛システムを開発する会社のコンサルタントにならないか」とオファーを出してきた。
当時、ソ連が毒素兵器の開発を進めており、それに対抗する形でEG&Gは巨大な防衛プロジェクトの予算をアメリカ政府に申請しようとしていたのである。当時私はコロラド州立大学の教授を務めていたため、結局このオファーは受けなかったが、この例からもわかるように、アメリカでは民間による防衛意識が非常に高い。
のちに、ソ連に対する対策はアメリカ陸軍が管轄して進められることになる。この時、私も運よく研究者の一人に選ばれたが、当時私は毒素兵器のことは何もわからず、基本的な学術研究だけに没頭した。しかし、アメリカ陸軍は非常に鷹揚で、「あなたの研究が毒素兵器とは直接関係がないことは知っているが、一方であなたはヘビ毒の学術研究に専念して、大変立派な業績を上げている。それでアメリカ陸軍としてもあなたのような人を支持することにした」として、多くの研究費を支給してもらったうえに、研究に対して口出しすることもなかった。そして結果、この時に得た知見が地下鉄サリン事件の際にも役立つことになったのである。
地下鉄サリン事件から25年……日本の化学・生物テロ対策にまだ“足りないもの” へ続く
(アンソニー・トゥー)

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ワシントン事件

ワシントン事件
2010/10/20(水)午後4:04
太陽系と地球の真実その他超常現象
■UFOの目撃事件が集中した1947年
アメリカに空軍が設立されたのは1947年9月18日ですが,何故か同じ年にUFOの目撃事件が数多く集中して発生していました。
2月11日にはバード少将機が北極上空で姿を消して地球内部の亜空間に存在する世界に行って戻ってきた事件,
そして6月24日には,ケネス・アーノルドによる9機のUFO編隊を目撃した事件,
7月2日にはロズウェル事件が発生した。
ペンタゴンが空軍力を強化するために急いで空軍を設立したのはロズウェル事件の直ぐ後なのです。
■1952年7月19日,ワシントン事件
NSAが設立されたのも,1952年7月19日の夜にワシントンDC上空へUFOが飛来した後でした。
飛行物体は全部で7機で,他の目撃情報によれば8機だという話もある。
突如としてワシントン上空に出現したUFOは時速160キロ〜200キロのスピードで通常の航空機に決められた飛行ルートを全く無視して飛び回り,ワシントン国際空港まで接近したところで2機が消えた。
空港のレーダー管制官は呆然としてしまったという。管制室レーダーの計器類は正常に作動しているのにもかかわらず,UFOは消えたり現れたりを繰り返し,ジグザグ飛行や急加速,それに瞬間移動を絶えず繰り返した。
この事はすぐさま防空本部にも通報され,2機の飛行物体がホワイトハウスへ向かっており,もう1機が連邦議事堂の上空で乱舞を繰り返している。
これらの地域は飛行禁止区域でありアメリカの政治中枢の場所で,このときのアメリカ政府は喉元に刃を突きつけられていたといっても過言ではないだろう。
この異常事態により,アンドリューズ空軍基地にも連絡されたが,既にアンドリューズ空軍基地にも10機のUFOが飛来していた。
つまり続々とUFOの数が増えていたのです。
当時のアンドリューズ空軍基地は改修工事中でスクランブル発進が出来ず,戦闘機の要請はデラウェア州のニューキャッスル空軍基地に預けてあったので,仮にスクランブル発進したとしても30分程度はかかってしまう。
為す術も無い状況のまま,ただ成り行きを見守るしかなかった。
そしてキャピタル航空の旅客機の周囲を1機のUFOが付きまとい始めた。そこでワシントン国際空港の管制官がキャピタル航空の操縦士に連絡を入れ,「追跡してくるUFOの正体を確認してくれないか?」と要請した。
そこで操縦士は後方から追ってくるUFOを目視するために機首をUFOの方に向けようとした瞬間,旅客機を低速で尾行していたUFOが一気に急加速し,レーダースコープ上から消えてしまったのである。
そのときの速度を計算したところ,ナント!時速8000キロ〜1万2000キロにも達していたという。
だが,14分後には再び姿を現した。今度は6機が旅客機の周囲を飛び回り始めた。
旅客機の操縦士はUFOの機体下部に数個の光るライトが付いていることを確認し,今までに見たことも無い航空機だった。
一方でワシントン上空では,UFOがジグザグ飛行や瞬間移動などの乱舞を繰り返していたが,それだけではなく180度の鋭角ターンや90度の直角ターンを行い,そのときのスピードは時速1万キロ以上にも及んでいたという。
2時間にも及ぶ彼らの飛行は,悠々と科学技術の差を見せ付けるように上空を飛行した。
やっとニューキャッスル基地から当時の新鋭ジェット戦闘機F-94が現場に到着したのは午前3時を過ぎていたが,このとき既にUFOは全て姿を消していた。
レーダー上にも機影が見えず,暫く上空を飛行したが引き返したという。
戦闘機が引き返した直後に再びUFOの編隊が出現し,ワシントン上空を乱舞し続けた。
空軍関係者や空港関係者も為す術も無く彼らのアクロバティックな深夜の航空ショーを見守り続けるしかなかった。
多数のUFO群は高度な科学技術力を見せ付けた後,夜が明ける午前5時30分ごろに全て姿を消した。
この事態に空軍は何も出来ずにいたことを恥じて,一切のマスコミ会見を拒否した。その理由は「当局は何も情報を持っていない。
だから何もコメントできない」ということだった。
だが,マスコミ各社は競うようにUFO乱舞事件を取り上げたので,一時はアメリカ中が話題騒然となった。
そして,1週間後の7月26日の夜に再びUFOが出現した。
午後9時30分ごろ,ワシントンを中心にしてバージニアとアーノルド空軍基地を結ぶライン上を編隊飛行したのだ。
今回もワシントン空港のレーダースコープでUFO群を捕捉し,アンドリューズ空軍基地のレーダーにも映ったという。
2日目のなので当局の動きは素早く対応し,ホワイトハウスに陸海空の幹部が集結して対応を協議し,攻撃するかどうかを議論した。
総指揮権を持つトルーマン大統領は,この件についてを物理学者のアルバート・アインシュタインに相談したところ,
「未知なる知的生命体の科学技術力がどのようなものかわからない以上,むやみに攻撃してはならない」
と提言された。
トルーマン自身も賛同して日付けが変り午前2時40分ごろになって,積極的に攻撃しないことを前提にF‐94戦闘機をスクランブル発進させたが,前回と同様に現場に到着するとUFO群は姿を消していた。
くまなく捜索したが機影も見つからないので引き返した直後に再びUFO群は姿を現した。
戻った戦闘機が再びスクランブル発進して現場に行くと,今度は姿を消すことなく待っていたという。
戦闘機は彼らを追跡したが,圧倒的な性能の違いで追いつくことすら出来ない。
しばらく「追いかけっこ」を続けていたが,やがてUFO群は忽然と姿を消したという。
最初の事件が深夜だったので大半のワシントン市民は事件の事を知らなかったが,新聞やラジオで報道されると大騒動となっていった。
空軍には一般市民やマスコミから問い合わせの電話が殺到した。しかし,空軍や当局も事件については一切関与していないと主張した。
自然現象という可能性もあるとされ,次第に気温の逆転層により見えた幻影現象ではないかと指摘され始めた。
そのような状況で事件が少し沈静化し始めた時期に再び2回目の事件が起きた。
2回目の出現時には市民の多くがUFO見たさに興味本位で夜空を見上げていたから,目撃した市民も多数にのぼった。
こうなると,空軍も無視や気象現象ということには出来なくなった。執拗なマスコミの情報開示要請に,記者会見を開いたところ,最初から決まり文句を羅列しただけのようだったという。
要するに当局の主張は「気温の逆転層が引き起こした幻影であり,円盤などは一切空軍は確認していない」とコメントした。報道陣の中には科学技術に詳しい者もいて,事件の目撃情報を掴んでいる者もいて,質問は的確で鋭い内容だった。
これには空軍の幹部も閉口し,曖昧なコメントをするばかり・・・。
空港のレーダー室で実際にUFOの機影を確認した管制官たちは記者会見への同席は,余計なことを話す可能性があったため許されなかった。こうなると全て茶番劇のような記者会見と化していた。
ルッペルト大尉はワシントン事件について目撃者などを独自に調査したところ,上層部から圧力や妨害を受けていたから,真実が捻じ曲げられた会見を冷ややかに眺めていた。
記者会見の翌日の新聞では「空軍は自然現象と断定」との見出しが掲載され,多くの市民やマスコミ関係者も納得はしなかった者も多くいたが,大半の一般大衆は事件についての関心が急速に冷めていった。
そして,当局による恐怖の魔の手が目撃者たちを襲った。
マスコミに「実際に外に出て肉眼でオレンジ色をしたUFOを確認した」と述べていた空港の管制官が,その後のインタビューでは「あれは単なる星だった」と発言を翻した。
不審に思ったルッペルト大尉が調査したところ,彼らは空港の上層部から強く説得されていたことがわかった。
これは管制官だけでなく,スクランブル発進してUFOを近くで目視した戦闘機のパイロットも「目撃したのは,街灯が雲に反射して映った光の点だった」と述べた。
そして,大都会のワシントンならば奇妙な光はアチコチで目撃するというのである。
ワシントン事件について懐疑派が「空に映った光」だと主張するときに必ず引き合いに出される写真がある。
これは国会議事堂を背景に,多数の発光体が夜空に浮かんで見えるという写真である。
これは匿名希望の政府関係者によって,ワシントン事件の夜に撮影されたものだというが,目撃者の証言によれば,これはワシントン事件のUFOとは明らかに違うというのだ。この写真は議事堂を照らす照明がカメラのレンズの中で光線屈折を起こして円形の光の幻影を形成したものだ。
カメラ専門家には「レンズフレア」と呼ばれる現象である。こうして直ぐに偽モノと解明される写真を持ち出して当局は情報撹乱する傾向がある。この偽写真がマスコミにリークされ,直ぐに偽モノを判明した結果が報道されて「やっぱりワシントン事件は幻影だった」ということになることの目論見は成功した。
ルッペルト大尉が37歳の若さで死ぬ前に出版した本の中で述べているように,ワシントン事件は明らかに軍の上層部が動揺していた。これは記者会見からもわかるという。最初は管制官や戦闘機のパイロットが明らかにUFOだと報告していたからだ。
圧力がかかったのか,その後には何故か皆,証言を翻されているが・・・。
ワシントン上空でUFOを目撃したのは軍人や空港管制官だけではなく,一般人も目撃していた。
例えば,発電所の職員も帰宅途中で機体を目撃している。
UFOが5機で編隊を組んだ状態で飛んでおり,しばらく見ていたところ,突如として機体を上部に向けた瞬間に超高速で上空に急上昇していったという。また,キャピタル航空機のパイロットの機長は「数個の明るいライトをつけた飛行物体だった」と証言している。
このライトは飛行機やヘリコプターのライトとは明らかに違う原理で発光しており,ワシントンに出現したUFOは全て機体の底部にオレンジ色に光るライトを持っていた。そのライトは三角形を描くようにライトが光っており,その三角形の中心に少し大きなライトが光っている。
これがデルタ型UFOである。同じ型のUFOは1989年にベルギーを中心にヨーロッパ全土で目撃され大騒動となった集中目撃事件のときのホームベース型のUFOであり,そのときのUFOと同型機が1952年にワシントン上空を飛行していたのである。
そのデルタUFOの形は,詳細にはホームベース型のような五角形をしており,ワシントン上空で乱舞した多数のUFOも目撃証言を集めるとホームベース型の形状なのでした。このワシントン事件は支配者層だkでなくアメリカ軍全体にとって悪夢そのものであり,当局による本格的な隠蔽が始まったのです。

徒然ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/60463223.html
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グレイのふるさとの星
2009/11/24(火) 午前 7:23
この50年間で、人類に最も深く関与してきた宇宙からの「来訪者」は、ゼータ・レチクル(南天にあるレチクル座のζ[ゼータ]星)に由来する存在たちです。
はるか昔の核戦争で母星の地表に住めなくなってから現在までの過程で、彼らは大きく2つのグループに分かれました、
ポジティブ(奉仕者)とネガティブ(自己奉仕者)とに。
しかし外見上はほとんど区別がつかず(背が低く、巨大な頭に昆虫のような大きな目)、しばしば混同され、彼らについての情報が混乱する原因になっています。
どちらのグループも世界中で、特にアメリカで、頻発している人間のアブダクション(誘拐)の実行者ですが、その動機や方法にはかなり違いがあります。
アブダクションという言葉だけでマイナスのイメージを抱くと、判断を誤ることになります。
彼らは、その知性をもっぱら核兵器の開発に使った結果、結局は核戦争を引き起こして自らの惑星を崩壊させ、地下に住むことを余儀なくされました。
その環境に何千年も適応して生き続けたのですが、ある時期から頭蓋骨が巨大化して胎児が産道を通れなったため、
クローニング(クローンを造る技術)でしか子孫を残す手段がなくなったのです。
当然、性器は退化してなくなり、男女の違いもなくなりました。
しかしクローニングでは、種の中での多様性を造ることはできません。
皆そっくりで個性がなく、種としての活力が段々衰えていくことになります(この意味では、近親交配に似ています)。
種としての活力を取り戻すため、他の星の遺伝子に関心を寄せたのは当然の成り行きでした。
ポジティブなグループ(ゼータ)には、もう一つ大きい特徴があります。
彼らには感情というものがなく、私たちのような感情的表現(愛情、憎しみ、しあわせ、悲しみ、そして好奇心)ができないのです。
これは、核戦争への反省のあまり、「感情」というものは原始的で破壊的な機能だと誤解して、遺伝子の中で感情をつかさどる機能を、得意の遺伝子工学の技術によって除去したのです。
その結果、涙腺も退化してなくなりました。
彼らは後になって、人間型生命の進化は、感情の機能によって促進されることに気づきました。
感情こそが創造力の源だと知ったのです。
そして地球にやって来たとき、地球人類の多様性がいかにすばらしいことかを、改めて認識したのです。
ゼータに感情がないからといって、愛がないわけではありません。
しかしその愛は個人的なものではなく、自己を大きな集合意識の一部とみて、それに属するすべてのものを無条件で愛するのです。
「愛」という観念に、意識を同調させるという感じでしょうか、「受容」という言葉が近いかもしれません。
ゼータは、愛をもって地球人類の未来を本気で心配してくれているようです。
それは、
(1)人類が耽(ふけ)る傾向を持つ「核の火遊び」が、地球を破壊することになる可能性、
(2)生態系の破壊の進行と、その結果として不妊や生殖不能が全般化する可能性です。
これらについてゼータは、彼らの経験や技術を役立てることができると考えています。
ゼータはこう考えました。
地球人類を救う努力をする、その過程で自らも救われる道がある---と。
1940年代の後半から、実際に始めたことは、人類滅亡の「保険」として、人類の遺伝子を収集して保存することです。
上記の「多様性の価値」を保存するためには、きわめて大規模にこれを行う必要がありました。
その具体的な手段が、アブダクションです。
アブダクションは、もっぱら夜間の睡眠中に行い、体のどこも傷つけないで、元の場所に返すわけです。
通常は、被験者の波動レベルを引き上げて彼らのレベルと同調させ、宇宙船の中の手術室まで一緒に移動する方法を採ります。
彼らにとってこれらは「朝飯前」のことのようです。
ゼータのアブダクションについて特筆すべきことは、魂のレベルで同意した者しか対象にしないということです。
これはとりわけ、ゼータ自身のために行われる、地球人との「混血児」を創り出す目的のアブダクションの場合に重要になります。
なぜなら、この場合は、胎児が4ヶ月ぐらいになるまでの期間、「代理母」としての役割を、アブダクションの対象とする女性に勤めてもらう必要があるからです。
さらにその後、胎児が代理母の子宮から「人工子宮」に移されて成長し、めでたく「生れ落ちた」後、しばらくの期間、「母」としての愛情を当の代理母に注いでもらう過程も必要とするからです。
魂のレベルで同意しているといっても、対象者に心理的な葛藤(かっとう)を与えないために、すべての記憶をその都度抹消することにしています。
ただこの抹消が必ずしも完全ではなく、「逆行催眠」などで記憶をよみがえらせるケースが続出したため、
地球人類の側で、宇宙の知的生命体への認識が深まるという、「予定外の効果」を生み出しました。
ゼータは、地球人の特質の一部を備えた混血児を、自分たちの正統の子孫としたい考えですが、
今のところ、せっかく誕生しても生命力が弱いため寿命が短く、試行錯誤が続いているようです。
しかし、いずれ成功するでしょう。というのは、未来の時間軸から地球を訪れている混血児の子孫がいるからです(エササニという星から来ているバシャールという存在がその例です)。
一方、ネガティブなグループ(グレイ)と人類との関わりは、1947年にアメリカ・ニューメキシコ州の砂漠に彼らの宇宙船が墜落したことに始まります。
「生存者」がおり、軍が機体の破片と共に「回収」したことから、アメリカ政府とグレイとの陰湿な関係が始まりました。
高度な技術の提供と引き換えに、彼らの「生体実験」のための秘密施設を提供し、生身の人間を含めたその実験を黙認するという協定を結んだのです。
この情報の隠蔽はグレイの要求ですが、機体回収班の動きとその後の推移をみれば、アメリカ政府(軍)の側にも、その体質があることは明らかです。
地球空間に来ているグレイはせいぜい数千人程度で、肉体的にも脆弱なので、彼らに地球を破壊するだけの力はありません。
むしろ彼らは、地球人類が自らの手で地球を破滅させるのに、間接的に「貢献」する手段を好むようです。
核についての情報の供与はその例です。
破滅されても、それを自分たちの領土として再生するだけの技術力を持っていると考えているのです。
逆にそのような「意義」に結びつかない技術は、思わせぶりでだけで、核心の部分は教えません。
そもそも彼らには「協定」をまじめに守る考えなどはなく、地球人をどう利用するかの視点しかないのです。
科学技術を至高のものとして、それにのめりこむ地球の科学者が、彼らの格好の餌食になります。
グレイは、種としての存続について、ゼータと同じ問題を抱えています。
しかし問題解決へのアプローチは、ゼータとは根本的に違います。
アブダクション(誘拐)と、言葉で言うと同じように聞こえますが、グレイは、むしろ「捕獲」です。
地球人類への敬意など元々ないので、(人類の実験動物に対する所業と同じく)使い捨てにするわけです。
アメリカには行方不明の子供についての、無償の登録・捜索ネットワークもありますが、
グレイが関与したものが解決される可能性は、ほとんどゼロでしょう。
家畜に対する「実験」も、日常茶飯事です。
血を一滴も流さず、性器を抉り(えぐり)取られた牛が牧場で発見されたりします(キャトル・ミューティレーション)。
このような実情があるので、アメリカ政府は50年間もそれを公表できなかったのでしょう。
しかし巨大な陰謀を、長期にわたって隠蔽することは不可能です。
研究の補助作業者や施設の建設業者、また物資を納入する業者もいます。
議会の承認を取り付けるべき予算の措置もあり、それこそ無数の人間が直接間接に関わることになります。
そして、何年か経つと、退役する人も出てきます。
こうして今では、宇宙からの追加的な情報も含めて、ほぼ全体像が描けるようになりました。
それでも、米軍の当局者が、しぼんだ観測用の気球を携えて宇宙服まがいの出で立ちで記者会見し
、「君たちはこれを見誤ったのだ」と言って、この問題に決着をつけようとしたのは、つい数年前のことです(気球が、ジェット機の何倍もの速度でジグザグ飛行するでしょうか)。
一方、ある調査によると、アメリカ人の60%が、地球と関わりを持つ宇宙の知的生命体の存在を信じているとのことです。
結局のところ、グレイは滅び行く気の毒な種族なのです。
広大な宇宙では、あらゆる在り方が、それなりに意義があるものとして是認されています。
そして宇宙の進化のためには、ポジティブだけでなくネガティブも必要なのです。
誰かが「悪役」を引き受けなければなりません。
――まだ確認が取れませんが、アセンションに伴う地球の波動レベルの上昇にグレイは追随できないので、すでに地球を去ったか、遅くとも数年以内に去っていくはずです。
その前途に幸があることを、祈ってあげようではありませんか。
http://pharao11.jugem.jp/?month=200811

徹底検索、堀進
http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/



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jennifer1215b: ロストシティ・アトランティス




jennifer1215b: ロストシティ・アトランティス
ロストシティ(2)
2010/12/6(月) 午後 8:32 不思議系 都市伝説
失われた文明『アトランティス』
失われたアトランティス都市を見いだしたという考古学者主張 Huffington
http://www.huffingtonpost.com/2009/12/16/archaeologists-claim-they_n_394240.html
失われた都市、アトランティスが見いだされます(多分)
http://www.examiner.com/sci-fi-in-south-bend/lost-city-of-atlantis-found-maybe
発見された失われたアトランティス?
http://www.dailymail.co.uk/news/worldnews/article-1236651/Is-lost-city-Atlantis-Grainy-images-released-showing-city-like-structures-beneath-Caribbean-Sea.html
イメージはカリブ海の最下部で都市のようなフォーメーションを示します
紅海地域が大規模な分裂で分かれる 2006/7
http://news.nationalgeographic.com/news/2006/07/060719-red-sea-parts.html
海洋の誕生の秘密がむき出しになります
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/5191384.stm
人工衛星が新しい大陸の地殻の創造を捕えます
http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=satellite-captures-creati
今から何年も先、アラビアとヌビアの構造プレートは離れて何百万もの水域が急に現れて、そして紅海を広げるでしょう
科学者:地震が紅海を分かれさせる
http://msnbc.msn.com/id/13938637/
アラビアの構造プレートとアフリカのプレートはお互いから離れて去っています
プレートテクニクス
[http://en.wikipedia.org/wiki/Great_Rift_Valley
グレートリフトバレー(大地溝帯)]
※まさにアデン湾の場所は異変が起きているんですね。
見いだされた「アトランティス」への津波手がかり
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/4153008.stm
アトランティス神話の源であるかもしれない水没した島は、1万2000年前に大地震と津波に見舞われました、
島は現在、ジブラルタルの海峡の海の下60mに位置しますが、或るものは、それが一度水の上に横たわったと考えます。
調査結果は島が2,000年以上前に哲学者プラトンによって物語られた伝説を彷彿させる仮説に重要性を増します。
証拠はジャーナル地質学で発表された 海底調査結果から来ます。
フランスのPlouzane、西ブリタニー大学のマーク - アンドレ Gutscher は、厚さ50−120cmある津波の後に置き残された粗い粒状の堆積性の鉱床を見つけました。
■振動している堆積物
Gutscher博士は、プラトンによって記述された破壊が、1755年にポルトガルでリスボン市に破壊的打撃を与えたものと同様の巨大地震と最高10mの高さの津波を発生させたものと一致していると言いました。
濃い「タービダイト」の沈殿は、水中の地質学の大変動によって揺さぶられた堆積物に起因します。
それはおよそ12,000年前に溯ることが判明しました ープラトンによって示されたアトランティスの破壊の年代を、およそ Gutscher 博士が地質学で報告します。
Spartel島は、2001年のアトランティス伝説起源の候補としてカディス湾の中でフランス人地質学者ジャック・ジラードによって提案されました。
プラトンが記述したように、それは「ヘラクレスの建て柱の前」、またはジブラルタルの海峡です。
堆積性の記録は,1755年のリスボン地震のような出来事がカディス湾で1,500から2,000年ごとに起こることを明らかにします。
しかし、 Gutscher 博士によって行なわれた島の作成地図は、どんな人工の構造物も発見出来ず、そして同じく島は、以前から信じられているよりもずっと小さかったことを示しました。
これは島に文明社会が居住した可能性を低くしました。
アトランティスと主張する海底調査ブイ
科学者が失われたアトランティスの遺跡を見つけたかもしれないと言います。
■海神の寺院
アトランティスのサイトの識別は、最初にワーナー Wickboldt によって提言されました。
研究することによって、長方形と同心のリングを見つけた講師とアトランティス狂は、プラトンによって記述された都市のサインのために地中海の向こう側から写真を撮ります。
「島」のサイズと衛星画像のそのリングは、プラトンによって説明されたものより少し大きいです。
これは2つの解釈が考えられます、と Kuehne 博士が言います。
まず最初に、プラトンはアトランティスの大きさを控え目に演じたかもしれません。
第二に、プラトンによって使用された測定の古代の単位(亜氷期)は、伝統的に想定されるより20%大きかったかもしれません。
同心のリングが寺院サイトを囲むと主張されます。
さて、アトランティスは本当にあるのでしょうか?
この海底ピラミッドはオリオン座と同じ配置になっているらしい

メモ・独り言・戯言
https://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b
https://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/folder/943400.html?m=lc&p=3



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