折口信夫: 盂蘭盆と魂祭り〜古来の風習の記録と考察
折口信夫
■盂蘭盆と魂祭り
盆の月夜はやがて近づく。広小路のそぞろ歩きに,草市のはかない情緒を懐かしみはするけれども,秋に先立つ東京の盂蘭盆(うらぼん)には虫さえ鳴かない。年に一度開くと言われた地獄の釜の蓋は一片では済まなくなった。 それに「旧暦」が「月暦」に名を改めてからは新旧の間を行く在り来たりの一月送りの常識的方法が山家・片在所にも用いられるようになったので,地獄の釜の番人は「送迎にいとまない」と嘆いているのであろう。
諺に「盆と節句が一緒に来た」というその師走の大祓に祭りや盆を合わせた話をしてみたい。
「地獄の釜の休日が年に3度ある」ということは単に明治・大正時代の不整頓な社会に放たれた皮肉だと思ってはならない。
1月,2月,7月,9月,12月の5回に精霊が戻ってくるものと古くから信じられていた。徒然草の四季の段の終わりにも「この頃は京都では流行らないが,大晦日の晩に東北では精霊が来る」という風に見えている。年に5回行なっていた精霊会が,南北朝の時代には社会的勢力を失って,年にただ1回の盂蘭盆会に痕跡を残したのであるが,7月の盂蘭盆と12月の魂祭り(たままつり)とは古来の大祓の名残であると信じている。こういうことを言うと実際神仏混淆の形はあるが,諸君が心中に不服を抱かれる前に一考を煩わしたう問題がある。
それは民族心理の歴史的根拠を辿っていた時にたどり着く事実である。
外来の風習を輸入するには,必ず在来のある傾向を契機としているので,これが欠けている場合にはその風習は中絶すべき宿命を持っているのである。だから力強い無意識的模倣をするようになった根底には必ず一種国民の習癖に投合する事実があるのである。
斉明天皇の3年に飛鳥寺の西に須弥山の形を作ったという,純粋な仏式模倣の行事が次第に平民化するにしたがって,固有の大祓思想と復活融合をしたので,半年の間に蓄積した穢れや罪を禊ぎ捨つる大祓の日に精霊が帰ってくるということになった。
死の穢れを忌んだ昔の人にも当然縁のある精霊は迎えねばならぬとなれば,穢れついでに大祓の日に呼び迎え,精霊を送り返した後に,改めて禊ぎをするという考えは自然然るべきことである。
吉田兼好の時代,すでに珍しがられた師走の魂祭りは今日においてはその面影を残していないのは然るべきことである。
古代の人には,「折節の移り変り目は守り神の目が緩んで,害物のつけ込む都合のいい時である」という考えがあった。それゆえに季節の移り変わりごとに様々な工夫を持って悪魔を祓った。五節供はすなわちこれである。盂蘭盆の魂祭りにもこの意味のあることを忘れてはならない。
魂迎えには灯篭を重ねて迎え火を焚く。これは皆精霊の目につきやすからしむるためである。冥界に対する我祖先の見解は極めて矛盾を含んだ曖昧なものであった。
大空より来たる神も,黄泉より来たる死霊も冥界の所属という点ではひとつで,これを招き寄せるには必ず目標を高くせねばならぬと考えていたものと思われる。雨乞いに火を焚いて正月の15日あるいは盂蘭盆に柱松を燃やして,今は「送り火」として面影をとどめている京都左京の「左右大文字」,船岡の船,愛宕の鳥居火も等しく冥界の注意を引くという点に高く明るくという二つの工夫を用いているわけである。盆に真言宗の寺々で吹き流しの白旗を木の梢に立てているのは今日でもしばしば見るところである。
■標山
この柱松屋や旗の源流に遡っていくと,そこにありありと古代の大嘗会に引き出された標山(しめやま)の姿が見えてくる。天子登極の式には必ず神泉宛から標山というものを内裏まで引いてきたので,その語源を辿ってみれば,神々の 天下りについて考えるところがある。標山は「神の標めた山」という意味である。高天原から地上に降りて占領した根拠地なのである。標山には必ず松や杉や真木の一本優れて高い木があって,それが神降臨の目標となるわけである。
これを形式化したものが大嘗会に用いられるわけであって,ひとまず天つ神を標山に招き寄せて,その標山のままを内裏の祭場まで釣れますのである。今日の祭りに出る,だんじり,だいがく,だし,ほこ,やまなどは皆標山の系統の飾り物であって,神輿とは意味を異にしている。
■田楽と盆踊り
出雲国神門郡須佐神社では8月15日に「切明(きりあけ)の神事」ということを行う。その時には長い竿の先に割いた竹を放射して,それに御祖師花風の紙花をつけたものを氏子七郷から一つずつ出す。その儀式は竿持ちが中に立って,花笠をかぶった踊り手がその周囲を廻るそうである。
これは岩戸神楽と同様,髭籠(ひげこ)だけでは不安だというので,神を招くために柱を廻って踊ってみせるので,諸冊二尊の天の御柱を廻った話も,あるいはここに意味 あるのであろう。 摂津豊能郡の多田の祭礼にも同様なことが行われるという。長い竿を地面に掘り据えないで人が支えるというのは,神座の移動を便ならしめるためであって,神が直ちに神社に下りない証拠である。
「切明の神事」は旧幕府時代には盆踊りと混同して7月14日に神殿で行われて,名前さえ「念仏踊り」といわれていた。かの出雲阿国が四条河原で興行した「念仏踊り」もあるいは単に念仏を唱え数珠を首にかけていたからだとばかりは定められまい。それにはなお,かの難解な「住吉踊り」を中に立てて見る必要がある。
「住吉踊り」はおそらく祈年祭あるいは御田植神事(おんだじんじ)に出たものと思われるが,江戸には春駒,鳥追同様に正月に来たようだ。田の真ん中に竿を立てて,四方に万国旗を飾る時のように縄を引いて,これに小さな紙しでをたくさんつけておくところがあることなどを考えると,住吉踊りにはおそらく御田植神事に立てた花笠が傘に転じ,その周囲の切明の神事同様の意味で踊って廻ったものであろう。これは「田楽能」が有力な証拠をもたらしている。「田楽能」も田舞いの流とする学者の想像を信じることができるならば,田楽法師の持つ傘は田植えの時に立てられた髭籠(ひげこ)の一種なる花笠の観念化でなければならない。
田楽・住吉踊り・念仏踊りなど,その間の隔たりは天地の差である。しかしながら私はさらに盆踊りという証人を呼び出して,私の考えの保証をさせるつもりである。
「盆踊り」はなぜ音頭取りを中心としてその周囲に大きな輪を描いて廻るのであろうか?ということを考えると,そこに天の御柱廻りの形式の名残りを感じる。伊勢阪下の踊りはどんな月夜にも音頭取りが雨傘を広げて立つという。ちょっと考えてみると不思議なようであるが,この話を最初から注意深く読んでくださった方々にはある理解を得られたことだと思う。すなわちこれは花笠・髭籠であって,田楽能の傘である。切明神事の花笠持ち,盆踊りの音頭取りは神々のよりましてあったものであろう。我々の推測はさらに「百万遍」や幼遊びの「なかなかの小房主」にもまた大柱廻りの痕跡を見るのである。
盆踊りの輪形(わなり)に廻るのには,中央に柱があったことを暗示するのはもちろんであるが,時代によっては高灯籠なり切籠灯籠を立てたこともあったらしい。これらの灯篭が我々の軒端に移ったのはその後のことであろう。踊りにかつぐ花笠も依代の本意を忘れてめいめいにかぶったままで,自然導かれるべき問題は切明神事と盆踊りとの関係である。
地方地方によって盆踊りに立てる髭籠系統柱や竿は夏祭りのものと混同させられている。祭りと盆との期日の接近という唯一の理由を持って判断してしまえばそれまでであるが,はじめに述べた大祓えと盆との関係を根底に持ってかからなければ,隅ない理解は得られないのだろう。
ー古代研究/民俗学編, 折口信夫, 角川文庫
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