2020年05月05日

inu:中国の道教

inu:中国の道教
中国の道教
金正耀著、宮沢正順監訳、清水浩子+伊藤丈訳、 平河出版
我々は「道教」という名はしばしば耳にしますが、その実体についてはほとんど何も知りませんよね。
お隣中国の文化の重要な構成要素でありながら、その内容について何の理解も持たないというのは極めて残念なことであると思います。
幸いにして本書は道教を体系的かつ解りやすく解説したもので、著者も優秀な研究者の方です。
その内容をさらに簡略にまとめ、かつ私個人の思ったことを付加したものが本論です。
本論をお読みいただければ、「西遊記」「封神演義」等の中国古典をより楽しむことができるでしょう。
また、少しは道教についての理解も促進されるのではないでしょうか。
「道教」を考えることで、宗教とは、神話とは、日本とは、など様々な事項に対する重要な示唆が得られるものと思います。
なお、私個人の考えは本段落のように一段下げた形で、かつ斜字体で表記することと致します。
解説、比較などが主たる私の付加事項です。
以下の叙述は「中国の道教」の章毎の要約で時代順に書かれております。
時間軸に沿ってとらえることが、道教を理解するには必須かと思われますので本文に従うこととしました。
■第1章−道教とは何かについての概論−
道教は、キリスト教、仏教などと異なり教祖一個人が創立したものではない。
成立初期には多数教団が乱立し、南北朝時代に仏教との拮抗によって初めて道教は「道教」と呼ばれるようになった。
この成立過程について、道教と日本の神道は同じであると感じます。
神道も初めは単なる自然崇拝でしたが、外来の極めて精密な体系を持った「仏教」との関係において初めて「神道」という概念ができ当たりました。
やはりその、哲学的というか神学的に体型化された宗教というもの、すなわち一神教や仏教などはその論理整合性という点でたの宗教に大きな影響力をもたらしますね。
それに対抗するには土着の宗教も理論武装するしかなくなるわけですから、道教と仏教の関係と同様の事象は世界各地で起こっているものと推測されます。
それができなかった場合、淘汰されて行くのでしょう。
道教の追求した目標は、道を得て仙人となり、長生きして死せざる事である。
この点極めて目標が現実的ですね。
解放としての解脱、復活と天の国など、他宗教の目標が彼岸にある点との差違が目立ちます。
私個人としては、現世利益に何の意味があるのかに疑いを抱きますが、このように考える人もいればそうでない人もいるでしょう。
少なくとも漢民族は極めて現実的であり、観念的ではなかった、と評価することはできるでしょう。
どちらが高等、という問題ではないですね。
■第2章−漢時代における道教の成立−(紀元前3世紀〜紀元3世紀)
道教そのものの最初の教典は、後漢の「太平経」である。
この書物は太平道、五斗米道(それぞれ三国志の「黄巾の乱の張角」と、「蜀の張魯」というと解るでしょう)等に影響を与えている。
なおこの時代の道教の教団はそれぞれ別個独立に成立し、相互に関連を持っていない。
この「太平経」は皇帝が国を治めるのをどのように援助するか、どうしたら太平の世が訪れるか、という点に中心があり、成仙不死にはほとんど注意を払っていない。
すなわちこの時代の道教と、後の時代の道教は全くその内容を異にしている。
その目指すところは儒学と同じであったと考えてよい。
つまり道教教団上層部は、統治階級の人々を引き込もうとし、彼らのために国を治め太平の世を造ろうとしていたのである。
■第3章−魏晋南北朝時代の道教−(3世紀〜6世紀)
この時代は、いわゆる道教が現在の形となった時代である。
道教は「世をすくい太平をもたらすもの」から「化仙し不死を得るもの」へと変化した。
これにより下層部が武装蜂起に走りがちで統治者から敵視されていた道教は、封建体勢にとって適合的なものとなったのである。
恐らくですが、以前の道教が目指した地位には儒学が居座ってしまった結果なのでしょう。
その競争に敗れた道教は、異なる方針を模索したのではないでしょうか。
葛洪、西晋の時代、三世紀後半の人
「抱朴子」を著述して煉丹学に大きく貢献し、道教が政治色を帯びることを好まず、儒家君臣父子秩序に反せず、封建統治を損なわない神仙道教理論をうち立てた。
いわゆる現在の道教の金型を作った人、といってよいでしょう。
煉丹学とは、道教の「成仙不死」を達成するための重要な手法の一つです。
医薬品(これを「丹」といった)の服用とその製造方法、と考えるとよいでしょう。
金属や鉱石の不滅の特性を人体に移すことができれば、身体は金石のように簡単に朽ち果てないものとなるだろう、という発想が煉丹の根底にはあります。
「丹」とは硫黄と水銀によって作られた鉱物であり、毒性の強いものでした。
それに関しては後ほど詳しく述べます。
寇謙之、4世紀後半、北魏の人
彼は天師道(五斗米道と同じ、名前が変わっただけ)の指導者として教団の改革を行い、皇帝権力との関係を結んだ。
彼の最大の功績は、道教と権力との密接な関係をうち立てたという点にあります。
以後道教は、統治者の御用宗教として、密接な関係を保ち続けるのでした。
陸修静、5世紀、晋代の人
道教教典を整理し、新しい道教の戒律と儀式執行手順をまとめた。
彼によって初めて、従来はバラバラに存在していた多数の教団が、一つの「道教」として認識されるようになった、と考えておくとよいでしょう。
陶弘景、南朝の人、5世紀
彼は信仰の対象としての神仙の席次を定め、信仰体系を確立した。
「神霊位業図」における神界の7層構造は、人間世界を反映したもの。
すなわち彼は、神仙の等級分化を理解すれば現実の貴賤の別を受け入れられるとして、封建制度を合理化するのである。
その目的はもちろん、道教をよりいっそう統治者に役立たせることでした。
このあたりに、神話や宗教の大きな現実的機能と意味の一つがあると考えてよいのではないでしょうか。
「封神演義」を読んだことのある方ならば、神々の間にも宮廷組織が存在し、最高神から使い走りの神格まで存在するという場面に遭遇したことがあるでしょう。
ギリシア神話におけるオリンポスの序列等が例としては適当かもしれません。
すなわち、神々の序列とは高度に政治的配慮によって決定されるものであるということです。
例えば征服民族が被征服民を懐柔同化するには、その被征服民の神格に、征服民の神話体系のヒエラルヒーにおける地位を与えればよいわけです。
たとえば、ゼウスの弟(兄の場合もあり)としての地位を与えられたポセイドンとか、オリンポス12神に加えられた小アジアの神格アポロン、アフロディーテのように。
この点多神教は便利ですが、一神教の場合にはそうも行きません。
先住民の神には、悪魔という名前が用意されているのみです。
上のアフロディーテは、ヘブライの唯一神の下ではではアスタロトなる悪魔になりましたか?
(抜け道として、聖人という便利なものも残されてはいますが)
話題を中国に戻すと、道教ではなんと神々にも宮廷組織が存在するのです。
相撲の番付表のように整然とした序列があるのです。
三国志の「関羽」や「諸葛孔明」も加わった楽しげなものです。
本当にこのようなものを信じる人がいるのか、現在に生きる私には疑問でなりませんが。
■第4章−隋唐時代の道教−(7世紀〜10世紀)
隋代の統治者は道教をもり立てて継承発展させ、唐代には道教は国教となりました。
道教発展の時代、と考えてよいでせう。
隋代に道教は仏教に及びませんでした。
それは隋建国者の楊堅が寺で育ち、仏教に好感を持っていたからといわれます。
唐代には、李氏(皇帝の一族です)は老子の子孫であるとして、道教は特別厚く保護されました。
仏教が力を持ちすぎるのを嫌ったからでした。
ちなみに老子は、春秋時代の思想家であり、恐らく道教とは何の関係もありません。
ただ道教ではこれを神格化しており、五斗米道の教典「老子想爾注」では「老子」に述べられる「道」を神格化して太上老君」と呼びます。
そしてまた、「老子」の姓が(皇帝と同じ)「李」であるというのは恐らくでっち上げであり、純粋な政治的利用です。
唐代の道教は、以下の三点で皇帝に奉仕しました。
世論の形成
すなわち隋末に、「誰々に天命が下った」などの流言をばらまき、李氏の天下掌握を補助。
この点儒学の「易姓革命」という考え方も、いろいろかっこいいこといいますが要するに新たな権力者への媚びへつらいの理論化にすぎませんね、と思います。
法要を行い、国家及び皇族の長久を祈る。
統治者の神格化には、厳格な儀式が多いに役立ったようです。
皇帝への養生法の提示
詳しくはあとに述べますが、これが唐代の道教の最大の特徴でした。
隋唐時代には、煉丹術が道教の中心の如き様相を呈します。
煉丹術とは、内丹、外丹を含む仙人になるための方法です。
外丹とは、前述の「抱朴子」に詳しい、自然界の鉱物植物動物を原料として、金丹・還丹という薬品を製造するもの。
内丹とは、人体内部の精気神を原料として、人体を炉として練り上げるものであり、いわゆる「気功」に近いものと考えるとよいでしょう。
この時代に盛んであったのは、外丹の方です。
この外丹は、原料として鉛・水銀・硫黄・砒素を含むものでしたから、人体には大きな害がありました。
丹の服用によって命を落としたものも多く、その服用によってあの賢明な唐の太宗を含む多数の皇帝が命を落としたといわれています。
皇帝に不死の丹を与える、という名目で多数の道士が皇帝に取り入りました。
有名所では、あの始皇帝の「除福」でしょうか。
そのために皇帝は莫大な費用を費やしたわけですから、国が傾くのも道理です。
そうまでしても合理的な人間が、不死等という幻想に取り付かれるものなのでしょうか。
ちなみに皇帝にも賢明な人は多く、北魏の道武帝は死刑囚に服用させて試したそうです。
(その結果多数が中毒死した)
臨終の際に服用しても遅くない、と考えた皇帝もいました。
このように多数が命を落としながらも、それでも外丹に対する進行が失われなかったのは、死んだ人々は正しい方法を階得していなかったからであり、自分こそはそれができると信じていたからであるといわれます。
道士の側には、素晴らしいいいわけが用意されていました。
丹を服用して死んだ人々については、それは本当の死ではなく成仙したのだ、といったのです。
このような神仙は「屍解仙」と呼ばれました。
信じる方も信じる方といった言い逃れですね。
「丹の神効」に体が耐えられず死んだ、という説もあります。
些細なことを書き連ねましたが、この不死をめぐる煉丹術は道教の中心として必要と思い、記した次第です。
この煉丹術の歴史の中で、漢方等の薬学、化学変化等について莫大な知識が蓄えられたことは道教の大きな功績の一つです。
「火薬」も煉丹術から生まれたものだそうです。
■第5章−宋元時代の道教−(11世紀から14世紀)
宋王朝は国力弱体で周辺異民族に対して常に劣勢に立たされており、続く元王朝は征服王朝でした。
動機は違えど民心掌握の強い必要性を持った両王朝では、その政治的目的達成のために道教が積極的に利用されました。
宋王朝で重視されたのは、符ロク(竹かんむりに録)派という一派です。
「符ロク」とは、神を招来し鬼を拘禁して悪鬼が人を犯すことを制止したり、災いを除き病を治したりすることです。
道教には、仙人になり不死を目指すものと、符録派という大きなふたつの流派がありました。
儀式を重視する符ロク派は王朝の神格化という点において多いに役立ったのです。
逆にこの宋代には、唐代に盛んであった外丹術は大きくその勢いを弱めます。
(こちらは主として、符ロク派の対となる、道教のもう一方の主流である成仙不死を目指す流れ)
宋代にも煉丹術は盛んでしたが、そこで行われたのは鉱物を人工の炉で加工する外丹ではありませんでした。
内丹学という、人体を丹を精錬する炉と見立てて精と鬼と神を人体内部で焼煉して丹とし、人を仙人にしようというものが、煉丹学の主流となったのです。
張伯端、北宋時代の内丹学の大成者
人体を小宇宙に見立て、大宇宙は万物を生成する大きな炉であり、小宇宙である人体は小炉であるとした。
人体での煉丹には、天地が万物を生成する法則を理解しなくてはならない。
道は虚無より一気を生じ、次いで一気は陰陽の二気を生じ、陰陽の二気は続いて三体(天、地、人)を創造し、三体はさらに万物を盛んに生成する。
これは道が万物を創成する過程と順序である。
もしこれに反する順序によって修練したならば、終わりから進んで初めに至り、本来の出発点である道に到達し、道と合一できる。
道は永遠に不滅であるので、道との合一によって神仙となり不死となることができる。
以上、一人の人物の思想を詳しく引用しましたが、そこには神秘主義思想との強い類似性が見られます。
「道」との合一による成仙不死などは、神秘主義思想にいうところの合一体験そのものですね。
それに、万物創成の順を逆にたどって根本に至ろうという発想は、ユダヤ教神秘主義のカバラーの考え方と同じです。
宗教思想の根本には、合一という概念が抜き難く存在しているようですね。
なお、この宋代には道教の最高神格が「太皇玉帝」という神格に変化しています。
その経緯が道教の本質を強くあらわしているので、ここに述べることにしました。
道教では、その体系を確立した陶弘景は最高神を元始天尊(万物に先立つという意味の、道教が創造した神格)とし、唐代には帝室の祖先ということで太上老君が最高神とされました。
宋の2代皇帝趙匡義は初代皇帝趙匡胤の弟で、これは父子相伝という皇位継承順にそぐわないものでした。
そこで太宗(2代皇帝)は、自分に「高天大聖玉帝」の命令が下った、との事件をでっち上げ、皇位の継承の正当化・合理化を図りました。
この事件に利用された神格「玉帝」はその流れて、道教の最高神に落ち着きました。
このとき趙匡義に玉帝の天命を伝えた神は「ヨクセイ」といい厚く奉られるのですが、彼の死後二度とこの神は霊験を示さなかったということです。
この事例のように、宗教が完全に皇帝権力の下位に位置したのが古来中華世界のようです。
天命を受けた天子が統治するという中華世界の定義からいえば、当然といえば当然なのですが。
西欧世界の普遍原理であるキリスト教に相当するものが、中華世界では皇帝であった訳なのですから。
この点中世西欧世界のキリスト教の場合、少なくとも世俗権力は(名目的には)神の下に位置していたこととの対比が見事です。
ローマ教会の独立もありますが、何故にキリスト教は世俗権力への服従を免れたのか。
疑問ですね。
創造神への信仰という教義もその一因ではありましょうが、それだけではないはずです。
権力は常に、それを正当化する原理を必要とするからなのでしょうか。
西欧の場合はそれにキリスト教が利用されたので独立を保ち得たが、中国では皇帝そのものが天命という正当化原理を所持していたので宗教に頼る必要がなかったのでしょう。
道教の本質的目的は(佛教同様)個人的なものである成仙不死であるから、世俗のことなどどうでもよいのかも知れません。
元代には、全真道という教団が皇帝権力と結合して主流となります。
中国道教の2大教団が、正一道(張角の太平道、天師道の後身)、全真道です。
道教自体は、統治に有効であるために権力からの迫害はほとんどなく、安泰に存在を続けます。
ある時代に権力との結合を果たした教団は、次の時代には少々軽んじられて、また異なる教団が権力と結合して行きました。
どうでもよいですが、光栄の「ジンギス汗」に登場した南宋の超優秀人材「長春真人」はこの全真道の指導者「丘処機」でした。
動乱の時代において、道教指導者はいかなる権力との結合を果たすべきかという大問題に対処しなくてはならなかったようです。
大教団ともなれば、皇帝、周辺民族からの誘いの声は無数にかかる訳ですから。
この長春真人は賢明にも、次代のスーパーパワーとしてのモンゴル族の力を見抜き、それとの結合をなしえた優秀な人物なのでした。
この全真道の内丹学説が興味深いので、以下に引用してみましょう。
人の心には「真性」が備わり、それは元神・元性・真心などと呼ばれるが、それは不変不滅のものである。
そして成仙の根拠はその上に置かれている。
以上です。
ここにおいて「真性」を「仏性」に置き変えた場合、それはほとんど仏教の内容と同じではないでしょうか。
このように道教は、仏教、儒教の教義をどん欲に吸収して行きます。・
思想的に節操がないですね。
哲学大系に意味はなく、成仙不死という目的の他はどうでもよいのだ、という考え方もそれはそれで正しいものかとも思います。
■第6章−明清時代の道教−
(14世紀〜20世紀)
総じていうと、明清両朝の500年間において、中国封建社会は次第に凋落し、やがて崩壊に至る。
この間道教は、どの分野でもほとんど新たな発展が無く、徐々に衰退していった。
この時代は大変に不思議なものです。
間違いなく世界最高の文化を誇った中華世界。
それがある時点で発展を止め、西欧中心の世界史に編入されて行きました。
最終的要因は経済力と軍事力の差違によるわけですが、その格差を生みだした原因は何であるのか。
火薬の発明、資本の蓄積、労働力の存在など、産業革命の下地は十分に備えられていたはずです。
いずれゆるりと、この分野を学んでみたいものです。
まあ、中華世界の歴史から見れば産業革命以後などたかが4世紀あまり。
異民族に征服された一時期と同じ程度のものでしかありません。
■第7章−結語−
道教は後漢末に誕生し、そのころは反権力的存在でした。
それが魏晋南北朝期に権力と次第に親和的になり、成熟定型化して行きます。
隋唐時代には皇室との結合で隆盛の頂点にいたります。
宋代には新たな発展の機運を示しました。
そして明清時代には、停滞衰退の道を歩むのでした。
内容も時代に連れて、おおざっぱに以下のように変化して行きます。
初期には統治者のための太平術。
そして政治性を離れた個人の成仙不死。
権力との結合と、外丹術(薬物の服用による成仙)。
内丹術(心身修練による成仙)
道教は始終、儒学・仏教と相互に浸透、影響しあい、それが中国伝統文化の三大支柱の一つとなりました。
道教は仏教からは、儀式教典など多数を吸収しました。
そして儒学からは、「忠孝仁義」という学説をほぼそのまま取り込んでおります。
金元時代の全真道は、出家修行と世俗の忠孝仁義の結合を提唱し、心を清くして自己の本姓を見つめることを「真功」、君主への忠義と親への孝行を「真行」とて、この2者が一体となって初めて得道成仙できると説きましたが、これでは実際的に儒教の変形に過ぎません。
逆に儒学、仏教は、ほとんど道教から思想的に吸収したものがありません。
道教は朝廷に依存し、皇帝個人の長生不死を追求する精神的欲求を満たし、皇権統治を神の如く絶対化する希望を満たし、そのふたつのことを永遠に継続することに服従しながら、封建統治者のために働き続けるのでした。
そして王朝後退の時期には、道教も常に新たな奉仕対象を選び出し、政治的吉凶予言をねつ造するなどの方法を用い、その期に乗じて取り入るのでした。
道教の思想内容と社会への働きから見るならば、中国伝統文化の支柱の一つではありますが、封建統治者のために奉仕したに過ぎない、との評価が妥当でしょう。
以上、「中国の道教」の要約と個人的見解でした。
これで道教とは何か、少しはご理解いただけたのではないでしょうか。

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ファティマの予言

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ファティマの予言
1981年5月のことである。
アイルランドのダブリンを飛び立ったロンドン行きの旅客機が、元カトリック修道士ローレンス・ダウニーによってハイジャックされるという事件が発生した。犯人ダウニーの要求は異常なものだった。
それは「バチカンが隠しているファティマ第3の予言を公開せよ」というものだった。
ダウニーは人質解放の見返りとして、予言の公開以外に、自分のファティマ研究の論文を国際新聞各紙に掲載すること、自分の逃亡先としてイランまでの飛行燃料を用意することを要求した。
結局要求は果たされることなくダウニーは逮捕され、人質は無事に解放された。
ところが当のバチカンはこの事件に関しては最後まで沈黙を守り続けたのである。
ファティマの予言に関するダウニーの論文も、一般に公表されることなく闇から闇へ葬り去られてしまったのだ。
1917年5月13日、ポルトガルのファティマで羊番3人の牧童の子供たちが聖母マリアに遭遇するという事件が起きた。
「自分は天国からやってきた」というその女は、3人に自分の仕事を手伝うように要請し、同意を得ると光の彼方に消えた。
3人の子供たちは以後、毎月13日に自称「天国の女」とコンタクトを始めることになった。
6月13日のコンタクトでは、噂を聞きつけた50人ほどの群衆が見守る中、女は現れたが、3人の子供以外にはその姿は見えなかった。
7月13日は、群衆は5千人に膨れあがっていた。この時、女は反ロシア・反ボルシェビキ(共産主義)思想を語った。
8月13日、3人の子供は当局に拘束されて会場に行くことはできなかったが、群衆は実に1万8千人になっていた。
この日、女は現れなかったが、会場では突然の雷が響き、奇妙な雲が目撃された。
9月13日、3万人の群衆が見守る中で、正午かっきりに突然太陽に異変が生じ、日食のようになった。そして正体不明の光があたりを照らし出すと、東の空に光る球形の飛行物体が現れて、西の空へと飛び去った。
3人の子供が女と話している間(群衆には見えない)、空からは白っぽい綿のような奇妙な物質が雪のように降りそそいだ。だがその物質は地面に落ちる前に消えてしまった。
この物質はUFOが落とすエンゼル・ヘアと呼ばれる物質に酷似している。
ところで女は3人の子供に向かって、前回会場に来なかったことをチクチクと責めたというが、本当に「神」なのか?
10月13日、なんと10万人近い観客が見守る中、正午かっきりに雷が鳴り響いた。
そしてどこからともなく小さな雲が現れ、3人を包み始めた。雲の中で3人は女に遭遇した。
そして女はいつものように宗教的な説教をすると去っていったが、その途端に太陽が車輪のように回転を始め、光を四方八方に放射した。そして花火のように火を散らしながらジグザグに動きだした(UFOとそっくりである)。群衆はこの光景に感動し、ひれ伏した。
それ以後、女は現れず、奇跡ショーは終わったが、女の教えは信仰となって残ったのである。
女は「ファティマの予言」と言われる3つの予言を授けていった。
第1の予言は第1次世界大戦の勃発を予告したものであり、第2の予言は第2次世界大戦を予言したものであった。そして問題の第3の予言はというと、その内容のあまりもの恐ろしさにバチカンは予言を封印してしまったのである。
第3の予言は第3次世界大戦の予告に違いない、と言う声もあるが、いずれにしてもバチカンにとって都合の悪い代物だったようである。たとえ地球崩壊が予告されていたとしても、気にする必要はまったくない。なぜなら「連中」は最後の最後で信者を裏切って、約束(予告)をすっぽかすからだ。
イエス・キリストは誰も裁かなかった。
ところがファティマの神は、自分に従わない者たちは容赦なく滅んでしまえという冷酷無情な神であり、およそキリストの本質とかけ離れたものである。だれも疑問を抱かないのは、それこそ奇跡である!
ファティマに現れた女は、人々に奇跡を見せてひれ伏させ、自分の教えを強制的に信じ込ませる布教活動に出たが、この無慈悲な性質は、キリスト教よりもむしろユダヤ教の神エホバに近いと指摘する声もある。
「第3の選択」のミステリーは、地球温暖化がもたらす災害から逃れるべく、地球を脱出して火星へ避難しようという計画が極秘裏に進行しており、それを知ってしまった人々が次々に失踪するという不気味なストーリーである。
「第3の選択」はフィクションとして1977年に作られたエイプリルフール用のジョーク番組だったが、テレビで放送されるや異常な反響を呼び、テレビ局には問い合わせが殺到した。
番組制作者のところには、本当に当局の極秘宇宙開発に関わっている人物や科学者から警告の電話が入った。どうやら嘘から出たまことだったらしい。番組スタッフの中には、本当に忽然と姿を消してしまう者が現れるなど、事態は異様な展開になっていった。
「第3の選択」の原作者は、この話が事実であるとわかっていながら、それを知らせずにフィクションとして番組に製作を持ちかけたようである。番組放送後、原作者のワトキンズ氏は、この件に関していっさい沈黙している。
「第3の選択」のハイライトは、アメリカがソ連(当時)と共同で、1962年5月22日に無人火星探査機の着陸に成功させるくだりである。
この火星探査機が撮影した映像には、はっきりと火星の生物が動いているのが確認できる。
1962年にすでに火星に行っていたというのは本当だろうか? 
アポロが月着陸するのは1969年なのだが…。
BSRA(境界科学研究財団)のミード・レインなる人物は、UFOの起原を異次元空間に求めていた。
「連中」は異次元の住人であり、我々の目に知覚できるように物質体に現象化して現れるというのだ。
レインによれば、「連中」は非物質的存在なので、我々の心の中にも自由に入り込み、思考を読み取って先手を打つことができるのだという。
面白いのは、UFOはすべてが「連中」の化身なのではなく、実際に普通の宇宙船に乗ってやってくる異星人もちゃんといるという点だろう。こいつらが月や火星に基地を持っている可能性を当局は考えていたかもしれないのだ。
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個人的意見ですが、UFOは3次元的物質宇宙船とUFO現象の中には異次元的或いは心霊的現象に近いものに大別されると思います。
テレビ特番や書籍では、3次元的物質UFOと異次元的UFO現象を混同してしまい、いつまで経っても真相が解らずに胡散臭くなってしまうのでしょうね。
・目次
1章 まったくおかしな訪問者
2章 壊れた時空の扉
3章 異界往還
4章 見せしめの宇宙墜落
5章 地球人総布教工作
6章 三人の黒服の男
7章 暗黒神話
8章 いけにえの祭り
終章 アウター・スペース・コネクション

徒然ブログ
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ファティマの奇跡
2008/7/12(土) 午後 10:55 不思議系 人類学と考古学
ファティマの聖母マリアは果たして天使の宇宙人なのか?
それとも神サタンの使いの者なのか?
毎月13日に現れたという事実が妙に引っ掛かる。
何故なら13という数字はルシファー(サタン)崇拝のイルミナティ達が崇拝している数字だからだ。
本来であれば第3の預言はすでに公開されているはずであった。
しかしその内容の激しさのあまり、時の法王が失神したほどの内容とは一体何なのか?
1917年10月13日ポルトガルのファティマで起きた大事件は大群衆の前で起きたUFO事件だった
これは聖母マリアから人類へのメッセージを伝える歴史的な大事件である
第1の預言は、当時戦争中だった第1次世界大戦がまもなく終結すること
第2の預言は、第2次世界大戦が勃発することを告げている
第3の預言は、いまだに公表されていない
■1回目の出現(1917年5月13日)
事件の主人公になったのは、
ルチアという10歳の少女、
少女のいとこにあたる9歳のフランシスコ、
7歳のヤシンタ
の3人である。1917年5月13日、3人はルチアの強い衝動に導かれて父親の所有するコーバ・ダ・イリヤという場所に向かった。時刻は正午頃で、晴天であったが、突然強い稲光がしたかと思うと、激しいつむじ風がまき起こった。3人は恐ろしくなって坂を下ってヒイラギの木の近くまで来たとき、またさらに強い光がひかった。光はすぐ消えることはなくとどまっている。
ふと見上げると、光に包まれた若い女性がたっていた。彼らの驚きは最高潮に達したが、やさしい声が響いた。
「何も怖がることはありません。私は天国から来ました。」
まさに聖母マリアの姿をした貴婦人がそこにいた。純白のドレスを着て、金色に縁取られたベールをはおり、右の手首にはロザリオ(十字架付きの数珠)をかけていた。
その清らかな声はさらに続いた。
「世界が平和であるように、毎日熱心にロザリオの祈りを唱えなさい」 
そして3人の子供に毎月13日の同じ時刻この場所に現れることを約束して光りに包まれた雲と共に、東の空に飛び去っていった。
■2回目の出現(1917年6月13日)
約束のこの日、噂を聞きつけて約60人の見物人が集まった。貴婦人は約束通り現れ、ルチアは貴婦人に語りかけた。しかし集まった人々には、その姿も見えず声も聞こえなかった。ただ木の枝が黄金色に変わり、出現中はその重みで低く垂れ下がっていた。聖母はルチアに、「毎日ロザリオの祈りを唱えること、勉強して早く字が読めるようになること、ヤシンタとフランシスコがまもなく天国に召されること」などを告げた。
この日の出現は15分位続き、対話が終わったとき全員が爆発音を聞き、小さな雲が木のそばから昇るのが目撃された。 聖母が預言したとおり、フランシスは1年10ヶ月後の1919年4月4日、ヤシンタも2年8ヶ月後の1920年2月20日に死去している
■3回目の出現(1917年7月13日)
群集は約7000人に膨れ上がった。しかし、そこで起きたことは前回と同じものであった。
群集の大部分は、単に見世物を見るように、空の一点を見つめて何やら語りかけるルチアを、好奇の目で見ていたにすぎなかった。だが、この日は重要なお言葉がルチアに授けられた。10月13日に大奇跡が行われる予定と、後年ファティマの大預言と呼ばれる「3つの預言」がルチアに託されたのだ。
そして「10月には、あなたたちに私が誰であるか、私が何を望んでいるか、お話します。 そしてすべての人たちが、あなたたちの言うことを信じるように、大きな奇跡を行って見せましょう。」この後に重要な3つの預言が告げられた。
ルチア自身は後に修道女になっているが、その上長であるコインブラ司教の強い要請を受け、1930年に聖母との対話の一部始終を記述した文書を作成し、それはそのままバチカンに送付された。第1と第2の預言は、25年後の1942年に初めて一般に公表された。
それによると、秘密は3つの異なった事柄から成り立っていますが、互いに密接に関連しています
これから私(ルチア)はそのうちの2つを公表しますが、3つ目の事柄は1960年まで秘密のままにしておかねばなりません。ここではファティマ第1と第2のメッセージが明らかにされている。
第1の預言には、間もなく第1次世界大戦が終結すること、そしてロシアが災いの中心になることが示唆されている。
ロシアが災いの中心になることは以降の歴史を見ても明らかで、預言の4ヶ月後にロシア革命が起こっている
第2の預言は、第2次世界大戦の勃発を告げている。そこでは「次の教皇(ピオ10世)の在位期間中に、もっとひどい戦争が始まり、その時あなたがたは、夜空に不思議な大きな光が輝くのを見るでしょう。」と預言されている。
第2次世界大戦は正式には1939年9月に開戦とされるが、スペイン内戦や、日中戦争などを考慮すれば、実質上、教皇在位末期と言える。1938年の1月25日から26日にかけて、夜半のヨーロッパ全域の空に血のように赤いオーロラが出現した。この驚くべき現象は当時の新聞に大きく報道された。
そして第2次世界大戦の勃発へと預言が成就された
■4回目の出現(1917年8月13日)
人心をたぶらかす行為だとしてルチアたち3人が当局に拘束され、約束の場所に行けなかったにもかかわらず、なんと約1万8000人もの群集が集まった.しかし当人たちが不在のまま、1万8000人の群集を前にすさまじい雷鳴がとどろき、閃光とともに強烈なイナズマがきらめいた。
地上には虹のような光が満ちて、太陽の周囲の雲はさまざまな光を反射した。そして例のヒイラギの木の上に小さな雲が出現し、およそ10分間とどまってから上昇した。
3人が釈放されたのは8月15日だったが、その4日後の、8月19日午後4時頃、ルチアたち3人はバリンホスという場所で羊の番をしていた時、突然気温が下がるのを感じた。そして太陽の光が消え、地上に虹が満ちた。閃光が生じ、こどもたちのそばの木の上に雲に包まれた輝く球体が出現し、そこから光とともに前と同じ姿の聖母が現れたのである。10分後ルチアと話し終えた光の貴婦人は、輝く球体と共に東の空に去っていった。聖母は回りの迫害に対する3人の勇気を誉めた反面で、約束を守らなかったことを当人たちの責任とみなし、そのために、10月13日に予告された奇跡のスケールが縮小されることを告げられた
■5回目の出現(1917年9月13日)
この日は葡萄の収穫期であるにもかかわらず、3人が当局に監禁された話も伝わって人々の関心を呼び、群集は3万にも膨れあがった。正午きっかり、急に太陽が光を失い暗くなったとき、あたり一面、光一色となった。そして全員が見守る中、東の空に銀白色に光輝くタマゴ型の球体が現れ西に向かってゆっくりと移動するのが見えた。この奇跡の正体を暴こうとする司祭が一部始終を目撃していた。
「あれは天国の乗り物で、聖母を玉座から、この禁断の荒野へ運んできたのだ」と語った。以来、このタマゴ型の球体は「聖母の乗り物」と称されることになった
6回目の出現(1917年10月13日)
奇跡最後の日となるこの日、噂を聞いてヨーロッパ全土から集まった群衆は10万人ともいわれるその中にはヨーロッパの主要な国の新聞記者、科学者の顔もあった。そして、聖母が約束したとおり、驚くべき奇跡が起こったのである。この日は早朝から雨が降り続き、コーワ・ダ・イリアは泥沼と化していた。正午ぴったり、ルチアが叫んだ。
「あのお方がいらっしゃいました・・・」 
群集が見守る中、白い雲が3人のこどもたちを包むように沸き起こり、地上5-6メートルの高さまで上がって消えた。それは3回繰り返された。貴婦人とルチアとの対話が始まったが、群集には聖母の姿は見えず、その声も聞こえなかった。ただ閃光のきらめきや、奇妙な甘すっぱい芳香が周囲に漂い、こどもたちの顔が変化するのを目にしただけだ。すると突然、ルチアが叫んだ。
「見て! 太陽を見て!」・・・黒い雲に覆われていた空が大きく割れて、そこから青空が現れ、太陽が姿を見せたのだ。突然現れた太陽は、奇妙な動きを見せた。ぶるっと身震いしたかと思うと、火車のように回転し、四方八方へあらゆる色の光線を振りまいた。樹木も岩肌も群集も虹色に包まれ、一帯は幻想的な世界と化していった。太陽は回転を停止すると、水平に移動、また元の位置に戻ると回転を始める。
2度の小休止をはさんで3度目の太陽の色彩放射は一番激しいものだった。・・・そして突然、目もくらむような太陽の急降下がはじまり、ジグザグに落下してくる太陽を見て、群集は凄まじい叫び声をあげた。
・・・群集がパニックに陥り焼き殺されると感じた瞬間、突然太陽は落下を中止し、ジグザグと上昇しもとの位置に戻ったのである。この大スペクタクルが繰り広げられた時間は10分間であった群集は、今起きたことが信じられないという表情で放心状態であった
コインブラ大学教授、アルメイダ・ガレッタ博士の証言:「私は土砂降りの雨の中で、ずぶ濡れになってしまった。雨が止むと、きらめく太陽のようなものが、厚く覆っていた雲の層を突き抜けて出現した。
群集の目はいっせいにその方向へ向けられ、私もそれを見た。
輝いているが目がくらむほどのものではなく、輪郭が明瞭な円盤状の物体だった。
外観は良質の真珠のような、鋭く変化のある透明のようなものだった。。鈍い銀色の灰皿みたいという周囲の声が聞こえたが、その形容は正確ではない。
それは夜空の月にも似ず、それ自体の色も影もない。むしろ銀色の貝殻を削り取って磨き上げた車輪といった方がよい。
誰も霧を通して見る太陽とは混同しないだろう。円盤の周囲は少しもぼやけず、中心部もはっきりと輝いていた。たえず変化しながら輝く物体は、目まぐるしく運動し、それ自体が驚くほど急速に回転していた。」
■1917年10月13日 
1917年10月13日 銀白色の円盤が地上に向かって降下し、また太陽へ吸い込まれていく姿を見つめる群集
ファティマ最後の奇跡のあと、人々に抱かれるヤシンタ

メモ・独り言・戯言
https://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b
https://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/folder/943400.html?m=lc&p=9






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