2020年04月15日

Defoe「ペスト」〜17世紀ロンドンペスト封鎖, 一時収束後に第二波絶頂期

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Defoe「ペスト」〜17世紀ロンドンペスト封鎖, 一時収束後に第二波絶頂期
■1665年5月ペスト一時収束
ペストが収束し始めるや否や,直ちにロンドンに忽然として夥しい人々が現れた。
ペスト感染初期の頃の話であるが,逃げ出すことも思いのままにできる人々や田舎に疎開先を持っている人々は我を争って田舎へ逃げて行ったが,その数は全くおびただしいものであった。
さらにいよいよ病勢が激しくなると,頼るあてもない中流階級の市民達も避難できるとこならどこへでも全国至る所に逃げていった。なんとか自活できるお金のある人も,そういうお金のない人も,みんなぞろぞろ英国の郊外へ逃げたのである。
お金のある市民はとにかく食っていけるのでできるだけ遠い方へ逃げるというふうであった。しかし貧乏な連中となるとその難儀はひどいものであった。そしていよいよ生活に困ると田舎に迷惑をかけるということになる。そのために田舎の街が騒然となることもしばしばであった。時には避難民を逮捕することもあった。しかし逮捕したところでさてどうするというあてもなく,罰するつもりも大してあるわけではなかった。結局無理やりに追いたてるだけの話で,そんなわけで避難した者もやむなくロンドンに舞い戻るという事であった。
身寄りのない多くのロンドンの難民がいたる所の田舎に逃げていって,小さな仮小屋や納屋や離れ家などを作ってそこに住んだということも事実であった。もちろんそれができるのは地方の人たちの好意を得ることのできるところに限られていた。特に少しでも自分たちの健康の証明や,ロンドンを出たのはそんなに最近ではないということの証明をはっきりさせることの できたところではそれは容易であった。このほかこれまた大勢だが,野原や森の中に掘立小屋・避難小屋を作って住んだり,洞窟の中で仙人みたいな生活をした人々も大勢いた。そういうところでの生活がどんなに苦しく困難であるかは容易に想像できる。しかし終いにはどんな危ない目にあっても構わないという気持ちになって多くの者はロンドンに帰っていったのである。そのために掘立小屋で空っぽのままのものがずいぶんたくさん残っていた。田舎の人はこれはてっきりペストにやられて,小屋の住人が死に絶えたものと思い込んで近づこうともしなかったものである。かなり長いことそういう状態が続いた。
不運な放浪者の中には孤立無援のままに 人に知らず住んでいた者がいた。ある時などはテントだか納屋だかの中に一人の男が死んでおり,すぐ近くの畑の門のところに不揃いな字で次のような文句がナイフで刻みつけてあった。
もういけナイ
二人ともスグ死ぬ
ああ
テムズ川下流では,いわゆる「沖泊」というのであるが,幾層もの船がずっと纜(ともづな)を結び,列をなして停泊していた。聞くところによればこういう状態は下流のクレイブゼンドに至るまで続いていたということであった。波風の心配がなく安全に停泊できるところならずっと下流に至るまで,ほとんどあらゆるところでそういう光景が見られたということであった。そのような船に乗り込んでいた人たちでペストにかかった人の話は私はまだ聞いたことがなかった。乗っている人たちが上陸して近い町や村や百姓の家に新鮮な食料品・鶏肉・豚肉・牛肉などを買いにしばしば出掛けたにもかかわらず,誰も病気にかからなかった。ただ例外としてはプールやずっと上手のデッドフォド入江辺りに停泊中の船は相当にやられていた。ロンドン橋から上流にいた船頭たちも,我勝ちにと上流へと逃げていった。その大多数の者は彼らの天覆いや鏨(たが)を上からかけた船に家族を乗せていた。寝るためには船底に藁を敷き詰めていた。こういう有様であって,船頭等は川沿いの沼地にずっと上の方まで停泊していたのである。ある連中は昼間は川岸にちょっとしたテントを張って休んで,夜になると船に戻っていくという生活をしていた。話に聞くとこんな状態で川岸に沿ってずっと上流まで長蛇の列の船が並んでいた。何か食べ物が手に入るところ,その近辺から何か買えるところならばどんな遠いところでもその遠さをものともせずに船の列が続いていたという。事実田舎の人は紳士はもちろんのことその他の人たちもこういった緊急の際は喜んで援助の手を差し伸べた。ただしかし船頭等を自分の町や家に入れてやろうとは絶対にしなかった。それは無理無理もないことであった。
ロンドン近隣町村の住民が,感染を恐れて逃げてくるロンドン市民に対して残酷な態度に出たことが非難されていたことは私もよく知っている。実際無慈悲なことも行われていた。しかし自分の身に危害を加えられる事が明らかでなければ,ともかくそうでない限りは信仰の人々は良心に恥じない程度の慈善と援助の手を喜んで彼らに差し伸べていたことも私としては言っておかなければならない。しかしどの村も結局自分が可愛いことに変わりはなかった。従って苦し紛れに逃げ出したロンドン市民たちは結局虐待されて,とどのつまりロンドンに追い返されるという場合が実に多かったのである。当然ロンドン市民の間には近郊の町や村に対する喧々囂々たる不満がこだました。その非難の声は終いには収集できないほどになった。ところで町村側の警戒にもかかわらず,ロンドンを中心とする半径10マイル以内にあるちょっと名の知れた町や村ではペストに侵され,また若干の死者を出さなかった地はひとつもなかったのである。
この他にロンドン市民に対する田舎の人々の警戒心を一層強めさせたもう一つの問題があった。それは特にロンドンの貧乏人に対する警戒心であった。このことには,既に病気にかかった人たちの間に今度は病気を他に伝染してやろうという恐るべき傾向があるらしいということであった。このことについては医者仲間で議論が戦わされた。こういう傾向はこの病気のしからしめるところだと説く医者もいた。その説によれば,病気にかかった人間には自分の仲間に対する一種の狂乱と憎悪の念が例外無しに生まれる。病気そのものの内に他の人に伝染してやろうという悪性なものはあるばかりではなく,患者の性格の中にもそういう悪性が現れてきて,ちょうど狂犬病の場合と同じく,他にも悪意をもって悪い目つきで見るようになるというのである。狂犬病にかかった犬はどんなに大人しい犬であってもたちまち手当たり次第に飛びかかってくる。それも以前よく懐いていた人であろうとなかろうと構わずに食いつくと言われる。それと全く同じだというのである。人間の性質のものが腐敗しているからだという説明をする人もいた。つまり同じ人間の仲間でいながら自分だけが他のものよりも悲惨な状態にあるという事実に耐えられずに,あらゆる人間が自分と同じぐらい不幸な目に遭うか哀れな境遇に 落ちて欲しいという欲望を持つに至るというのである。
ロンドン市民が徒党を組んで大挙して押し寄せてくる,それも助けを求めるためどころか略奪しに来るのだという情報が田舎の人々の耳に伝わって皆愕然としたそうであるが,そう驚くのをもっともなことだと思われる。その情報によれば市民たちは病気にかかったらかかりっぱなしにただやたらにロンドン市内を右往左往しているとか,患者の家を検査して患者が他の人に感染させるのを防ぐのという何らかの手段を講じられていないとか,そういったことは言われていたのである。
しかしこれはロンドン市民の名誉のために言っておかなければならないが,先に述べた特殊な場合を除いては,伝えられたようなことは絶対に行われなかったのである。むしろ万事が綿密な考慮のもとに処理されていったというのが真相であった。ロンドン全市はもちろんその郊外も市長と市参事によって見事な秩序が保たれていたのである。外教区(アウト・パリシュ)では治安判事と教区役員が見事にその責任を果たしていた。そんなわけでペストが最悪の猛威を振るった時期でも立派な統制が取れて見事な秩序が市内至る所に保たれていた。
これについてただここで述べておきたいことは,ある一つの事が主として治安関係の役人により慎重な配慮によって達成されたということである。そしてこのことは彼らの名誉のためにも言わなければならないことだと思うのである。それは何かと言うと家屋閉鎖という困難な大事業をやるに際して彼らの取った緩急よろしきを得た措置である。家を閉じてしまうということは市民の非難の的であったことは事実である。当時としては市民唯一の非難の的と言っていいほどであった。同じ家に患者も健康の人も一緒に閉じ込めてしまうことは誰にも残酷なことと言われていた。そうやって閉じ込められた人の訴えるこえは悲惨の極みだった。その声は道路を歩いていても聞こえるほどであった。それを聞くと同情の念が悠然として湧き上がってくる。時には痛切な怒りの念を覚えることもあった。家の人々が友人と話ができるのは窓のところからだけであった。その悲痛な訴えは話し相手の心を動かすことはもちろん,たまたま通りかかった人の心を動かすことも再三あった。こうやって閉鎖された家から色々秘術を尽くして監視をごまかしたりへこましたりして逃げ出そうとする話や,実際に逃げ出した人々の話もあった。そのことにはしかし治安当局が閉鎖された家の人間に対する処置にかなりな裁量を加えていたことは言っておきたい。ことに家人が病人をペスト病院か何かに本人の希望に応じて移す場合,あるいは病j.人自身が移される場合などかなり酌量が払われた事を言っておきたい。
■1665年8月,9月,第二波絶頂期
8月・9月の1番の絶頂期に病気にかかった人間で死を逃れた人間はまずいなかった。この頃の病状は6月・7月・8月初旬の頃の一般的病状と全然違っていたということである。初夏の頃に病気にかかった人間は,かかったままで何日も生き続け血管の中に病気の毒を養ったあげくぽっくり死んでいった者が多かったのである。ところが今度は反対で,8月後半の2週間〜9月前半の3週間後に病気にかかった人間はどんなに長くても2〜3日でだいたい死んでいった。かかったその日に死んだ人間も多かった。こういう無残なことが起きるのは暑い土用のせいかそれとも占星術師が言うように狼星(Dog Star)の感応力からしめることかどうか私は知らない。それとも前から持っていた病気の種子がこの時期になって一気に発育したもの かどうかも私は全く知らない。とにかくこの時期は一晩で3000人以上の死者が報告された時期であった。事実を詳しく調べたと敢えて称する連中が伝えるによれば,死者はすべて2時間以下の間に,つまり午前1時〜3時までの間に死んだそうである。以前に比べてこの時期になって病人の死に方があまりに唐突になった事についてはその実例がおびただしくある。
私の近所だけでもいくつかあげることが出来る。ロンドンの関門の外側の私の家からさほど遠くないところに住んでいたある家族は,月曜日に全員健康そうに見えていた。家内は10人家内であった。ところがこの月曜日の夕方に女中1人と小僧1人が発病し翌朝に死んだ。同時にもう1人の小僧と主人の子供2人が発病して3人はその夕方に死に,残りの2人が翌週の水曜日死んだ。こういうわけで土曜日の昼までに主人主婦,4人の子供,4人の方奉公人全員が死んでしまった。家ががらんとなった後にはただ一人亡くなったその主人の兄弟の依頼で家財道具を片付けに来ていた老婆だけがぽつんと残っていた。その兄弟というのはあまり遠くないところに住んでいて病気にかかっていなかったそうである。
おびただしい家屋がらんどうになった。
ロンドン関門の少し向こうのところであるが,先ほどの地区を進んでいくと「モーゼとアロン」という街の標識があった。そこから入っていった小路などなどひどいものであった。 何軒かかたまった地区では全部合わせても一人も生きている人間はいなかったという。小路の死者があまりに多くて埋葬人や墓堀人に埋める通告を出す人がいなかったという状態であった。
市民はあまり悲しみのどん底に陥って生きる望みを失って自暴自棄になった状態が続いた。すると最悪の3週間から4週間を通じて意外な現象がおk8た。つまり市民がやたらに勇敢になったのである。たがいに逃げ隠れをもなくなったし家の中に人に閉じこもるのも辞めてしまった。それどころか,どこだろうがそこだろうが構わず出歩くようになった。相手がまず話しかけるようになった。片割れの人間に向かって次のように言う人もいた。
「あなたのご機嫌を伺っても仕方ないし,私の機嫌のことを言っても仕方がない。ともかく一同揃って迎えが来たらいくわけですから。誰が病気で誰が健康だと言ったところで始まらない」
そんなわけで平気で公衆に混じり,どこへでもどんな人ごみの中でも出かけていった。平気で公衆の中に混じるようになるに連れて,教会にも群れをなして出掛けるようになった。席のそばに誰が座ってるかなどもはや問題ではなかった。悪臭を放つ人間と一緒になろうが,右がどんな様子の者であろうが介しなかった。累々と積まれた死体であるとでも考えているのか,教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば生命は価値を持たないとでも考えているようであった。熱心に教会に来て真剣な表情で説教を聞いている姿は全く驚くほどであった。そういう光景を見ていると彼らの神を拝むということをどれだけ重要視してるかは明らかだ。
この他にも思いがけない現象が生じた。市民が教会に行って説教壇上の人間を見てもそれが誰であろうと従来のような偏見に満ちた態度を一切示さなくなったこともその一つであった。
病気の最も激しかった頃の私の見聞について話を続けよう。
もう9月になっていた。この9月ほど悲惨な9月をいまだかつてロンドンは味わったことが無かったのではないかと思う。
以前にロンドンに起こった悪疫流行の記録を全部見てみたが今度のような惨状はいまだかつてなかった。8月22日〜9月26日までの僅か5週間で,死亡週報の報ずるところによれば,ほとんど40000人からの人が死んでいた。これでだけでも膨大であったがこの計算がすこぶる不十分なものだったと信じる理由があった。その理由を知ればこの5週間のどんな週でも週に1万人以上の死亡者数がいて,その期間の前後の週にもそれ相応の死者があったことを読者にも容易に信じていただけよう。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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Defoe「ペスト」〜17世紀ロンドンに流行した疫病の記録
それは確か1664年9月初旬のことであったと思う。近所の人たちと話していた時に,私はふとペストがオランダに流行りだしたという噂を耳にした。「また流行りだした」というのはその前の年の1663年にオランダはこのペストのためにひどい目に遭っていたからである。
特にアムステルダムとロッテルダムはその中心地であった。なんでもその時の話の様子では,あるものはその疫病はイタリアから入ってきたと言い,またある者はレバント地方から紀行したトルコの商船 で運ばれた貨物にくっついて入ってきたのだとも言った。いやあれはクレタ島からであるというものもいたし,サイプラスからだと言う者もいた。
しかしどこから疫病がやってきたかは問題ではなかった。問題は再び疫病がオランダに流行りだしたということであった。これには誰も異存はなかった。当時まだ新聞などという報道を伝える印刷物はなかったし,その後長生きしたおかげで私も実際に見てきたような嘘八百を並べ立てては風説や報道をさらに煽り立て様と言ったメディアはなかったのである。
■1664年11月
政府当局は真相については正しい情報を持っていたらしく,国内侵入を防ぐ手段を講じようとしてしばしば会議を開いていたようであった。しかし実際は秘密にされていた。そういうわけでその噂も自然に立ち消えになっていき,我々も元々大して我々に関係したことでもなかったのだという風にいつのまにか忘れかけていた。またあれは本当ではなかったらしいとホッとしたような気にもなっていた。
しかし同じ年1664年11月下旬だったか,それとも12月上旬だったか,突然二人の男がロングエイカーでドルアリ通りの上手の家で疫病のために死んだのである。二人が泊まっていた家の者はできるだけこのことを隠そうと努めたらしい。しかしいつのまにか近所の話題になって,当局者の知るところになった。このことは直ちに教区役員に正式に報告され,教区役員はまた教区役員本部に通報した。死亡週報にはただ簡単にこともなげに
感染 2
感染教区 1
という記事が掲載された。これを見た市民の不安は大変なものであった。ロンドンは上を下への大騒ぎになった。
■1664年12月
その折も折同じ1664年12月の最後の週に同じ家で同じ病気で死んだ者がもう1名でたものだから,その不安には一層大きくなった。しかしまたそれから6週間ばかり平穏無事の日が続いた。その間死者でベストに犯された痕跡を示していたものはなかった。「悪疫は退散した」などと言いあったりした。
■1665年2月
しかしそれも束の間のことで,翌年1665年2月12日頃だと記憶するが,死亡者が1名が同じ教区の別の家からでた。区域も同じなら病気の経過をまた同じであった。
こうなると全市民の目は自然その界隈に注がれるようになった。セントジャイルズ教区の死者数は普段よりもグッと跳ね上がっているのが死亡週報にはっきり表れていた。したがってその界隈の住民の間に疫病患者がいるらしいということが恐れられた。またできるだけ世間の目から隠そうとも勤めていたが,それにもかかわらずおそらく大多数の人が疫病で死んだと思われた。この不安は深刻に市民の頭に染み込んいったようであった。
死亡者数の増加は次の通りであった。
セントジャイルズ インザフィールズ教区とホウボン区のセント・アンドルー教区の一週間の普通の死体埋葬数は多少の増減はあるがだいたいにおいて12〜19というところであった。
ところがセントジャイルズ教区に初めてペストが発生してからというもの,普通の病気による死者数が著しく増加してるのが認められた。例えば
12月27日〜01月03日 34
01月03日〜01月10日 30
01月31日〜02月07日 44
02月07日〜02月14日 24
すべての教区の死亡者数は普通240〜300の間であった。300という数字でも相当に高い死亡者数であると考えられていた。ところがベスト発生以後死者数はみるみるうちにうなぎ上りに上がっていった。すなわち
12月20日〜12月27日 291
12月27日〜01月03日 349
01月03日〜01月10日 394
01月10日〜01月17日 415
01月17日〜01月24日 474
この数字の増加は前回のペストの流行の1656年以降わずか一週間としては実に未曽有のものであってその点まさに恐るべきものであった。
しかしながらこれ以降は何事もなく済んでしまった。天候は寒くなって,前年12月に始まった寒気はほとんど2月の終わりまで衰えずに寒さは極めた。その上まるで肌を刺すような風が吹いた。
死亡者数はずっと減ってロンドンは再び生気を取り戻した。誰も彼も危険はもうさったも同じだと思い始めた。ただそれでもなおセントジャイルズ教区の死者数だけは相変わらず相当なものであった。
■1665年4月
セントジャイルズ教区の死者数は特に4月上旬からはその数は毎週常に25を下らなかったが毎月18〜25日に至る1週間ではこの区域で埋葬したした死体の数だけで30に達した。そのうち
疫病によるもの 2
発疹チフスによるもの 8
ということになっていた。しかし発疹チフスと言っても本当は疫病だと考えられていた。同じような理由で全死亡者数の中でこのチフスのために死亡した者の占める数もずいぶん増えてきた。前の週に8であったものが今週では12といった具合であった。これには我々も再び驚いた。深刻な憂鬱の色が市民の間に漂い始めた。特に気候もだんだんと暖かくなってゆこうとしていたし,夏もおっつけやって来ようという気配であったので一層深刻な物があった。
その翌週にはまた希望の色がみえ始めた。死亡率が下がってロンドン全市を通じて死亡者数はわずかに388人で,疫病によるものは一人もなく,チフスもわずか4人であった。
■1665年5月
しかし次の週にはまたぶり返してきた。疫病は他の2〜3の教区,すなわちボウモン教区,セントアンドリュー教区,セントクレメントレインズ教区にも蔓延していった。しかもその上市民を慄然とさせたことはとうとういわゆるシティ(城中)のセントメアリーチャーチ区域に1名の死亡者を出したことであった。
つまりその場所は正確に言えば 食料品市場の近くのベアバインダー通りであった。この週の死者数のうち疫病によるものは9人,発疹チフス6人であった。しかしさらに調べてみるとこの日ペストバインド通りで死亡した人はフランス人で,かつてはロングエーカーの感染ホテル近くに住んでいたこともあって病気にかかるの恐れて移ってきた人であることが分かった。ところが実にはその人はもうすでに病気に感染していたのを本人が気づかなかったのである。
これが5月の初めのことであった。まだ気候は温和でしのぎやすく程よい涼しさであった。従って市民は未だ幾ばくかの希望を持っていた。こんな風に望みを繋いでいたのは次のような事情もあった。それはロンドンがまだ健全と思われていたことだった。97の教区のうちで疫病に倒れたものはわずか54人に過ぎなかったからである。我々も病気の蔓延しているのはロンドンの中でも専ら問題になっている端の方の教区にすぎない。従ってそれ以上広まる心配はあるまい。そう高をくくり始めた。
5月の9〜16日までの7日間わずかに死亡者数は3人になった。しかもそのうち一人も市内・自由区にはいなかったのである。セントジャイルズ教区では患者が32もあったことは本当であるがそれでも疫病にかかって死んだのはわずか1名に過ぎなかった。こう死亡率が下がってくるとそろそろまた市民たちは安堵の笑みを浮かべるようになった。前週の死亡者はロンドン全体で347人。今週はそれが343人になっていた。
次の死亡通報は5月23〜30日までの期間。セントジャイルズ教区の死亡者数は実に53というまさに戦慄すべき数であった。このうち疫病によるものは9と公表されていた。しかし市長の要請に基づき治安判事たちが徹底的に調査したところ,その区域で実際に疫病で死んでいたものはこの他にも20人もいたということが判明した。しかしこのようなことはこの後に起こった事柄に比べたら全く取りに取るに足らない事柄であった。
■1665年6月
気候はもうすっかり暑くなった初夏6月第1週頃からはこの疫病は恐ろしい勢いで広がっていった。
6月第2週目を迎えるようになると,セントジャイルズ区域では死亡者数は120になった。このうち死亡通報の伝えるところによれば疫病によるものは68に過ぎなかった。しかしこの疫病のいつもの数字の数から考えてみてどう転んでも100人は疫病で死んだに違いないと誰も彼もが信じていた 。
■1665年7月
すでに7月の半ばになっていた。疫病は主としてロンドンの向こう側の地区でイレブン教区及び保護区域のセントアンドリュー教区やウエストミンスター教区よりの地域などで猛威を振るっていた。
私の住んでいる地域に向かって徐々に疫病地帯が移動していた。それは文字通りの東進であって,しかし決して我々の方に向かってまっしぐらに進んできているのではなかった。例えばシティ(城中)はまだまだ相当に平気であったし,川の向こうのサザン教区にもあまり進出してきてはいなかった。
この週の死者数は約1268人でうち疫病によるものは900人以上と考えられていた。一方シティ(城内)ではわずか28人の犠牲者に過ぎなかった。一方セントジャイルズ教区とセントマーティンズ・インザフィールズ教区の二つの教区だけでも実に421人の死者を出していた。しかしこの疫病が陰惨を極めたものは,何と言っても城外区(アウト パリス シティ)つまりかつての城の周辺にある区域だった。何しろ人口が多い上に貧乏人が多いのである。疫病は一層餌を求めて荒れ狂っていたのである。
とにかく病魔は次第に自分たちの方に近づいてくるのを我々は認めていた。すなわちクラーケンウェル教区,クリップゲート教区,ビショップスゲート教区などの区域を追加して迫って来ようとしていたのである。特にこの二つの区域はゴールドゲート教区,ホワイトチャペルし教区などの区域に接していたのであるが病気がいよいよ迫ってきた時にその凶暴さは非常な猛威をふるった。 最初に発生した西部の区域で次第に病気の勢いが衰えていった時でさえも依然として激烈を極めているというふうであった。
7月8日〜7月11日の間に セントマーティンズセント教区・ジャイルズ教区の二つの教区だけでほとんど400人の人がベッドに倒れた。にもかかわらずオールドゲート教区では4人,ホワイトサドル教区では3人,ステファニー教区では1人これだけしか流れなかったこれには我々も驚きを禁じえなかった。翌週7月11〜18日に至る間にロンドン市全体の死亡者数が1761人であったにも関わらず,テムズ川の向こうのシティ地区では疫病に倒れた者はわずか26人であったのである。
■1665年8月
しかしすぐに形成も一変してくる。ゲート教区を始めクラーケンウェル教区などにおいて猛勢をたくましくしつつあった。
例えば8月第2週までにクリップゲート教区だけで886人の死亡者数を出してクラーケンウェル教区も155人の死亡者数を出したが,このうちクリップゲート教区においては実に850人が疫病に関しているものと推定された。
クラーケンウェル教区でも死亡者数ホノルルところでは145人がすぐにあるとのことであった
08月22日〜08月29日 7496
08月29日〜09月07日 8252
09月07日〜09月12日 7690
09月12日〜09月19日 8297
09月19日〜09月26日 6470
8月のロンドンの人口は1月のそれの1/3もなかった。ロンドンの風景は今や全く一変してもはや昔日の面影はなかった。あらゆる大きな建物を始め
シも自由区もウエストミンスター地区もすべてが一変してしまったのである。ただあのシティと言われる特別な一角。あそこだけはまだ被害を受けてはいなかった。しかし一般の様子は前にも言ったようにすっかり面目を一変してしまっていた。どの人間の顔にも悲しみと憂鬱が漂っていた。まだ破壊的な打撃を受けていないところもあったが誰も彼も一様に不安に怯えた顔つきをしていた。私はこの在り様をそっくりそのまま伝えることができたらと思う。近親者の死を悼むために正式の喪服をつけたりする者は一人もいなかった。街にはそれらしい葬式の姿は見られなかった。しかし悲しみの声は街に溢れていた。。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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gamenotatsujin: 死の舞踏〜ペスト流行の歴史
死の舞踏
メメント・モリ(MEMENTO MORI)とはラテン語でいつか自分が必ず死ぬことを忘れるなという意味でもあり,警句でもある。起源は旧約聖書のイザヤ書にある。フランスのル・ピュイのゴシック後期の修道院教会の聖歌隊席(コール)の裏手に有名な「死の舞踏」が描かれている。PS:イザヤ書22:13 しかし,見よ,彼らは喜び祝い牛を殺し,羊を屠(ほふ)り肉を食らい,酒を飲んで言った。「食らえ,飲め,明日は死ぬのだから」と
関連記事:http://web.archive.org/web/20071228223637/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/297.html
■聖書物語〜イザヤ書
https://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/140.html
第二イザヤはトインビーによると「千年期・the Milleniumの間支配する王は,まだ神自身ではなく,単に別の代理者,すなわちメシアにすぎない。しかし,この世界が”別の世界”によって取って代わられるまでの間,”この世界”に出現する奇跡的な”至福千年期”=エデンの園(神の国ではなくて地上の楽園)の思想は,異なっているばかりでなく,結局において互いに相容れない二つの思想を妥協させようとする支持しがたい試みである。第一の思想,すなわち,第二イザヤ書の思想は,奇跡的に改善された未来主義的な現世王国の待望である。第二の思想は,”神の国=CIVITAS DEIは時間のうちに存在するものではなく,別な精神的次元に置かれているものであって,このように次元を異にしているからこそ,かえってわれわれの現世生活の中に浸透し,それを変貌させることが出来る,という思想である.......千年期の終末観思想が不可欠な思想的はしごの役目を果たしたかも知れないが,一度上に登ってしまえば,もうそのはしごはなくなっても差し支えない」(トインビー注;千年期が俗に未来の”黄金時代”の意味で用いられるのは,ここからきているのである)
キリストが王として統治する王国は,アカイメネス朝の王をユダヤ人の王に変え,おまけに未来に投影した,世界征服者としてのメシアによって打ち立てられるいかなる王国とも,同じ標準で計ることができない。ピラトに,「あなたの言うとおり,わたしは王である」と答えたのち,「私は真理についてあかしをするために生まれ,また,そのためにこの世にきたのである」<ヨハネ福音書,18・37>。この思いがけないことばは,あるいは無視することも出来よう。
このCIVITAS DEI(神の国)がいやしくも時間の次元に入ってくる限りにおいては,それは未来の夢としてではなくて,現在に浸透する精神的実在としてである。もしわれわれが,実際にどうして,神のみこころが天に行われているとおり,地にも行われるようになるか,ということを問うとすれば,その答えは,神学特有の表現を用いて言えば,神の遍在という概念の中には,超現世的平面における超越的存在だけでなしに,現世における,また,現世に生きるあらゆる人間の魂の中における内在が含まれる,ということになる。
キリスト教の神観では,神の超越的な面(あるいは”ペルソナ”(三位一体の神のおのおのの位格)は”父なる神”のうちに現れ,内面的な面は,”聖霊としての神”のうちに現れる。しかし,キリスト教の信仰の独特の,かつもっとも重要な特徴は,神が二元的存在でなくて三位一体であること,そして”子なる神” としての面において他の二つの面が統一され,この神秘によって,人間の頭では理解できないが,人間の胸ではっきりと感じることのできる一つのペルソナを形成していることである。”まことの神”であると同時に,”まことの人間”であるイエス・キリストのペルソナのうちに,神の社会と現世社会は,この世ではプロレタリアートの間に生まれ,罪人として死ぬが(注:バラバかイエスかという意味で),別の世界では”神の国”の王,神そのものであるところの王となる, 共通の成員をもつ。一方は神的で他方は人間的な二つの性質がどうして単一の人格のうちに同居しうるのだろうか。この問いに対するいくつかの答えが,信条の形で,キリスト教父の手により,ヘレニック社会の哲学者の専門語を用いて作り上げられている。
霊界はなぜ時空ゼロか
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1620698.html
道をたずねた。
老婆は答えた。
上さまに行けば山,
下さまに行けば海。
どちらに行けば極楽でしょう。
どちらさまも天国,
どちらさまも地獄。
世界はあんたの思った通りになる。
文・藤原新也(メメント・モリより)
https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-090_1.html
14世紀からヨーロッパで広がった死者と生者が踊る図や詩を「死の舞踏」という。
1346〜7年に始まり、1348年にヨーロッパで大流行した疫病、黒死病はペストと考えられている。ペストの大流行のころから教会や墓地に「死の舞踏」といわれる壁画が描かれるようになった。その壁画は、生きている人と死者(骸骨やミイラになっている)が一組になり、死者が生者の手を取って行列を作って踊りっている図である。特徴的なことはそこに描かれた人人は、ローマ教皇や皇帝、国王、王女から枢機卿、司祭などの聖職者、騎士や領主、商人や農民、さらに子供までが含まれており、死はそれらの身分や立場を超えて平等にやってくることを示している。これらの絵は「ダンス=マカブル」と言われ、14世紀の初めにフランスの罪なき聖嬰児聖堂の壁画が最初であるらしく、その後ブルターニュなどの地方に広がり、さらにドイツやイタリア、イベリア半島などほぼヨーロッパ全域の教会堂や墓所の壁画に描かれるようになった(その多くは宗教改革の時代に破壊されたり、上から漆喰が塗り込められてしまったが、最近になって原状のままで発見されたものも出ている)。
その起源は諸説あるが、死者を悼む踊りとして元々あり、黒死病の大流行に直面した人びとが死と向き合うようになり、このような絵を描いたものと思われる。生者に対して常に死を忘れるなと言う、「死を忘れるな!」(メメント=メモリ、死を想え!ともいう)という言葉が当時広く説かれたことに関係が深い。
■死の舞踏
木間瀬精三『死の舞踏』より
また、「死の舞踏」は教会堂の壁画だけでなく、その写本が出版されるようになり、写本の形で残っているものも多い。15〜16世紀にもその流行はつづき、表現はさらに深められ、著名な画家であるホルバインのように、死の舞踏をシリーズで出版し、広く受け入れられたという。
図は、1342年にパリの罪なき聖嬰児聖堂記(サン=ジノサン聖堂。16世紀にアンリ4世の暗殺現場となったため取り壊されてしまった)の壁画を元にして、1485年にギュイヨ=マルシャンがパリで出版した本に掲載された「死の舞踏」の一場面。この図では左側が枢機卿、右側が国王がそれぞれ骸骨と手を組んで踊っている。<木間瀬精三『死の舞踏 西欧における死の表現』1974 中公新書>
■「死の舞踏」流行の背景
(引用)暮れなずむヨーロッパ中世に影を落とす生者と死者の舞踏行列。骨と化し、あるいは、内臓や皮膚を残す干からびた死者たちが、身分の貴賤、老若男女を問わず、生きている者たちの手を取って墓場へと誘う。生者たちは、さまざまなポーズをとりながら、過ぎ去りし人生をふり返っては嘆き悲しみ、また、いとおしむ。・・・・‘ダンス・マカーブル’。のちに「死の舞踏」と呼ばれる絵図である。それは苛酷な時代であった。まずはカトリック教会の危機があった。ローマ教皇が南仏のアヴィニヨンに幽閉されたことに始まる教会分裂(1309〜77年、教皇のバビロン捕囚)と、それにつづいて、ローマとアヴィニヨンに二人の教皇が立つという大分裂(シスマ、1378〜1417年)である。かたや世俗世界では、イングランドとフランスの間に百年戦争が起こった。1339年から1453年にわたって繰り広げられたこの戦いには、世俗の諸権力が巻き込まれて分裂する一方、国土は荒廃し、多くの人命が失われた。加えて1347年、シチリアに上陸した黒死病(ペスト)が瞬く間に北上し、全ヨーロッパの風土を洗い流していった。それらはカトリック教会権威の失墜、世俗権力の伸長、そして何より死亡率の上昇を促し、総じて、中世世界の変容を招いたのだった。死の舞踏が成立する背景には、中世後期の三大危機といわれるこれらの事件があったとされるのが通説である。<小池寿子『「死の舞踏」への旅 踊る骸骨たちをたずねて』2010 中央公論新社 p.3-4>
14世紀中ごろ、アジアからヨーロッパにかけて大流行した疫病は黒死病と言われ、ペストと考えられる。百年戦争の最中であった西ヨーロッパでは人口の3分の1が死んだと言われ、人口減少から封建社会の変質の一つの要因となった。その後もたびたび世界的な流行があった。
■14世紀の大流行
1346年から47年にかけて、コンスタンティノープルから地中海各地に広がった疫病の流行は、マルセイユ、ヴェネツィアに上陸、1348年にはアヴィニヨン、4月にはフィレンツェ、11月にロンドンへと西ヨーロッパ各地に広がり、翌年には北欧からポーランドに、1351年にはロシアに達した。発病すると高熱を出し、最後は体中に黒い斑点が出来て死んでいくので「黒死病(black death)」と言われた。恐ろしい伝染力を持つこの疫病は、現在ではペストと考えられている。
ペストの大流行の発生源は解っていないが、ペスト菌を媒介するノミがクマネズミから人間に移り、伝染させる。クマネズミはもともとヨーロッパにいなかったものが、十字軍の船にまぎれ込んで西アジアからヨーロッパに移り住んできたのだという。
ルネサンスへの影響 このときのフィレンツェにおける流行の様子は、ボッカチォの『デカメロン』にくわしく描かれている。またこのころ、ヨーロッパ各地の教会や墓所には「死の舞踏」と言われる壁画が造られた。
百年戦争への影響 当時のヨーロッパは百年戦争の最中であり、英仏両国にも伝染し、戦局に大きな影響を与え、1358年のフランスのジャックリーの乱、1381年のイギリスのワット=タイラーの乱という農民反乱の背景ともなった。しかし、黒死病の大流行による人口の激減は、生き残った農民の待遇を良くすることとなり、農奴解放がさらに進むこととなる。またそのような社会変動の中から、人間性の解放を求めてルネサンスといわれる文芸や美術での動きが活発となっていた。
■黒死病の死者数
大流行は1370年ごろまで続いたが、ヨーロッパ全体での犠牲者は、総人口の3分の1とか4分の1と言われているが、正確な数字は不明である。ある説によると、当時のヨーロッパの総人口約1億として、死者は2500万程度と推定されている。このペストについては、当時の人々は流行の原因がわからず、一部ではユダヤ人が井戸に毒をまいたからだ、などという噂からユダヤ人に対する虐殺が起こったりした。<この項、村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 による>
資料 ボッカチォの『デカメロン』
(引用)さて、神の子の降誕から歳月が千三百四十八年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に恐ろしい悪疫が流行しました。それは天体の影響に因るものか、或いは私どもの悪行のために神の正しい怒りが人間の上に罰として下されたものか、いずれにせよ、事の起こりは数年前東方諸国に始まって、無数の聖霊を滅ぼした後、休止することなく、次から次へと蔓延して、禍いなことには、西方の国へも伝染してきたものでございました。
それに対しては、あらゆる人間の知恵や見通しも役立たず、そのために指命された役人たちが町から多くの汚物を掃除したり、すべての病人の町に入るのを禁止したり、保健のため各種の予防法が講じられたりいたしましても、或いは、信心ぶかい人たちが恭々しく幾度も神に祈りを捧げても、行列を作ったり何かして、いろいろ手段が尽くされても、少しも役に立たず、上述の春も初めごろになりますと、この疫病は不思議な徴候で恐ろしく猖獗になってきました。<ボッカチオ『デカメロン』野上素一訳 岩波文庫 第1冊 p.55-56>
『デカメロン』はボッカチォが1348〜53年の間に書いた物語集で、『十日物語』とも言われる。ペストの流行から逃れてある邸宅にひきこもったフィレンツェの10人の男女が10日間にわたり、1夜にそれぞれが1話ずつ退屈しのぎの話をする形式をとっている。
■その他の地域のペスト
14世紀の中ごろ、イスラーム圏のエジプトを中心としたマムルーク朝にもペストが広がり、人口が減少し、その国力が衰えるきっかけとなった。また16世紀にはヨーロッパからラテンアメリカに持ち込まれ、インディオの減少の一因となった。
■17世紀、19世紀の大流行
14世紀の大流行の後には、17世紀にヨーロッパ全域で大流行している。特に1665年のロンドンで大流行し、『ロビンソン=クルーソー』で有名なイギリスの作家デフォーが『疫病流行記』という記録を残している。ニュートンもこのとき感染をさけて故郷に疎開し思索にとつとめたという(下掲)。
ペストの最後の大流行は19世紀末に起こった。このときは中国から始まり、アジアで急激に広がり日本にも伝わった。しかし、1894年、流行の中心地香港に派遣された北里柴三郎がペスト菌を発見し、ノミがネズミから病原菌を人間に伝染させることが判明した。この流行は1910年代に収束したが、このときの北アフリカ・アルジェリアにおける流行を題材としたのが、アルベール=カミユの『ペスト』である。
■Episode ニュートンの創造的休暇?
1665年のイギリスでのペストの大流行が、科学の歴史上きわめて重要な副産物を残したとされている。というのは、ニュートンはこのときケンブリッジのトリニティ=カレッジを卒業したが、大学がペスト流行の凄まじさのために休校を繰り返していたので、しかたなく故郷の田舎に帰り、ぼんやりと日を過ごすうちに、光の分光的性質と、重力の逆二乗法則を、そしてさらに微積分計算の基本的アイデアを発見したと言われているからである。この「已むを得ざる」休暇とか、「創造的休暇」と呼ばれるエピソードはペストのもたらした最も大きな成果と伝え継がれてきたた。この話はニュートン自身が後年ライプニッツと微積分法の発明の先取権を争ったときに自ら証言したことであるが、どうやらよくある英雄譚の一つであるようだ。<村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 p.180-181>
おまけ〜預金封鎖は近いのか? 5年前のきじですが

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