2019年11月06日

田中稲: アイドル50年史〜アイドル戦略の変遷,おニャン子クラブはもう産まれない

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田中稲: アイドル50年史〜アイドル戦略の変遷,おニャン子クラブはもう産まれない
■アイドル誕生
かつてアイドルとは,基本的に「アイドル歌手」であって,そこでいう歌手は「歌謡曲の歌手」であった。「歌手の中で若くて可愛い娘」をアイドルと呼んだのか,「若くて可愛い娘を売り出すため歌でも歌わせておこう」だったのかはともかく,彼女たちの主戦場はテレビの歌謡曲番組であった。だからアイドルは歌手であると同時に「テレビタレント」でもあった。
アイドル史を語る際,1971年にデビューした
天地真理・小柳ルミ子・南沙織
の「新三人娘」あたりから始めるのが普通であるのは,「アイドル」という言葉が定着したのは1970年代頃からであったということと,アイドルとはあくまでテレビ文化の中の存在ひとつの存在であって,映画を中心に活躍した
美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ
ら「元祖三人娘」の違いとは一線を画するべきだということを示しているだろう。
山口百恵・桜田淳子・森昌子
の「花の中学3年トリオ」や
キャンディーズ・ピンクレディー
らの1970年代アイドルの人気によって,アイドル歌謡は歌謡曲の中の 末端ジャンルから中心の一核を担う一大ジャンルに成長した。
アイドルがテレビの歌番組を中心に活動しつつ,映画・ドラマ・バラエティ番組にも進出するという流れや,新曲キャンペーン・水着グラビア・グッズ販売などアイドルをめぐるビジネスのノウハウも確立されて,それら全てを含めて日本のティーンエイジャーたちを夢中にさせるアイドル文化なるものが確立されたのであった。
■歌謡曲の衰退,アイドル文化の進化
しかし1980年代に入ってアイドル達が直面したのはアイドル文化の母体である歌謡曲の衰退,あるいは変質であった。
レコード会社主導で職業的な作曲家・作詞家のチームによって生産される「歌謡曲」ではなく,フォーク系やロック系のシンガーソングライターが 発信する「ニューミュージック」の興隆へと時代は変化しつつあった。
1970年代的な歌謡曲の歌手の存在が陳腐化していく状況の中でデビューした松田聖子は,しかし逆にアイドル人気を盤石なものに押し上げた元祖である。
歴史に名を残すのは常に変革者である。アイドル史においてビッグネームとして語られるのは典型的なアイドルだった人よりも,むしろアイドルでありながらアイドルの枠をはみ出していた人たちなのである。
例えばキャンディーズはアイドル歌手なのにコントに本気で取り組んでいたという点で,SMAPよりもずっとはやい 。山口百恵はアイドルなのに可愛さを前面に出さずに,可愛さを全面にださずふてぶてしいまでの重厚な存在感で時代のスターになっていった。1980年,山口百恵の引退と入れ替わるようにデビューした松田聖子は,山口百恵が複雑な生い立ちからくる実人生の暗い現実感をイメージの核としていたのに対して,徹底的に人工的なアイドルのアイドルらしいかわいさを押し出した。「ブリっ子(可愛い娘ブリっ娘)」と揶揄されながらも聖子はフリフリのドレスにアイドルスマイルというイメージを押し通した。ピュアで可愛いアイドルを演じたわけだから王道路線・正統派アイドルと後に呼ばれることになるが,ドスの効いた歌姫・山口百恵が女王のまま引退した直後の歌謡界の空気を思い起こせば,これはむしろ大胆なギャンブルだったと言ってもいい。
もちろんただの逆張りだけなら掛けが当たりはしなかったろう。しかし松田聖子には圧倒的な歌唱力があった。ブリブリの清純派な松田聖子が天性の声質と歌唱力で松任谷由実や細野晴臣らニューミュージック系のアーティストが手がけた楽曲を歌う。ひとひねりもふたひねりもした複雑で高度な表現を提示することによって,松田聖子の成功はアイドルという枠を超え,歌謡曲かニューミュージックかという垣根をも超えて「ブリっこ」と揶揄した女性たちにもやがて支持されて超越的なスターとなっていった。
■アイドル元禄時代「花の1982年組」登場
新女王・松田聖子の君臨によってアイドル帝国は1980年代も維持されて,さらに拡大していくことになる。
このころになるとテレビでアイドルを見て育った子供達がアイドルになるという段階に入っていった。アイドルになりたいアイドル予備軍の少年少女も増えていく。右肩上がりの日本の経済発展のおかげで若者の消費力もアップして,トップアイドルが生み出す経済効果も莫大になっていく。
80年代的な「軽薄短小・軽チャー」化になっていく風潮に連れて,お手軽なタレントとしての B 級アイドルが入り込むエンターテイメントの隙間も広がっていく。かくして大量の新人が発掘されては消えていった。
1980年代において特に豊作の年として知られるのが1982年であった。
シブがき隊・早見優・堀ちえみ・松本伊代・石川秀美・三田寛子
ら「花の1982年組」からビッグな存在になったのは中森明菜と小泉今日子であった。
日本中の女子が松田聖子のヘアスタイルを真似た時代。「聖子ちゃんカット(前髪を下ろして眉を隠してサイドは外巻のレイヤーカット,近年では朝ドラ・あまちゃんで小泉今日子役の少女時代を演じた有村架純がこの髪型を再現して大ブレイクした)」が流行していた時代である。中森明菜・小泉今日子もデビュー当時は松田聖子のヘアカットで平凡に当時のアイドル路線に乗った新人の一人にすぎないように見えたのであるが,二人はそれぞれに独自の道を切り開い切り開いていく。
〜〜
中森明菜は松田聖子の逆を行き,山口百恵への回帰路線を進んだ。暗い曲・ハードな歌を歌い上げる歌姫路線である。
一方,小泉今日子(キョンキョンKYON2)はまた別の形で松田聖子に逆張りした。「ブリっ子」の否定である。小泉今日子はメタ・アイドルという独自の路線を切り開いていった。
歌唱力では劣る小泉が松田聖子や中森明菜と肩を並べる存在になった理由はそのアチチュード(態度)のおかげである。
当時の男子が想い描く乙女チックで大人しい美少女像を打ち破って,自分の言葉で語り,自分がおしゃれだとかカッコいいとか思った対象に素直に向かっていく。今ではごく当たり前の女性タレントの自己表現であるが,「好物はメロンと答えなさい」みたいにマネージャーから言われた通りに語り作られたアイドルを演じるのが当たり前であった時代,小泉今日子(キョンキョン)の態度は画期的であった。女も本音で語った方が人としてかっこいい。かわいい娘が 本音を語れば結局もっと可愛い。そういう新しいアイドル像・新しい可愛さのイメージを彼女は体現した。
歌よりもお芝居よりも「可愛い」を発信していたという意味で,キョンキョンはもっとも純粋にアイドルであった人だったのかもしれない。パフォーマーとしてのスキルよりも本人のキャラや態度の方が重要だというのは,パンク・ニューウェーブ・ヒップホップといった1980年代の先端のミュージシャンや現代アーティストのあり方にも通じている。
そしてこの時代に,「プロのアイドル」としてファンを魅了した時代が終わって,やがて「会いに行けるアイドル」へと移行していく。
■おニャン子クラブ登場
おニャン子クラブを初めて見た衝撃は忘れない。「ザ・ベストテン」でゾロゾロとあの銀色の回転ドアから入ってきた時に,真っ先に思ったのは単純に「なに?これ?」である。人数の多さに驚いた。今ならアイドルグループで10人以上など当たり前であるが,おニャン子クラブ以前のアイドルは多くても4〜5人程度であったのである。それが11人。しかも特別可愛くもない普通の女の子達が安っぽい T シャツとスカートを履いて登場したのである。
今から何が始まるのかと息を呑んで見守ると,
「今はダメよ我慢なさって」
「友達よりも早くエッチをしたいけど」
「バージンじゃっつまらない」
これまでのアイドル歌謡曲ではあえて遠回しで表現していた思春期の性を この彼女たちのデビュー曲である「セーラー服を脱がさないで」では直接的に乗せたアラレもない歌詞の連続で口あんぐり。時間の止まったのを覚えている。しかもそれが深夜枠ではなくゴールデンタイムであっけらかんと出てくる仰天。そしてこの歌が大流行した。
別の言い方をすれば,この曲の歌手はゴールデンタイムにお茶の間で流れたとしても耐えられる「薄さ」であったということである。
おニャン子クラブは最初から女性向けなどこれっぽっちも狙っていなかったし,メンバー達もこれをきっかけにスターになるという気合も見えなかった。あるのはひたすら10代の女性が持つ時間限定の可愛いオーラのみ。漂うのは「あわよくば止まり」の野心であった。
音程は揺れ揺れ。チームワークもへったくれもなくてまとまりのないパフォーマンス。誰もがこう思ったはずである。
「こんな付け焼刃のような学芸会グループは一瞬で消える」
そう思った。しかし意外な事にバブルという時代はその学芸会を大いに歓迎した。
お金とチャンスが飽和状態のバブル時代において,おニャン子クラブの玩具性とポケットティッシュのような使い捨て感はまさにお気楽でちょうど良かったのであろう。
そして彼女たちは同世代の男子からは恋愛感情や好奇心,女子からは軽蔑や嫌悪という様々な感情に支配されながら,バブルという時代とお金を吸い込みながら不気味に膨張していった。
おニャン子クラブは1985年7月1日,フジテレビのバラエティ番組「夕焼けニャンニャン」開始とともに番組内のアシスタントとして誕生。その3ヶ月後には「セーラー服を脱がさないで」でデビューして瞬く間に大ブレイク。驚くようなスピードでスター街道に乗っていく。
とはいえ「夕焼けニャンニャン」を見ていない者にとっては全く意味が分からない存在として映った。
おニャン子の活動期間は2年半。流動的とはいえ最終的に60人近くまでメンバーがいたにも関わらず,名前を知らないメンバーの方が多かったし,どんな楽曲か聞いたことがないのに1位になった曲もあった。当時のランキング番組では考えられないことである。
例えば 当時15歳11ヶ月だった渡辺満里奈のソロデビュー曲「深呼吸して」はオリコンシングルチャートで首位を獲得して,それまで山口百恵が持っていたオリコンシングルチャート女性ソロ最年少記録(「冬の色」)を11年9ヶ月ぶりに更新する偉業を成し遂げている。
しかしこのタイトルを聞いてちょっと口ずさめるどころか曲全体を知っている人も少ないのではないだろうか?
1985年から1987年は,おニャン子クラブのファンかそれ以外かでテレビを見る面白さが全然違ったはずである。「ファン以外」だった私にとっては本当に散々であって,おかげで現在も芸能界で活躍中の元メンバーに対しても全く良い感情を持っていないままである。
メンバーが実力も知名度も持たないまま ユニットやソロなどアメーバのように形を変えて様々な番組に侵食していく様子は,ファン以外にとっては本当に迷惑であった。特に音楽番組では中途半端な歌唱を毎回聞くことになってファン以外にはさっぱり面白くない番組に成り果てて,ランキングの価値すら分からなくなっていった。
確固としてあったアイドル市場を侵食して遠慮なく乗っ取って行ったおニャン子クラブのメンバーたち。
平成時代には AKBグループによってオリコンランキングは同じような被害にあってしまうことになるが,仕掛け人である秋元康は昭和・平成と2回ヒットチャートの基準を変えた事になる。
■おニャン子クラブはもう出てこない
1980年代後半・バブルの時代に花咲いた「おニャン子クラブ」というモンスター・アイドルであるが,解散後は日本の芸能界に「アイドル疲れ」という症状を産んで1990年代のアイドル業界を氷河期へと導いていく。
21世紀に入るとモーニング娘とAKB48によって「グループ・アイドル戦国時代」が幕を開けるのであるが,ここでいうグループ・アイドルはおニャン子クラブと似て非なり。特に同じく秋元康プロデュースのAKB48は「平成のおニャン子」とも言われたが,漂う雰囲気は真逆である。おニャン子クラブが「部活」であるのに対して AKB48 は「戦場」である。
前田敦子をはじめとした「神7」がまだ在籍していた頃の AKB48が「セーラー服を脱がさないで」をカバーしたことがあったが,まったく違うパフォーマンスを見せた。AKBメンバーの必死のカメラ目線は無駄に劣情を刺激するだけであった。真面目に大人の言うことを聞いて敷かれたレールを走ろうとする世代が歌うと笑えない曲である と痛感した。
おニャン子クラブは深く考えなくても大人がどうにかしてくれる。時代がどうにかしてくれる。そんなバブルの時代だからこそ笑っているされたユルさであって,心の隙であった。
おニャン子クラブはもう生まれない。おニャン子クラブを受け入れる余裕など今の時代にはないのである。
ー昭和の謎99/2019年秋号,田中稲コラム,

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1984年の娯楽
(YouTube元動画は削除)
1984年,インタビューでタモリは,
「戦後時代・黎明期のテレビは,家族がテレビの前で正座して,お父さんがテレビの扉をあけて,じゃあ観るぞって。そういうものだったでしょ。でも今のテレビって,床に寝転んで鼻クソほじりながら観るようなもんでしょ。
古典芸能の人たちって,そういう今の1980年代の観衆を理解できているのかなって思う。使い捨ての消費物。そこが理解できていないと。」
「陳腐化がすすむテレビ文化の中で,玄人芸のニーズは少ない,大衆娯楽の性質がもっと安価になっている。」
と語る。
「作り上げた芸」よりも「偶然性」,「思い付き」が大きなヒットを作る時代。そんな印象がある。
1984年の時点でテレビ受信機の性能はさらにたかまり携帯性まで備えるようになったと言っている。
社会学者宮川氏のメディア論ではこの時期(1980年代中期)はいわば
お茶の間テレビ文化>>>個室テレビ文化
への移行がおきた時代で,その背景には韓国・台湾製の安価なテレビが大量に市場に流れた結果,一人一人がテレビを持つようになって,この時点で世代間をつなぐ「お茶の間テレビ文化」が終わったといわれている。
そして1980年代半ばにはじまった「個室テレビ文化」は,インターネット・携帯電話がつくる「路上文化」がはじまる1990年代半ばまでつづく。
「個室テレビ文化」時代には,時代のテーマ・文化は各世代ごとに分化していく。
1960年代のテレビの民有化(一世帯一台時代)のはじまった時代から通してみると,
技術の進化>>>ガジェットの進化・低価格化がすすむ>>>共有化がすすむ>>>文化の分化・陳腐化がすすむ
という流れが一貫してすすんでいるようにかんじる。
それにしても
「20年後(2004年)には俺もタモリさんもテレビ業界にはいない」
とみるたけしの見方はシビアだ。。
演者・観者が構成する娯楽の場がどういう方向に向かっていったか。それをマクロ的にみるのは面白い。演者・観者,明確に立場が分かれた二者。演者の発想。観者の興味。観者の心を汲む演者。そういう場がどこへ向かっていったか。
構築性・構造性>>直感性・刹那性・開放感
というマクロなベクトルはあったのだろう。
悲観的な見方だが。ガジェット・コンテンツ共にその進む方向は陳腐化・分化だという事になる。

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posted by datasea at 21:57| Comment(0) | # アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする