2019年05月30日

[メンタルメモ]午堂登紀雄: 「ぼっち」の効用

午堂登紀雄: 「ぼっち」の効用
「ぼっち」最強。人はなぜ知性と金と人生を失ってまで群れたがるのか?=午堂登紀雄
2017年8月22日ニュース
道いっぱいに広がって歩く学生グループや団体旅行で大騒ぎしている人たちを見ればわかるとおり、人は群れると周囲への配慮を失い、利己的に行動します。(『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』午堂登紀雄)
あなたの人生の物語をハッピーエンドにしたいなら孤独を歓迎せよ
⬛群れることで知性を失う
学生の群れを見て「幼稚だな」、暴走族の集団を見て「ほかにやることないの」と感じた経験はないでしょうか。
居酒屋の前に大勢が集っているとか、道いっぱいに広がっている学生グループとか、団体旅行で大騒ぎしている人たちを見ればわかるとおり、人は群れると周囲への配慮を失い、利己的に行動するようになります。
彼らは、人が通る場所で迷惑がかかりそうとか、騒ぐのは恥ずかしいとか、ひとりの時なら発動するはずの「理性」が機能不全を起こしてしまっているのです。つまり、人は群れると知性を失いやすいと言えます。
これは企業の不祥事も同じ構図で、集団で行動しているからこそ、
「これはまずいだろう」
「これやっちゃいけないだろう」
と、組織を離れれば感じるはずの善悪の判断ができなくなってしまうのです。
一方、このような状況で「おかしい」と主張するのが、組織の中で孤立しているような人間です。彼らは人から嫌われること、孤独になることを恐れないから、おかしいと思ったことを堂々と主張できる。
普段はうっとうしい人でもあり、輪を乱す要注意人物ということにもなりやすいのですが、そんな異端児は組織の中のスパイスのような存在で、時に周囲を「ハッ」とさせることがあるのです。
ひとりなら自分で決めなければなりませんから、情報を集めて考えます。それこそ「知性を働かせる」人間の行為そのものではないでしょうか。
⬛ 群れることでお金を失う
群れるとなぜお金を失いやすいのかというと、お金の使い方を自分の判断ではなく、グループの判断に委ねられてしまうからです。
たとえば自分はもっと安いランチでいいのに、いつもの同僚たちが「あそこに行こうよ」となると、それに従わなければならない。グループ旅行でも、ホテルにお金をかけるくらいなら食事にお金をかけたいと思っても、グループの人たちの意志が違うなら、それに合わせないといけない。
周りの人がお土産を買っているのを見ると、なぜか自分も「買わなきゃ」という気になって「あの人とあの人に…」などと、買う予定がなかったお土産を買ったりします。
しかし1人なら、周りに流されることなく、すべて自分で決めることができます。
「マイペース」という言葉を聞くと、どちらかというと悪い意味に聞こえると思います。他人のことを顧みない、自己中心的な態度を想像させるからでしょう。
しかし私は、現代日本のような同調圧力の強い社会で自分らしく生きるには、「マイペース力」が極めて重要な能力になると考えています。
ここでいうマイペース力というのは、自分勝手という意味ではなく、自分の生き方を尊重する力のことです。
たとえば会社に行けば、自分の業務目標を立てさせられ、それを達成するよう迫られる。同期や後輩が先に昇進すれば嫉妬する。
周りがキャリア女子の独身女性ばかりなら、自分も安心してキャリアを優先する。しかし周りが結婚すれば、遅れないよう焦って婚活をする。
周りから、結婚はまだか、子どもはまだかと急かされることもあるでしょう。あるいは大学には行かなきゃ、子どもには大学までは行かせなきゃと、誰からも言われていないのに気にする。
このように、他人や社会から強いられたり比較されたり、自分で勝手に比較して、自分が望んでもいないのにそれが正しいと思い込み、本来は不要な不安や焦り、努力に巻き込まれる。
多少はやむを得ないことではありますが、孤独を恐れて群れようとするばするほど、周囲に迎合。
このような状態は、社会の価値観に強いられているだけで、自分の人生を生きていないと思えないでしょうか。私にはそんな窮屈な生き方は、人生を失うことに等しいと感じます。
しかしマイペース力を獲得すれば、他人がどうであれ気にすることなく、自分は自分の生き方があると自信を持って進むことができます。
周りが走り出しても、自分はゆっくり歩く。周りが立ち止まっても、自分は進む。周りが右に曲がっても、自分は左を向く。
自分の成長や生き方は他人に刺激を受けることもあるけれど、他人に乱されるわけではない。世間の言う成功と、自分が考える成功は違う。誰かが求める幸せと、自分が感じる幸せは異なる。だから周りの人は関係なく、自分はこれがいいと思う。
つまりマイペース力は、自分の価値基準を信頼する力であり、そのように行動する勇気です――
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※本記事は有料メルマガ『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』2017年8月21日号を一部抜粋したものです。興味を持たれた方は、ぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。
プロフィール:午堂登紀雄(ごどう ときお)
米国公認会計士(CPA)。1971年生まれ、岡山県出身。中央大学経済学部 国際経済学科卒。株式会社エディビジョン代表取締役。一般社団法人 事業創造支援機構代表理事。

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『マネーボイス』資産運用ニュース
2019年05月12日 日曜日
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日曜日の真っ昼間から、急に「焼肉」が食べたくなるのは、健康の証みたいです♪
故・小池一夫先生も「エレクチオンしているという事は身体が回復してきた証拠」と言っていましたし、たぶん同じ原理なのでしょう。
ただ・・・私は基本的に万年金欠状態ゆえ、激安七輪焼肉の『安安』で安安カルビを食べ続けるか、業スーで100g100円の「味付け牛肉焼肉用」を買うしかないのが、悩みだったんです。
そこに飛び込んできたのが、一人焼肉専門店『焼肉ライク』五反田店オープンのニュース☆
品川経済新聞によれば、開店初日は150人の行列ができていたとのことで、今どきの日本人はわりとみんな、金欠&孤独なのかも!?と思いました。
唯一PayPayが使える安安、最近クレカ払いに対応した業スー西小山店、新興勢力の焼肉ライク──かなり悩ましい選択ですが、今日の昼はライクを攻めます
(山内咲織)

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職場の人間関係に疲れたら
自分の社交性を把握した職業の選択
※本記事は有料メルマガ『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』2017年8月21日号の一部抜粋です。ご興味を持たれた方は、ぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。
【前編】お金だけで自由は買えない!最強人生を実現する「孤独力」の磨き方=午堂登紀雄
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「孤独力の欠如」が生む転落劇。なぜ犯罪者には無職が多いのか?=午堂登紀雄
2017年8月1日ニュース
「孤独に弱い人」ほど、社会に対して敵意を持ちます。
世間はなぜ自分に冷たいのか?
なぜ自分の思い通りにならないのか?
不満ばかりが溜まっていくのです。
今回は「孤独」との正しい向き合い方を考えてみます。(『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』午堂登紀雄)
「孤独」の光と影。あえて人を避けるなら次に転落するのは自分だ
⬛孤独力の低い人は社会に恨みを持つ
ひとりの時間を楽しめない人、つまり孤独力の低い人間は、ヒマがあるとろくでもないことを考えるようになります。
実際、犯罪を犯して逮捕される人の共通点はほぼ「無職」であるように、彼らは何もすることがなく孤独な状態になると、自分が何者なのか、何をすればよいのかわからなくなります。
彼らは、自分の思い通りにならない人生、今の不満な状態に対し、それを改善・解決するために何をすべきかに考えが及びません。なぜなら、そのような内面の作業の経験がないからです。
だから自分が何をするかではなく、世間はなぜ自分に冷たいのか、なぜ自分の思い通りにならないのかと、不満ばかりが溜まります。
それはやがて社会に対する敵意や憎しみとなり、放火や無差別殺人によって主張しようとします。
では、なぜそういう犯罪という形でしかアピールできないかというと、おそらく2つの理由が考えられます。
ひとつは、自分が注目を集めたい、自分という存在を見てほしいという欲求だけが強くなりすぎ、善悪の区別がつかなくなること。
一方、「良い行い」というのは、周囲に対するインパクトがありません。
ゴミ掃除をしても注目を集めることはありません。
しかし、犯罪は一瞬にして皆を振り向かせることができ、自分の思いを巨大化させて知らしめることができます。
もうひとつは、仕返しの感情です。
彼らは思考のレベルが浅いので、ざっくりと「世間」「社会」というあいまいなものに敵意を抱きます。具体的に誰に何を求めているのか、考えも及びません。だから対象は誰でもいいのです。
そして周囲に迷惑をかけ、慌てたり困っている人を見て安心します。
不幸なのは自分だけじゃないし、もっと不幸になった人を見て、「ざまあみろ」と自分の溜飲を下げているわけです。
思考のレベルが浅いがゆえに「その見返りとして何が得られるか」「その行為の結果、自分がどういう事態になるか」という想像力すら失くしてしまうのです。
⬛孤独に効く処方箋
こういう人に対する処方箋のひとつは、毎日疲れてバタンキューになるまで活動レベルを上げることです。
実はうまくいっていないという不満を持つ人ほど、日々の活動量が足りていないのです。
不満を感じるほど体力が有り余っているわけですから、何も考えられなくなるほど何かに必死で取り組むことです。
「疲れた、とにかくもう寝たい」
くらいにへとへとになれば、
「こんないたずらをしてやろう」
「こんなことをして社会に仕返しをしてやろう」
というエネルギーすら出てきませんから。
人間の本能として、過酷な状況下では、今日を生き延びようという生存本能が強く刺激されます。どうすれば生き残れるかという思考は、どうすれば成果を出せるかという前向きなメンタルの獲得につながります。
いたずらや仕返しは自分の生存とは関係ありませんから、そういう行為はひどく幼くバカバカしく感じられます。
かつて悲惨な事故があった某ヨットスクールも、そうやって多くの若者を立ち直らせてきたわけですから、行き過ぎただけで、心理学的には非常に理にかなっている方法と言われているのもそのためです。
実際、僧侶の修行は荒行だったという話を聞いたことがあるのも、肉体を過酷な状態に追い詰めることが、悟りを開くための精神の修養につながるのだと、昔の人も知っていたのでしょう。
そしてこれはそんな特別なことではなく、スポーツや営業の世界でも、過酷な練習や仕事を経験してきた人のほうが心が成熟しているというのは、どの分野でも同じなのかもしれません。
⬛本当に孤独な人間などいない
孤独になるのはイヤだからと、無理をしてでも誰かとつながろうとする行為。
繰り返しになりますが、それは自分を隠して接することですから、相手も心を開いてくれず、結果としてむしろ心の孤立を招いてしまいます。
つまり自分をさらけ出すことは、孤立しないようにすることです。
一方で、自立した人間は、孤独にはなりません。というより、孤独を楽しめるから孤独を感じることがないという方が正確でしょうか。
どんな人でも、自分から人間関係を避けようとしなければ、全員からハブられることはありません。学校でも、仮にネクラであっても、同じような人が近づいてくる。
パーティーでも、ポツンと1人で立っている人に声をかけるような人もいます。
あるいは、そもそも他者に興味関心が薄く、誰かをハブるとか疎外するとかいう発想がない人もいるでしょう。だから孤独を恐れて自分を抑えつけないことです。
⬛絶対的な孤独を求めてはいけない
しかし、孤独に悩む人の中には、自ら人間関係から距離を置く人が少なくありません。
たとえば男性に多いですが、自分から人付き合いを避け、社会から孤立していきながら、
「世間は冷たい」
「国は何もしてくれない」
と嘆くパターンです。
こういう「絶対的な孤独」に慣れてしまうと、ますます人間関係が苦手になります。
なぜなら、他者との距離感がつかめなくなるからです。
他人との関係があるから、自分の位置を確認できるし、他人との関係があるから、自分の個性を認識できるわけです。
絶対的な孤独の中では、自分を映してくれるものがないため、逆に自分がわからなくなることがあります。
たとえば無人島で1人で生きていれば、自分はこう考える、なんてことを考えることそのものに意味を見いだせないでしょう。
孤独を恐れる必要はない。
しかし人を避ければ、人間関係の刺激に弱くなります。
人との接点を減らせば、人間関係に対して虚弱体質になり、ちょっとした行き違いや摩擦で、心がどうしようもなく不安になり、それがますます自分の心にバリアを張って、人との距離を作ってしまう。
そんな悪循環を作っているのが、若者に多いとされる引きこもりや、定年退職した高齢者男性によく見られます。
(続きはご購読ください<残約5,700文字>)
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posted by datasea at 05:02| Comment(0) | $ 経済アナリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

知識の小部屋: 平原大鏡が記紀の八咫鏡である

知識の小部屋: 平原大鏡が記紀の八咫鏡である
二部第10回
前回、少々細かい点ですが、周尺は18cmであり、その長さが許慎のいた漢代には、咫と言われる長さであると考えられていたことを確認しました。
平原大鏡は、銅鏡の本場、中国大陸にも類例がない大きさであることなどから、倣製鏡(日本製)であると考えられていますが、果たして弥生時代の日本人に中国でもあまり使われた形跡の乏しい「咫」なる長さの単位を認識していたと考えて問題ないのでしょうか?
既に伊都国での漢字への理解の形跡は、何度か指摘してきましたが、私は、この問題についても、当時の伊都国人が、「咫」の意味を認識していたと考えて全く問題ないと思います。
それは平原大鏡自体が示しています。
即ち、平原大鏡は、その単に大きいだけで特別というわけではなく、その文様も他の内行花文鏡に全くない、八葉座であることと、そして、その内寸が漢尺の2尺に相当する46.5cmであるからです。
つまり、
「漢尺の2尺で銅鏡を作ると円周8咫の鏡になる」
ということを理解していることを主張する意味が込められたからこそ、平原大鏡は、類例が皆無の八葉座を持っているです。
八弧文、
八葉座、
八咫、
こうして意図的に八という数字に合わせこんで作られた特別な銅鏡、それが平原大鏡なのです。
またこうしてみると、それが記紀の
「八咫鏡」
であったとすると、八咫鏡が伊勢神宮とそして皇居の賢所はその形代(レプリカ)が有るとされていることも、いとも無造作に理由が想像されます。
即ち、平原ではすでに5枚の大鏡がありますが、恐らくは当時は8枚作られ、その鋳上がりが一番良いものが伊勢にあり、皇居の賢所にもお形代として残ったのではないでしょうか? 
これでは、合計7枚で一枚残るわけですが、私は最後の一枚が箸墓から出てくるのではと期待しています。
箸墓の主、モモソヒメは国譲りの調和の精神の体現者として、彼女個人の所有物として八咫鏡の内一枚を副葬される権利を十分に持っていると思います。
箸墓主体部の発掘・考古学的な調査は何時になるのかも知りませんが、何とか長生きして、この推論が当たったかどうか見てみたいです。
また記紀や伝承に残る「八咫鏡」という単語ですが、これが大きい鏡を意味することは、これを円周長を表したと捉えないと、途端に不自然になります。
何故ならば、咫という単位は、尺よりも更に小さい長さの単位であり、基本的に中国の文献では、「咫尺」と熟して、小さいものの例えに用いられるからです。
既に一部の13回で、述べたとおり、身体尺としての長さ15cmの拇人指咫では、ヤマトの2枚の大型内行花文鏡が八咫鏡にあたり、18cmの拇中指咫では、平原大鏡が当たります。
もし記紀が単に後世の創作に過ぎないなら、その編者は、大きい鏡を表現したい場合には、
「八尋の鏡」でも
「八丈の鏡」でも、
もっと相応しい言葉を選ぶことをしたはずではないでしょうか。(「尋」は、両手を広げた長さ、「丈」は背丈の長さを示す身体尺です)
弥生末期の巫女王であった平原王墓から、古墳時代の始まりを告げるモモソヒメの箸墓、そして元伊勢伝承の始まりのトヨスキイリヒメから、最後に伊勢にたどり着いたヤマトヒメへ、銅鏡を憑代として太陽を奉斎する巫女の系譜が、倣製の大型内行花文鏡に注目することで自ずから立ち現れてきます。
「伊都から大和を経て伊勢へ、日本古代史を一つの継続的事象として捉える」
平原大鏡が八咫鏡に他ならないという結論が我々に示す意義は、この点にこそあります。
このことは極めて重大ですので、慎重に考えなければなりませんが、もし、俄かには肯定しかねるとして、これら事実を単に「わからないこと」として、あっさりと我々の「歴史」の範疇から蹴り出してしまうことは、余りにも勿体ないことだと思います。
この事実を否定的に捉えたい方には、平原鏡はなぜその面径が丁度、漢2尺なのか、なぜ前例・類例のない八葉座なのか、そして、なぜ記紀では、小さいものの形容に使われる
「咫」
なる特殊な字を使って大きな鏡を表現しようとしたのか、その全てを整合的に説明する対案を期待したいと思います。
平原の銅鏡については、まだまだ語るべきことは多いですが、ここでは一旦先を急ぐことにして、次から平原にある3種の神器の残り2つ(剣と玉)を見てみたいとおもいます。

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