2019年04月25日

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神代文字

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神代文字



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ヲシテ文字





縄文文字文献
日本固有文字文献  
−概要−        
漢字以前の日本で、縄文時代から使用されていた文字、これを、
「ヲシテ(Woshi-te)」
といいます。
「ヲシテ」文字とは、考古学に言う縄文時代からの「日本固有文字」です。
「ホツマ文字」と言う言い方も、従前にはおこなわれていましたが、他にもっと尊い『カク ミハタ(『フトマニ』など)や、『ミカサフミ』もありますので、
「ホツマ文字」の名称は適切と追認することは出来ません。
「ヲシテ」または、「ヲシテ文字」と言う表現が妥当です。
ヲシテ(Woshi-te)は、文献として、五七調で、11500行余りが、発見されています。
文字だけの事ではありません。長大な文献が発見されています。ここに、縄文哲学が、はっきりと読み取れます。
縄文時代から、日本は、文明国であった。
縄文時代の前期での、国家建国が確認できます。
「古事記」「日本書紀」の 原書 の発見は、歴史評価に大きな変革を招来します。
ヲシテ文献は「日本」文明の源泉である、と申します根拠の、二つの事由に拠って前進をしています。
ひとつは、記紀の原書としての位置です。
もうひとつは、「やまと ことは(漢字の訓読み)」の縄文時代での成立の発見です。
ヲシテ(日本固有文字)の 基本の音韻 48文字
漢字以前の時代に遡及して勘案したホツマ文字と言いますか、ヲシテの文字の書体。

日本ヲシテ研究所
http://woshite.com/page1.html






ヲシテ(Woshi-te)とは
( 縄文文字・日本固有文字・及びその文献 )
「愛しみ教える」の「ヲシ」と、為しゆく手段の意味の「テ」です。
近世の言葉の「押し手」の意味とは、全く違う言葉の意味です。
濁音のヲシデではありません。清音のヲシテです。
縄文時代の前期から日本で使用されていた文字、これを、ヲシテといいます。
ヲシテで記された、ヲシテ文献は、「ミカサフミ」・「カクのフミ(フトマニなど)」・「ホツマツタヱ」 の三文献が、約半世紀前に発見されました。
解明の作業が大変でした。ようやく、辞典と国語の基礎解明もできました。
縄文時代からの優れた哲学を現代に再認識できる、これが、ヲシテ( 縄文文字 )です。
そして、ヲシテ文献には、縄文時代からの、膨大な物語が記されています。

日本ヲシテ研究所
http://woshite.com/page1.html










『よみがえる日本語』(総論編)     
『よみがえる日本語U』(助詞編)
日本の未来を見定め、 ヲシテ文献 の発展を進める。
「日本」の尊さを倍加させる。
それが、日本ヲシテ研究所です。  
江戸時代の中期、和仁估安聡の写本の文字体の理想形をフォントにおこした。
ホツマ文字と言いますか、ヲシテの文字の書体。池田 満の勘案の文字体。
池田 満(C)
ヲシテ時代の国語48音図の成立確認の根拠
目的
ヲシテ文献 「ヲシテ」とは、「ミカサフミ」「カクのフミ(フトマニなど)」「ホツマツタヱ」 の研究と啓蒙に勤(つと)め、我が国の歴史と国語を見直して「ヲシテ国学」の樹立を実現する。  
主活動
1、 ヲシテ文献 「ミカサフミ」・「カクのフミ(フトマニなど)」・「ホツマツタヱ」 の研究・啓蒙・教育をすすめ「ヲシテ国学」の樹立を為す。
2、 さらにすぐれたヲシテ文字形の復古創造をおこなう。
3、「ヲシテ国学」の樹立において、ヲシテの文字の遡及に勤め、現代への活用を図る。
現代・未来に 「縄文文字・ヲシテ」 を復活させましょう。
本来の縄文建国に立ち返れば、「日本」の尊さが倍加されるからです。
池田 満 ブログ 「縄文文字ヲシテを 復活!」
ヲシテ文献を、池田 満が案内します
 
日本ヲシテ研究所
http://woshite.com/page1.html







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徳島神山町稲飯神社⛩ガラス越しに日の出方面に日の丸が現れました🙏
ウカヤ王朝時代の文字を再現した神社です

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2019年04月24日

告白: May英首相の父Hubert牧師,人喰博士Adams

The Serial Killer, The Traveller’s Daughter, and the Cover Ups
Tuesday, April 23, 2019 13:51

The Tap Blog
http://tapnewswire.com/2019/04/the-serial-killer-the-travellers-daughter-and-the-cover-ups/

Before It's News
https://beforeitsnews.com/v3/eu/2019/2647177.html











(要約)
告白: May英首相の父Hubert牧師,人喰博士Adams
The Tap Blog
2019年4月23日火曜日13:51
■May英首相の父Hubert Brasier牧師
Theresa May(テレサ・メイ)の父親・Hubert Brasier牧師は1917年8月20日,英国ロンドンWandsworthのClonmore Street( 61 Clonmore Street, Wandsworth, London)で生まれた。
当時は自宅での出産が一般的であり,Hubertもまた多くの人と同じように自宅で生まれた。
Hubertの父親Tom Brasierは軍人だった。
Tomは王の護衛団の軍曹を務めていたが,Hubertが生まれた頃は店員だった。
Hubertの母親の旧姓はAmy Margaret Pattersonで,8年前にハンプシャーで結婚した。
AmyとTom の最初の息子であるJames David Brasier(ジェームズ・デビッド・ブラジエ)は,1911年に生まれたが,生後1年たたないうちに,Tomの赴任先のインドのウッタランチャールで死んだ。
その2年後の1919年,妹Jean Robina Brasier(ジャン・ロビーナ・ブラジエ)と一緒にHubertは生まれた。
1938年,21歳になったHubertはリーズ大学に通っていた。
1939年4月27日,第二次世界大戦が勃発,
Neville Chamberlain内閣は徴兵。
20歳から22歳までの独身男性は強制的に兵役に就いた。
一ヵ月後,「軍事訓練法」が英国国会議事堂で可決。
1939年9月3日に第二次世界大戦が始まり,「軍事訓練法」の対象が18歳から40歳の男性に拡大。
「軍隊国家奉仕法(Military Training Act)」となり兵役が義務化された。
1940年,当時23歳だったHubert Brasierは「軍事訓練法」の対象であり,ナチス国防軍と戦うために生きる事にきめた。
イギリス植民地時代の前哨地を守る事にきめた。
Hubertは,聖公会 - カトリック教会こそが生きる道であると感じ、Mirfield(ミルフィールド,Mirfield, West Yorkshire)にある復活神学校(the Resurrection Seminary School)のコミュニティで司祭たちに加わった。
〜この復活神学校ではその後1960年代〜1970年代に,教鞭をとっていたイタリアのVerona兄弟(the Italian Verona brothers,ヴェローナ兄弟)が子供の性的虐待をはじめとしたセックス犯罪を組織的に行なっていた事が明らかになる事になる。
しかし1940年代初頭の復活神学校は,難民の子供たちを最初に受け入れたところであった。
1941年12月,英シェフィールド〜北部工業地帯で大規模な爆撃があり,多くの子供たちが田舎に疎開した。
Mirfieldの住民はこの疎開を支援し避難者を受け入れた最初の地域であった。
復活神学校の設立は1800年代後半。
Mirfieldの住人は,復活神学校の独身青年が村を歩き回るのに慣れるのにしばらく時間がかかった。
あるMirfieldの住人は、彼らが「復活神学校のコートを着た男たち(The Petticoat Men of t' Resurrection)」と呼ばれていたことを思い出した。
1900年代初頭,Mirfieldでは「神の部下」復活神学校への不信がたかまり,ブラックブルでの抗議行動に至った。
イギリスの北部産業の中心地は徐々にドイツ空軍の標的になっていった。
そしてこれら地域の子供たちがMirfieldのような産業の中心地からはなれた村に避難した。
Hubertは見習牧師としての初期にMirfieldに滞在した。
1942年にはロンドンの新しい教会に任命され,1年の祭司の経験を経て叙階される。
Hubertが牧師として最初に赴任したのはSt Andrew教会(セントアンドリュー教会,St Andrew on Sandhurst Road in Catford, Southwark)。
Catfordにも爆撃は多数あった。
1943年1月20日にがSandhurst小学校に爆撃があり,38人の子供と6人の先生が死んだ。
この壊滅的な地域で神の人になることは,多くの苦しみと喪失を分かち合うことを意味していた。
多くの行方不明の子供たちの両親は,彼らがHither Green Cemetaryの集団墓地に埋葬されること,および彼らの名誉を尊重するために記念碑を埋葬することに同意した。
この時点ではTheresa May(テレサ・メイ)の父Hubertはまだ学士号の司祭であった。
戦時中,ロンドン全土は野蛮だったかもしれない。
Lewishamでは爆撃は毎日あり,どこの宗教施設でも葬儀ラッシュであった。
終戦の後も,Hubertは1948年までキャットフォードの聖公会 - カトリック共同体に仕えた。
その後HubertはサリーのReigateとSouthpark地域の非常に小さな教会・聖ルカ教会に移動になった。
聖アンドリュー教会とは対照的に,聖ルカ教会での仕事は少なかった。
明らかに、戦争経験のストレスと緊張が未だに独身のヒューバートに影響を及ぼしており,そのストレスからの休息が目的でなされた移動であった。
1952年,Hubertは35歳。教会の内部事情についての憶測があふれていた。
聖公会-カトリック教会の児童虐待の歴史は60年間以上におよんでいた。
司祭たちが独身であったが故に続いた悲劇であったとは容易に推測できる。
■人喰人種(serial killer,シリアルキラー)
翌年1953年,HubertはSussex(サセックス)のEastbourne病院(イーストボーン病院,Eastbourne Hospital)の所属の牧師になった。
そしてその後の6年間,Hubertはこの病院の有名な連続殺人犯博士John Bodkin Adams博士(Dr John Bodkin Adams,ジョンボドキンアダムス)と一緒に働く事になった。
John Bodkin Adams博士を知らない人のために説明しよう。
Adams博士は通常,自分よりも年配の患者を説得し,うち130人以上がそれに応えた。
そしてすぐにAdamsに注射され,直後に「自然の原因」で死に,そして捕食した。
レビューによるとAdams博士が診た165人以上の死者は疑わしいと見られていた。
その疑いはEastbourne病院のスタッフの間では知れ渡っていた。
ほとんどの看護師は博士に懸念を表明していたものの,それらは意図的に無視されたとかんがえていた。
新たに設立されたNHSは政治的脅威にさらされているとさられていたので,一般開業医が死刑を宣告されるレベルのスキャンダルは絶対に避けなければならなかったのだろう。
問題はAdams博士が自分自身を止めることができなかったことであった。
彼は政治家Gwynne卿と同性愛関係にあったとされ,そのGwynne卿によって保護されていた。
HubertはAdamsによって殺された人々の多くに最後の権利を与えたであろう、
HubertはAdams自身から告白を受けさえしたかもしれない。。
Theresa Mayによれば,彼女の母親Zaidee Mary Barnesが初めてHubert Brasierと出会ったのはこのEastbourne病院であった。
ZaideeはMSと診断され,Eastbourne病院に通院していた。
1950年代の社会では,病院の牧師が患者と結婚することがにふさわしいと考えられたかどうかはわからない。
それは1955年に起こった。
ZaideeとHubertは,Zaideeの父Reginald Jamesの導きで結婚した。
Zaideeの父Reginald Jamesの職業の記録は「トラベラー」であった。
1956年10月1日,Theresa BrasierはEastbourne病院で生まれた。
翌年,Adams博士は明らかな隠蔽によって,殺人事件の罪を逃れたが,
処方を偽造した8件,
火葬形式について虚偽の申告をした4件,
麻薬法(the Dangerous Drugs Act 1951)違反をした3件,
の罪で有罪判決を受けた。
彼はNHSに訴追されて病院を追われた。
しかし1961年にほとぼりが冷めるとまた病院にもどった。
Eastbourne病院の牧師であったHubertは,英国教会Chichester主教区(チチェスター主教区,the Chichester Diocese of the Church of England)下にあった。
1960年代から1990年代にかけて,この教区には司祭たちによる子供の性的虐待の最悪の例がいくつかある。
事件の数とその及ぶ範囲は驚くほどに大きい。
Eastbourne地域の牧師会の長であったCanon Gordon Rideout(キャノンゴードンライドー)は1962年から1973年の間に16人の子供に対する36の別々の罪で10年間投獄された。
Lewesの元司教Peter Ball(ピーターボール)は1980年代〜1990年代に虐待の有罪判決を受けた。
Burgess Hillの元司祭Keith Wilke Denfordと幹部Michael Myttonは長きにわたり続けられた性的虐待で有罪判決を受けた。
かつてのブBrightonの司祭であったVickery House(ヴィッカリーハウス)も元幹部のRoy Cottonと共に有罪判決を受けた。
そしてHubert Brasier神父もまた,Chichester主教から素晴らしい役職を提供されようとしていた。
1959年,Theresa Mayの父親であるHubert Brasierは、Oxford教区Enstone(エンストン)の第一代官(the 1st Vicar of Enstone with Heythrop)になった。
かなりの抜擢であった。
自宅のあるChipping Nortonからわずか4マイルという地理的な事もあったのかもしれないが,いずれにせよHubertはカトリック聖公会の多くの男性の羨望の的になった。
Hubertは40代半ばであった。
家族のために定住する時期だったのかもしれない。
Hubertは代官になってからは,Enstone(エンストン)で静かな生活を送っていた。
仕事は洗礼,葬儀,結婚式の記録といったものであった。
1970年にZaideeの状態が悪化した事もあり,HubertはオックスフォードシャーのWheatleyの代官になった。
1981年10月12日,Hubertは近所の教会で礼拝に向かう途中で自動車事故で死亡した。Desmond Hamptonという公認測量士の運転するRange Roverと衝突して死亡した。
Hubertは頭部と脊髄の損傷で即死,Zaideeは数ヵ月後に死んだ。
検死官は偶然の死の評決を記録した。
■児童性的虐待調査委員会
Hubert Brasierの人生について,特に調査すべきものがあるようには見えない。
しかしTheresa Mayが英国首相選挙に出馬した当時,彼女のキャンペーンチームはHubert Brasierにリンクされているウェブアドレスの削除を要求し始めた。
あなたがウィキペディアに行き「Hubert Brasier」とタイプしても検索結果には出てこない。
でもフランス語版,スペイン語版ウィキペディアで「Hubert Brasier」のページがあった。
つまりHubertはかつてWikiのエントリーを持っていたということ。
どんな研究者でも今日その研究結果を記録した 'Wayback Machine'を持っている。
しかし,アーカイブに移動して削除されたページを見つけるためには,元のWebアドレスがなければできない。
私はウィキペディアのページアドレスをコピーして貼り付け,最後に「Hubert_Brasier」を追加して検索した。
2016年7月17日にアーカイブされたスナップショットでは,HubertのWikiページが以前の栄光そのままに表示される。
Hubertの人生を調査した後,私は削除された多くのページ,非リンクページ,いくつかの陰謀説に出会った。
HubertのWikiエントリの調査では現状を損なうものは何もない。
ではなぜそれを削除したのか?
問題を含むと思われる唯一の重要な情報は,イングランドの教会の中のHubertの配置,
そしてHubertがMay英首相の父親であるということだ。
それではなぜ削除したのか?
2014年7月8日,Theresa Mayは内務長官として著名な政治家による児童の性的虐待および聖職者の調査のために調査委員会を設立,監督にButler-Sloss男爵(Baroness Butler-Sloss,バローネスバトラースロス)を任命した。
Butler-Slossの議長就任が発表されてから6日がたつ前に,May内務長官は明らかな利益相反に立ち向かうことを強いられた。
May内務長官は,調査中に,兄を司法長官である人間を選択した。
同じ年の後半,当時のロンドン市長Fiona Woolfが調査の議長を務めた。
しかしFiona Woolfロンドン市長は,性的虐待の疑いで非難されていたLeon Brittan(レオン・ブリッタン)の近くに住んでいたことが明らかになった。
May内務長官はWoolfロンドン市長を議長の席からおろした。
犠牲者が答えを必要としていたにもかかわらず,May内務長官はあたかも調査を妨害するかのような対応をした。
2015年2月4日,May内務長官はニュージーランドの高等裁判所裁判官Dame Lowell Goddardが調査委員会の議長を務めると発表した。
しかしTheresa Mayが2016年8月に首相になってから1ヵ月後,新内務長官Amber Rudd(アンバー・ラッド)はDame Lowell Goddard調査委員会議長の辞任を発表した。
Goddard調査委員会議長 の辞任後まもなく,既存のパネルメンバーの一人であるAlexis Jay教授が議長になったことが発表された。
しかし今,調査はその信頼性について深刻な問題に直面している。
Theresa Mayは内務長官としての入国管理目標のいずれにもあてはまるようには見えなかった、
そして彼女の任期中には目立った調査成果を挙げることができなかった。
子供の性的虐待の調査はTheresa Mayが直面したくないものであったからではないか。
あくまでも私の考えではあるが,この調査は悪名高いエルムゲストハウスだけでなく、May首相の父Hubert Brasierが働いていた英国教会Chichester主教区にも及んだ。
Hubert Brasierが頻繁に訪れたトーリーMPにも及んだ。
May首相は何かを恐れているのではないか?
親族の真実?
「Brasier」という名前から彼女につながる人々に恐怖があるのだろうか?
私は自分が見つけたジグソーパズルの部分から真相を見ようとした。
本当の完成図見るには,まだ別のジグソーのセットが必要なのかもしれない。
JOHNNY VEDMORE
2年前

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テリーザ・メイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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イギリスの旗 イギリスの政治家
テリーザ・メイ/Theresa May
テリーザ・メイ
生年月日 1956年10月1日(62歳)
出生地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド、イーストボーン
出身校 オックスフォード大学
所属政党 保守党
配偶者 フィリップ・メイ
イギリスの旗 第76代 英国首相
内閣 第1次メイ内閣・第2次メイ内閣
在任期間 2016年7月13日 -
任命者 女王エリザベス2世
イギリスの旗 第27代 保守党党首
在任期間 2016年7月11日 - 現職
イギリスの旗 内務大臣
内閣 第1次・第2次キャメロン内閣
在任期間 2010年5月12日 - 2016年7月13日
イギリスの旗 女性・平等担当大臣
内閣 第1次キャメロン内閣
在任期間 2010年5月12日 - 2012年9月3日
影の労働年金担当大臣
在任期間 2009年1月19日 - 2010年5月12日
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テリーザ・メアリー・メイ(Theresa Mary May、1956年10月1日 - )は、イギリスの政治家。イギリス首相(第76代)、保守党党首(第27代)。名は「ティリーザ」と発音・表記されることもある。旧姓はブレイジャー(Brasier)。
庶民院議員、枢密顧問官、内務大臣などを歴任した。マーガレット・サッチャーに続く、イギリスで2人目の女性の保守党党首かつ首相。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
イーストボーンに生まれる[1]。公共活動派だったイングランド国教会司祭の父に影響され、12歳の時に政治家を志した[2]。 グラマースクールと呼ばれる公立進学校を経て、オックスフォード大学のセント・ヒューズ・カレッジ(英語版)で地理学を学ぶ[3]。
庶民院議員[編集]
イングランド銀行でキャリアを始動させた後に、Association for Payment Clearing Services (APACS(英語版)) で勤務する。
1997年から庶民院(下院)議員となり、2002年に保守党の幹事長に就任する[1]。2003年には枢密顧問官となった。
内務大臣[編集]
2010年の総選挙で保守党が勝利して政権に復帰すると、内務大臣に就任した[3]。
保守党は政権復帰の際に移民を10万人未満に抑えるとしていた。2010年当時、英国に流入する正味の移民は約25万人であった。メイが内務大臣であった時期に正味の移民の数は増減したが、2015年には約33万人にまで上昇し、そのうちの42パーセントがEUからの移民だった[4]。
EU離脱の是非を問う国民投票[編集]
メイは基本的には欧州懐疑派の政治家とみなされてきたが[5] 2016年6月23日に実施された英国のEU離脱の是非を問う国民投票ではEU残留に投票することを表明した。しかし残留のキャンペーン展開には消極的であった[6]。
2016年保守党党首選挙[編集]
「2016年イギリス保守党党首選挙」も参照
EU離脱の是非を問う国民投票で離脱派が勝利したことを受け、デーヴィッド・キャメロンが首相辞任を表明し、後継者選びのための保守党党首選挙が行われることになった。メイは立候補の意向を示し、保守党党首に選出された場合には「保守党と英国のまとまりを強化する」と意気込みを語った[7]。自らは残留に投票したEU離脱問題については、国民投票の結果を受けてEU離脱を遂行させると言明した。EU離脱交渉では、人の移動の自由の制限とサービス・財の貿易の両方を可能な限り要求していく考えを示している。欧州連合条約(Treaty on European Union)第50条については、英国の交渉方針が合意に至るまでは行使せず、2016年度内の行使はないとみられている[7]。
また、メイは人権と基本的自由の保護のための条約(ECHR)を破棄することを提案していたが、首相になった場合はこの提案を撤回すると述べた。EU離脱後の英国を上手く機能させるとも主張した[8]。そして英国を団結させ、英国の未来のための強い新たな肯定的なビジョンをもつことが必要だとし、そのビジョンは「一握りの特権階級のためのものではなく英国国民全員のためのビジョンである」と論じた。マクロ経済の財政政策に関しては緊縮寄りであり、歳出削減と財政赤字削減を進めていく方針である。ただし、財務大臣ジョージ・オズボーンが言及していた緊縮財政政策のための懲罰的予算は編成しないと述べている[7]。さらに、2020年以前に解散総選挙を行うことはないとも言明した[8]。ただし、結局は翌2017年5月に議会解散を行っている。
保守党党首選挙は当初5人が立候補したものの、候補者が次々と辞退したことにより、2016年7月12日にメイが唯一の党首選挙候補者となった。このため、メイの保守党党首就任が確定した[9]。
イギリス首相[編集]
2016年9月4日、ウラジーミル・プーチン露大統領と中国・杭州G20サミットにて
2016年9月20日、国連総会で演説するメイ英首相
2016年11月7日、ナレンドラ・モディ印首相と同国首都ニューデリーで開催された「India-UK Tech Summit」にて
2017年1月27日、就任直後のドナルド・トランプ米大統領とホワイトハウスにて
2016年7月13日、キャメロンの首相辞任を受けてバッキンガム宮殿に参内し、エリザベス2世女王から首相就任の承認を受け、第76代イギリス首相に就任した[10]。マーガレット・サッチャーに続く女性で2人目の首相、かつ、21世紀で初めての女性のイギリス首相となる。首相就任後に首相官邸前で所信表明を行う[10][11]。
新政権成立にあたって、主にEU離脱問題を担当する閣僚ポストとして欧州連合離脱大臣が新設され、デイヴィッド・マイケル・デイヴィスをそのポストに起用し、キャメロン政権で外務大臣を務めたフィリップ・ハモンドを財務大臣に充て、ハモンドの後任外務大臣にボリス・ジョンソン前ロンドン市長を起用するなどの主要閣僚を発表して、正式にメイ内閣(第1次)を発足させた[12]。
2017年4月18日に下院を早期解散し、総選挙を行うことを提案した。下院の任期は満了させるとしていた過去の発言を覆した理由について、EU離脱にあたり強い体制が必要なためとした[13]が、最大野党の労働党の支持率低迷を受けたものとする見方もあった[14]。提案を受けて下院で早期解散についての採決が行われ承認された[15]。
当初各種世論調査では、保守党が支持率で他の党に対して大幅に先行していたものの徐々に労働党に詰め寄られ[16]、6月8日に実施された総選挙では、保守党は第一党の地位は維持したものの、議席を選挙前から13減らしたため単独過半数を維持できず、ハング・パーラメント状態となった。しかし民主統一党の閣外協力を取りつけ[17]第2次メイ内閣を発足させた。
2017年8月30日から9月1日にかけて来日し、安倍晋三内閣総理大臣と日英首脳会談を行い、皇居に参内し今上天皇へ謁見した。
2019年1月15日、ブレグジット(EU離脱)に関してEUとまとめた協定案について下院で採決が行われ、賛成202、反対432の大差で否決された[18]。EU離脱により、英領北アイルランドとアイルランドの通関が復活すると、北アイルランドの民族主義者(アイルランド帰属派)との紛争が激化することを恐れた。そこでEU部分残留を可能にすることで、通関を不要にしたものだが、保守党内の強硬な離脱派などが反発し造反者が出たことが、大差による否決の原因だった[19]。
一方、労働党が提出した内閣不信任案も、1月16日に賛成306、反対325の19票差で否決され、メイ政権は続投することになった[20]。

ウィキペディア(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4






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