2019年03月23日

[奇譚] ビクター・フランケンシュタインの日記

[奇譚] ビクター・フランケンシュタインの日記
■小説「フランケンシュタイン」
イギリスの女流作家メアリー・シェリーが1818年に出版した怪奇小説の傑作「フランケンシュタイン」をご存じだろうか?
有名な詩人シェリーの妻である彼女がわずか19歳のときに書いた小説である。
この小説が2世紀を経ようとする現在も映画に戯曲に用いられているのは,何よりもそれが生命を作り出すという,神への恐ろしい冒涜行為を犯した者の悲劇という今日に通じる問題をテーマとしているからであろう。
作者のメアリー・シェリーは名高い無政府主義者ウィリアム・ゴトウィンと「婦人の権利の擁護」を書いて女性の自立を主張したメアリ・ウォルトンクラフトとの間に生まれた。
聡明な美しい少女に成長したメアリーは16歳のときに当時21歳の名高い叙情詩人パーシー・ピッシェと出会った。
メアリー・シェリーにはハリエットと言う美貌の妻がいたが, 2人の間にはすでに愛情がなくなっていた。
無政府主義を愛し,非現実世界に浮遊するシェリーに,ハリエットがついていけなくなったのである。
2人はメアリーの母の眠るオールド・セント・パンクラス教会の墓地でデートを重ね, 2人の恋は情熱的に盛り上がった。しかしメアリーの父ゴトウインは2人の恋に激怒した。書物の中の理論と現実は違うと言うのである。
その矛盾に失望した若い2人は出会って2ヶ月もたたないうちに駆け落ちすることを決意した。
2人の恋の逃避行の地に選んだのはスイスであった。
逃避行の後に, 2人はロンドンに帰国した。しかし経済観念のないシェリーは借金を重ねて,債権者に追われてホテルを転々とした。その生活の中で月足らずの子供を産む。
しかし2週間もたたないうちに子供はこの世を去ってしまうのである。
メアリが受けたショックは大きく,数日後に亡くした赤ん坊が生き返った夢を見る。
腕に抱くと氷のように冷たいので暖炉のそばで必死に赤ん坊の肌を暖めた。
すると赤ん坊は目を開けて彼女に微笑みかけたのである。
うれしいと声を上げて周りを見回すと籠が空っぽだった。
翌年の1816年の1月には長男ウィリアムが生まれて,メアリとシェリーは幼児を連れて5月に再びスイスを訪れ,シェリーの親友である詩人バイロンとそこで落ち合う。
シェリー夫妻はレマン湖畔のイギリス・ホテルでバイロンに会い,対岸の村に小さなコテージを借りた。
バイロンはそのコテージを見下ろす丘の上のヴィラディオダディ荘を借りて一夏をシェリー夫妻と共に過ごしたのである。
メアリーはヴィラディオダディ荘で繰り広げられる詩人の議論に熱心に耳を傾けた。
バイロンの侍医ポリドリを交えた議論は,詩論から科学,医学に及び,彼女を夢中にさせた。
18世紀以来自然科学は目覚ましい発展をとげ,生命の誕生は当時の人々にとっての最大の関心事であった。
チャールズ・ダーウィンの祖父エラズマスがスパゲティの切れ端を試験管に入れて何か処置をしたら動き出したとか,イタリアの解剖学者ガルヴァーニが蛙の脚に電流が出たらカエルの足が一瞬痙攣を起こしたとか,
その実験を重ねればたとえ生命の誕生までは無理でも,もしかしたら死者を蘇らせる知らせることができるのではないか。そんな話題はメアリーにも人気が強い印象を残した。
さらに夜には,怖い怪談話に花がさいた。
ある晩突然バイロンがこんなことを提案した。
皆それぞれ今まで誰もかつて書かなかったような身の毛もよだつ恐ろしい話を書いて競おうではないか。
メアリーにもその宿題は課せられ,怪談作りを始めたのである。
そんなある夜,メアリは夢を見た。
1人の科学者がどこからか運んできた死体の腕や足のようなものをベッドの上でつなぎ合わせ始めた。
そしてその塊に電気を施すと,その塊が動き出して,むくりと起き上がるのである。
見れば人間の形をした醜悪な化け物である。
こうした自分が作り出した金の恐ろしさにぞっとして慌てて逃げ出す。
目覚めたときに,メアリは恐怖でガタガタ震えていた。
毎晩のようにきかされた怪談に加えて,かつて自分の赤ん坊を死なせた直後に見た,赤ん坊が蘇る夢が入りまじったのかもしれない。
しかしこの夢がバイロンから課されていた宿題のかっこうのテーマだと気がついた。
そして早速執筆に取りかかる。
スイス滞在中に書き始められた小説は帰国後のイギリスで翌年の5月に完成することになる。
ところがその一年足らずの間に不思議なことにメアリの周囲には30歳の事件が代わる代わる隙に頻繁に訪れることになる。
まず帰国直後の10月にはメアリーの姉ファニーが22歳の若さで自殺してしまう。
そしてそれから1ヶ月ほど後に今度シェリーの本妻ハリエットが,ハイドパークの池で溺死体で発見されたのである。
愛しい姉ファニー長年のライバルであるハリエット。
これらの女性たちの美しい顔や体が無残な土塊と化していく様を思い描いて,メアリーは自分が書いている小説との偶然との重なりに内心ゾッとしたのではないだろうか。
3月になってシェリーとメアリーはマーローと言う美しい田舎町に一軒の家を持った。
スイスの湖畔で執筆を始めてから10ヶ月足らず。
矢継ぎ早にメアリーが見た生と死は彼女に何を感じさせたのだろうか?
1818年3月,小説「フランケンシュタイン」は出版され, 20歳にもならない娘が書いた小説にしては驚くべき意味の深い内容であると評論家は伝えている。。。
しかし奇妙なことにメアリの日記にはこの出版に関しては一言も書かれていないのである。
当時借金を重ねたメアリー・シェリーは心労で健康を害しており,療養を兼ねてイタリアの旅に出ることを決意した。
マーローの家を売りに出して,メアリーも夫や幼い子供たちとともに3度目のドーバー海峡を渡った。
旅から旅を重ねて,リヨンからアルプスを越えてコモ,ミラノ,ピサを経てベネチアに入ったのは, 8月の暑い盛りであった幼い子供たちにとってはさぞ大変な旅であっただろう。
やっと1年目の誕生を迎えた長女クララは,ベネチアで高熱を出して, 2週間の間昏睡状態になってなり,ついに世を去ってしまう。
ショックと悲しみの中で幼い娘の亡骸をメアリーはいつまでも離そうとはしなかったという。
メアリは娘の小さな亡骸を舟に乗せてリド島に運んだ。
11月の初め,メアリーの一行はベネチアからナポリに向かう。
そして翌年の6月に移り住んだロンドンで,今度かわいい盛りの長男ウイリアムを失うのである。
恐ろしい赤痢が突然襲って,あまりにもあっけない最期であった。
メアリには相継ぐ不幸に耐える力はなかった。
彼女の日記にはそれから2カ月間ぽっかりと空白がついている。
長男の亡骸を彼が最も愛した場所であるローマのプロテスタント教会に葬った。
その後一家はピサに落ち着いて,しばらくは平穏が続いた。シェリーは気の会う友人エドワードやトロニーを得て皆ヨットに夢中になっていた。
彼らはピザ近くの港町リボルノでヨットを作らせて「エアリアル号」と名付けて,海に乗り出す日を夢見ていた。
1822年6月末シェリーは愛用のヨットでエドワードと一緒にリボルノに向かった。
ヨットを漕ぎ出すのに便利だというので海辺に借りたカサ・マグニという家に滞在して4月8日に帰ってくると言う手紙を受け取った。
しかしリボルノからヨットで7時間ほどの航海で遭難。二人はビアレツジヨの浜辺で溺死体で発見される。
シェリーの遺体はバイロンやトレニーなど親しい友人に見守られながら浜辺で火葬にされた。そして翌年1月長男と同じプロテスタント墓地に葬られたのである。
墓碑には
「シェリー,最愛の人,ローマの青い空の下で安らかに眠れ」
と記されていた。
愛するシェリーを失った悲しみあまりに大きかった。
抜け殻のようになって友人たちに支えられながら,メアリーは故郷に帰った。
1823年8月, メアリーは25歳になったかならないかの若い寡婦であった。
■ビクター・フランケンシュタインの日記
メアリー自身はあくまで,「フランケンシュタイン」は自分の完全な創作であるという態度をとっている。
しかし実際はこの小説には他ならないモデルがあったことが,最近判明したのである。
今から十数年前,イギリスのヨークに住むヴェルナブレスという人物のもとにスイスに住む知人から,18世紀のものであるという古ぼけた手書きの原稿が送り届られてきた。
興味を持った彼が辞書を引きながら翻訳して,バラバラになったページを1枚1枚つなぎ合わせていくと,恐ろしい内容が垣間見えてきた。
なんとそれはこれまで創作上の人物といわれてきた,ビクター・フランケンシュタインの日記であったのだ。
フランケンシュタインは,18世紀(1700年代)のインゴルシュタット大学で解剖学を学ぶ学生で,目覚ましい才能を発揮し
,将来を期待されていた。
しかし彼はいつの日からか,科学の力で死者を生き返らせたいと言う考えに取り付かれ,死体置場から死体を盗み出してきて,日夜実験に励む様になったというのである。
俄然興味を抱いたベルナブレスはスイスやドイツの各地の古文書の図書館に赴いて,山ほどの資料を漁る。
確かにフランケンシュタイン家は実在のドイツの北ババリアの領主であったが, 15世紀に新教徒迫害から逃れるためにスイスに亡命して,そこで法律業を営なんでいたという事実をついに調べあげたのである。
日記の最初の方にはこう書かれていた。
「最近秘密のルートで手に入れた胎児の死体を最初の実験に用いた。2カ月余りの間,子宮内で育った後死んだ胎児だ。実験の途中で疲れてうたた寝してしまったが,目が覚めると,ぞっとするようなものが見えた。
胎児は数倍の大きさに膨れ上がっていた」。
当時最新の解剖学を極めていた天才医学生フランケンは,人体のメカニズムさえ解き明かせば,人間の手で新しい生命を作り出すことも夢ではない,という考えに至っていたのである。
そこで死体の臓器を繋いで新しい生命を作り出そうと考えて,毎日のように墓場や死体置場に入り浸り様々な臓器を盗み取った。
そして日夜首っ引きで新しい生命を作り出そうと,必死に取り組んだ。
ところでこの事件の難関は,死体から脳を取り出してそれを甦らせることであった。
他の部分がいくら生き返っても肝心の脳がなくては何もならないからだ。
電気の端子をつけてみたが,中々甦らなかった。
焦った博士はここで犯罪に足を踏み入れてしまう。
「1774年4月20日,神経繊維の取り替え作業の時に,予想以上に広範囲に変質しているのがわかった。
特に上顎筋の部分はそっくり全部交換しなければならないことになった。
この作業を終えた後に頭部に最後の作業の準備を施した。
あとは,一刻も早く生きた脳を手に入れるだけだ」。
4月21日,博士と助手のイゴールは,森に行き,木こりの子をさらう。
そして,いよいよ人造人間の頭に移植した。
「明日は体にもっと強い電流を流してみよう。
身体組織は電気を強めて,体内に眠っている力を目覚めさせるであろう」。
いよいよ実験は完了した。
頭を打ち気絶させ,実験室に運ぶ。。。
しかし全てを終えた今科学者として当然であるはずの喜びは,人間としての悲しみに押しつぶされてしまっているようだ。
私がやってしまったことを振り返ると身に戦慄が走るほどに恐ろしい」。
残念ながらフランケンシュタインの日記はここで終わっており,はたして彼の事件が本当に成功したかどうか,またフランケンシュタインとその人造人間が,その後どんな運命をたどったかは謎に包まれたままである。
ーイギリスの不思議な幽霊屋敷,桐生操, PHP文庫

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